──明治・大正編──
明治初期(明治元年−19年:1867−1886)
軍事的背景
新明治政府はまず近隣国である朝鮮王国と清王国(中国)との国交締結を進めるべく交渉した。しかし朝鮮は清国(今の中国)を宗主国としていて交渉が難しく、そこで征韓論が持ち上がったりするが、明治4年、まず清国と日清修好条規を交わした。その直後に台湾に漂着した宮古島島民54人が先住民に殺害されるという事件が発生、それに対して明治政府は清国に対して事件の賠償などを求めるが、交渉がこじれ、明治7年征討軍約3000名を出動させた。これが明治新政府軍としては初の海外派兵となる台湾出兵である。清国はこの日本の軍事行動に激しく反発したが、その後の交渉により10月末、「日清両国互換条款」が調印され、日本は12月までに征討軍を撤退させることに合意した。
実は琉球(沖縄)はそれまで薩摩藩の属国の立場でもあったが、基本は独立した王国であり、清国とも独立して交易をしていた。実際にアメリカのペリー提督が日本来航の前に琉球を訪れ、国王に米大統領からの親書を渡すなどし、日本とは別に琉米修好条約を結んでいた。その後明治政府は強制的に琉球藩を設置した。琉球藩と清国は反発したが、1879年(明治12年)、琉球王の尚泰は軍警察によって強制的に首里城を退去させられ、東京に連行された。こ れらの一連の政策を琉球処分という。この16年後の日清戦争での日本の勝利により、琉球の帰属問題は決着する。(この間に西南戦争が起きて西郷軍が敗れ、明治政府は国内の基礎固めを終えていた)
一方で、朝鮮王国との交易は江戸時代まで、対馬藩を通して行なっていた。明治天皇を擁する新しい明治政府からの国書は「皇」や「勅」の文字が入っていて、朝鮮は宗主国である清国にしかそれを認めていず、受け取りを拒否、その後の交渉も難航した。明治8年(1975)、日本は清国や朝鮮沿岸の測量を目的として軍艦を2隻を朝鮮沿岸へと極秘裏に派遣したが、首府漢城に近い江華島の砲台から砲撃を受け、そこで日本軍艦はただちに反撃し、数日の応戦で江華島砲台を破壊、城を焼き払った。この戦闘で日本は3名の死者、朝鮮側は死者35名、捕虜16名であった。翌9年1月、日本は改めて朝鮮に交渉団を送り、賠償の代わりに日朝修好条規の締結をした。この条約の第一条に「朝鮮は自主国として、日本と平等の権利を有している」との条文を入れ、これには日本が朝鮮の宗主国の清国との関係を断つ目的があった。
日朝条約締結後の明治15年(1882)、日本は朝鮮と領土が近接しているロシア帝国を牽制するためにも近代的軍隊を創設するという名目で、朝鮮内の開化派と連携してその改革に介入したが、朝鮮王国内では権力争いが続いていて、日本の介入に不満を持った側が日本軍人教官を殺害し、日本公使館を焼き討ちした。これを好機として日本は朝鮮への軍隊の派遣を決めるが、先に清国も派兵してその動きを封じた。明治18年、日清両政府は天津条約を結び、お互いの軍を朝鮮から撤兵することになったが、その後も朝鮮内部の抗争は続き、朝鮮は清国と日本の内政干渉を緩めるべく、ロシア に接近して朝露密約を結んだ。こうした朝鮮に対する日本の干渉がこの後の日清・日露戦争へとつながっていく。
軍歌(明治元年−19年:1867−1886)
『宮さん宮さん』
明治元年(1868)頃 作詞:品川弥二郎/作曲:大村益次郎(不確定)
事実上、日本初の軍歌・行進曲で、トコトンヤレ節もしくはトンヤレ節ともいう。歌詞は、戊辰戦争(内戦)での新政府軍(官軍)の気勢を描いている。リズムは江戸時代からあったと言われ、俗謡調であるが、明治2年(1869)に薩摩藩イギリス海軍軍楽隊の指導を受けて編成した薩摩藩軍楽隊(それをもとに2年後、陸・海両軍に軍楽隊が誕生)も普及に寄与した。覚えやすい歌詞と明るい曲調により、後には小学唱歌にも採用された。その後も現在まで替え歌などで使われている。
1 宮さん宮さん お馬の前に ひらひらするのは 何じゃいな トコトンヤレ トンヤレナ あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じゃ 知らないか トコトンヤレ トンヤレナ 2 一天万乗の一天万乗の 帝王に手向いする奴を トコトンヤレ トンヤレナ ねらい外さず ねらい外さず どんどん撃ち出す 薩長士 トコトンヤレ トンヤレナ 5・6合成(3、4略) 国を追うのも人を殺すも 誰も本意じゃないけれど トコトンヤレ、トンヤレナ 命惜しまず魁(さきが)けするのも 皆お主(しゅう)の為故じゃ トコトンヤレ、トンヤレナ
歌詞の中の「宮さん」は、戊辰戦争時に新政府の総裁で東征大総督でもあった有栖川宮熾仁親王を指す。また「一天万乗の帝王」とは天皇のこと。「皆お主の為故じゃ」のお主は自分たちの藩主のとこであるらしいから、まだ江戸時代を引きずっている。
官軍である「薩長土」の一員であった長州藩士品川弥二郎が作った歌だが、戊辰戦争で賊軍として戦った元会津藩をはじめとする奥羽越列藩同盟の人々にとっては不快な歌ではなかったか。この幕末における戦争では、西郷隆盛率いる「新政府軍」(官軍)と徳川慶喜率いる「旧幕府軍」が衝突した、明治時代幕開けのきっかけとなった大きな内戦だが、それまで正統な座にいた幕府側が賊軍となったわけで、そこから「勝てば官軍、負ければ賊軍」の言葉が生まれた。つまり勝てば道理がどうあれ正義となるわけで、この後同じ西郷隆盛を盟主にして起こった西南戦争では、西郷が賊軍の象徴となる。これは世界中の戦争につきものの現象で、だから物事は片側からだけ眺めていてはいけないという戒めになる。ちなみにこの後の日本の戦争はすべて「大日本帝国」が仕掛けていったもので、日本側からすればすべて「正義の戦争」とされていることが、軍歌をざっと通してみるとよくわかる。
またこの曲はジャポニズムの潮流に乗り、明治18年にロンドンで初演され欧州で大流行したサリバン作曲のオペレッタ「ミカド」の中でも使われ、さらに後年、プッチーニのオペラ「蝶々夫人」にも取り入れられている。
『君が代行進曲』
1880(明治13)年に国歌としての『君が代』が礼式曲として定められたが(ドイツ人で海軍軍楽教師のフランツ・エッケルトが編曲)、同年、海軍軍楽隊の吉本光蔵によって行進曲用に作曲された。戦後も運動会などでよく流され、ブラスバンド用の楽譜があり、中学校、高等学校でもよく演奏される。日本人の感性に染み付いているとも言える。
君が代は 千代に八千代に 細石(さざれいし)の 巖(いはほ)となりて 苔の生(む)すまで 来れや来れやいざ来れ 皇国(みくに)を守れや 諸共(もろとも)に 寄せ来る敵は多くとも 恐るるなかれ怖るるな 死すとも退く事なかれ 皇国の為なり君の為 君が代は 千尋(ちひろ)の底の 細石の 鵜(う)のいる磯と 現わるるまで
国歌としての『君が代』は一番のみであり、詩は古今和歌集から採られていて、作曲は奥好義(よしいさ)。国歌として定着したのは1930年である。なおこの二番は下記18年の『来たれや来たれ』の一番に転用されている。
『皇御国』(すめらみくに)
明治16年(1883)発行の『小学唱歌集・第2編』に採録された。作詞:加藤司書・里見 義/作曲:楽師長 芝葛鎮・伊沢修二。のちに陸海軍の「喇叭吹奏歌」に選ばれる。
1 皇御国の武士(もののふ)は 如何なる事をか務むべき ただ身に持てる真心を 君と親とに尽すまで <吾が大君に尽すまで> 2 皇御国の男子(おのこ)らは たわまず折れぬ心もて 世の業(なりわい)をつとめなし <身の生業(なりわい)にいそしみて> 国と民とを富ますべし <国と家とを富ますべし>
<>は歌詞の違い、「君」は天皇のこと。この時代、古文調の軍歌的な歌もこだわりなく小学唱歌に取り上げられている。現今では子供には難しい言葉は避けられるが、子供はそのまま吸収してしまうからさほど問題ないと思える。ただ問題はこの背景の思想もそのまま吸収してしまうことであろう。例えば昭和の戦争の時代、男の子はほぼ小学校で軍国少年が出来上がり、大きくなったら兵隊さんになって名誉の戦死をするものだ、そしてアメリカとの戦争も最後には神風が吹いて日本は必ず勝つとも教えられ、素直にそのように思い込んでいた。ところが頼みの神風も吹かず、いきなり敗戦となってしまい、そのうえ大人たちは一転して憎き敵であったはずのアメリカ占領軍の政策に素直に従い、その文化にもこだわりなく染まっていったから、大人というのは信用できないと思ったと、当時子供だった人たちは一様に語っている。
『招魂祭』
明治17年(1884)発行の『小学唱歌集・第3編』に採録された。作者不詳。
明治2年(1871)に創建したばかりの東京招魂社が、3年に戊辰戦争で亡くなった兵士のための招魂祭が行われる。その後、靖国神社と名を変え、国のために戦死した人々の霊を祀り、国を後援する神社、あるいは国の起こす戦争を支援する神社として、その存在を確かなものにする。
1 ここに奠(まつ)る 君が霊(みたま) 蘭はくだけて 香(か)に匂ひ 骨は朽ちて 名をぞ残す 机代物(つくえしろもの) うけよ君 2 此所(ここ)に祀(まつ)る 戦死の人 骨を砕くも 君が為 国の守り 世々の鑑(かがみ) 光り絶えせじ そのひかり
「机代物」とは即位大嘗祭の際、さまざまな地方の特産品が供進され、それが「庭積机代物」(庭の机上に盛り供えられること)と名づけられたことによる。「骨は朽ちて名をぞ残す」、「骨を砕くも君が為 国の守り世々の鑑」というまだ見ぬ戦争に向けての心構えの基本がここに描かれていて、この基本思想がこの後の大半の軍歌を貫き、昭和の戦争の終わるまで踏襲される。この後も靖国神社の影は軍歌のあちこちに投影されていく。
また、同じ『小学唱歌集・第3編』収録の中にある『古戦場』もこの『招魂祭』と似た主題を描いている。
1 屍(かばね)は朽て骨となり 刃は折れてしも霜むす結ぶ 今はた靡(なび)く旗薄(すすき) 皷(つづみ)の音か 松風か 2 人影見えず風寒し 蓬(よもぎ)は枯れて霜白し 命を捨し真荒雄が その名は千代も朽せじな
古戦場を偲んで、これから來りくる戦争に心構えを作っておこうということであろうか。明治5年(1873)の学制を経て11年の教育令の発布により全国に小学校が設置されてゆき、国民は唱歌を通して、富国強兵に向けて愛国心や尊王、国防(軍隊)精神を学んでゆく。文部省唱歌は軍歌の揺籃として機能した側面もあったようである。富国強兵の根幹は軍であり、その軍を強固にするには小学校教育からその精神を培っていくことが肝要で、それには軍歌が最適ということであった。
『抜刀隊』
明治18(1885)年。西南戦争(明治10年)最大の激戦となった田原坂の戦いにおいて、帝国陸軍(政府軍・官軍)側が、西郷軍に対抗するため、特に剣術に秀でた者を選抜し(かっての侍の多くが警察官に採用されていた)、抜刀隊が編成されたことを歌ったもの。外山正一の歌詞に、日本に軍楽隊の指導に来ていたフランス人シャルル・ルルーが曲をつけたもので、鹿鳴館(元の日比谷の華族会館)における大日本音楽会演奏会で発表された。本格的西洋音楽であったことから、後の様々な楽曲に影響を与えた。これは小学校初等科音楽としても使用された。作詞した外山はフランス革命の時に歌われた「ラ・マルセイエーズ」に匹敵する愛国心を励ます歌を作りたかったと言う。この時に初めて「軍歌」という言葉が使われたという。
1 吾は官軍我が敵は 天地容れざる朝敵ぞ 敵の大将たる者は 古今無双の英雄で これに従うつわものは 共に慄悍(ひょうかん)決死の士 鬼神に恥じぬ勇あるも 天の許さぬ反逆を 起こせし者は昔より 栄えしためし有らざるぞ 敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に 玉散る剣(つるぎ)抜きつれて 死する覚悟で進むべし(最終二行繰り返し) 2 皇国の風(ふう)と武士(もののふ)の その身を護る魂の 維新このかた廃れたる 日本刀(やまとがたな)の今更に また世に出ずる身のほまれ 敵も味方も諸共に 刃(やいば)の下に死ぬべきぞ 大和魂あるものの 死すべき時は今なるぞ 人に後(おく)れて恥かくな 6(3−5略) 我今茲に死なん身は 君のためなり国のため 捨つべきものは命なり たとい屍は朽ちぬとも 忠義にために捨つる身の 名は芳しく後の世に 永く伝えて残るらん 武士と生まれた甲斐もなく 義もなき犬と言わるるな 卑怯者となそしられそ
「敵の大将たる者は 古今無双の英雄」とは西郷隆盛のことで、武器はすでに刀から銃の時代になっていたが、薩摩士族の刀による抵抗に手を焼き、そこで警視庁から旧幕臣の剣豪を募り編成されたのが「抜刀隊」であった。もともと警視庁の旧幕臣たちというのも幕府の崩壊によって行き場を失った士族たちで、薩摩士族と同じ立場であった。
6番の歌詞には、「君のためなり国のため ……忠義のために捨つる身の……」という表現が出てくるが、本来、薩摩士族も国のため、忠義のために捨つる身として戦っていたはずで、結局は「勝てば官軍、負ければ賊軍」の言葉が象徴するように、一つの国の中でも官軍と賊軍(ここでは朝敵)は時によって入れ替わりっていて、そこでは国のためも何もないと思える。結局はその時々の政権が作る側が、その時々の政権の都合によって、国のためとして国民の命を犠牲として求めているだけであって、その時々の政権のために命を捧げても、国のためにも何のためにもならない。そもそも一般の兵士などが死んでも、名を残せることはまずない。にも関わらず、その時々の政権は、自分たちのために命を捧げてもらおうと、実体のない「国」という観念のためとして、このような軍歌を作って、意味づけしようとする。
『扶桑歌』
明治18年(1885) 『抜刀隊』と同じくフランス人軍楽教官シャルル・ルルーによって作曲され、「日本国皇帝に献ず。日本の分列行進曲。11月9日、宮中において陸軍教導団軍楽隊に依って初演」された。この曲と、同じくルルーの作になる『抜刀隊』の二つが、ルルーによって行進曲に編曲され、帝国陸軍観兵式の「分列行進曲」として採用された。現在でも陸上自衛隊で使われている。なおルルーは日本の軍楽隊の基礎を作った。
わが天皇(おほきみ)の治めしる わが日の本は万世も やほ万世も動かねど 神の万世(みよ)より神ながら 治めたまへばとことはに 動かぬ御代と変はらぬぞ 四方に輝く御稜威(みひかり)は 月日の如く照すなり かかるめでたきわが国ぞ やよ国民よ朝夕に 天皇が恵に報はんと 心を合はせひたぶるに 尽せよや人ちからをも あはせて尽せ人々よ
『抜刀隊』と『扶桑歌』の歌詞の趣旨が、この後続々と作られる軍歌の中に織り込まれて行った様子がある。
『田原坂(たばるざか)』(豪傑節)
西南戦争で激戦の地であった田原坂の様子を歌っている。基本は熊本民謡としてである。
雨は降る降る 陣羽(じんば)は濡れる 越すに越されぬ 田原坂 右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱(たづな) 馬上ゆたかな 美少年 山に屍(しかばね) 川に血流る 肥薩(ひさつ)の天地 秋にさびし 草を褥(しとね)に 夢やいずこ 明けのみ空に 日の御旗(みはた) 泣いてくれるな かわいの駒よ 今宵しのぶは 恋でなし どうせ死ぬなら 桜の下よ 死なば屍(かばね)に 花が散る 田原坂なら むかしが恋し 男同士の 夢の跡 春は桜よ 秋ならもみじ 夢も田原の 草枕
上記の『抜刀隊』は官軍側が歌ったもので、これは反乱軍側=西郷の率いる「賊軍」の歌である。賊軍側でも、(明らかに単純な戦意高揚を目的とした内容でない限り)歌の内容はほぼ変わらない。後の日露戦争当時にも歌われたという。日露戦争後に歌詞の「陣羽」が「人馬」と誤解されるようになった。
ちなみに靖国神社は幕末から明治維新にかけて功のあった志士に始まり、日本の国内外の事変・戦争等、国事に殉じた軍人、軍属等の戦没者を「英霊」として祀ることを基本としているが、この西南戦争で敗軍となった西郷隆盛らは賊軍ということで祀られていない。この戦争は明治新政府から取り残されて不満を持つ元士族の反乱の形をとるが、これを平定することによって明治政府は基盤を整えた。その意味で日本の国家を安定させるためにどうしても避けて通れない戦争の側面を持ち、西郷らはその犠牲者でもあった。つまり、それ以前の活躍(鳥羽伏見・戊辰戦争では官軍として戦った)では彼らは国家形成に表裏で十二分に役立ったはずで、除外されるのはおかしく、靖国神社の判断は狭量としか言いようがない。もっとも西郷たちはこれで名を残し、いまだに国民の多くの中で一般の「英霊」を超越する存在として崇敬されているから、それでいいのかもしれない。
『皇国の守:来たれや来たれ』
明治18年(1885) 作詞:外山正一/作曲者:伊沢修二(音楽取調掛)
『軍歌』として発表され、日本人の手になる初めての軍歌とされる。21年に『明治唱歌』に掲載され、「皇国(みくに)の守」と改題された。日清戦争の差し迫った26年、『小学唱歌』にも収録され、その際題名が「来たれや来たれ」となった。
1 来たれや来たれやいざ来たれ 御国を守れや諸共に 寄せ来る敵は多くとも 恐るるなかれ恐るるな 死すとも退く事なかれ 御国の為なり君の為 2 勇めや勇めや皆勇め 剣も弾丸も何のその 御国を守るつわものの 身は鉄よりもなお硬し 死すとも退く事なかれ 御国の為なり君の為 3 守れや守れや皆守れ 他国の奴隷となる事を 恐るる者は父母の 墳墓の国をよく守れ 死すとも退く事なかれ 御国の為なり君の為 4 進めや進めや皆進め 御国の旗をば押し立てて 進めや進めや皆進め 先祖の国を守りつつ 死すとも退く事なかれ 御国の為なり君の為
1番は『君が代行進曲』の2番が使われている。これは日本の国土防衛の意味で「来たれや来たれ」あるいは「守れや守れや」と言っているのであろうが、既述のように日本はすでに朝鮮や中国に出かけてちょっかいを出していて、実際に明治以降の戦争は、すべて「敵地」に攻め込んだことから始まっていて、この3番までの歌のように他国からの侵攻による「防衛」で立ち上がることはなかった。このことは頭に留めておくべきである。この時期、他国の侵害から守るべき立場にあったのは、軍事的劣勢にあった中国や朝鮮のほうであって、ロシアからの脅威に加えて日本も脅威になりつつあった。
なおこの歌は昭和に入ってから3番が削除された。理由は明快で、すでに日本が「他国の奴隷となる」可能性はもはやなく、むしろ台湾、朝鮮、満州と三国を植民地とし「奴隷」にしている身であって、似つかわしくないとされたのであろう。ただし昭和の敗戦後、米国を主とする連合占領軍GHQによって支配され、7年後に解除されたが、日本はその後も(一般の人々に自覚はないが)別な形で米国の従属国家としてあり続けている。
『敵は幾万』
明治19年(1886)、詩集『新体詩選』に収録された山田美妙斎8章の詩に、小山作之助が作曲した。のちの太平洋戦争(大東亜戦争)時の大本営戦勝発表の際、前後で流された。
1 敵は幾万ありとても すべて烏合(うごう)の勢(せい)なるぞ 烏合の勢にあらずとも 味方に正しき道理あり 邪はそれ正に勝ちがたく 直は曲にぞ勝栗の 堅き心の一徹は 石に矢の立つためしあり 石に立つ矢のためしあり などて恐るる事やある などて猶予(たゆた)う事やある 3(2略) 破れて逃ぐるは国の耻(はじ) 進みて死ぬるは身の誉れ 瓦となりて残るより 玉となりつつ砕けよや 畳の上にて死ぬことは 武士の為すべき道ならず 骸(むくろ)を馬蹄にかけられつ 身を野晒(のざらし)になしてこそ 世に武士(もののふ)の義といわめ などて恐るる事やある などて猶予う事やある
この歌詞のもとは、史記の一節にある中国前漢時代の英雄譚で、画家で若い時に日中戦争に従軍した安野光雅は、「中国の英雄譚を歌いながら中国と戦争するとは実に奇妙である」と記しているというが、軍隊にとって士気を高めるために利用できればそれでいいのだろう。「破れて逃ぐるは国の耻 進みて死ぬるは身の誉れ」と、すでにここに昭和の戦争まで続く日本軍の戦いの精神が打ち出されている。しかも「味方に正しき道理あり 邪はそれ正に勝ちがたく」と、まだ見ぬ戦争に向けて、わが国が戦争に至る場合、それは正義の戦争であるからそのつもりで進めと諭している。実際には自国が関わる戦争で、自国に正義があるとしない国はないと言っていい。それほど正義という言葉は安易に使われる。
なおこの曲は、日本の植民地の時代に浸透し、韓国では『少年行進歌』、北朝鮮では『決死戦歌』として使われているというから軍歌としてリズム感が適しているのであろう。
童謡・流行歌(明治元年−19年:1867−1886)
『喋々』(ちょうちょう) 明治14年。ドイツの古い童謡に野村秋足が作詞し、『小学唱歌集』に掲載された。似たような歌詞は江戸時代からあったと言われる。
—— 「蝶々 蝶々 菜の葉にとまれ 菜の葉に飽たら 桜に遊べ 桜の花の 栄ゆる御代に とまれや遊べ 遊べやとまれ」
『蛍の光』 明治14年(1881) スコットランド民謡に稲垣千頴が訳詩し、『小学唱歌集』に掲載された。原題は“old long since” (「久しき昔」の意味)。卒業式の定番の歌となった。戦後編曲され『別れのワルツ』としていろんな場面で流されている。
—— 「蛍の光 窓の雪 書(ふみ)読む月日 重ねつつ いつしか年も すぎの戸を 開けてぞ今朝は 別れ行く」
