日本の軍歌とその時代背景

──昭和編(昭和2年−13年:1927−1938)──

昭和時代初期(昭和2年−10年:1927−1935)

 大正時代から昭和に入ってしばらくは、流行する軍歌はあまり作られていなかった。大正時代の国内はほぼ平穏で(実際には第一次世界大戦への参戦やシベリア出兵が展開されていた)、昭和6年(1933)の満州事変から実際の戦争の展開に沿って、軍歌は有り余るほど作られるようになる。そして日中戦争から太平洋戦争に至るに及んで、その数は膨大となる。

軍事的背景(満州事変とその後)

 明治時代の日清・日露戦争によって日本は台湾と朝鮮を植民地とし、大正時代では第一次世界大戦に参戦してドイツの中国内領地と南洋諸島の領地も奪い取り、次に革命に揺れるロシアへの列強諸国の干渉に相乗りしてシベリア出兵を行い、日本軍は第一次大戦では漁夫の利を得て、シベリア出兵では日本だけ奥地まで侵攻し、大きな損害を出した。租借権を得た中国の土地には日本の資本が進出し、昭和に入る頃には日本人居留民が各地に住むようになっていたが、大正時代から続く排日・抗日運動は続いていた。その中の大河・長江の内陸部の漢口では暴動が起こり日本人が排斥された。そこで日本の軍政府は日本人居留民保護を名目として、満州の関東州に駐留させていた軍隊(関東軍)を山東省青島に一時的に出兵させた。この時期、中国では辛亥革命により樹立された蒋介石国民党政権は、東北部の北洋軍閥政権と台頭しつつあった共産党軍を制圧できずにいた。そこで日本の関東軍は北洋軍閥政権に味方し、まず国民党軍の動きを牽制したが、軍閥は敗退、そして軍閥の頭領張作霖を邪魔と見た日本軍は昭和3年(1928)、張作霖を列車ごと爆殺してしまった。

 一方で中国内では日貨排斥運動が再び燃え上がっていた。翌4年になって国民党政府は日本の権益を否定する法令を次々と制定、重ねて起こる日本製品非買運動により、日本からの輸出は昭和元年から5年にかけて半減した。そこで日本は列強国に遅れて蒋介石の国民政府を正式に承認したが、関税自主権を認めるには翌年までかかった。それでも日本の満鉄(東満州鉄道)の経営は張学良(張作霖の息子)がもう一つの鉄道建設を進めるという策略もあって赤字続きとなり、また多くの日本企業は、昭和5、6年から、一方的な許可取り消しで経営不振が続出した。

 こうして日本は満州に関して不利な状況に追い込まれていたが、陸軍参謀本部は昭和6年(1931)6月、「満蒙問題解決方策大綱」を作成、満州に独立国の形の親日の政権を樹立し、その後に領有することを目指した。この2年前に満鉄(南満州鉄道)副総裁であった松岡洋右が、「満蒙は日本の生命線である」(蒙は蒙古の東部)と語ったことにより、新聞や雑誌でもしきりに取り上げ、国民の気運は武力行使をしてでも満州を守るべきとの流れになった。

 そこで同年9月の夜、関東軍は奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道線路上で爆発事故を仕掛けた(柳条湖爆破事件)。爆発自体は小規模であったが、これを 「張学良軍の攻撃である」として日本軍は反撃の材料とした。実はこの時は張学良は他所に出かけていて、不在だった。これを口実に関東軍は直ちに軍事行動に移った。翌日日本政府は緊急閣議を開き、幣原喜重郎外務大臣等は関東軍の謀略ではないかと断じたが、関東軍は日本の指揮下にある朝鮮軍を動員させ、朝鮮軍を率いる林銑十郎中将は独断で国境の鴨緑湖を超えて満洲に進軍してしまった。これに対して天皇の不拡大との言葉もあったが、新聞(号外)とラジオによって「暴戻なる支那軍が満鉄戦を爆破したが、我が軍はこれに応戦し…目下激戦中」との事実とは異なる報道が繰り広げられ、国民は中国討伐に沸き返り、そこでさらに日本の軍政府がその世論の雰囲気に押されるという流れが形成された。

 これが満州事変の始まりであり、当時は中国側の蒋介石や張学良の無抵抗方針などは一切報道されておらず、逆に新聞等のメディアが国民を戦争に向けて煽って行く機関となり、報道合戦が始まり、新聞は部数を増やして利益をあげ、ラジオも加速度的に普及して行った。これが昭和20年までの14年間続く戦争の始まりであった。

 これに対し蒋介石国民政府は紛争の平和的解決を望むとして国際連盟に提訴し、張学良も当面不抵抗を掲げた。この時の中国米国公使ジョンソンの分析では「これは日本の侵略行為であって……」とし、国際連盟第一次理事会で「日本軍の迅速なる撤退」を決議、日本代表は了承し実施すると形式だけの声明をした。ところが6年10月に入り、この国際連盟の会議中にも関東軍は進攻し、なんと奉天を放棄した張学良が拠点を移していた遼寧省錦州への空爆を行った(錦州爆撃)。この頃の飛行機はまだ複葉機で、機動性はあまりないなか爆弾投下も手作業であったが、5機により、250kg爆弾75発を投下し、機銃掃射も行った。目標の多くは外れたが、市街地、大学、駅に命中し、市民14人、兵士1人、ロシア人1人が死亡、20人以上が負傷した。これは世界中を驚かせ、中華民国はこの爆撃を直ちに国際連盟に提訴し、緊急の第2回理事会では日本への非難の声が一層高まり、紛争の平和的解決、日本軍の撤兵を促したが、この間にも日本軍は進軍を続けた。こうした状況は2022年に起こったウクライナに対するロシアの侵攻と爆撃に酷似していないだろうか。これを取り繕うためと時間稼ぎに日本は国連に調査団の派遣を逆提案、これが受け入れられ、リットン調査団が組織され、翌昭和7年(1932)から動き始めた。

 この時期の日本軍はしたたかで、中国全土に広がっていた抗日運動の中、特に上海の情勢が悪化していて、日本軍はこれを利用して、満州問題から世界の目をそらそうとし、また謀略に動いた。昭和7年(1932)1月28日、日系工場で働く抗日派を買収し、日本人僧侶のグループを襲わせ、死傷者4名、その次に日本人義勇団を買収しその工場を襲わせ、放火事件を起こした。これにより上海はパニック状態となり市街戦へ発展、 日本は海軍陸戦隊千人、中国国民政府軍は3.5万人の大軍を投入し、苦戦となった日本海軍は陸軍に支援を要請、中国軍もさらに増援するという激戦となった。戦闘は本格化し3月3日まで続き、上海の中国人死者は6080人、行 方不明者1万400人、負傷者2000人、日本側の戦死者769人、負傷者2322人となった。これが第一次上海事変とされる。謀略を仕掛ける軍の指導部にとって、そのために失う自軍の将兵、あるいは敵方の命など、単なる数字上の損失に過ぎない。

 この上海事変に世界の耳目が集まっている間に関東軍は計画通り新国家樹立へ向けて迅速に行動し、上海事件の解決のために開かれる国際連盟臨時総会開催の二日前の3月1日、満州国建国の宣言をし、清朝の最後の皇帝であった溥儀を「執政」とし形を整えた。これにより日本は台湾、朝鮮に続いて三国を植民地にしたことになる。 これに対し米国務長官ヘンリー・スティムソンは、この事件は9カ国条約とパリ不戦条約に違反する、よって日中間のいかなる条約、合意も承認しない、中国の領土的統治的一体性を損なういかなる既成事実も承認しないとの声明をした。

 調査団の視察は昭和7年(1932)6月に終了したが、関東軍は調査団の報告書が提出される前に、できるだけ多くの既成事実を造る目的で、日本国内の参謀本部の「不拡大」の指示を無視して侵攻作戦の拡大をつづけた。9月、日本は満州国を正式に承認し「満州議定書」に調印した。これはリットン調査団の報告書の発表約2週間前で、調査団は10月2日、報告書を公表した。結論的には「柳条湖事件における日本軍の活動は自衛とは認められず、また満州国の独立も自発的とはいえない」としながら「事変前の状態に戻ることは現実的でない」として、日本の満州国における特殊権益を認め、日中間の新条約の締結を勧告した。これは日本にとって「名を捨て実を取る」内容であったが、「満洲国が国際的な承認を得る」という一点だけは譲れない日本はこれに反発した。しかし1933年2月、国際連盟総会の議決は満州国の不承認と中国の主権を認めるというより厳しいものとなり、これにより3月27日、日本は国際連盟を脱退してしまった。ある意味、これで日本軍は自由に行動できるようになった。

 こうした国際的な動きを無視し、日本の関東軍は1933年1月から、中国との協定を無視し、軍事的要衝の山海関(万里の長城の東端に位置し、渤海湾に面する)を海軍と協力して攻撃して占領するなど各種の作戦を展開、8年2月、閑院宮参謀長からの熱河作戦裁可上奏に対して、天皇は「関内(満州を超えた長城の南側)に進出せざること、関内を爆撃せざること」の二条件のもとにこれを裁可した。 それでも関東軍は4月には長城線を越えて北京にまで侵攻しようとするが、日本政府の反対もあって撤退、5月に蒋介石国民政府軍は妥協して停戦協定を結び、一応満州事変は終息した形になり、関東軍は満州国の南側国境の安全を確保した。

 翌昭和9年(1934)、蒋介石は日本の武力侵略との全面対決を避けつつ経済建設に力点を置いたが、日本以外の外国資本を頼ることになり、それがますます日本が強硬な軍事作戦に走る要因となる。3月、満州国を満州帝国とし、溥儀が皇帝に即位する。5月に入り、宋慶令ら約2000人の著名人が「中国人民対日作戦基本綱領」を発表、すべての中国人民が武装蜂起して、日本帝国主義と闘うことを訴えた。

 翌10年(1935)も相変わらず各地で抗日運動は続いたが、国民党蒋介石は、中国共産党軍の撲滅を優先して日本軍と妥協し、いっさいの排日行為を禁止した。それに対し8月、中国共産党は国民政府と共同して抗日闘争にあたることを望むと呼びかけた。そして10月ごろより河北省では自治独立を求める民衆運動が続き、そこで関東軍は平定工作の一環として「冀東政府」という傀儡政権を11月に成立させた。これに対して12月、北京の学生5千人が「日本帝国主義打倒」「華北自治反対」を叫んでデモ行進、一週間後に1万人がデモをしたが、冀東政権により鎮圧された。この時にある若者が作って歌われた「起て!奴隷となることを望まぬ人々よ」という『義勇軍行進曲』が現在の中華人民共和国国歌となった(下記に挿入)。なおこの政府は2年数ヶ月後に解消されたが、この河北省はアヘンの生産地であり、日本軍も資金を得るためにこの生産に関わった。

 これとは別に、満州における全ての鉄道は無償または無償に近い額で日本の満鉄に接収され、中国農民をその土地から追い出して朝鮮人や日本人の集団移民が入植した。鉱山やそれに伴う大工場も接収されたが、それらの工場に関東軍は追い出した中国農民を強制徴用し、すると満州の農産物収穫量が激減し、農業恐慌が進行する。このような中で抗日運動も激化したが、相次ぐ討伐によって1932年に36万人と言われた各種の抵抗部隊は急速に勢力を落とし、代わって1933年には東北人民革命軍、1935年には東北抗日連合軍が結成された。さらに朝鮮と接する東満州には朝鮮人民解放運動の拠点も作られ、1934年には朝鮮人民革命軍、36年には祖国光復会が結成された。朝鮮人民革命軍には金日成が参加していて、今の北朝鮮の共産党政権につながる。つまり中国と朝鮮の共産党政権は日本軍が強力にサポートしたと言っても過言ではない。

 以上はおよそにおいて日本側の資料を読めばわかる流れであるが、中国側の資料に目を通せば様子が違ってくる。それらに関しては筆者の別稿「昭和時代編」の同じ時代を参照されたい。よく知られる南京事件のずっと前から、つまり満州事変の頃からすでに似たような日本軍による暴虐行為が続けられていたことがわかる。それは筆者自身が思っても見ないことであった。

(同時期の国内の動向は軍歌の後に記述する)

軍歌(昭和2−10年:1927-1935)

『朝日に匂ふ桜花』

 昭和3年(1928) 作詞:本間雅晴/作曲:陸軍戸山学校軍楽隊

1
朝日に匂ふ 桜花
春や霞める大八洲(おおやしま)
紅葉色映え菊香る
秋空高くふじの山
昔ながらの御柱と
立ててぞ仰ぐ 神の国
2
三千年来一系の
皇統伝へて百余代
天祖の勅儼として
大義名分昭に
国の礎いや固く
久遠の光かがやけり
3
君の恵の深ければ
内に平和の栄あり
国の守の堅ければ
外侮を受けずして
文化の流れ汲み分けて
進む一路は極なし
6(4、5略)
名に負ふ旅順の鉄壁を
砕く肉弾死屍の山
跳び越え跳び越え進み行き
不落の要塞奪ひたる
父祖の血潮を受けし身の
我等が意気は人ぞ知る
9(7、8略)
ああ国防の前線に
立てる我等の任重し
五条の御訓かしこみて
栄えある勤め励みつつ
時し来たらば身を捨てて
いでや示さん大和魂
(10略)

 この中では「内に平和の栄あり」がミソであり、「国の守の堅ければ」それでよし、としていればいいのだが、すでにこの時期、中国北部の利権拡大を求めて、日本軍は満州近辺で暗躍し、他国の平和を乱していた。それが日露戦争の中国を舞台にした「旅順の鉄壁を砕く肉弾死屍の山」であって、その侵略行為がどうして「ああ国防の前線に立てる我等」となるのか、つまり海を越えて攻め込んだ他国の地がなぜ国防の前線となるのか、意味不明である。帝国主義とはこれほどに身勝手な発想をするということである。

『進軍』

 昭和4年(1929) 作詞:小玉花外/作曲:今 福雄

1
日出(いず)る国のますらおが
今戦に出でて行く
旗ひるがえり血は湧きて
歓呼の声やラッパの音(ね)
2
戦い勝ちてかえらずば
二たびは見ず父母の国
花に功勲(いさお)を飾らずば
散りて帰らぬ吾が身なり
3
富士と秩父の両山が
見渡す兵士の肩の波
揃う足並大海の
早や敵軍を呑まんとす
(以下略)

 すでに日本は、台湾と朝鮮を占領したことで、もっと領地を拡大するために戦争をしたくてしたくてうずうずしている状態が歌詞によく出ている。続く『朝鮮国境守備の歌』や『独立守備隊の歌』(満州)も、いずれも海外の戦地での歌である。この2年後に日本は満州事変を起こす。

『独立守備隊の歌』

 昭和4年 作詞:土井晩翠/作曲:中川東男(陸軍戸山学校軍楽隊)

 南満洲鉄道の守備にあたった独立守備隊の歌。土井晩翠はすでに高名な詩人で、戦後に文化勲章を受けた。おそらく軍部に依頼されて作ったのであろう。

1
ああ満洲の大平野
亜細亜大陸 東より
始まるところ黄海の
波打つ岸に端開き
蜿蜒(えんえん)北に三百里
東亜の文化進め行く
南満洲鉄道の
守備の任負ふ 我が部隊
2
普蘭店をば後にして
大石橋を過ぎ行けば
北は奉天 公主嶺
はては長春 一線は
連山関に安東に
二条の鉄路 満洲の
大動脈をなすところ
守りは堅し 我が備へ
5(3、4略)
ああ十万の英霊の
静かに眠る太陸に
遺せし勲 承け継ぎて
国威を振ひ東洋の
永き平和を理想とし
務めに尽す守備隊の
名に永遠に誉あれ
名に永遠に栄あれ

 「ああ十万の英霊」とは、日清・日露戦争、そしてシベリア出兵などを経て、この頃までに10万人の兵士が大陸で命を落としているということであろう。それを受け継いで「東洋の永き平和を理想とし」て守備隊は務めを果たしていると。南満洲鉄道こそ日露戦争で日本が得た「北に三百里(約1200km)」延びる重要な権益であり、これを基にして日本はこの後の満州事変、日中戦争(支那事変)を起こし、さらには太平洋戦争(大東亜戦争)へ突入し、「永き平和」ならぬ長い戦争となった。

朝鮮国境守備の歌

 昭和4年 作詞:国境守備隊/作曲:市川鉄蔵

1
千古の鎮護 白頭の
東に流るる 豆満江
西を隔つる 鴨緑江
蜿蜒(えんえん)遥か 三百里
国境守備の名誉負ふ
武夫(ますらお)ここに 数千人
2
長白おろし 荒むとき
氷雪四方を閉ぢこめて
今宵も零下 三十度
太刀佩(は)く肌は 裂くるとも
銃とる双手は 落つるとも
同胞まもる 血は燃ゆる
6(3−5略)
不逞仇なす輩の
来らば来れ 試しみん
日頃鍛へし 我が腕
家守る妻子も 諸共に
などか後れん 日本魂
武装して起つ 健気さよ
8(7略)
積る辛苦の効果ありて
御稜威(みいつ)輝く日の御旗
鷄林遍(あまね)く翻る
誇れ我が友眉揚げて
励め我が友永へに
国境守備の勲功を

 国境とは日本が植民地にしている朝鮮の、ロシア(ソ連)と中国に接している国境であり、鷄林とは朝鮮の異称である。「日の御旗 鷄林遍く翻る」とは、その朝鮮内のあちこちに日の丸の旗がひるがえっているということで、実際に国境周辺だけではなく、朝鮮国内にも日の丸を掲げさせていた。

日本国民歌

 昭和6年(1931) 作詞:中川末一(補修:北原白秋)/作曲:山田耕筰 (東京・大阪毎日新聞社懸賞募集当選歌)

1
吼えろ、嵐、恐れじ我等
見よ、天皇の 燦たる御稜威(みいつ)
遮る雲 断じて徹る
2
狂へ、怒濤、ゆるがじ我等
見よ盤石の 厳たる祖国
太平洋 断じて安し
3
来れ、猜疑、許さじ、我等
見よ、極東の 確たる平和
亜細亜(アジア)の土 断じて守れ
4
挙(こぞ)れ、日本、いざいざ我等
見よ、国民の 凜たる苦節
正義に、今 断じて立てり

 「極東の確たる平和」はよいのだが、この年に日本軍は謀略により(国内ではそのような言葉は使われない)満州事変を起こし、その平和を根本から乱している。「亜細亜の土、断じて守れ」は、欧米から守れと言うことであろう。欧米の租借地は中国内に多く存在するが、それを同じアジアの盟主である日本が代わりに受け持ってやるということである。実際にはその欧米と租借権を競っていて、それを「正義に 今 断じて立てり」とは自分に都合のいい断言である。逆に日本はこの後、満州だけに飽き足らず、南進して中国本土内に戦争を仕掛け、さらに東南アジアと南太平洋へと覇権の拡大に邁進していく。

起てよ国民

 昭和6年 作詞・西條八十/作曲・松平信博

1
天神怒り 地祇恚(いか)る 
咄(とつ)、何者の暴虐ぞ
満蒙の空 風暗くひるがへる
胡沙(こさ)血に赤し
2
高粱(モロコシ)靡(たなび)く満洲は 
想へ再度の戦(たたかい)に
わが忠勇の将卒が 
屍(かばね)に換へし土地なるぞ
3
秋風さむし表忠塔 
いま暴民の靴さきに
踏みにじられて神州の 
国威危うく堕ちんとす
4
神統二千六百年 
正義輝く大日本
天地に恥ぢぬ権益を
蹂躙するは何奴ぞ
5
起てよいざ起て国民よ
起ちて正義の戟(ほこ)を執れ
いまぞ国威を示さずば 
ああ千歳(せんざい)に恥あらん

 西條八十ともあろう方が、どっぷり大日本帝国主義の思考回路の罠にはまって、その応援歌を作っている。「満洲は…わが忠勇の将卒が屍に換へし土地なるぞ」、それはこの土地を奪うために軍事を展開させて行ったのだから犠牲はやむ得ないし、相手方だってそれ以上の犠牲を生んでいる。「いま暴民の靴さきに踏みにじられて」と言うが、なぜ日本軍の侵略に反旗を翻す住民が「暴民」となって自分自身の土地を踏みにじることになるのか。また「天地に恥ぢぬ権益」と言うが、なら「神統(神武天皇統治)二千六百年」の前から、この満洲の地が日本の領地であると決まっていたのか、もともと何千年も前から、ここに生活していた人々を「蹂躙するは何奴ぞ」ではないのか。「起てよいざ起て国民よ」と言われて徴兵されて出征した国民の中には、どこか腑に落ちないものを抱えながら戦っていた人も少なくなかったのではなかろうか。この年、関東軍は謀略によって満州事変を起こし、続く翌年には傀儡政権の満州国を作り上げてしまう。

満洲行進曲

 昭和7年(1932) 作詞:大江素天/作曲:堀内敬三

 満州の奉天に駐在していた記者が作詞したものに、この頃作曲家として頭角を現していた堀内敬三が曲をつけた。この年日本は満州に傀儡政権を作り、日本の三つ目の植民地とする。

1
過ぎし日露の 戦いに
勇士の骨を うづめたる
忠霊塔を あおぎ見よ
赤き血潮に 色そめし
夕日をあびて 空たかく
千里広野に そびえたり
2 
酷寒 零下三十度
銃も剣も 砲身も
こまのひづめも 凍るとき
すはや近づく 敵の影
防寒服が 重いぞと
互いに顔を 見合わせる
6(3−5略)
東洋平和の ためならば
我らがいのち 捨つるとも
なにか惜しまん 日本の
生命線は ここにあり
九千万の 同胞(はらから)と
ともに守らん 満州を

 「過ぎし日露の戦いに」とは明治の日露戦争のことであるが、日本対ロシアといっても、朝鮮半島と満州の権益が原因となっておこなわれた覇権争いであって、1904年に日本の旅順攻撃で開始し、満州南部と遼東半島がおもな戦場となった。最後の日本海海戦で日本は勝ったが、これをきっかけに日本は朝鮮国を併合し、植民地とする。だからこの「東洋平和のため」というのは、日本の帝国主義的野望を体良くごまかす表現であって、しかしこれは後の太平洋戦争まで継続して使われる。「九千万の同胞」とは、まだこの頃日本の人口は6千万人程度であり、台湾や朝鮮の植民地を合わせたものである。間もなくこれが一億となる。ただ「ともに守らん 満州を」とは、日本に侵攻されている満州の人々に対し、何を、どこに対して(たぶんロシア)一緒に守ろうというのか。このような自国のみを正当化する言い回しは(日本だけではないとは言え)、日本の敗戦まで続くが、その過程で侵略戦争は「聖戦」となり、日本軍は正義を貫く「皇軍」となり、このような言葉の繰り返しと積み重ねが日本人全体から客観的な思考力を奪っていき、精神主義に陥って圧倒的な物量差のあるアメリカと開戦し、悲惨な敗戦を招いたことは確かである。

爆弾三勇士』/『肉弾三勇士

 第一次上海事変中の昭和7年2月、中国国民革命軍が上海郊外の廟行鎮に築いたトーチカと鉄条網を破壊をする作戦で選ばれた3名が、突撃路を開くため破壊筒を持って敵陣の鉄条網の破壊を行い、自らも爆発に巻き込まれて3人は戦死した。後にしばしば行われる一種の特攻隊だったが、後に行われたような確実な死を前提とした作戦ではなかった。このニュースが流れると、当時の陸軍大臣がこの行為を賞賛し、爆弾三勇士と命名、それを美談として新聞各紙が取り上げ、毎日新聞と朝日新聞が歌の懸賞募集を開始した。それぞれ10万通前後の応募の中から、毎日新聞ではすでに高名な歌人、与謝野鉄幹の「爆弾三勇士」が採用され、朝日では地方記者の作品が選ばれ、題名を「肉弾三勇士の歌」とし、これに山田耕筰が曲をつけた。

『爆弾三勇士』

1
廟行鎮(びょうこうちん)の敵の陣
我の友隊(ゆうたい)すでに攻む
折から凍る如月(きさらぎ)の
二十二日の午前五時
4(2、3略)
我等が上に戴(いただ)くは
天皇陛下の大御稜威(おおみいつ)
後に負うは国民の
意志に代われる重き任
5
いざ此の時ぞ堂々と
父祖の歴史に鍛えたる
鉄より剛(かた)き「忠勇」の
日本男子を顕(あらわ)すは
7(6略)
時なきままに点火して
抱(いだ)き合いたる破壊筒
鉄条網に到り着き
我が身もろとも前に投ぐ
10(8、9略)
忠魂清き香を伝え
長く天下を励ましむ
壮烈無比の三勇士
光る名誉の三勇士

『肉弾三勇士』(戦友の屍を越えて)

作詞:中野力/作曲:山田耕筰

1
戦友の屍を越えて
突撃す御国の為に
大君に捧し命
ああ忠烈肉弾三勇士
2
廟行鎮鉄条網を
爆破せん男子の意気ぞ
身に負える任務は重し
ああ壮烈肉弾三勇士
(以下略)

 下段の民間人の作詞の内容はともかく、与謝野鉄幹の詩の場合、歌人らしく表現は巧みであるが、これが戦場の実態と三勇士の心の中を描けているかというと、そんな歌の内容ではない。何しろ本人は戦場などにまったく縁はなく、机上で勝手にイメージを膨らませて自在に書いているだけである。そしてこういう内容を軍の幹部は好み、国民はその雰囲気に影響され、実際に戦場に行く若者たちは、勇んで行く前と違って前線に行ってみてその戦争の悲惨な実態に苦しむ。後年、与謝野鉄幹は、自分で作ったこのような空疎な詩との乖離を恥じ、悔いることがあったのであろうか。おそらく戦争は文人たちにとって(自分が徴兵されない限り、あるいは自分の息子たちが徴兵されない限り)ある意味自分事ではないから(戦況に一喜一憂したとしても)、そういうことはなかった、むしろ少なくともその時代には自分の詩は人々に感動を与え、役に立ったと考えていた様子が伺える。

殉国勇士を弔う歌

 昭和7年頃 作詞:土井晩翠/作曲:永田紘次郎

 明治から活躍する高名な詩人、土井晩翠の作詞である。瀧廉太郎の作曲で知られる『荒城の月』の作詞者であり、この後の「戦陣訓」の文言校正でも知られる。

1
襟を正して 厳かに
感謝捧げよ 倒れたる
我が皇軍の 同胞に
凱歌轟く 今日にして
弔え殉国勇士の 霊を(最終二行繰り返し)
2
故郷の空に 山に野に
影を再び 見せずとも
霊は微笑む 天上に
4(3略)
遺族の涙 雨と降る
いみじき犠牲 彼ありて
国の光ぞ いや勝る
5
二つ無き身を 皇国の
為に殉ぜし 尊しや
その一門に 栄よあれ
(6略)

 「感謝捧げよ倒れたる…同胞に」、「霊は微笑む天上に」、「いみじき犠牲…国の光ぞいや勝る」、「皇国の為に殉ぜし尊しや」等の言葉の調子は敗戦までの多くの軍歌に連綿として続くが、唯一、「遺族の涙雨と降る」という表現は、この後、軍の検閲によってなくなっていく。つまり遺族は決して涙を見せてはならず、皇国にその身を捧げて英霊となった息子を喜ばねばならないとされるようになる。そのいい例が下記の昭和12年に挙げる『軍国の母』で、その中に「名誉の戦死頼むぞと泪も見せず励まして」との歌詞に象徴される。息子を戦争に送り出す時から「名誉の戦死頼む」と言わねばならなかった、異様な時代である。

 昭和時代に入ってからの絶対的軍国主義体制下では、童謡も含めたほぼ全ての詩人に軍歌の作詞依頼があり、詩人たちも意気に感じて詩作したと言っていい。作曲家も同様である。今も有名な詩人の北原白秋や、作曲家の山田耕筰なども、戦争という狂気の濁流に、ほぼ同調して積極的に活躍していく。

