満洲開拓団の死の逃避行

須田初枝のライフヒストリー

『二つの国の狭間で — 中国残留邦人聞き書き集:第一集』(中国帰国者支援・交流センター:平成17年3月)

 これは須田初枝が13歳の時、親兄弟とともに満洲に開拓団として渡り、その結果、子供ながらに想像を絶する悲惨な体験をしつつ、やむなく中国に残留し、長い年月を経て日本に永住帰国できたが、その聞き書きを通して須田が語った物語を要約したものである。

 満洲開拓団は、昭和6年(1931)日本が満州事変を起こし、その翌年軍政(日本の関東軍)による満洲国の建国を宣言、そこから日本政府は新たな領地として日本から開拓団を送り込むことを計画した。翌7年からソ連との国境線の防衛を兼ねた開拓団先遣隊を送り、その年の10月から試験的に1700余名の移民を送り出し、昭和11年(1936)までの5年間に2万人を送り出した。その11年に日本政府は「満州農業移民百万戸(500万人)移住計画」を立案、それに沿って12年(日中戦争開戦の年)には、15−18歳の少年で組織する満蒙開拓青少年義勇軍を発足させ、その後に続く本格的農業移民の下地を作った。特に移民のターゲットとなったのは長野県などの貧農地帯で、村ごと移設することもあったが、そのうち都市の商店や零細企業に携わる人々も開拓移民のターゲットとなった。その理由は軍需産業優先と物資不足と配給制度により、商店街は成り立たなくなり、零細企業も軍需工場へ転業を迫られたことによる。そして東京品川区の武蔵小山商店街がその政策に応じ、その1千人以上が希望を託し「荏原郷開拓団」として満州に渡ることになった。須田の家族が渡満したのは昭和19年(1944)4月の遅い時期で、第13次興安東京荏原郷開拓団としてであった。

 満洲へ渡った開拓団が入植した土地(新天地)は、もとより先住民から奪った土地であった。購入したとしても安い金で無理やり農民を追い出した。冬は零下数十度にもなる寒冷下の過酷な生活で、それでも日本人は必死に働いた。敗戦間際にソ連軍が侵攻、日本の関東軍の将校は真っ先に逃げ、前線の兵士隊も多くが四散して逃げた。そこから開拓団の逃避行が始まるが、その団員たちを襲撃してきた匪賊や暴徒も、もともと日本軍が追い出した農民たちから派生したグループであり、いわゆる山賊とは異なる。過酷な逃避行における死者は集団自決も含め7万2千人、残留孤児・婦人1万1千人とされる。

東京から満洲最北端の地へ

 「みんな、子どもたちには話したくない。うちの子どもたちも、わたしがどうやって逃げて、どうやってお父さんと結婚して、中国にいることになったのか、そんなこと知りません。子どもにも孫にも、言いたくない話です。人生で一番楽しい青春も知らず、 50年間中国で暮らしてきました。今でも日本では中国残留婦人、残留孤児とはどういう人達か、おわかりにならない方が多いのではないでしょうか。残留婦人も孤児も、戦争の時見捨てられた人たちです。決して好きで中国に残ったのではないということだけはわかっていただきたいのです。わたしは 50年間夢にみて、涙を流してきた故郷に帰ることができて、今が一番幸せです。……」

 須田初枝は昭和5年(1930)、5人兄弟姉妹の長女として東京目黒の商店に生まれた。小学校を卒業して、目黒高等商業女学校に入学。その後まもなく、13歳で、第13次(後発である)興安東京荏原郷開拓国に父が部落長として参加することになり、両親、弟3人、妹1人の家族7人で昭和19年(1944)4月、新潟から船に乗って満洲へと向かった。現在の北朝鮮の羅津からは汽車に乗り、図們・新京・白城子を経由して1週間かけて興安南省に到着。入植地としては満洲の最北端にあたるモンゴル、ソ連と国境を接する場所だった。東京で育った須田には、何もかも珍しく見えた。しかし興安の町から馬車で生活する部落に行き、あてがわれた我が家を見てびっくりした。土で作った家で、電気どころか水道もガスもなく、その上トイレもついてない。この開拓国は「索倫J「阿爾山」に駐屯していた日本軍に野菜、食肉を供給することを任務としていた。極寒の冬を超え、生活にも慣れてきた頃、昭和20年8月9日のソ連参戦の報がはいった日にも、小学生まで動員して野菜の搬出を行っていた。興安の町では既に邦人の避難が始まっていたのに、荏原郷開拓団が避難を始めたのは12日になってのことだった。ソ連が参戦したこの時点の荏原郷の在籍者は 1142名、現地召集による軍への応召者178名で、在団者は964名であった。このうち日本への帰還者はわずかに53名、5%にも満たない生還率であった。中国に残留した団員はその約半数の25名になり、そのうちの一人が須田初枝であった。