このあとの三番の中には元は「別るる道は 変るとも 変らぬ心行き通ひ 一つに尽くせ国の為」であったが、これを文部省の学務局長が「変らぬ心行き通ひ」という部分が男女の間で交わす言葉だという指摘により「海山遠く隔つとも その真心は隔て無く 一つに尽くせ国の為」と変更され、刊行が翌年に延びたというが、その憶測自体が不純であろう。いつの時代もこの種のくだらない官僚がいる。また今ではカットされている、四番の中の「千島の奧も 沖繩も 八洲(やしま=多くの島からなる国の意)の内の 護りなり」の沖繩が、その後の領土拡張により、日清戦争後は台湾に、日露戦争後は樺太に改変された。 このあとの三番の中には元は「別るる道は 変るとも 変らぬ心行き通ひ 一つに尽くせ国の為」であったが、これを文部省の学務局長が「変らぬ心行き通ひ」という部分が男女の間で交わす言葉だという指摘により「海山遠く隔つとも その真心は隔て無く 一つに尽くせ国の為」と変更され、刊行が翌年に延びたというが、その憶測自体が不純であろう。いつの時代もこの種のくだらない官僚がいる。また今ではカットされている、四番の中の「千島の奧も 沖繩も 八洲(やしま=多くの島からなる国の意)の内の 護りなり」の沖繩が、その後の領土拡張により、日清戦争後は台湾に、日露戦争後は樺太に改変された。
『見渡せば』 明治14年 作詞:柴田清煕/作曲:J・J・ルソー。この歌は現在残っていないが、海外では讃美歌として歌われ、日本では昭和の戦後、「むすんで ひらいて 手をうって むすんで」という歌詞(作者不詳)がつけられ、広まった。
—— 「見わたせば 青やなぎ 花桜 こきまぜて みやこには 道もせに 春の錦をぞ」
『仰げば尊し』 明治17年(1884) 原曲は米国で(「Song for the Close of School」)、歌詞は合議によって作られた唱歌。蛍の光とともに卒業式の定番の歌となった。
—— 「仰げば尊し 我が師の恩 教えの庭にもはや幾年 思えばいと疾し この年月 今こそ別れめ いざさらば」
なお、二番の詩の中の「身を立て 名をあげ やよ励めよ」との部分が、立身出世を呼びかけていて「民主主義」的ではないという見方から、省略して三番を二番として歌うこともあるというが、これは戦後の民主主義の時代に生きてきた筆者にはその思考は偏狭にすぎると思われる。競争自体は悪いことではなく、いわゆるリベラル派を自認する人の固定観念ではないのか(筆者もリベラル派と思っているが)。
『庭の千草』 明治17年 アイルランド民謡<The Last Rose of Summer>「夏の名残のバラ」から里見 義が作詞した唱歌。原詩は、愛する人に先立たれて一人残される悲しみを歌う内容。これを原曲としてこの後も別な歌詞がいくつも付けられたが、この歌だけが残っている。
—— 「庭の千草も 虫の音も 枯れて淋しくなりにけり ああ白菊 ああ白菊 ひとり遅れて 咲きにけり」
『才女』 明治17年 里見 義が1838年2月にスコットランドの女流音楽家ジョン・ダグラス・スコット夫人が作曲した『アニーローリー』を、内容の異なる紫式部と清少納言の才女ぶりを称えるものとして作詞した。もとはクリミア戦争で戦地の兵士たちが、故郷にある大切な人をしのんでこの歌を口ずさむようになってから世界に広まった。この後、大正末に緒園 凉子などが改めて訳詞を付けて普及した。
—— 「春の岸辺に 咲きし花よ 君が姿を 何にたとう その御前(みまえ)に この身ささぐ 愛(いと)し アンニー・ローリー われは誓う」
『秋の夕暮れ』 明治17年 これは今に残っていないが、新古今集所収の「秋の夕暮れ」を結びとした三首の名歌、定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の 苫屋(とまや)の秋の夕暮れ」、西行の「心なき身にもあはれは知られけりしぎ立つ沢の秋の夕暮れ」、寂蓮の「さびしさはその色としもなかりけり 槙立つ山の秋の夕暮れ」を多少改変して歌にしているが、この明治の時代は昔の和歌から歌詞を採録する場合が多かった。
この時代の明治14−17年の間に、およそ100曲を超える唱歌が作られているが、明治40年から大正時代にかけて作られた唱歌に比べて残っている歌は少ない。おそらく作詞家が固定され、作曲家も育っていなかったせいである。
日清戦争まで(明治20年−29年:1887−1896)
軍事的背景
明治27年(1894)、朝鮮王朝の政権争いによる悪政と収奪、さら飢饉に苦しみ続けていた農民たちの反乱が起き、農民軍は官軍を撃破し、全州を占領した。これに対し朝鮮政権は、宗主国である清国の来援を求め、日本政府も天津条約と日本人居留民保護を名目にして6月に兵力派遣を決定し、戦時体制を作った。清国政府は同時撤兵を提案するが、日本は朝鮮を清国から独立させるとして、追加部隊を派遣、清国兵2500名に対し日本は8000名の駐留部隊を送り、絶交書を清国側へ通達し、7月、日本軍は朝鮮王宮を攻撃し占領した。日本軍は国王高宗を支配下に置き、清との宗藩関係解消を宣言させ、8月に日本は清国に宣戦布告をした。
日清戦争(明治27年7月−28年4月)の戦闘は宣戦布告前に朝鮮から始まっていたが、開戦に際し、外務大臣陸奥宗光は「外国からの干渉が面倒にならない以前に、どの地方でも いいから出来るだけ広範囲に 占領するように」と命令している。侵攻は朝鮮の平壌から始まり、明治27年(1894)9月に清国軍を朝鮮から駆逐、黄海海戦で清国の北洋艦隊を破って制海権 を握り(日本軍の死傷者298名、清国軍死傷者850名)、その後清国領内に進攻開始、別働隊は遼東半島上陸を開始し、その後11月に旅順半島攻略戦を実施、清軍の士気などが低いこともあり、堅固な旅順要塞を比較的容易に占領した。この旅順陥落の報を受け、日本国民は歓喜した。しかしこの後の4日間で捕虜や住民が大量に殺される旅順虐殺事件が生じた。
またこの日清戦争の前に朝鮮の東学農民党が朝鮮政府に反乱を起こしていたが、この戦争の渦中に一旦解散したと思われた農民党が再度日本軍に反乱を起こし、これを日本軍は圧倒的な火力兵器で鎮圧し、リーダも処刑した。この農民軍の生き残りが朝鮮各地や国境を超えた中国に潜伏し、抗日闘争の中核となり、後の日中戦争から太平洋戦争が終わるまで日本軍を苦しめることになる。
明治28年(1895)2月、日本軍は山東半島にある威海衛を制圧した。3月に日本の勝利を前提に休戦が決まり、4月に調印された日清講和条約(下関条約)では、日本は遼東半島・台湾・澎湖列島の割譲と賠償金支払いを受けることになった。割譲された台湾に改めて近衛師団を派遣、6月に台北で台湾総督府始政式が行われた後、台湾内を平定するため日本軍の南進が始まった。しかし武装住民(義軍)の抵抗が激しく、全島平定宣言するのに5ヶ月を要し、戦死者は453人だったが、マラリア等による病死者が4642人に上った。台湾側では義軍と住民およそ1万4千人が死亡した。しかし平定宣言後にも蜂起は続き、さらに原住民との衝突が長く繰り返された。この台湾を除いた日清戦争による戦死・戦傷死は1567人だったが、病死は1万2000人以上という放漫な戦争であった。中国側の死傷者は約3万5000人とされる。ここから1945年の日本の敗戦まで、50年間、台湾は日本の植民地となる。
日清講和条約の内容が明らかになると、ロシアは朝鮮を日本の支配下に置かれた上に遼東半島を日本に割譲されると海洋への出口を失ってしまうことで反発し、同じく中国の権益確保を狙っていたフランス・ドイツと共同して、日本に対し清国への還付を要求した。これを三国干渉というが、日本はやむなく勧告を受諾し、この結果にむしろ世論は激しく反発した。これを機に当の三国は、清国が背負った高額の対日賠償金への借款供与することで、次々と租借地や鉄道敷設権などの権益を獲得し、これらが後の日露戦争と、第一次世界大戦下の日本の対ドイツ参戦につながっていく。何のための戦争であったか、という疑問を持たせる戦争が、早くもここから始まっている。
(詳しくは筆者の「日本の戦争:明治時代」参照)
軍歌(明治20年−29年:1887−1896)
『火砲の雷』(ほづつのらい)
明治22年(1889)発行『中等唱歌集』に収録(1887年初出)
作詞:里見 義/作曲:カール・ヴィルヘルム(ドイツ軍歌「ラインの護り」より)。この曲は替え歌が各種あり、同志社大学のカレッジソングにもなっている。
1 火砲(ほづつ)の雷(らい)なり 矢玉の雨ふる 筑紫の海辺を たれかはまもれる おそるな国民(くにたみ)、おそるな国民 日本男児(やまとだんじ)まもれり(後半二行繰り返し) 2 我兵十万 忠勇無比なり 心を一つに せとぐちまもれり 3 矢玉はつくとも 刀はおるとも、 生血(いきち)のあるまは 敵をばとおさじ 4 雲霧をさまり 日の旗かがやく、 かためよまもれよ ながとのせとぐち
まだ本格的な戦争が間近に迫っていない頃に、どうしてこうも多くの軍歌が作られているのか。ただ、明治政府は富国強兵を掲げて明治6年(1873)に徴兵制を採用し、その頃から朝鮮や中国に軍事的ちょっかいを出していて、すでに領地的野心を持っていたから、それには戦争が必須と見ていて、国民にその心構えをさせていたのであろう。この歌の22年には徴兵制を平等にする国民皆兵とされた。ただ、「守れよ」という「ながとのせとぐち」とは長門(山口県の西方で旧長門国=長州藩)の瀬戸口を言っているのであろうが、当時の具体的な状況は不明である。長門は朝鮮国に向い合って、西に玄界灘があって、要衝と言える。長門はのちに軍艦の名前にもなっている。
この歌も中学唱歌に採用されているが、この明治22年に発行された『音楽新論・唱歌原理』によると、波多江秀次が「音楽の改良普及及実施は国家の最大緊要務」とし、「音楽は教育上に於て徳育と最も親密なる関係を有せり」、そのうえ「人をして勇壮活発の気を生ぜしめ、千万の軍と雖えども尚ほ畏れざるに至らしめんには、幼年のとき活発なる音楽を以て、その心情を養ひ、以て漸次勇壮活発なる資性となからしむべし。例せば徴兵を嫌忌するものの如きは、道理上、義務上より之を勧告せんより寧むしろ、勇壮活発の気性を養成し、自ら奮つて兵役に就んとするの尤もっとも勝れるに如しかず」と述べていて、ちょうど国民皆兵が打ち出された時に相応する。こうして軍歌が主体の『生徒用唱歌』や『国民唱歌集』などが次々と世に出される。
その中の目につくものをあげる。
『轟く筒音』
轟(とどろ)く筒音(つつおと)みなぎる煙 進め進め いざ疾(と)く進め おもしろや
『勝利』
祝へ祝へ共に祝へ 歌へや歌へや共に歌へ 勝利勝利の声高く
『大和魂』
大和魂(やまとたましひ)磨きてぞ 国の光となりなまし
『青海原』
嵐を凌ぎ波を越え 皇(すめら)御戦(みいくさ)の船競(ふなきそ)い/ 海(わた)の外まで功績(いさおし)を高く立てなむ 日の御旗(みはた)
『朝日の御旗』
日の本としも名にしおへば 朝日の御旗 奉(ささ)げ持ちて いたらむ国をなびけてまし あらゆる国々平(ことむ)けまし
『皇国の光』
世界を照さむ 光の色 まずこそ匂へし 東の海 八十島(やおしま)千島の 波間をわけの 今さし昇るや朝日影
(以上は鈴鹿大学紀要『1886年における「軍歌」の誕生』大本達也氏論文から転用)
「いざ疾く進め おもしろや」とはまだ体験しない戦争を想像しての子供の兵隊ごっこの感じがあり、だから簡単に「勝利勝利の声高く」して、「国の光」となるであろうし、「海の外まで功績を高く立てなむ」とはすでに海外遠征を想定していて、「いたらむ国をなびけてまし あらゆる国々平けまし」とは大日本帝国が弱体の国も含めてあらゆる国を平定してみせようということ、そうして「皇国の光」が「世界を照さむ」であろうと、すでにしてこの時期に、戦争をして少なくともアジアを制覇するという野心がみなぎっているような感じがある。
ただ見方を変えれば、明治維新から「富国」に努め、20年ほどでここまでの国力をつける日本というのは、昭和の戦後20年で驚異的な経済成長を遂げた日本にも重なり、大したものと言うしかない。ひとえに日本人の勤勉さから来ているのであろうが、それが特に満州事変から14年間の昭和の戦争にもつながり、その結果、内外で軽く一千万人単位の犠牲者を生じさせた。
『進撃及び追撃』
明治22年に初めて「新軍歌」として発表されたうちの一つで、曲はフランスの思想家ルソーのものを使用したとされる。 作詞:鳥居 忱 (瀧廉太郎が作曲した「箱根八里」の作詞者)
1 見渡せば 潰(く)づれかくる 敵の大軍 心地よや もはや合戦 勝ちなるぞ いでや人々追ひくづせ 銃劍つけて 突仆(つきたほ)せ 敵の大軍 突きくづせ 2 見渡せば 寄せて来る 敵の大軍 面白や すはや戦ひ 初まるぞ いでや人々 攻め潰せ 弾丸込めて 討ち倒せ 敵の大軍 撃つちくずせ
すでに勝利を目前にしている状況としての歌である。空想の世界であるから「敵の大軍 心地よや…面白や…攻め潰せ」となる。のちの少年兵たちは訓練中にはどのようにでも敵を倒せる空想に浸ったが、いざ戦場に出るとまったく勝手が違い、死も簡単なものではなかった。
『元寇』(げんこう)
明治25年(1892) 作詞・作曲:永井建子(けんし)
当時の清国との関係が緊張感を増す中で、13世紀に元寇(蒙古軍)が九州北部に襲来し、日本が撃退したという話をテーマにした歌で、旧日本陸軍軍楽隊士官、永井建子が作った。アメリカの軍歌「錨をあげて」の影響を受けた曲と言われる。歌詞としては、歴史上に素材を求めたものとして、詠史軍歌という。大正天皇も愛唱したという。メロディーは有名で替え歌で歌われる場合が多い。
1(鎌倉男児)
四百余州を挙(こぞ)る 十万余騎の敵
国難ここに見 弘安四年夏の頃
なんぞ怖れんわれに 鎌倉男児あり
正義武断の名 一喝して世に示す
2(多々良浜)
多々良浜辺の戎夷(えみし) そはなに 蒙古勢
傲慢無礼もの 倶(とも)に天を戴かず
いでや進みて忠義 鍛えし我が腕(かいな)
ここぞ国のため 日本刀を試しみん
3(筑紫の海)
こころ筑紫の海に 浪おしわけてゆく
ますら猛夫(たけお)の身 仇(あだ)を討ち帰らずば
死して護国の鬼と 誓いし箱崎の
神ぞ知ろし召す 大和魂(やまとだま)いさぎよし
4(玄海灘)
天は怒りて海は 逆巻く大浪に
国に仇をなす 十余万の蒙古勢は
底の藻屑と消えて 残るは唯三人(みたり)
いつしか雲はれて 玄界灘 月清し
四百余州とは中国全土のことで、そこから元寇(蒙古軍)という「十万余騎の敵」がやってきて、当時の幕府は鎌倉にあったから「鎌倉男児あり」となる。この元寇は鎌倉時代に二度に渡って日本に来襲し、日本軍はよく防戦したが、二度とも途中で台風が来て元寇の船を多数沈ませ、日本に大きな被害がなくて済んだ。そのことが「天は怒りて海は逆巻く大浪に」となる。この時の台風を、日本を救った神風と呼び、これによって太平洋戦争中に戦況が悪化している中でも、軍政府は、最後には神風が吹いて日本は必ず勝つと、悪あがきのような言辞を弄し、子供達や大人の一部もそれを素直に信じた。しかもその愚かな観念が、負けの見えていた戦争を、「本土決戦」などと標榜して引き延ばし、米軍の大空襲などにより無駄に犠牲者を増幅させた。
実は日本の歴史上、外国から戦争を仕掛けられたのは、明治維新期の薩英戦争などの多少のやり取りを除き、この元寇の時だけで、明治以降はすべて日本が仕掛けていった戦争である。当然、当時の元寇は「傲慢無礼もの」として打ち倒す相手であったが、600年後になってその仕返しの準備をしていたわけではない。
『桜花』(桜の歌)
明治25年(1892)。 歌詞は大庭景陽が6年前に発表したものが改作され、作曲は不詳。
本居宣長の和歌や太平記にある児島高徳の故事が組み込まれている。基本は中世の内乱の時代のことを歌っている。
1 我が国守るもののふの 大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜 咲くや霞も九重の 左近の花に東風吹かば 四方に打ち出んもののふの 守れ守れやほこりとて 仇し叢雲(むらくも)うちはらひ 千春万秋動かざる 皇御国(すめらみくに)の大御代と ともに世界にたぐいなき 桜花こそ目出度けれ 桜花こそ忠義なれ 2 都に東風は吹きすさび 伯耆(ほうき)の国の杉坂の 後を慕ひて高徳が 仮屋の御庭の桜木に 留めし十字の言の葉は 赤き心を墨ぞめの 花とその香をきそひける 世にも稀なる忠烈は 幾千代かけて香しく やまとをのこの鑑(かがみ)ぞと 春の霞のそが中に いとど昔の忍ばれて ますら武夫のいやまさる 3 (中略) やまと男子の忠烈は 桜とともにためしなし 桜とともにたぐいなし
この中の、大和心(魂)、皇御国(皇国)、桜花、忠義、忠烈、やまとをのこ(大和男子)などは昭和の軍歌まで貫く言葉である。とりわけ「桜」は日本の軍歌にとって不可欠の素材のようで、要は兵隊は桜花のように潔く散ることが肝心ということであり、いずれにしろこれから戦争を展開しようとする国からの押し付けのイメージとしか思えない。最終的に桜は特攻隊員のイメージとして定着したが(散華という言葉が使われる)、実際の戦闘において、どのように将兵たちが死んでいったかは、あまり配慮されない。例えば昭和の戦争、とりわけ太平洋戦争(大東亜戦争)において、遠方に戦線を拡大しすぎた結果、戦死者のうち餓死者が6割を超えるという事実をどう見るか、彼らの多くは密林の中で蛆虫に分解されて骨だけとなり、頭蓋骨には草木が貫き、その大半はそのまま放置されている事実をどう見るか、あるいは民間人を含めて数十万人が船に乗ったまま撃沈され、海の底に沈んで深海生物の餌となった事実等々。こうした人々を「尊い犠牲者たち」と一括りに言って実態を覆い隠し、思考停止になってよいのだろうか。
『凱旋』
明治25年(1892) 同じく日清戦争前で、作詞:佐々木信綱 作曲:納所弁次郎。昭和4年、小学唱歌に選定された。
1 あな嬉し喜ばし 戦い勝ちぬ 百々千々(ももちぢ)の敵は皆 跡無くなりぬ あな嬉し喜ばし この勝ち戦 いざ歌えいざ祝え この勝ち戦 2 仇は皆 跡も無く攻め滅ぼしぬ 心地良や 心地良や この勝ち戦 我が国に 我が君に 射向う者は かくのごと討ち捨てん 今より後も 3 国の為 君の為 尽くせと言いし 我が父は 我が母は 勝ちぬと聞いて 喜びて待ちまさん その父母に 誉れ負い 錦着て 会わん日近し 4 勇ましや 差し昇る 旭の御旗 先に立て 帰り行く 我等の姿 あな嬉し喜ばし この勝ち戦 いざ歌え いざ祝え この勝ち戦
作詞の佐々木はこの時まだ20歳を過ぎたばかりの新進気鋭の歌人であり(作曲の納所も27歳)、しかもまだ日本は本格的な近代戦争を経験していない時であったから、戦争の勝利を想定しての空想の産物である。「嬉し喜ばし…心地良や…この勝ち戦」との感覚は、昔の戦国時代の戦記物の中の武将のものであろうし、近代兵器による戦争における将兵の心に生じるものではないと思われる。いずれにしろ明治政府は、朝鮮や清国(中国)に対する領土的野心を持っていたからこそ、このような歌を若手にも作らせ、国民の戦争への心構えを早くから子供の心にも醸成しておきたかったのであろう。
『月下の陣』(霜は軍営に)
明治26年(1893) 作詞・作曲:永井建子(けんし)
日清戦争直前に製作されたが、ある方がヴィンチェンツォ・ベッリーニ作曲のオペラ「ノルマ」の第一幕の主題「予言の力で」という曲が原曲であることを見つけた。詩は他に一編ある。
1 霜は軍営に満ち満ちて 秋気清しと詠じける 昔の事の偲ばるる 月の光のさやけきよ 4(2、3略) 不思議に命永らえて 末なお頼む剣太刀 太刀を据えば氷なす 光は映る月の影 6(5略) 我が父母や兄弟を 思わざるにはあらざれど 君に捧げし身にあれば 我が大君の敵国の 7 降らんまでは死を誓い 屍は野辺に曝すとも 故郷の方は見もやらず 勇み勇みて戦わん 勇み勇みて戦わん
1、4などは剣豪小説の中に出てくるようなイメージがあり、本当の戦闘を経験した人が書いていないことがよくわかる。6、7番の歌詞では、軍人はすべからく大君=天皇のために一身を捧げるべきであるという「忠君愛国」の昭和の戦争時代に一層強調された精神が語られている。
ここまでの軍歌は日清戦争開戦以前に作られていて、『元寇』や『桜井の訣別』のような過去の歴史を題材にしたものや(詠史軍歌)、来るべき戦争を想定した心構えを説くものとなっている。「大日本帝国」として、よほどに戦争をして日本帝国の存在を知らしめたく、ウズウズしていた時代であったかと思われる。
作詞・作曲の永井建子は陸軍の軍楽隊の学長まで務めるが、このすぐ後に日清戦争に従軍し、その経験をもとに書き上げた下記の『雪の進軍』は、様子が違うものになっている。
『婦人従軍歌』
明治27年(1894) 作詞:加藤義清/作曲:奥 好義
この年の夏、作詞者が日清戦争開戦に向けて、赤十字社の看護婦隊が新橋駅から凛々しく出発した時の健気な様子を見て感激して作り、「君が代」の作曲者、奥に依頼して曲がつけられた。これを知った昭憲皇太后が野戦病院の看護婦たちに伝え、楽譜が全国の各小学校や女学校に配られ、全国の各家庭にまで普及した。