討匪行

 昭和7年 作詞:八木沼 丈夫/作曲・歌:藤原義江

 藤原義江は日本人のパイオニア的オペラ歌手として知られるが、前線兵士の慰安公演のために満州へ渡った際、帝国陸軍の関東軍の依頼により、この軍歌を作曲することになり、自ら歌った。作詞の八木沼丈夫は関東軍参謀部にいた人物で、つまり満州事変を起こしたグループの一人である。討匪行(とうひこう)とは、匪賊つまり賊徒を討つ行軍ということであって、賊徒とは侵略している日本軍に対する現地の武装集団を、日本側が勝手に言っているに過ぎない。

1
どこまで続く泥濘(ぬかるみ)ぞ
三日二夜を食もなく
雨降りしぶく鉄兜(かぶと)
(終行繰り返し、以下同)
4(2、3略)
既に煙草はなくなりぬ
頼むマッチも濡れはてぬ
飢え迫る夜の寒さかな
5
さもあらばあれ日の本の
我はつわものかねてより
草生す屍(かばね)悔ゆるなし
6
ああ東の空遠く
雨雲揺りて轟くは
我が友軍の飛行機ぞ
14(7−13略)
敵にはあれど遺骸(なきがら)に
花を手向(たむ)けて懇(ねんご)ろに
興安嶺よいざさらば
15
亜細亜に国す吾日本
王師一度(ひとたび)ゆくところ
満蒙の闇晴れ渡る

 さすがに軍人の作った歌で、どこまでも自分たちが正義軍として「敵にはあれど遺骸に花を手向けて懇ろに」と、自分の思いやりまで誇っている。「満蒙の闇晴れ渡る」とは、敵の「匪賊」を打ち破っての感慨であろうが、敵としているその地の住民にとっては日本軍の支配という闇が覆いかぶさってきたわけで、そこからその支配に抵抗する人々(つまり匪賊=パルチザンやゲリラとも言う)が生まれるのである。だから彼らにとって匪賊と言われるのは心外でしかなく、余計に怒りに燃えるのではないか。現地側からすれば、日本軍こそ匪賊の集団であろう。特に昭和12年からの日中戦争では「敵にはあれど遺骸に」などの余裕はまったくなくなり、むしろ虐殺的行為が横行するようになる。

 6番の「我が友軍の飛行機」とは、すでに前年に日本軍が世界に先駆けて錦州に空爆を行っていて、それまで偵察や地上作戦の砲兵支援として使っていた飛行機を、直接空から攻撃する手段に使うという先例を示した。その後日中戦争に入ると、南京や重慶に空爆をし続けていて、太平洋戦争に入って日本が米軍から超大型の爆撃機によって集中的に大空襲を受けたのは、ずっと後のことである。

亜細亜(アジア)行進曲

 上記『討匪行』のB面で、作詞作曲は同じ、関東軍の国策軍歌である。

1
有色の屈辱のもと
喘へぐもの
亜細亜 亜細亜
奪はれし 吾等が亜細亜
2 
白人のみ 半絵印固め
滅び行く 亜細亜 亜細亜
奪はれし 吾等が亜細亜
3
失うは 唯 鉄鎖のみ
こぞり立ちて 亜細亜 亜細亜
十億の 吾等が亜細亜
5(4略)
望み御世 われらが日本
日本のみ 亜細亜 亜細亜
ほろびゆく 亜細亜を守る
7(6略)
満蒙は 今こそ叫ぶ
奮ひ立て 亜細亜 亜細亜
亜細亜のみ 亜細亜を救ふ

 つまり、白人世界に侵略され、「有色の屈辱のもと」滅びつつあるアジアを守るのは日本だけで、その根幹がこの日本が支配しつつある満蒙(満州と蒙古地域)にあるという意味である。しかしこの満蒙という日本が奪ったアジアの一角の地から中国の全大陸を含めた十億人の全アジアに連帯を呼びかけるという意味では、思想的に弱い。

護れ大空

 昭和8年(1933) 作詞:町田敬二/作曲:江口夜詩

1
太平洋よ 大陸よ
鵬翼(ほうよく)万里 敵を呑む
我が空軍の 精鋭を
誰か侮る 無敵国
護れ大空 日本の空を(繰り返し)
2
防備は固し 十重二十重
照空燈や 高射砲
聴音監視 阻塞網
空に帝都の 砦あり
護れ大空 帝都の空を
3
警報闇に 高鳴れば
燈火管制 厳かに
見よ不死鳥の 我が浄土
防護いたらぬ 隈もなし
護れ大空 我等の空を
4略

 すでに日本軍はこの二年前に起こした満州事変からすぐにその一角の錦州に空爆を仕掛け、世界を驚かせている。まだ複葉機の時代で、本格的な戦闘機のない時代であるが、太平洋戦争(大東亜戦争)の終盤期に米軍から受けた空爆を予見するかのように日本の空を護れと言っている。まだレーダー(電波探知機)がない時代で、聴音監視阻塞網という古めかしい言葉がある。また照空灯や高射砲の言葉もあるが、すでに開発されていたということである。夜の灯火管制もほぼ10年後に国内で実施された。ただ「防護いたらぬ 隈もなし」とはならず、隙だらけで、「愛国高射」は敵の超空爆撃機B29に届かず「微塵に砕」かれたのはほぼ日本側であった。

 もっとも日本軍は、この4年後の日中戦争(支那事変)に入ってから、中国の上海や南京、武漢、重慶、広州等中国の各都市に本格的な空襲を開始し、それを8年間続けた。日本が米軍から本格的空襲を受ける7年前から、中国の人々に対してそれをはるかに上回る空爆の悲劇を味わせていたことは、日本ではほとんど知られていない。(筆者の「中国における日本軍の年月日別空爆記録」参照)

急げ幌馬車

 昭和9年(1934) 作詩:島田芳文/作曲:江口夜詩/歌:松平晃

1
日暮れ悲しや 荒野は遥か   
急げ幌馬車 鈴の音(ね)だより   
どうせ気まぐれ さすらい者よ   
山は黄昏 旅の空
2
別れともなく 別れて来たが   
心とぼしや 涙がにじむ   
野越え山越え どこまで続く   
印(しる)す轍(わだち)も 片あかり
3
黒馬(あお)は嘶(いなな)く 吹雪は荒れる
さぞや寒かろ 北山おろし
なくな嘆くな いとしの駒よ
なけば涙も なおいとし

 軍歌ではないが、この歌の背景にあるのは日本軍の占領によって日本から移住した満州の開拓団である。日本政府は満州事変によって満州国を建国し、「王道楽土」「五族協和」などをスローガンに国策として満州国への開拓移民を募った。貧しい農民を中心に約30万人が送り込まれた。そこでアメリカの開拓移民の幌馬車にイメージを託して、哀愁漂うメロディーで作られたが、実際の移民団の姿ではない。あくまで日本から遠い新たな開拓地に向けて、農業移民団とは違う、この頃に生まれていた大陸浪人的な人々の心境を歌ったもので、それなりにヒットした。次に掲げる歌も同類である。

国境の町

 昭和9年 作詞:大木惇夫/作曲:阿部武雄/歌:東海林太郎

1
橇(そり)の鈴さえ 寂しく響く
雪の曠野(こうや)よ 町の灯よ
一つ山越しゃ 他国の星が
凍りつくよな 国境(くにざかい)
2
故郷はなれて はるばる千里
なんで想いが 届こうぞ
遠きあの空 つくづく眺め
男泣きする 宵もある
4(3略)
行方知らない さすらい暮し
空も灰色 また吹雪
想いばかりが ただただ燃えて
君と逢うのは いつの日ぞ

 同様な『国境を越えて』という歌もあるが、当時の満州の国境の町とは、中国黒竜江省東南部に位置するロシアに接している綏芬河(すいふんが)という都市で、ハルビンからウラジオストクに通じる旧東清鉄道の中国側最初の駅があるため、貿易の要衝であって、当然日本軍も駐留していた。そこに国策に乗じて稼ぎを得ようとする多くの日本の民間人が移住してきていてその中には大陸浪人と言われる人々もいた。この歌に合わせるような『綏芬河小唄』という歌もできた。

 その歌は居留民相手に居酒屋などで三味線を弾いて暮らす女性の気持ちを歌い、「流れ流れて綏芬河 月も冷たい国境 苦労しろとて母さんが 産んだ私じゃないけれど / 恋はひとすじ三味線の …」(作詞:西條八十/作曲:佐々紅華)となっている。

侵攻された側の歌

 日本側の軍歌ばかりでは片手落ちなのでいくつか挿入する。

抗日救国歌

 昭和9年(1934)頃

 満州国は昭和7年に日本軍によって建国され、9年に溥儀を皇帝として満州帝国とされた。これに即して建国祭が行われ、街には日満の国旗が飾られ、式典や祝賀大会が開催された。こうした日本側の祝賀ムードに対して、地元では危機感をもった歌が作られていた。

空は昏く 陽は光なし
国土は今は倫亡の 関頭にたちておののけり
江山寂々声を呑み 四億の民の哀泣に
歴史のしたたる血の色や
革命いまだ成らざるに
東北すでに敵の有となる
天も聞け!民族の慟哭!惨また惨
敵は虎狼の爪をとぐ 肥沃富饒の華北の地
今まさに蹂躙されんとす
危きかな祖国 危きかな祖国
われら書物を抛(なげう)って
祖国の危機に立たざれば
父祖の国土を如何せん

 関頭=物事の重大なわかれめ、岐路。四億は当時の中国の人口。「東北」とは中国の東北部、満州のこと、「華北」もその南側の黄河が流れる地域。他国に制圧された側の人々は、常にこのような心情にあったことは歴史上の事実であり、必ず住民の抵抗(レジスタンス)運動が始まることも必然である。それを制圧側は反乱者としてさらに圧政を強めるが、多くの犠牲を払いながら、最後には地元民が勝つのも歴史的事実である。

 ちなみにその日本側の建国祭に合わせて作られた詩がある。

—— 「興れよ起てよ 建国の声はあがれり 気は満ちぬ 共和の楽土なごやかに 栄よ来たれ諸民族 とどろと歌え / 日は若く国は新し 大満州 自由の天地 今日ここに 蕩々として光あり」(北原白秋)

 制圧した側の「共和の楽土」に対し、制圧された側は「四億の民の哀泣」となり、「自由の天地」は「敵の有」であり「祖国の危機」以外になく、「来たれ諸民族」は地元「民族の慟哭」、「光あり」は「光なし」となっている。これほど立場によって精神的に真逆の違いがあることは、現代の我々は知っておかねばならない。(詞は二点とも『はじけ!鳳仙花』富山妙子:筑摩書房より転用)

 今ひとつの歌。

抗日行進曲』(中国)

われらは生きねばならぬ われらは戦わねばならぬ
われらは 祖国解放を担うすぐれた一群だ
さあ手に手をとり さあ肩を支え合い
鉄の陣営を築こう 刀は光る 旗はきらめく
馬はいななく 馬は高らかにいななくの
頭をあげ 足を踏みしめ 前進しよう
ファシストどもを一掃しよう
日本の強盗をわれらの地より追いだそう

(「アジア民衆の反日・抗日のうた」 立命館教授:鵜野 祐介研究資料からの転用)

 日本が仮に他国に侵略されたら、同じような歌が多く生まれたことだろう。そう思えば、太平洋戦争後の(憎き敵)米国を中心としたGHQ占領軍が、いかに「善政」を敷いていたかがわかる。戦争には敗れたが、日本は幸運であった。これが仮に当時のソ連(ロシア)に占領されていたら、日本の戦後社会は悪夢の中に放り込まれていたであろう。

義勇軍行進曲』(中国)

 昭和10年(1935) 作詞:田漢/作曲:聶耳

 これは日本軍が占領した満州を超えて、河北に侵攻してきたときの学生を中心とする抵抗運動(十二・九運動)の時に歌われたもので、戦後の1949年、中国人民共和国が設立された時に暫定国歌として採用され、2004年に正式な国歌となった。

起て!奴隷となることを望まぬ人びとよ! (起來!不願做奴隸的人們!)
我らが血肉で築こう 新たな長城を! (把我們的血肉,築成我們新的長城!)
中華民族に最大の危機せまる (中華民族到了最危険的時候)
一人ひとりが最後の雄叫びをあげる時だ (毎個人被迫着発出最後的吼声)
起て!起て!起て! (起来!起来!起来!)
我々すべてが心を一つにして (我們万衆一心)
敵の砲火に向かって進め! (冒着敵人的炮火、前進!)
敵の砲火に向かって進め! (冒着敵人的炮火、前進!)
進め!進め!さあ進め! (前進!前進!進!)

 作曲者の聶耳は、音楽活動をしながら共産党の運動に参加、この年に抗日愛国映画『風雲児女』の主題歌として使われた。映画も歌も大ヒットするが、彼はその完成まえに蒋介石国民党政府の特務機関に追われて(中華民国=国民党政府の国内の最大の敵は共産党であった)日本に亡命し、すでに獄中にいた田漢が密かに送った歌詞に合わせてこの曲を作った。しかし7月に藤沢の鵠沼海岸で遊泳中に24歳で事故死した。昭和12年に始まった日中戦争中も抗日歌として広く歌われ、人々の間に浸透していった。文化大革命中は、歌詞は毛沢東賛歌に変えられたが、現在は元に戻された。

 ちなみにこの国歌の背景は中国人は小学校で教えられてみんな知っているが、われわれ日本人はほとんどこの事実を知らない。いずれにしてもこの歌が象徴するように、現在の中国共産党国家は日本軍の長期にわたる侵略があって生まれた、あるいは大いに貢献したと言っていい。実際に毛沢東は「日本軍は皇軍という神聖な軍隊だったようですが、感謝申し上げますね。(中国共産党を)よく教育してくれました」と日本の作家、開高健の取材に対して語っている。

 ちなみに作詞の田漢も映画監督の許幸之も日本への留学経験があった。また彼が事故死した湘南海岸公園(県立公園)の東端に聶耳記念広場があり、ここに藤沢市民により聶耳記念碑が建てられている。

 ついでながらフランス国歌の『ラ・マルセイエーズ』は、18世紀末(1935年の140年前)のフランスの第二革命時、パリ入城を果たしたマルセイユ義勇兵によって歌われたのをきっかけとして広まり、さらに国歌となった。

ラ・マルセイエーズ

 1792年 作詞・作曲:ルージェ・ド・リール(工兵大尉)

いざ祖国の子らよ
栄光の日は来たれり!
暴君の血染めの旗が翻る
聞こえるか 戦野の凶暴な兵達の怒号が?
我等が子や妻の喉をかっ切ろうと迫り来たれり!
武器を取れ、我が市民たちよ!
隊列を整えよ!
進め!進め!
敵の汚れた血で耕地を染めあげよ!

 中国の「起て!我々すべてが心を一つにして、敵の砲火に向かって進め!」という歌詞の調子と、この『ラ・マルセイエーズ』はほぼ同じであり、またどちらも主体的に参加した義勇軍としての歌である。このあたりが軍政府によって作られた戦争の日本の軍歌と様子が違う。

故郷を思う』(朝鮮)

 昭和5年(1930) 作詞・作曲:玄済明/訳詞:笠木透

山を見るなら ふるさとの山 川を見るなら ふるさとの川
奪われた祖国を 取りもどすまで 帰りはしない ふるさとの村
母を思えば ふるさとの家 父を思えば ふるさとの畑
戦いつづけて 荒野にねむる 夢を見るなら ふるさとの夢
空を見るなら ふるさとの空 花を見るなら ふるさとの花
たとえ異国に果てるとも  いつの日にか帰らん ふるさとの土

 朝鮮を占領している日本軍に召集されて、中国戦線で「戦いつづけて」いる朝鮮軍兵士の心境を表している。故郷を思う気持ちは、どの国のどんな立場の前線に立つ兵士も同じである。

涙にぬれた豆満江』(朝鮮)

 昭和10年(1935) 作詞:金用浩(訳詞:笠木透)/作曲:李時雨)

豆満江の流れに呼びかけてみる 舟に乗って渡って行った
あの人はどこへどこへ行ったの あの人はあの人はいつの日帰る
月の光に流れる夜の川 涙にぬれて光っているよ
あの人はどこへどこへ行ったの あの人はあの人はいつの日帰る
豆満江のほとりにまた秋がきて 紅葉をうつして 川は流れる
あの人はどこへどこへ行ったの あの人はあの人はいつの日帰る

 豆満江は中朝国境の白頭山に源を発し、中国、朝鮮(北朝鮮)、ロシアの国境地帯を東へ流れ日本海に注ぐ河川である。つまり日本軍に召集されて満州に渡って行って中国軍と戦っている「あの人」は、役目を終えていつ帰ってくるのだろうという歌である。(以上二点は「アジア民衆の反日・抗日のうた」 立命館教授:鵜野祐介研究資料からの転用)

*なお、朝鮮における抵抗運動の歌は、「大正時代後半の軍歌」の中にも掲載している。

日本国内の出来事・様相(昭和2−10年:1927-1935)

概要

 昭和2年(1927)は大正12年に起きた関東大震災の処理のために不良債権が増え、金融不安が生じて昭和金融恐慌が発生、さらに翌年に勃発した世界恐慌が日本にも波及し、日本経済は深刻な不況に見舞われ、銀行や企業の休業や倒産が続出し、失業者が急激に増大した。その最中の昭和6年(1931)に満州事変が起こり、その戦時経済体制によって翌年には恐慌を脱出する。別途、昭和2年にそれまでの徴兵令が「兵役法」に改正された。これにより、従来は3年であった現役服役期間が2年に短縮され、その分実際に徴兵される人数を増やし、有事における大量の兵力獲得を目指した。この兵役法では、17歳から40歳までの男子に対し兵役の義務を定めた。

 昭和3年の張作霖暗殺事件の実情は国民には知らされなかったが、政府内で事件の責任者を処分すると発表、しかし陸軍の抵抗で首謀した河本大佐を停職として軽い処分にとどめた。この処分に昭和天皇は立腹し、「それでは前と話が違うではないか、辞表を出してはどうか」と強い語気で叱責した。翌日、田中内閣は総辞職し、田中本人は3ヵ月後に亡くなる。この結果を天皇自身が反省し、その後昭和天皇は内閣や軍部が一致して決めたことに余計な ことを発言しないという立場を守り抜いた。結果、天皇の名前は軍部に利用されるままとなった。ただ戦後になって昭和天皇は、この事件からこの後の戦争の拡大が始まったと後悔される発言があり、2019年になってその記録が公表された。

 昭和6年6月4日、天皇は陸軍大臣を呼んで「軍は軍規をもって成り立っている。軍規が緩むと大事を引き起こす恐 れがある。軍記を厳正せよ」と訓令した。さらに当時の若槻首相に対しても、「満蒙問題については不穏な言動が盛んだが、日中親善を基調にすることを忘れないように」と語っている。この頃から天皇は戦争への警戒を強めていることがわかるが、軍政府が天皇の忠告を謙虚に受け止めて行っているようには見えず、事実、この3ヶ月後には満州事変が勃発する。

 そして満州事変の翌年1月、昭和天皇は「満州事変に際し関東軍に賜りたる勅語」渙発し、これをもって「東洋平和の基礎を確立」するようにとある。この1月初旬、関東軍参謀の板垣征四郎が上京して満州国建国構想を打ち出すなどして関東軍の暴走を言葉たくみに正当化して、よってたかって天皇を説得した成果であろう。前年の9月、天皇自身が「すべて非は 向こうにある、という態度で臨んでいては円満な解決はできない。とに かく軍規を厳重に守るように」との注意をしたにもかかわらず、この「東洋平和のため」のような建前が、正義という言葉とともに戦争を仕掛ける側の常道手段としてのさばり、これが6年後の日中戦争に至り、最終的に太平洋戦争を呼び込み、日本を破滅に導いて行く。

 国内では昭和3年(1928)6月に治安維持法が改定され、社会の変革を目的とした結社に関係する者は、それまでの最高刑無期懲役を死刑とした。これは民主主義や自由主義も対象となった。同年7月、全府県の警察署に特別高等課が設けられ、これが治安維持法施行の実践部隊、「特高警察」として国民の思想活動の取り締まりを行い、疑いがあるとされる人々を次々と摘発、拷問まで加えるようになる。同時に各地方裁判所に思想係検事を設置、これに応じ文部省も大学生の思想対策強化を図る。この特高警察は日本の敗戦まで一般人の言動(単純に戦争を批判する言動)に目を光らせた。この特高警察に相応する軍隊内部の警察としては憲兵が存在し、その陸軍の憲兵司令部は翌4年末に思想対策強化を図り、例えば帝国議会の開会中にも政府や軍部に批判的な政党・議員の発言を確認することも憲兵の任務になった。さらに憲兵は海外の占領地の治安維持の任務を負い、占領地で逮捕した容疑者を裁判に付さず憲兵隊が独断専行で処刑するケースも横行した。その結果、戦後にBC級戦犯(主に海外の占領地にいた将兵たち)として死刑になった約1000名近くのうち、憲兵は約3割とされる。

【昭和恐慌と続く凶作による娘の身売り】

 昭和5年(1930)、前年の世界恐慌の影響がこの年に日本にもおよび、昭和恐慌となった。株も急落、物価も下落し、多くの中小企業が倒産 に追い込まれ、大企業も賃金の引き下げや解雇をするなどで、街には失業者があふれた。それにより当時の農家の主力産業であった生糸の価格が暴落し、続いて米の価格が暴落、農家の生活を直撃した。これに加え、昭和6年、満州への介入戦争で多大な戦費(国費)を浪費しつつあるこの年、東北・北海道地方では冷害が襲って凶作となり、農家の困窮は一層深刻化し(飢餓地獄とも言われた)、欠食児童(学校給食がない時代で、弁当が持ってこれない)が増えたばかりか、生活苦にたえかねた農家は、娘を子守女・女中・紡績女工・醜業婦(都市の芸娼妓、酌婦、女給などへ)などに奉公させて前借りをするという、いわゆる「身売り」が多発した。ある村では四人に一人の娘が売られたと言い、秋田県では約一万人の15歳未満の離村女子が出た。翌7年の東京日日の記事によると、7000人の娼妓のうち、876人の山形を筆頭に、東北六県と北海道をあわせると娼妓の4割6分を占めていた。

 またこれにより農家の次男、三男は安定した軍隊に入るものが増え、軍事増強の時代には好都合であったが、このような農村から入隊した青少年に同情した青年将校達の中に 国家改造の思想が生まれてきた。一方で労働争議も多発、ストライキの件数が激増し、その中で共産党の活動が増え、それを政府がさらに弾圧するという悪循環の構図も生まれてきた。

 昭和6年の満州事変は、今の時代から見ると国民に苦難を強いる長期の戦争への始まりであったが、当時の国民にとっては日本という国が世界に躍進していくように見える大きな出来事であった。それによって不況の中でも軍への献金ムードが高まり(新聞社がそれを推進した)、まず一つの青年団から陸軍用に飛行機二機(スウェーデン製とドイツ製)が購入され、愛国一号と二号と名付けられた。この後も小・中学校や女学校、大学、さらに新聞社を通じての献金が次々と行われ、中には私学校1校での献納もあり、ほぼ昭和19年、つまり終戦の前年まで続けられる。そのうち区市町村では割り当てによる半強制になったという。全体で陸軍の愛国号は約1900機、海軍では「報国号」と名付けられて献納され、総数が6000機弱という。また献納は飛行機以外にも、機関銃や高射砲、軍用自動車・装甲車、患者輸送車、はては艦船まで、様々な物資で行われた。

 昭和9年、三年前に昭和恐慌の影響と凶作で東北の農民が大きな被害を受けたばかりであったが、この年も冷害で凶作となった。東北の冷害、西日本の旱害(干ばつ)、室戸台風の水害で全国的に凶作となり、米は1910年(明治43年)以来の少ない収穫量となった。そして再び東北では娘の身売り、欠食児童、行き倒れ、自殺などが激増する。 例えば、青森県下から芸娼妓に売られていった10代の娘たちは7083人とされ、秋田県保安課がまとめた娘の身売りの実態によると、1万1182人で、前年の4417人に比べて2.7倍になっている。こうした一方で軍需景気で工場増築が盛んとなっていた。

年別の出来事(昭和2−10年)

<昭和2年>(1927)

 3月:元巡洋戦艦の赤城が航空母艦に改造されて完成(その後昭和17年6月のミッドウェー海戦で雷撃を受け沈没)。

 5月:江東区亀戸の東洋モスリンの工場で、女子工員の自由外出を求めた争議が起こり、会社側は認め、解決した。ほとんどは田舎から働きに出てきた若い女性たちで、休みの日も外出が認められていなかった。

 7月、日本航空輸送旅客機が初飛行。

 8月、警視庁がカフェの手入れを行い、モダンボーイやモダンガールなどの服装を理由に、150人を風紀違反で検挙する。
同月、甲子園球場での第13回全国中等(現高校)野球大会において、初のラジオ中継が行われる。

 8月、広島県の大久野島に、陸軍造兵廠火工廠派出所が設置され、毒ガス製造へ(1931年に起こる満州事変から使われる)。この工場は日中・太平洋戦争下でも継続され、ほぼ終戦の前年(1944)まで毒ガスは製造された。

 9月:富士裾野で特殊弾効力試験(毒ガス演習)が行われた。

 9月:宝塚少女歌劇団でレビューショー「モン・パリ」が上演され、大好評となる。

 12月:日本で初めての地下鉄、浅草−上野間(後の銀座線)が開通する。

◯この年までに陸軍では軍用飛行機のライセンス生産を含め600機が作られていた。これに加え海軍では約500機、民間で100機があり、合計約1200機とされていた。それに対し列強諸国はフランスで3000機、アメリカで2600機、ソ連1600機、イギリス1500機、イタリア1400機(いずれも軍用機のみ)で、日本はまだ見劣りしていた。日本陸軍としてはまだ航空兵力の増強にはさほど関心がなく、逆に海軍はここから増強に力を注ぎ、その航空兵力は逆転していく。

<昭和3年>(1928)

 2月:初の普通選挙による総選挙実施、ただし男性の25歳以上のみ。(それまでは一定以上の納税額の者にしか資格がなかった)

 3月15日:大正14年(1925)に施行された「治安維持法」を初めて適用し、全国で共産党関係者1568人を一斉検挙、483名を起訴した(三・一五事件)。

 3月:航空母艦に改造された加賀が竣工。

 4月:海軍は航空母艦・鳳翔と赤城の2隻に駆逐艦一隊を付けて、第一航空戦隊を編成した。

 4月:政府は労働農民党・日本労働組合評議会・全日本無産青年同盟を共産党の外郭団体として治安警察法により解散命令を発令。また東京・京都・九州・東北各帝大の学内の思想研究会も解散させる。

 6月:大正14年に施行された治安維持法が改正公布され、「国体」(天皇を宗主とする日本国の体制)の変革を目的とした結社を組織した者あるいはその指導者として活動した者は、それまでの最高刑の無期懲役から死刑とした。

 7月:全府県の警察署に特別高等課が設けられ、治安維持法施行の実践部隊として取り締まっていく。

 同月:オランダで開催されたアムステルダムオリンピックの日本選手団54人が参加し、金メダルを6人が初めて獲得した。

 9月:内務省、鉱夫労役扶助規則改正を公布し、婦人・年少者の深夜業と坑内作業を禁止。しかし、太平洋戦争が始まる頃には軍需産業への労働者が足りず、撤廃されることになる。

 10月:西の宝塚少女歌劇団を意識して「東京松竹楽劇部」が発足(後のSSK=松竹少女歌劇団、戦後にSKD)。

 11月:陸軍観兵式において重爆・軽爆・偵察の各機91機、戦闘機69機、計160機が大編隊を組んで帝都の空を覆った。

<昭和4年>(1929)

