(東京都全体については「東京都の概要」参照)
豊島区の空爆被害
〇 空爆日:17年4/18、19年12/12、20年3/4・10、4/1・7・13−14、5/24・25(全9回)
〇 被害状況:死者778人、負傷者2537人、被災者17万1764人、焼失等家屋5万5888戸
(出征した戦死者については、敗戦直後政府は全国の各役所に徴兵記録などの台帳の焼却命令を出し、残っていない)
空爆被害の詳細
昭和17年4/18:米軍による日本本土への初空爆で、ドーリットル空襲と言われる。豊島区は大塚に焼夷弾35個投下されたが被害は小(渋谷、荒川区等参照)。これは太平洋上の空母の艦載機によるもので、この後一年半の空白があって、19年11/24より東京への本格的空爆が開始される。
19年12/12:大型長距離爆撃機B29が二機のみ来襲、豊島区が中心で焼夷弾のみ約450個を投下、西巣鴨、雑司ヶ谷、日ノ出町などで全半焼約100戸、死者6人以上。この頃はまだ行政に余裕があって、被災者に食料や必需品が配られたと記録にある。
20年2/19:池袋2丁目に多少の被害
2/25:B29が10機、艦上戦闘機56機来襲、他の地区は焼夷弾が主だったが、豊島区は駒込と巣鴨に1トン爆弾が落とされ、十数名の死者があった。中でも駒込には防空壕入り口に爆弾が落とされ、50数人が生き埋めとなり、巣鴨署と警防団が急行して救い出したが、入り口付近にいた数名が死亡した。
3/4午前:B29が177機来襲、駒込、巣鴨、西巣鴨などに爆弾約40個、焼夷弾約2千個が投下される。死者60以上、重軽傷者数10人、家屋の全半焼等200戸以上、被災者約900人。この中で巣鴨5丁目の防空壕に直撃弾があり、9、5、2歳の3姉妹の命が奪われた。
3/10未明:B29 301機による東京大空襲の日。豊島では駒込、巣鴨、西巣鴨、池袋、日出町、雑司ヶ谷で死者14、負傷者91人、焼失家屋1379戸、被災者5488人。江東、墨田、台東区等参照。
4/1:B29一機が偵察を兼ねてか来襲、250kg爆弾(威力は直径約10m以上の穴が空き、深さは5mほど)を9個投下、豊島に死者はなかったが高田南町で負傷者4人、家屋全半壊約10戸。
4/7:長崎に爆弾あるが被害小。
4/12:日出町に爆弾、負傷者2人。
4/13−14:B29の編隊330機による爆撃により、区のほぼ全域で死者778人、負傷者2523人、焼失家屋3万4000戸、被災者16万1661人、城北大空襲と呼ぶ。またこの日はB29一機が現池袋本町に墜落、11人全員墜落死し重林寺墓地に埋葬された。見物に来た住民は、B29の大きさに驚いたという。なお重林寺は焼け残り、焼失した池袋警察署が一時移設された。
証言から:「再び警戒警報が鳴る。急いで荷物を持って電気を消し外に出る。すでにB29が上空から焼夷弾を落していた。各所から火の手があがり、法明寺にも分散した焼夷弾がひと塊りで落ち、空一面が真黒で何も見えなくなり、根津山に行く。根津山には百人位入れる防空壕が道路を挟み4ヶ所あってその一つに入った。一面火の海と化した根津山が(火熱の上昇気流で)真空状態になり、あらゆる物が吹き上げられ、道路にあった4トントラックが持ち上がり、下に避難していた人の上に落ち4、5人が亡くなった。木の枝には布団・衣類が引っ掛り、ペラペラと火煙を出していた。朝になり自宅の焼跡に戻る途中、身を丸くして焼死した人たちに会う。見渡す限りの焼け野原に茫然と立ち竦んだ」
「あれだけ多数の焼夷弾が落とされたのにことごとく根津山をそれて直撃による死傷者は出なかった」から根津山(池袋駅東口近くで、現在はビル群が林立)に避難した多くの人が助かった。これは横穴式防空壕がいくつも造成されていたことにもよる。しかし区内の焼死体の多くは根津山の西に位置する雑司ケ谷公園(現南池袋公園)にいくつもの穴を掘って(巣鴨刑務所の囚人により)仮埋葬された。「トラックにマグロのように積み上げられた焼死者が到着すると、手袋をはめた若い巡査が二人ずつ組んで、死者の両足と肩を持って順に穴の底に落としていく後から囚人たちが土をかけていった」。あるいは「大塚方面から、モッコにくるんだ焼死体をトラックに積んできては、まるで石炭袋でも投げるようにドサンドサンと足で蹴落としていた。いずれも子供は親がかばうように胸に抱き締め、黒焦げの腕が突っ張って虚空をつかんでいた」という様子も見られた。(以上は主に『東京大空襲戦災誌』第2巻から)。公園の遺体は25年頃に掘り起こされ火葬された。公園には空襲犠牲者哀悼の碑があり「小さな追悼会」として毎年4/13に開催されている。区役所も全焼したが直ちに立教中学校に仮設され、職員たちは被災の調査、救援物資の配給、罹災証明書発行、遺体の収容に奔走した。