ソ連の参戦から逃避行

 ソ連参戦の知らせを聞いた興安の町では満拓公社からも具体的な避難命令は出されず、各自自由行動ということで、避難するしないは個人の判断に任された。そんな中で荏原郷開拓団では逃げる準備はせず、できるだけ軍隊向けの食料供給や傷病兵の手当てに携わろうとしていた。その日、畑の仕事で疲れ、昼寝をしていると、 ドーンドーンという大きな音で目が覚めた。見ると興安の町は火と煙で何も見えず、町から逃げて来た中国人が、町には日本の軍隊は1人もいないのに、どうして早く逃げないのか、と言ってきた。頼りにしていた関東軍は、いち早く撤退していた。開拓団は16の部落に分かれていて、自衛のため中央にある部落に集合した。開拓団の若い男性たちは徴兵され、残ったのは女子ども、年寄りが多く、そこに「匪賊」が毎日のように開拓国を襲撃して来て、一歩も外に出られなかった。そこに身分のわからない2、3人の兵士が来て、白城子で合流するから早く出発するようにとのこと。長蛇の列を組んで、開拓団の逃避行がはじまった。白域子には日本の軍隊がいる。そこまで行けばなんとかなる。軍隊を頼りにしての逃避行だった。須田の父は一ヶ月前に脳溢血で死亡していた。

 子どもを背負う母親たち、小さな弟や妹の手を引いて行く子どもたち、年寄りや病人を馬車に乗せ、日本の軍隊がいるという白域子に向かつて歩き始めた。あたりが暗くなって来た時、西山から銃を撃ってきた。そこで東山の方に登り、もうすぐ頂上という時に待ち伏せにあった。たまたま開拓国から撃った弾が暴徒の指揮者に命中したので、暴徒たちは引き上げていった。匪賊の指揮をとっていたのは他ならぬ道案内を申し出た国籍不明の兵士だった。暴徒が引き上げていった後、人々は絶望の中、自決をはかる者が続出した。開拓団の中に薬持ってる人がいて、希望をなくした人たちは、それを飲んで死のうとした。青酸カリのようなものではなく早く死ねないから、苦しみながら死んで行く。側で見ている人たちの泣き声が聞こえ、悲しくつらい夜だった。…… 「死ぬのはこわくなかった。毎日人が死んで、もうわからなくなって。わたしの目の前で男の子がその薬を飲んで。でもなかなか効かない。そのうちに苦しんでね。なかなか死なないから大人の人が刀でお腹を刺したんですけどそれでもだめで。最後は首を刺されてやっと死にました。…… 開拓団幹部の一人が娘さんを殺して。『お父さん殺して』って言ったんですね。その人が『俺は娘を殺したぞ』って大きい声で叫んでるの聞きました。それを聞いてみんな自分の子どもを殺して。…… ちょっと見てみたら子どもが並べて殺されてた」。行く先々に匪賊がいて、須田のそばにいた犬も鉄砲にあたって死んだ。

