──昭和編(昭和14年−17年:1939−1942)──
昭和14年(1939年)
軍事的動向(日中戦争)
引続く大量爆撃
膠着状態に陥った国民政府軍との戦闘で、日本軍は天然要塞とも言える四川の奥地重慶は、南京のように陸上軍で攻撃することはできず、前年の12月18日から重慶に対し戦略爆撃を開始した。そこから1943年8月23日までの5年近く、断続的に218回もの爆撃を行なったが、重慶は天候不順で空の視界が確保できる春から秋の間に集中的に行われ、大規模な絨毯爆撃も数々あって、この1939年の5月3、4日の二日間に渡って日本軍は大空襲を行い、死者は4000人以上に達した。2年後の6月5日には、千人を超える住民が避難した大トンネルが爆破され、ほぼ全員が生き埋めで死亡した。こうした無差別爆撃は、相手側の戦闘の意志をくじく戦略爆撃と呼ばれるが、後の米軍の日本本土への爆撃に比べると、中国の国土は広大でその効果は薄かったし、攻撃される側はますます抵抗への意志が募るだけである。この重慶爆撃による全期間の被害は死者1万1889人、負傷者1万4100名、焼失・破壊家屋2万余に上る。それでも1937年(昭和12年)8月の第二次上海事変から始まった日本海軍による爆撃の回数と量の全体の中では、重慶の量はわずかと言ってもよく、我々の想像の範囲をはるかに超え、その実態は筆者の「中国における日本軍の年月日別空爆全記録」を参照されたい。
実は2004年7月に開催されたサッカーのアジアカップ国際試合の重慶会場で、日本チームに対して中国人観客から激しいブーイングがあり、勝って引き揚げる日本チームのバスが襲撃されるという事件が起こった。これは日本人のプレイヤーや応援に来た若者がまず知ることのなかった過去の日本軍の重慶爆撃に対し、中国の地元の人たちの怒りと反感がなお厳しく残っていたことによる。これは戦後を生きてきた大人の責任でもあるが、日本の政官人は戦後も負の遺産を反省せずに消し去ろうとする習性をいまだに残しているところから来ている。何よりも敗戦時に国内外の戦争に関わる記録書類・資料をすべて焼却処分するように指令を出したことがそれを物語っているが、今やすでに隠していたという行為自体も忘れ去られていたから救いようがないとも言える。
占領地の拡大へ
<海南島占領>
広東省の要域を制圧占拠した日本軍は南方進出の重要拠点として海南島を押さえることにした。位置的にマレ-半島やインドネシアに向かう重要拠点でもあって、同時に香港(英国領)やフィリピン(アメリカ領)、シンガポ-ル(英国領)から中国国民党のへの物資の支援ル-トを断ち切る目的もあった。1939年1月13日の御前会議で海南島政略が決定され、2月10日に陸海軍両軍で占領を開始した。この占領に対して当時海南島を勢力範囲としていたフランスは厳重に抗議したが、日本政府は「領土的野心はない」と回答、しかし3月30日になると海南島と続く3月の南部仏印(フランス領インドシナ)の新南洋群島の領土占領宣言を一方的に発表した。
この結果、太平洋戦争において日本海軍は海南島を南進基地として利用し、日本の敗戦まで軍事占領した。その間この島の資源・家畜・食糧の略奪、住民の強制労働, 女性に対する陵辱行為をくりかえし、捕虜とした中国人の兵士や住民、また労働力として連れてきた朝鮮人や香港人を含め、およそ2万9千人が犠牲になったとされる。またゲリラ活動を理由にして各地の村落を襲い, 非戦闘員の住民を無差別に殺害する虐殺も繰り返されたが、他と同様にそうした事実は隠されてきて(しかも敗戦のとき、日本軍は秘密の工事と虐殺を隠すため、1000人以上の労働者を殺害し埋めたと言われ、その地は今でも「南丁千人坑」と呼ばれている)、戦後しばらく経って、学者やジャーナリストの調査による住民の証言により明らかにされた。ただ、それでもいまだに南京事件と違って積極的に取り上げられることはないし、筆者も知らずにいた。