 1−3月:街には失業者が溢れ、抗議活動が行われ、大学卒業者の就職難も深刻(東大卒の就職率30%)、その後映画『大学は出たけれど』の封切で流行り言葉となる。

 5月:日本で初めてのトーキー(音声付き)映画『進軍』、『南海の唄』(いずれもアメリカ作品)が上映される。

 6月:拓務省が新設され、台湾・朝鮮・樺太・南洋の植民地政策と満州事変後の満蒙開拓団などの集団移民政策を統治することになる。

 7月:文部省は学生の思想対策強化のため、社会教育局設置、学生課を部に昇格する。

 8月:ドイツの大型飛行船「ツェッペリン伯号」が世界一周の途中、霞ヶ浦海軍飛行隊施設に降り立ち、これを見ようと上野から土浦まで臨時列車が出て、30万もの人々が出迎えた。

 9月: 小林多喜二の『蟹工船』が出版され、反響を呼ぶが、後に発売禁止となり、4年後小林は逮捕され、拷問死する。

 同月:全国反戦同盟員が銀座で戦争反対デモを行い検挙者が多数出る。

 10月:9月に竣工した豪華客船浅間丸が横浜からサンフランシスコに向けて出航し、太平洋横断の速度記録を作った。その後太平洋戦争により浅間丸は軍の徴用船として運用され、1944年10月、アメリカの潜水艦の発射した魚雷が命中して沈没した。1000人以上が護衛艦などに救出されたものの、500人以上が海に沈んだ。

 10月24日:ニューヨークの株式市場が大暴落、米国内の銀行が破綻し、世界恐慌となる。生糸価格も崩壊し、輸出に依存していた農家にも大打撃を与える。

<昭和5年>(1930)

 4月:海軍は航空兵力の増強策の一つとして、小学校高等科卒業生(14歳以上)を対象に、3年の課程で飛行搭乗員を養成する飛行予科練習生を募集、80名の募集に対して100倍近くの応募があった。6月、第一期生として横須賀海軍航空隊へ入隊した。これを少年飛行兵と呼ぶが、のちに予科練習生つまり「予科練」として少年の憧れの的となる。終戦までの15年間で14歳以上約24万人の若者が入隊し(つまりこの後の戦争拡大によって大幅に採用人数は増えていった)、うち約2万4千人が飛行練習生課程を経て戦地へ赴き、太平洋戦争終盤には特別攻撃隊として多くの若者が出撃、戦死者は8割の1万9千人にのぼった。

 5月:日本の飛行機「青年」号が立川発、モスクワ、ベルリン、ブリュッセル、ロンドン、パリ、マルセーユ、ローマまでの飛行に成功(1万3900km)。

 7月:海軍技術研究所が神奈川県平塚に化学兵器(毒ガスや細菌兵器)研究室出張所を設立。 8月:日本政府は恐慌による農村救済のため7000万円(現在の価値で数千億円程度)を融資

 同月:逓信省が東京・大阪間で写真電送を開始、これで戦地からの新聞報道が迅速になされるようになる。

 9月:関東大震災から7年後に「震災記念堂」が墨田区に完成し、納骨堂に3万人が合祀され、追悼・落成式が行われる。後の東京大空襲による行方不明の遺骨も合祀されることになり、東京都慰霊堂となる。

 同月:コメが大豊作となり、結果的に米価が急落し、不況に拍車がかかった。

 10月:東海道線の東京ー神戸間に特急つばめが運行開始、最高時速96kmで、8時間55分で結ばれる。

 11月:浜口雄幸首相が、東京駅ホームでロンドン海軍軍縮条約批准に反発した愛国社員に狙撃され死亡。

<昭和6年>(1931)

 1月:全国の学校に天皇皇后両陛下の「御真影」配布が始まる。この御真影は雑誌の付録にも登場し、各家庭に掲げられることもあった。その後御真影は特別の建物に収められることになり、生徒は登下校時に立ち止まり敬礼することが義務となる。

 2月:婦人公民権案を衆議院で可決するが、3月24日に貴族院で否決される。婦人の参政権は戦後まで実施されることはなかった。

 3月:大日本連合婦人会結成、婦人報国運動のための組織として全国の主婦の動員を目的とする。

 6月:上野駅前に地上9階地下2階の地下鉄ストアビルが完成、上野駅に直結する地下道も併設した。これらの地下道が、敗戦後、戦争と戦災で親と家を失った孤児たちの溜まり場となり、国の助けもなく、その多くがここで餓死や病死することになる。

 8月:第1回日米対抗水泳競技会、神宮プールで挙行。 40対23で日本が勝利する。

 同月:米国のリンドバーグ夫妻が水上飛行機で霞ヶ浦に着水。リンドバーグはこの4年前にニューヨーク— パリ間の単独無着陸横断に成功し、世界的にも大きな話題となっていて、日本でも大歓迎を受けた。

 9月:上越線の清水トンネル(9702mで当時世界最長)、10年の工期をかけて開通(犠牲者49人)。

 同月:満州事変の第一報が初のラジオ臨時ニュースとして流される。その影響で、株式や商品相場が暴落する。

 10月:政府の満州事変「不拡大方針」に反対する軍部のクーデター計画が発覚、未遂に終わる。

<昭和7年>(1932)

 1月18日:天皇による「満州事変に際し関東軍に賜りたる勅語」渙発

 2月:政財界の要人が多数狙われる血盟団事件発生。

 2月末:第一次上海事変の最中、満州事変に関するリットン調査団が来日。その後調査団は上海、南京、北京の視察を行い、各要人と会い、視察は1932年6月に完了。

 3月1日:関東軍により満州国建国が宣言された。これにより日本は台湾、朝鮮に続き三国を植民地にしたことになる。

 3月:犬養内閣は「満蒙は中国本土から分離独立した政権の統治支配地域であり、逐次国家としての実質が備わるよう誘導する」と閣議決定した。

 同月:大阪で「国防婦人会」が結成される。その後「大日本国防婦人会」に発展し、1000万人を超える会員となる。

 4月:陸軍軍医学校に防疫研究室が設立される。のちに日本の支配する満州への出先機関として関東軍防疫班が組織され、細菌兵器研究の延長で捉えた捕虜に対して人体実験などを行う通称731部隊となり、1937年の日中戦争の拡大により、日本軍の進軍・攻撃に合わせて細菌作戦を展開し、毒ガス作戦とともに大きな禍根を残していくことになる。

 5月15日:武装した海軍の青年将校たちが陸 軍士官学校の生徒たちを動員してクーデターを起こそうとし、首相官邸、内大臣官邸、政友会本部、日本銀行、警視庁などを襲撃し、結果的に首相の犬養毅を殺害した。狙いは政治家 たちの腐敗を正すということであったがすぐに終息、軍籍をもつ犯人は憲兵隊に自首し、軍法会議において海軍は被告らに 10−15年の禁錮、陸軍は全員禁錮4年とされたが、この首謀者たちは国民の同情を買い、刑は軽いものであった(五・一五事件)

 6月:警視庁、特別高等警察部(特高警察部)設置の勅令を公布。国民の言動への監視が強まる。

 6月14日:衆議院本会議において、満洲国承認決議案が全会一致で可決される。

 7月:ロサンゼルスオリンピックが開催され、男子競泳は、日本勢が400メートル自由形をのぞく5種目の金メダルを獲得した。その他で合計18個のメダルを獲得、まだ競技数が少ない中での快挙であった。

 8月、陸軍飛行学校で年少の飛行兵を養成することになり、応募者は海軍の予科練と同様、操縦生徒が70名定員の約50倍、技術生徒が100名定員の約64倍という応募があり、合格者は翌年2月に埼玉県の所沢陸軍飛行学校に入校した。後に少年飛行学校となる。

 10月:東京市が府下5郡82町村を合併し、東京市は15区から35区になり、府としての人口は約500万人でニューヨークに続く世界大2位の都市となる。

 10月:満州第一次武装開拓団(移民団)416名が出発。満州の開拓にあたって、先に訓練で武装した若い団員を結成して「匪賊」に備えたものである。(この年、軍歌『討匪行』が発表される)

<昭和8年>(1933)

 1月:河上肇など著名教授二人が思想問題で検挙される。同様にこの年、10名程度の教授が検挙か罷免、停職となった。言論弾圧の対象が共産主義以外の自由主義、民主主義も含めて大学の自治にまで及ぶことになった。

 2月:二・四事件(教員赤化事件)。 長野県下で共産党シンパとされた教員の一斉検挙開始。4月までに65校138名が検挙された。

 2月20日:作家の小林多喜二が治安維持法違反容疑で特別高等警察(特高)に逮捕され、東京築地署での半日の徹底した拷問により虐殺された。(後述)

 2月24日:国際連盟総会で、日本軍の中国からの撤退を求める報告案に対して賛成42、反対1、棄権1という形で評決され、反対票を投じた日本代表は議場から退場、3月27日に国際連盟脱退を通告した。

 3月3日:三陸沖地震発生。津波と火災で死者3021、不明43、負傷968名。

 3月23日:ドイツ国会、ヒトラーに全権委任法可決、独裁政権が生まれる。

 4月:新「小学国語読本」が作成され、使用開始。国家主義・軍国主義の色彩を強化する。

 同月:大日本国防婦人会、5万人の労働婦人の参加申込みを得る。

 同月:文部省、盛岡・三重・宮崎の各高等農林学校に拓殖訓練所を設置。満蒙や南米への農業移住者の訓練を進める。

 4月27日:国際連盟脱退を宣言して帰国した松岡洋右全権大使を新聞各紙と国民は「英雄」のように出迎えた。自国の名誉が守られたのだから国際社会で孤立しても構わないという威勢のいい言説が国内で主流となっていた。

 4月28日:陸軍飛行学校生徒教育令公布、少年航空兵制度始まる。

 4月29日:天長節(明治天皇誕生日)の日、学生2万人も参加して日比谷公園で国際連盟脱退詔書奉戴式が挙行される。

 6月:丹那トンネル完成。全長約7804m、工事中の犠牲者67人。翌年12月に開通。

 7月:文部省、『非常時と国民の覚悟』を外務、陸軍、海軍各省と共 同編纂して、学校などに配布

 7月20日:陸軍省、満州事変勃発以来の戦死・負傷者を発表(戦死2530人、負傷6896人)

 8月9日:第1回関東地方防空大演習

 8月23日:採用を開始した陸軍少年航空兵の倍率が57倍 (定員170名に9731名が応募)

 9月30日:極東反帝反戦反ファシズム大会を上海で開催。日本代表も参加。

 10月14日:ドイツがジュネーブ軍縮会議から脱退、同時に国際連盟脱退を表明。

 11月28日:共産党委員長、野呂栄太郎が検挙され、翌年2月19日獄死。

 12月23日:皇太子明仁(平成天皇)誕生。電光ニュースや花電車で祝賀気分高まり、昼は旗行列、夜は提灯行列が行われる。

<昭和9年>(1934)

 1月:東京日比谷に地上6階、地下1階、収容人員2810名という東京宝塚劇場が開場、公演は大成功。

 2月:有楽町に日比谷映画劇場がオープン。

 3月21日:函館市で大火が起こり、死者行方不明者2716名、焼失家屋24186戸、市街地の三分の一が焼失。

 5月:近衛文麿貴族院議長、親善大使として訪米。6月8日ルーズベルト大統領、ハル国務次官と会談。

 同月:出版法改正が公布され、これによってレコードも出版物とみなされ、言論統制の対象となり、レコード会社は発売前に内務省に提出し、検閲を受けることになった。

 5月以後:東北地方を中心に冷害と不漁が相次ぎ、深刻な凶作となって飢饉が発生する。

 6月:文部省、 学生部を拡充して思想局 (思想課・調査課) を設置

 8月:石川島飛行機製作所で、純国産飛行機の第1号となる95式1型練習機が完成する。別名「赤とんぼ」と言われ、昭和18年まで2398機が製造される。

 9月:室戸台風が四国から京阪神にかけて上陸し、死者行方不明者3246人、4万戸が全壊する被害となる。

 10月:警視庁は学生・生徒・未成年のカフェー出入り禁止を通達する。

 10月:陸軍省がパンフレット「国防の本義と其強化の提唱」を60万部配布した。書き出しは「戦いは創造の父、文化の母である」という非創造・文化的な表現で始まる。

 11月2日:米大リーグ選抜チーム(ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックス等)が来日し、日本のチームと親善試合を各地で行う。日本は16戦全敗に終わった。

 11月20日:陸軍青年将校のクーデター事件発覚(士官学校事件)。日本陸軍の陸軍士官学校を舞台として発生したクーデター未遂事件。

 12月3日:日本はワシントン海軍軍縮会議条約の単独破棄通告を決定。 続く12/19、ロンドン軍縮会議でも決裂、軍縮協定を一方的に破棄する。続いてイタリアも脱退したことで、1938年に残った米英仏の三国は諸々の制限を緩和し、世界的に軍拡の道に突入することになる。

<昭和10年>(1935)

 1月:衆議院で「ジャパン」という呼称は「我が帝国の威信を損する」もので、国号の標記を「大日本帝国」(The Empire of Japan)とすると決定したが、海外で認められることはなかった。

 2月18日、貴族院本会議で、美濃部達吉議員(東京帝国大学名誉教授)の論説「天皇機関説」を天皇への不敬であるとして、糾弾した。

 2月:物理学者湯川秀樹が「中間子論」を発表し、戦後、日本人初のノーベル賞を受賞する。

 3月4日:共産党中央委員の袴田里見が特高に検挙され、共産党は壊滅する。

 4月6日:満州国皇帝の溥儀が軍艦比叡にて来日、東京駅では天皇陛下が出迎え、街では提灯行列や花電車がお目見えする。

 5月1日:第16回目のメーデーが行われるが戦前最後となる。

 5月22日:日本陸軍拓務省は15年以内に東北満州へ10万世帯50万人の移民計画を発表。

 6月1日:NHKが米国西海岸やハワイ向けの海外放送を開始する。

 8月:前年改定された出版法により、『のぞかれた花嫁』(同名映画の主題曲)の歌詞に問題があるとして歌謡曲の発売禁止処分第一号となる。

 12月8日:警視庁は550人体制で京都綾部の大本教本部を治安維持法違反で急襲し、出口王仁三郎や幹部らを逮捕した。神殿はダイナマイトなどで破壊され、大本教は解体される。

 12月9日:日英米仏伊による第二次ロンドン海軍軍縮会議開催

童謡・流行歌(昭和2−10年:1927-1930)

 大正時代に隆盛だった童謡・唱歌は、引き続き多く作られていたが、のちに残る歌が極めて少なくなる。その代わり、歌謡や叙情歌が隆盛を迎えるが、それもこの10年単位であって、昭和12年に日中戦争が始まる頃にはほぼ軍歌一辺倒となる。この時代からはレコードによるヒットが多くなる。

童謡・唱歌

赤とんぼ』 昭和2年(1927) 作詞:三木露風/作曲:山田耕筰

 大正10年に作られた三木の詩に山田が曲をつけた。

—— 「夕焼小焼の赤とんぼ 負われて見たのはいつの日か /… 十五で姐(ねえ)やは嫁にいき お里のたよりも たえはてた」

『この道』 昭和2年 作詞:北原白秋/作曲:山田耕筰

—— 「この道はいつか来た道 ああそうだよ あかしやの花が咲いてる」

『月の沙漠』 昭和2年 作詞:加藤まさを/作曲:佐々木すぐる 大正12年に雑誌『少女倶楽部』に発表した加藤の詩に、若手作曲家の佐々木が曲を付けた。

—— 「月の砂漠をはるばると 旅のらくだが行きました 金と銀との くら置いて 二つならんで 行きました」

『毬と殿さま』 昭和4年 作詞:西條八十/作曲:中山 晋平

—— 「てんてんてんまり てんてまり てんてんてまりの 手がそれて どこからどこまで とんでった 垣根をこえて 屋根こえて おもての通りへ とんでった とんでった」

 お正月にふさわしい歌として作られたが、歌詞は2番から物語風になっていて、実は怖い歌との評もあるが、違うようである。

『こいのぼり』 昭和6年 作詞:近藤宮子/作曲不詳 文部省唱歌

—— 「やねよりたかい こいのぼり おおきいまごいは おとうさん ちいさいひごいは こどもたち おもしろそうに およいでる」

 1987年にはイタリアの国際児童歌唱コンクールの出場曲に選ばれ、『L’aquilone dei sogni(夢のような凧)』という題で本人出場者により歌われた。

『チューリップ』 昭和7年 作詞:近藤宮子/作曲:井上武士

—— 「咲いた咲いた チューリップの花が ならんだ ならんだ赤白黄色 どの花みても きれいだな」

 近藤宮子は専業主婦であったが、幼稚 園唱歌研究部の教材募集に関わっていた父から幼稚園の子どもでも歌える歌の作歌を頼まれ、「こいのぼり」「チューリップ」など 10 篇を作歌し、それが絵本唱歌に発表された。

『牧場の朝』 昭和7年 作詞:杉村楚人冠/作曲:船橋栄吉 小学唱歌

 福島県にある日本最初の国営牧場「岩瀬牧場」がモデルとされている。

—— 「ただ一面に立ちこめた 牧場の朝の霧の海  ポプラ並木のうっすりと … 鐘が鳴る鳴る かんかんと」

*これまでと同様、小学唱歌の中に軍歌もあるが、以下一点のみ拾い出す。(小学4年生用)

『進撃』 作詞:中村秋香/作曲:小山作之助

—— 「喇叭(らっぱ)の声は 山を揺り 太鼓の音は 海を捲く 風は清し 旭日の旗 霜は寒し 日本刀 義勇の軍(いくさ)に 敵かある 一文字に 責(せ)め入りて しや 隊伍 打ち破れ」

 日本刀とは、すでに近代兵器の前には使えない代物であるが、これを捕虜などに対して試し斬りをすることにもなる。

歌謡・叙情歌

 この時代の前半は海外の作品からも積極的に取り込んでいるし、後半は男女の情愛の歌がかなり多くなっている。多少華やいだ歌も作られ、歌だけ見れば落ち着いたいい時代に思われるが、戦争が激化する前の徒花のようであり、これに対し昭和8年より軍部が統制を強めて多くの歌を禁制にし、それに代わって軍は音楽家たちに軍歌を作るように要請する。禁制にされた歌は、戦後になって再び歌われるようになる。

『ちゃっきり節』 昭和2年(1927) 作詞:北原白秋/作曲:町田嘉章

—— 「唄はちやっきりぶし 男は次郎長 花はたちばな 夏はたちばな 茶のかをり ちやっきり ちやっきり ちやっきりよ きやァるが啼くから 雨づらよ」

 静岡県の観光宣伝のために請われて北原白秋が作詞し、市丸が1931年にレコードに吹き込み、その翌年にヒットした。

『出船』 昭和3年(1928) 作詞:勝田香月/作曲:杉山長谷夫/歌:藤原義江他

—— 「今宵出船か お名残惜しや 暗い波間に雪が散る 船は見えねど 別れの小唄に 沖じゃ千鳥も 泣くぞいな」

『私の青空』 昭和3年 アメリカの大ヒット曲『My Blue Heaven』を原曲とし、堀内敬三が訳詞。

—— 「夕暮れに仰ぎ見る 輝く青空 日暮れて辿(たど)るは わが家の細道 せまいながらも 楽しい我家 愛の灯影(ほかげ)の さすところ 恋しい家こそ 私の青空」

 日本最初のジャズ音楽として浅草オペラの二村定一が歌いヒットし、戦後も榎本健一(エノケン)が歌って再度ヒットした。

『アラビヤの唄』 昭和3年 作詞:堀内敬三/アメリカ映画「受難者」の主題歌を日本語でカバーした曲。

—— 「砂漠に日が落ちて 夜となる頃 恋人よ懐かしい 唄をうたおうよ あのさびしい調べに 今日も涙流そう 恋人よ アラビヤの 歌をうたおうよ」

 このA面は『私の青空』で、カップリングで発売され、同じ二村定一が歌い20万枚以上を売り上げるヒットとなった。翌昭和4年には、同タイトルで映画化された。

『波浮の港』 昭和3年 作詞:野口雨情/作曲:中山晋平/歌:佐藤千夜子

—— 「磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る 波浮の港にゃ夕焼け小焼け 明日の日和は 凪(なぎ)るやら」

 伊豆大島の南端にある波浮(はぶ)港を題材とした歌曲。これは国産の吹き込みレコード第一号となり、大ヒットとなる。

『道頓堀行進曲』 昭和3年 作詞:日比繁次郎/作曲:塩尻精八/歌:内海一郎

—— 「赤い灯青い灯道頓堀の 川面にあつまる恋の灯に なんでカフェーが忘らりょか」

 大阪で幕間劇の歌がレコード化されてヒットし、映画にもなった。今も大阪の芸人に歌い継がれている。

『君恋し』 昭和3年 作詞:時雨音羽/作曲:佐々紅華

 佐々の曲に新たな詩がつけられ、二村定一が歌ってヒットした。

—— 「宵闇せまれば 悩みは果てなし みだるる心に うつるは誰が影 君恋し唇あせねど 涙はあふれて 今宵も更け行く」

 戦後1961年(昭和36年)、曲調がゆっくりのリズムにアレンジされてフランク・永井が歌って大ヒットし、日本レコード大賞グランプリに輝いた。

『鉾をおさめて』 昭和3年 作詞:時雨音羽/作曲:中山晋平

—— 「鉾をおさめて 日の丸上げて 胸をドンと打ちゃ 夜あけの風が そよろそよろと 身に沁みわたる」

 鯨採りの男の歌。上記『出船』『波浮の港』とともにテノール歌手藤原義江のヒット曲。

『旅人の唄』 昭和3年 作詞:野口雨情/作曲:中山晋平

「山は高いし 野はだた広し 一人とぼとぼ 旅路の長さ/ … 今日も夕日の 落ちゆく先は どこの国やら果てさえ知れず」

 昭和3年は満州事変の起きた年で、日本軍の大陸への侵攻により、満州あたりをイメージした曲であるかもしれない。実際にこの頃から「大陸浪人」と言われる人たちが出てくる。(上記「軍歌」の『国境の町』参照)

『お菓子と娘』 昭和3年 作詞:西條八十/作曲:橋本国彦

—— 「お菓子の好きな 巴里(パリ)娘 二人そろえばいそいそと 角の菓子屋へ “ボンジュール”」

 パリへの留学時代の経験や見聞をもとにして西條八十が詩を書いた。

『蒲田行進曲』 昭和4年(1929) 元歌は1925年にニューヨーク・ブロードウェイの劇中歌『放浪の王者:Song of the Vagabonds』で、訳詞は堀内敬三。

—— 「虹の都 光の港 キネマの天地 春の匂いあふるるところ … 青春もゆる生命はおどる キネマの天地」

 日本の映画 『親父とその子』の主題歌として使われ、訳詞は堀内敬三。映画と元歌は何の関係もなく、撮影所が大田区の蒲田にあったのでその名がつけられた。また1982年の映画『蒲田行進曲』オープニング曲としても使われた。

『東京行進曲』 昭和4年 作詞:西條八十/作曲:中山晋平/歌:佐藤千夜子

—— 「昔恋しい銀座の柳 仇(あだ)な年増を誰が知ろ ジャズで踊ってリキュルで更けて 明けりゃダンサーの涙雨」

 菊池寛の同名小説からの歌で、映画の前に売り出され、映画の主題歌としてヒットした。大正12年の関東大震災で焼けてなくなったこの銀座の柳は、この歌がきっかけで新たに植えられるが、昭和20年の東京大空襲で再び焼失した。

『銀座行進曲』 昭和4年 作詞:広井王子/作曲:田中公平

—— 「どんなに辛いことがあっても すこし晴れたら銀座を歩こう … 風が歌う 花が歌う 街が歌い出す」

 行進曲のタイトルが流行し、最初から映画の主題歌として作られたのはこの歌が初めてとされる。数年後に『道頓堀行進曲』と一緒に松島詩子がレコード化した。

『祇園小唄』 昭和5年(1930) 作詞:長田幹彦/作曲:佐々紅華/歌:藤本二三吉

—— 「月はおぼろに東山 霞む夜毎のかがり火に 夢もいざよう紅桜 しのぶ思いを振袖に 祇園恋しや だらりの帯よ」

 映画『祇園小唄絵日傘』の主題歌となり、歌は今でも定番である。

『すみれの花咲く頃』 昭和5年 作詞:白井鍛造/ドイツの歌をフランスでカバーした『白いリラの咲く頃』を、すみれの花にして発表した宝塚歌劇団の歌。

—— 「春 すみれ咲き 春を告げる 春 何ゆえ人は 汝(なれ)を待つ 楽しく悩ましき 春の夢 甘き恋 人の心を酔わす そは汝 すみれの花咲く頃 はじめて君を知りぬ」

 昭和2年に宝塚歌劇団で日本初のレビュー「モン・パリ(わが巴里よ)」を上演し、三年後に『パリゼット』の劇中歌として使用された。このレコードは東京だけで公演前に8万枚を売り上げて当時の宝塚歌劇のレコードとしては異例の大ヒットになり、この曲はその後今に至るまで宝塚歌劇団を象徴するテーマソングとして定着した。

『酋長の娘:わたしのラバさん』 昭和5年 余田弦彦が作詞・作曲し旧制高知高校の寮歌となっていたものを演歌師の石田一松がアレンジして広まった。

—— 「わたしのラバ(lover)さん 酋長の娘 色は黒いが 南洋じゃ美人」

 明治にミクロネシアに移住した高知市出身の貿易商社マンの実話に基づくコミックソング。ちなみにミクロネシアはドイツが占有していたが、第一次大戦で日本がドイツから奪い取った島々で、当時はトラック島と呼ばれ、この人は村の酋長の娘と結婚してを酋長引き継ぎ、その子孫が繁栄して今も住んでいる。太平洋戦争時には日本の海軍の基地もあったが、アメリカの空爆を受け占領された。

『丘を越えて』 昭和6年(1932) 作詞:島田芳文/作曲:古賀政男/歌:藤山 一郎

—— 「丘を越えて行こうよ 真澄の空は 朗らかに晴れてたのしいこころ 鳴るは胸の血潮よ」

 もとは「ピクニック」という明治大学マンドリン倶楽部のマンドリン合奏曲として作曲されたが、映画「姉」の主題歌として島田芳文の歌詞がつけられ、クラシックの声楽家であった藤山一郎が歌ってヒットした。

『酒は涙か溜息か』 昭和6年 作曲:古賀政男/作詞:高橋掬太郎/歌:藤山 一郎

—— 「酒は涙か溜息か 心のうさの捨てどころ  遠いえにしのかの人に 夜毎の夢の切なさよ」

 折からの世界恐慌による経済不況であったが、発売直後から大ヒットし、当時の蓄音機の国内普及台数の4倍の80万枚のセールスを記録した。歌のヒットにより松竹映画『想い出多き女』、新興キネマ『酒は涙か溜息か』として映画も製作された。

『影を慕いて』 昭和7年(1932) 作詞・作曲:古賀政男/歌:藤山 一郎

 メロディーは明治時代の『美しき天然』(作曲:田中穂積)のものを下敷きにしている。

—— 「まぼろしの影を慕いて 雨に日に 月にやるせぬ 我が思い つつめば燃ゆる 胸の火に 身は焦がれつつ しのびなく」

 昭和5年、当時の人気歌手佐藤千夜子が歌う曲のレコードのB面として採用され、埋もれかかっていたが、レコード会社の営業マンが発見して藤山一郎が歌い、大ヒットした。その後の日中戦争下の兵士の間でも歌われ、戦前を代表する歌となった。前線の兵士にとって、軍歌よりもこうした抒情歌の方が心にしみるのである。軍歌は戦地よりもむしろ国内で盛んになっていく。戦後は『酒は涙か溜息か』とともに美空ひばりが歌い、定着している。