5/24未明:城南大空襲の日。B29が525機、投下弾全てが焼夷弾で約3650t。長崎1−2が空爆され死傷者2、被災者140
5/25夜間:山の手大空襲の日。B29が470機、投下焼夷弾3260t、池袋、日出町、雑司ヶ谷町、目白町、椎名町に被害があり、4/13日の爆撃で焼け残ったと思われた家々が焼失した。法明寺とその末寺も焼失したが、鬼子母神堂は焼け残った。死傷者31、被災者3800人、焼失家屋880戸。B29一機が対空砲火により高田3丁目に墜落、乗員9名死亡、日出町の墓地に仮埋葬、戦後米軍が回収、落下傘降下の2名が捕虜となり、その後1名焼死。
焼失した小学校など
池袋第二、第三、第四(後に廃校し日出小学校に統合)、第五(現・池袋小学校)、第六、第七(後に廃校)、西巣鴨第一、第四、第七、仰高東(後に仰高と駒込小に分割)仰高北、仰高西(仰高北に併合され巣鴨小となる)、高田第一(現南池袋)、第二(南池袋小に統合)、第三(現高南)、第四、椎名町、大塚台、時習(大塚台と統合し現・朋有)が全焼、長崎と目白小学校が半焼。
中学校などでは豊島第二高等、巣鴨中学校、豊島岡女子学園、女子栄養学園(現大学)そして巣鴨の都立聾学校、豊島師範学校(戦後に東京学芸大学へ)も附属小学校とともに、そして学習院もほぼ全焼した。
戦時下の出来事
以下は『豊島区史(通史編二)』その他より抜書きしている。
戦争と国内情勢
昭和6年(1931)、日本は領土拡張を求めて中国で満州事変を起こし、翌7年、満洲国建国宣言をするが、世界が認めることはなかった。そのため8年、日本は国際連盟を脱退、これを国内の世論は拍手喝采をもって迎えた。
12年(1937)、7月の盧溝橋事件を境にして始められた日中戦争から日本は本格的な戦時(軍国主義)体制となり、6月に発足した近衛文麿内閣により戦争遂行の教化運動「国民精神総動員運動」が提起され、「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」の三つのスローガンが掲げられた。豊島区でも実行委員会が設置され、国民精神作興週間が実施され、その後も続けられた。この運動の中には健康増進も含まれていて、その週間も実施されたが、それもこれも戦争遂行に関わるからであった。12月に日本軍は中国の首都南京を陥落させ、国民は沸きに沸き、各地で提灯行列などを行った。
13年には「国民精神総動員区民大運動会」も行われた。このほか区では出征兵士への武運長久祈願のために明治神宮などで祈願祭を行い、時には伊勢神宮まで赴いている。さらに区で戦死者が出ると区長らがその過程を弔問し、傷病兵の慰問にも行き、13年には区で慰霊祭も行っている。また区役所前には「皇軍必勝を祈る」「武運長久を祈る」という歓送アーチが掲げられた。このように戦争は国民自身も待ち望んだような様相を呈していた。しかし日中戦争勃発以降、欧米諸国からの経済的圧力が次第に強くなり、物資不足が始まり、同年、「国家総動員法」が施行された。国のすべての人的・物的資源を戦争に向けて政府が運用できることとし、国民生活の全てを国が管理・統制することになる。この年から国民貯蓄運動、消費節約の生活刷新運動、廃品回収運動が開始された。またこの年から14年にかけて、灯火管制規則・勤労動員法・国民徴用令等が政府により次々を発せられた。14年後半には食料等の高騰を抑えるための価格統制令が公布され、続いて「経済戦強調運動」によって、米・砂糖・卵・木炭・ガス・電気の節約運動が行われた。有名なスローガンとして「ぜいたくは敵だ」が生まれた。17−19歳男子には身体検査が義務づけられ、徴兵に備えさせた。
15年(1940)、一国一党組織の構想から「大政翼賛会」が発足、総裁は内閣総理大臣で、これは一面ドイツのナチス政権のような独裁政党の形を取ったが、一枚岩の政治結社ではなく、綱領もなかった。この流れの中で各町内会の中で隣組が結成された。これは食料などの配給制とか廃品回収とか防空演習などをその少単位の組織の中で動かすものであったが、結果的に思想統制や住民同士の監視の役目を担うこととなった。米欧からの経済制裁は強まり、国内ではこの年から生活必需品が切符制配給になる。同年、皇紀2600年(西暦に対して神話上で神武天皇が即位したとされる年から起算する)式典挙行、日本各地で祝賀行事が開催された。一方でこの年に東京オリンピックと万国博覧会の開催が決まっていたが、日中戦争拡大と物資不足で13年に中止を決定、返上されていた。
16年、「少国民」を育成するとして、小学校を国民学校と呼称を変える。私学校の場合、初等科とされた。治安維持法が改正強化され、宗教団や芸術団体、社会活動、自由主義等、軍政府批判はすべて弾圧・粛清の対象となった。新聞や出版物は全て検閲され、特高警察(秘密警察)が権力を持ち、隣近所の噂話からも摘発された。一方で米欧から石油禁輸措置や海外資産凍結も行われ、一般でのガソリンの使用は禁止。米国からは禁輸措置の解除の代わりに中国からの撤退を求められ、日本はそれに応じず、12月、米英に宣戦布告し、太平洋戦争が始まった。