ちなみに第二次世界大戦が勃発すると、英仏勢力がアジアから後退した機会を突いて、南進政策は楽に推進され、華南、仏印(領インドシナ=ベトナム・ラオス・カンボジア地域)と蘭印(オランダ領インドシナ、現インドネシア)方面に進められた。このベースがあって、その後の太平洋戦争開戦時、アメリカの真珠湾に奇襲攻撃すると同時にマレー半島にも奇襲上陸し、インドネシアにある念願の石油設備を奪い取ることができた。
<ノモンハン事件>
1939年(昭和14)5月から同年9月にかけて、日本が領有する満州国とソビエト連邦(ロシア)の衛星国であったモンゴル人民共和国との間の国境線をめぐって発生した満州国軍(日本の関東軍)とソ連(ロシア)軍と戦闘のことで、それまで断続的に発生していたが、日本はノモンハン地区の国境線の明確化を主張して軍事行動を開始、これに対しモンゴルを支援するソ連軍が迎え撃った。広大な草原での機甲部隊同士の対戦となり、また飛行隊による空中戦も行われ、空中戦は日本軍の圧倒的勝利で一度は収束した。そこでソ連軍は体制を立て直し、翌月また衝突が起って9月まで戦闘は続き、日本軍が敗北し、9月に休戦協定を締結した。ここまで日本はソ連を仮想敵国として対ソ開戦論(北進論)を選択の一つとしていたが、その戦略は消滅した。
日本軍戦死者は約7700人、戦傷8650人、生死不明1021人。ソ連側の戦死傷者はこれより多いのだが日本軍の方が先に力尽きた。兵力比ではソ連側はモンゴル軍も加えて日本軍の4倍であった。これはそもそも事件のレベルではなかったが、日本陸軍はノモンハンの敗北を封印することに腐心する。帰還した将兵には箝口令を敷き、戦闘に参加した将校3人に責任を取らせて自決させ、作戦を立案した参謀を更迭するなど、何も得るもののない無駄な戦争であったと言われる(これは大正時代のシベリア出兵も同様であった)。日本軍は失敗から学ぶことがないと言われ、しかも失敗すると隠蔽工作に走り、例えば軍歌の中によく出てくるように大和魂を持ってすれば何とかなるとの精神主義に走り、最終的には起死回生として神風特攻隊を生み、あたら将来のある多くの若い命を「散華」させてしまうのである。そして靖国神社に英霊として祀られ、さらに戦後になって彼ら英霊の尊い犠牲があって、今日の日本の繁栄があると言われるようになるが、果たして本当にそうなのか、何百万人の犠牲者のうち多くの夢を持ったまま命を散らした若者や、空襲で焼死したたくさんの子供たちが、もしそのまま生きていたなら、日本はもっと良い国になっていたのではないのか。
この2年後の4月、日ソ中立条約が締結されるが、日本が太平洋戦争に敗戦する直前、ソ連軍は一方的に中立条約を破棄して満州に侵攻し、満州開拓民や民間の義勇隊も含めて多くの犠牲を出した。このノモンハン停戦協定成立直前の9月1日、ナチスドイツ軍がポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まった。翌年、日独伊三国同盟が締結される。
<その他戦闘>