 「翌朝目をさますと、昨夜何事もなかったような静かな朝でした。わたしたちは道ばたに溜まっている泥水を飲んだり、水筒に入れたりして、また白域子に向かって歩き続けた。雲一つない、暑い暑い日でした。歩いている間にもソ連の飛行機が上を飛んでいた。年寄りや小さな子どもが少なくなっていた。みんな、(日本が)負けてるの知らないで、白城子に行ったら兵隊さんがいる、それを頼りにしてね。…… お昼頃大きな麻畑のある所でおにぎりを分け合い、食べ終わり、いざ出発という時、また暴徒が襲撃してきた。早く畑の中に入れという声で、麻畑の中に入ったけど昨夜の襲撃より激しく、地面に伏せていても弾にあたるくらいで、死んだ人を畑の奥に運んだり、傷ついた人たちの手当で大変でした。家族そろって自決する人たちも増えてきた。(自分が親に)殺されるのも知らず、きれいな服を着せてもらい、喜んで親に抱かれ、畑の奥のほうに行き、二度と戻ってこなかった子どもたちのあの笑顔、今でも夢に見ます」

麻畑での集団自決

 双廟村の麻畑に入ったのは記録によれば8月17日。団長を含め 303名が命を落としたと推定されている。その前の8月14日、この麻畑近くの葛根廟駅では、ソ連軍の戦車による無差別機銃掃射により、避難のため列車に乗り込んでいた開拓団員 1000人以上が死亡するといういわゆる葛根廟駅事件が起きていた。

「その夜、開拓団の役員たちの意見が分かれた。団長は、毎日このように襲撃を受けていたのでは、女、子ども、年寄り達をつれて目的の白域子まで行くのは不可能だから、団員そろって自決するほか方法がないと。副団長は一人でもいいから石にかじりついてでも生き残り、日本へ帰り、開拓国の最後を日本の人たちに伝えなければならないという意見でした。(死を覚悟して)畑に残る人たちは、逃避行を続ける人たちと手を握りあい、涙を流しながら、命を大切にして日本へ帰るよう、自分たちの願いを託して畑の中に入っていった。その後ろ姿がたまらなく悲しくみえた。わたしたちが出発しはじめた時、畑の中から銃声が次々と悲しく聞こえてきました。 (死にゆく)300余名を後にして、重い足を引きずりながら、星ひとつ見えない闇の中を、白城子に向かって歩き続けた。意地悪な雨がふってきて、泥水となった道なき道を、誰一人話をする人もなく、黙々と歩き続け、女、子ども、老人たちはどんどん後ろに残されてしまう。…… 夜が明け雨が止み、見ると、ついてきた人たちは相当少なくなっていた。家族も別れてしまい、歩けなくなって、若い人たちに、おまえたちだけでも無事に逃げてくれと、自分ひとり残るお年寄りもいた」

小さな妹と二人に

 須田は麻畑から母・弟 3人と妹とともに逃げた。麻畑からの脱出者は 375名。脱出後の死者は 297名。連日の匪賊の襲撃により、またたくさんの人が亡くなった。そんな中、須田は当時3歳の妹を背負い、大人たちが自分の子どもを見殺しにしている場面を目の当たりにしながら、小さな妹を守ろうと必死で歩きつづけた。

 「わたしの家族は、わたしが父の遺骨を抱いて、12歳の弟と 10歳の弟 2人は、3歳の妹を代わる代わるおんぶして、母は8歳の弟の手をひいて歩いていたが、この弟が歩けなくなって 、上の2人の弟は妹を背負ってわたしたちより先に行ってしまった。母が先に行って妹を見てきてくれと言って、母と相談してお骨だけを風呂敷に包み、妹たちの後を追って行こうとした時、暴徒たちが柄の長い鎌を振り回しながら馬に乗ってわたしたちの中に突入してきた。傷ついて倒れる人、死んでいく人、地獄そのものでした。わたしは父のお骨を畑の中に隠し、暴徒たちが引き上げていった後、畑の中を探したが、お骨は見つからなかった。悲しみと落胆で、心の中で父に謝るほかにはなかった。わたしは山のこっち側に逃げて下りていったら、匪賊がそこに上がってきた。母はその反対に逃げて、そのまま別れ別れになりました。気がつくと、わたしより 3歳下の女の子だけが残っていた。