17年、食料を含む物資は軍隊への供給が最優先され、そのため国内では兵器のための金属類の供出も強制され、寺の梵鐘や鍋釜も対象となった。衣料品も点数切符制となる。この時期、軍民の会社を問わず各職場からは間引きされるように男性が徴兵されていき、労働力不足は顕著になった。
18年、労働力不足を補うため、国民勤労報国令に基づいて中学生以上を定期的に軍需工場に勤労動員させ、就労していない若い女子は挺身隊として勤労させることになる。また兵力不足を補うため、大学・専門学校に対する徴兵猶予制度を解除し、秋には20歳以上の学生の学徒出陣を行う。一方で小学生に対し、都市への空襲を予想して地方への縁故疎開を奨励、また都市密集地の建物疎開を決定する。
19年、3月、学生の徴兵を18歳以上までに下げる。8月、小学生の3− 6年生を対象に学童集団疎開を実施する。同月、改めて女子挺身勤労令が発せられ、それまでの14−25歳から12−40歳までの未婚の女性が挺身隊の対象となった(当時、中学校は義務教育ではなかった)。また同月、「学徒勤労令」公布・施行。学生・生徒の勤労動員が「勤労即教育」という名目で実施され上級生の授業は全くなくなる。10月、一般の徴兵年齢も下げられて17歳から、上は45歳までと上げられた。下旬、神風特攻隊が初出撃。11月24日、米軍が本格的空爆開始。
12月7日、東南海大地震が発生、続いて1月13日に三河地震発生。津波も含めて合わせて死亡・不明は3200人に上ったが、戦時下による厳重な報道管制が敷かれて全く公表せず、救援活動もされなかった。
20年(1945)3月、「国民勤労動員令」公布、続いて「国民義勇隊」を創設、一種の本土防衛隊である。6月下旬、敵味方20万人の犠牲者を出して沖縄戦終結。これを受けて「義勇兵役法」を公布、施行。15歳−60歳の男子および17歳−40歳以下の女子に義勇兵役を課し「真に一億国民を挙げて光栄ある天皇親率の軍隊に編入」するとした。8月6・9日、広島と長崎に原爆投下。15日正午、天皇より終戦の詔勅(玉音放送)があり敗戦となる。
建物疎開
同様に空襲に備えて被害の拡大を防ぐために政府は都市部の建物の疎開を18年より計画、昭和19年より実施した。空き地を作って防火帯にするとか軍需工場の周囲、駅や鉄道沿線近辺を空き地にして延焼を防ごうとするものであった。都内では第四次にわたる疎開を7月までにを終了した。労力としては解体業者ばかりでなく、軍隊、消防団、警防団、町会隣組、そして学生・生徒まで動員し、なかでは堅牢な建物には戦車の出動もあった。ただそこまでは重要な軍需関連施設の周辺が主で、まだ住宅密集地への対策が遅れていて、そのうち11月下旬に米軍による本格的空襲が始まった。そのため20年に入ると都はさらに10万戸以上の建物疎開を計画した。そして翌年3月10日、住宅の密集する下町三区への焼夷弾による大空襲があり、一夜にして10万人近くの死者を出した。それを機に住宅密集地への建物疎開が急がれ、主要道路の道幅を50m以上拡幅し防火帯を作る計画が推進された。該当地区には第一弾として3月末まで各家を空き家にするようにと指示が出された。猶予期間はほぼ10日間である。しかしこれはこの戦時下にあって、どのような個人的な都合も言えず、反対もできなかった。仮に反対や抵抗をすれば「非国民」と指弾される世の中であった。引っ越し先が見つかっても、その荷運びに誰もが苦労した。そして4月13日が取り壊し最終期限の日であった。しかしこの頃は男手は少なく人手が足りず、高齢者と女性も手伝ってなんとか間に合わせた町もあり、駅周辺は軍隊が出動して間に合わせた。3月までに引っ越していてもそのまま手につけられず残っていた空き家もまだ多くあった。巣鴨警察署前の大塚通りも拡幅することになり、4月に入ってから移転を開始、しかし取り壊しが完了しないうちに13日の深夜になって城北大空襲と呼ぶ空爆が始まった。その結果、巣鴨警察署と移転先も焼失した。この空襲では豊島区は最大の被害となった。
学童集団疎開