1 火筒(ほづつ)の響き遠ざかる 跡には虫も声たてず 吹き立つ風はなまぐさく くれない染めし草の色 2 わきて凄きは敵味方 帽子飛び去り袖ちぎれ 斃(たお)れし人の顔色は 野辺の草葉にさも似たり 3 やがて十字の旗を立て 天幕(テント)をさして荷い行く 天幕に待つは日の本の 仁と愛とに富む婦人 4 真白に細き手をのべて 流るる血汐洗い去り 巻くや包帯白妙(しろたえ)の 衣の袖は朱(あけ)に染み 5 味方の兵の上のみか 言(こと))も通わぬ敵(あた)までも いとねんごろに看護する 心の色は赤十字 6 あな勇ましや文明の 母という名を負い持ちて いとねんごろに看護する 心の色は赤十字
この歌はその経緯が示すように、実際の戦場に立ち会って書かれたものではなく、作詞者が頭の中で想像を逞しくして書いたものであるという大きな欠陥がある。実際の戦場に立たないものたち(軍政府官僚も含めて)が、傍観者として感激するのは勝手だが、現実の戦場に立つ実戦部隊(兵士や看護婦)に、軍規にしろ戦闘精神というものを、初めから美談のように押し付けるこのような構図というものが、そもそもおかしいと思わなければならない。例えば「言も通わぬ敵までも いとねんごろに看護する」という場面が本当にあったのか、戦場でそんな余裕があるのか、実際には日清戦争で救護の活動をした主体は戦地近くの病院船であり、看護婦のほとんどは陸地の戦いの前線にまで行っていない。また実際には敵の負傷した捕虜は日本に連行した時に国内の広島などの病院で看護している。しかも「天幕に待つは日の本の仁と愛とに富む婦人」とあるが、そもそも「仁と愛」を持っている国であれば戦争など仕掛けないわけで、基本のところの善悪を覆い隠して、善の側である看護婦という存在の中で戦争を美化しているのは間違いない。この辺りが同じ軍歌でも、この後の日露戦争で生まれる『戦友』と違うところである。
ちなみに、日清戦争に従軍した功績が認められ、この時の看護婦高山みつ他16名に勲七等宝冠章が授与された。これは日本人の民間女性では初の叙勲であった。戦地には行っていないが、広島の陸軍予備病院で、戦傷者や捕虜に対する篤志看護婦として従軍した新島八重の名前もある。この戦争で、戦地の海上、内地の病院での活動で看護婦計649人が「従軍」した。殉職者はいなかったようで、次の日露戦争では死者が出ている。
『進め矢玉』
明治27年(1894)、作詞:中村秋香/作曲:小山作之助
この年の夏、日清戦争が始まって、上記『敵は幾万』と同一の曲を用いて、国文学者で歌人の中村が作詞し「忠実勇武唱歌集」に発表した。
1 進め矢玉の雨の中 飛び込め剣(つるぎ)の霜の上 我が日の本(もと)の国の名を 世界に揚ぐるは今日なるぞ 血をもて色どれ日の御旗 骨もて堅めよ国の基(もと) 必死を究(きわ)めし兵士(つわもの)の 背にこそ凱歌は負わるなれ 背にこそ凱歌は負わるなれ 飛び込め剣の霜の上 進め矢玉の雨の中 2 来たり接(まじ)えよ短兵戦 日本男子(やまとおのこ)の手を見せん 来たり味わえ日本刀 水も溜まらぬ様見せん 是ぞ義勇に育ちたる 国のいくさの土産物 徳の春風暖かに 威の秋の霜 肌寒く 我が日の本の名と誉(ほまれ) あまねく世界に輝やかせ 広く世界に輝やかせ
それにしても、戦争に行ったことも、この先行くことのない50代の歌人が、戦闘場面を美化した観念の中で、好き放題に言葉を使って、「矢玉の雨の中」に若者たちの命をさらし、血と骨をもって国の基を堅めよと諭す、この無責任さは何なのであろうか。そしてそれを許すというよりこうした美化を勧める国=軍政府とは何なのであろうか。「我が日の本の名と誉、あまねく世界に輝やかせ」とは、つまり出来るだけ多くの「敵」を殺して、日本を世界に輝かせということなのか、それが日本を世界に向けて輝かす正しい方法なのか。この歌人は、人の心がどんな場面で本当に輝くのか、肝心要のことを、歌人なのにわかっているとは思えない。
『喇叭の響』(安城の渡)
明治27年(1894) 作詞:加藤 義清/作曲:荻野 理喜治
日清戦争最初の陸戦である成歓の戦いで、喇叭(ラッパ)手木口小平が、被弾しても口からラッパを離さず、そのまま絶命したという話から、陸軍軍楽隊に在籍していた加藤義清が感激し、この詞を作り上げ、同僚の荻野が作曲したという。
1 渡るにやすき安城(あんじょう)の 名は徒(いたずら)のものなるか 敵のうちだす弾丸に 波は怒りて水騒ぎ 3(2略) この時一人の喇叭手は 取佩(とりは)く太刀の束の間も 進め進めと吹きしきる 進軍喇叭の凄まじさ 4 その音(ね)忽(たちま)ち打ち絶えて 再び微(かす)かに聞えたり 打ち絶えたりしは何故ぞ 微(かす)かに鳴りしは何故ぞ 6(5略) 弾丸咽喉(のんど)を貫けど 熱血気管に溢(あふ)るれど 喇叭放たず握りつめ 左手(ゆんで)に杖つく村田銃 7 玉とその身は砕けても 霊魂天地をかけめぐり なお敵軍をやぶるらん あな勇ましの喇叭手よ (8略)
明治・大正時代の軍歌は、このように一人の活躍を賞賛する内容が多い。まだ一人一人の死に際を見ていられる余裕があったということであろう。「玉とその身は砕けても 霊魂天地をかけめぐり」と、戦意高揚に格好の歌となった。
『黄海の大捷』
明治27年(1894) 作詞:明治天皇 /作曲:田中穂積
1 頃は菊月半ば過ぎ 我が帝国の艦隊は 大同江(たいどうこう)を艦出(ふなで)して 敵の在処(ありか)を探りつつ 2 目指す所は大孤山(たいこさん) 波を蹴立てて行く路に 海羊島のほとりにて 彼の北洋の艦隊を 3 見るより早く開戦し あるいは沈め又は焼く 我が砲撃に彼の艦は 跡白波と消え失せり 4 忠勇義烈の戦に 敵の気勢を打ちひしぎ 我が日の旗を黄海の 波路に高く輝かし (5略)
日清戦争開始後、黄海の制海権を求めて日本海軍の連合艦隊と清国海軍北洋艦隊の間で行われた海戦で、日本が勝利した。日本軍死傷者298名、清国軍死傷者850名。この勝利を記念し明治天皇が作詞された。
このことで明治天皇は勧んでこの日清戦争に臨んだように見えるし、天皇による「開戦の詔勅」も発せられている。ただ、「詔勅」というものはこれも含めてほぼすべて周囲の取り巻き(政官人)によって作成され、天皇はそこに玉璽を押すだけである。この後の日露戦争の時もそうであり、昭和天皇の太平洋戦争開戦の時もそうであった。そしてこの最初の日清戦争は、ほとんど後付けで開戦の詔勅が発せられた。それというのもこの開戦に最も批判的であったのは明治天皇と言われ、実際に「今度の戦争は大臣の戦争であって、余の戦争ではない」との発言の記録が残されている。この大臣とは外務大臣陸奥宗光のことで、既述のように主戦論の先鋒であった陸奥が「如何なる手段にても開戦の口実を作るべき」として、天皇の意向など御構いなしに、内閣をまとめて先んじて軍を動かし、戦争を中止できない状況を作り出して、明治天皇に「開戦の詔勅」を発するように仕向けたのである。この形は結局昭和時代も同じで、昭和天皇はもっと軍政府に利用され、挙句は天皇の御意による聖戦とされて、国民はそれを信じ込んだから、余計に悲惨な戦争となった。
いずれにしろ「余の戦争ではない」としながら、明治天皇はどうしてこうした軍歌を作ったのか、その真意はわからない。ただ、天皇は歌人としても活躍していて、この戦争中は広島に設置された「大本営」(日清戦争時の軍司令部)に居て書いたというから、戦争の状況を逐一報告を受けるうちに興が乗って書かれたのかもしれない。この時期に書いた明治天皇の軍歌は『成歓役』と『平壌の大捷』があり、曲はどちらも上記『喇叭の響』を使っている。
『如何に狂風』
明治28年(1895) 作詞:佐戦児(読売新聞に歌詞を投稿した軍人のペンネーム)/作曲:田中穂積
日清戦争で威海衛の夜襲(中国の山東半島での局地戦で、威海衛湾に立てこもる清国の北洋艦隊を殲滅し黄海に続いて制海権を完全掌握する狙いがあった)で、その勝利を歌ったもの。
1 如何に狂風吹きまくも 如何に怒濤は逆まくも たとえ敵艦多くとも 何恐れんや義勇の士 大和魂充ち満つる 我等の眼中難事なし 2 維新以降(このかた)訓練の 技倆試さん時ぞ来ぬ 我が帝国の艦隊は 栄辱生死の波分けて 渤海湾内乗り入りて 撃ち滅ぼさん敵の艦(ふね) 3 空飛び翔ける砲丸に 水より躍る水雷に 敵の艦隊見る中(うち)に 皆々砕かれ粉微塵 艫(とも)より舳(へ)より沈みつつ 広き海原影もなし 4 早くも空は雲晴れて 四方(よも)の眺望(ながめ)も浪ばかり 余りに脆(もろ)き敵の艦(ふね) 此の戦いはもの足らず 大和魂充ち満つる 我等の眼中難事なし
敵の艦隊を沈めて「此の戦いはもの足らず」と、早くも次の戦争を待ち望んでいる。戦国の武将ではあるまいに、実際に戦闘の現場にいた人なのかどうか。この山東半島の威海衛の戦いは陸海共同作戦であったが、この結果、日本軍は黄海と渤海の制海権を掌握した。日本側は死者29人、負傷者233人、清国軍の死者約4000人。海軍は水雷艇による夜襲攻撃をかけ敵艦三隻を撃沈させたが、夜襲の際の発射魚雷20本のうち、命中はその3本のみであったという。
この日本海軍水雷艇部隊による北洋艦隊の襲撃を描写した『水雷艇の夜襲』という歌が、後に作られた。
——「… 音に響きし威海衛 早や我が物ぞ我が土地ぞ … かかる愉快は又やある … 敵の関門破れたり … 我指す処は今は早や 四百余州も何ならず …」
もう、他国の土地を分捕ったということで、「早や我が物ぞ我が土地ぞ … かかる愉快は又やある」と、略奪(強奪)できたことを喜んでいる。この他にも「戦利品」として土地にあるものをタダであれこれ持っていったことであろう。これはもう桃太郎の歌の世界である(この桃太郎の歌は結構罪な歌であることを知るべきである)。戦争というレベルになると、勝てばなんでも許され、正当化されるから不思議である。四百余州とは中国(清国)全土のことで、大日本帝国陸海軍は、早くも中国(清国)全土が視野に入った気分で、はやる気持ちを抑えられないでいる。日清戦争を終えて、落ち着いていればいいものを、またすぐにでも外に出て戦争をしたくてうずうずしている様子が見て取れる。そういう時代てあったのであろう。
実際にその後も日本は戦争を続け、昭和12年(1937)に日中戦争に突入し、日本軍は数年で制圧するつもりが、中国の土地の広大さには太刀打ちできず、泥沼状態に陥り、そうこうしているうちにそのその侵略戦の横暴ぶりが世界に知れ渡り、米英から撤退を求められ、応じないからと経済制裁を受けることになり、それに反発して米英という大国を相手として太平洋戦争(大東亜戦争)に突入し、多大な犠牲を出して敗北した。中国内ではその敗戦まで8年間、戦闘が続けられた。
『雪の進軍』
明治28年(1895) 作詞・作曲:永井 建子(けんし)
日本陸軍軍楽隊所属の永井が、上記の歌と同じく日清戦争における威海衛の戦いに軍楽隊員として従軍した経験に基づいている。この歌は詩人の萩原朔太郎が褒めたほどに広まり、現代でも、1977年の日本映画『八甲田山』劇中歌や、アニメの劇中曲として使われたりしている。
1 雪の進軍氷を踏んで どれが河やら道さえ知れず 馬は斃(たお)れる 捨ててもおけず ここは何処(いずく)ぞ皆敵の国 ままよ大胆一服やれば 頼み少なや煙草が二本 2 焼かぬ乾魚(ひもの)に半煮え飯に なまじ生命(いのち)のあるそのうちは こらえ切れない寒さの焚火 煙いはずだよ生木が燻(いぶ)る 渋い顔して功名噺(ばなし) 「すい」というのは梅干一つ 3 着の身着のまま気楽な臥所(ふしど) 背嚢(はいのう)枕に外套かぶりゃ 背(せな)の温みで雪解けかかる 夜具の黍殻(きびがら)しっぽり濡れて 結びかねたる露営の夢を 月は冷たく顔覗き込む 4 命捧げて出てきた身ゆえ 死ぬる覚悟で吶喊(とっかん)すれど 武運拙(つたな)く討死にせねば 義理にからめた恤兵真綿(じゅっぺいまわた) そろりそろりと頚(くび)締めかかる どうせ生かして還さぬ積もり (→ どうせ生きては還らぬ積もり)
当時の日本軍は、雪中戦における適切な装備や防寒方法を持っていず、現地では凍傷が多発、前線では食糧・水・燃料が不足し、兵士や軍夫らは寒さと空腹に苦しんだという。その苦しい体験を反映したこの詩は、やはり「勇壮でない」という理由から日中戦争(支那事変)の頃には歌の最後の「どうせ生かして還さぬ積もり」を「どうせ生きては還らぬ積もり」に変えられ、太平洋戦争(大東亜戦争)突入後は歌唱禁止となる(『戦友』と同様、陰で歌われることはあった)。結局実際に戦場を体験して書く場合と、戦地から遠く離れて書斎などで想像を膨らまして書く場合とは全く内容が違ってくるということである。そして実際の戦場での体験を描くと「戦意高揚」にならないと、外されてしまうのである。この落差というものを、軍歌好きの人にはわきまえていただく必要がある。これがまた、前線のずっと後方から適当に考えて指令を出す将校と、前線に立つ兵士が肌で感じている戦争の状況との落差になってくる。
『勇敢なる水兵』
明治28年(1895) 作詞:佐佐木信綱/作曲:奥 好義
前年の9月、日本海軍の連合艦隊は黄海の鴨緑江河口付近で清国の北洋艦隊を捕捉、激戦の末にこれを破った。この黄海海戦の時の逸話に基づくもので、日清戦争を代表する軍歌。その後、この歌のメロディーに、戦前のモノクロのアニメ映画『のらくろ』で替え歌が作られ、戦後でも他の替え歌で親しまれた。
1 煙も見えず雲もなく 風も起こらず波立たず 鏡の如き黄海は 曇り初めたり時の間に 4(2、3略) 弾丸の破片の飛び散りて 数多の傷を身に負えど その玉の緒を勇気もて つなぎ止めたる水兵は 5 間近く立てる副長を 痛む眼に見とめけん 彼は叫びぬ声高に 「まだ沈まずや定遠は」 6 副長の眼は潤えり されど声は勇ましく 「心安かれ定遠は 戦い難くなしはてき」 7 聞きえし彼は嬉しげに 最後の微笑をもらしつつ 「いかで仇を討ちてよ」と いうほどもなく息絶えぬ (8略)
激戦の中、重傷を負った三浦虎次郎三等水兵は副長の少佐に「まだ定遠は沈みませんか」とたずね、敵戦艦の「定遠」が戦闘不能に陥ったという副長の答えを聞いて微笑んで死んだ。これを新聞で読んだ佐佐木信綱が感激して書いて寄稿し、「君が代」の作曲者の奥好義が曲をつけた。戦争下での美談はいくつもあるだろうが、取り上げ方と曲の調子によって残るか残らないかがあるだろう。これが昭和の戦争になると、この程度の内容では歌にならなかったと思われる。いずれにしても我が身は安全な場所にいて「感激して」その詩を書ける立場の人は幸せである。
『凱旋軍歌』
明治28年(1895) 作詞:乃木希典/作曲:山本銃三郎
1 我が日の本の軍人 強き敵とて何恐るべき 弱き敵とて侮りはせぬ 勝ちて驕らぬこの心ぞ 強きを挫くの力と知れや 強きを挫く力を持てば 弱きを助ける情もござる 我が日の本の軍人 千歳万歳 万々歳 その名を世界に輝かせ(下三行繰返し) 2 我が日の本の軍人 君と国とに捧げし身には 家も命も何思うべき 心は石か黒鉄なるか 五条の勅諭をただ守るなり 日本魂を勅諭で磨き 日本魂で勅諭を守る 4(3略) 我が日の本の軍人 軍役終われば故郷に帰り 農工商業皆それぞれに 正しき道に努むる事は 戦するのも心は同じ 家を富ませば国また栄ゆ 和合一致の尚武の心
この後の日露戦争(明治37−38年)で旅順攻囲戦の指揮で名を挙げ、今も敬愛の対象となっている乃木大将の作詞である。五条の勅諭とは、明治天皇による軍人勅諭である。「軍役終われば故郷に帰り農工商業皆それぞれに」とは、明治時代の軍役のあり方を思わせ、昭和に入ればそんな余裕はなかった。また「家を富ませば国また栄ゆ」のような言葉は昭和にはまったくなく、とにかく国のために命も含めてすべてを(家の富も吐き出して)犠牲にすべしとなる。それで逆に幾万の家庭が崩壊したことだろうか。そして国も一旦滅んだ。
ちなみに乃木大将はその日露戦争で二人の子を戦死させたが、これは彼の律儀な性格によるものと思われる。普通は危険な戦場とわかっていて、あえて子息を二人も送り込まないであろう。しかも戦後、激戦によって多くの将兵を自分の指揮下で殺してしまったと自責の念を持ち続け、折ある時には戦死者の遺族を訪問し、謝罪した。その後昭和天皇の教育係も務め、明治天皇が逝去された時に夫婦で殉死した。このような軍人はその後出ていない。
『戦闘歌』
明治29年(1896) 新編教育唱歌集2に所収
作詞者不詳/作曲:J・J・ルソー(原曲=パントミム「村の占い師」:ルソーはフランスの有名な思想家であるが、作曲もしていて童謡の『むすんでひらいて』は有名である)
◎陸軍 1 寄せ来るは すはや敵よ 喇叭高く なりわたる みだれちる 丸(たま)のあられ 野辺を走る いなびかり 見よや歩兵は 突き入りぬ 敵の備(そなへ)は くずれたり 2 崩るるは あはれ敵よ 天にひびく 鬨(とき)の声 われは はや 勝ちなるぞ 追へや追へや 追いつめて 蹄にかけよ 敵兵を とりこになせや 敵兵を
◎海軍 1 黑烟(くろけむり) 空に吐きて すすみ来(きた)る 敵の艦(ふね) 待ちしかひ(甲斐) ありてうれし 海の底に うち沈め 国のあだをば たいらげん あふげ輝く 軍艦旗 2 わが丸(たま)は ねらい それず もゆる艦に 沈む艦 叶はじと 残る敵は 力かぎりに 逃げてゆく 救へ おぼるる敵兵を 追へや 逃げゆく敵艦を
日清戦争で勝利した記念の軍歌のようである。日清戦争といっても朝鮮から中国の湾岸地域の一部で行われた戦闘で、主に朝鮮の帰属問題で争われた。これにより日本は清国から台湾の割譲を得て、最初の植民地とする。大日本帝国の海外進出の第一歩である。
童謡・流行歌(明治20−29年:1887−1896)
この時期の明治20−25年に第二弾として約200曲の子供向けの唱歌が作られた。まさに粗製乱造であるが、中には後世に残る歌もある。
以下三曲はこの時代を反映する歌で、軍歌につながっていく内容である。
『天長節』 明治21年(1888) 作詞:大和田建樹/作曲:上 真行
—— 「天長節の あさぞらに とゞろく祝の歌聲たかし きけや人々 あれこそは わが日本(ひのもと)の 守りのひびき」
天長節とは明治天皇の誕生日で、この後も新しい歌がなんども作られた。決定歌がなかったということだろう。
『日本男児』 明治21年 作詞:大和田建樹/作曲:上 真行
—— 「日本男児の まごころは 君が代まもる国の楯 事あるときには 進むべし 雪に路(みち)なき山までも 波にはてなき 海までも」
これ以降も同じタイトルでいくつも作られている。
『数へ歌』 明治25年 作詞:伊澤修二/作曲者不詳
—— 「一つとや ひとと生まれて忠孝を 忠孝を欠きては 皇国(みくに)の人でなし 人でなし/二つとや ふた親兄弟うちそろひ うちそろひ たのしく暮らすも 君の恩 君の恩/三つとや みなみな日々日々 つれだちて つれだちて うれしく学ぶも 親の恩 親の恩」
数え歌は各種作られているが、これは明治時代の忠孝の道徳を歌ったもので、作詞した伊澤は「此歌は学童に、国家教育の上意を知らしめんがため作れるものにして、先ず忠孝より始め、家族、朋友、及師弟間の道徳に及ぼし、次に勤学成務の要を示し、終に国家に対する心得を述べたるなり」と添え書きをしている。
以下は昭和まで残った歌である。
『故郷の空』 明治21年(1888) 作詞:大和田建樹/スコットランド民謡で原曲は“Comming Through the Rye”「ライ麦畑で出逢うとき」。
—— 「夕空晴れて 秋風吹き 月影落ちて 鈴虫鳴く 思えば遠し 故郷の空 ああ わが父母 いかにおわす」
『植生の宿』 明治22年 作詞:里見 義/イングランド民謡で原題は“Home! Sweet Home”「楽しき我が家」。
—— 「埴生(はにゅう)の宿も 我が宿 玉の装い 羨(うらや)まじ のどかなりや 春の空 花はあるじ 鳥は友 おお 我が宿よ たのしとも たのもしや」
後の太平洋戦争勃発に伴い、洋楽レコードが「敵性レコード」として廃棄が呼びかけられる中で、この歌や『埴生の宿』や『故郷の空』、『庭の千草』(明治17年)など歌詞を邦訳にしたものは、国民生活になじんでいるとして敵性レコードから除外された。小説(映画)『ビルマの竪琴』では、日本兵と敵兵がともに歌うというシーンでこの『庭の千草』が使われている。
『月みれば』 明治23年 作詞:大和田建樹/スペイン民謡をもととするとされるが、アメリカで讃美歌『Flee as a bird』として使われた曲が日本に渡ったとされる。
—— 「霞にしづめる 月影見れば 浮世を離れて 心は空に 海原しづかに 波もなき夜を 松原ねむりて 月もなき夜半を ああめでてやそらに」
この後もいくつか同じ曲をベースにして歌は作られるが、昭和14年(1939)に古関吉雄が作詞した『追憶』が学校教科書などで取り上げられるようになり、定着した。
—— 「星影やさしく またたくみ空 仰ぎてさまよい 木陰を行けば 葉うらのそよぎは 思い出さそいて 澄みゆく心に しのばるる昔 ああなつかしその日」
『夏は来ぬ』 明治29年(1896) 作詞:佐佐木信綱/作曲:小山作之助
—— 「卯の花の 匂う垣根に 時鳥(ほととぎす)早も来鳴きて 忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ」
ここで後世に残る歌として初めて日本人作曲による歌が作られている。これは後に唱歌として採用される。
日清戦争後から日露戦争、明治末まで
軍事的背景
日露戦争まで(明治30年−38年:1897−1905)