『東京音頭』 昭和7年 作詞:西條八十/作曲:中山晋平/歌:小唄勝太郎・三島一声

—— 「ハァー 踊り踊るなら チョイト 東京音頭 ヨイヨイ 花の都の 花の都の真中で サテ ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ」

 もとは「丸の内音頭」という曲名で制作され、日比谷公園での盆踊り大会で披露された。翌8年、「東京音頭」と改題・改詞して発売されると、当時では異例のミリオンセラーとなり、今でも盆踊りの定番曲として親しまれ、またプロ野球チームや、プロサッカークラブの応援歌としても使われている。

『天国に結ぶ恋』 昭和7年 作詞:柳 水巴/作曲:林 順平/歌:徳山 璉・四谷文子

—— 「今宵名残りの 三日月も 消えて淋しき 相模灘 涙にうるむ 漁火(いさりび)に この世の恋の はかなさよ」

 神奈川県大磯坂田山の心中事件を題材に公開された映画の主題歌。世相に合わせて速攻で製作された。歌はヒットして残された。

『銀座の柳』 昭和7年 作詞:西條八十/作曲:中山晋平/歌:四家文子

—— 「植えてうれしい銀座の柳 江戸の名残りのうすみどり 吹けよ春風紅傘日傘 今日もくるくる 人通り」

 『東京行進曲』のヒットを受けて新たに植えられた柳に寄せて作られた。

『涙の渡り鳥』 昭和7年 作詞:西条八十/作曲:佐々木俊一/歌:小林千代子

 この歌のヒットを受けて昭和8年に同名の映画が製作され、後年にも歌いつがれた。

—— 「雨の日も風の日も 泣いて暮らす わたしゃ浮世の 渡り鳥 泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ 泣けば翼も ままならぬ」

『島の娘』 昭和8年(1933)作詞:長田幹彦/作曲:佐々木俊一 /歌:小唄勝太郎

—— 「ハアー 島で育てば 娘十六恋ごころ 人目忍んで 主と一夜の 仇なさけ / ハアー 沖は荒海 吹いた東風が別れ風 …」

 ただこの歌は、日中戦争に突入すると、政府当局(内閣情報部)から「歌詞に問題あり」とされ、1番の歌詞が改変されたが、結局は発禁処分となった。

*この昭和8年から内務省によるレコードの検閲が行われるようになり、男女の愛を歌う内容のものは発売禁止の処分を受けていく。

『サーカスの唄』 昭和8年 作詞:西條八十/作曲:古賀政男/歌:松平晃

—— 「旅の燕寂しかないか おれもさみしいサーカスぐらし とんぼがえりで今年もくれて 知らぬ他国の花を見た」

『山の人気者』 昭和9年(1934) 訳詞:本牧次郎/作曲:L・サロニー

 世界的なヒット曲となったヨーデルの名曲を日本語でカバーしたもの。

—— 「山の人気者 それはミルク屋 朝から夜まで 歌を振り撒く 牧場は広々 声は朗らか」

『谷間のともしび』 昭和9年 訳詩:西原武三/アメリカ歌曲『When It’s Lamp Lighting Time in the Valley』を日本語でカバーした。歌:東海林太郎

—— 「黄昏に我家の灯 窓にうつりしとき わが子帰る日祈る 老いし母の姿 谷間灯ともしごろ いつも夢にみるは なつかしき母のまつ ふるさとの我が家」

『ラ・クカラチャ』 昭和9年 もとはメキシコ民謡で、1910年代メキシコ革命のときの反乱軍の愛唱歌となって歌って広まった。日本語詞:津川主一/歌:小林千代子

—— 「兵隊は進み 村里へ入り 人々は出かけ これを迎える きれいな娘に ショールをかけては 戦いを忘れ 楽しく歌う ラ・クカラーチャ ラ・クカラーチャ なんと美しい ラ・クカラーチャ …」

 この歌(原題はゴキブリの意味)はこの後いろんなバージョンで歌われ、歌詞の内容も一様ではない。戦後にNHKの「みんなの歌」で歌われた時は『車にゆられて』というタイトルで、歌詞は全く変えられている。

『小さな喫茶店』 昭和9年 訳詞:瀬沼喜久雄/1929年に製作されたドイツの同名の映画で主題歌に用いられ、コンチネンタル・タンゴの名曲として日本に紹介された。

—— 「それは去年のことだった 星のきれいな宵だった 二人で歩いた思い出の小径だよ なつかしいあの過ぎた日のことが浮かぶよ この道を歩くとき なにかしら悩ましくなる 春先の宵だった」

 戦後も様々な歌手によって歌詞を変えてカバーされているが、オーケストラなどによる演奏も多い。

『赤城の子守唄』 昭和9年 作詩:佐藤惣之助/作曲:竹岡信幸/歌:東海林太郎

—— 「泣くなよしよし ねんねしな 山の鴉が 啼いたとて 泣いちゃいけない ねんねしな」

 子守唄の定番として歌い継がれている。同時期にヒットした東海林太郎の『国境の町』は軍歌の項参照。

『さくら音頭』 昭和9年 作詞:佐伯孝夫 作曲:中山晉平/歌:小唄勝太郎

—— 「ハァー 咲いた咲いたよ 弥生の空に ヤットサノサ さくらパッと咲いた 咲いた咲いた咲いた パッと咲いた 大和心の エー 大和心の八重一重 ソレ」

 『東京音頭』が爆発的ヒットした翌年の昭和9年に、同じ曲名で4社が作詞・作曲を別にして競作した。そのうち残っている一つであるが、現在も同じタイトルで色々作られ歌われている。

『並木の雨』 昭和9年 作詞:高橋掬太郎/作曲:池田不二男/歌:ミス・コロンビア(松原操)

—— 「並木の路に 雨が降る どこの人やら 傘さして 帰る姿の なつかしや」

『雨に咲く花』  昭和10年(1935) 作詞:高橋掬太郎/作曲:田不二男/歌:関種子

—— 「およばぬことと 諦めました だけど恋しい あの人よ ままになるなら いま一度 ひと目だけでも 逢いたいの」

 映画『突破無電』の主題歌。戦後リバイバルで歌われ大ヒットした。

『船頭可愛や』  昭和10年 作詩:高橋鞠太郎/作曲:古関祐而/歌:音丸

—— 「夢も濡れましょ 汐風夜風 船頭可愛や エエー 船頭可愛や 波まくら / 千里離りょうと 思いはひとつ …」

 クラシック音楽出の古関祐而最初のヒット曲である。戦後は美空ひばりなどが歌い継いだ。

『二人は若い』  昭和10年 作詞:サトウ・ハチロー/作曲:古賀政男/ディック・ミネと星玲子とのデュエット

—— 「あなたと呼べば あなたと答える 山のこだまの 嬉しさよ … 空は青空 二人は若い」

 ディック・ミネはジャズ、ブルースの歌手であった。1935年8月にレコードが発売された日活映画『のぞかれた花嫁』の主題歌が「誰もみていない部屋なら アノ甘い接吻」などの歌詞に問題があるとして主務省から即月発禁処分となった。歌詞が改作されて再発売されたが、B面の『二人は若い』がA面曲を上回るヒットとなった。しかしこの歌も2年後日中戦争が始まると「低俗」として禁止された。

『緑の地平線』  昭和10年 作詞:佐藤惣之助/作曲:古賀政男/歌:楠木繁夫 同名映画の主題歌。

—— 「なぜか忘れぬ人ゆえに 涙かくして踊る夜は 濡れし瞳にすすり泣く リラの花さえなつかしや」

『無情の夢』  昭和10年 作詞:佐伯孝夫/作曲:佐々木俊一/歌:児玉好雄

—— 「あきらめましょうと 別れてみたが 何で忘らりょう忘らりょうか 命をかけた 恋じゃもの 燃えて身をやく 恋ごころ」

 歌はヒットしたが、このご時世に男が恋に命をかけるなどもってのほかということで、内務省から厳しく叱られ、発禁処分となった。ただ戦後にリバイバルヒットした。

『明治一代女』  昭和10年 作詞:藤田まさと/作曲:大村能章/歌:新橋喜代三

—— 「浮いた浮いたと 浜町河岸に 浮かれ柳の はずかしや 人目しのんで 小舟を出せば すねた夜風が 邪魔をする」

 実際にあった愛憎事件を川口松太郎が小説にし、さらに映画にされたその主題歌。

日中戦争へ

軍事的動向(昭和11−12年:1936−1937)

 中国で排日・抗日運動が続く中、昭和11年(1936)7月に上海邦人商人射殺事件、8月に四川省成都で日本人新聞記者2名が殺害される事件、9月に中国広東省北海における日本人商人殺害事件、同月に漢口の日本人領事館警察官殺害事件、上海共同租界海寧路で上陸散歩中の水兵狙撃事件(前年の11月にも租界の中で水兵が殺害されている)等が続いて起きた。当然日本側は抗議をし、協議を重ねて12月末、国民政府の陳謝、責任者及び犯人の処罰、被害者の遺族に対し賠償金を送ることで決着した。日本軍は中国政府に排日活動の取締を要請したが、散在する個々の抗日ゲリラを未然に防ぐのは到底無理で、これはどの国にあっても侵略した側が受ける宿命であることは自明である。

 ちなみに日本では報道されなかった事件は多いが、その一つで、満州占領後の翌1932年9月、日本の満鉄が経営する撫順炭鉱(日露戦争後の1905年、ロシアから利権を獲得した炭鉱)において、反満抗日運動のゲリラ(遼寧民衆自衛軍)が日本人居住区を狙って襲撃し、炭鉱所長含む死者5名、重傷6名を生じる事件があった。そこで翌日、日本軍の守備隊がゲリラ掃討作戦を行い、抗日ゲリラが潜伏しているとみなされた平頂山集落の住民のほぼ全員を崖下に集めて包囲し、周囲から機関銃などで一斉に銃撃し、その生存者を銃剣で刺殺するなどして殺害、その後崖を爆破して遺体を埋め、周囲に鉄条網を張って立ち入り禁止にした。平頂山集落の人口は約千数百人に対して、犠牲者数は700人前後とされ、11月のジュネーブでの国際連盟理事会にも報告された。この種の事件は特に日中戦争後に頻発する。

 こうした大小の数々の抗日事件が多発する中で、昭和11年11月、蒋介石国民政府軍に対して、共産党よりも日本と戦うべきという主張をした七人が、政府批判に当たるとして逮捕され、七人に死刑が求刑されるが、強い反対運動もあって無罪判決が出された(抗日七君子事件)。さらに12月、内戦をやめ挙国一致で抗日運動に立ち上がるべきと主張する東北軍の張学良が蒋介石を監禁する事件が起こった(西安事件)。これにより蒋介石は張学良の要求を汲んで、一応抗日作戦に転じたが、翌昭和12年7月7日、かねてより北京近郊の豊台に駐留し、中国軍と小競り合いを続けていた日本の支那駐屯軍が、豊台近くの盧溝橋で中国軍と発砲事件を起こし(中国では七七事変)、それをきっかけとして再び抗日事件が続き日本人居留者にも犠牲者が生じ、それに対して日本軍は7月28日に北京と天津を総攻撃、30日には天津に空爆を仕掛け、占領に成功する(日本軍死者127人)。その間の29日、国民党革命軍が日本軍の手薄な時を狙って、北京の近くの通州を急襲して日本人居留民を二百数十人を殺害する通州事件が起きた。この事件は日本国内で大々的に報道され、対中感情が悪化したが、前日からの戦闘で、中国側は千人単位の死者を出していたという事実もある。この通州事件はシベリア出兵時における尼港事件(ニコライエフスク事件)と状況的には似ている。

 こうした情勢の中、8月9日夕刻、上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫と一等水兵が視察中に中国保安隊に射殺される事件が起こり、両軍は一触即発の状態となった。これを受けて日本軍は上海に派遣軍を集めつつ、事前に日本人居留民を数万人帰国させたり艦船などに避難させた。8月13日、朝から中国軍との小競り合いの後、国民党軍は日本軍への総攻撃を開始し、第二次上海事変となった(第一次上海事変は満州事変の翌1932年に起こった)。これをもって日中戦争の開始とするが正式な宣戦布告を行わず、日本軍は支那事変と呼ぶ。米英仏の列強諸国は交戦の回避を提案していたが、今回は蒋介石は回避策を取らず、日本軍との本格的戦闘を意識して進軍させた。日本からも次々と増派軍が到着し、お互いが飛行機による空爆も行い、戦闘は最終的に10月下旬、日本軍が中国軍を敗退させ、11月12日、上海を占領した。この間の9月、蒋介石国民党軍は共産党軍と第二次国共合作を成立させ、日本の太平洋戦争敗戦まで長期にわたって日本軍と対峙することになる。

 この戦闘で日本軍は約25万人、航空機500機、戦車300両、軍艦130隻となっているが、中国軍は約60万人、航空機200機だけで、比べると兵員数よりも飛行機や戦車などの兵器力の差が大きい。軍艦も沿岸から街中に照準を当てて相当数砲撃したはずである。日本側の戦死者9115名、負傷者3万1259名を出している。中国側はこの4-5倍程度であろうか。それにしても何のためのこれほどの犠牲者であろうか。さらにこの上海戦に並行して日本軍は山西省(満州の南西地区)のへの進攻作戦を9月下旬から11月初旬に行い、各地で激戦の末、日本軍の死傷1万1000人以上、中国軍の死傷約10万人の犠牲者を出して、日本軍は太原を占領した。
 上海で敗退した国民政府軍は首都としていた南京に撤退するが、日本軍はすぐに南京攻略に転じる。そこから日本海軍は三ヶ月以上南京へ空爆を続け、12月10−12日にかけて陸軍約20万が南京を包囲攻撃、13日早朝南京城は陥落した。多数の兵士が武器を捨てて市民と共に逃げまどう状況となり、その後は敗残兵掃討作戦が行われ、その後一週間近くで大虐殺が展開され、犠牲者は住民を含めて約30万人とされている。この虐殺事件は戦後数十年後から証言者も出てきてしばしば議論の対象となっているが、筆者の調べではこれは日中戦争の中の大きめな一つの事件に過ぎず、その前後に渡って中国の各所において同様な大小の事件が展開されている(筆者の「昭和12年」の項参照)。

 なお、上海事変から始まった空爆は海軍の航空隊が主導し、南京だけでなく中国の主要都市にも大量に展開され、これは日本の敗戦まで8年間続けられた。これは回数的にも物量的に太平洋戦争終盤期の米軍による日本本土への空爆(8ヶ月)をはるかに上回る。この事実はやはり我々日本人には認識されていないが、筆者は別途この8年間の「中国における日本軍の年月日別空爆記録」を作成した。

 日本軍は南京陥落により、中国軍が降伏すると思っていた。しかし中国ははるかに広大な国であり、蔣介石の国民政府軍は反攻体制を整えるために、四川省の奥地で天然の要塞である重慶に遷都を決定し、南京を早々に明け渡したに過ぎなかった。中国では内戦でもこうした作戦がしばしば取られ、日本軍はそれを理解していなかった。ここから泥沼の戦争となり、その途上で太平洋戦争へ突入、昭和20年の日本の敗戦まで、8年間(満州事変より14年間)戦闘が続く。これは日本軍にとって想定外のことであった。

軍歌(昭和11−12年:1936−1937)

 昭和10年は取り上げるべき軍歌はなく、11年はまだ満州事変の流れの軍歌軍歌であったが、日中戦争(支那事変)に突入する12年は、国民の戦意高揚のため、「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」の三つの標語と、募集により「銃執れ 鍬執れ ハンマー執れ」のようなスローガンが掲げられた。その時流を受けて怒涛のごとく軍歌が作られている。また新聞社も競って懸賞金付きで軍歌を募集したが、国の応援もあって、レコード会社も競作するようになった。その一つが大ヒットした『露営の歌』であった。国民精神総動員を受けて「国民が永遠に愛唱すべき国民歌」を公募、年末に『愛国行進曲』が発表され、官製としては大ヒットした。さらに戦闘意欲の高揚を意図して制定された曲で、国民精神総動員強調週間の放送のテーマ曲としてNHKの嘱託を受けて信時潔(キリスト教徒)が作曲した『海行かば』が支持され、大東亜戦争時、大本営による戦果発表にて玉砕を伝える際、冒頭にこの曲が用いられるようになった。これは昭和18年の出陣学徒壮行会でも(生きて帰って来ると思うなという意味で)歌われた。ある意味これらの歌は、戦争を懐疑する国民の思考力を奪うことに大いに役だったであろう。事実、戦後も活躍する多くの作詞家や作曲家などの文化人が、これらの歌作りにも積極的に協力するようになる。

関東軍軍歌

 昭和11年 作詞:関東軍参謀部/作曲:陸軍戸山学校軍楽隊。これも国策軍歌である。

1
暁雲の下 見よはるか
起伏果なき 幾山河
わが精鋭が その威武に
盟邦の民 いま安し
栄光に満つ 関東軍
2
興安嶺下 見よ広野
父祖が護国の 霊ねむり
いま同胞が 生命を
正義に託す 新天地
前衛に立つ 関東軍
5(3、4略)
旭日の下 見よ瑞気
八紘一宇 共栄の
大道ここに 拓かれて
燦々たりや 大陵威
皇軍の華 関東軍

 「盟邦の民いま安し」とは、すでに同盟国(正確には属国であるが)となった満州の民が今は安らかになったということ、そして「八紘一宇(全世界を一つの家にする)という共栄の大道がここに拓かれて燦々たることも、天皇の大威光のおかげであり、その前衛に立つのが皇軍の華、関東軍である、という意味になる。書かれていることをそのまま受け取ると立派な軍に見えるが、実際に「盟邦」満州の民は安らかになったのか、そして「共栄の大道ここに拓かれ」たのかどうなのか。世界中のどこの歴史を見ても、占領した土地の人々がそのまま安らかになり、共栄を喜んで受け入れたという話は聞かない。関東軍は日本にとって初めて大陸における海外駐留軍であり(実際には台湾と朝鮮に続くもの)、これを軸にしてアジア制覇をしていこうという日本軍の野望を実現する実験部隊であったろう。この翌年、関東軍は満州地域の占領だけでは満足せず、支那駐屯軍がきっかけを作った日中戦争(支那事変)に乗じて華北全体に支配地を広げていく。

ああ我が戦友

 昭和11年 作詞:林 柳波/作曲:細川潤一

1 
満目百里 雪白く 
広袤(こうぼう)山河 風あれて
枯木に宿る 鳥もなく
ただ上弦の 月蒼(あお)し
3(2略)
死なば共にと 日頃から
思いしことも 夢なれや
君は護国の 鬼となり
われは銃火に まだ死なず
4 
ああわが戦友よ 二人して
約せしことは 知りながら
君が最期を 故郷へ
何と知らせて よいものぞ
5 
君の血潮は 満州の
赤い夕陽に 色添えて
大和心の 花桜
ぱっと散ったと 書こうかしら
6 
弾に当った あの時に
天皇陛下 万才と
三度(みたび)叫んだ あの声を
そのまま書いて 送ろうか
7 
涙で書いた この手紙
涙でよんで 笑うだろう
君の母君 妹御(いもうと)も
やっぱり大和(やまと)の 女郎花(おみなえし)

 満州事変のことを書いたもので、日露戦争時に広まった『戦友』を意識した内容である。しかしこちらにはどこか作り物の言葉があって(特に6、7番)、違和感がある。「弾に当ったあの時に、天皇陛下万才と三度」も叫ぶことができるのかどうか、本当にそんなことを聞いたのか、実際には「お母さん!」と叫んで死んだ兵士たちが多かったと言うが、その言葉すら、一度叫ぶので精一杯ではないのか。それに遺族が「涙でよんで笑う」わけがない。創作するにもほどがある。この作詞者は童謡詩人であるが、すでに童謡を書いてやっていける時代ではなく、他の童謡詩人たちも軍歌を書いた。4年後にも続編の、「続ああ我が戦友」が制作された。

若桜の歌』(少年飛行兵の歌)

 昭和11年 作詞:熊谷陸軍飛行学校/作曲:川本晴朗

 昭和8年(1933)に陸軍飛行学校生徒が定められ、翌年、操縦生徒70名、技術生徒100名が埼玉県の所沢陸軍飛行学校に入校した。応募者は操縦生徒が3336名(定員の約48倍)、技術生徒が6398名(同約64倍)という難関で、優秀な人材を集めることができた。当時はまだ正式な名称がなく単に陸軍飛行学校生徒であり「少年航空兵」と通称されることがあったが、のちに少年飛行兵の名称が正式化した際、この時の170名を第1期生とした。翌10年、熊谷陸軍飛行学校が設立され、第2期生より移駐し、約2年の基本操縦教育を受けた。この歌はその頃作られた。昭和15年より正式に「少年飛行兵」の名称となる。太平洋戦争終盤には繰り上げ卒業が行われ、特に徴兵年齢以下の16−17歳の少年技術兵の多くが補充的に戦地に送られ、命を落とした。

1
昭和の御世に育くまれ
碧に澄める大空に
若き命を捧げんと
小楠公の道を行く
清き姿の若桜
2
御稜威の原の若武者
伸び行く力 競ひつつ
豊かに育つ少年の
心明かるくたくましく
清き姿の若桜
6(3-5略)
試練の涙は幾度か
今修練の実を結び
決戦の空まで遠く
制空権の道を行く
清き姿の若桜

 小楠公とは楠木正成の子、正行のことであるが、父の遺志を継いで戦ったことを例えている。戦争終盤で、若桜たちは「制空権」を失った道で戦い、特攻隊として「散華」(命を散らすことの形容)した。

昭和12年(1937)

露営の歌

 昭和12年(1937) 作詞:薮内喜一郎/作曲:古関裕而

 この年の8月、日中戦争が勃発した。毎日新聞(当時は東京日日新聞と大阪毎日新聞に分かれていた)が戦意高揚のため、これにあわせて「進軍の歌」の歌詞を公募し、京都市役所の薮内喜一郎の詞が傑作に入選した。それを北原白秋や菊池寛らが「露営の歌」と題し、古関裕而が作曲を手がけた。「露営の歌」はB面であったにもかかわらず、A面の「進軍の歌」をしのぐ人気を得て、当時としては異例の60万枚以上のレコードを売り上げ、特に出征兵士を見送るときに歌われ、戦後もしばらく歌い継がれた。

1 
勝ってくるぞと 勇ましく
誓って故郷(くに)を 出たからは
手柄立てずに 死なりょうか
進軍ラッパ 聞くたびに
瞼(まぶた)に浮かぶ 旗の波
3(2略)
弾丸(たま)もタンクも 銃剣も
しばし露営の 草枕
夢に出てきた 父上に
死んで還れと 励まされ
覚めて睨(にら)むは 敵の空
4 
思えば今日の 戦いに
朱(あけ)に染まって にっこりと
笑って死んだ 戦友が
天皇陛下 万歳と
残した声が 忘らりょか
5 
戦争(いくさ)する身は かねてから
捨てる覚悟で いるものを
鳴いてくれるな 草の虫
東洋平和の ためならば
なんの命が 惜しかろう

 これは古関裕而の軍歌最初のヒット曲で、ゆったりとしたリズムに哀愁と高揚感がない交じって、前線の兵士達にも愛唱された。ただ「夢に出てきた父上に 死んで還れと励まされ」とか、「笑って死んだ戦友が 天皇陛下万歳と」というのは実際の場面ではまずない。「死んで還れと」言う親はまずいないし(男親は何も言わず黙って、心の中で無事を祈って見送る)、怖い上官がそばにいなければ「天皇陛下万歳」ではなく、「お母さん!」と言って死んでいくのである。いずれにしろこの時代の雰囲気が醸成された歌詞であるが、この雰囲気がこの後も8年間続き、国民を戦争に縛り続けていく。何よりもこの昭和の戦争は「東洋平和」を守るためではなく、それを壊す戦争であった。現にこの時期、東洋に攻め込んでいる西洋諸国など一つもなかった。他国へ軍を侵攻させていたのは日本だけである。

進軍の歌

 昭和12年 作詞:本多信寿/作曲:辻順治

 上記『露営の歌』のレコードA面にあった歌で、新聞公募で大蔵省会計課に勤務する本多信寿の詩が一等となり、この詩に、陸軍戸山学校軍楽隊隊長・辻順治が曲をつけた。二等当選したのが上記の「露営の歌」である。

1
雲わきあがる この朝
旭日の下 敢然と
正義に起てり 大日本
執れ膺懲(ようちょう)の銃と剣
2
祖国の護り 道の為
君の御勅を 畏みて
山河に興る 肝と熱
鳴れ進軍の 旗の風
3
広漠の土 吼ゆる海
越えゆくところ 厳然と
空に光れリ 日章旗
撃て暴虐の 世々の敵
4
巌と固き 軍律に
轟く正義 その力
千万人も 敢て往く
これ神州の 大和魂
5
すでに聖戦 幾そ度
凱歌は常に 我とあり
貫く誠 ただ一つ
知れ万世の 大日本
6
水漬き草むす 純忠の
屍にかをる 桜花
光と仰ぐ 皇軍
聴け堂々の 進軍歌
(万歳三唱)

 この詩の中にはこの後の太平洋戦争に至るまで使われた多くの言葉が散りばめられている。「正義に起てり」(どの国も使う戦争時の常套句)、「祖国の護り」(実際には他民族の祖国を侵害していて、日本が攻められているわけではない)、「君の御勅」(天皇の訓示を拝受してとなるが、訓示はほとんど側近が作ったもの)、「暴虐の世々の敵」(どちらが暴虐の行いをして敵となっているのであろうか)、「轟く正義」(正義が轟く戦争であれば、侵攻先の国の人々は歓迎の旗を持って進んで受け入れたであろうが、そういう事実はなかった)、「万世の大日本」(万世一系の皇室を戴く大日本の我等)、「聖戦」(天皇の名による聖なる戦争)、「皇軍」(天皇直属の軍隊)等々。これらの言葉が繰り返されると、人々の頭の中もそのような観念で固まってしまい、他の観点から考える余地などなくなってしまう。それを軍国主義時代という。

愛国六人娘

 昭和12年 作詞:佐藤惣之助/作曲:古賀政男

 同名の「時局」映画のために作られた。この映画のポスターには「ここには銃後を護って第二の母性たる女学生の時局に対する覚悟が、歌と若さのリズムとなって大空に響き渡る——」、「銃後の女性は必ず見よ!熱性溢るる六人組の女学生たちと彼女等の兄弟——『海の荒鷲』の勇ましい戦場の活躍を!」とある。

1
燃え立つ血潮よ から紅に
今日ぞ輝く 祖国の御旗
銀のつばさに 彩りて
いざ行け若人 われらの戦士(終行繰り返し)
2
高鳴るつばさよ あの大空に
ひびく歓呼は 祖国の希望
深き感謝に 送られて
3
轟く砲火よ この戦いに
競うニュースは 祖国の勝利
胸も湧きたつ 感激に
4
銃後の護りよ いざ諸共に
つくすわれらは 祖国の乙女
大和桜と 勢いよく

 「競うニュースは祖国の勝利」というのは、第二次上海事変から南京攻略に至るまで全国紙から地方の新聞まで競って記者やカメラマンを中国戦線に派遣し、その進軍に合わせて各地の攻略の様子を日本に送っていたのである。その極端な例が、この年で後述する『豪傑節』(百人斬に関する歌)の報道である。銃後の護りとは戦争の前線にいる兵士たちに対して、国内で守りを固める女性の活動のことを言うが、昭和6年の満州事変の翌年から、「大日本国防婦人会」が結成され、12年には国防婦人会館が建設され、13年には「満州国防婦人会」も結成、戦場に向かう男子の壮行会の裏方も担うことになる。15年には隣組強化法が制定され、銃後の町組織の監視体制強化の役割も担った。