昭和18年(1943)から政府は迫り来る空襲に備えて都市部の学童の縁故疎開を奨励した。19年3月頃まで疎開できた児童は豊島区は約3200人であった。そこで政府は小学生3−6年生の集団疎開を計画し、19年8月中に約1万500人(計画の半数)の児童が疎開、それに教員や保母も付いていった。豊島区は長野、山形、福島県が割り当てられ、宿舎は旅館や寺院であり、分散されたが、それでも一つの村の人口を超える場合もあった。長野県には一番多く8470人であったが、現在と違い当時の長野県は貧農の村が多く、そのために満州への集団移住が一番多く、敗戦時に悲劇を生んだ当地柄であった。また当時は全国のどこも食料不足に苦しみ、少ない農作物も軍隊優先に供出されていたから、児童たちに配給される食糧は、政府が支援すると言いながら足りるものではなかった。米も少なく、ご飯は朝一杯だけで、昼以降はいわゆる代用食が多く、例えばスイトン、芋ご飯、うどん、あとはおやつとして特産のリンゴがある程度であった。腹をすかせた子供たちはナマのイモを盗んで食べ、ナマの栗をこっそり食べた。リンゴは冬になると凍っていて、それでも食べた。時折親たちが面会に来て食べ物を運んだが、面会に来れない親もいた。
ある日、女の先生が旅館の人に「今日、何も食べさせるものがない」と言われ、大変だということで午前中に授業を終わらせて、リュックを背負って買い出しに行った。行っただけでは売ってくれないので、私物で木綿の手拭いとか下駄とか持って行ってカボチャやジャガイモを分けてもらう。背中にあざができるほどだった。このように買出し部隊は全員でリュックを背負い、ありの行列のように運んだ。職員・寮母は子供の就寝後に村まで出かけたという。これらも地域により大きな差があったが、それでも保護者の負担は子供一人に10円(現在の3−4万円程度か)が徴収されていた。そうした中で冬に備えて燃料の確保が重要で、それは子供たちの仕事となり、山に行って薪取りに行き、それを背負って一人一人が運んだ。それはとても重く、肩が痛くなったと親に手紙に書いた子もいる。温泉旅館の場合はほぼ毎日入浴できたが、そうでない場合、一週間に一回程度で、多くのシラミがわき、それが洗濯することの少ない事情で子供の衣服にまとわりついた。シラミを潰すことが子供たちの日課になった。
山形県の寒冷地では子供たちは霜焼けに悩まされ、冷たい川での洗濯、雪の上での作業で手足を凍らせ、下駄や靴が履けなくなる児童もいた。当時6年生だった女性は「宿舎となった慈光寺から学校までの深い雪の中を歩いた半年間に私の足はしもやけでくずれ、東京大空襲の直前に帰郷した頃は全く歩けなくなっていた。今でもそのあとは残り、死ぬまで消えることはない」と語る。
疎開先では当然授業が行われたが、「少国民」としての精神動員も絶えず行われ、授業よりも軍歌を歌わされることも多かった。国の戦勝祈願や出征兵士の武運長久祈願は雨風雪の日に関わらず神社に行き参拝した。一方で父母が時折面会に来るのが児童たちの無上の楽しみであり、家族との手紙や葉書のやり取りも頻繁に行われた。
ただ、6年生は卒業式と進学の準備として翌20年3月上旬までに帰郷した。そこに3月10日未明の大空襲が待ち受けていて、親に会えた喜びもつかの間、特に下町三区の子供の多くが親と一緒に焼死するか、あるいは孤児となった。それにより4月からは新たな3年生と1、2年生も集団疎開に追加され、3月末から5月にかけて疎開地に出発した。前年の第一陣の町を挙げての出発の時とは打って変わって寂しい出発であった。この20年6月時点での集団疎開学童数は豊島区で8398人であったが、前年の1万500人、6年生の帰京2522人、新たに出発した2184人を差し引きすると2割程度少なくなっている。これは東京に住む家族が地方に疎開し、そのために途中で子供を引き取ったためか、別な地に縁故疎開したためであった。
食料事情は依然回復せず、なかには疎開先を別な村に再疎開する場合もあった。そのため一つの学校が数か村に分宿せざるを得ず、温泉地から寺に移る場合もあり、子供たちは不潔になり、痩せ細り、精神面で不安定になった。そうした中で20年5月30日昼前、豊島区の疎開先の長野の山田温泉で十数軒を焼く火事が発生、疎開中の池袋第五小学校の女子8名が亡くなった。また5月までに東京を爆撃し尽くした米軍は地方の都市に向かい、福島の原町に疎開した長崎第四と第五校は、そばに飛行場があるため空襲の危険にさらされ、県内の土湯温泉に再疎開した。
8月15日の終戦後に集団疎開は解除されたが、児童たちはすぐに帰京できるわけではなかった。列車もすぐに手配できるわけではなく、10月の中旬から11月にかけて帰京は実施された。孤児となった子供たちは親戚縁者などの申し出や保護施設の準備を待つなどしてもっと遅れた。帰京した子供達を待っていたのは学校と家の焼け跡であった。その中にはバラック小屋や防空壕にトタンの屋根をつけた家で生活を続け、親と一緒に焼土を耕して野菜などを植えた。土を耕すことは疎開の子は慣れていた。
空襲体験
以下は『東京大空襲戦災誌』第2巻からである。