日清戦争後、清国では生活に苦しむ農民を集めた義和団が結成され、反政府、排外運動を起こし、その運動が中国北部一帯に波及、明治33年(1900)、各地で外国人やキリスト教会が襲われた。清王朝の西太后は、もともと列強国の横暴を苦々しく思っていたこともあって、義和団の鎮圧から支持に回り、列国に宣戦布告、北京の列国の公使館襲撃に向かった。これを見た列国はすぐに軍隊を動かせる日本とロシアに出動を依頼し、日本はこれに応じ8ヶ国連合軍の先陣を切って鎮圧に向かった。8月、最大7万人となった連合軍は、勝る兵器によって20万人の義和団を打ち破り、首都北京及び紫禁城を占領した。この結果を受けた北京議定書によって清国は多額の賠償金を背負い、さらに列国の軍隊の駐屯を認めることになった。日本は北京と天津に清国駐屯軍(後に支那駐屯軍とされる)を設置、この軍が昭和の日中戦争(支那事変)を引き起こしていく要因となる。全期間にわたる連合国側の死者数は757名、負傷者数は2654名とされ、日本軍は死者349名・負傷者933名と多い。中国側の死傷者は数万人とされ、また清朝や義和団によって殺害された人々は宣教師や神父など教会関係者が241名、中国人クリスチャンは23000人といわれる。
ロシア帝国はこの義和団の乱の出兵に乗じて中国の満州に大兵力を送り、全土の占領を図った。日英米はこれに抗議しロシアは撤兵を約束したが、ここからさらに朝鮮にも食指を伸ばそうとした。そこで1902年(明治35)、イギリスと日本は日英同盟を結び、ロシアは満州から撤兵を開始したが、開発の利権を残したままだった。 これに対し日本政府は1903年、朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという協定をロシアに持ちかけた。しかしロシアは朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とする対案を行った。日本としては朝鮮半島がロシアの支配下となりかねないと判断し、またロシアの開発するシベリア鉄道が全線開通すると、西方のロシア軍の極東への進軍の脅威が増すので、それ以前の開戦へと国論が傾き、そして第三次撤兵期限をロシアが履行しなかった10月を境に、日本の新聞各紙の論調は開戦論一辺倒となった。翌1904年(明治37)1月、日本政府が送った最後の交渉修正案をロシアが無視したとして、2月4日の御前会議で対露開戦を決定、6日に駐日本のロシア公使に国交断絶を言い渡した。早くもその二日後に日本軍は朝鮮の仁川に上陸、仁川沖、旅順港でロシア艦を奇襲砲撃する。 そして10日にロシアに宣戦布告した。
朝鮮は日清戦争により清国の支配を脱して大韓帝国としていたが、開戦後の2月23日、日本は軍事的協定書とも言える日韓議定書を韓国に押し付けた。その内容は、韓国の独立と領土保全および王室の安全を保障するかわりに、韓国領土内における日本軍の行動の自由と軍略上必要な土地の収用を承認することであった。この日露戦争にあたって大清帝国(中国)も厳正中立を宣言していたが、清軍の将軍袁世凱はロシアの支配する東三省を回復すべく、暗に日本に協力した。一方で、高宗などの旧李朝支配者層は日本の影響力を排除しようと、日露戦争中においてもロシアに密書を送るなどの外交を展開していったが、日本側に漏れて失敗に終わる。
この日露戦争の戦いは日清戦争と重なる土地が多く、鴨緑江会戦、旅順港要塞攻囲戦、黄海海戦、遼陽会戦、旅順(203高地)攻略、奉天会戦と続いた。旅順はロシアが租借し堅固で難攻不落な要塞都市となっていた。5月の最大の陸戦、奉天会戦は 総力戦であったが決着せず、日本は停戦も検討していた。 しかし5月28日、日本海海戦で日本が勝利したことを受けて6月、和平交渉を米国に依頼した。総戦力は日本が30万人、 ロシアが50万人で、日本の戦没者は8万8429人(うち病死2万7192人)、負傷者15万3584人、捕虜1800人。 ロシアの戦死戦傷死は3万4000–5万2623人、病死9300–1万8830人、負傷14万6032人、捕虜7万9000人となっている。日本の戦死者のほうが多いが、それほど際どい戦いであった。
日露戦争後から明治末まで(明治39年−44年:1906−1911)
日本の勝利の結果、アメリカの仲介によるポーツマス条約によって、ロシア帝国は満州および朝鮮から撤兵し、日本がすでに占領していた樺太の南部を割譲、同時に日本は中国の遼東半島南部にある関東州(旅順・大連を含む)の租借権を得た。ロシアは1891年にシベリア鉄道建設に着工し、その後、清国から満洲北部の鉄道敷設権を得ることに成功し、ウラジオストクに至る鉄道の建設を進め、南満洲支線も1903年1月に完成、最終的に日露戦争勃発直前の1904年2月、シベリア鉄道が完全に連結させていた。そこで日本はロシアから大連・旅順から長春までの南満洲支線も獲得した。1905(明治38)年9月、天皇直属の関東都総督府が置かれ、関東都督は南満洲鉄道の業務監督の保護、警備、取締を行った。これに日露戦争中に物資輸送のため日本が建設した軽便鉄道の安奉線(安東− 奉天間)が加えられ、半官半民の国策会社である南満洲鉄道(満鉄)が設立され、その鉄道と附属地を警備する守備隊として関東軍が分離独立した。ここから昭和に入っての関東軍の暴走が始まる。つまり昭和の15年戦争はこの時に種が撒かれたと言っていい。
清国政府は、満鉄の設立を日清条約に違反していると日本政府に抗議したが、日本は既成事実を積み上げていった。この満鉄は鉄道経営に加えて、炭鉱開発(撫順炭鉱など)、製鉄業(鞍山製鉄所)、農林牧畜のほか大規模な近代的都市計画(大連、奉天、長春のちの新京など)を進め、港湾、病院、大学以下の教育機関、図書館などの満洲経営の中心となった。実は日露戦争に勝利はしたが戦争賠償金を獲得することができなかったとして、国内では大きな不満が残っていたが、この満州の一部の土地の権益が大きな経済的利益をもたらすことになる。
日本は日露戦争開始後の日韓議定書によって、実質上、韓国を植民地化していたが、1905年(明治38年)11月、第二次日韓協約(大韓帝国では乙巳保護条約)を大韓帝国と締結し、韓国の外交権はほぼ大日本帝国に接収されることとなり、事実上日本の保護国として統監府が設置される。さらに翌年7月には第三次日韓協約を結んで日本は内政権をも掌握し、8月1日には大韓帝国の軍隊を解散させた。最終的に1910年(明治43)8月、日韓併合条約が締結され、それにより朝鮮総督府を設置、15年前の台湾に加えて朝鮮を実質的に植民地にした。
日清戦争に敗北した中国は清王朝の支配体制が弱まり、列強による中国分割が進み危機に陥っていた。1895年から1911年にかけて(既述の義和団事件を含めて)多くの武装蜂起が実行されたが、短期間で失敗した。日露戦争では清王朝は中立を宣言したが、その主戦場は清国内であり、これに対し救国の声が高まり、清朝政権打倒は共通の流れとなっていった。1911年(明治44)10月、孫文の思想の影響を受けた革命軍が各地を武力制圧し、他の各省においても次々と清朝からの独立を宣言、孫文は上海で中華民国大総統に選出され、2000年以上続いた中国における王政は終焉し中華民国が成立した(辛亥革命)。これはアジアにおいて史上初の共和制国家であったが、革命政府は独自で中国全土を統治する力はまだなく、その後も混乱を極めた。
軍歌(明治30年−44年:1897−1911)
『軍艦行進曲』
明治30年(1897)、鳥山啓作詞の「軍艦」に瀬戸口藤吉が曲を付けて軍歌とし、これに東儀季芳作曲の「海行かば」(後年のものとは異なる)を加えて、明治33年「軍艦行進曲」として成立した。昭和16年(1941年)12月8日の太平洋戦争開戦時にも繰り返しラジオから流された。今も各地で「軍艦マーチ」として演奏されて広く知られ(パチンコ屋でもよく流れている)、曲調も良いので替え歌も多く、ミャンマーでは国軍の公式軍歌としても採用されている。
1 守るも攻むるも 黒鉄(くろがね)の 浮かべる城ぞ 頼みなる 浮かべるその城 日の本の 皇国(みくに)の四方(よも)を 守るべし 真鉄(まがね)のその艦(ふね) 日の本に 仇(あだ)なす国を 攻めよかし 2 石炭(いわき)の煙は 大洋(わだつみ)の 龍(たつ)かとばかり 靡(なび)くなり 弾撃つ響きは 雷(いかづち)の 声かとばかり 響(どよ)むなり 万里の波濤(はとう)を 乘り越えて 皇国(みくに)の光 輝かせ
ただやはり、「皇国の四方を守るべし」はいいとして、「仇なす国を攻めよかし」の仇なすとはどういう国を指しているのか、わが「日の本」つまり大日本帝国の言うことを聞かない国なのか、せっかく軍艦を駆って遠路はるばると遠征して「皇国の光」を届けにやってきているのに、こちらの要求に従わない国々のことなのか、しかし例えば幕末にアメリカのペリーが軍艦で来航してきて、要求したのは交易であったが、日本が要求したのは朝鮮や清国にその領土(もしくはその一部)を貸し与えよ(もしくは譲渡せよ)ということであった。そして無理やり既成事実を積み上げて、最後には(日清・日露)戦争で奪い取ってしまった、ということになる。
『我神州』
明治32年(1899) 作詞:砂沢丙喜冶/作曲:滝廉太郎
1 我神州の正大気 凝りて咲きけむ桜花 大和男児の眞心は 朝日に匂ふや桜花 花はちりてぞ香を留む 人は死してぞ名を残す 行けや壮夫(ますらを)魁(さきが)けて 朝日の御旗翳(かざ)しつつ 2 轟然一発轟けり 見よや大砲火を吐きぬ 霹靂(へきれき)一声響きたり 散るや味方の榴散弾 天晴(あっぱれ)砕けぬ敵の陣 見事くだけぬ敵の陣 朝日の御旗翳しつつ 進めや進め壮夫よ 3 百練経たる日本刀 抜くや秋水影寒し 大和男児が此の刀 提げ持ちて敵軍を 右に左に斬りまくる 卍(まんじ)巴(ともへ)に斬り回る 行けや壮夫魁けて 朝日の御旗翳しつつ (4略)
滝廉太郎の珍しい曲である。言葉には明治時代の匂いが色濃く残る。この日本刀で右に左に斬りまくるところが、まだ何百年前からの戦国時代のイメージが残されていて、このサムライ的精神主義は昭和にまで続いていく。これでは日本刀を振り回している間に鉄砲で撃たれてしまう。この詩の内容は大和男児の心意気を歌う軍歌に見えるが、実はこの日本刀というのがくせ者で、日本の将兵はほぼ軍刀として日本刀を戦場で帯刀していて、それはすでにこの時代の前線では使いようがなく、この日清戦争の時から「斬れ味を試す」として、捕虜を軍刀で「試し斬り」(首を切り落とすなど)した記録が残り、さらに昭和12年に開始した日中戦争でも将校たちが上海から南京までの進軍の間に「百人斬り」競争をしたという事実が、当時の新聞もそれが戦争犯罪であるという認識も持たず、面白がって掲載している。
『小楠公』
明治32年(1899) 作曲:永井健子
鎌倉時代末期の伝説の武将・楠木正成の息子・正行(まさつら)にまつわる歌であるが、この時期陸軍軍楽隊で活躍した作曲家の永井健子が、軍歌の基本となる曲として、「小楠公の一編を借り」て作曲した。「七五調歌詞にて曲なき長編軍歌は此節にて謡ふべし」とあるように、この曲はあちこちで使われ、シンプルな曲調の良さもあって戦前から戦後も歌詞を変えられて校歌や寮歌、応援歌(大正時代には労働歌『メーデーの歌』として「聞け万国の労働者 …」にも使われた)などで使用され続けているが、この歌自体は広まっていない。
1 楠の大木の枯しより 月日も為に光なく 下を虐げ上をさえ 吹き来る風は腥(なまぐ)さく 芳野の山に春来れど 君が大御代千代千代と 2 黒雲四方に塞(ふさが)りて 悪魔は天下を横行し あなどり果て上とせず 人馬の音は絶え間なく 花を尋ねる人もなく 囀(さえず)る鳥の声聞くは
正行は父の遺志を継いで、楠木家の棟梁となって南朝方として足利側を相手に戦ったが、敗北し、弟と共に自害して果てた。その戦いの頃を歌ったものである。なお、昭和時代に歌われた『小楠公』とは別の歌である。
『軍人勅諭の歌』
明治34年(1901) 作詞:大和田建樹/作曲:永井健子
明治15年に発された勅諭(天皇みずからが下した訓告)で軍人の精神を歌としたもの。
1 汝は朕が股肱ぞと 詔(みことのり)して畏(かしこ)くも 日本帝国軍人に 下し給いし五ヶ條の 大御訓(おおみおしえ)に宣(のたま)わく 2 日本帝国軍人は 忠烈国に報ゆべし 山嶽よりも義は重く わが本分を誤りて 不覚の汚名を取る勿れ 3 如何に隊伍は整いて 節制乱れずありとても 忠節存せぬ軍隊は 烏合の兵に異らず いかでか敵に当るべき (中略) 8 重んずべきは信義なり もしその事の初めより 守らるまじと悟りなば それをば思い止まりて 諾せし事は履行せよ 12 ああ我が帝国軍人は 我が大君の御教(みおしえ)を 肝に銘じて進退し 御稜威(みいつ)のもとに帝国を 誓って保護せん諸共に
軍人勅諭にある聖訓五ヶ條とは、「軍人は忠節を尽くすを本分とすべし/軍人は礼儀を正しくすべし/軍人は武勇を尊ぶべし/軍人は信義を重んずべし/軍人は質素を旨とすべし」である。この五ヶ條は別にして、勅諭とは天皇みずからが下した訓告のことで、実際にこの歌にあるような言辞を天皇自身が筆をとって書き下ろすようなことがあると思えるだろうか。そこまで天皇御自身は自分の存在を尊大に思ってはいないだろう。ひとえに側近の者たちが天皇を祀り上げて尊大な存在にしているだけであり、またそこまで天皇御自身は(一人の人間として)不遜な心をお持ちのはずはない。こうした天皇像が明治国家からの内在的な歪みであり、絶え間のない侵略戦争を引き起こした要因であるだろう。当時の軍は天皇が統帥権を持つ直属の軍隊であり、政治には関与しないという決まりがあったが、陸海軍大臣は当然陸海軍から出され、そのうち首相にもなる。そのような過程で、天皇自身が関与できないところで戦争が起こり、起こった(起こされた)後に天皇の名はこのように戦争に利用されていく。
この軍人勅諭はまだましで、昭和の戦争に入って、太平洋戦争開戦前に『戦陣訓』が作られ、これが細目に分かれてあれこれと量の多いもので、その中に有名な「生きて虜囚の辱めを受けず」という、つまり捕虜になるという恥ずかしい結果になる前に討ち死にするか自決しろのように理解されて、実際に玉砕戦法が取られたり、民間人が追い詰められての集団自決などが起きた。言葉が人の行動を支配する例である。
『敷島艦行進曲』
明治35年(1902) 作詞:阪正臣/作曲:瀬戸口藤吉
2年前の戦艦敷島の竣工を記念してに発表された大日本帝国海軍の軍歌。歌人であった阪正臣は横須賀港で最新鋭戦艦の敷島を見学して感激し、この艦をたたえる歌を作詞した。この敷島に乗り組んでいた軍楽士の瀬戸口藤吉(軍艦行進曲や愛国行進曲の作曲者)が阪のつくった歌詞に曲をつけた。
1 隧道つきて顕はるる 横須賀港の深みどり 潮に浮かぶ城郭は 名も香しき敷島艦 2 大和の国の鎮めとぞ 思へばそぞろ尊くて 広間の中に入り立てば ただ宮殿の心地せり 3 ああ羨まし斯くばかり みごと堅固の鉄の艦 我が家となして大洋を 自在に旅するますらをよ (4−6略) 7 まして戦争起りなば 勇気日頃に百倍し 放つや大砲速射砲 向ふ敵艦皆微塵 (8−10略) 11 艦の名に負ふ敷島の 倭心の大丈夫よ 君等に深く謝するなり 御国を守る其の勲
ちなみにこの軍艦は、まだ日本に造船能力がなかったため、他の艦も含めてイギリスの造船所で建造された。2年後の日露戦争では主力艦として旅順口攻撃、旅順港閉塞作戦、黄海海戦、日本海海戦と主な作戦に参加した。大正末年にはすでに旧式となり、兵装、装甲の全てを撤去され、練習特務艦となった。なお、『婦人従軍歌』と同じような感想になるが、出来上がった軍艦の壮麗な姿に感激し、美辞麗句を駆使して詩歌を作るのはよいとして、実戦で戦う場では、このような歌詞の通りにはいかない。というより軍政府は文人・文化人たちを使ってこのような言葉を重ねさせ(「まして戦争起りなば」という言葉が戦争を期待している)、昭和の戦争に至るまで多くの若者を無思慮に戦場に追いやり、そして文化人たちは戦後ものうのうと生き延び、さも選ばれたような顔をして偉そうに言辞を弄していたわけである。
『桜井の訣別』(楠公の歌)
明治36年(1903) 作詞:落合直文/作曲:奥山朝恭
明治32年に出版された『湊川』という歌謡の本の一部に曲がつけられた。鎌倉時代末期に名を馳せた楠木正成が湊川(神戸付近)の戦いを前にして、桜井の駅で、息子の正行に郷里に帰るように命じ、その時の様子を表したもの。正成は湊川で壮烈な戦死を遂げ、正行(まさつら:上記小楠公)ものちに、足利側の武将と四條畷(しじょうなわて)で戦って討ち死にした。
1 青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ 木(こ)の下蔭(したかげ)に駒とめて 世の行く末をつくづくと 忍ぶ鎧(よろい)の袖の上(え)に 散るは涙かはた露か 2 正成(まさしげ)涙を打ち払い 我子正行(まさつら)呼び寄せて 父は兵庫へ赴かん 彼方の浦にて討死せん 汝(いまし)はここまで来つれども とくとく帰れ 故郷へ 4(3略) 汝(いまし)をここより帰さんは わが私(わたくし)の為ならず 己(おの)れ討死なさんには 世は尊氏(たかうじ)のままならん 早く生い立ち 大君(おおきみ)に 仕えまつれよ 国のため
10万の大軍を率いて九州から東上してきた足利尊氏を迎え撃つため、正成は数万の軍で必敗を覚悟して出陣、湊川で討死した。この4番の歌詞にある「早く生い立ち 大君に仕えまつれよ 国のため」とあるように、楠木正成は明治時代から忠君愛国のシンボルとして祭り上げられた。ただ、この後天皇家は内紛で南北二つに分かれるから、正成が生きていたらどうしただろうか、複雑さが残る。いずれにしても大君と国のためというのは、のちの徳川時代では言われることはなかったが、明治時代に「王政復古」で国民統合のシンボルとして天皇制が復活し、それまでの徳川幕府への忠誠が、そのまま天皇へと入れ替わった。そして天皇は国威発揚政策の要とされ、なぜかその威武を海外に示していくための後ろ盾のようになった。
『日本陸軍』
明治37年(1904) 作詞:大和田建樹/作曲:深沢登代吉
ちょうど日露戦争が始まった年である。
1 出征(出陣) 天に代わりて不義を討つ 忠勇無双の我が兵は 歓呼の声に送られて 今ぞ出で立つ父母の国 勝たずば生きて還らじと 誓う心の勇ましさ 2 斥候兵 或いは草に伏し隠れ 或いは水に飛び入りて 万死恐れず敵情を 視察し帰る斥候兵 肩に懸(かか)れる一軍の 安危はいかに重からん 3 工兵 道なき方に道をつけ 敵の鉄道うち毀(こぼ)ち 雨と散りくる弾丸を 身に浴びながら橋かけて 我が軍渡す工兵の 功労何にか譬(たと)うべき 4 砲兵 鍬取る工兵助けつつ 銃(つつ)取る歩兵助けつつ 敵を沈黙せしめたる 我が軍隊の砲弾は 放つに当たらぬ方もなく その声天地に轟けり 5 歩兵(歩行) 一斉射撃の銃(つつ)先に 敵の気力を怯(ひる)ませて 鉄条網もものかはと 躍り越えたる塁上に 立てし誉れの日章旗 みな我が歩兵の働きぞ 6 騎兵 撃たれて逃げゆく八方の 敵を追い伏せ追い散らし 全軍残らずうち破る 騎兵の任の重ければ 我が乗る馬を子のごとく 労(いた)わる人もあるぞかし 9 凱旋(7、8略) 内には至仁の君いまし 外には忠武の兵ありて 我が手に握りし戦捷の 誉れは正義のかちどきぞ 謝せよ国民大呼(たいこ)して 我が陸軍の勲功(いさおし)を
この他、7 輜重兵、8 衛生兵、10 勝利とあるが、さらに1937年(昭和12)前後に当時の兵科に合わせた歌詞の追加が行われ、『新日本陸軍』として、藤田まさとが、爆撃隊、機関銃隊、戦車隊、電信隊、皇軍凱旋の歌詞を作っている。この詩は日露戦争(といっても戦場は主に中国内)の時代に作られたが、その勝利によって韓国を併合し、植民地とするきっかけになった。
この一番の「天に代わりて不義を討つ」は「出征」とのタイトル通り、おそらく昭和の日中戦争初期までの出征時に「歓呼の声に送られて」歌われ、送られる兵士も「今ぞ出で立つ父母の国 勝たずば生きて還らじと」いう「心の勇ましさ」を秘めていた。日本軍の行くところは正義の戦いであるから出征は名誉とする時代で、それを内外に示すという無条件の神話が形成されていた。しかし討つべきその相手方の不義とはどんなものであったのか、「今ぞ出で立つ父母の国」からわざわざ海を越えて行くのであって、ある意味桃太郎が鬼が島に鬼退治に行くようなイメージがある。これは前提として(歌詞にはないが)鬼たちが自分たちの国に時々悪さをしに来るからということがあってのことであろう。しかし近代の日本にはそのような事情はなかった。あるとすれば、日本が占領すると狙っていた清国の満州地区や朝鮮に対して、同じ野心を抱くロシアが邪魔をしていたということである。実際にそれがきっかけで日露戦争が起きた。
とにかく「内には至仁の君いまし … 誉は正義の凱歌ぞ」とされ、日本軍は上に天皇を頂く無条件に正義の軍なのである。しかし実際に日本に攻め込まれた国の人々が、その日本軍を、正義の軍として無条件に迎え入れた例があるのであろうか。また「戦争をする」と決める場合、正義を名乗らない国があるであろうか。それほどに正義という言葉は昔から便利に使われているが、太平洋戦争の敗戦が決まってからの国内外の軍事関連資料の焼却という行為(国内市町村の出征記録まで)は、日本軍みずからが、この戦争を正義と認識していなかったということを明瞭に示している。そして「謝せよ国民大呼して」どころか、内にも外にも数えきれない住民の犠牲を生み、敗戦後、軍政府は国民に一言も謝る言葉を発することなく、むしろ「一億総懺悔」として責任逃れに明け暮れ、国民にはあまたの大きな悲しみと疲弊感のみもたらした。