 母は今もいないから、死んだと思います。あの時33歳だから生きてれば帰ってくるでしょ。別れて、山の下に坪川さんとあと何人か日本人がいて、その人たちと一緒に山の中逃げて。そしたらまた日本人が何人かいて、そこで弟が妹を置いていっちゃってた。重たくて。あの時弟だって小さくて、12歳と10歳。妹が3歳。行ったら妹が泣いていて「お兄ちゃんは ?J って聞いたらどっかあっちのほう行っちゃったって。もう、匪賊ばっかりいるんです。長い刀みたいな、草を刈る道具で、これ持って馬に乗って切っていくんだから。これでみんな怪我したり、死んだり、ほとんど死んじゃいました。切られて怪我して泣いてる人もいるし、親が死んで子どもが泣いてるし。でもどうにもできないから、黙って行っちゃうんですよ。小さい子たちが泣いてたけど、連れていく力もないし。自分の子ども連れて逃げるのも必死で、余所の子なんて全然。自分の命も今日、明日もわからないですから」

 家族は散り散りとなり、わずか 13人となった開拓団の列に、須田と妹は加わって逃避行を続けた。その時に関東軍の兵士たちに遭遇する。ソ連軍や匪賊の襲撃だと瞬時に判断してしまうほど、連日の攻撃ははげしかった。

 「大人の男性がひとり、女性は3人。 あとはわたしを含めて 9人の子どもたちでした。途中には、親とはぐれて泣いている子、死んだ親の側で座っている子。その子どもたちを見て涙が出ますが、 どうすることもできないのです。わたしたち13人はあてもなく歩き続けたので疲れ果て、丘の上で休むことにした。 13人の中のたった 1人の男性が、様子を見てくると出かけたが、すぐ戻ってきて、 5、 6人のソ連兵がこちらに来ると言った。誰も立ち上がる人はいず、ソ連兵が来ると聞き、 一人の母親が、 3歳になる女の子の首を手拭いで絞め始め、誰一人止める人はいない。そのとき『あんたたちは日本人ではないのか』という日本語を聞き、びっくりして振り向くと、日本兵だった。兵士はぐったりしている女の子に薬など飲ませて、励ましてくれた。この日本兵たちも本隊とはぐれ、白域子まで行ったが、白域子には日本の軍隊はいなくて、ソ連の軍隊ばかり、行く先もわからないという。…… 日本の兵士に出会い、心強く思っていたのも束の問、足の早い兵士たちについていけるはずがなく、ここで8人となった女や子どもたちは暗い夜道を歩き、その夜もまた雨が降り、 1m先も見えない位の暗闇の中、8人お互いに抱き合って、一夜を外ですごした。翌日はいいお天気で、西も東もわからないわたしたちは、ソ連兵や暴徒たちに見つからないように、あてもなく歩いていた。2人の中国の男性に会い、4人ずつに分けて中国人の家につれていかれた。Tさん親子は4人、Tさんはすぐ中国人のお嫁さんになってね。そうしないと生きていかれないから。わたしと妹は子供が3人いる家に引き取られ、働かされた」

中国残留へ

 ここで別れた13人のうちの一家 4人は、幸運にも興安の町までたどり着き、なんとか引き揚げ船に乗って、帰国を果たしている。残された 8人はそれぞれ中国人の家庭に入ることになった。生き延びるためには中国人の世話になる他に方法がない。小さな妹を守るために、15歳の須田は必死で働きつづける。

 「毎日の食事もおなかいっぱい食べられないので妹は痩せて、病気になってしまった。小さいながらも精神的に参ってしまったのでしょう。もちろん薬もありません。その上、妹を邪魔にして、人にあげろと言いだした。わたしが畑に行った後、妹を人にあげてしまうのが怖かったので、畑に行くときは妹をつれて行き、わたしのそばで遊ばせていた。妹はかわいい顔してるもんだから、みんな欲しがって。わたしが働いて帰ってくると、連れてっちゃっていないってこともあって、その時はとり戻しに行ってね。…… 毎日毎日びくびくしながら 10月になった。毎日のように、妹を『人にあげろ』と言うので、これ以上この家にいては、せっかく生死を共にしてきた妹も、入手に渡されるか、逃げる機会をねらっていた」