—— 私は3月に豊島商業学校を卒業したが、専修科生として学徒動員先の拝島の昭和飛行機へそのまま継続動員されていた。4月13日夜帰宅し、母と姉と食事中、母が、ルーズベルト大統領が亡くなったし、13日の金曜日なので今夜は空襲がないだろうと言ったが、一応いつものように服を着たまま就寝した。11時半過ぎ、騒々しい音で目が覚めると空襲が始まっていて、窓の外にB29が赤い火の玉になって墜落していくのが見えた。遠く彼方の周囲から火の輪ができ、真上に縦の線で焼夷弾が落下してくる。大きく火で囲み逃げ場を防いで中心を焼く方法が取られていた。焼夷弾の数が多すぎて消す間もなかった。人々は自宅の防空壕に荷を投げ入れて土を被せて逃げていた。私たちは川崎街道先の中丸方面に向かった。…… 三ツ又に出た頃にはこぶし大の火の粉が降り注ぎ、前へ進めず人々は右往左往していた。水をかぶってください」の声に夏布団を防火用水に思い切って浸し、頭から被って前に進んだ。その先はまだ燃えていなかった。中丸で夜が明けるのを待って川崎街道を五ツ又へ向かった。電柱が火を吹いて燃えていた。赤羽線の陸橋に来ると車庫の電車が新型も含めて全部燃えて骨組みを残して燃え尽きるところだった。明治通りのところで消防車が焼けて横転していた。家の近くまでくると、マネキン人形が仰向けで倒れていた。人間だった。自宅は完全に灰になっていて、不完全な防空壕に入れた荷は半焼けになっていた。見渡す限り焼け野原で、近くの質屋の蔵が残っていたが、突然火を吹き出し、一瞬にして崩れた。
…… 近所で一家7人が防空壕で蒸し焼きになった。また防火用水槽に入り頭だけ焼けてしまった子供もいる。大山の方へ逃げた私の級友は爆弾でやられ、腹部内出血、母親は即死、姉は足切断の重傷とのことであった。父親は池袋警察署員で不在であった。その晩は昭和鉄道学校が避難場所であった。墜落したB29は三ツ又の豆腐屋に落ちていた。搭乗員の焼けた肉体の塊の中は赤く、外部は真っ黒で、それを警官たちがオート三輪に積んでいた。二日目の晩、電車は動かず、中野の親戚まで歩いた。そこから三重県、山口県と転々とした。近所の人も友達も二度音会うことはなかった。(弘中愛訓:当時18歳)
—— 空襲警報発令で、私は手作りのカバンを肩にかけ、頭巾をかぶっていると警防団の人が早く逃げろと言ってきた。病気の母と庭に出てみると周りは赤くなって、すでに隣組の人たちは誰もいなかった。池袋車庫に近い道に出ると大勢の人が黙々と歩いていた。伊集院男爵家の強制疎開跡が黒く残って見えた。目指した踏切の向こうは真っ赤な炎が立ち塞がり、赤羽線を板橋方面に向かった。東上線は火の川となっていて、迷っているうちに母は、自分は無理だからあなただけ逃げなさいと言ってきた。それでも私は母に肩を貸しながら線路の上を板橋方面に歩いた。線路上には焼夷弾が落ちた跡がいくつもあった。大塚駅のあたりで線路上が風上になっていたので、そこで腰を下ろし、夜の明けるのを待った。
夜が明けて家に戻ってみると落胆するばかりだった。家の防空壕も焼け落ち、家宝など灰になっていたが、誰が持って行ったか、大事なミシンが見当たらなかった。そのうち隣組の人たちが戻ってきたが、大山の方へ逃げたのだが機銃掃射でバタバタ撃たれ、隣の奥さんや裏の奥さんと子供が死んだとか。隣の奥さんの死体は最上寺の庭で焼け残った材木を組んで焼けトタンを乗せ、その上で焼いた。そばで乳を失った赤ん坊が泣いていて、見ていられなかった。某さんの一家は防空壕の中に箪笥まで入れて5人とも煙で窒息死していた。一番奥でお母さんが赤ん坊を抱いたまま死んでいた。元気の良い人が多く死に、我が家のように病人が生き残ったのが不思議だった。私は焼け跡に台所の水道を柱にして焼けトタンで小屋を作った。おむすびを毎食重林寺までもらいにいくのが大変で一日中歩いて疲労が重なった。焼け跡で火を起こすにも火種がなかった。(辺見とし子:当時27歳)
—— …… 私の家の焼跡は赤く変色した焼け瓦と分厚い灰に覆われていた。ビン類は溶け、ガラスの塊と化し、鍋類はアルミの塊に変じていた。根津山の墓地に運んで濡れ筵をかけておいた品物はなんとか無事であったが、三間ほど離れたところに積んであった隣組の人の荷は焼けていた。バケツの水を飲んで親子三人ぐったりとしていると、高田第二国民学校焼け跡から牛肉と豆の缶詰を勝手に拾って食べろとの指示があったので父とバケツを持って駆けつけたが、すでに罹災者より先に、家の焼け残った(身軽な)住民たちがまともな缶詰の山を拾い出していて、我々罹災者には焼けて膨れたものばかりで中が焦げていて食べれず、怒りを覚えた。……