いずれにしろこの一番の「出征」の詩句は、兵士つまり国民の思考力を奪うものとしてあると思われ、まさにそれが狙いであろう。
『日本海軍』
明治37年(1904) 作詞:大和田建樹/作曲:小山作之助。
上記の『日本陸軍』に対するものであり、歌詞は陸軍より多く全部で20番まであり、歌詞内には1904年頃まで軍籍にあった艦名を織り込み(「」は艦名)、言葉遊びの感があるが、このほうが罪がない。
1 四面海もて囲まれし 我が「敷島」の「秋津洲(あきつしま)」 外(ほか)なる敵を防ぐには 陸に砲台 海に艦(ふね) 2 屍(かばね)を浪に沈めても 引かぬ忠義の丈夫(ますらお)が 守る心の「甲鉄艦」 いかでたやすく破られん 3 名は様々に分かれても 建つる勲は「富士」の嶺の 雪に輝く「朝日」かげ 「扶桑」の空を照らすなり 4 君の御稜威(みいつ)の「厳島」 「高千穂」「高雄」「高砂」と 仰ぐ心に比べては 「新高」山もなお低し 5 「大和」魂一筋に 国に心を「筑波」山 「千歳」に残す芳名は 「吉野」の花もよそならず (6以下略)
『出征』
明治37年 作詞:真下飛泉/作曲:三善和気 日露戦争開始を受けて、当時小学校の教導であった真下が作詞、児童に歌わせたところ親たちが感銘して広まった。これをきっかけにし、世に残る『戦友』が翌年作られた。
父上母上いざさらば わたしはいくさに行きまする 隣家に居った馬さへも 徴発されて行ったのに わたしは人と生れきて 而かも男子とあるものが お国の為めの御奉公は いつであろうと待つうちに 昨日とどいた赤だすき かけて勇んで行きまする 行くは旅順か奉天か いづこの空か知らないが お天子様の為じゃもの 討死するはあたりまへ 父上母上いざさらば これが此世のいとまごひ (中略) いきると死ぬは時の運 決してないて下さるな 父上あなたは御老体 山や畑のおしごとも どうぞ御無理をなさらずに 朝晩おやすみ願ひます 母上あなたは病気がち がまんなさらず御養生 オゝ妹よお二人を 大事に孝行頼むぞや 父上母上いざさらば 妹よさらばと立あがる かどには村の人達が 旗やのぼりをさしたてて 村一番の武雄どの 達者で戦争なされよと 手をふりあげて声そろへ 万歳万歳万々歳
何よりも「お天子様」のために「討死するはあたりまえ」と自分の命を御奉公として天皇に捧げ、なおかつ年老いた父母を悲しませてもそれだけの価値があるとするが、この庶民の心意気を明治天皇が喜ぶと思うであろうか。本来、天皇の御心というのは、国民(臣民)の安寧を祈る立場にあって、自分のために命を投げ出せなどと、間違っても考えてはいない。しかもこういう歌詞を、子供を相手とする小学校の教師が書くこと自体が歪んでいる。これが明治維新を成し遂げた志士たちが、国家の重鎮となって戦争へと形成した世論であった。「かどには村の人達が 旗やのぼりをさしたてて」という光景は、昭和になっても繰り返され、出征は名誉であるという風潮が続いた。太平洋戦争末期になると、年配者が徴兵されるようになり、人知れず密かに出征していくようになった。その頃はすでに遺骨は還されず、家族に届いた白木の箱には石ころと戦死の通知が入っていただけであった。ちなみにこの日清・日露戦争ではその多くが「討死」ではなく病死という誠に締まらない実態がある。また太平洋戦争の特に東南アジアの戦線では兵士たちは放置されたに等しく、6割が餓死であった。
『戦友』
明治38年(1905) 作詞:真下飛泉/作曲:三善和気
舞台は日露戦争時の戦闘で、作詞者・真下飛泉は、のちに義兄となる木村直吉から、奉天(現在の瀋陽市)会戦の実情を聴いて、上記の『出征』とは趣きを変えた詞を作った。戦友を失う兵士の哀愁を切々と歌い込む歌詞と、静かなメロディーが人々の共感を呼び、また関西の家庭から女学生の間で流行、やがて演歌師によって全国に普及した。しかしその哀愁と郷愁に満ちたこの歌は、1937年に日中戦争(支那事変)が起きた際、この歌詞と郷愁をさそうメロディーが、「この軍歌は厭戦的である」として人々が歌うことが禁じられ、陸軍もこの歌を禁止した。それでも陰で歌い継がれ、太平洋戦争中も禁止されたが、下士官・古参兵は「今回でこれを歌うのはやめる、最後の別れに唱和する」と言いながらたびたび歌い、士官・上官によって黙認された場合もあったという。戦前の日本でこの歌を知らない人はなかったといわれる。戦後、占領連合国軍GHQは一切の軍歌を禁止していたが、戦友の死を想うこの歌は陰で歌い継がれ、実際に戦後生まれの筆者も子供の頃、おじさんたちの宴会でよく耳にした。全14番の詞から成り立っており、歌詞自体が物語のようになっているので、全詩を載せる。
1 ここはお国を何百里 離れて遠き満洲の 赤い夕日に照らされて 友は野末(のずえ)の石1の下 2 思えばかなし昨日まで 真先かけて突進し 敵を散々懲(こ)らしたる 勇士はここに眠れるか 3 ああ戦いの最中に 隣りに居ったこの友の 俄(にわ)かにはたと倒れしを 我はおもわず駈け寄って 4 軍律きびしい中なれど これが見捨てて置かりょうか 「しっかりせよ」と抱き起し 仮包帯も弾丸(たま)の中 5 折から起る突貫2に 友はようよう顔あげて 「お国の為だかまわずに 後れてくれな」と目に涙 6 あとに心は残れども 残しちゃならぬこの体 「それじゃ行くよ」と別れたが 永の別れとなったのか 7 戦いすんで日が暮れて さがしにもどる心では どうぞ生きて居てくれよ ものなと言えと願うたに 8 空しく冷えて魂は 故郷(くに)へ帰ったポケットに 時計3ばかりがコチコチと 動いて居るのも情なや 9 思えば去年船出して お国が見えずなった時 玄海灘で手を握り 名を名乗ったが始めにて 10 それより後は一本の 煙草(たばこ)も二人わけてのみ ついた手紙も見せ合うて 身の上ばなしくりかえし 11 肩を抱いては口ぐせに どうせ命はないものよ 死んだら骨を頼むぞと 言いかわしたる二人仲 12 思いもよらず我一人 不思議に命ながらえて 赤い夕日の満洲に 友の塚穴掘ろうとは 13 くまなく晴れた月今宵 心しみじみ筆とって 友の最期をこまごまと 親御へ送るこの手紙 14 筆の運びはつたないが 行燈(あんど)4のかげで親達の 読まるる心おもいやり 思わずおとす一雫(ひとしずく)
「しっかりせよと抱き起し」という部分について、実際の弾が飛び交う戦場においてはそんな余裕はない、ましてや「仮包帯」など断じてできない、おそらくこれは数名の斥候の様子ではないかと、この歌を好んだシベリア出兵を経験した元兵士は語っている。
ただのちに、歌詞中の「軍律厳しき中なれど」の言葉が軍法違反とされ、「硝煙渦巻く中なれど」と改められたことがある。軍隊の中で軍律厳しいのはある意味当たり前のことであって、それをそんなことはないと否定しようとする、その上目の視点がおかしい。これを軍歌ではなく鎮魂歌と見る人もいるが、本来、実際の戦場にいる兵士たちは「厭戦的」気分にならないわけはなく、この種の歌はむしろ必要と思われる。そういうことがわからないのは、実際に戦場に出ることなく後方の安全な場所でもっともらしく指揮をする(特に昭和の戦争はそうである)軍の幹部たちだけである。
「戦争をする」と決めた軍政府の要人たち、そしてその結果徴兵されて戦場で苦闘した兵士たちがこの種の歌で慰め合うその気持ちまでをも禁じるという、その軍の要人たちの人間の情(感性)の決定的欠如というものが、この後の近代戦争における大量虐殺の悲劇を生んだと言っていいのではないだろうか。
この時代は「反戦歌」という言葉はないが、その意味では昭和55年(1980)、映画『二百三高地』(日露戦争での旅順攻防戦における激戦地)において、さだまさしが主題曲『防人(さきもり)の詩』を自ら作って歌った時に、ある種の人たち(左翼的な論者)から、さだまさしは好戦的な歌を作ったという批判があった。これは呆れる話であって、歌詞をさっと聞いてみればわかるし(筆者は最初に聞いた時から心惹かれ、難しいがカラオケで歌ったこともある)、後で知ったが、この歌のベースは『万葉集』から採ったもので、「戦争の勝った負けた以外の人間の小さな営みを、浮き彫りにした映画なんだ」と、さだに曲を依頼した音楽監督の山本直純が語ったというそのままの内容で、見事に人々が日常的に抱いている心(世の無常について)を歌ったもので、その人間の小さな営みをも台無しにする戦争の愚かさを、戦争という言葉を使わずに歌っている。これをある種の枠(単純に反戦という言葉の枠)に囚われて物を見、批判する人たちが、普通に暮らす人間としての感性を持たず、どうして一人前に批評、論評をして得意然とすることができているのか、不思議でならない。歌詞の内容は以下である。
——「おしえてください/この世に生きとし生けるものの/すべての生命に限りがあるのならば/海は死にますか 山は死にますか/風はどうですか 空もそうですか/答えてください …… 春は死にますか 秋は死にますか/愛は死にますか 心は死にますか/私の大切な故郷もみんな 逝ってしまいますか…」
近年、筆者は「高齢者」となり、この歌をカラオケで歌おうとすると、途中で涙が出て歌えなくなってしまった。森山良子の『さとうきび畑』も同じである。歳をとると物事に感じやすくなってしまうせいもある。
『水師営の会見』
明治39年(1906) 作詞:佐々木信綱/作曲:岡野貞一
日露戦争時の1905年(明治37年)6月から旅順要塞(二百三高地)を悪戦苦闘の末、日本は翌年1月1日に占領、次いで4日、敵将ステッセルと乃木大将が、歴史的な会見を行った。それを記念して、文部省が「尋常小学校読本」のために歌人の佐々木信綱(『凱旋』も彼の作)に詩を書かせた。これは同43年「尋常小学校唱歌」巻十に収められた。小学校唱歌としては重い内容であるが、この種のものが普通に小学生にも取り入れられていた時代であった。
1 旅順開城 約成りて 敵の将軍 ステッセル 乃木大将と 会見に 所はいずこ 水師営 4(2、3略) 昨日の敵は 今日の友 語る言葉も うちとけて 我はたたえつ かの防備 かれは称(たた)えつ 我が武勇 5 かたち正して 言いいでぬ 「此の方面の 戦闘に 二子を失い 給(たま)いつる 閣下の心 如何にぞ」と 6 「二人の我が子 それぞれに 死所を得たるを 喜べり これぞ武門の面目」と 大将答え 力あり 9(7、8略) 「さらば」と握手 ねんごろに 別れて行くや 右左 砲音(つつおと)絶えし 砲台に ひらめき立てり 日の御旗
「二子を失い」とあるのは、乃木大将の子息二人である。乃木が指揮を執る戦闘の中での出来事で、「我が子それぞれに死所を得たるを喜べり」とあるが、立場上そう語らざるを得ず、さぞ深奥は悲痛の中にあったであろう。ただ、大将自身が前線に出て指揮を執るのはこの頃までで、昭和に入ってからは軍幹部は戦場の悲惨な状況を見ることなく机上で指揮を執り、その結果ますます前線では惨劇が繰り返されるようになる。実際に、日中・太平洋戦争においても、軍政府は最終的に引き際が見極められずに、広島・長崎への原爆投下を呼び込み、また最後の一年間で全体の2/3以上の戦死者を出した。
<余話>
これは軍歌ではないが、この日露戦争で弟を戦場に送った高名な歌人、与謝野晶子が1904年に「旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて」との副題で、有名な五連詩『君死にたまふことなかれ』を発表している。
——「ああおとうとよ 君を泣く 君死にたまふことなかれ 末に生まれし君なれば 親のなさけはまさりしも 親は刃(やいば)をにぎらせて 人を殺せとをしえしや 人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや …… 死ぬるを人のほまれとは 大みこころの深ければ もとよりいかで思(おぼ)されむ …… 十月(とつき)も添はでわかれたる 少女ごころを思ひみよ この世ひとりの君ならで ああまた誰をたのむべき 君死にたまふことなかれ」
この中の「死ぬるを人のほまれとは 大みこころの深ければ」、つまり、大みこころ=天皇の御心が深ければいうのは、親も含めて天皇は決してお前たちが戦争に行って敵を殺し、また自分が死んで国の誉れとなることを望んではいないだろうということで、本来天皇というのはあくまで国民の平和的生活つまり安寧を願う立場であって、結局は周囲の政治的指導層が「国家の威信」というものを掲げて戦争を生じさせ、そのために天皇を散々説得して「開戦の詔勅」を書かせるに至るのである。あえて言えば日本の天皇は、時の為政者に利用されるだけの国民と同じ弱者の立場にいると言える。
これとは別に、日露戦争後に生まれた子供用の手毬唄がある。『一列談判』という歌で、東京で1950年代頃までよく歌われていたという。これはイチ、ニ、サ、シ…と各句の頭に数字を読み込んだ数え歌の形をとっている。
——「一列談判破裂して(二)日露戦争始まった(三)さっさと逃げるはロシヤの兵(四)死んでも尽すは日本の兵、五万の兵を引き連れて、六人残して皆殺し、七月十日の戦いに(八)哈爾浜(はるぴん)までも攻め破り(九)クロパトキンの首を取り(トウ)東郷元帥万々歳」
これらを作るのは大人であろうが、遊びの少ない時代の子供たちはすぐにこうした歌(中には残酷な歌もある)を無条件に取り入れ、ゴム鞠を使って歌でリズムをとり昭和の時代まで遊んでいた。
『歩兵の本領』
明治44年(1911) 作詞:加藤明勝/作曲:永井建子
陸軍戸山学校軍楽隊長の永井建子が明治32年に発表した軍歌『小楠公』が原曲であり、当時の陸軍中央幼年学校(のちの陸軍予科士官学校)の在校生であった若い加藤明勝が、その曲に詩を作った。のちに帝国陸軍全体に波及し、広く愛唱されるようになった。原詩は全10番からなる。
1 万朶(ばんだ)の桜か襟の色 花は吉野に嵐吹く 大和男子(おのこ)と生まれなば 散兵綫(さんぺいせん)の花と散れ 2 尺余の銃(つつ)は武器ならず 寸余の剣(つるぎ)何かせん 知らずやここに二千年 鍛えきたえし大和魂(やまとだま) 3 軍旗まもる武士(もののふ)は すべてその数二十万 八十余か所にたむろして 武装は解かじ夢にだも 4 千里東西波越えて 我に仇なす国あらば 港を出でん輸送船 暫し守れや海の人 5 敵地に一歩我踏めば 軍の主兵はここにあり 最後の決は我が任務 騎兵砲兵協同(ちから)せよ (以下10番まで略)
1番の「万朶の桜か襟の色」とは、明治38年戦時服制および明治39年制式で制定された「襟章」を意味し、また歩兵科の定色である「緋色」を桜になぞらえたものという。また3番の「軍旗」は旭日旗を意匠化した歩兵連隊に下賜された軍旗を、「二十万」は当時の「歩兵将兵」の数、「八十余か所」は当時の「歩兵連隊」の数を、4番の「海の人」は海軍を、5番の「騎兵砲兵協同せよ」は歩騎砲兵の「三兵戦術」を意味する。なお2番の解釈は難しく、一尺(約30cm)余の銃は武器として頼りにならず、寸((約3cm)余の剣(つるぎ)が何になろう、二千年で鍛えてきた大和魂が最終的な頼りである、と解すべきだが約3cmの剣というのが不明である。剣(刀)は武士の魂だからと解釈したいが、3cmは銃剣の先としても短い。この作詞の加藤は陸軍中央幼年学校の第10期生で1911年に中央幼年学校の百日祭で発表されたということから、当時は17-18歳と思われる(出生不明)。その若い分、大和魂が強調されるのであろう。
いずれにしろ「千里東西波越えて 我に仇なす国あらば 港を出でん輸送船」とは、そのまま読めば、日本に攻め入ってくる国があればということであろうが、すでに日本は相手国に攻め入る戦争しかしていないから、実際にどちらのイメージで書いているのかもよくわからない。続いて「敵地に一歩我踏めば」とあるから、やはり攻め込むほうで、「千里東西波越えて(攻め込む際に)我に仇なす(つまり侵略を邪魔する)国あらば」ということになる。すでにして日本の軍事教育は、千里の東西の海を渡って侵攻するのが常道であるとされていることがこれでわかる。
ちなみにこの歌自体は親しまれて、太平洋戦争終盤、日本軍守備部隊の大半が全滅(玉砕)したサイパン島の戦い(戦死:約3万、捕虜 921、日本人民間居留者の集団自決含む死者=8千−1万人)において、生き残ってジャングル地帯に立てこもって最後まで米軍に抵抗し続けていた47人が、敗戦から約3か月半後の昭和20年12月1日に、正式に投降するために米軍基地まで向かう際、この曲を全員で歌いながら行進したという。
唱歌としての軍歌
明治18年に最初の軍歌として作られた『皇国の守(来たれや来たれ)』はすぐに学校唱歌としても採用されたが、それ以来、日清戦争からも文部省は学校用唱歌として軍歌たくさん作っていく(残るものはほとんどない)。特に明治37年開始の日露戦争下では戦局に合わせて次々と専任の作詞作曲者によって軍歌が作られ、それが『戦争唱歌』として二つの冊子にまとめられ、学校も競って購入した。その内容は『ロシヤ征討の歌』に始まり、 占領各地の歌から各海戦別に作られ、『野戦病院』『戦死者葬送』で締めくくられ、その中には明治天皇御製もある。『ロシヤ征討の歌』では「討てや討て討て ロシヤを討てや わが東洋の平和を乱す敵 ロシヤを討て討て討てや」と始まり、日本の辛抱強い交渉に応じなかったので 「霹靂一声 勅は下りぬ」と止むを得ず宣戦布告したとしている。天皇御製では「子等はみな 軍の庭に 出ではてて 翁やひとり 山田まもるらむ」とあり、「奉掲し児童をして之を敬唱して御盛徳のー端を感佩し益忠勇の志気を発揮せしめんことを期せり」と注記されている。『戦死者葬送』は戦死者を美化するものだが下記。(細川周平の論文より)
『戦死者葬送』 明治37年 作詞:佐々木信綱/作曲者不詳
1 目影さびしく雲愁へ 木木の梢に風むせぶ み空高くも澄みのぼる 「吹きなす笛」の楽の音や あはれあはれ あ一あはれや 生きて帝の楯となり 死して歴史の花となる 大和心をあざやかに 2 輝かしつるますらをや あれ あはれあ一あはれや 弾丸を冒して戦ひし 君が現身(うつしみ)今あらず 天翔けるつつ遠永く み国護らん亡き霊(たま)や あはれあはれ あ一あはれや
「死して歴史の花となる 大和心をあざやかに」と、ここには「散華」という昭和の戦争末期の特攻隊にまでうち続く戦死を美化する観念が打ち出されている。ただこの中で、「あはれあはれあ一あはれや」という情緒的な表現は、おそらく昭和の時代には禁止されたであろう。『吹きなす笛』は海軍の葬礼歌に残っていて、明治10年代に作られているが、「吹きなす笛のその音も 捧ぐる旗のその色も 物の哀れを知り顔に 今日はものこそ悲しけれ」 という敵軍を思う気持ちも入った哀調を帯びた歌詞である。こうした犠牲者に寄り添った歌詞は士気を妨げるものとして、のちにほとんど排除されていく。戦死者はお国に命を捧げた英霊として靖国神社に祀られるから、悲しんではならない、むしろ喜ぶべきであるという思想になっていき、親や遺族は人前で涙も見せられなかった。ひどい時代である。
『招魂祭の歌』 明治38年 作詞:本居豊頴/作曲:納所弁次郎 小学5年生用文部省唱歌
1 野山に海に 身をすてて 死にてもしなぬ ますらをが 大和心 のたましひは 今なほ国を 守るらん 2 祭らるる身と なりぬるを まつるとともに ますらをが 清きこころの ます鏡 光は世々に かがやかん
死して靖国神社に祀られた「ますらお」たちの大和心が、国を守り、その光を世々に輝かしていくということを表している。靖国神社は基本的に戦死者を祀る神社であるから、これは軍歌の一つとなる。なお明治17年にも『招魂祭』のタイトルで唱歌が作られている。
ちなみに明治35年の靖国神社のタイトルの歌である。
「矢玉の中に 身を斃(たお)しし 義勇の魂 国のしづめ たふ(尊)と勇まし このみやしろ(御社)」
『日本海海戦』 明治38年 作詞作曲者不詳 小学5年生用唱歌。有名なロシアとの海戦の年に作られた。
1
敵艦見えたり近づきたり 皇国の興廃ただこの一挙
各員奮励努力せよと 旗艦のほばしら信号揚る
みそらは晴るれど風立ちて 対馬の沖に波高し
3
東天赤らみ夜霧晴れて 旭日輝く日本海上
今はや遁るるすべもなくて 撃たれて沈むも降るもあり
敵国艦隊全滅す 帝国万歳万万歳
『出征兵士』 明治43年 作詞作曲者不詳 小学5年生用唱歌
1(父) 行けや行けや とく行け 我が子 老いたる父の 望は一つ 義勇の務 御国に尽くし 孝子の誉 我が家にあげよ 2(母) さらば行くか やよ待て 我が子 老いたる母の 願は一つ 軍に行かば からだをいとへ 弾丸に死すとも 病に死すな 3(弟) うれし うれし 勇まし うれし 出征兵士の 弟ぞ 我は 兄君 我も後より行かん 兄弟共に敵をば討たん 6(4、5略) 勇み勇みて 出行く兵士 はげましつつも 見送る一家 勇気は彼に 情は是に 勇まし やさし 雄々しの別れ