 1ヶ月ほどの労働に耐えた後、妹を連れて夜道を逃亡した。

「ある夜、妹がおしっこ、と言うのを機会に、妹をおぶって山の方向に逃げた。ソ連軍や暴徒の多いその当時、男の人でも夜は外に出ない。山に逃げたわたしたちふたりを大声で『帰ってこい』って呼んでいたけど、追ってこようとはしなかった。妹をおぶって山から山へ、何時間くらい歩いたのかわからず、行く先が黒く見えたので、側に行ってみるとなんと絶壁でした。絶壁の近くにいると、狼の遠吠えが聞こえてきた。その時、世の中にわたしと妹だけが残ったようで、初めて孤独を感じた。日本が敗戦したのを知らないわたしは、日本の軍隊を信じ「いつかきっと日本の軍隊が戻って来る。それまで我慢しなければ」と決心し、月の光を頼りに山から下りて、道ばたのそば畑に入り、刈ってあるそばを下に敷き、妹を抱いて横になった。中国の東北地方は 10月に入ると寒くてなかなか眠れない。何も知らない妹は『お姉ちゃん、寒いよ。どうしておうちに帰らないの』と聞くのです。小さな声で唄を唄ってやると、すやすやと眠ってしまい、わたしも疲れが出ていつのまにか眠ってしまった。夜明けの寒さで目が醒め、一軒の家に行き、お湯を飲ませてもらい、体が温かくなった。その家は、おばあさん一人で住んでいて、親切な蒙古の人で、部落長だった息子さんの家に引き取られ、動かせてもらった」

 この時点で終戦の日から 2、 3ヶ月は経過していたものと思われるが、須田が敗戦の報を聞いたのは、それからまた数ヶ月が過ぎてからのことだった。

 「春になり、日本語のわかる人から日本が敗戦したことを聞いた。もう何の希望もない。妹と生きていくために、すすめられるまま中国人と結婚した。生きなきゃだめでしょ、何をしても。妹はかわいい顔してて、みんな欲しがるんです。でもあげないで、妹も連れて結婚した。夫は蒙古人で日本軍に徴兵されて兵士だったこともある。 結婚後は興安近くの夫の郷里の烏蘭浩特に住んだ。

 「その頃日本に帰れるっていう話もあって、主人も「帰れ」って言ってくれて。わたしは帰るつもりだったんだけど、妹が「帰らない」って。かわいがってくれるもんだから、離れるのが嫌だったんでしょう。妹だけ置いてくなんて。結婚も遊びでしてるんじゃないんだから、簡単には別れられない。…… それはもう、日本に帰りたいですよ。それだけ」

 離婚は考えなかったが、日本に帰りたい。その思いを胸に秘めたまま、中国での生活が 50年間続くことになる。結婚後しばらくは夫とともに農業に携わった。日本人が少ない地域に妹と2人きり。現地の中国人の日本に対する恨みつらみは、残された初枝に向かった。

 「生活は前より落ち着いたが、言葉の問題、慣れない中国の生活、主人の親戚の人たちのいじめ、町を歩くと「日本人だ、日本人だ」といやな目で見られ、苦労は絶えなかった。はじめは、中国人がどうして日本人に憎しみをもつのか、わからなかったが、言葉がわかるようになり、(戦争中に)日本のしたことがわかってきた。でも中国で生きていくには、いろいろなことを習わなくてはならない。靴の作り方、綿入れの着物、ズボンなど、中国の人が教えてくれたり、見ておぼえたりした」

 昭和28年(1953)年頃再び帰国のチャンスがめぐってくるが、長女を出産した直後だったため見送った。そうこうしているうちに、昭和33年(1958)日中の国交は全面的に断絶してしまう。須田はその年、興安の会社で働きはじめ、その後 昭和37年(1962)にハイラルの町に移り住んだ。