日中戦争が長期持久段階に入るにつれ、中国と欧米列国を結ぶ補給連絡路(援蒋ルート)の遮断が日本の対中戦略の重要な問題となった。特に「仏印ルート」(仏印はフランス領インドシナで、ベトナム・ラオス・カンボジアを指す)は前年から輸送量が約4倍に増えていた。そこで広西省の南寧を攻略して援蒋ルートを遮断する作戦を海軍と展開、占領していた海南島三亜湾から約70隻余りの輸送船団に乗った日本軍は、11月半ばに欽州湾岸へ上陸し、11/24に南寧市内へ突入、軍司令部など重要拠点を占領し、その後2日間にわたって市内の掃討がおこなわれ、占領を終えた12月1日までの中国軍の損害は遺棄死体6125、捕虜664人、対して日本軍の損害は戦死145人、戦傷315人であった。また南寧市においては多くの軍用物資を略奪した。
蒋介石国民党軍は、湖南、四川、広東など各地から約10万人以上の部隊を南寧周辺に集結し、総反攻を行い、12月17日、その第一波の軍が南寧北東50キロ付近に突出した崑崙関(こんろんかん)の日本軍陣地に攻撃を開始した(崑崙関の戦い)。崑崙関の日本軍は補給路を絶たれるなどして一部の小隊は全滅、激戦の末に崑崙関から撤退したが、南寧への進攻は食い止めた。この戦いにおける日本軍の死傷者は兵力4万5000人のうち8100以上で、中国側の損害は兵力8万6400のうち死傷者約2万9000となっている。これ以降もこの地区で戦闘は繰り返されたが、日本軍はこのルートへの爆撃を繰り返した。
前年秋の広東作戦後、日本軍の占領地域は広東周辺のごく狭い範囲に限られていた。昭和14年8月下旬に中国軍の夏季攻勢を受けて防戦を強いられ、その根拠地・韶州への進攻作戦を計画した。しかし南寧方面(広西省)の戦況が悪くなり、この作戦は縮小され、12月24日から広東北方の翁源、英徳まで進攻し(翁英作戦)、29日に翁源を、30日に英徳を占領したところで各部隊は転戦した。戦闘は1月半ばまで続いたが、日本軍兵力は約5万人で戦死293人、戦傷1281人、交戦した中国軍兵力12万2930人で遺棄死体1万6312体、捕虜1196人であった。この年の各戦闘において兵力は日本側が少なかったにも関わらず中国軍の犠牲者が多かったのは、日本海軍の飛行隊による後方支援の力が大きかったと思われる。日本陸軍の侵攻前には常に海軍と陸軍の飛行隊(当時は空軍はなく、陸海それぞれに飛行隊があった)が爆撃を行った。なお、上記の捕虜が正規に扱われた形跡はない。
軍歌(昭和14年:1939)
『愛馬進軍歌』
昭和14年(1939)1月 作詞:久保井信夫/作曲:新城正一/歌:藤原義江
昭和13年、日本競馬会から陸軍省と農林省に対し、平時と戦時を通した国民の馬事思想普及のため一般国民にアピールする行進曲や里謡の製作が依頼された。これを受けて陸軍省と農林省の馬政局はこの歌詞を募集した。歌詞は約4万通、曲は約3000通の応募の中から選ばれた。作詞の久保井は当時四国電力の社員、作曲の新城正一は九州の教員だった。軍馬を戦友として扱う親しみやすい歌詞と、テンポの良い曲とで帝国陸軍内部のみならず民間でも広く愛唱された。
1
くにを出てから 幾月ぞ
ともに死ぬ気で この馬と
攻めて進んだ 山や河
とった手綱に 血が通う
2
昨日陥した トーチカで
今日は仮寝の たかいびき
馬よぐっすり 眠れたか
明日の戦は 手強いぞ
6(3−5略)
お前の背に 日の丸を
立てて入場 この凱歌
兵に劣らぬ 天晴れの
勲は永く 忘れぬぞ
4万通の中から選んだにしては、さほどの詩ではない。曲がよかったのであろう。他にも軍馬に関する歌は多くある。
『愛馬行』 作詞:陸軍報道部/作曲:佐藤長助
1
行けど進めど 夕空遠い
今日も露営か 雪の原
黒馬(あお)よ頼むぞ 今宵の夢は
俺とお前と 日の丸だ
4
苦労かけかけ ここまで来たが
とうとう占領だ 万歳だ
黒馬よ啼け啼け おいらも泣くぞ
万歳万歳 日の丸だ