ひどい唱歌である。またこれを11歳の小学5年生に学校で歌わせるのだからひどい話である。老いたる母の願いが「弾丸に死すとも病に死すな」とは、どのような心根で、どのような官僚が書かせているのか。死ぬことが孝子となり家の誉れなのである。家の誉れといっても、その家を継ぐその子自身が死んでしまっては何もならない。この国が押し付けるこうした思想は35年後の敗戦まで続く。自分の息子が死んでも人前で悲しむと「非国民」扱いされたのである。
『同胞すべて六千万』 明治43年 作詞作曲者不詳 小学6年生用唱歌
1 北は樺太千島より 南台湾澎湖島 朝鮮八道おしなべて 我が大君の食(を)す国と 朝日の御旗ひるがへす 同胞すべて六千万 2 神代はるけき昔より 君臣分は定りて 万世一系動きなき 我が皇室の大みいつ あまねき光仰ぎ見る 同胞すべて六千万
これは日清・日露戦争により台湾や朝鮮の領地を得て、合わせた人口が六千万になったことを指している(当時の日本は5千万人程度で実際には合わせると七千万程度で、大正時代の歌詞には七千万とされる)。我が皇室の大みいつ(御威光)はそのすべてに行き渡るということで、この後も天皇の存在を笠に着て、昭和に入り中国を侵略していく。
『進軍』 明治43年 作詞:桑田春風/作曲者不詳 中学1年生用唱歌
進めよ進め 勇みて進め 行方(ゆくて)せく河も 剣なす山も 敵をのみ目あてに 渉(わた)れよ越せよ 鬨(とき)の聲つくり 一挙に攻めて 仇なす敵を 討ちてぞ進め 正義に勇む 我兵の前には 如何なる敵か 手向ひ得べき
『我国兵士』 明治43年 作詞者不詳 作曲:キュッケン 中学1年生用唱歌
御国の ためには 我が身を忘れ いのちを捨てて 露散り惜しまぬ 我国兵士 地球の上に 類(たぐい)はあらじ 富士の嶺(ね)よりも 心の高さ その雪よりも 心の清さ 世界に冠たる 我民の光 思へ 軍(いくさ)に 出でては 矢玉の中も 剣(つるぎ)の下も 進みて恐れぬ 我国兵士 如何なる艱苦も よく耐え忍び 敵地に国旗 靡(なび)かすまでは 死すとも退かぬ 剛毅の心 戦勝国たる 我民の誉れ 思へ
『野営の月』 明治43年 作詞:大和田建樹/作曲:M・B・Dana 中学2年生用唱歌
野営の篝火 小暗(おぐら)くなりて 静に更け行く 夜は丑満(うしみつ) 思うも勇まし 昨日のたたかい 誉を残して 斃れし戰友 その骸(から) いづこぞ 嵐も音やみ 烏(からす)鳴かず さやけき月影 霜と結びぬ 皇国の為には 我身を忘れて 草葉を蓐(しとね)に 眠れる戰友 その魂(たま)いづこぞ
『日本男児』 明治43年 作詞:蘆田惠之助/作曲者不詳 中学2年用唱歌
山の様 海の姿 美なる国よ 日の本は 神代より伝えて今に 変わりなく動きなし あはれ尊とき 国の基(もとい) この基いつまでも 守れ日本男児 忠の道孝の心 美なる国 我が国は 神代より伝えて今に 変わりなく曇りなし あはれ尊とき 人の心 この心いつまでも 保て日本男児
『突貫』 明治43年 作詞:大和田建樹/作曲:原曲はフランスの革命歌で国家にもなっている「ラ・マルセイエーズ」である。中学3年生用唱歌。
1 山に充ち野にあふれ 満目みな敵 対峙する我軍 志気燃ゆる如し 進軍の号令は 待てども未だ下らず 嵐すぎて 天地ただ静か 見よ見よ 日の御旗 高く揚ぐる時は 今ぞ 突貫 突貫 進めや 国のみため
『軍国男児』 明治43年 作詞:杉谷代水/作曲:フリードリヒ・ジルヒャー(ドイツの作曲家で『ローレライ』が知られている) 同じ中学3年生用唱歌
(父) いざ行けや我が子等 大君のみいくさ 義に勇むをのこが 起つべきは此時 いざ行けや いざいざ (子) 家おもうなみだは 益荒雄(ますらお)の名の耻(はじ) いざさらば父上 身は軽(かろ)し義重し 待ちますな 我等を (父) 勝ちほこる我が軍 めざましの功績(いさをし) 世に響く誉の その中に彼あり あな嬉し 彼あり
以上は当時の子供用に与えられた唱歌としての軍歌の一部であるが、作詞の大和田建樹や佐々木信綱、杉谷代水などは集中的に大量の唱歌を作っていて、その中にこうした軍歌があり、一種義務的に作っているのだろうが、『軍国男児』というタイトルが示すように、子供にこうした歌を歌わせながら国としての軍国主義を形成していく。国のための国とは何か、日本はその中心に天皇がいて、国のためは天皇のためとなり、その天皇に命を捧げるのは名誉であるという思想が形成されていった。果たしてそれでいいのかという個人的に疑問を持つことは詩の内容にあるように恥とされ、とにかく人々は無思考を強いられた。
以下は天皇を歌ったものである。
『天皇陛下』 明治34年 作者不詳
天皇へいかの ごいせい(威勢)を われらがこうべ(頭)に いたゞきて 日本国の たかき名を せかいのはてまで とゞろかせ
『御真影』 明治35年 作者不詳
現(あきつ)御神(みかみ) 大御神 雲のあなたに 仰ぐなる みかげをいまぞ 目のあたり おろがむことの うれしさよ
1890年代から天皇の肖像写真「御真影」が教育現場に配布されるようになり、写真は天皇と同一視され、文部省は下付された御真影と教育勅語謄本とを校内の一定の保管場所に「奉置」するよう訓令し、各学校には奉安庫・奉安殿の設置が始まった。1898年(明治31年)、長野県の町立上田尋常高等小学校(現・上田市立清明小学校)で、失火により明治天皇の御真影が焼失、当時の校長が責任を負って割腹自殺するという事件が起きた。 1921年(大正10年)に同じ長野県の坂城町立南条小学校が火災に遭った際にも校長が御真影を持ち出そうとして焼死した。 さらに1933年(昭和8年)、沖縄県第一大里小学校(現・大里北小学校)が火災に遭い、御真影が焼けて当時の校長が割腹自殺をした。1945年(昭和20年)の米軍の空爆でもまず御真影を安全な場所に移すことが最優先されたが、敗北に伴い文部省は学校からの御真影回収を指示し、都道府県単位で回収され焼却処分(奉焼)された。
『御稜威の光』 明治38年 佐々木信綱/マックノートン
国民(くにたみ)おぼす 大君の 御心深く ましませば 文教興り 武備また振う 御稜威は内に 溢れたり うれし うれし この大御世に 会いたるは
『天皇陛下』 明治44年 作者不詳
神と仰ぎ奉(たてまつ)り 親とも 仰ぎ奉る 天皇陛下の 御為(おんため)ならば 我が身も 家も忘れて
童謡・流行歌(明治30−44年:1897−1911)
日露戦争が終わった頃から大正、昭和の初期にかけて軍歌が作られることは極端に減ってくる。人々の生活に多少ゆとりが出てきて、いわゆる大正文化(大正ロマン)の時代に入る頃である。この軍歌に代わって勃興したのが海外の作品を翻案した叙情歌とそれに影響されて出てきた作曲家による童謡・唱歌である。この時代に昭和の戦後にも歌い継がれていく数々の歌が作られた。
童謡・唱歌
文部省が企図した学校唱歌第三弾で、明治33−34年に約40曲が発表されたが、以下はその中のリストには入っていない。ただしこの時期に並行して明治40年ごろまでに、民間から数百曲の唱歌が発表され、女学校用もあった。
『金太郎』 明治33年(1900) 作詞:石原和三郎/作曲:田村虎蔵。鎌倉時代に活躍した坂田金時の子供時代を題材にしている。
—— 「まさかりかついで金太郎 クマにまたがり お馬のけいこ ハイシィ ドウドウ ハイ ドウドウ」
『お正月』 33年 作詞:東くめ/作曲:瀧廉太郎
—— 「もういくつねるとお正月 お正月には凧あげて こまをまわして遊びましょう はやく来い来いお正月」
『鳩(はとぽっぽ)』 34年 作詞:東くめ/作曲:瀧廉太郎
—— 「ぽっぽっぽ はとぽっぽ 豆がほしいか そらやるぞ みんなでいっしょに 食べに来い」
『うさぎとかめ』 明治34年 作詞:石原和三郎/作曲:納所弁次郎。イソップ童話『うさきとかめ』を題材にしている。
—— 「もしもし かめよ かめさんよ せかいのうちで おまえほど あゆみの のろい ものはない どうして そんなに のろいのか」
『花咲爺(はなさかじじい)』 34年 作詞:石原和三郎、作曲:田村虎蔵。江戸時代初期からある勧善懲悪の話。
—— 「うらのはたけで ぽちがなく しょうじきじいさん ほったれば おおばん こばんが ザクザク ザクザク」
『大黒さま』 38年(1905) 作詞:石原和三郎、作曲:田村虎蔵。大黒様(大黒天)として信仰されている大国主命(オオクニヌシノミコト)が登場する日本神話「因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)」の物語である。
—— 「大きなふくろを かたにかけ 大黒さまが 来かかると ここにいなばの 白うさぎ 皮をむかれて あかはだか」
『一寸法師』 38年 作詞:巌谷小波/作曲:田村虎蔵 文部省唱歌。昔の「御伽草子」に収められた一寸法師が題材。
—— 「指にたりない一寸法師 小さいからだに大きな望み お椀の舟に箸のかい 京へはるばるのぼりゆく」
◎ 以下は文部省が当時の東京音楽学校に依頼して編纂委員会で作らせた明治期の第四弾(明治43−大正2年:1911−1914年)の童謡・唱歌であるが、それまでの型にはまった様式から脱ししつつあり、すべて日本人の手によるもので後年に残る歌が数多く打ち出されたことで特筆に値する。作者不詳とは、国が発表した歌なので、個人名は伏せられたことによる。
『こうま』 明治43年(1910) 作詞作曲者不詳 文部省唱歌
—— 「はいしい はいしい あゆめよこうま 山でもさかでも ずんずんあゆめ おまえがすすめば わたしもすすむ あゆめよあゆめよ 足おとたかく」
『春が来た』 明治43年(1910) 高野辰之作詞/岡野貞一作曲 文部省唱歌
—— 「春が来た 春が来た どこに来た 山に来た 里に来た 野にも来た」
『虫のこえ』 43年 作詞作曲者不詳 文部省唱歌
—— 「あれ松虫が鳴いている ちんちろちんちろ ちんちろりん あれ鈴虫も鳴き出した りんりんりんりん りいんりん 秋の夜長を鳴き通す あゝおもしろい虫のこえ」
『富士の山』 43年 作詞:巌谷小波/作曲者不詳 文部省唱歌
—— 「あたまを雲の上に出し 四方の山を見おろして かみなりさまを下に聞く 富士は日本一の山」
『われは海の子』 明治43年 作曲者不詳/文部省唱歌(小学6年生用)
これは歌詞は、文部省の懸賞募集に応募した鹿児島市出身の宮原晃一郎であると後年判明。
1 我は海の子 白浪の 騒ぐ磯辺のさわぐ いそべの松原に 煙たなびく苫屋(とまや)こそ 我が懐かしき 住家なれ 2 生れて潮に 浴(ゆあみ)して 浪を子守の 歌と聞き 千里寄せくる 海の気を 吸いて童(わらべ)となりにけり 3 高く鼻つく磯の香(か)に 不断の花の かおりあり 渚の松に 吹く風を いみじき楽と 我は聞く 5 幾年(いくとせ)ここに鍛えたる 鉄より堅かたき腕(かいな)あり 吹く塩風に 黒みたる はだは赤銅(しゃくどう)さながらに 7 いで大船に 乗出して 我は拾わん 海の富 いで軍艦に 乗組みて 我は護らん 海の国
この歌は今は3番までであるが、戦後も唱歌として広く歌われていて、元は7番まであり、敗戦後、7番の歌詞に軍艦が登場するという理由で削られた。海軍の軍人をイメージして作られているが、メロディはどこにも軍歌らしいアクはなく、極めてスマートな歌である。 「我は護らん海の国」とあるが、護るどころか、「軍艦に乗組みて」近隣諸国に権益を求めて侵攻し、戦争を仕掛けて行ったわけである。
『池の鯉』 明治44年 作詞作曲者不詳 文部省唱歌
—— 「出て来い 出て来い 池の鯉」
『凧(たこ)の歌』 明治44年(1911) 作詞作曲者不詳 文部省唱歌
—— 「たこたこあがれ 風よくうけて 雲まであがれ 天まであがれ」
『月』 明治44年 作詞作曲者不詳 文部省唱歌
—— 「出た出た 月が まるいまるい まんまるい お盆のような 月が」
『紅葉』(もみじ) 44年 高野辰之作詞/岡野貞一作曲 文部省唱歌
—— 「秋の夕日に照る山もみじ 濃いも薄いも数ある中に 松をいろどる楓や蔦は 山のふもとの裾模樣」
『牛若丸』 明治44年 作詞作曲者不詳 文部省唱歌
—— 「京の五条の橋の上 大のおとこの弁慶は 長い薙刀ふりあげて 牛若めがけて切りかかる」
『かたつむり』 明治44年 作詞作曲者不詳 文部省唱歌
—— 「でんでん むしむし かたつむり お前のあたまはどこにある つの出せ やり出せ あたま出せ」
『浦島太郎』 明治44年 作詞作曲者不詳 文部省唱歌。古くからあるおとぎ話で、室町時代の小説集「御伽草子(おとぎぞうし)」で今日知られる物語に近づいた。
—— 「むかしむかし浦島は 助けた亀に連れられて 龍宮城へ来て見れば 絵にもかけない美しさ」
『二宮金次郎』 明治44年 作詞作曲者不詳 文部省唱歌。幾種かあるが、これが定着した。
—— 「柴刈り縄ない 草鞋をつくり 親の手を助(す)け 弟(おとと)を世話し 兄弟仲よく 孝行つくす 手本は二宮金次郎
『案山子(かかし)』 明治44年 作詞:武笠三/作曲者不詳 文部省唱歌
—— 「山田の中の 一本足の案山子 天氣のよいのに 蓑笠着けて 朝から晩まで ただ立ちどほし」
『雪』 明治44年 作詞:武笠三/作曲者不詳 文部省唱歌
—— 「雪やこんこ 霰やこんこ 降つては降つては ずんずん積る 山も野原も 綿帽子かぶり 枯木残らず 花が咲く」
『桃太郎』 明治44年 作詞者不詳/作曲:岡野貞一 文部省唱歌
—— 「桃太郎さん 桃太郎さん お腰につけたきび団子 一つわたしにくださいな / やりましょう やりましょう これから鬼の征伐に ついて行くならやりましょう」
よく知られたこの歌には後半の歌詞に問題があり、現在ではその後半の三つの歌詞がカットされているが、以下の通りである。
「そーりゃすすめ そーりゃすすめ 一度にせめて せめやぶり つぶしてしまえ 鬼ヶ島 / おーもしろい おーもしろい のこらず鬼を せめふせて 分捕りものを えんやらや / ばーんばんざい ばんばんざい おともの犬や 雉猿は いさんで車を えんやらや」
理由はわからないが、鬼ヶ島で暮らしている「悪い」鬼たちを退治に行く。しかしその前に、この鬼たちがどのような悪いことを仕掛けていたという話はこの歌詞の中には見られない。これと同じで、明治以来日本は近隣諸国に攻め入ることを常としていた。またそれまでにそれら近隣諸国から攻め込まれようとした事実はない。それでも鬼ヶ島に勝手に攻め込んで宝物を分捕って、車に積んで大喜びで帰るのである。これは泥棒行為(略奪)であるが、実際に戦争は間違いなく略奪の側面を持っている。相手の領土を分捕り、時には宝物を持ち帰ることが戦争という名の下で平然となされる。
現に1941年12月、太平洋戦争開戦に当たってハワイの真珠湾に奇襲爆撃をするが、 翌年の1942年に日本初の準長編アニメ映画『桃太郎の海鷲』が製作され、その翌年3月に公開された。これは桃太郎を隊長とする航空隊が鬼ヶ島=ハワイを空爆し、多大な戦果を挙げるという内容で、この映画をみて海軍の予科練に志願した少年たちもいた。しかし監督の瀬尾光世は事前にディズニー映画を観て、キャラクターの生き生きとした動きやカラーの出来栄えに衝撃を受け、この戦争には「とても勝てない」と思ったという。さらに敗戦の年1945年に公開した姉妹編に、本格長編アニメ『桃太郎 海の神兵』がある。これは南方戦線のセレベス島・メナドへの日本海軍の落下傘部隊の奇襲作戦を題材にしたものである。まさに日本の戦争を無条件に正当化するために桃太郎は使われた。
歌謡・叙情歌
作曲家滝廉太郎の出現を契機として日本のオリジナルの歌が作られ、叙情歌のジャンルも普及していく。
『花』 明治33年(1900) 作詞:武島羽衣/作曲:滝廉太郎。日本の歌の革新を志した滝廉太郎が歌曲集(組歌)『四季』の第一曲として発表した。ここにある4曲はいずれも滝の作品だが、残念ながらこの三年後の36年に満23歳で肺結核で没した。
—— 「春のうららの 隅田川 のぼりくだりの 船人が 櫂(かい)のしずくも 花と散る ながめを何に たとうべき / 見ずやあけぼの 露(つゆ)浴びて われにもの言ふ 桜木(さくらぎ)を 見ずや夕ぐれ 手をのべて われさしまねく 青柳(あおやぎ)を」
『秋の月』 明治33年 滝廉太郎の『四季』の第三曲。作詞・作曲:滝廉太郎 (山田耕筰編曲)
—— 「光りはいつも 変らぬものを 殊更秋の 月の影は などか人に物思はする」
『荒城の月』 明治34年(1901) 作詞:土井晩翠/作曲:瀧廉太郎による歌曲。七五調の歌詞と西洋音楽のメロディが融合した楽曲で、日本で作曲された初めての西洋音楽の歴史的に重要な曲とされる。
—— 「春高楼の花の宴 めぐる盃かげさして 千代の松が枝わけいでし 昔の光いまいずこ」
『箱根八里』 明治34年 作詞:鳥居忱(まこと)/作曲:瀧廉太郎 (これは軍歌の一種としても歌われた)
—— 「箱根の山は 天下の嶮 函谷関(かんこくかん)も ものならず 万丈(ばんじょう)の山、千仭(せんじん)の谷 前に聳(そび)え、後方(しりへ)にささふ 雲は山を巡り 霧は谷を閉ざす 昼なお暗き杉の並木」
『美しき天然』 35年 作詞:武島羽衣/作曲:田中穂積。武島(滝廉太郎『花』の作詞者)の詩に感動して、佐世保海軍楽長の田中が作曲し、唱歌として発表された。『美しき天然』とは現代であれば『美しき自然』となる。なお同名異曲の小学生用唱歌も同年に作られている。
—— 「空にさえずる鳥の声 峰より落つる滝の音 大波小波とうとうと 響き絶えせぬ海の音 聞けや人々面白き この天然の音楽を 調べ自在に弾きたもう 神の御手の尊しや/ 春は桜のあや衣 秋は紅葉の唐錦 夏は涼しき月の絹 冬は真白き雪の絹 見よや人々美しき この天然の織物を 手際見事に織りたもう 神のたくみの尊しや」
当時の高等女学校で長く歌われたが、以後、学校教科書から姿を消す。昭和に入りワルツ調のメロディーの良さで活動写真の伴奏や、サーカスやチンドン屋でも演奏されたこともあって、この曲は全国に広まり、他の作曲家にも影響を与えた。これは4番まであり、筆者の独断ながら、歌詞はこの時代を映し出すようにひたすら美しく、曲調もいい(特に島倉千代子のバージョンが、節ごとにリズムを変えて素晴らしい)。しかし日清・日露戦争の間にこの歌が生まれていて、つまり一つの文化の形成期の影で戦争が勃発しているから、世の中の流れというのは一面では語れない。
『青葉の笛』 明治39年(1906) 作詞:大和田建樹/作曲:田村虎蔵。平安末期の源平合戦「一の谷の戦い」が題材。
—— 「一の谷の 軍(いくさ)破れ 討たれし平家の 公達(きんだち)あわれ 暁寒き 須磨の嵐に 聞こえしは明治これか 青葉の笛」
『人を恋ふる歌』 明治40年(1907) 歌人、与謝野鉄幹が明治30年、朝鮮の京城(現・ソウル)で日本語教師をしているときに作った詞に、奥好義が曲をつけた。全16番まである。
—— 「妻をめとらば 才たけて みめ美(うる)わしく 情けある 友をえらばば 書を読みて 六分(りくぶ)の侠気 四分(しぶ)の熱」
この歌は三高(現在の京都大学)の寮歌として歌い継がれ、曲が名調子なので各所で歌われ、昭和の戦後にも森繁久弥などが取り上げて歌った。
『旅愁』 明治40年 アメリカのジョン・P・オードウェイによる“Dreaming of Home and Mother”(家と母を夢見て)に詩人である犬童球渓が訳詞した。
—— 「更け行く秋の夜 旅の空の わびしき思いに 一人悩む 恋しや故郷 懐かし父母 夢路にたどるは 故郷(さと)の家路」
『故郷の廃家』 明治40年(1907) アメリカのウィリアム・ヘイスが作った原曲: 「My Dear Old Sunny Home」(1871年)に『旅愁』の犬童球渓が詞をつけた。
—— 「幾年ふるさと來て見れば 咲く花鳴く鳥そよぐ風 門辺の小川のささやきも なれにし昔に変らねど 荒れたる我家に 住む人たえてなく」
『ローレライ』 明治42年(1909) ドイツの作曲家フリードリヒ・ジルヒャーによる1838年の歌曲に、著名な詩人ハインリッヒ・ハイネの詩を近藤朔風が訳詞した。
—— 「なじかは知らねど心わびて 昔のつたえはそぞろ身にしむ さびしく暮れゆくラインのながれ 入り日に山々あかく映ゆる」
『野ばら』 42年 ゲーテの詩にシューベルトが曲を付けたものを、近藤朔風が訳詞した。
—— 「童は見たり 野なかのばら 清らに咲ける その色愛(め)でつ 飽かずながむ 紅(くれない)におう 野なかのばら」
『秋の夜半』 43年(1910) ドイツ・ロマン派初期の作曲家ウェーバーによるオペラ作品『魔弾の射手』で流れる序曲に、歌人・国文学者の佐々木信綱)が作詞した。
—— 「秋の夜半の み空澄みて 月のひかり 清く白く 雁の群の 近く来るよ 一つ二つ 五つ七つ」
『真白き富士の根』(七里ヶ浜の哀歌) 43年 作詞:三角錫子/作曲:ジェレマイア・インガルス。同年、逗子開成中学校の生徒12人を乗せたボートが転覆、全員死亡した事件を悼んで歌ったもの。
—— 「真白き富士の嶺、緑の江の島 仰ぎ見るも、今は涙 歸らぬ十二の雄々しきみたまに 捧げまつる、胸と心」
◯『旅愁』からここまでの歌は昭和の戦後にも学校で歌い継がれた。
大正時代(大正元年−15年:1912−1926年)
軍事的背景
第一次世界大戦(1914年:大正3年)