 「結婚して 5、 6年目、わたしと主人は町の同じ会社で働くようになり、わたしは日本人の名を汚さぬよう、人一倍働いたので、会社の人たちからも信頼されて、心も落ち着いてきた。子育てをしながら働くのも、苦労には慣れてるから、苦労とは思いません。(みんなの仕事も)わたし一人で、やっちゃいました。表彰されたこともあるんですよ。文字通り、寝る暇もなく働いた。朝の4時から午後の4時まで12時間。もう 1人若い男の代わりもして、続いて夕方の 4時から朝の4時までやったこともある。子どもたちが学校へ行くようになったら、中国には給食がないので、お昼に家に帰ってきて、作って、食べさせてまた仕事に行って。お玉月の晴れ着も自分で作るの、夜の1時から」

 その後、子どもたちが学校に通い始めて歴史を学ぶようになると、また心に波風の立つ日々がはじまった。

 「子どもたちが学校に通うようになり、わたしが前から心配していたことが起こってしまったのです。学校で歴史を習いはじめると、日中戦争のこと、映画やドラマでも日本軍がした悪事が出てくるようになった。『お母さん、日本人てどうしてこんなに悪いの』 と言うようになり、学校でも母親が日本人だと言われる。家に帰っても、わたしには何も言いませんが、学校で喧嘩をするようになった。原因はわたしが日本人だからです。母親として一番辛かったことです」

 追い討ちをかけるように、昭和41年(1966)、文化大革命が始まった。会社の友達から親しまれ、中国の生活にも慣れてきたわたしたちに文化大革命という思いがけない災難が起きた。中国の高級技術者や学校の先生、会社の社長など、次々に疑われるようになった。まして国交のない中国に残された日本人は、「帝国主義侵略者」と呼ばれ、主人や子どもたちにも辛い思いをさせました。日本が悪いとはいえ、わたしたちの親の時代に国が犯した罪を、 21年後の現在、当時子どもだったわたしたちが、わたしたちの子どもまでその罪を、いつまで背負って行かなければならないのか。わたしが日本人ということで主人も呼び出された。子どももね、日本人の子だって言われていじめられて、かわいそうでした。

 昔日本人の仕事してたとか、日本人の店で働いてたとか、通訳だったとか、そういう人はやられるんですよ。わたしなんか逃げる所もないですよ。わたしが日本人だから、スパイだとか。(中国に来た時は)子どもだったのに何がスパイなもんか。子どものスパイなんてねえ。わたしの写真なんてみんな持っていかれて。その時は日本語なんて、使うと日本のスパイになっちゃいますよ」

 思いを分かち合える日本人が皆無の地域で、慰めてくれたのは日本の歌と中国の友人たちだった。

 「悲しい時には近くの川のほとりで、きれいな月を見ながら、小さな声で「荒城の月」の4番を唄います。『天上影は変わらね 栄枯は移る世の姿 写さんとてか今もなお ああ荒城の夜半の月』、どんな辛い時でも人には見せたことのない涙を、どれだけ一人で唄いながら流したことでしょう。いつも胸の中に涙を飲み込んで来たのです。会社の友達も、きっといいことが来るさ、と陰ながら慰めてくれた。中国でいろいろ辛いことがありましたが、耐えてこられたのも、優しい親切な中国人の助けがあったからです。今でも感謝しています」

一時帰国

 昭和47年(1972)に日中の国交が回復した。1974年から中国残留邦人の肉親捜しが始まった。残留婦人の一時帰国の旅費を日本政府が出すようにもなり、帰国者は激増した。須田も昭和50年(1975)に 5カ月間、当時14歳と11歳のふたりの子どもを連れて一時帰国している。

 「1972年、田中総理大臣が中国に訪問され、わたしたちが長年願っていた日中友好条約が結ばれ、映画で懐かしい富士山の姿をみた時、はじめて人前で涙を流した。1975年、 31年ぶりに生まれ故郷の東京に里帰りができた。友好が結ばれ、映画や新聞にもいろいろ日本の情況が載るようになり、日本が近くなったような感じがした」