「とうとう占領だ 万歳だ」と言っても、中国はとてつもなく広大で、一つの地域を占領しても、それはわずかな領域に過ぎず、次の目的地までの行軍は果てしなく続いた。国内にいる一般人がどのように想像しても、兵士たちの気が遠くなるような気持ちには追いつかない。これを現地の兵士たちに愛唱歌として押し付けても迷惑なだけであろう。
『父よあなたは強かった』
昭和14年1月発売。 作詞:福田節/作曲:明本京静
やはり大阪と東京の朝日新聞が、1938年(昭和13年)10月、「皇軍将士に感謝の歌」の懸賞募集をした。この募集の一等が、「父よあなたは強かった」で、佳作一席が「兵隊さんよありがとう」であった。作詞は福田節という一般女性で、作曲に際しては、12人の作曲家に依頼して作曲したものを、一般人を主とした公開視聴会を行った。その結果、新人作曲家明本京静が選ばれ、これはヒット曲となり、四人の歌手がレコード化した。
1
父よあなたは 強かった
兜(かぶと)も焦がす 炎熱を
敵の屍(かばね)と ともに寝て
泥水すすり 草を噛み
荒れた山河を 幾千里
よくこそ撃って 下さった
2
夫よあなたは 強かった
骨まで凍る 酷寒を
背も届かぬ クリークに
三日も浸かって いたとやら
十日も食べずに いたとやら
よくこそ勝って 下さった
3
兄よ弟よ ありがとう
弾丸(たま)も機雷も 濁流も
夜を日に進む 軍艦旗
名も荒鷲の 羽ばたきに
残る敵機の 影もなし
よくこそ遂げて 下さった
4
友よわが子よ ありがとう
誉(ほまれ)の 傷の物語
何度聞いても 目がうるむ
あの日の戦に 散った子も
今日は九段の 桜花
よくこそ咲いて 下さった
5
ああ御身(おんみ)らの 功(いさお)こそ
一億民(たみ)の まごころを
ひとつに結ぶ 大和魂(だま)
いま大陸の 青空に
日の丸高く 映えるとき
泣いて拝む 鉄兜(かぶと)
プロにない発想もある素人の作とはいえ、歌詞の内容は当時の世相の影響は免れない。これは一般民間人こそ世相に影響されてしまうということである。4番の九段とは靖国神社のことで、ここで一番大事な子供を死なせていることは、当時の軍国思想にかなうことである。それを「九段の桜花」として「よくこそ咲いて下さった」という。むしろ「よくこそ親の心を無視して書いてくださった」と返すべきではないのか。これをこの時期の選者たちは「素晴らしい親心」として賞賛して採択した。
また「よくこそ勝って」「よくこそ遂げて」はよいとして、1番の「よくこそ撃って」は、「よくこそ撃ち殺して」ということであり、女性の発想とは思えない。軍関係の手でこうなったのかどうか。いずれにしても中国に攻め入って、上海や南京を容易に攻略し、その後順調にとは行かないまでも新聞等で勝ったことだけ報道されていた時期である。こうした日本軍の侵攻に、一層欧米からの非難が高まり、この翌年には経済制裁を受け始め、石油をはじめとした物資に困った日本は東南アジアへの侵攻を計画、米英との開戦に至ることになる。
なお、山本七平『私の中の日本軍』によると「敵のかばねと共に寝て泥水すすり草をかみ」というこの歌詞は、後の太平洋戦争時のルソン島の戦いで、この歌を口ずさんだ他の兵士に思わず「やめろ!!こんな歌を作ったやつは殺してやりたいぐらいだ」と怒鳴った兵士がいたという。戦争の過酷すぎる実態をも綺麗事に済ましてしまうこの種の歌というものに腹が立ったのであろう。こういう時には軍歌より『故郷』などの歌のほうがどれだけいいか。なお、日本で作られた軍歌のレコードは戦線各地に送られ、兵士たちに聞かせていた。またこの歌詞の中で「父親のことを子があなたと呼ぶのはけしからん」という声もあったというが、歌詞の言い回し上で使ったのであろうからそこまで怒ることではない。