1914年(大正3)7月に欧州で第一次世界大戦が勃発すると、中華民国は中立を宣言した。この大戦ではドイツが中心となって連合国相手に戦争をしていて、アジア統治に手が回らなくなっているのを日本は好機と見て、日英同盟を理由に対独宣戦布告をし、まずドイツが基地を持つ青島(膠州湾岸)を占領、手薄なドイツ軍は成されるままだった。そして中国内のドイツの租借地や管理する鉄道に侵攻、占領した。中華民国政府は日本が占領したドイツ領土の返還を求めるが、日本政府は受け入れないばかりか、これまでの日本の権益を保証継続し、なおかつ山東省の膠済鉄道(山東鉄道)などのドイツの利権や権益などの継承を求める対華21カ条要求を突きつけ、最終的に十六ヶ条を認めさせた。
この第一次世界大戦には日本にとってもう一つの大きな好機があり、ドイツ帝国が占領していた赤道以北の南洋諸島で、ドイツ艦隊が膠州湾からマーシャル諸島に撤退するのを見て、日本海軍は巡洋戦艦や駆逐隊の南遣支隊をもってマリアナ諸島などのドイツ領の島々を大した抵抗を受けることなく占領した。その結果、山東半島および南洋諸島におけるドイツ権益をほぼすべて日本が引き継ぐことが、第一次大戦終焉の翌年に開かれたパリ講和会議で認められ、さらに翌年の国際連盟理事会において日本の委任統治が認められた。
この第一次大戦参加による実利は日本にとって大きく、戦死者は500名前後のようで、負傷者も1000名程度(ちなみに日清戦争では1.4万人弱、日露戦争では8万人超の死者)であって、日本は戦争の大きな痛みを経験せずして戦 勝国となり、政治家の中には「天佑」と して喜んだ者もいた。第一次世界大戦で大きな犠牲者を出したヨーロッパの国々が「平和への志向」に傾いて行くのに対して、日本はさらなる「軍備 増強・権益拡大志向」を目指すことになる。この時に手に入れた南洋諸島には、日本の商人や魚農民たちが移住し始め、その数は合わせて10万人に上ったが、昭和16年12月の太平洋戦争突入により、これらの島々は米軍との激戦の場となり、日本軍兵士の玉砕の島々と化し、新天地として居留した人々に集団自決の悲劇を生むことになる。
シベリア出兵と朝鮮・中国の抗日抵抗運動(1918 −1925年:大正7−14年)
シベリア出兵とは、よく知られる太平洋戦争後に生じたシベリア抑留とは全く違って、ほとんど日本では忘却された出来事であり、隠された戦争であった。まだ第一次世界大戦が終結する前年の1917年(大正6)、連合国の一員であったロシアで社会主義革命(10月革命)が起こり、連合国はロシアの反革命勢力を支援して革命政権の弱体化を図ろうと、1918年8月、シベリアで孤立したチェコ軍の捕虜を救出することを口実に、アメリカがまず近くの日本に出兵を働きかけ、さらにイギリス・フランス・イタリア・カナダなども多国籍軍としてシベリアに出兵、ロシア革命に対する干渉戦争として反革命軍(白軍)を支援することになった。まだ第一次大戦継続中で各国が兵力を割けず、日本軍は協定に反して他国を合わせた数より多い、3万7千の大軍をまずウラジオストクその他に送り込んだ。
日本軍の狙いは日露戦争後の日露協約で得た満州の利権を守ること、同時にシベリアの極東に住んでいる日本人居留民の保護も目的としたが、それよりもロシアの勢力圏であった北満州(外満州)・沿海州へと勢力を広げる機会でもあった。当時の後藤新平外相は、このシベリア出兵を「新しき救世軍」 と銘打ち、「ロシアへの内政不干渉・主権不侵害」そして「ロシア及びロシア国民との友好関係の維持」をわざわざ宣言した。しかし第一次世界大戦で連合国側に入って漁夫の利的な勝利で味をしめた日本軍は、さらなる野心(下心)を持ってこの干渉戦争に参加していた。1920年に入って連合国が撤兵し始めた後も日本軍だけが残ってさらにシベリア奥まで侵攻し、そこから2年居続け、延べ、7万3千の兵を送り込んで、数々の事件(惨禍)を起こし、保護するはずの日本人居留民も巻き込んで多くの死者を出した。その中の一つに比較的知られた尼港事件(ニコライエフスク事件)があるが、それは多くの日本人が犠牲になったからであって、それ以前にロシア住民がもっと多く犠牲になった事件等は伏されたままである。このシベリア出兵の全期間にわたる陸海軍人、軍属の戦病死者数を合算した戦死者は2643人、病死690人、計3333人となっていて、この他に日本人居留民を主とする住民の死者はこの倍になると言われる。結果的に日本人居留民は全面退去を強いられた。このシベリア出兵は実質上は第二次日露戦争であった。
この大正時代の日本国内は一見平穏そうに見えるが、第一次世界大戦参戦とシベリア出兵の他に、1919年(大正8)、日本の植民地となっていた朝鮮において大きな独立運動が生じ(三・一運動)、日本側はその鎮圧に追われ(朝鮮側で10万人の死傷者)、さらに同じ年に第一次大後の日本に有利な調印と対華21カ条要求などに対して全国的な抗日・反帝運動である五・四運動が発生、日本製品ボイコット運動にも発展した。この後も朝鮮や中国では、国内では見えないところで日本が関わる大きな抵抗運動(戦闘)と事件が続いていたということである。
軍歌 (大正元年−15年:1912−1926年)
大正時代は、大正文化(ロマン)が花開いた時代と言われ、確かにここに掲げる数々の歌を見ればその様子が十分に汲み取れるが、その陰で上記のように日本の外で戦争状態が続けられていた。日本の軍政府はこの背後の戦争を国民に知らせず、国民は何事もなかったように過ごし、従ってこの時代の軍歌も表向きはあまり目につかないが、文部省が多く子供用の唱歌に仕立てた。
『橘中佐』
大正元年(明治45年=1912) 作詞者不詳/作曲:岡野貞一 小学四年生用唱歌
橘周太は日本の陸軍軍人。 明治37年、日露戦争における遼陽の戦いで戦死し、彼を慕う者によって歌が作られたが、これはそれを元にして、唱歌として「軍神」を讃える精神を子供に植え付けるために作られたもの。
1 かばねは積もりて山を築き 血潮は流れて川をなす 修羅の巷か向陽寺(しゃおんずい) 雲間をもるる月青し 2 「みかたは大方うたれたり しばらく此処を」と諫むれど 「恥を思えやつわものよ 死すべき時は今なるぞ 3 「御国の為なり 陸軍の 名誉の為ぞ」と諭したる ことば半ばに散りはてし 花橘ぞかぐわしき
一度占領した向陽寺南方の高地を敵軍に逆襲され、必死に守ろうとしたが、死傷者多く、それでも部下を叱咤して敵に対抗する中で敵弾に命を落とした橘中佐の話である。これを小学校唱歌にしてしまうのだから当時の社会はどれだけ軍国主義優先の思想が広まっていたかがわかる。軍人の社会的地位も高かった。明治時代に入って元の士族が軍人に転換された影響も大きいかもしれない。
『広瀬中佐』
大正元年(明治45年=1912) 作詞作曲不詳 小学四年生用唱歌
広瀬武夫は日本の海軍軍人。橘と同じく日露戦争で戦死、軍艦で戦死した時の様子を描いたものである。「軍神」を讃える唱歌。
1 轟く砲音(つつおと) 飛来る弾丸 荒波洗ふ デッキの上に 闇を貫く 中佐の叫び 「杉野は何処(いずこ) 杉野は居ずや」 2 船内隈なく 尋ぬる三度(みたび) 呼べど答えず さがせど見えず 船は次第に 波間に沈み 敵弾いよいよ あたりに繁し 3 今はとボートに 移れる中佐 飛来る弾丸(たま)に 忽(たちま)ち失せて 旅順港外 恨みぞ深き 軍神広瀬と その名残れど
今では広瀬の方が名を残している。「軍神」として神格化され、出身地の大分県竹田市には広瀬を祀る広瀬神社が創建されたほどである。 彼は頭脳明晰で、明治30年にロシアへ留学してロシア語などを学び、貴族社会と交友する。当時ロシア領であった旅順港などの軍事施設も見学する。その後ロシア駐在武官となり、ペテルブルク市に滞在時、ロシア軍の参謀本部の将校たち相手に柔道を教えたこともあった。1902年(明治35年)に帰国、2年度、皮肉にもそのロシアが戦争相手となり、軍艦搭乗中に部下を探しに戻って弾にあたって死亡した。親しい間柄であったロシア人女性は、武夫の戦死を聞いて喪に服したといわれる。生前から尊敬されていた軍人で、この戦闘での死後、讃えられて軍神と呼ばれ、銅像まで建てられた。
広瀬中佐に関する歌は他にも多数あるが以下は14番までの歌の一部。(作詞:大和田建樹/作曲:納所弁次郎)
1 一言一行いさぎよく 日本帝国軍人の 鑑を人に示したる 広瀬中佐は死したるか 14 屍は海に 沈めても 赤心とどめて千載に 軍(いくさ)の神と仰がるる 広瀬中佐は 猶死せず
『入営を送る』 大正2年 作者不詳 小学5年生用唱歌
1 ますらたけを5と 生ひ立ちて 国のまもりに 召(め)されたる 君が身の上、うらやまし 望めどかなはぬ 人もあるに 召さるる君こそ 誉なれ さらば行け 国の為 2 征矢(そや)6を額に 立たすとも 背には負はじと 誓ひたる 遠き祖先の 心もて みかどの御楯(みたて)と つかへまつり 栄あるつとめを 尽くせかし さらば行け 国の為
『日本海海戦』
大正3年(1914) 作詞:芦田恵之介/作曲:田村虎蔵。他に同タイトルで三種ある。日露戦争の勝利を決定づけた海戦のことを描いた文部省唱歌、六年生用。
1 敵艦見えたり 近づきたり 皇国の興廃ただこの一挙 各員奮励努力せよと 旗艦のほばしら信号揚る みそらは晴るれど風立ちて 対馬の沖に波高し 2 主力艦隊前を抑え 巡洋艦隊後に迫り 袋の鼠と囲み撃てば 見る見る敵艦乱れ散るを 水雷艇隊駆逐隊 逃しはせじと追いて撃つ 3 東天赤らみ夜霧晴れて 旭日輝く日本海上 今はや遁るるすべもなくて 撃たれて沈むも降るもあり 敵国艦隊全滅す 帝国万歳万万歳
以下は同名曲で、海軍が作詞を大和田建樹、作曲を瀬戸口藤吉に命じて大正3年に発表したもの。
1 海路一万五千余浬 万苦を忍び東洋に 最後の勝敗決せんと 寄せ来し敵こそ健気なれ 4(2、3略) 霧の絶間(たえま)を見渡せば 敵艦合せて約四十(しじゅう) 二列の縦陣作りつつ 対馬の沖にさしかかる 5 戦機今やと待つ程に 旗艦に揚がれる信号は 皇国(みくに)の興廃この一挙 各員奮励努力せよ (以下略、15番まである)
この海戦は有名であるが、日本軍はすでに体力を消耗し、軍費もかさんで、これがうまく行かなければ停戦に持ち込もうと日本政府は考えていたほどで、薄氷の勝利であった。ただこの勝利がわが国の一層の軍国主義化を推進するのにうってつけの材料となったし、昭和の戦争を泥沼化に導いたとも言える。つまり日清戦争も含めて日本軍は「常勝」で、負けたことはないという思い込みが生じた。それが高じて太平洋戦争の戦局が悪化してくると、「最後は神風が吹いて日本は必ず勝つ」というそれこそ「神州不滅」などという神話めいたスローガンが軍によって広められた。
『艦船勤務』
大正3年(1914) 作詞:大和田健樹、佐々木信綱/作曲:瀬戸口藤吉
戦後、海軍の同窓会でよく歌われる歌の一つとされる。
1 四面海なる帝国を 守る海軍軍人は 戦時平時の別(わか)ちなく 勇み励みて勉むべし 2 如何なる堅艦快艇も 人の力に依りてこそ 其の精鋭を保ちつつ 強敵風波に当たり得(う)れ 3 風吹き荒(すさ)び波怒る 海を家なる兵(つわもの)の 職務(つとめ)は種々に変われども つくす誠は唯一つ 4 水漬く屍と潔よく 生命(いのち)を君に捧げんと 心誰かは劣るべき つとめは重し身は軽し 5略
あちこちに使い回しされる「大和魂」がないのが救いである。この「戦時平時の別ちなく」が、この後の海軍の歌『月月火水木金金』につながっていく。ちなみに「生命を君に捧げんと」の君は天皇のことである。
『遺族の涙』
大正9年(1920) 作詞:渋谷白涙/作曲:不明
1918年に始まったシベリア出兵によって戦死した遺族の気持ちを歌ったもの。
1 母ちゃん母ちゃんなぜ泣くの 坊やも悲しい泣きたいわ 膝にすがれば泣きに泣く 2 鬢(びん)のほつれをかきあげて 坊やおききよ父ちゃんは 花咲くころにシベリアに 3 おいでののちはひとたびも お会い申さずこのたびは ニコライスクの戦いで 4 味方の少ないそのために 七百有余のはらからを 援けることも情けなや 5 あまたの部下ともろともに パルチザンの毒刃に はかなき御最後なされしと 6 今もこれなる電報が きたのよ坊やよくお聞き 父さまお立ちのその日より
これはシベリア出兵時に起きたニコライエフスク(尼港)事件のことで、シベリア出兵に関する歌はこれ以外に見当たらない。それほどにこの戦争は日本軍が影に隠れるようにして行った戦争であり、(目立った戦勝もないから)国内でもまともに報道されず、それにしては敵味方と日本人居留民に多大な犠牲者を出し、政府内でも大きく批判された。パルチザンとはロシア革命軍のことで、連合国の革命軍攻略に合わせて日本がシベリアへ出兵し、連合国の撤兵後も欲を出して長く残留して反革命軍の戦闘に加担していなければ起きなかった事件である。パルチザン側からすれば、日本は自国の革命に干渉して邪魔をする侵略軍であったが、残された兵士の家族にとっては、お国のために出征したにすぎない。
『陸軍士官学校校歌』
大正10年(1921)6月 作詞:寺西多美弥/作曲:陸軍戸山学校軍楽隊
その後大幅に改訂され、大正12年3月17日に現行のものに定められた。
1 太平洋の波の上 昇る朝日に照りはえて 天(あま)そそり立つ富士が峰(ね)の 永久に揺るがぬ大八洲(おおやしま) 君の御楯(みたて)と選ばれて 集まり学ぶ身の幸よ 2 誉れも高き楠の 深き香りを慕いつつ 鋭心(とごころ)みがく吾らには 見るも勇まし春ごとに 赤き心に咲き出ずる 市ヶ谷台の若桜 5(3、4略) 学びの海の幾千尋 分け入る底は深くとも 立てし心の撓みなく 努め励みて進みなば 竜の顎の玉をさえ いかで取り得ぬことやある 8(6、7略) ああ山行かば草蒸すも ああ海ゆかば水漬(みづ)くとも など顧みんこの屍 (かばね) われらを股肱(ここう)とのたまいて いつくしみます大君の 深き仁慈(めぐみ)を仰ぎては
8番の「海ゆかば…」は、万葉集で有名な大伴家持の歌から取られ、その後の日中戦争開始の頃、国民精神総動員強調週間の際にそのタイトルで独立して曲がつけられ、曲調も落ち着いてよく、戦意高揚のため敗戦まで盛んに演奏された。戦意高揚と言っても、単に天皇のために死んでこいということで、この歌の文意も「君の御楯と選ばれて……文武の道にいそしめば……竜の顎の玉をさえ(取り得る)……ああ山行かば草蒸す(墓に草が生える)も …いつくしみます大君の(ためなら) など(どうして)顧みんこの屍 …」と、天皇のためなら海や山にこの身を没しようと悔いはないという趣旨で、この精神は昭和の敗戦まで継続され、実際に数百万人の命が天皇に捧げられた。それによって昭和天皇は大変心を痛められたが、大いに感激されたという話はまず聞かないし、あり得ない。すべてが軍政府の入念な創作なのであるが、何のためにそうするのか、天皇ご自身も被害者と言ってよい。
『江田島健児の歌』
大正10年(1921)頃作 作詞:神代猛男/作曲:海軍軍楽少尉 斎藤清吉
海軍兵学校に正式な校歌はなく、校歌に相当するのが、この江田島健児の歌で、兵学校創立50周年の記念として生徒から募集した歌詞に作曲された。1876年(明治9年)、東京築地に正式に海軍兵学校が開校、1888年(明治21年)に広島県の安芸郡江田島町(現在の江田島市)に移転した。
1 澎湃(ほうはい)寄する海原の 大波砕け散るところ 常磐の松のみどり濃き 秀麗の国秋津洲(しま) 有史悠々数千載(ざい) 皇謨(こうぼ)仰げば弥(いや)高し 2 玲瓏(れいろう)聳(そび)ゆる東海の 芙蓉の嶺を仰ぎては 神州男児の熱血に 我が胸さらに躍るかな ああ光栄の国柱 護らで止まじ身を捨てて 5(3、4略) 見よ西欧に咲き誇る 文化の影に憂い有り 太平洋を顧(かえ)り見よ 東亜の空に雲暗し 今にして我勉(つと)めずば 護国の任を誰(たれ)か負う 6 ああ江田島の健男児 時到りなば雲喚(よ)びて 天翔(か)け行かん蛟龍(こうりゅう)の 地に潜むにも似たるかな 斃(たお)れて後に止まんとは 我が真心の呼(さけ)びなれ
2番は神州男児、つまり神である天皇に仕える男として国柱となる光栄を帯びてこの身を身を捨てようとの意味になるが、このようにどこまでも天皇のために身を捨てよという趣旨が繰り返される日本の軍歌は世界の中で異様である。なお「見よ西欧に咲き誇る 文化の影に憂い有り」と、日本を常に優位に置こうとするその心根、慢心が最終的に敗北をもたらしたと言っていいだろう。自分の知っている世界が一番ということは、世の中にはないのである。
革命歌
大正時代の1922年頃に日本に入ってきて普及した革命歌(労働歌)と、日本の植民地となった朝鮮の歌を載せる。
『インターナショナル』
佐野 碩/佐々木孝丸 原作詞:ウジェーヌ・ポティエ(1871年)作曲:ピエール・ドゥジェーテル(1888年)
19世紀末フランスのパリ・コミューン(1871年)運動の直後にウジェーヌ・ポティエが作詞した。パリ・コミューンは1871年5月末に多数の犠牲者を出して鎮圧されたが、この詩はラ・マルセイエーズ(今のフランス国歌)の曲にあわせて歌われるようになった。その後ピエール・ドジェーテルが新たに曲をつけ、その後世界各国に翻訳され、1917年のロシア革命を経てソビエト連邦の国歌になったが、今は別な歌に替えられている。
1 起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し さめよ我がはらから 暁は来ぬ 暴虐の鎖たつ日 旗は血に燃えて 海をへだてつ我等 かいな結びゆく いざ戦わんいざ ふるい起ていざ ああインターナショナル 我等がもの いざ戦わんいざ ふるい起ていざ ああインターナショナル 我等がもの 2 聞け我らが雄叫び 天地轟きて 屍越ゆる我が旗 行く手を守る 圧制の壁破りて 固き我が腕 今ぞ高く掲げん わが勝利の旗 (以下繰り返し)
元のフランス語の歌詞は6番まである。これは昭和の戦争に入って禁止されるが、戦後の労働運動や学戦運動でよく歌われるようになった。「さめよ我がはらから … 旗は血に燃えて … いざ戦わんいざ ふるい起ていざ」という言葉だけ拾い上げると軍歌と変わらない。
同時代に日本の植民地、朝鮮で歌われたものを以下に挙げる。侵略された側の国の人たちの歌も入れておかないと不公平になる。
『蜂起歌』(朝鮮)
おそらく明治末期から大正初期の歌であるが、永井建子作曲の『小楠公』(『歩兵の本領』も同じ)をベースにした替え歌である。(訳詩:笠木透)
二千万の同胞よ 立ちあがれ 銃をかつぎ 剣をとれ 奪われた自由と わが祖国を 敵の手から 取りもどせ 雨にぬれている松の木も 墓にねむる 祖先たちも 老若男女立ちあがれ 幼い子どもも立ちあがれ われらの血で山をぬらし 川を真赤に染めるとも われらの敵を追い出して 平和の鐘が 鳴る日まで
当時の朝鮮は二千万人で、日露戦争後の日韓合併により朝鮮は日本の属国となり、それに抵抗して立ち上がろうとの思いを込めた歌である。内容的には他国の革命歌と共通のものがある。
『長剣歌』(朝鮮)
これも大正時代で、朝鮮の独立を求める歌である。作詞:安昌浩(朝鮮独立運動家)、訳詞:笠木透/作曲:不詳
斜めにかかげたわが剣は 祖国の自由を守るため 遼東満洲で戦った 東明王のその剣だ ピカピカ 電光石火 ピカピカ 疾風怒濤 稲妻のようなわが剣が 祖国の自由を守るだろう 誰にも負けないわが剣は 祖国の自由を守るため 清川江で水兵をやっつけた 乙女公のその剣だ ギラリと光る わが剣は 祖国の自由を守るため 閑山島で日本を撃破した 忠武公のその剣だ
東明王とは紀元前1世紀に高句麗を建国した伝説の王であり、「閑山島で日本を撃破した」というのは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時の話である。日本が鎌倉時代に侵攻してきた元寇を破った話と同じであろう。(以上二点は「アジア民衆の反日・抗日のうた」 立命館教授:鵜野 祐介研究資料からの転用)
童謡・流行歌(大正元年−15年:1912−1926年)
明治初期から明治40年ごろまでにも、多くの唱歌が作られたが後年まで歌い継がれたものは少なく、明治末期からこの大正時代には軍歌が少ない代わりに、明治後半期から滝廉太郎のような新進の作曲家によって生み出された日本独自の歌(童謡・唱歌・歌謡)は全盛期を迎え、いわゆる大正文化として一挙に花開いた感がある。そこには北原白秋、野口雨情、西條八十らの作詞家と中山晋平、弘田龍太郎、山田耕筰らの作曲家の登場で、相互に刺激し合う芸術的な空間が醸し出されていた。
以下の二つは軍歌に通じる文部省唱歌である。
『靖国神社』 大正元年 作者不詳 小学4年生用
花は桜木 人は武士 その桜木に囲まるる 世を靖国の 御社よ 御国の為に いさぎよく 花と散りにし人人の 魂は ここにぞ鎮まれる
10歳の小学生に、国のためなら桜の花のようにいさぎよく散りなさい、そのあとは靖国神社が守ってあげるから安心しなさい、と歌わせるのである。この頃からすでに国は巧妙に特攻隊の精神を子供に植え付けている。その結果一度日本は崩壊したが、戦争に導き、若者を死に追いやった「指導者」たちは戦後も巧妙に生き残り、過去のことは知らぬ存ぜぬで済ませている。
『天照大神』(あまてらすおおみかみ) 大正3年 作詞作曲者不詳