 ハルビンなど、日本人が集住していた地域では情報も入りやすかった。だが、須田が住んでいた地域には日本人がほとんどおらず、情報も入りにくかった。

 「日中友好になって、国からお金出してくれて帰れると聞いたけれども、問い合わせる先がわからなかった。文化大革命の時のことがあるから、こわいんです。後で公安局のほうで日本人を集めて説明してくれました。だけどハイラルは日本人が少なくて、何もわからないんです」

 国交回復以来、満洲時代にハイラルの小学校に在籍していた元関東軍の軍人子弟や、ノモンハンでの戦友に花を手向けにくる元軍人など、ハイラル近辺を訪れる日本人観光客も現れた。須田は時々頼まれて観光客の通訳を務めるようにもなった。それもやはり不安を抱えながらだった。日本人が来ても「ああ、日本人が来たなあ。あそこにいるなあ」って思ってみてるだけ。自分勝手に行って話したりしない。ただ、作家の渡辺一枝がこの頃の初枝を訪れ、渡辺はその著『ハルビン回帰行』の中で「残留婦人Nさん」として初枝のことを紹介している(この渡辺は敗戦の年にハルビンに生まれ、その後父親は死亡、翌年母親と日本に帰っている)。

 平成元年(1989)、 2度目の公費での一時帰国のチャンスがあった。残留婦人の帰国活動に取り組んでいたボランティア団体、春陽会の一時帰国団に加わることになった。

 「一度里帰りして、 14年後の平成元年、厚生省で再帰国として旅費を出してくれることになったのだけど、わたしの日本にいる肉親は、再帰国を嫌って手続きをしてくれなかった。10月、春陽会のおかげで、2度目の帰国ができた。実家には帰れませんでしたが、府中市の市役所婦人部の方々が暖かく迎えてくださり、短い1ヶ月でしたが楽しく過ごしました。渡辺一枝さんが、この時わたしを出迎えに空港まで来てくださった。その前にも帰国を斡旋する団体があったので、書類は書いたんだけど、その後は何にも音沙汰なし。だからあきらめてね、主人もいたから。そしたら突然、春陽会のほうから手紙がきて、日本へ帰りたいかって。もし帰りたいんだったら、親の名前、本籍、いつ里帰りしたか、前にどこにいたか、それを書いてくれって。それでわたしは言った。もういいよそんなの、帰れないんだからもう、書かなくてもいいって。でも家族に勧められて。じゃあ書こうかって、書いて出したんです。その後、戸籍謄本はどうしょうかつて困ってたら、春陽会の会長さんが送ってくださった」

永住帰国

 この一時帰国の2年後、須田は永住帰国を決意するが、肉親はやはり、身元引受人にはなってくれなかった。

 「1991年、主人も亡くなり、子どもたちもそれぞれ家庭を持ち、親として妻としての責任も終わったので、日本に引き揚げることを決心したが、肉親は誰も身元引受人になってくれなかった。日本に戸籍もあり、いつか必ず日本へと思っていたので、中国の籍にも入らず、がんばってきたわたしは、考えてもいなかった「身元引受人」という壁にぶつかってしまった。あきらめていたところ、前にハイラルに住んでいた時、旅行に来られて知り合った東村山市に住んでいる岩田さんが、『わたしでよかったら』と言って、わたしの身元引受人になってくださり、平成6年(1994)4月に帰国することができました」(この岩田という女性は、ハイラルを訪れた元軍人家族の一人だった)

 永住帰国から 3年後の平成9年(1997)、子どもたちの家族が日本に移り住んできた。呼び寄せる手続きにも、来日してからの生活にもやはり、苦労は絶えなかった。

 「子どもを来させるのも苦労して。わたしの戸籍には結婚したって記載が何もないんです。中国じゃ日本のほうから証明もらえって言うわけ。中国で、もう子どもたちが走り回って、やっと書いてもらって。やっと来たけど、でも子どもたちはやっぱり豪古に帰りたい。わたしなんて中国にいたほうが時聞が長いし、日本になんて、覚えてるのは、 5歳くらいから8年間くらいの思い出、それでも帰りたいと思う。来た時は仕事もないしほんとに困ったけど、なにか仕事を探してくれたらなあってわたし、思ったことがあるんだけど。最初の頃は生活保護とか相当いろんなことしてくれたらしいですけど、私の子どもたちが来た時には、もうそんなことは全然ない。日本語のわからない子どもたちは大変でしたが皆何も言わず、今はがんばっております。