焼け跡に何百と立ち並ぶ小さな木の墓標の中でひときわ涙を誘ったのは、「担送患者救出中に殉職した」と記された池袋外科病院長以下看護婦十余名の墓標であった。現豊島区役所の筋向かいに当たるこの病院は鉄筋コンクリート造りだったので内部は焼けたが建物は今も健在で、今は池袋保健所として使用されている。当時私の勤務先を担当していた電気会社の営業は、13日夜、その病院筋向かいの営業所に宿直で、患者救出に応援して顔と両手に大火傷を負ったが、その人の話では「もう無理だ」と引き止めた時「患者を残して助かることはできぬ」と、院長以下再び火を潜って行ったきり帰ってこなかったということである。……
被災後、衣料品食料品を問わず、罹災者用として特に支給されたものは何一つなく、町会長と目白警察署長がそれぞれに発行した罹災証明書だけが終戦までに我々に与えられた総てであった。そして終戦後ただ一度、向こうの透けて見えるインチキ毛布を区役所から配給されたのが、最初で最後の罹災者用配給であった。空襲罹災者の損失は植民地からの引揚者に勝るとも劣るものではなかったはずなのに、政府が引揚者に対してのみ二度も補償したのは不公平である。なんの利益をも望まずに営々と働いた銃後の罹災者に一顧も与えなかった政府の処置は、明らかに不公平である。(風間洋郎:当時33歳)(筆者注:「毛布一枚」とは他の証言でも見られる。実は3月10日の大空襲以前は一定の補償が与えられていたが、それ以降は閉ざされた)
—— 警視庁防空本部は3月10日の大空襲の被害の甚大さにかんがみ、急遽建物疎開を大規模に実施するとともに、従来のまず消火に全力を尽くすという方針を変更し、空襲の際は速やかに避難するよう指導していた。4月13日夜、池袋警察署の警部補であった私は、宿直主任として在署していた。その時は一時仮眠していた。警戒警報のサイレンに目を覚まし、制服を着け始めた頃にはB29の爆音が頭上にあった。池袋駅から立教大学方面一帯にわたって無数の焼夷弾が炸裂し、赤白青黄色とりどりのゴム玉ほどの火の玉が上下左右または斜めに乱れ飛んでいた。そのきれいなこと、私は思わずきれいだと思った。急いで階段を駆け下り、待機中の警戒部隊はすでに現場に出動し、署内には数名の宿直署員だけだった。署の裏庭に十数発の焼夷弾が炸裂し、引火した油脂が一面に飛散し無数の炎となって燃え上がり、裏庭にある木造の書庫に引火し始めた。庁舎はコンクリート造りなので大丈夫と判断し、宿直員と書庫の消火に努めたが、無駄であった。すぐに署長官舎も炎上し始め、そこから烈風によって猛火が庁舎に吹きつけ始めた。
その壁の内側には留置場があり、危険とみた同僚の中西警部補は「安藤君大変だ」と叫びながら署内に駆け込んで行った。私もすぐに彼の後を追ったが、すでに中西は看守巡査に留置場の扉の開放を命じていた。留置人たちはすぐに飛び出し、彼らを廊下に集めた中西は「火が鎮まったら必ず戻って来い、戻らないやつは逃亡罪が適用される」と言い渡した。その後すぐに猛炎は檻房の小窓を突き破り、房内に吹き込み、留置場は燃え始めた。私達はすぐに煙と熱気に追われて事務室に駆け戻ったが、そこは全て猛炎に包まれていて、呼吸も十分にできない状態であった。私は約一ヶ月前の大空襲時に洲崎警察署の署長室で、署長以下21名が集団殉職し白骨となって発見されたという通達を思い浮かべ、もうだめだと観念した。同僚の中西も「もう駄目だ。潔く死のう」と言って、末期の水として水筒を差し出し、一口ずつ飲んだ。その時私は郷里に疎開している妻子の俤が頭に浮かんだ。死んではならないと決心し、中西を説得し「とにかく頑張ってみよう」と二人で別々に突破することにした。……
(なんとか火炎と猛煙の中をくぐり抜けて川越街道に脱出した後安全地帯に出て)九死に一生を得たが、まだ見渡す限り火炎で真昼のような明るさであった。我に返った私は職務を思い出し、赤羽線の線路に向かったが、そこには無数の避難者が火炎の海を見ながら立ち尽くしていた。署に戻ると署長を中心に4名の警部補と30名の署員が集合していて、その中に中西警部補がいて、よかったと無事を喜び合った。夜明け近くになると署長は管内の被害状況を実査して来いと命じ、我々はそれぞれの担当区域に向かった。その結果管内の99%が焼け落ちたと確認された。解放した留置人は逃亡者もなく帰ってきた。(安藤三郎:当時池袋署の警部補で41歳)
戦後の出来事
終戦直後の様子
度重なる空襲で豊島区の区域の約7割が灰燼に帰し、昭和19年2月の区の人口が31万人以上であったものが、20年11月の調査では9万人を超える程度に減少していた(25年10月の調査では約22万人まで回復)。敗戦後も国民の食料事情は危機的な状況が続き、むしろ疎開していた元の住民たちの転入も(外地からの復員者を除き)時限立法で23年まで抑制された。政府の配給食だけでは命を支えられず、11月中旬まで三ヶ月間の東京都の餓死者は千人以上とされる。ただその後占領連合軍は食料や物資を供給し、子供の学校給食を支えた。