 女学生たちは当初、定期的に神社や皇居の清掃などの勤労奉仕をしつつ、午後の授業を短縮して戦地の兵隊に送る慰問袋と慰問品の作成に精を出していた。

軍国の母

 昭和12年 作詩:島田磐也/作曲:古賀政男/歌:美ち奴

 日活映画「国家総動員」の主題歌として発表された。陸軍省から非常時歌謡というお墨付きを得て、、この年の7月から始まった支那事変(日中戦争)以来、はじめてヒットした軍国歌謡となった。 歌手の美ち奴の切々とした歌い方が評判を呼び、流行の一因となった。後に出た、「皇国の母」、「九段の母」と並んで、軍国の「母」もの三部作と評された。

1 
こころ置きなく 祖国(くに)のため
名誉の戦死 頼むぞと
泪も見せず 励まして
我が子を送る 朝の駅
2 
散れよ若木の さくら花
男と生まれ 戦場に
銃剣執るのも 大君(きみ)ため
日本男子の 本懐ぞ
3 
生きて還ると 思うなよ
白木の柩(はこ)が 届いたら
出かした我が子 あっぱれと
お前を母は 褒めてやる
4 
強く雄々しく 軍国の
銃後を護る 母じゃもの
女の身とて 伝統の
忠義の二字に 変りゃせぬ

 徴兵制は明治時代から確立されていたが、昭和に入って徴兵令は「兵役法」に改正され、徴兵できる人数が増やされていた。元々の軍人以外、徴兵により現役兵となったものは所定の訓練期間を終えると予備役となり、普段は民間人として生活するが、特に日中戦争に突入すると、まずその予備役から動員され、不足すると新たに選ばれた各人に召集令状(赤紙)が届けられた。この時代はそれが名誉なこととされ、その際、町村では壮行会が開かれ、見送る駅頭でも万歳三唱がなされる風景が日常となった。しかし中には、その駅のホームで一人息子の出征を案じた母親が、最後の別れ際に駆け寄って、「〇〇、生きて帰ってこい!」と押し絞るように言う光景もあり、その場合、常時監視している憲兵がその母親を「この非国民が!」と言って殴り倒すのが通常であった。だから「泪も見せず励まして 我が子を送る朝の駅」とあるが、母親は涙を見せないように必死に我慢し、「生きて還ると思うなよ」などという言葉は100%発するはずもなかった。しかも太平洋戦争終盤は、「白木の柩が届い」てみたら、中には一片の死亡通知と、骨の代わりの石ころが入っていたという例はザラであった。だからいまだに東南アジアや南洋諸島には多くの骨が埋まっているし、もとより戦艦や輸送船を敵艦に撃沈されて海の底に沈んだ兵士たちの骨はそのままである。ともあれこのような罪深い歌を乱造して、平気で国民に押し付け、次々と犠牲者を国内外に増やしていく時代であった。

 国(祖国)のためとは、どのような意味で言っているのか、本来、国というものは国民の命と生活を守るために存在しなければ意味がない。それを他の国民の祖国を侵略することが自分の国のため、我々国民のためとはどういうことなのか。そのようなことを考える余裕すら、このような軍歌で国民から奪い取ってしまっていく時代であった。

銃後の花

 昭和12年 作詞:長田幹彦/作曲:橋本国彦

1
平和の世には母として
勤めを励む女等も
いざ戦いの日となれば
銃後の人よ諸共に
2
勇士を送る門出には
心も赤き日の丸の
御旗を捧げ万歳を
泣きつつ叫ぶ女気よ
4(3略)
愛しの子等守り育て
鋤鍬執りて耕して
男に代わる健気さは
富にも勝る誇りなれ
5
斯くありてこそ男等は
後顧の憂い消え去りて
御国の為に死ぬぞかし
国をば護れ女等よ

 結局は「後顧の憂い消え去りて 御国の為に死ぬぞかし」、つまり男は戦場で死ぬために送り出し、女は立派に国内を守りなさいということだが、そうして働き盛りの男がいなくなったら、働き手が少なくって国が危うくなり、子孫も細り、銃後に花など咲かない。

軍国子守唄

昭和12年 作詞:山口義孝/作曲:佐和輝禧

1
坊や泣かずにねんねしな
父さん強い兵隊さん
その子がなんで泣きましょう
泣きはしませぬ
遠い満洲のお月様
2
ねんねおしおしねんねすりゃ
父さん匪賊退治して
凱旋なさるおみやげは
きっと坊やの
可愛い坊やの鉄かぶと
3
坊やも大きくなったらば
兵隊さんで出征して
母さん送りに行ったなら
汽車の窓から
笑って失敬するでしょね

 どこまでも作り事のような歌詞であるが、時局柄、一応ヒット曲となったという。「坊やも大きくなったらば 兵隊さんで出征して」とは、当時の思想統制の表れであるが、日本はどこまで戦争を続けるつもりでいたのだろうか。

 この他、同年の同じタイトル(作詞:伊藤松雄/作曲:深海善次)では以下。

うちの父さん どこへ行つた
坊や泣くのも 無理はない
渡り鳥さへ 親子連れ
母さんまでも 泣けてくる

強いお前の 父さんは
どこで果てよと 国のため
男なりやこそ ご奉公
坊や泣いては 弱くなる

 また、同年の竹田敏彦(作家)の「戯曲:軍国子守唄」では以下。

坊やはよい子だ寝んねしな
もしも父さん敵の為
死んでも坊やは泣くじゃない
国の護りの神となり
坊やの出世を見ています
会いにおいでよ九段坂

 自分が戦死したら軍神(英霊)となって九段坂(靖国神社)にいるから会いに来なさいといとも簡単に言っている。本来、母親は「父さんはきっと生きて帰ってくるから、辛抱して待ちましょうね」というのが普通で、しかしこのご時世はどうしても出征した兵士に名誉の戦死をさせたいのである。というのも歌も小説も学術書も、すべて軍隊の検閲を受けていて、その眼鏡に敵わなければ訂正され、こうなるのである。以下、他の例。

『戦線子守唄』 昭和12年 作詞:佐伯孝夫/作曲:細田義勝

—— 「強いお前の父さんは どこで果てよと国のため … 寝んねする子にゃ御土産あげる 鉄の兜に機関銃」

『塹壕の子守唄』 昭和13年 作詞:結城武夫/作曲:細田義勝

—— 「朝日輝く日の本の 国に捧げしこの生命 幾百万の敵ありと 進め進めとささやくは 母の優しい子守唄」

『曠野の子守唄』 昭和13年 作詞:佐藤惣之助/作曲:佐和輝禧

—— 「坊やよい児よ泣くじゃない やがて元気で働いて 結ぶ日満 国のため 偉いお人になりましょうね」)

『母子船頭唄』 昭和13年 作詞:佐藤惣之助/作曲:細川潤一

—— 「もしもお月さん鏡なら 戦闘帽子で父さんが 進む笑顔をひと目でも 見せて下さいお月さん」

 とにかく、父親が戦場に出て寂しがる子供を、母親はなんとか寝かしつけ、むしろその子を早く戦場に送れるように立派に育てろ、ということになる。昭和12年の講談社『少女倶楽部』11月号には、「軍国子守唄人形」(兵隊の人形)の作り方が特集されている。これは系列のキングレコードから「軍国子守唄」がリリースされていたことを受けてのものという。

流沙の護り

 昭和12年 作詞:柴室代介/作曲:佐藤富房/歌:上原敏

1 
男子(おのこ)度胸は 鋼(はがね)の味よ 
伊達にゃ下げない 腰の剣
抜けば最後だ 命を賭けて 
指もささせぬ この護り
2 
流れ豊かな 黒竜江の 
岸の繁みが 我が住家
水を鏡に 鬚面剃れば 
満州娘も 一目惚れ
3 
可愛い背嚢の 枕の傍に 
今朝はひらいた 名無し草
千里続いた この流れ砂 
御国(くに)の光で 花も咲く

 上原敏は当時の流行歌手。演歌調の節回しで、戦後、美空ひばりがレコード化している。戦地の過酷な状況は無視され、仮想の兵士姿を借りて自己陶酔の歌となっている。つまり「腰の剣」というのは近代兵器による近代戦の中では役に立たず(捕虜を殺す時には使われた)、侵略された側の「満州娘」が一目惚れするとはあまりにも甘い。

祝捷音頭

 昭和12年 作詞:若杉雄三郎/作曲:佐々木俊一

 第二次上海事変で上海を占領し、日本中が「喜び」で沸き立った状態をそのまま表す歌である。

1
勝つた勝つたよ 上海占領
ドントドント 嬉しいね
ア トンヤレトンヤレ嬉しいね
挙がる万歳 日の御旗
トコ 日本の大勝利 万歳や
ア 万歳や 万歳や(最終行繰返し)
2
揚げた揚げたよ 日の丸高く
ドントドント 嬉しいね
ア トンヤレトンヤレ嬉しいね
正義日本の 旗印
トコ 平和の護り神 万歳や
3
晴れた晴れたよ 日本晴れだ
ドントドント 嬉しいね
ア トンヤレトンヤレ嬉しいね
雲も煙りも みな晴れた
トコ 東亜の朝ぼらけ 万歳や
(以下略)

 芸者風の歌手、小唄勝太郎が歌った。この戦争のここに至るまでの経過も背景も国民は何も知らされず、軍政府の発表通りに新聞各社も煽るように書き立て、そのまま国民も信じて「やった、やった。日本軍は大したものだ」と嬉しがっている。この他、『上海陥落万々歳』、『上海特別陸戦隊』、『上海派遣軍の歌』などが作られている。

海ゆかば

 昭和12年 作曲:信時潔

 当時の軍政府が「国民精神総動員強調週間」を制定した際のテーマ曲。NHKの嘱託を受けてキリスト教徒の信時潔が作曲した。歌詞の出典は万葉集で有名な大伴家持「賀陸奥国出金詔書歌」の一部分から採ったもので、信時は得意の讃美歌レクイエム調の荘厳な歌曲として作った。曲はゆったりとして厳かな感じがあり、そのため太平洋戦争(大東亜戦争)終盤に大本営が日本軍の「玉砕」を報じるたびに、冒頭でこの曲がラジオで流され、一種の鎮魂歌となり、準国歌的扱いをされた。昭和18年(1943)、徴兵年齢を下げ、学生の兵役猶予を解除して「学徒出陣壮行会」を明治神宮競技場で行なった際も、見送る女子学生ほか約5万人の人々によってこの歌が合唱されたが、「生きて帰って来ると思うな」という雰囲気も演出され、実際に学生の答辞は「生等もとより生還を期せず」というものであった。ちなみに、勝戦を発表する場合は、『敵は幾万』、陸軍分列行進曲『抜刀隊』、行進曲『軍艦』などが用いられた。

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草生(くさむ)す屍
大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
かへり見は せじ

 この中の「水漬く屍」や「草生す屍」は、これまでの軍歌の中で度々引用されている。意味は、海で戦えばその水に浸かった屍(しかばね)となり、山で戦えば雑草に覆われた屍となるだろうが、心は天皇のそばで死ぬ覚悟であり、後悔などしないということで、「学徒出陣壮行会」で歌われたのは、その覚悟で天皇のために死んでこいということである。実際にどこかの有名大学の総長などは、決して生きて帰ってくると思うなと言って、学生たちを送り出した(その陰で、生きて帰ってこいと静かに言う現場の教授もいた)。どれほど当時の日本が異様な精神状態に置かれていたかがわかる。

通州紅涙賦

 昭和12年末 作詞:門叶三千男/作曲:佐々木俊一

 既述の通州事件に寄せた歌である。

1
忘るな友よ、銘記せよ
聖代昭和十二年
炎熱燃ゆる七月の
二十九日の朝まだき
2
扉を破り雪崩入る
凶徒の弾に残念と
叫ぶ一声むなしくも
血潮に染まり倒れ伏す
5(3、4略)
悲憤の極み守りなき
同胞二百 暴虐の
刃に散つて永劫に
恨みは深し通州城

 日中戦争のきっかけとなった7月7日の盧溝橋事件発生の時、北京東方向にある通州にはすでに多くの日本人居留民が住んでいた。この地は既述するように日本軍傀儡の冀東政権の下にあったが、29日、冀東保安隊が国民党革命軍に引き込まれ、日本軍の手薄な時を狙って、日本兵守備隊を含む居留民を急襲して二百数十人を殺害した事件に対して悲憤を込めた歌である。これについては他にも少なくとも6曲の歌が作られている。ただ、自分たちが奇襲されて被害を受けたことに対する憤慨は当然あるだろうが、それまでにどれほど中国側で犠牲者を出したか、それに対する彼らの悲憤のことは全く考慮されていない。まさに片手落ちで、そもそも侵略を受けた側が敵に反撃するのは世界のどこでも当たり前に起こることであるし、逆に日本が中国に侵略されていたら、われわれはどういう行動をとるか考えてみるべきである。

声なき凱旋

 作詩:島田磬也/作曲:佐藤富房/歌:上原敏

1 
轟く凱歌 その中に
白木の柩(はこ)と 変わりたる
声なき戦友(とも)の 凱旋を
迎える我は 涙のみ
2
ああ今もなお 耳を衝(つ)く
曉(あかつき)寒き 突撃に
仆(たお)れし我を 抱き起し
励ます戦友(とも)の あの声よ
3
おもえば悲し 打笑(え)みて
まみえる戦友(とも)は 今は亡く
柩(ひつぎ)の前に ぬかずきて
捧げる銃(つつ)の この重さ

 これは流行歌手、上原敏が歌ったいわゆる戦時歌謡の一つである。内容的には軍が勧めない歌の一つであろう。この後も彼は数々のヒット曲を歌っているが、昭和17年(1942)、突然召集令状が来た。歌手としての実績がある人物への令状は異例であったが、本人は素直に受け入れ、応召した。内地での訓練中に彼を知る上官から何度も報道班員として内地に残るようにと勧められたが、律儀な性格の彼は応じず、戦地行きを自ら希望し、ニューギニア戦線に赴いた。それまでも上原は中国大陸を戦地慰問のため7度も訪れ、数多くの将兵の前で歌っていて、現地でも気軽に慰問に応じ、最前線の将兵を励まし続けた。戦地ではマラリアに感染し死線を彷徨ったが、19年(1944)7月、上原は連合国軍の上陸による激しい戦闘に巻き込まれ消息を絶った。夫人宛に戦死公報が届いたのは戦後2年経ってからであった。後に召集令状は上原の故郷の役所が芸名の上原に気がつかなかったためであったという。

南京爆撃の歌

 昭和12年 作詞:松島慶三/作曲:海軍軍楽隊

 上海を攻略し、日本軍はそのまま南京攻略に向かうが、それを支援するために九州の大村基地から海を越えて、あるいは海軍の母艦より爆撃機を送り込んで空爆を行う、それを表した歌である。

1
吼え立つ嵐飛ぶ霰
怒涛は天に逆巻きて
暗雲低く乱るれば
行手は夜に異ならず
2
頼む愛機のコンパスに
進路は目指す敵の首都
南京城を屠らずば
生きて再び還らじと
6
航空史上空前の
威力をここに示しつつ
凱歌に晴るる大空に
銀翼高し朝の風

 「航空史上空前の」とはその通りで、12月初旬の南京陥落に近い日まで約4ヶ月に渡って115回(現地にいた米国人医師の記録)以上の空爆を行っている。これは事実上無差別空爆で、世界中から非難の声が上がった。空爆による犠牲者については地上戦によるいわゆる南京虐殺事件が絡むので、把握できていない。しかしこの無差別空爆自体が虐殺と同じなので、時に虐殺はなかったという人がいるが、そもそも戦争に虐殺がなかったということ自体が戦争の常識として間違っている。清く正しい戦争か古今東西あった試しがない。いずれにしろ日本海軍の南京を含めた各都市への爆撃は史上空前であって(ナチスドイツがロンドンに無差別空爆を始めるのはこの数年後であり、明らかに日本が先陣を切っている)、この後も日本軍は南京から遷都した重慶を主要な爆撃対象とし、二百数十回の爆撃を行い、それは日本でもよく取り上げられるが、実は日本軍はこの後8年間で一万数千回の爆撃を行う。ある意味(先んじて無差別空爆をしたことをこのような歌にして誇っている日本軍を持つ)我々が、米軍が日本に対して一方的に非人道的な無差別爆撃をしたから云々という資格はないとも言える。この米軍による日本への大空襲時の、上海や南京や重慶の人々の気持ちは如何なるものであったか、空爆を受けて悲惨な目に遭った自分たちの体験から、決して日本の人々に同情することはなかったであろう、むしろ米軍に対してよくやったと思うのが正直なところで、自然な反応ではないか。

 この他にも参考に2点載せる。

南京空爆

 昭和12年末 作詞:川路柳虹/作曲:弘田龍太郎

1
暗雲こむる長江の
葉月の空を長駆して
銀翼つらね堂々と
南京目ざす海軍機
5(2−4略)
爆撃、またも爆撃に
怖れおののく敵陣地
悠悠下を見おろして
快哉さけぶ吾が勇士

南京爆撃隊

 作詞:藤田まさと/作曲:阿部武雄/歌:東海林太郎

1
天地容れざる 不義不仁
隠忍茲に 幾歳ぞ
皇軍今や 支那兵に
「断」の一字を 余すのみ
3(2、4略)
暴風雨の海も一っ飛び
来たぞ二度目の上海へ
銀翼数十武者震い
ぬかるな敵もさるものぞ

 「悠悠下を見おろして 快哉さけぶ吾が勇士」とは半分本当で、飛行機の上からは地上の惨状は見えないから目標に命中すれば、やったと思うのが普通で、これが近代戦争の、相手の顔が見えないから人殺しの実感がないという怖さがある。事実、広島に原爆を落とした米軍飛行士が、後で広島の惨状を映像で見て、罪悪感に駆られたという証言もある。原爆を開発した科学者も同じであった。

 「来たぞ二度目の上海へ」というのは6年前の満州事変の時も参戦していたということであろうか。「暴風雨の海も一っ飛び」とは日本の九州と台湾の基地から上海への「渡洋爆撃」のことで、実際に台風があって当初の空爆を一日延期している。戦地で日本軍将兵が次々と命を落としていること、相手国の人々がそれ以上に犠牲になっていることなど関係なく、新聞もレコード会社も、勝っていれば何人死のうが気にせず、単に彼らを「英霊」として持ち上げて、商売が繁盛すればいいのである。それにしても「天地容れざる不義不仁」とは具体的にどういうことを指しているのか、どんなことを「隠忍」していたのか。その相手の不義不仁の事実関係を調べたことがあったのだろうか。もっとも日本にいる彼らに調べる方法など何もなかった。当時の新聞社も軍の都合の良い発表を流し、その内容を増幅させるだけであった。

愛国行進曲

 昭和12年末 作詞:森川幸雄/作曲:瀬戸口藤吉

 『海ゆかば』と同じく、「国民精神総動員」方針のもと、「国民が永遠に愛唱すべき国民歌」として同年に組織された内閣情報部によって歌詞が公募され、「美しき明るく勇ましき行進曲風のもの」、「内容は日本の真の姿を讃え帝国永遠の生命と理想とを象徴し国民精神作興に資するに足るもの」など、いかにもという言葉で求められた。5万以上の応募の中から鳥取県で印刷業を営んでいた森川幸雄の歌詞が選ばれた。任命された審査員は、佐佐木信綱、北原白秋、島崎藤村他の7名であった。ただし審査員によって補作が行われ、ほとんど原詞は変えられている。つまり高名な詩人たちが寄ってたかって原詩をもとに作り上げたわけで、それによって意見が合わず、喧嘩別れした詩人もいたという。またその歌詞に対する曲の応募も1万点を超え、こちらは「軍艦行進曲」の作曲でも有名な元海軍軍楽隊長の瀬戸口藤吉の曲が選ばれた。任命された審査員は、信時潔、山田耕筰、堀内敬三、近衛秀麿(この時代に首相を何度か務める文麿の弟で音楽家であり指揮者としても太平洋戦争時代にドイツやポーランドで活動し、ユダヤ人音楽家の何人かを救った)他の8名であった。同年12月末に日比谷公会堂で一般に発表された。これは当然ながら小学校の教科書にも唱歌として採用されている。

1 
見よ東海の 空あけて
旭日高く 輝けば
天地の正気 溌剌と
希望は躍る 大八洲(おおやしま)
おお晴朗の 朝雲に
聳ゆる富士の 姿こそ
金甌(きんおう)無欠 揺るぎなき
わが日本の 誇りなれ
2 
起て一系の 大君を
光と永久に 戴きて
臣民われら 皆共に
御稜威(みいつ)に副わん 大使命
往け八紘を 宇(いえ)となし
四海の人を 導きて
正しき平和 うち建てん
理想は花と 咲き薫る
3
いま幾度か わが上に
試練の嵐 哮(たけ)るとも
断固と守れ その正義
進まん道は 一つのみ
ああ悠遠の 神代より
轟く歩調 うけつぎて
大行進の行く 彼方
皇国つねに 栄えあれ

 この歌の中に募集の要項の一つ「日本の真の姿」が織り込まれているであろうか?この詞をまとめると「一系天皇の御稜威(御威光)に従い、それを八紘(八方世界)に広め、一宇(一家)にするのがわれら臣民(国民)の使命であり、そこに試練の嵐があろうとも、その正義を断固と守って一つの道を歩み、正しき平和をうち建てよう」、これが「日本の真の姿」というものと理解できる。つまり天皇の御威光を守り、その威光をあまねく八紘世界の隅々にまで拡げていくということであり、これはどう見ても皇室を神とする一つの国家宗教の形であり、全国民がこの時代、その宗教的使命を持って動いていて、その結果がアジア各地に侵攻し、多大な犠牲者を出しながら占領地を築いて行くことであった。なお「金甌」は黄金の瓶のことで、それが無欠な国家や天子の位にたとえている。

 歌詞自体は手を加えられ過ぎてわかりづらいと不評であったが、曲は明るく快活なテンポで国民の間に広まった。実際に太平洋戦争(大東亜戦争)でアジア各地を占領した日本軍はこの歌(だけではないが)を広めた。そのため日本が占領していた海外では、この歌を日本の国歌だと思っていた人が多かった。ある作家は戦後20年、取材でブーゲンビル島に行った時、ガイドの住民が「ミヨトウカイノ」と歌っていたという。パラオでは『パラオの夜明け』という替え歌になっている。また、インドネシアの独立記念行事でも歌われていたことが、1994年(平成6年)に日本の報道機関によって確認されている。フィリピンのマルコス元大統領の妻イメルダは、来日した際に香淳皇后とこの歌を一緒に歌ったという。

 いずれにしろ「国民が永遠に愛唱すべき国民歌」とはならなかった。また、庶民の間では、歌詞を「見よ東條(当時の首相)の禿頭 ハエが止まれば ツルッと滑る」などに変えたパロディも密かに流行したという。

 この後の戦時中の愛唱歌で、山田耕筰作曲の『なんだ空襲』や、『進め一億火の玉だ』、『この決意』の間奏部には、本曲の一部が流用されている。

豪傑節』(百人斬 — 日本刀切味の歌)

 これは一般には出ていない異質な歌で、南京攻略の際に、捕虜とした中国人を軍刀で斬殺し続けた軍人に関し、昭和12年12月13日の東京日日新聞(現在の毎日新聞)に日本軍将校二人が、どちらが先に日本刀で敵を100人斬れるか競争をしてその達成を誇っている二人の写真と名前が載った記事がある。その一人野田部隊長が自分の武勇を友人に当てて書いた手紙の中で、「その後目茶苦茶に斬りまくつて253人叩き斬つた」が、この際「めんどうだから千人斬をやらうと相手の向井部隊長と約束した」とあり、これに対して別の戦友の六車部隊長が百人斬りの歌を作ってくれたということで、これがまた昭和13年1月25日の大阪毎日新聞紙上に「豪快な」部隊長を讃えるものとして取り上げられた。 その記事の後半に「その後両部隊長は若き生命に誓つてさらに一挙千人斬をめざし」と載せられている。

今宵別れて故郷の月に、冴えて輝くわが剣
軍刀枕に露営の夢に、飢えて血に泣く声がする
嵐吹け吹け江南の地に、斬つて見せたや百人斬
長刀三尺鞘をはらへば、さつと飛ぴ散る血の吹雪
ついた血口を戎衣でふけば、きづも残らぬ腕の冴え
今日は口かよ昨日はお◯、明日は試さん突きの味
国を出るときや鏡の肌よ、今ぢや血の色黒光り…(以下略)

 これが事実だとして銃撃戦が主体の戦闘の中ではなし得ることではなく、縛って押さえつけた捕虜を切っていく以外にはできない。実際に今まさに軍刀によって中国人の首を切ろうとする写真は、南京ばかりでなく意外に多く残っている。その行為を誇るためにわざわざ撮らせたのである。もちろんその対象の多くは投降した捕虜である(新聞記事には「敗残兵掃蕩に253人を斬つた」とある)。

(事実関係は主に鳥飼行博研究室のブログより転用)

 この他、この年あたりはちまたに流行るまでいかない軍歌も量産されている。下記のタイトルはこのころの有名無名の作詞作曲家を問わないもので、日本軍の進軍の動きに合わせて作られていることがわかる。

「ああ決死隊」「北支の空」「爆発点・蘆溝橋」「暁の郎坊」「平入城」「天津の神兵」 「爆弾二将校」「空爆の歌」「千人針」「行けよ・つわもの」「天兵の威烈」「特別陸戦隊頌歌」「友を送る」「眠れ戦友」「空軍の花」「吾等の空軍」「江上警備」「敵前上陸」「無敵立体戦」「正義の軍」「済南爆撃」「僚機よさらば」「提灯行列」「白茆口敵前上陸」「慰問袋」「太原の陥落」「閘北攻撃」「上海特別陸戦隊」「上海凱歌」「上海陥落万々歳」「勝って兜の」「鬼部隊長と伝令兵」「恨みは深し通州城」「ああ通州」「感激の南京入城」等々。

 「千人針」とは出征兵士の無事を祈って、多くの女性が一枚の布に赤糸で1針ずつ縫って 千個の結び目をつくり,出征兵の腹巻にすると弾丸よけになるとされたお守りで、「慰問袋」は戦地で頑張っている兵隊さんのためにと、今の中高に当たる女学生たちが手縫いの人形や靴下、飴、文具品などを手縫いの袋に入れて戦地に送ったものである。

抗日歌

松花江上』(松花江の畔に)作詞・作曲 張寒暉

 1931年(昭和6年)9/18、日本の関東軍が起こした柳条湖事件によって満州事変が勃発したが、それによって満州地区の東北軍兵士や住民が故郷を追われ、万里の長城の東端の山海関から南に逃れて流浪した。昭和11年、その人々の望郷の思いを張寒暉が作詞・作曲し、すぐに中国内に広まった。昭和14年、香港で製作されてヒットした抗日映画「孤島天堂」の挿入歌としても採用され、この時代、数多く作られた抗日歌の中でも代表的な歌となって歌い継がれ、全中国人の国民的愛唱歌となっている。

 映画はその故郷から上海へ流れてきたダンサーという設定で黎莉莉が主演し、この歌を歌った。戦後の日本でも近年、劇団四季のミュージカル「李香蘭」の中で挿入歌として使われた。ちなみに映画「孤島天堂」の挿入歌としては『何日君再來(いつの日君帰る)』もあり、これは昭和14年に李香蘭が歌い日本でもヒットし、戦後もテレサ・テン(鄧麗君)が取り上げてアジア全体での愛唱歌となっている(昭和14年の「童謡、唱歌、歌謡」の項参照)。さらにはこの映画の中には戦後中華人民共和国の国歌となった『義勇軍行進曲』も挿入されている(昭和10年の項参照)。つまり中国ではいろんな歌が「抗日」運動によって作られているということである。