1 豊葦原の中つ国 皇孫(すめみま)行きて知ろしめせ 天つ日嗣(ひつぎ)は天地(あめつち)と 窮(きはま)りなし」と国の基(もと) 定め給ひし天照らす 神の御言(みこと)ぞ動なき 3 蒙古の敵の寄せし日も 神風こそは起りしか こと国までもことむけて かがやく御稜威(みいつ)まのあたり 今もむかしも天照らす 神の護ぞいちじるき
日露戦争の勝利により中国の満州地区に権益を得て駐留する日本軍に対し、蒙古の反乱軍を寄せ付けなかったのも天皇の御稜威による神風が吹いたからという意味であろう。すでに軍人にも国民にも日本軍は無敵であるという神話が根付いていた。最後には神風が吹き、日本は負けることはないという神話は、太平洋戦争の最後まで子供達の心の中にあった。
童謡・唱歌
明治43年(1910)ごろより「尋常小学校唱歌」(文部省唱歌)として次々と発表された小学生用の唱歌は、100年を経た今の時代にも多くが歌いつがれていることが驚きで、昭和の戦後生まれの筆者も聞いたり歌ったりした経験がある。なお、作詞作曲不明とあるのは、当時の学校の唱歌には作詞作曲者が記載されていなかったことによる。ちなみに明治45年(1912年7月まで)と大正元年は重なっていて、すべて元年にまとめる。
『冬の夜』 大正元年(1912) 作詞作曲者不明 文部省唱歌
—— 「燈火(ともしび)ちかく衣縫ふ(きぬぬう)母は 春の遊びの楽しさ語る 居並ぶ子どもは指を折りつつ 日数(ひかず)かぞへて喜び勇む」
『茶摘』 大正元年 作詞作曲者不明 文部省唱歌
—— 「夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る あれに見えるは茶摘みじゃないか あかねだすきに菅の笠」
『汽車』 大正元年 作詞:乙骨三郎/作曲:大和田愛羅 文部省唱歌
—— 「今は山中 今は浜 今は鉄橋渡るぞと 思う間もなくトンネルの 闇を通って広野原」
『村祭』 大正元年 作詞作曲者不明 文部省唱歌
—— 「村の鎮守の神様の 今日はめでたい御祭日 ドンドンヒャララ ドンヒャララ 朝から聞こえる笛太鼓」
『春の小川』 大正元年 作詞:高野辰之/作曲:岡野貞一 文部省唱歌
—— 「春の小川は さらさら行くよ 岸のすみれや れんげの花に すがたやさしく 色うつく
『村の鍛治屋(かじや)』 大正元年 作詞:高野辰之/作曲:岡野貞一 文部省唱歌。昭和60年にはすべての教科書から完全に消滅したという。
—— 「しばしも止まにずに 槌打つ響き 飛び散る火の花 はしる湯玉 ふいごの風さえ 息をもつがず 仕事に精出す」
『冬景色』 大正2年 作詞作曲者不明 文部省唱歌
—— 「さ霧消ゆる 湊江の 舟に白し 朝の霜 ただ水鳥の 声はして いまだ覚めず 岸の家」
『鯉のぼり』 大正2年 作詞者不詳/作曲:弘田龍太郎 文部省唱歌
—— 「甍(いらか)の波と 雲の波 重なる波の 中空を 橘(たちばな)かおる 朝風に 高く泳ぐや 鯉のぼり」
『海』 大正2年 作詞作曲者不詳 文部省唱歌
—— 「松原遠く 消ゆるところ 白帆の影は 浮かぶ 干網浜に 高くして かもめは低く 波に飛ぶ 見よ 昼の海」—— 「雨は降る降る 城ヶ島の磯に 利休鼠の 雨が降る 雨は真珠か 夜明の霧か それとも私の 忍び泣き」
『朧(おぼろ)月夜』 大正3年 作詞:高野辰之/作曲:岡野貞一 文部省唱歌
—— 「菜の花畠に 入日薄れ 見渡す山の端(は) 霞ふかし 春風そよ吹く 空を見れば 夕月かかりて 匂い淡し」
『故郷』 大正3年 作詞:高野辰之/作曲:岡野貞一 文部省唱歌
—— 「うさぎ追いし かの山 小鮒釣りし かの川 夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷」
◯ この時期から文部省唱歌でなく、民間からの童謡・唱歌が輩出してくる。
『金魚の昼寝』 大正8年(1919) 作詞:鹿島鳴秋/作曲:弘田龍太郎
—— 「赤いべべ着た かわいい金魚 おめめを さませば ごちそうするぞ」
『靴がなる』 大正8年 作詞:清水かつら/作曲:弘田龍太郎 雑誌『少女号』11月号に発表された。
—— 「お手つないで 野道を行けば みんな可愛い 小鳥になって 歌をうたえば 靴が鳴る 晴れたみ空に 靴が鳴る」
『お山のお猿』 大正8年 作詞:鹿島鳴秋/作曲:弘田龍太郎
—— 「お山のおさるは まりがすき とんとん まりつきゃ 踊りだす ほんに おさるは どうけもの」
『唄を忘れたカナリヤ』 大正8年 作詞:西條八十、翌8年、作曲:成田為三 前年に雑誌「赤い鳥」に発表された詩に成田が作曲した。童謡として初めてレコード化され、ヒットする。「唄を忘れた」は戦後付加された。
—— 「唄を忘れたカナリヤは 後ろの山に捨てましょか いえいえ それはなりませぬ」
『赤い鳥小鳥』 大正8年 作詞:北原白秋/作曲:成田為三 雑誌『赤い鳥』九月号に発表された。
—— 「赤い鳥 小鳥 なぜなぜ赤い 赤い実を食べた/ 白い鳥 小鳥 なぜなぜ白い 白い実を食べた」
『雨』 大正8年 作詞:北原白秋/作曲:弘田龍太郎 『赤い鳥』に発表された詩に弘田が曲をつけた。
—— 「雨がふります 雨がふる 遊びにゆきたし 傘はなし 紅緒(べにお)の 木履(かっこ)も 緒が切れた」
『しかられて』 大正9年(1920) 作詞:清水かつら/作曲:弘田龍太郎
—— 「しかられてしかられて あの子は町までお使いに この子は坊やをねんねしな 夕べさみしい村はずれ こんと きつねが なきゃせぬか」
『十五夜お月さん』 大正9年 作詞:野口雨情/作曲:本居長世 雑誌「金の船」に詩が発表され、のちに曲が作られた)
—— 「十五夜お月さん 御機嫌さん ばあやは おいとまとりました / 十五夜お月さん 妹は田舎へ 貰(も)られてゆきました / 十五夜お月さん 母(かか)さんに も一度 わたしは逢いたいな」
父親は破産、母親は病死し、一家離散といった不幸な境遇の子供の歌。その後の長期の戦争が多くの子供をこのような境遇に追い込んだ。
『浜千鳥』 大正9年 作詞:鹿島鳴秋/作曲:弘田龍太郎 雑誌『少女号』に発表された。
—— 「青い月夜の 浜辺には 親を探して 鳴く鳥が 波の国から 生まれでる 濡(ぬ)れた翼の 銀の色」
『七つの子』 大正10年(1921) 作詞:野口雨情/作曲:本居長世 雑誌『金の船』の7月号に発表された。
—— 「からす なぜ啼くの からすは山に 可愛い 七つの 子があるからよ」
『めえめえこやぎ』 大正10年 作詞:藤森秀夫/作曲:本居長世
—— 「めえめえ 森のこやぎ 森のこやぎ こやぎ走れば 小石にあたる あたりゃ あんよが あ痛い そこで こやぎは めえと鳴く」
『青い眼の人形』 大正10年 作詞:野口雨情/作曲:本居長世 やはり雑誌『金の船』に発表されたもの。
—— 「青い眼をしたお人形は アメリカ生まれのセルロイド 日本の港へついたとき 一杯涙をうかべてた “わたしは言葉が わからない 迷子になったら なんとしょう”」
ちなみにこのセルロイドは今のプラスチックにあたるが、当時はクスノキから採れる樟脳を原料にして作られ、この時代の原産地は主に日本の植民地であった台湾で、アメリカにも輸出されていた。しかし台湾では日本の工場進出により原住民と多くのトラブルが発生していた。
『夕日』 大正10年 作詞:葛原しげる/作曲:室崎琴月
—— 「ぎんぎんぎらぎら 夕日が沈む ぎんぎんぎらぎら 日が沈む まっかっかっか空の雲 みんなのお顔もまっかっか ぎんぎんぎらぎら 日が沈む」
『どんぐりころころ』 大正10年 作詞:青木存義/作曲:梁田貞 1921年(大正10年)10月or11年
—— 「どんぐりころころ ドンブリコ お池にハマッテさあ大変 どじょうが出て来てこんにちは ぼっちゃん一緒に 遊びましょう」
『てるてる坊主』 大正10年 作詞:浅原鏡村/作曲:中山晋平
—— 「てるてる坊主てる坊主 あした天気にしておくれ いつかの夜の空のよに 晴れたら銀の鈴あげよ」
『ゆりかごのうた』 大正10年 作詞:北原白秋/作曲:草川 信 雑誌『小学女生』8月号で発表された。
—— 「ゆりかごの歌を カナリヤが 歌うよ ねんねこ ねんねこ ねんねこよ」
『赤い靴』 大正11年(1922) 作詞:野口雨情/作曲:本居長世
—— 「赤い靴はいてた女の子 異人さんにつれられて 行っちゃった / 横浜の埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って …」
『砂山』 大正11年 作詞:北原白秋/作曲:中山晋平 4年後に山田耕筰
—— 「海は荒海 向こうは佐渡よ すずめ啼け啼け もう日は暮れた みんな呼べ呼べ お星さま出たぞ」
『しゃぼん玉』 大正12年(1923) 作詞:野口雨情/作曲:中山晋平 中山晋平の譜面集「童謡小曲」に発表
—— 「しゃぼん玉 飛んだ 屋根まで 飛んだ 屋根まで 飛んで こわれて 消えた」
『おもちゃのマーチ』 大正12年 作詞:海野 厚/作曲:小田島樹人
—— 「やっとこやっとこ くりだした おもちゃのマーチが らったった 人形のへいたい せいぞろい おうまもわんわも らったった」
『春よ来い』 大正12年 作詞:相馬御風/作曲:弘田龍太郎 雑誌「金の鳥」に発表された。
—— 「春よ来い 早く来い あるきはじめた みいちゃんが 赤い鼻緒の じょじょはいて おんもへ出たいと 待っている」
『どこかで春が』 大正12年 作詞:百田完治/作曲:草川 信
—— 「どこかで春が 生まれてる どこかで水が 流れ出す/ どこかで雲雀(ひばり)が 鳴いている」
*大正12年(1923)には関東大震災が起きている。
『せいくらべ』 作詞:海野 厚/作曲:中山晋平 『子供達の歌 第3集』で発表された。
—— 「柱のきずは おととしの 五月五日の せいくらべ ちまきたべたべ 兄さんが 計ってくれた 背(せい)のたけ」
『花嫁人形』 大正13年(1924年) 作詞:蕗谷 虹児/作曲:杉山長谷夫 雑誌『令女界』に発表された。
—— 「金襴緞子(きんらんどんす)の 帯しめながら 花嫁御寮は なぜ泣くのだろ/ 文金島田に髪結いながら …」
『待ちぼうけ』 大正13年 北原白秋作詞・山田耕筰作曲。満州の日本人向け唱歌の一つとして発表された。
—— 「待ちぼうけ 待ちぼうけ ある日せっせと野良稼ぎ そこに兔がとんで出て ころりころげた 木の根っこ」
『ペチカ』 大正13年 作詞:北原白秋/作曲:山田耕筰 同じく満州の唱歌の一つ。
—— 「雪の降る夜は 楽しいペチカ ペチカ燃えろよ お話しましょ 昔むかしよ 燃えろよペチカ」
上記『待ちぼうけ』 と合わせてこの二曲は、日本が日露戦争によりロシアより権益を取得した中国北部満洲の南満州鉄道とその沿線の附属地および関東州(大連・旅順)地区で日本人の移住者が急速に増えていた時代に、土地に合った歌が求められるようになり、南満州教育会からの依頼を受けた白秋・耕筰の二人が実際に満州に赴いて制作し、1924年発行の『満州唱歌集』に収録された。この唱歌集には5年間で作者不詳も含めて70曲以上が収録されている。またこの7年後、日本軍は満州事変を起こし、満州一帯を占領する。
『あの町この町』 大正13年 :野口雨情/作曲:中山晋平
—— 「あの町 この町 日が暮れる 日が暮れる 今きた この道 かえりゃんせ かえりゃんせ」
『しょうじょう寺の狸囃子』 大正14年(1925年) 作詞:野口雨情/作曲:中山晋平 児童雑誌「金の星」に発表された。
—— 「しょうしょう しょうじょう寺 しょうじょう寺の庭は ツ ツ 月夜だ みんな出て来い来い来い おいらのともだちゃ ぽんぽこぽんのぽん」
『からたちの花』 大正14年 作詞:北原白秋、作曲:山田耕筰
—— 「からたちの花が咲いたよ 白い白い花が咲いたよ からたちのとげはいたいよ 靑い靑い針のとげだよ」
『雨降りお月さん』 大正14年 作詞:野口雨情/作曲:中山晋平 雑誌『コドモノクニ』1月号で発表された。
—— 「雨降りお月さん 雲のかげ お嫁に行くときゃ 誰とゆく 一人でから傘 さしてゆく 傘ないときゃ 誰とゆく」
『あめふり』 大正14年 作詞:北原白秋/作曲:中山晋平 『コドモノクニ』11月号で発表された。
—— 「あめあめ ふれふれ かあさんが じゃのめ(蛇の目傘)で おむかい うれしいな ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」
『この道』 大正14年 北原白秋/作曲:山田耕筰 『コドモノクニ』11月号で発表された。
—— 「この道は いつかきた道 ああ そうだよ あかしやの花が咲いてる」
以上、現在まで残っている明治40年代から大正時代にかけての童謡・唱歌はこれだけでも壮観であるが、実際にはこの数十倍以上の歌が裏で量産されている。これが大正文化の一端である。この中の大正5年以降で北原白秋の歌詞が12曲ある(野口雨情は10曲)。白秋は昭和の戦時下では軍歌に傾倒していき、とりわけ子供用の軍歌を多く書いていく。当然昭和の時代は童謡や叙情歌を書いている雰囲気はなくなっていくからである。
歌謡・叙情歌
この時代に残る歌謡は、童謡・唱歌に比べるとかなり少ない。
『故郷を離るる歌』 大正2年(1913) 作詞:吉丸一昌 / ドイツ民謡
—— 「園の小百合なでしこ 垣根の千草 今日は汝を眺むる 最後の日なり 思えば涙 膝をひたす さらば故郷」
『早春譜』 大正2年 作詞:吉丸一昌/作曲:中田章 吉丸が自作の75編の詞に新進作曲家による曲をつけ、『新作唱歌』全10集として発表した中の一作。
—— 「春は名のみの 風の寒さや 谷の鶯 歌は思えど 時にあらずと 声も立てず」
長野県大町市から安曇野一帯の早春の情景をうたった歌とされ、大町実科高等女学校(現・大町北高等学校)では愛唱歌として歌われていた。
『城ヶ島の雨』 大正2年 作詞:北原白秋/作曲:梁田貞 芸術座の島村抱月による依頼で作曲されたが、北原白秋の詩に初めてメロディがつけられた楽曲である。
—— 「雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の 雨がふる 雨は真珠か 夜明けの霧か それともわたしの 忍び泣き」
『カチューシャの唄』 大正3年(1914年) 作詞:島村抱月/作曲:中山晋平。劇団・芸術座によるトルストイ『復活』の劇中歌で、当時の人気舞台女優松井須磨子が歌った。
—— 「カチューシャかわいや 別れのつらさ せめて淡雪 とけぬ間と 神に願いを (ララ)かけましょか」
この歌がいわゆる流行歌の先駆けとされ、ラジオはまだなく、レコードも黎明期で一般には普及はしていなかった。唱歌は学校で歌われて普及するが、この場合、劇団が日本各地に公演し、その公演時に貴重なレコードを聴かせ、それを聴いた人が歌詞を書き留めたり、また演歌師なるものが各地に歌本を売りながら流行らせて行った。ただ松井須磨子は花形女優となり、それがこの封建的時代のなかで周囲の反発を生み、最後には自殺する。
『ゴンドラの唄』 大正4年(1915) 作詞:吉井 勇/作曲:中山晋平。「カチューシャの唄」と同じく劇団・芸術座公演のツルゲーネフ作『その前夜』の劇中歌で、同じく松井須磨子が歌った。恋人を失った女性の歌で、これはおそらく昭和の戦時下では禁じられた内容であるが、戦後になって復活し、黒澤明監督の映画『生きる』の中で主人公の老人がブランコに乗って歌う場面が有名となり、その後も多くの歌手もカバーし、歌詞はよく知られている。
—— 「いのち短し 恋せよ少女(おとめ) 朱(あか)き唇 あせぬ間に 熱き血潮の 冷えぬ間に 明日の月日の ないものを」
『恋はやさし野辺の花よ』 大正5年(1916) 原曲はイタリアのオペレッタ「ボッカチオ」で、大正時代にブームとなった浅草オペラの劇中歌。訳詞は小林愛雄、田谷力三が歌った。その後も日本的な愛唱歌として定着、戦後もカバーされている。
—— 「恋はやさしい 野辺の花よ 夏の日のもとに 朽ちぬ花よ 熱い思いを 胸にこめて 疑いの霜を 冬にもおかせぬ わが心の ただひとりよ 」
『さすらいの唄』 大正6年(1917) 作詞:北原白秋/作曲:中山晋平 トルストイの「贖罪」を戯曲化した作品で芸術座『生ける屍』の劇中歌として使われた歌で、当時の人気女優松井須磨子がジプシーを演じてうたった。
—— 「行こか戻ろか オーロラの下を ロシアは北国 はて知らず 西は夕燒 東は夜明け 鐘が鳴ります 中空に」
『コロッケの唄』 大正6年 作詞:益田太郎冠者 帝国劇場で上演された笑劇「ドッチャダンネ」劇中歌として作曲された。
—— 「ワイフもらって 嬉しかったが 何時も出てくる おかずはコロッケ 今日もコロッケ 明日もコロッケ これじゃ年がら年中コロッケ アハハハ アハハハ こりゃ可笑し」
これによりコロッケの知名度は高まり、日本人にとって定番の洋食の一つになったという。
『宵待草』 大正6年 竹久夢二が4年前に雑誌「少女」に載せた詩に、バイオリン奏者 多忠亮が曲をつけ、第2回「芸術座音楽会」で初公演された。やはり翌年に竹久の表紙画で出版され、急速に日本中に広がり人気を得て後々まで歌いつがれていった。
—— 「待てど 暮らせど 来ぬ人を 宵待草の やるせなさ 今宵は 月も 出ぬそうな」
『琵琶湖周航の歌』 大正6年 作詞:小口太郎/作曲:吉田千秋 (原曲は「ひつじぐさ」で、小口が新たに詞をつけた)
—— 「我は湖(うみ)の子 放浪(さすらい)の 旅にしあれば しみじみと 昇る狭霧(さぎり)や さざ波の 志賀の都よ いざさらば」
第二次世界大戦後、多くの歌手によって歌われたが、三高(京都大学の前身)の寮歌・学生歌としても広まっていった。特に1971年(昭和46年)に加藤登紀子がカバーしたレコードは大ヒットを記録した。
『浜辺の歌』 大正7年(1918) 作詞:林 古渓/作曲:成田為三 詩のもとは大正5年の『はまべ』で、『浜辺の歌』と改題されて出版された。表紙絵に竹久夢二を起用したことから、大正ロマンの風潮に乗り発表当初から大きな話題を呼んだ。1941年(昭和16年)に李香蘭(山口淑子)が歌い、コロムビア・レコードから発売された。
—— 「あした浜辺を さ迷えば 昔のことぞ 忍ばるる 風の音よ 雲のさまよ 寄する波も 貝の色も」
『金色夜叉』 大正7年 作詞:宮島郁芳/作曲:後藤紫雲 尾崎紅葉が書いた明治時代のベストセラーとなった小説を歌にしたもので、作詞作曲は演歌師。
—— 「熱海の海岸 散歩する 貫一お宮の 二人連れ 共に歩むも 今日限り 共に語るも 今日限り」
『蒙古放浪の歌』 大正時代中期 作詞:村岡昊/作曲:園山民平
日本が日露戦争によりロシアから権益を取得した中国北部満洲の南満州鉄道と関東州(大連・旅順)地区で、日本は急速に経済的進出をし移住者も増え、20万人を超えつつあった時代、日本人学校も増え、音楽家も常駐するようになっていた。この二人はその中で多くの歌を作り『満洲唱歌集』も発行された。また二人は満洲国国歌を作曲し、園山は大正末に大連音楽学校を創立するほど、満州に一つの文化が生まれていた。
—— 「心猛くも 鬼神ならず人と生まれて 情はあれど母をみ捨てて 波こえてゆく友よ 兄等とは 何時亦会わん/波の彼方の蒙古の砂漠 男多恨の身の捨て所 胸に秘めたる大願あれば 全ては帰らん望みは持たぬ」
この歌は大陸浪人の心を歌った走りかもしれない。昭和6年の満洲事変後から学生が満州へ交代で勤労動員されることが多くなるが、その学生たちの中でこの歌は愛唱され、戦後にも一部で歌い継がれ、歌手の加藤登紀子も取り上げて歌った。詩と曲調がかみ合い、一種勇壮な歌となっている。
これらとは別に、大正を代表する民衆歌謡二曲が以下である。いずれも戦後も歌い継がれた。
『船頭小唄』
大正10年(1921)に「新作小唄」として民謡「枯れすすき」を野口雨情が作詞、同年に中山晋平が作曲した。翌年「枯れ芒」を改題し「船頭小唄」として発表され、12年レコード化されて広まり、映画にもなった。この歌の大流行の最中、関東大震災が起こり、人々の心を慰めることにもなった。昭和の戦後も俳優の森繁久彌が取り上げ、歌い継がれた。
—— 「俺は河原の 枯れすすき おなじお前も 枯れすすき どうせ二人は この世では 花の咲かない 枯れすすき / 死ぬも生きるも ねえお前 水の流れに 何かわろ 俺もお前も 利根川の 船の船頭で 暮らそうよ」
『籠の鳥』
大正11年(1922) 作詩:千野かほる/作曲:鳥取春陽
天才的演歌師と呼ばれ鳥取春陽が弾き語りをしながら全国を回っていたが、この作品がレコード会社の目にとまり、14年にレコード化され、ヒットした。
—— 「逢いたさ見たさに怖さを忘れ 暗い夜道をただ一人/逢いに来たのになぜ出て逢わぬ 僕の呼ぶ声忘れたか/あなたの呼ぶ声忘れはせぬが 出るに出られぬ籠の鳥/籠の鳥でも知恵ある鳥は 人目忍んで逢いに来る」
おそらくこの二曲とも昭和の戦争下では退廃的な歌として禁止されたであろう。しかし大正ロマンの中の歌であることに間違いはなく、この種の歌を切り捨てる戦争というものはどこまでも罪深い。人間の思考と想像の範囲を極端に狭め、人の命を途中で簡単に絶つばかりでなく、そうでなくても殺し合いは人の心をも深く傷つけ、個々の人生の可能性を歪め、あるいは捨て去ってしまう。その前提で現今の人々は軍歌に接するべきである。「元気が出る」などと、表層の格好よさげな言葉に惑わされてはならない。