実は終戦の昭和20年夏はまれにみる冷夏となり、さらに9月に枕崎台風、続いて10月に阿久根台風が襲来、九州、四国、近畿、北陸、東北地方に至るほぼ日本全土に大きな被害が発生し、米収穫量は明治38年以来の大凶作となった。これが年末からの食糧危機を増幅し、加えて戦地からの復員者で人口は増え、政府の配給も戦前以上に滞った。
豊島区の人々の多くは食料調達のため鉄道の便利上で、主に埼玉県に買い出しに行った。買い出しと言ってもインフレというい経済事情から現金は当てにできず、焼け残った着物や時計など多少価値のあるものとの交換である。農家もすぐには応じてくれなかったが、少しの食料でも命をつなぐためにみんな必死であった。ただし闇の食料は法律で禁止されていて、せっかく苦労して持ち帰った食料も列車内や駅などで没収された。泣くに泣けない思いであったという。
一方戦災で焼け出された人たちは、自分の土地あるいは持ち主が不明になった土地に、近くから材料を拾い集めバラック小屋を建て家族で住んだ。区も例えば焼失した高田第四小学校の土地に仮設住宅を作り、入居できた人は幸運であった。第四小学校の生徒たちは焼け残った第二小学校を借りて授業を再開した。他にも多くの小学校が焼失したが、その授業は青空教室であったり、講堂が残っていればその中を仕切っていくつもの教室にしたり、バラック小屋で下が土間で雨が降ると水が入る教室であった。焼け残った学校は他校にもその一部を貸し、午前と午後の二部制にした。その上に教科書もノートもまともになく、残った教科書は軍国主義の記述には墨が塗られた。夜は毎日停電があり、駅の灯りで勉強する子もいた。
ヤミ市からの復興
鉄道の要所である池袋には、戦後すぐ焼け跡にバラック建ての露店が次々に現れ、食料や物資を求めて多くの人々が集った。今まで秘かに行われていた闇売り、闇買いが白日のもとで行われるようになったが、戦前からの統制が解かれていたわけではなかった。戦後はむしろ人々に生きる活力をあたえる場にもなった。最初は1日商売の浮草商人が多く、ムシロを敷いたりミカン箱や手製の台を置いたにわか造りの屋台が並んだ。昭和21年1月頃の池袋では日々集散する露店商は800近く、その後1年余りの間に13カ所、商店は1200軒以上になった。池袋駅周辺は建物疎開により空地が多くあり、駅を中心に半径1kmはの空地と焼け跡となっていて、焼け跡は誰が所有者であるかはお構いなしであったという。
特に東口では翌年から露天商組合が作られ、駅前広場に長屋式の簡易な建物を作ってその中に整然と収められ、暴利を得る露天商は排除された。昭和24年からマーケットの移設準備が具体化、解体撤去され新しく商店街が建ち始め、27年末までに完了した。西口の場合、バラック小屋が複雑に連なっていて、ジャングルとも呼ばれた。その中には呑み屋街もあって繁盛した。そのうち順次近辺にマーケットができた。区画整理事業は25年から着手されたが、西口は困難な事業として30年代に入ってやっと本格化、37年(1962)に取り壊しが完了した。上野のアメ横や新宿、渋谷も同様だが、このような場から戦後の経済復興をなしとげるうねりが生じた。
戦争孤児
その池袋駅のヤミ市の裏で腹を空かしてうろついていたのが戦災で孤児となった子供たちである。度重なる空襲被害で家と親を失ったり、集団疎開中にそのまま親兄弟を失った子供たちは少なくない。頼るあても行き場もなく、いきなり戦後の混乱の中に放り込まれた。そしてこの池袋駅近辺にどのくらいの孤児たちが放浪していたか、その公的資料は一切ない。つまり調査すらされていない。都の資料には戦時の被災者数や集団疎開学童数、被災した建物や機械類の記録などは詳細にあるが、その結果生き残って困窮した人々の記録はない。
そして彼らのほとんどは保護の対象となることなく「浮浪児」と呼ばれて邪魔者扱いされ、警察からは取締りと排除の対象となった。その中には縁戚に預けられた者もいたが、差別的な酷い扱いでその家を抜け出して浮浪児となった場合もある。結果的に飢えや病気で死ぬ子も多くいた。公の保護施設も積極的に作られず、既存の施設は一杯で扱いが酷く、逆にそこから抜け出した孤児もいる。国が起こした戦争で孤児になり、声を上げ訴える手段も持てず、そのまま国に見捨てられたのである。空襲等による戦災で顔や体に大きな傷を負った人や焼死者の遺族などの被害者も同様である。その一方で出征兵士や軍属であった人々、そしてその遺族たちには終生恩給等国から支払いされ続けている。(台東区や東京湾お台場の項参照)
池袋で焼け出された人の体験である。