わが家は東北 松花江のほとり (我的家在東北松花江上)
そこには森林と鉱山 (那里有森林煤鉱)
さらに山野に満ちる大豆と高粱がある (還有満山遍野的大豆高粱)
わが家は東北 松花江のほとり (我的家在東北松花江上)
彼の地にはわが同胞がいて (那裡有我的同胞 )
年老いた父と母がいる (這有衰老的父多娘)  
ああ 9・18、9・18 (”九一八”,”九一八”=満州事変勃発日)
あの悲惨な時から (従那個悲惨的時候)
わが故郷を脱出し (脱離了我的家郷)
ああ 9・18、9・18 (”九一八”,”九一八”)
あの悲惨な時から (従那個悲惨的時候)
わが故郷を脱出し (脱離了我的家郷)
尽きることのない宝の庫も捨て去って (抛奔那無尽的宝蔵)
流浪また流浪して関内をさまよっている (流浪,流浪,整日価在関内流浪)
いつの年、いつの月 (口那年口那月)
わが愛する故里へ帰れるのだろうか (才能句多回我那可愛的故郷)
いつの年、いつの月 (口那年口那月)
私のあの尽きることのない宝の庫をとり戻せるのだろうか (才能句多収回我那無尽的宝蔵)
父よ母よ、父よ母よ、 (父多娘口阿,父多娘口阿)
一堂に会して喜び合えるのはいつだろうか (何時候才能歓聚在一堂)

(日本語訳『もうひとつの満州』澤地久枝:文芸春秋社)

 松花江は中朝国境の長白山(白頭山)の天池に源を発して、満洲を北流して黒龍江に注ぐ大河である。”9・18”は、中国側からすれば日本の侵略が始まった日のことで、翌1932年(昭和7年)3月に日本の関東軍は満州国を独立させ、傀儡政権を作り、そこから日本軍は1937年に日中戦争を起こし、国際的な非難に抗って米英を敵とする太平洋戦争に繋がって行く。満州国の支配は1945年の敗戦まで続いた。その間、満洲から流浪し、戦後も帰ることのできなくなったた人々は、この歌を歌いつつ望郷の気持ちを慰めたという。この曲のメロディーは哀調を帯び、単なる抗日歌(抗戦歌)に収まらないものがあって、それが長く歌い継がれている要因である。なおこの歌を基にして次の歌が作られた。

我的家在山的那一邊(私の家は山の向こうに)』(作詩:王琛/作曲:周藍萍)

 上記「松花江上」の歌を元にして戦後(1958年)の台湾で、映画「水擺夷之戀」の挿入歌として下記の詩が作られた。これは共産党との内戦に破れた中国国民軍が台湾に逃れ、一緒に移住した家族たちが故郷を思って歌った内容になっている。

私の家は山の向こうにある (我的家在山的那一邊)
そこには豊に茂った森があり (那兒有茂密的森林)
そこには果てしなき草原がある (那兒有無邊的草原)
春には稲や麦の種子を撒き (春天播種稲麥的種子)
秋には刈り取り新年を待つ (秋天收割等待著新年)
張おじさんは愁いがなく (張大叔從不發愁)
李おばさんはいつも楽観的 (李大嬸永遠樂觀)
窰洞(ヤオトン)から狸鼠が出てきてからは (自從窰洞裡鑽出來貍鼠)
一切がすっかり変わってしまった (一切都改變了)
(中略)
友よ 一時の安逸を貪るなかれ (朋友 不要貪一時苟安)
出来るだけ早く帰って (要盡快的回去 )
民主の火を燃やそうよ (把民主的火把點燃)
我らの育ったところを忘れてはいけない (不要忘了我們生長的地方)
それは山の向こうにある 山の向こうに (是在山的那一邊 山的那一邊)

 この歌を1989年5月27日、北京での天安門事件の直前(学生を中心とした民主主義を求める大規模デモが継続されている中)、テレサ・テン(鄧麗君)が、香港のハッピーバレーで30万人が集って開催された「中国への民主主義の歌」(民主化支援の歌)イベントで、「民主萬歳」と書かれた白鉢巻きを締め、学生たちの求めに応じて学生たちと同じジーパン姿でこの歌を歌い、抗議デモを続ける学生たちに連帯のエールを送った。しかし6月4日、北京でデモを行う学生たちは、出動した戦車を先頭とした軍隊によって多数の死者を出して鎮圧された。ちなみにテレサ・テンの両親はやはり中国から台湾に逃れてきた大陸人であり、父親は蒋介石国民党の軍人だった。

長城謡』(万里の長城の歌)

 日中戦争開始の1937年の春、中国で作られた歌で、今日まで歌われている。歌の内容は『松花江上』と同様、満州事変によって万里の長城以北にあった満州から追われた人々が望郷への断ち難い思いを歌ったものである。上海の映画会社が「関山万里」の撮影を開始し、潘孑農が劉雪庵に作曲を依頼した。しかしこの映画は、8月13日の日本軍の攻撃による上海事件を発端にして日中戦争へ突入し、完成しなかったため、劉雪庵は自主出版でこの歌を公開した。この歌はすぐに若者の反日運動の中で取り上げられ、また歌手の周小燕がレコード化し、反日戦争を支援した。

 同じ1937年にやはり上海で製作された映画「三星伴月」の挿入歌として『何日君再來』が、当時の人気歌手・周璇が唄って大ヒットとなったが、作曲は晏如、作詞は貝林とされていて、戦後にそれぞれ劉雪庵と黃嘉謨と判明する。この歌は上述するように戦時中から戦後にかけて中国では何度も禁止曲になり、それに伴い1957年以降、作曲家の劉雪庵は迫害を受け、同時に『長城謡』もその内容にも関わらず20年以上中国本土での歌唱を禁止された。しかし1949年末、共産党との内戦に敗れ、中国本土から台湾へ逃れてきた国民党政権の兵士や家族が移り住んだ台湾で、この『長城謡』は歌い継がれた。

 1979年、劉雪庵は潔白が立証され、この歌は中国本土に戻ってきた。1984年に香港の歌手張明民が北京テレビ局でこの歌を披露し、盲目になっていた79歳の劉雪庵は、自宅のベッドでこの歌を聞いた。1994年、やはりテレサ・テンが最後となるコンサートで中国との海峡の両側の統一を願って『長城謡』を歌った。

万里の長城の向こうに故郷がある (万里長城万里長、長城外面是故鄉)
コーリャンが実り大豆が香る 天災の少ない黄金色の大地 (高粱肥大豆香、遍地黃金少災殃)
そこに大きな災難がやってきて強姦略奪が横行する苦しみの中 (自從大難平地起、姦淫擄掠苦難當)
耐えられずに故郷を離れ、兄弟は離散し父母も失った (苦難當奔他方、骨肉離散父母喪)
忘れがたい憎しみ、日夜ただ帰郷を想う (沒齒難忘仇和恨、日夜只想回故鄉)
残虐な倭寇に対して、みんなで命をかけて反逆しよう (大家拼命打回去、哪怕倭寇逞豪強)
万里の長城の向こう側に故郷がある (万里長城萬里長、長城外面是故鄉)
四億の同胞の心を一つにして新たな万里の長城を (四萬萬同胞心一條、新的長城萬里長)
万里の長城の向こうに故郷がある (万里長城萬里長、長城外面是故鄉)
四億の同胞の心を一つにして新たな万里の長城を (四萬萬同胞心一條、新的長城萬里長)

 倭寇とは日本の侵略軍の意味で、四億とは当時の中国の人口であるが、テレサ・テンの歌では(統一への願いから)11億と変えられた。

 この歌は叙情歌として聞いても違和感のないメロディで、優しく美しい響きがある。2014年11月に、2022年冬季北京オリンピックに向けたプロモーションビデオのバックグラウンドミュージックとしても使われた。ただ、いずれも現今の日本人にとっては、その歌の内容が(中国国歌の『義勇軍行進曲』も含めて)知られることはほとんどない。日本という国は、そのような都合の悪い歴史教育をしないからである。

日本国内の出来事・様相(昭和11-12年:1936-1937)

昭和11年(1936年)

 1月:有楽町の日本劇場でラインダンスが初披露され、後に日劇ダンシングチームの代名詞となった。

 同月:第二次ロンドン海軍軍縮会議で日本が脱退を表明。これで日本は軍艦の建造を自由に進めた。

 同月:政府の石油代用燃料奨励により、木炭自動車の製造が開始される。

 2月26日:「昭和維新」を掲げた皇道派の21人の急進的な青年将校が1438名の兵を率いてクーデターを起こした。高橋是清蔵相、斎藤実内大臣他一名を殺害し、目的は宮城占拠であったが失敗し、東京・永田町一帯を一時占拠した。もともとは国家革新のために君側の奸を排除して天皇に直訴する計画が、逆に天皇を怒らせた結果、7月に首謀者17人に死刑が言い渡され、青年将校に大きな影響を与えた思想家の北一輝らも処刑された。(二・二六事件)

 3月:国際オリンピック委員会(IOC)総会で、昭和15年開催の第5回冬季オリンピックを札幌で開催することが決定、続いて4月、第12回オリンピック大会を東京で開催すると決定するが、日中戦争の拡大と国際的非難により2年後に返上する。

 4月:外務省は国号を「大日本帝国」に統一すると内外に発表するが、欧米諸国は取り上げなかった。

 5月:「満州農業移民百万戸移住計画」が策定される。すでにその前より新天地として自発的に移住する人たちが多くいたが、これにより貧しい青年たちや貧村などが村ごと半強制的に移住させられ、最終的には悲劇的結末を迎えることになる。

 8月:首相、外務、大蔵、陸軍、海軍の5人の大臣による「五相会議」が行われ、『国策の基準』が決定される。中国進出、対ソ連、南方進出や、軍需予算などが協議され、戦艦大和、武蔵などの建造計画も入っていた。

 同月:ベルリンオリンピックの女子200m平泳ぎで前畑秀子が優勝。

 9月:満州開拓移民の花嫁候補30余人が出発する。先に渡満して落ち着いた若い男性に花嫁をと役所が候補者を選び、集団で行かせた。その後も「大陸の花嫁」として、例えば写真だけが送られてきて結婚を決め、極端な場合は女性一人で満州まで行って、そこで初めて結婚相手と顔をあわせるという場合もあった。

 同月:わが国初の海底トンネルの関門トンネルの着工式が門司市で挙行され、6年後の昭和17年に貫通した。

 10月:東京で中学生1万人が参加しての「東京府下中学連合演習」という大軍事演習が行われた。一度兵役を終えて地元に帰っていた在郷軍人の将校たちが、学校の配属将校となって軍事教練を担当した。この配属将校制度は敗戦まで続けられた。

 11月:帝国在郷軍人会令が公布され、一度兵役を終えていた陸海軍軍人の300万人が必要に応じて再召集されることになった。

 同月:帝国議会新議事堂(国会議事堂)が竣工

 同月:大日本傷痍軍人会が発足し、九段の軍人会館にて発会式が行われた。この頃の傷痍軍人は全国で43万人で、後々まで厚遇される。

 同月:日本野球連盟(プロ野球)が発足

昭和12年(1937年)

 2月:敵性表記廃止の方針で、駅名からローマ字を消した。

 同月:衆議院本会議で、無所属の尾崎行雄が国防費激増の原因を問い、軍部の政治関与を批判する大演説を行った。

 同月:兵役法施行令が改正され、徴兵検査の身長が5cm引き下げられた。

 3月:戦闘機神風号が福岡・立川間で試験飛行をする。

 同月:日本の中国侵攻作戦を受けて、アメリカが日米通商条約の破棄を通告する。(6ヶ月後実行)

 4月:朝日新聞社の純国産機「神風号」が、東京ロンドン間1万5千kmを94時間18分で達成。これは欧亜連絡飛行の世界記録であった。

 同月:文部省は『国体の本義』を作成、全国の学校や公的機関に配布した。国体とは天皇を宗主とする国の体制をいう。共産主義や無政府主義を否定するだけでなく、民主主義や自由主義、個人主義をも国体にそぐわないものとした。民主とか自由という言葉を発すること自体、特攻警察の取締りの対象となっていく。

 同月:「防空法」が公布され、予測される空爆に対して灯火制限、防毒、消毒、避難、救護などの訓練実施と、これらの監視、通信、警報が定められた。また木造家屋では焼夷弾による火災は防げないとして、学校などは鉄筋コンクリートの建造物が増加していく。

 同月:「奇跡の人」ヘレンケラーが浅間丸にて来日

 6月:NHKのラジオ聴取者数が300万を突破

 7月:中国において盧溝橋事件発生。政府は盧溝橋事件を受けて臨時閣議を開き、事件不拡大方針を決定するが、連鎖的に事件は続き、8月13日に第二次上海事変が起こり日中戦争(支那事変)に突入、そしてそのまま8年間、つまり昭和20年の日本の敗戦まで続くが、日本の中国への侵略作戦に対する米欧の経済制裁などに反発し、昭和16年12月に米欧を相手に太平洋戦争に突入する。昭和6年の満州事変から継続している戦争として、全体を15年戦争(昭和の戦争)とも呼ぶ。

 同月:これによって政府は報道統制を強め、軍隊の行動を含め、写真や記事などは検閲され、写真掲載の際は「陸軍省許可済」の証が必要となった。

 同月:浅草に東洋一の国際劇場が開場する。定員は3993名で、こけら落としは松竹少女歌劇団(SKD)の『東京踊り』であった。

 8月:政府は日中戦争をきっかけに「国民精神総動要綱」を決定、その運動を推進する団体の設立を各道府県と市町村に指示した。

 同月:政府は映画の出だしに『挙国一致』『銃後を護れ』などのスローガンを入れることを義務付ける。その後『贅沢は敵だ!』『進め一億火の玉だ』『欲しがりません勝つまでは』などの標語も生まれた。

 同月:海軍飛行予科練習生に甲種として16歳からの短期修行期間の別枠を設け、募集すると応募が殺到、第一期の採用は250名、その後ほぼ年に2回募集する。ちなみに予科練を終えると本科に行き、正式な飛行練習生となる。なおこの予科練出身者2.4万人のうち、8年後の敗戦まで、19万人がその若い命を散らした。

 9月:後楽園球場が開場する。

 同月:国際連盟が、日本の中国都市爆撃非難決議を採択する。

 10月:国民歌唱のラジオ放送が開始される。第1回は「海ゆかば」となる。

 同月:宝塚少女歌劇のレビューは『皇国のために』という軍歌調となった。これ以降、『南京爆撃隊』や『軍国女学生』などが演目となるが、宝塚の観客動員数は激減する。

 同月:商工省は物資統制となる『臨時輸出入許可規則』を公布。これによって綿花、化粧品、オレンジなどの果物、紅茶などをぜいたく品として輸入禁止にした。

 同月:日本橋高島屋で愛国国民服展覧会が開かれた。

 同月:愛知県は県下三十余校の女学校に愛国子女団を結成し、軍事教練を実施すると決定。この動きは全国に波及する。

 11月:イタリアローマにて『日独伊三国防共協定』の調印が行われる。

 同月:日独伊防共協定成立祝賀記念国民大会が5万5000人を集めて後楽園球場で行われた。

 同月:日本赤十字本社は全国33の病院の中、17病院を日中戦争傷病者収容にあて一般の入院を中止する。

 12月:武蔵村山市に少年飛行兵用の東京陸軍航空学校を開校し、募集を年二回とする。年齢は満年齢で15歳以上17歳未満であった。

 同月13日:日本軍の南京占領を受け、東京では南京陥落祝賀の提灯行列が行われた。翌日、全国でも南京陥落の祝賀提灯行列が行われる。

童謡・流行歌(昭和11−12年:1936−1937)

童謡・唱歌

『椰子の実(やしのみ)』 昭和11年 作詞:島崎藤村/作曲:大中寅二

—— 「名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ 故郷の岸を離れて 汝(なれ)はそも波に幾月」

『うれしいひなまつり』 昭和11年 作詞:サトウハチロー/作曲:河村光陽

—— 「あかりをつけましょ ぼんぼりに お花をあげましょ桃の花 五人ばやしの笛太鼓 今日はたのしい ひなまつり」

『山寺の和尚さん』 昭和12年 作詞:久保田宵二/作曲:服部良一

—— 「山寺の和尚さんが 毬(まり)はけりたし毬はなし 猫をかん袋に押し込んで ポンとけりゃニャンとなく ニャンがニャンとなく ヨイヨイ」

『かもめの水兵さん』 昭和12年 作詞:武内俊子/作曲:河村光陽

—— 「かもめの水兵さん 並んだ水兵さん 白い帽子 白いシャツ 白い服 波にチャップチャップ 浮かんでる」

『かわいい魚屋さん』 昭和12年 作詞:加藤省吾/作曲: 山口保治

—— 「かわいい かわいい魚屋さん ままごとあそびの魚屋さん こんちはお魚いかがでしょ お部屋じゃ子供のおかあさん今日はまだまだ いりません」
歌謡・叙情歌

<昭和11年>

『東京ラプソディ』 作詞:門田ゆたか/作曲:古賀政男

—— 「花咲き花散る宵も 銀座の柳の下で 待つは君ひとり君ひとり 逢えば行く ティールーム 楽し都恋の都 夢のパラダイスよ 花の東京」

『うちの女房にゃ髭がある』 作詞:星野貞志/作曲:古賀政男/歌:杉狂児・美ち奴

—— 「何か言おうと思っても 女房にゃ何だか言えません そこでついつい嘘を言う “なんです あなた” “いや別に 僕はその あの” うちの女房にゃ 髭がある」

『忘れちゃいやよ』 作詞:最上 洋/作曲:細田義勝/歌:渡辺はま子

—— 「月が鏡であったなら 恋しあなたの面影を 夜毎うつしてみようもの こんな気持ちでいるわたし ねえ 忘れちゃいやよ 忘れないでね」

『ああそれなのに』 作詞:星野貞志/作曲:古賀政男/歌:美ち奴 『うちの女房にゃ』の映画の主題歌として大ヒットした。

—— 「空にゃ今日もアドバルーン さぞかし会社で今頃は おいそがしいと思うたに ああそれなのにそれなのに ねえ おこるのは おこるのは あたりまえでしょう」

『愛して頂戴』 作詩:西条八十/作曲:中山晋平/歌:佐藤千夜子

—— 「一目見た時 好きになったのよ 何が何だかわからないのよ 日暮れになると涙が出るのよ 知らず知らずに泣けてくるのよ ねえねえ愛して頂戴ね」

*上記三つの「ねえねえソング」などは一世を風靡したが、時節柄好ましくないとされて、治安警察法が適用され、原盤の破棄、流通在庫の回収を求められた。 『忘れちゃいやよ』は2カ月で10万枚も売れてしまったあとだったが、タイトルを「月が鏡であったなら」と変え、歌詞から「ねえ」を削除して再発売された。

 これをきっかけに、渡辺はま子は戦地慰問に力を入れ、中国の戦地を巡った。終戦時にも中国の天津慰問をしているところであったが、そのまま中国側の捕虜となり、10ヶ月拘留された。その後、昭和27年、フィリピンで戦犯として死刑囚となっていた元日本兵たちの一人が作った歌(「モンテンルパの夜は更けて」)を送られ、それを歌うことがきっかけで死刑囚たちを救い出すために奔走して釈放のきっかけを作るという、数奇な生涯を送った。また渡辺は淡谷のりこと同様、クラシック歌手を目指していたが、二人とも迷いつつ流行歌の世界に入り、成功した例である。

『暗い日曜日』 作詞:J.Marezes・F.Eugene Gonda /作曲:Rezso Seress/歌:淡谷のり子(英語: Gloomy Sunday, フランス語: Sombre Dimanche)

—— 「花を飾りて 心待ちに君を待てども なぜかなぜか 君は見えず 愛の夢も今はむなし 窓の外は霧か雨か 暗い暗い空の色よ ソンブル ディマンシュ(暗い日曜日)」

 日本語の歌詞は各種あり、1933年、ハンガリーを中心にこの歌が世界中で大ヒットしたものの、自殺者や心中ムードを煽り立てるとして各国で発売中止となり、「自殺の聖歌」と言われた。

 淡谷はクラシックの声楽を学んでいたが、教師の反対を押し切って歌謡界に転身しただけあって、進取の気性があり、この歌も淡谷でなければ取り上げなかったであろう。

<昭和12年>

『人生の並木路』 作詞:佐藤惣之助/作曲:古賀政男/歌:ディック・ミネ

—— 「泣くな妹よ 妹よ泣くな 泣けば幼い 二人して 故郷を棄てた かいがない」

 この年公開の日活映画『検事とその妹』の主題歌であるが、戦後も歌のタイトルでTVドラマにもなり、長く歌い継がれた歌である。

『春の唄』 作詞:喜志邦三/作曲:内田 元  NHKの「国民歌謡」の一つとしてとして発表された。

—— 「ラララ 紅い花束 車に積んで 春が来た来た 丘から町へ すみれ買いましょ あの花売りの 可愛い瞳に 春のゆめ』

『マロニエの木蔭』 作詞:坂口 淳/作曲:細川潤一/歌:松島詩子

—— 「空はくれて丘の涯に 輝くは星の瞳よ なつかしのマロニエの木蔭に 風は想い出の夢をゆすりて 今日も返らぬ歌を歌うよ」

 フランスのパリへの強い憧れを歌っているが、哀愁のあるモダンなタンゴのリズムに乗せ、戦争に向かう暗い不安な時代に生きる若者の心を慰め、ヒット曲となった。

『若しも月給が上がったら』 作詞:サトウハチロー/作曲:北村 輝/歌:林伊佐緒・新橋みどり

—— 「もしも月給が上がったら わたしはパラソル買いたいわ 僕は帽子と洋服だ 上がるといいわね 上がるとも いつ頃上がるの いつ頃よ そいつがわかれば苦労はない」

『妻恋道中』 作詞:藤田まさと/作曲:阿部武雄/歌:上原 敏

—— 「好いた女房に三下り半を 投げて長脇差(ながどす)永の旅 怨むまいぞえ 俺等のことは またの浮世で逢うまでは」

『裏町人生』 作詞:島田磐也/作曲:阿部武雄/歌:上原敏・結城道子

—— 「暗い浮世のこの裏町を 覗く冷たいこぼれ陽よ なまじかけるな薄情け 夢も侘びしい夜の花」

『すみだ川』 作詞:佐藤惣之助/作曲:山田栄一/歌:東海林太郎)

—— 「銀杏返しに黒繻子(くろじゅす)かけて 泣いて別れたすみだ川 思い出します観音さまの 秋の日暮れの鐘の声」

『別れのブルース』 作詞:藤浦 洸/作曲:服部良一/歌:淡谷のり子

—— 「窓を開ければ港が見える メリケン波止場の灯が見える 夜風汐風恋風のせて 今日の出船はどこへ行く むせぶ心よはかない恋よ 踊るブルースの切なさよ」

 今にも残る淡谷のり子のブルースシリーズの先駆けの歌である。 服部は藤浦に「本牧ブルース」のタイトルで持ちかけ、淡谷の歌う洋楽の『暗い日曜日』(前年)を耳にし、「彼女に歌わせよう」と決め、『別れのブルース』へと改名した。すぐには売れなかったが、翌年末から日本の占領地満州・大連のダンスホールで火がつき、日本国内に飛び火した。しかし詞も曲も頽廃的で時局にそぐわないとして発売禁止となった。翌12年7月からの日中戦争の兵士たちにも広まり、その後本人が戦地に慰問に行ったところ、この歌のリクエストが常にあり、それを知る将校や憲兵達は見ないふりをして外に出て、中庭で泣いている姿があったと淡谷は語っている。歌は人の心に訴える力はあるが、残念ながら戦争を止める力はない。事実、太平洋戦争末期、淡谷は鹿児島の知覧の特攻基地に行き、歌っている途中に若い隊員たちが挨拶をして一人ひとり去って行く時、淡谷は涙を抑えることができなかったと言い、さらに歌い終えて隊員たちは感動した旨を言い「これで思い残すことはありません」と淡谷に伝えた。ある意味、歌がこれから死地に赴く彼らの気持ちを救ったと言っていいのかどうか。

『アマポーラ(Amapola)』 ホセ・ラカジェが1922年に発表したメキシコの歌で、詩はルイス・ロルダン。スペイン語でヒナゲシの花(虞美人草)を意味する。淡谷のり子が取り上げて歌った。訳詞者不明。

—— 「ひなげしよ 美しきひなげしよ いつだって僕の心は君だけのもの 君が好きだ 僕の愛しい子 花が昼の陽射しを愛するように」

 第二次大戦中も欧米で取り上げられ、戦後も世界中で歌い継がれた名曲。

昭和13年(1938年)

軍事的動向(日中戦争)

 日本軍は中国への派兵を進める一方で、前年11月より駐中国ドイツ大使トラウトマンを仲介する中国との和平交渉も進めていた。ところが12月13日の南京陥落を受けて、日本は和平交渉の条件を吊り上げ、中国に対してより厳しい態度で臨んだ。そして 昭和13年(1938)1月、近衛文麿内閣が「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して更正新支那の建設に協力せんとす」と声明した。この新興支那政権とは日本軍が占領地域に作った行政機関のことで、具体的には「中華民国臨時政府」(12年12月成立/北京・王克敏行政委員長)、「中華民国維新政府」(13年3月成立/南京・梁鴻志行政院長)などのことで、満州と同様の傀儡政権であった。

 相手にせずとしたのは中国共産党と国共合作をした中国国民党の蒋介石国民政府、要は中国の実権を握る軍政権であって、これによって中華大使に帰国命令を発し、国民政府も駐日大使の帰国を発し、両国の外交は断絶する。このことで日中戦争は逆に出口を失った。つまり陸軍参謀本部としては中国との戦争が長引けば兵力を中国本土に自軍を拘束せざるを得ず、実際に中国は降伏するどころか、重慶に撤退して長期戦の体制を作り、それでは困るとむしろ和平交渉の成立を一方では望んでいたが、近衛内閣はその中国軍を指揮する国民政府を相手とせずして、その相手の軍との戦闘は継続するという奇妙な形を作ってしまった。日本政府としては小さな傀儡政権を作ったからそれで良しとしたのだが、実情は満州と大違いで、中国本土の前線の実態を分析できない近衛首相の致命的な判断ミスであった(本人は後に反省しているが、戦争において反省しても失った国民の命は取り返しがつかない)。軍人の暴走がよく言われるが、はるか後方の机上の政権の思慮の浅い判断ミスの方がバカにならない。ちなみにこの時の「◯◯を相手とせず」は流行となる。

 いずれにしろ南京占領後日本政府は当面戦線の不拡大方針をとっていたが、この年3月から4月7日までの間、山東省最南部の台児荘付近の攻略を企図した日本軍部隊が、中国軍の大部隊に包囲され大きな犠牲(戦死2369、戦傷9615、総計1万1984名)を出して撤退した(台児荘の戦い)。

 日本軍はそこからすぐに転戦して4月7日から6月7日まで、「徐州作戦」を行い、江蘇省・山東省・安徽省・河南省の一帯で南北からの包囲網で中国軍(国民党革命軍)と戦ったが、中国軍は途中から退却戦術をとったため、徐州は占領したが包囲戦は失敗に終わった。日本軍30万以上、中国軍50−60万人の激戦で、日本側の戦死者約1万、負傷者推定約2万、中国側の死者は推定約5万となった。この間の5月、日本は北京に北支那開発株式会社を成立させ、 政治・軍事・文化・経済体制をほぼ確立した。独自の通貨として中国連合準備銀行券(連銀券)を発行し、華北自治軍という軍事組織を保有した。