 平成15年(2003)現在、子どもの家族は滞日6年目。今の一番の心配事は、40歳から50歳くらいになる子ども、そして孫たちの将来のこと。子ども家族の生活の安定のためには、子どもたちはいつかは中国に帰ったほうがいいと、須田は考えている。

 「今一番気になるのは、子どもたちの行く末ですね。うちの子どもたちが来たのは遅かったし、不景気だったから、年金もそんなもらえるわけじゃないし。わたしは帰れって言うんですよ。年金が 2万円ぐらいしかもらえなくて、仕事は歳とったらなくなるし、どうやって食べていくんですか。こんなたくさんの二世に生活保護くれるわけないでしょう。息子は、ぼくたち帰る時はおかあさんも帰ろうって。『とんでもない、おかあさんやっと日本へ帰ってきて、50年ぶりに帰ってきたのに、帰らないよ、ここで死ぬよ』って言ったの。子どもたちは親を1人残しとくのも心配でしょうけど。死んだ後、お骨はどこでもいいよ。そんなこと、気にしなしいから(筆者私見:おそらく死の逃避行の時、家族5人を失って骨一つ持って帰れなかった思いも重なっているであろう)。お母さんが生きてる時、兄弟仲良く、夫婦仲良く、これが 一番の親孝行だって。…… 」

 日本に永住帰国して2003年現在、須田は9年目を迎える。今は帰国者の相談にのったり、 依頼があれば小中高校の講演を行ったり、 ボランティア団体の機関紙などの中国語訳を引き受けたりと、忙しく過ごしている。

 「終戦から日本に帰ってくるまで、いろいろなことがありました。思えば終戦の時、行くところも住むところもなく、妹と畑の中にかくれていた時、親切な中国人が食べ物を持ってきてくれたりした。心の暖かさはいつまでもいつまでも忘れません。このように、終戦で広野に見捨てられ、 20何万の開拓民の多くは、戦争に倒れ、暴民に殺され、帰国の希望を失った人たちは集団自決し、飢えと寒さで命を落とした人たちが、遠い異国で祖国を思いつつ亡くなっていったのかと思う度に、今、生き残り、日本に帰ってきたわたしたちは、ただただ亡くなった方々のご冥福を祈るばかりです」

 須田は、永住帰国以来ずっと、敗戦時の苦労、中国での苦労を今の日本の人、ことに肉親にわかってもらえないという不満を抱き続けてきた。また周囲の人々の反応にも傷つけられてきた。

 「行ってなかったら、わからない。帰ってきた親兄弟だったら、このつらさもわかる。だけどこっちの人たちは、なんか言うと「ああ、お互いさまだ」って。終戦の時はこっちだって苦労したって。お互いさまにはお互いさまかもわからないけど、あんたたち日本の国の真ん中じゃない。どこにいたって、みんな日本人でしょう。わたしたちは敵の真ん中で。…… わたし、経済的にはお互いさまかもわからないけど、やっぱり、精神的には違うって。そんなこと言ったら、黙ってたけどね。…… 残留孤児も残留婦人も、自分で好きで中国に残ったんじゃないって、それだけはみなさんに分かってもらいたいって思って書きました。好きで残ったように言う人いるでしょ。『須田さん向こうに何年いた』って。 50年って言ったら、『ああーそいじゃ帰りたくなかったでしょう』なんて。向こうのほうがよかったんじゃないの、なんて。そんなこと言う人もいるのね。なんだか、日本が無理矢理こっち連れてきたみたい。帰りたくなかったでしょう、なんて。日本が豊かだから日本に住みたいって人もそりゃいるでしょうけど、わたしはもう、行った時から日本に帰りたかったんです。50年間ずっと。主人が一緒に帰らないっていうんで、諦めてましたけど。若い時は忙しくて気も紛れるけど、年とったらどんなとこでも祖国がいいんです」