—— (4月13日の被災後)疎開の列車に乗るために焼け出された人々で上野駅はゴッタ返し、罹災証明のある人でも切符がなかなか手に入らず、私たちは寒空の駅に新聞紙をしいて二晩野宿した。学校で炊き出しにもらったおむすびを食べようと包みを広げると、垢で真黒になり雑巾のようにぶら下がった服を着た痩せこけた12、3歳位の男の子が寄ってきて手を出した。力なくそっと手を出す様子はまるでお化けのようだった。あわれに思って一つおむすびを渡すと、次から次にそういう子が寄ってくる。両親と死に別れた浮浪児がその当時、上野の山に数知れず住みついていたという。かわいそうな子供達を見ても、みんなにあげる食糧どころか、いつになったら田舎に行くことができるか、自分達の命さえも危ぶまれてくる。(山菅みよ子:当時16歳。この上野の子供達は3月10日の大空襲で孤児になったのであろう)
巣鴨プリズン(巣鴨拘置所)と戦争裁判
元は巣鴨監獄・刑務所であった。大正12年(1923)の関東大震災で被災し、昭和10年(1935)府中にに移転。12年に跡地に新築した官舎を「東京拘置所」とし、主に未決囚を収容していた市谷刑務所をここに移設した。
敷地の北西には処刑場があり(拘置所で処刑場があるのは異例である)戦時下の昭和19年(1944)には、ゾルゲ事件のリヒャルト・ゾルゲおよび尾崎秀実の死刑が執行された。ほかにも共産主義者と疑いをかけられただけの思想犯や、戦争に抵抗した宗教家等が拘置され、非道な尋問によって拘置中に獄死した例は少なくない。
戦後になって占領軍GHQがこれを接収、戦争犯罪人の収容施設で巣鴨プリズンとした。
GHQは昭和20年9月11日、まず東条英機(元首相で陸軍大将)ら39人を逮捕、東条はピストル自殺を図ったが未遂に終わった。12月1日、GHQはさらに近衛文磨らA級といわれる戦犯容疑者59人の逮捕を命令。以後、この中から自殺が相次いだ。主には敵軍の裁きを潔しとしないという理由であるが、近衛を含め、拳銃自殺、服毒自殺、割腹自殺を行っている。
極東国際軍事裁判により有罪となった28人のA級戦犯のうち死刑判決を受けたのは東條ら7名で、昭和23年(1948)12月23日に死刑が執行された。逆に処刑等を免れたA級戦犯の中から、その後政界に復帰し、大臣や首相になった人物もいる。(Wikipedia『A級戦犯』参照)
またBC級戦犯52名も巣鴨で処刑された。最も収容者数が多かったのは1950年1月時点で、1862人が戦犯として収容されていた。累計で4200人という。1947年2月、60歳以上の高齢者と病人以外のBC既決囚は全て就労を命じられ、施設周辺の道路整備や運動場、農園、米軍兵舎・将校用宿舎等の建設であった。この2年の就役が終わると、減刑などの恩赦を受けた。のちに首相になった岸信介もその一人である。
豊島区立郷土資料館にはBC級戦犯収容者の遺族からの寄贈品などが展示されている。これはBC級戦犯と呼ばれる人たちには、自らの意志で「犯罪」に加担した人は少なく、ほぼ上官の命令によるものであり、しかしその上官達は戦後うまく逃げ、その彼らの代わりに処刑された人たちが多くいた。その背景もあって資料館に展示されている。
またBC級戦犯は横浜やフィリピン、イギリス(イギリス占領地の東南アジア各地でのこと)オランダ(オランダ占領地のインドネシアでのこと)オーストラリア、中国、台湾、ソ連(は独自に行った)など世界49カ所の軍事法廷で裁かれた。のちに減刑された人も含め約千人が死刑判決を受けたとされる。合計2244件の裁判で5700名のBC級戦犯が裁かれ、死刑の確認された人数が934名。正確な資料はないが、第一復員局法務調査部では1946年10月上旬の時点で約11000名が海外で逮捕されたと推計している。(BC級戦犯については筆者の「各種参考資料」参照)
敗戦から13年間にわたり戦争犯罪に問われた人々を収容した巣鴨プリズンは、1971年に取り壊された。その跡地は池袋地域の再開発の中心地となり、1978年にサンシャインシティとして完成、その中のサンシャイン60は当時日本でもっとも高い建物であった。今はその側の公園にスガモプリズンの処刑場(処刑台は5基あった)の場所を示す石碑が建っている。その周辺は豊島区立東池袋中央公園となり、慰霊碑「平和の碑」が建立されている。
<余話:敗戦国の義務>
いくら戦時下において「敵国」に非道な行い(例えば住宅密集市域や学校への無差別絨毯爆撃)をされていた事実があっても、敗戦国となればその非道を訴えることはできないし、逆に指揮官たちは戦争犯罪人として裁判を受ける。しかも戦勝国に賠償金を支払うのが常だが、終戦後米国は同盟国に対し、日本には戦争賠償金を課さないように呼びかけた。これは国家同士しか知り得ない裏事情があって、日本は戦前から、具体的には日露戦争当時からの多額な国債という借金を、大きな利息とともに米国(というより背後にいる大金融機関)に返済をし続け、返済し終えたのは昭和61年(1986)である。同じ敗戦国ドイツも多額の賠償金を抱えたが、東西統一後の2007年6月にやっと払い終えた。