 さらに日本軍は蒋介石政権の降伏を目指し、近衛内閣は「東亜新秩序の建設こそが日本の聖戦の目的/抗日容共政権を殱滅する/蒋介石政権は中国全土を代表せず」と表明して、9月に入って武漢(漢口)作戦が行われ進攻を開始、9月下旬に揚子江下流の要衝が陥落、10月17日には蒋介石は漢口から撤退、25日には中国軍は漢口市内から姿を消し、翌日から日本軍は武昌、漢口 、漢陽の三都市を占領した。さらに11月に入って通城と岳州を占領したが、天然の要害である首都重慶の攻略が困難なことで手詰まりとなり、限界に達し作戦は終了した。(この戦いでは日本軍35万人、戦死者9500、負傷者2万6000、戦病死者900。中国軍は110万の兵力のうち、戦死者は20万人近くとされる。これは航空機が500対200という戦力の差と、揚子江を上ってきた日本軍艦船が120隻という差が大きいと思われる。また日本軍は毒ガス兵器を実戦使用したとされるが、これが初めてではない)

 これに並行して陸海軍共同で兵力7万人で「広東作戦」を展開、10月12日、白耶士に奇襲上陸、21日に広東(広州)に入城し、翌日には珠湾を封鎖して香港・広東ルートを遮断、外国船の出入りを禁止した。そして早くも11月初頭には広東附近の要域を制圧占拠した。早期に決着したのはやはり11万人の中国軍が、例のごとく戦いながら撤退していったことによる。日本軍の戦死者は173、戦傷者は493名であった。ただ日本軍の大攻勢はこのあたりまでであった。

 日本軍による広東、武漢の相次ぐ占領にもかかわらず、和平の見通しが立たなかったため、近衛内閣は11月3日に再度声明を発表、東亜新秩序建設に関する声明として、「国民政府といえども新秩序の建設に来たり参ずるにおいては、あえてこれを拒否するものに非ず」と述べ、年初の「国民政府を対手とせず」の発言を修正した。

軍歌(昭和13年:1938)

『皇軍大捷の歌』

 昭和13年 作詞:福田米三郎/作曲:堀内敬三

 毎日新聞が懸賞募集して成功した『露営の歌』に負けじと、南京陥落を受けて12年の12月末、南京陥落前に東京と大阪の朝日新聞が、このタイトルで懸賞金を増額して歌詞を募集した。その募集要項は「皇軍将士の世界に比なき忠勇義烈の武勲を讃仰し…銃後の決心をますます強固ならしむるため」であった。当選したのは召集令状を待つ身の会社員であった。13年早々に発表された。


国を発つ日の万歳に
痺れるほどの感激を
こめてふったもこの腕ぞ
今その腕に長城を
越えてはためく日章旗

焦りつく雲に弾丸の音
敵殲滅(せんめつ)の野にむすぶ
露営の夢は短夜に
ああ泥濘の追撃の
汗を洗へと大黄河
4(3略)
首都南京は遂に陥つ
焼けた砲銃の手をとめて
につこり笑めば隊長も
莞爾(かんじ)と見やる城壁に
御陵威(みいつ)かがやく朝日影
皇軍大捷(たいしょう)万万歳

 大捷=大勝利のこと。1.の長城とは、中国の万里の長城のことで、すでに占領していた満州は、その北側にあった。この日中戦争では南に向かって長城を越え、大黄河を渡って(一方で沿岸部からの増援もあったが)上海、南京を攻略したということである。それもこれも天皇の御陵威(御威光)があってこその大勝であると言っている。

『南京陥落大勝利』(作詞:佐伯孝夫/作曲:飯田信夫)

勝った勝った勝った日本勝った
上海太原蘇州を破り 目指す南京
どどんと陥として 勝った勝った勝った
大勝利この大勝利

(以下7番までだが、「勝った勝った」が狂騒的に繰返される)

 高名な作詞家としてはまったく抑制の効かない詩になっている。侵略された他国の人々がどんなひどい目に遭っているか、どういう気持ちに立たされているか、つまり他人の立場や気持ちというものを推し量ることをしようとしない、あるいはできない時代であったというしかない。人の情に通じているはずの作詞家がこうであり、いわゆる文化人や識者に至るまでこのような感情に支配されてしまっていた。この南京陥落と報じられた時、新聞は大々的に報じ、日本国内ではこの歌のように街中で祝勝会や提灯行列が行われた。その裏でどれだけの犠牲者があったかなど、少しでも思う人が当時いたであろうか。人間はいろんな経験を経て考える人がいるから、いなかったわけはないと思う。ただ表向きそれを発言できる時代ではなかった。

 今ひとつ、「放送軍歌」つまりNHKで流された歌である。

『南京陥落』(作詞:川路柳虹/作曲:池譲)

3(1、2略)
上海陥ちてまたたく間
早くも迫る棲霞山
空陸応ず猛撃に
要害凡(すべ)て潰(つい)えたり
6(4、5略)
南京陥ちぬ吾捷(か)ちぬ
東亜の空は光さす
覚めよ四億の無辜(むこ)の民
皇威を知るは此の歌ぞ

 日本中が狂騒の中にいるといっていいが、「覚めよ四億の無辜の民」とは、当時中国の人口が4億人であったからで、中国の罪なき人々よ、目を覚まして皇威(皇軍の威光)を知りなさいという、すでに中国全土を支配化に置いたような勝手な思い込みの歌である。

『かちどきの歌』

 作詞:大岡博/作曲:佐々木俊一


戦友よ目を上げて見よ
雪の山野をひた走り
雄叫び高く風を呼ぶ
血潮の旗だ日の丸だ

北は万里の長城に
返す木魂(こだま)は万歳の
黄河の波も湧き上がる
正義の声だ勝鬨だ
5(3、4略)
敵が最期の南京に
晴れの入城 靴の音
紫金山下に駒停めて
霜に翳すや日本刀

黄河の敵もなり潜め
太原城の包頭に
亜細亜は朝だ夜は明ける
五億の民に夜は明ける

 日中戦争開始から、南京入城までを歌っている。そこで中国を降伏させたつもりが、ここからが泥沼の戦いになって行った。「紫金山下に駒停めて 霜に翳すや日本刀」の紫金山の麓は多数の中国兵が投降し、捕虜となった彼らをそのまま虐殺した場所であるが、日本刀をかざす暇などはなく、機関銃で囲んで殺戮した。五億の民とは、このころの中国は四億で、日本と植民地朝鮮と台湾を含めて五億としているのかどうか。それは別として日本軍が占領した地域は広大な中国の大地のほんの一部であって、亜細亜の朝というにはほど遠い状態であることを、日本人は認識できていなかった。

『少国民愛国歌』

 昭和13年 作詞 星野尚夫/作曲 橋本国彦

 前年11月、大阪と東京の毎日小学生新聞がこの題で歌詞を募集した。この時に使われた「少国民」という言葉が、のちの太平洋戦争時に定着していく。


国を思えば血が躍る 胸のしるしも日の丸の
われらは日本少国民
(この行繰り返し、以下同)
かけよかけかけ 真先かけて
愛国競争それかけよ
(終行繰り返し)

御代の光に生いたちて
清い使命を受けついだ
われらは日本少国民
かけよかけかけ ぐーんとぬけぬけ

世界平和の決勝点
見えた頑張れもうすぐだ
われらは日本少国民
かけよかけかけ 真先かけて
(以下略)

 明治時代から軍歌は小学唱歌にも組み込まれていたから、子供にとって慣れた言葉であったろうが、国際情勢など全くわからないから「世界平和の決勝点」が見えたと言われれば、そうなのかと思い、このあたりから男の子は、大きくなったら戦争に行って天皇と国のために死ぬのだろうと思い始めていた。終戦時に中学生の年齢だった人は後にみんなそう語っている、そのように教育すれば、子供はそのままそうなのかと信じてしまうのである。何しろ学校の教師も国民の大半も、軍の報道管制によってこれが天皇の御意による正義の戦争であると信じていたから他に考えようがない。それに染まらなかったごく少数の子供は、親がたまたま国際情勢に通じる立場にいて、なお分析力に長け、密かに「この戦争は間違っている、勝てる見込みはない」と聞かされていた場合だけである。なおこの他に『少年少女愛国の歌』というのも主婦の友社から募集され、発表されている。

『二輪の桜』(戦友の唄)

 昭和13年 作詞:西條八十/作曲:大村能章

 最初は講談社の雑誌「少女倶楽部」2月号に掲載された詩に、大村が曲をつけた。のちに『戦友の唄』と改題された。その後、『同期の桜』(下記参照)として改詩され、それが広まった。


君と僕とは二輪の桜
同じ部隊の枝に咲く
血肉分けたる仲ではないが
なぜか気が合うて離れられぬ

君と僕とは二輪の桜
積んだ土嚢の蔭に咲く
咲いた花なら散るのは覚悟
見事散りましょ皇国の為
4(3略)
君と僕とは二輪の桜
別れ別れに散ろうとも
花の都の靖国神社
春の梢で咲いて会う

 なぜ少女雑誌にこのような歌が載せられるのかわからないが、その挿絵には若い女性が手を取り合う姿がある。つまり少女たちの好む「友情」という花を咲かせ、その友情をもってして必要とあれば国のために命も捧げましょうということであろうか。老若男女、子供を問わず、戦争を大前提とした思考停止の時代にあったとしか考えようがない。こうして学校における軍国教育や雑誌などでも念押しをされ、軍国少年や軍国少女が出来上がっていく。軍国少年は大きくなったら戦争に行って勇敢に戦い、死んで英霊となって靖国神社に祀られるのだと思い込むようになる。

『愛国の花』

 昭和13年 作詩:福田正夫/作曲:古関裕而/歌:渡辺はま子

 前年にNHKラジオの国民歌謡として作られ、この年にレコード化された。『愛国六人娘』と同じく、銃後を守る婦人の思いを桜、梅、椿などにたとえている。歌のヒットを受けて、17年松竹により映画化された。ちなみに渡辺はま子は、2年前に歌った『忘れちゃいやよ』が発禁になってから、積極的に愛国歌(戦時歌謡)を歌い、軍隊の慰問活動などに身を捧げるようになった。


真白き富士のけだかさを
こころの強い楯として
御国につくす女等は
輝く御代の山ざくら
地に咲き匂う国の花

老いたる若き諸共に
国難しのぐ冬の梅
かよわい力よくあわせ
銃後に励む凛々しさは
ゆかしく匂う国の花

勇士の後をあとを雄々しくも
家をば子をば守りゆく
優しい母や、また妻は
まごころ燃える 紅椿
うれしく匂う国の花

御稜威(みいつ)のしるし菊の花
ゆたかに香る日の本の
女といえど生命がけ
こぞりて咲いて美しく
光りて匂う国の花

 いくらこのように銃後を守る婦人たちを「国の花」として美しく描こうと、太平洋戦争が始まる前の昭和15年ごろから日本は各国から経済制裁にあい、国内は物資不足で家庭からも金属類供出を強いられ、軍隊へ食糧が優先的に供出されるから国内の食糧不足は深刻で、さらに食糧どころか衣類まで切符制になり、「贅沢は敵だ!」というスローガンのもと、国民は窮乏生活を強いられた。そして19年の晩秋から、米軍による大空襲が始まり、日本の都市という名のつく町は破壊され、約8ヶ月で原爆死も含めて約50万人の民間人の死者を出した。

 この実態のどこに美しさがあるのか。それでも丸焦げになって焼け死んだ銃後の婦人たちや子供たちは「美しく」死んだと思えようか。この歌のような虚飾(ごまかし)を続けた結果、20年に入り、敗戦が誰の目にも濃厚になっても、軍政府は引き際を見極められず、東京で10万人、本土決戦代わりの沖縄戦で20万人(うち民間人10万人)、広島と長崎で20数万人の国民を死に導いた(海外の戦地での戦死者260万人)。そして敗戦が決まると軍政府は内外の軍事関連資料を全て焼却させ、自分たちの責任を逃れようとした。これを裏返せば聖戦や正義の戦争ではなかったことになる。こんな無責任な国があるのであろうか。

 ちなみにこの歌は、他の歌と一緒に日本軍が侵攻した東南アジアの各地でも兵士が広めて歌われたという事実があるが、メロディが良いこともあってインドネシアのスカルノ大統領が大変好み、自らインドネシア語の歌詞をつけて「ブンガ・サクラ(サクラの花)」というタイトルを付けた。この歌は、1962年2月に当時の皇太子明仁親王・美智子夫妻がインドネシアを訪問したときの歓迎行事で、青年たちによって歌われた。

『皇国(みくに)の母』

昭和13年 作詞:深草三郎/作曲:明本京静

 芸者風の音丸が歌ってヒットした。「軍国の母」、「九段の母」と並んで、軍国の母もの三部作の一つ。いずれも軍国歌謡として位置づけられる。


歓呼の声や旗の波
あとは頼むのあの声よ
これが最後の戦地の便り
今日も遠くで喇叭の音(ね)

想えばあの日は雨だった
坊やは背(せな)でスヤスヤと
旗を枕にねむっていたが
頬に涙が光ってた

ご無事のお還り待ちますと
言えばあなたは雄々しくも
「今度逢う日は来年四月
靖国神社の花の下」

東洋平和の為ならば
なんで泣きましょう国の為
散ったあなたの形見の坊や
きっと立派に育てます

 この中の「今度逢う日は…靖国神社の花の下」の靖国神社とは、明治以来の国家的戦争における戦死者を祀る神社として存在する。例えば戦死者の子の一部を選んで「靖国の子」として神社に招待する行事も為し、それを新聞雑誌が大きく報道した。しかし中には、国に子の命を犬死のように奪われたとして、ここに祀られることを拒否する親もいた。いずれにしても「東洋平和の為ならば」、何百万人の日本国民の命や、その日本が侵攻した結果、中国や東南アジアの人々のその何百万以上(否、一千万人以上)の命を犠牲にしてもよいということであったのか。そもそも犠牲とは何なのか、当時の多大な命の犠牲があって今の日本の復興と平和があると綺麗事をいう人が多い。では聞くが、その犠牲になった人々の分も背負ってあなた方は生きているのかどうなのか。筆者個人に関していえば、とてもそんな生き方は重すぎてできず、今現在の自分一人が生きるのに精一杯である。この歌も含めて、犠牲という言葉を軽々しく言える人は幸せである。

 一つ言えることは、この戦争で、内外の多くの有能な若者が自分の夢を捨て、親孝行もできずに(この時代は戦争で死ぬことが親孝行とされたが、そんな馬鹿なことがありえようか)無念の思いを込めて死んで行った。彼らがもし生きていたなら、敵味方なくお互いに国際交流を深めて、もっと良い世の中になっていたのではないか?というのも、彼らを死に追いやって、敗戦となった瞬間に責任逃れをした連中の多くが、その後も国の中枢に戻って国を動かしてきた。この事実をどう思うのか。

『婦人愛国の歌』

 昭和13年 作詞:二科春子/作曲:古関裕而

 主婦之友社が懸賞募集して当選した愛国歌の一つ。


抱いた坊やの 小さい手に
手を持ち添へて 出征の
あなたに振つた 紙の旗
その旗かけで 日本の
妻の覚悟は 出来ました

今日は母校の 講堂で
戦地へ送る 日の丸や
真心こめた 慰問品
その針々を 日本の
妻の誠で 縫ひました
4(3略)
進めば屠る 敵の陣
御稜威(みいつ)に勇む 皇軍の
銃後を守る わたしたち
その栄光に 日本の
婦人は強く 立ちました

 「母校の講堂で」というのは、この頃は女学生も勤労奉仕が始まっていて、戦地の兵士に送るための慰問品(マスコット人形や靴下、日用品など)を授業時間を削って作り、それを慰問袋に入れて千単位で送っていた。これを卒業生たちも結婚した女性も含めて母校で手伝っていいたということだろう。まさに国家総動員で、婦人雑誌も軍歌を公募して「銃後」の応援をする。国民総思考停止状態に陥っているのが見え、建前上の言葉で覆われ、こうして並べて読んでいるだけで辟易するものがある。主婦之友社はこの後も募集して、『少年少女愛国の歌』、『ぼくらのへいたいさん』も作る。

 ちなみに勤労奉仕とはあくまで奉仕作業で、昭和16年あたりから始まる学徒勤労動員は、軍需工場などへの動員であり、有給であった。また卒業生、あるいは女学校にも行けないで就業していない14歳以上の女性は女子挺身隊として召集された。

『日の丸行進曲』

 昭和13年3月 作詞:有本憲次/作曲:細川武夫

 やはり毎日新聞(大阪と東京日日)が募集した懸賞歌で、応募数は2万4千通であった。

 吹き込みは、6人の歌手の合唱であった。ビクターレコードの大宣伝も功を奏し、15万枚のレコードを売った。これとは別に陸軍はこの歌を中心に別録音したレコードを戦地の兵士たちに配ったという。


母の背中にちさい手で
振ったあの日の日の丸の
遠いほのかな思い出が
胸に燃え立つ愛国の
血潮の中にまだ残る

梅に桜にまた菊に
いつも掲げた日の丸の
光仰いだ故郷(くに)の家
忠と考とをその門で
誓って伸びた健男児
4(3略)
去年の秋よ強者に
召出だされて日の丸を
敵の城頭高々と
一番乗りにうち立てた
手柄はためく勝ちいくさ

永久(とわ)に栄える日本の
国の章(しるし)の日の丸が
光そそげば果てもない
地球の上に朝が来る
平和かがやく朝がくる

 健男児に育った子が、母の背中で小旗を降った時の愛国の血潮を残したまま、応召して日の丸を敵の城頭に高々とうち立てた。しかし、地球の上に朝が来て、日の丸にその光がそそぎ、平和かがやく世となるのことはなく、この年から7年以上も後に気がつけば太陽が沈みかかった夕刻で、しかも敗戦という事実を背負ってそこから長い夜を送らねばならなかった。日本人だけで310万人以上の命(中国を含む海外では少なくとも一千万人以上)を犠牲にした。

『トコトン節』

 昭和13年 作詞:佐久良武志/作曲:中山晋平/歌:小唄勝太郎

1.
支那で名高い 天下の嶮でも
大和魂がどんとぶつかりや 何のその
サテ 南口 居庸関に雁門で
チョイト 太原もひと跨ぎ
ソレ さあさ行け行け とことんとんまで
挙国一致で 暴支膺懲 暴支膺懲
4(2、3略)
支那で頑張る 長期の抵抗も
御稜威あまねく 堂々進めば 何のその
サテ 四百余州の果て迄も
チョイト 報国眼のあたり
ソレ さあさ行け行け とことんとんまで
挙国一致で暴支膺懲 暴支膺懲

 当時の芸者風歌手の小唄勝太郎が歌ったが、お座敷で歌われる歌も軍国調になるのは避けられなくなった。「暴支膺懲」とは日中戦争で使われたスローガンで、「暴戻(ぼうれい)な支那(しな)を膺懲(ようちょう)す」、つまり「暴虐な支那(中国)を懲らしめよ」の意味。この歌は盆踊りの曲調で作られているが、いかに日本国内が中国戦で舞い上がっていたかを表す歌となっている。四百余州とは全中国のことであるが、むしろ南京陥落後に中国軍は奥地の重慶に撤退して体制を立て直すことで、日本軍は攻めあぐねて泥沼の長期戦となった。その中途半端な状態から日本軍は太平洋戦争に突入することになる。

『涯なき泥濘』

 作詞:徳土良介/作曲:能代八郎


ゆけどもゆけども涯しなく
いつまで続くかぬかるみぞ
銃執る我等はひるまねど
声なき愛馬がいたはしや
3(2略)
ぬかるみあれども水はなく
せつなや煙草は箱ばかり
糧食輸送の友軍機
仰げと雲間にまだ見えず

踏み締め踏み越え辿り来て
木陰に愛馬とまどろめば
浮かぶは故郷の夢ならで
泥濘飽くなき明日の道

前進前進どこまでも
我等は正義の旗翳(かざ)す
泥濘亜細亜を巡るとも
邪悪の砦はなおも衝(つ)く

 警察官からスカウトされた小野巡が歌い、大ヒットした戦時歌謡。上記『トコトン節』にある「四百余州」の広大な土地を甘くみた結果、「ゆけどもゆけども涯しなく」続く泥濘の道を「正義の旗」を掲げながら「邪悪の砦」を突き破りつつ進軍する様子が描かれている。そして中国ばかりでなく、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦後においても東南アジアの泥濘の道を涯しなく行軍することになる。掲げた正義の旗はどこに消えたのか。

『湖上の尺八』

 歌詞:深草三郎/作曲:明本京静


名残の月の影淡く
今日も戦さの夜は明けて
風肌寒き太湖上
遠く火砲(ほづつ)の音を聞く

過ぎし蘇州の戦闘(たたかい)に
雄々しく逝きし戦友の
いまは形見の尺八を
吹けば血は湧き肉躍る

想えば君は一管の
笛に護国の胆を練り
露営の夢の枕にも
抱いて故郷を偲びしか
(4略)

 軍歌の中でも情緒的な歌であるが、流行歌手伊藤久男が歌った戦時歌謡の一つである。これは明治時代前半の歌としてもおかしくはない。このような歌詞で包むと、国内にいる人々には戦場の悲惨さ(戦死した日本軍兵士だけではなく、その何倍かの中国兵と犠牲になった多数の民間人など)は伝わらない。もちろん軍としてはこれでいいのだが。

『同期の桜』

 昭和13年(1938年) 原詩:西條八十、改詞:帖佐裕/作曲:大村能章

 原曲は『戦友の唄(二輪の桜)』(上記参照)という曲で、改詞は、後に回天の第一期搭乗員となる帖佐裕海軍大尉が、海軍兵学校在学中に江田島の「金本クラブ」にあったレコードを偶然聞いて替え歌にした。その後も歌詞は別人によって改変されたというが、時局に合った歌詞と曲で、陸海軍を問わず次第に浸透し、特に戦争終盤の特攻隊員に流行っていった。そして戦後になって戦友会でよく歌われ、戦争映画等でもよく使われたから軍歌を代表する歌となり、戦後世代にも浸透した。


貴様と俺とは 同期の桜
同じ兵学校の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
みごと散りましょ 国のため
3(2略)
貴様と俺とは 同期の桜
同じ航空隊の 庭に咲く
仰いだ夕焼け 南の空に
未だ還らぬ 一番機

貴様と俺とは 同期の桜
同じ航空隊の 庭に咲く
あれほど誓った その日も待たず
なぜに死んだか 散ったのか

貴様と俺とは 同期の桜
離れ離れに 散ろうとも
花の都の 靖国神社
春の梢に 咲いて会おう

 この歌の特徴は、最初に世間に宣伝されて広まったのではなく、軍隊内で伝わって広まって行ったことである。歌詞の最後に「靖国神社で会おう」という意味の歌詞があるが、実際に特攻隊員として先に飛び立つ若者が、後に飛び立つ仲間に「靖国で会おう!」と言い残して飛び立った話もある。「未だ還らぬ一番機」とは、そのような場面を彷彿とさせるから、共に「非日常」に生きる飛行士仲間に流行ったのも自然である。

 ただ、この歌のキーワードは桜であり、華やかな生の象徴である桜が死の象徴としても使われている。だからこの桜は「国のため」に死に行く若者に与えるイメージとして「国」も重宝して扱い、逆に戦争に邁進するこの時代の為政者に都合のいい歌となった。特にこの6年後に特攻死する若者たちに対しては「散華」、つまり花と散るという言葉があてがわれる。そしていまだに戦争を美化する人々はこの言葉を好んで使う。

『荒鷲の歌』

昭和13年 作詞・作曲:東 辰三


見たか銀翼この勇姿
日本男児が精こめて
作って育てたわが愛機
空の護りは引受けた
来るなら来てみろ赤蜻蛉(トンボ)
ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ

誰が付けたか荒鷲の
名にも恥ぢないこの力
霧も嵐もなんのその
重い爆弾抱へこみ
南京ぐらいは一またぎ
ブンブン荒鷲

金波銀波の海越えて
雲らぬ月こそわが心
正義の日本知ったかと
今宵また飛ぶ荒鷲よ
御苦労しつかり頼んだぜ
ブンブン荒鷲
(4略)

 歌詞中に出てくる「赤蜻蛉(トンボ)」とは当時の飛行士の練習機のことで、日本軍航空部隊練習機は橙色で塗られており、それが赤トンボに見えることから付けられた。ただし戦争終盤では実戦機が次々と失われ、この練習機で突撃するようにもなった。荒鷲とは飛行士のことを例えて言っている。「南京ぐらいは一またぎ」というのは、前年の上海事変から南京攻略の時に、九州や植民地台湾の飛行場から「渡洋作戦」で爆撃に向かったことを言う。この曲はリズムが良く、戦争終盤まで歌い継がれ、戦後の今でも少年野球チームの応援歌などに替え歌で使われているという。

『日章旗の下に』

昭和13(1938) 作詞:佐藤春夫/作曲:中山晋平

 高名な詩人と作曲家のコンビによる歌である。


青空高く翻り
白地は何と爽やかな
何の印のこの色か
汚れぬ者を現した
濁り無き世を現した
げにこの御旗の下にして
者皆命栄えたり
昨日も今日も明日の日も

白地に丸のくっきりと
正しく強く美しい
何の印の紅が
燃ゆる正義を象(かたど)った
尽くす忠義を象った
げにこの御旗の下にして
男児は笑みて死ぬるより
昔も今も後の世も

 昔は、「濁り無き世を現した げにこの御旗の下にして 者皆命栄えたり」であったはずのこの日本で、「燃ゆる正義を象」り、そして「尽くす忠義を象った」同じ「御旗の下」で、どこまでも何があろうと「男児は笑みて死ぬ」のである。この時代、正義、忠義と簡単に使われるが、ある意味、簡単に使わなければ戦争は成り立たない。さすがの佐藤春夫も、深く考えていてはこういう詩は作れなかったであろう。

『我等は若き義勇軍』

 作詞:星川良夏/作曲:飯田信夫


我等は若き義勇軍
祖国の為ぞ鍬執りて
万里果て無き野に立たん
今開拓の意気高し
(最終行繰返し)

我等は若き義勇軍
祖先の衣鉢受け継ぎて
勇躍夙に先駆けん
打ち振る腕に響きあり

我等は若き義勇軍
秋こそ来たれ満蒙に
第二の祖国打ち建てん
輝く緑 空を打つ

我等は若き義勇軍
力ぞ愛ぞ王道の
旗翻し行く所
見よ共栄の光あり

 義勇軍とあるが、内容を見るとこれは昭和7年(1932)満州国を作って政府が大陸政策の要として、また昭和恐慌下の農村更生策の一つとして遂行した農民移民政策(満蒙開拓団)の一環で、ただ多くの壮青年層が徴兵されて計画通りに進んでいず、昭和12年11月に「満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する建白書」が提案された。翌年1月に作成された「満州青年移民実施要項」に基づき、14、15歳から18歳ほどの少年が募集され、自由応募が原則であったが、実態は当局から各都道府県への割り当て数が決められ、そこから各学校への割り当て数が決められていた。それに従って各高等小学校(小学校卒業後の2年制の上級学校で任意、これとは別に5年制の中等学校があった)の担当教師が卒業生に主体的に応募するように働きかけた。満州は将来性豊かな王道楽土であると政府は宣伝していたから、「第二の祖国」開拓に夢を持った少年たちが応募した。

 選抜された青少年は「満蒙開拓青少年義勇軍」として茨城県水戸の「内原訓練所」で3か月の学習、武道及び体育と農作業の基礎訓練を受けた後に、満州へ送られ、満州では「満州開拓青年訓練所」にて3年間軍事訓練を受け、各地へ開拓移民として配属されたが、満州と国境を接する対ソ連(ロシア)への戦略的観点から、主にソ連国境に近い満州北部が入植先に選ばれた。つまりこれは日本の対満政策における治安維持の方針として、日中戦争により兵力が中国本土に多く割かれ、満州内での兵力増強や農業移民団の警備等を任せられる一種の屯田移民政策であった。それが「義勇軍」として名付けられた所以である。この満蒙開拓青少年義勇軍は、昭和13年から20年の敗戦までの8年間に8万6千人の青少年が送りだされ、これは満州開拓民送出事業総体の人員の3割を占めていた。必然的に満州を統治する日本の関東軍の下働きも多く、そして彼らの多くが他の開拓団とともに敗戦間際のソ連軍の侵攻によって、否応なく戦闘に巻き込まれ、追い詰められての自決、病気などによる死者は3割近い約2万4千人と言われる。

『大陸行進曲』

 作詞:島越強/作曲:中支派遣軍軍楽隊

 東京と大阪の毎日新聞は「大陸進出の大使命」をテーマにした作品を募集した。昭和13年9月から募集され、応募数2万通以上の中から鳥越強の詞が選ばれ、中支那派遣軍(中支那とは中国の南北の中間地で、前年の第二次上海事変で約20万の大軍が日本から送り込まれ、それに続く南京攻略で多大な捕虜が日本軍に降り、しかし日本軍はその同程度の人数の捕虜を捕虜として養うことができず、ほぼすべて殺戮するに至る)の軍楽隊が作曲した。ちょうど日本軍が武漢三鎮を攻略した頃の10月に発表された。政府は、『愛国行進曲』、『日の丸行進曲』と共に全国民必唱の三大愛国歌として強力な宣伝を行った。


呼べよ日本一億の
生命溢れる足音に
地平も揺れよ大陸の
全てのものはいま朝だ
3(2略)
思えば長く立ち込めた
平和を乱す雲と霧
今晴れ渡る大陸を
共に行く日はもうすぐだ

そうだ情けの手を取って
新たに興す大亜細亜
友よ一緒に防共の
固い砦を築くのだ

感謝に燃える万歳を
送れ輝く日の丸に
四億の民と睦まじく
君が代歌う日は今だ
(6略)

 「大陸進出の大使命」をテーマにとは、新聞社も完全に翼賛体制の中にあって、軍部と一心同体になって戦争邁進に協力していた様子がよくわかる。一億というのは当時の植民地台湾と朝鮮、満州を合わせた人口であろう。それにしても日本軍が勝手に侵攻し、それに抵抗する現地軍を「平和を乱す雲と霧」として蹴散らし、そこから「情けの手を取って」「一緒に防共の固い砦を築く」というが、矛盾しているのは、反共産党で戦っていた蒋介石率いる国民政府軍は、この時期対日戦線を強固にしていくため、「国共合作」として共産党軍と統一戦線を作っていたことである。「感謝に燃える万歳」はまさか占領した地域民のことを言っているのではないだろうが(しかしどうやらそうらしい)、この後7年も戦火は続き、四億の民(当時の中国の人口)と睦まじくできることはなく、いまだにその傷が中国の人々には強く残されている。

『白百合』

 昭和13年11月 作詞:西條八十/作曲:大中寅二

 従軍看護婦のための歌で、11月にNHKの国民歌謡として放送され、翌年レコード化された。10月に満州国赤十字社が設立されたことによるのかもしれない。看護婦用の軍歌は1894年(明治27)『婦人従軍歌』(参照)以来かと思われる。


夏は逝けども戦場に
白百合の花匂うなり
清き白衣の赤十字
姿優しく匂うなり

黄昏野戦病院の
ベッドに呻く兵を
弟のごとく慰めて
巻く包帯に血は滲む

乙女ながらも皇国の
為に捧げし身なれども
時雨の夜半にふと覚めて
夢は祖国へ馳るらん

遥かに響く迫撃砲
憐れ今宵も皇軍に
勝鬨あれと念じつつ
白衣の乙女星を見る

 詩の調子はプロらしく決まっているが、いかにも綺麗事のように見える。日本赤十字社によると、日中戦争が始まった1937年から45年の太平洋戦争終結までの間に、医師らを含む延べ3万5785人の救護員を派遣。殉職者は1187人に上るが、このうち看護婦が1120人を占めている。日中戦争以前では約200人弱である。従軍看護婦とは戦後に呼ばれた名称で、戦前は救護看護婦と呼ばれていて、軍隊付きの医者や看護婦もいたが、日赤は別働隊で、出征兵士と同様「召集状」と書かれた赤紙1枚で動員され、各地域で救護班が編成され、海外の指定された軍に従軍した。勤務地は陸軍病院、後方の兵站病院、病院船(傷病兵を日本に運ぶ船)の勤務が主だった。特別な理由がある場合を除き、野戦病院には勤務しないことになっていた。しかし、戦況が悪化するにつれ、兵站病院もたびたび爆撃を受けるようになり、病院船も誤爆という名目で撃沈されることが多く、沈む船と運命を共にした。国内では陸軍病院も空襲被害を受けている。看護婦の死因は、爆撃よりも結核や急性伝染病、南方ではマラリアによる病死が多くを占めた。

 ただしかし、終戦を迎え、日本軍が崩壊した後も、国外から日本に帰還できない従軍看護婦たちも多くいて、中にはソ連の突然の満州侵攻でシベリアに連れて行かれた看護婦もいた。彼女たちの帰国はそれぞれの事情で昭和30年まで続いた。

『麦と兵隊』

 昭和13年12月 作詞:藤田まさと/作曲:大村能章/歌:東海林太郎

 雑誌「改造」に連載された火野葦平の従軍記風の小説『麦と兵隊』(別名「徐州会戦従軍記」)が評判になっていたのがきっかけで、陸軍報道部では早速これを歌にすることを決めて、作詞を藤田まさとに依頼した。当初その中の、中国軍の強襲後の火野の述懐を元に、「ああ生きていた 生きていた 生きていましたお母さん・・・」という歌い出しの文句を書いた。ところが、軍当局から「軍人精神は生きることが目的ではない。天皇陛下のために死ぬことが目的だ」と怒られ、そこで「徐州 徐州と人馬は進む…」という現行の歌詞に書き直された。


徐州徐州と人馬は進む
徐州い良いか住み良いか 
洒落た文句に振り返りゃ 
御国訛りのおけさ節 
髭が微笑む麦畑

戦友を背にして道無き道を 
行けば戦野は夜の雨 
済まぬ済まぬを背中に聞けば 
馬鹿を言うなとまた進む 
兵の歩みの頼もしさ

腕を叩いて遥かな空を 
仰ぐ瞳に雲が飛ぶ 
遠く祖国を離れ来て 
しみじみ知った祖国愛 
戦友よ来て見よあの雲を

行けど進めど麦また麦の 
波の深さよ夜の寒さ 
声を殺して黙々と 
影を落して粛々と 
兵は徐州へ前線へ

 実際の従軍記を基にした歌詞だけあって、また軍当局から語句の検閲を受けながらだけあって、内容は戦場の兵士の心情をギリギリ表現するものとなっていて、戦意高揚の目的で依頼した軍部からすれば、気の抜けたものに映っているかも知れない。作詞家はこうでなくてはならない。詩人の、場合によっては冬場、自宅でコタツにあたり、頭の中の想念だけで書いた戦意高揚歌とはまったく違う。

 ちなみに火野は、招集直前に脱稿した政治的寓意小説『糞尿譚』によって3月に第六回芥川賞を受賞し、その時、南京攻略戦(杭州湾に敵前上陸)に参加していて、その後、杭州で文芸評論家小林秀雄による陣中授与式が行われた。4月に中支那派遣軍報道部に転属され、『麦と兵隊』を書くきっかけができた。日々、遺書のつもりで書き繋いだという。小林はこの作品を戦場における日本人の自然な心情の発露として賞賛した。刊行後、この時代としては100万部を超える驚異的なベストセラーとなった。海外でも約二十カ国語に翻訳され、現在でも評価は高い。英訳版『麦と兵隊』を読んだパール・バックは当時、日本を政治的に批判していたが、「この小説の著者たる日本人青年が善良であること、そしてこの作品が偉大なものであることを否定できない」と賞賛した。

 ただ火野はこの従軍記風小説によって、軍人経験者として広報の役割を担わされ、満期除隊して帰還後も、各地で講演などを行うことになる。このため敗戦後間もなく復員兵から罵声を浴びるなどもし、さらに1948年にはGHQに文筆家としての追放処分を受けた。『麦と兵隊』は、捕虜の支那(中国)兵を日本軍の軍人が斬首するのを火野が反射的に目を背け、自分自身のその当たり前の人間としての反応に自ら安堵する感想で終わる。これはしかし、検閲により当局に削除されていて、戦後に記憶を頼りに補筆し、これを以って「最終稿」とした。

『露営の煙草』

 作詞:佐野満/作曲:細田義勝


雪の戦線夜は更けて
月も片割れ二十日頃
色は冷たし風痛く
寒さ凌ぐに寒さ凌ぐに
火の気無し
4(2、3略)
手柄重ねて生き延びりゃ
欲は煙草の事ばかり
探し求めた一本の
点けるマッチも 湿りがち

腹に染み込む一服を
後生大事に吐き出して
次に渡せばニッコリと
同じ思いで 吐く煙

思い返せば幾度か 
死地を逃れて敵を攻め
煙草分け合うたび毎に
今は帰らぬ 戦友恋し

 作られた経緯はよくわからないが、戦場の一場面がそのまま伝わってくる歌詞である。タバコがこれほどの効果を生んでいる歌は他にないかもしれない。

『万歳ヒットラー・ユーゲント』 (独逸青少年団歓迎の歌)

 13年10月 作詞:北原白秋/作曲:高階哲夫/唄:藤原義江

 当時としても異質な軍歌である。昭和11年の日独防共協定の締結によりヒトラー・ユーゲント(青少年教化組織=ヒトラー青少年団)指導者が日独の青少年相互訪問を提案、日本政府がこれを受け入れ、13年8月から11月にかけてヒトラーユーゲントの訪日が実現した。滞在中は日本国民を挙げての大歓迎を受け、明治神宮及び靖国神社を参拝した他、東京陸軍幼年学校も訪問した。これを歓迎する歌として作成され、この曲はヒトラーユーゲント来日前後の2週間にわたってNHKより国民歌謡として放送された。


燦(さん)たり輝く ハーケン・クロイツ
ようこそ遙々 西なる盟友
いざ今見(まみ)えん 朝日に迎へて
我等ぞ東亞の 青年日本
万歳 ヒットラー・ユウゲント 万歳ナチス(最終行繰返し)

聴けわが歓呼を ハーケン・クロイツ
響けよその旗 この風この夏
防共ひとたび 君我誓はば
正大爲すあり 世紀の進展

燦たり輝く ハーケン・クロイツ
勤労報国 またわが精神
いざ今究(きわ)めよ 大和の山河を
卿等(けいら)ぞ栄(はえ)ある ゲルマン民族

 ハーケン・クロイツとは有名な鉤十字型(卍型)のナチスの記号である。童謡も多く作詞している北原白秋の歌詞であるが、白秋は昭和17年に世を去るまで、異様とも思える数多くの青少年向けの軍歌を作っている。ある意味走るペンに任せて、書き放題である。白秋だけでなく、このような時代では「文人」は、観念の遊びとも言える「血気に逸る」歌を書き、軍の幹部はそれを喜んで採用する。それを押し付けられる青少年はいい迷惑であるが、青少年も実社会と実人生をまだ知らないから、心を高揚させてそれを受け入れる。罪深きは実際に戦争に行くことなく、机上で言葉遊びをして満足しているこの種の文人たちである。

日本国内の出来事・様相

 1月:満蒙開拓青少年義勇軍募集

 昭和6年(1931)の満州事変を経て満州国を成立させ、日本政府は日本各地の農村貧困層を中心に満蒙開拓団を送り込んでいた。昭和11年、満州農業移民百万戸移住計画を作成したが、多くの壮青年層が徴兵されて計画通りに進んでいず、満蒙開拓青少年義勇軍を募集、実施することになった。年齢層は当時の高等小学校卒業程度の14, 15歳から18歳までの青少年を対象とし、当局から各都道府県を通じて各学校への割り当て数が決められた。それに応じて各高等小学校の担当教師が卒業生に主体的に応募するように働きかけた。選抜された青少年は茨城県内原の満蒙開拓青少年義勇軍訓練所で3か月の学習、武道及び体育と農作業の基礎訓練を受けた後に、満州国の現地訓練所にて3ヵ年の訓練を経て、義勇隊開拓団として入植することになる。この昭和13年から20年の敗戦までの8カ年の間に8万6千人の青少年が送りだされた。これは満州開拓民送出事業総体の人員の3割を占めているというが、必然的に満州を統治する日本の関東軍の下働きも多く、その上終戦直前にソ連(ロシア)の侵攻もあって彼らは満州で悲惨な体験をすることになる。

 同月:軍需工業動員法を発動し、関連工場を政府管理下においた。

 同月:東京市バスに、不足するガソリンに代わる燃料として木炭自動車が初登場し、順次全国に広がっていく。

 2月:警視庁は東京市内の銀座、新宿、浅草などの盛り場でサボ学生狩りを実施し、3日間で3486人を検挙した。改悛誓約書を提出し、宮城(皇居)遥拝ののち釈放された。

 同月:従軍作家として南京攻略に派遣され、見たとおりを書いた石川達三著の「生きてる兵隊」を掲載した「中央公論」が発禁となった。内容に戦争の残虐さが描写されているからということ。

 4月:近衛内閣で国家総動員法公布。これにより政府はあらゆる方面で戦時統制を強化する。

 同月:「支那事変特別税」及び「臨時租税措置法が公布される。

 同月:1月に募集した満蒙開拓青少年義勇軍5000人の第一次壮行会が挙行され、翌月には満州の地を踏む。

 同月:(早くも)燈火管制規則が実施される。すでに日本自身が中国で夜間空襲を行っていたから、それに対応するものであったろう。

 同月:東京オリンピックのポスター図案が発表されるが、この2ヶ月後に開催返上が決まる。

 5月:国家総動員法を朝鮮、台湾及樺太にも施行する。

 同月: ガソリンが切符制となる。代用品として改造した木炭車が走ることとなる。

 同月: 満州移住教育協会は、全国から2400人の大陸の花嫁を募集する。

 6月:世界最大級のタンカー「日章丸」が進水式を行う。総トン数10500で、出光商会と大同海運が共同出資の上、当時の造船技術としては最高水準の船舶。昭和17年には海軍に徴用され、19年2月にダバオ諸島沖で魚雷によって沈没した。(日章丸は戦後に復活し、中東からの石油輸入の先駆けとなる)

 同月:貨物船「金華丸」がニューヨーク−横浜間の太平洋横断を10日12時間29分の新記録で帰港した。後に太平洋戦争の輸送船として使用され、昭和19年にマニラ湾にて米軍機の攻撃で沈没する。

 同月:東京市の人口調査で、昭和10年の東京人口は約585万人であった。

 同月:支那事変(日中戦争)による物資不足から「物資総動員計画」が打ち出され、使用制限33品目(重油、金属類、布、紙、皮、木材、生ゴムなど)が発表されるが、その後も規制が強まる。

 7月:両国の花火大会が、時局を鑑み中止となる。

 同月:日中戦争に対する世界的な非難の中、英国IOC委員は「戦争が継続する限り東京に選手は送れない」と発言するなどあり、その一方で戦費がかさみ、物資制限がされる中、駒沢に建設予定だったオリンピックのメインスタジアムの高額な建設費用も軍艦一隻に回したほうがよいと、15年のオリンピックの開催返上が決められた。同時開催の万国博覧会も中止された。

 同月:内閣情報部が武漢攻略に当たって従軍作家を組織し「ペン部隊」として従軍した。菊地寛が中心になって人選したが、
 陸軍班:久米正雄、尾崎士郎、片岡鉄兵、岸田国士、瀧井孝作、丹羽文雄、川口松太郎、中谷孝雄、林芙美子ら
 海軍班:菊地寛、小島政二郎、佐藤春夫、杉山平助、吉川英治、白井喬二、吉屋信子ら
という戦後にも名を残す錚々たるメンバーで、9月に出発して中国の前線に行き、従軍記などを発表する。さらに少し遅れて佐藤惣之助、西條八十、古関裕而らの従軍詩曲部隊が出発し、軍歌作成の材料とした。彼らは無理やり行かされたわけではなく、むしろ大いに興味を持って勇躍参加した。

 8月から11月にかけてヒトラーユーゲント(ヒトラー青年団)の訪日が行われた。滞在中は、明治神宮及び靖国神社を参拝した他、東京陸軍幼年学校も訪問、また朝日新聞社の依頼により、北原白秋作詞、高階哲夫作曲、藤原義江歌唱による歓迎歌『萬歳ヒットラー・ユウゲント』が作られ(上記参照)、日本国民を挙げての大歓迎を受けた。同時期に日本からは各地の学生、青少年団体職員、若手公務員から成る「大日本連合青年団」の訪独団がドイツに派遣され、ナチス党大会を参観、ヒトラーと会見して同盟国のドイツの見聞を広めた。

 9月:紙不足のため、新聞雑誌のページ制限が行われる。

 10月:満洲国赤十字社が設立される。

 同月:少年少女雑誌に「児童読物改ニ関スル指示要綱」が通達され、国策に沿った規制がされてゆき、軍事色が強くなって娯楽性が失われ、廃刊誌も出てきた。

 同月:宝塚少女歌劇46名が、日独伊親善芸術使節団としてドイツとイタリアに向けて神戸港から出発する。

 11月:内閣情報委員会が、東亜新秩序建設という長期的課題に処するために精神総動員を強化する計画を提出。

童謡・流行歌(昭和13年:1938)

 この年から目新しい童謡、唱歌はほとんど作られなくなり、歌謡も多くは戦時歌謡として軍歌的の内容に置き換えられていくが、それに抵抗するように15年あたりまで叙情的な歌が量産され、今に残る歌も含めて全体の数は多い。

童謡・唱歌

『赤い帽子白い帽子』 作詞:武内俊子、作曲:河村光陽

—— 「赤い帽子白い帽子 仲よしさん いつも通るよ 女の子 ランドセルしょって お手々をふって いつも通るよ 仲よしさん


『兵隊さんの汽車』作詞:富原 薫/作曲:草川 信

—— 「汽車汽車 ポッポポッポ シュッポシュッポ シュッポッポウ 兵隊さんを乗せて  シュッポシュッポ シュッポッポウ 僕等も手に手に日の丸の 旗を振り振り送りませう 萬歳 萬歳 萬歳 兵隊さん兵隊さん 萬々歳」

これが戦後に『汽車ポッポ』として同じ作詞者によって書き換えられ、しばらく歌い継がれた。
—— 「汽車汽車 ポッポ ポッポ シュッポ シュッポシュッポッポ 僕らをのせて シュッポ シュッポシュッポッポ スピ-ドスピード 窓のそと 畑もとぶとぶ 家もとぶ 走れ走れ走れ 鉄橋だ鉄橋だ 楽しいな」

歌謡・叙情歌

『鴛鴦(おしどり)道中』 作詞:藤田まさと/作曲:阿部武雄/歌:上原 敏

—— 「堅気育ちも重なる旅に いつかはずれて無宿者 知らぬ他国のたそがれ時は 俺も泣きたいことばかり」

『或る雨の午后』 作詞:島田磬也/作曲:大久保徳二郎/歌:ディック・ミネ

—— 「雨が降ってた しとしとと 或る日の午後のことだった 君と僕とは寄り添うて 雨の歩道を濡れながら 二人たのしく歩いたね」

『上海ブルース』 作詞:北村雄三/作曲:大久保徳二郎/歌:ディック・ミネ

—— 「涙ぐんでる上海の 夢の四馬路(スマロ)の街の灯 リラの花散る今宵は 君を思い出す 何にも言わずに別れたね 君と僕 ガーデンブリッジ 誰と見る青い月」

 四馬路は上海の人民広場から四つの「馬路」(道路)が出ていて、その一つ現在の福州路の道を四馬路といい、歓楽街があった。つまりそこに占領する日本の兵士や居住民を相手をする店があって、以下も含めてある意味日本人の手前勝手な歌である。

『上海の街角で』 作詞:佐藤惣之助/作曲:山田栄一/歌:東海林太郎

—— 「リラの花散る キャバレーで逢うて 今宵別れる街の角 紅の月さえ瞼ににじむ 夢の四馬路が懐かしや」

『上海航路』 作詞:西條八十/作曲:竹岡信幸/歌:松平 晃

—— 「行く手は大陸薔薇色の夜明けだ 若い命の白帆が上る 柳青々揚子江に 太馬路四馬路は夜咲く花だ 可愛い眼も待つ酒も待つ 紅い灯りが揺らめく招く 上海憧れの上海」(2番)

『霧の四馬路』 作詞:南條歌美/作曲:山下五郎/歌:美ち奴

—— 「霧の四馬路(すまろ)で別れた人は 無事に海峡越えたやら 忘りゃしませぬ御国の為に 命捧げた人じゃもの」

 上海に関する歌は他にもあるが、前年に日本軍の侵攻により日中両軍の激しい戦闘で多大な犠牲者を出し、日本軍が占領したばかりで、すぐに能天気にこのような歌を作る日本人の、相手側の心の奥を斟酌しない心根に疑問は残る。ただ上海は古くから欧米列強諸国の租界があり、ほかの都市にはないエキゾチックな独特の魅力があって、各国から夢を追い求める者たちが集まり、日本人の憧れの街でもあったゆえのことである。これ以降も中国大陸の魅力を綴る歌が出てくるが、島国の日本からすれば占領地となった都市へ自由に行けるから、そのままの心情を歌にしている。ただ、詩の内容は上海の女性を意識したもの、その女性が日本兵を想う歌で、手前勝手で「いい気なもの」という印象が拭えない。

『旅姿三人男』 作詞:宮本旅人/作曲:鈴木哲夫/歌:ディック・ミネ

—— 「清水港の名物は お茶の香りと男伊達 見たか聞いたかあの啖呵 粋な小政の 粋な小政の旅姿」 

 この歌は戦後の昭和時代も長く歌われた。

『波止場気質』 作詩:島田磐也/作曲:飯田景応/歌:上原敏

—— 「別れ惜しむな ドラの音に 沖は希望の 朝ぼらけ 啼くなかもめよ あの娘には 晴れの出船の 黒煙り」

『上海だより』(作詩:佐藤惣之助/作曲:三界稔/歌:上原敏)

—— 「拝啓御無沙汰しましたが 僕もますます元気です 上陸以来今日までの 鉄のかぶとの弾のあと 自慢じゃないが見せたいな」

 果たして前線の兵士が実際に弾の後を「自慢じゃないが見せたい」と思うものかどうか、疑問が残る。この歌のアンサーソングとして『鴛鴦道中』でデュエットした青葉笙子の次の歌が作られた。

『銃後だより』 作詞:藤田まさと/作曲:三界稔/歌:青葉笙子

—— 「お便り嬉しく読みました 母は早速お手紙を 亡き父様のお位牌に 捧げて無言の御報告 私も側で泣きました/坊やも益々元気です 貴方がお発ちのその後は 毎日近所の子を集め 僕の父さん南京で 手柄立てたと大威張り」

 青葉笙子は他にも『夢の蘇州』『元禄ぶし』『椿咲く島』などのヒットが続き、「鴛鴦コンビ」として上原とのコンビで、たびたび中国大陸に将兵慰問にも訪れた。

『雨のブルース』 作詞: 野川香文/作曲: 服部良一/歌:淡谷のり子

—— 「雨よふれふれ なやみを流すまで どうせ涙に濡れつつ 夜毎なげく身は ああかえり来ぬ心の青空 すすり泣く夜の雨よ」

 淡谷のり子のブルースシリーズの一つである。奇縁があってこの歌はブルガリアで広まったという。

『人の気も知らないで』(作詞: Maurice Aubret/作曲: Guy Zoka/訳詞:奥山靉/歌:淡谷のり子)

—— 「人の気も知らないで 涙も見せず 笑って別れられる 心の人だった 涙枯れてもだえる この苦しい片思い 人の気も知らないで つれないあの人」

 1931年のフランス映画の挿入歌でダミアの歌(シャンソン)。原題は「あなたは愛し方を知らない」。淡谷のり子は慰問に行って将兵たちの前で歌う時、将校にもっと質素な服に着替えろと言われたが、「これが私の軍服です」と答えて堂々とステージ衣装(ドレス)で歌ったという話が残る。いつ死ぬかわからない兵士たちに少しでも綺麗な服を見せておきたいという心情からである。

『人生劇場』 作詞:佐藤惣之助/作曲:古賀政男

—— 「やると思えば どこまでやるさ それが男の魂じゃないか 義理がすたればこの世は闇だ なまじとめるな夜の雨」

これは戦後の昭和34年、浪曲界から転じた村田英雄が歌い、大ヒットとなった。

『満州娘』 作詞:石松秋二/作曲:鈴木哲夫/歌:服部富子

—— 「私ぁ十六 満州娘 春よ三月 雪解けに 迎春花(インチュンホワ)が咲いたなら お嫁に行きます 隣村 王(ワン)さん待ってて 頂戴ネ」

 戦時歌謡の一つでヒットしたが、日本が満州を占領して年月を経て、満州民の生活を眺める余裕を持って作られたもののようにも思われる。ただ、占領側からの優越的な眼差しで見ている感じは否めない。服部富子は服部良一の妹であるが、発売宣伝をしないことを条件に発禁をまぬがれた。作詞者の石松は『十三夜』なども作詞しているが、1945年の終戦直前に満州に侵攻してきたソ連軍によって殺されたという。

『旅の夜風』 作詞:西條八十/作曲:万城目正/歌:霧島昇・ミス・コロムビア(松原操)

—— 「花も嵐も踏み越えて 行くが男の生きる道 泣いてくれるなほろほろ鳥よ 月の比叡を独り行く」

 大ヒットした映画「愛染かつら」の主題歌であり、当時としては80万枚を超す驚異的なヒットを飛ばした。この歌はこの後の太平洋戦争において特攻隊の若者たちにも支持されていく。これだけではなく、戦地ではこの後量産されていく軍歌はほとんど支持されず、裏で歌われたのはこうした歌謡曲であった。現今においては、軍歌が元気が出る歌と喧伝されることがあるが、大きな間違いである。

『悲しき子守唄』 作詞:西条八十/作曲:竹岡信幸/歌:ミス・コロムビア(松原操)

—— 「可愛いおまえがあればこそ つらい浮世もなんのその 世間の口もなんのその 母は楽しく生きるのよ」

 同じ「愛染かつら」の主題歌の一つで、内容は他の子守唄のように戦時歌謡とはなっていない。

『長崎物語』 作詩:梅木三郎/作曲:佐々木俊一/歌:由利あけみ

—— 「赤い花なら曼珠沙華 オランダ屋敷に雨が降る 濡れて泣いてるじゃがたらお春 未練な出船の ああ鐘が鳴る ララ鐘が鳴る」

 江戸時代の1639年、時の幕府の鎖国政策の一つで混血児追放令のため、長崎市内にいた混血児たちはインドネシアに追放された。その中の一人お春は何度もジャガタラ(現ジャカルタ)から日本に帰りたいと手紙を出したが、想いが届くことはなかった。この歌は、戦後多くの女性歌手によってカバーされた。

『支那の夜』 作詞:西条八十/作曲:竹岡信幸/歌:渡辺はま子

—— 「支那の夜 支那の夜よ 港の灯り紫の夜に 上るジャンクの夢の船 ああ忘られぬ 胡弓の音 支那の夜 夢の夜」

 支那はChinaの音に由来する昔からの呼び名であったが、清国崩壊まで中国を指す正式な呼び名はなく(その後は中華民国)、日本人にとっては昭和に入る頃から蔑称を込めた呼び名になっていた。またこの歌は上記『上海航路』のB面であったが、メロディの良さもあって次第に戦線の将兵の間にも広まり、14年後半に大ヒットとなり、それを受けて李香蘭・長谷川一夫の主演で映画も作られ、歌は東アジア全域にも広まった。中国内でもタイトルを「春的夢」としてヒットしたが、戦後は支那の言葉が災いして遠ざけられている。日本でも李香蘭(山口淑子)自身がそれを理由に歌うことを拒んだ。もともと、これを「日本の夜」とか「アメリカの夜」置き換えてみれば、このタイトルが不自然なことがわかる。

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