『兵隊さんよありがとう』(「皇軍将士に感謝の歌」)
昭和14年(1939)1月発売。作詞:橋本善三郎/作曲:佐々木すぐる
朝日新聞社が上記「父よあなたは強かった」の懸賞募集を行った時の佳作一席に選ばれたのがこの歌である。(橋本は印刷会社に勤める工員)
1
肩を並べて兄さんと
今日も学校へ行けるのは
兵隊さんの御蔭です
御国の為に御国の為に戦った
兵隊さんの御蔭です (最終行繰返し)
2
夕べ楽しい御飯時
家内揃って語るのも
兵隊さんの御蔭です
御国の為に御国の為に傷付いた
3
淋しいけれど母様と
今日も円かに眠るのも
兵隊さんの御蔭です
御国の為に御国の為に戦死した
4
明日から支那の友達と
仲良く暮らして行けるのも
兵隊さんの御蔭です
御国の為に御国の為に尽くされた
兵隊さんよありがとう
当時の子供達が学校で教育されていた内容そのままの歌詞である。子供は教科書に書かれていた通りに自分たちを守ってくれる兵隊さんは偉いし、感謝しなければならないと素直に信じていた。しかしあえて言えば、日本が外国から攻められようとしているのを、「兵隊さん」が必死に守ってくれているわけではなく、実態はその逆である。例えば明治末期に作られた「桃太郎」の歌では、なぜか知らないが鬼ヶ島(外地)で暮らしている「悪い」鬼たちを退治に行く。しかしその前に、この鬼たちが桃太郎たちの住んでいる国にやってきて悪いことを仕掛けていたという話はされない。これと同じで、明治以来日本は近隣諸国に攻め入ることを日常としていた。それまでにそれら近隣諸国から攻め込まれようとした事実はない。実は太平洋戦争開戦に当たってアメリカの真珠湾に奇襲爆撃をするが、この後に桃太郎を使ったアニメ映画が作られ、真珠湾を鬼ヶ島に、アメリカ兵をポパイに例え、戦闘機に乗った桃太郎が敵の艦隊を絶滅させ、大勝利を収めるという筋書きである。この桃太郎がいまだに童謡として歌い継がれているのは何故なのか。
『暁の決死隊』
昭和14年 作詞:佐藤惣之助/作曲:細川潤一
1
今朝から続く激戦に
いよいよ迫る敵の陣
さらば一挙に破らんと
闇の流れを押し渡り
征くぞ熱血決死隊
2
敵前渡河に良く慣れし
愛馬よまたも頼むぞと
星も輝く銃剣に
弾丸の流れを突き進む
男命か血飛沫か
3
ああ暁の風絶えて
勝鬨(かちどき)高く挙げながら
岸の木立に感激の
燃ゆる日の丸打ち仰ぐ
見よや尽忠決死隊
戦意高揚を目的とした軍国歌謡で、尽忠は「尽忠報国」としてよく使われる。佐藤惣之助は『人生の並木路』など多くの歌詞を残しているが、前年には久米正雄、林房雄、川口松太郎らと中国へ従軍記者として赴き、「愛国詩集」を発表している。作曲家古賀政男と組んで多くの軍国歌謡を世に送り出している。ただ、2年前の12年、『ああ決死隊』という歌があり、その歌詞は「ああ暁の寒空に 大地を蹴って進み行く 雄々しき姿よ 薫る勲よ これぞ栄えある祖国の決死隊/ああ尽忠の勇魂は 烈々燃える 火の玉か(後二行繰り返し)/ああ日の丸を血に染めて 矢弾の中に花と散る(二行繰り返し)以下略」(作詞:久保田宵二/作曲:竹岡信幸、久保田は『山寺の和尚さん』の作詞家)であるが、わざわざ中国戦線に赴いて取材した佐藤の詩はどこが違うのか、まったくわからない。
『ほんとにほんとに御苦労ね』
作詞:野村俊夫/作曲:倉若晴生/歌:山中みゆき
1
柳芽をふくクリークで
泥にまみれた軍服を
洗う姿の夢を見た
お国のためとはいいながら
ほんとにほんとに ご苦労ね
2
来る日来る日を 乾麺麭(かんぱん)で
護る前線 弾丸(たま)の中
ニュース映画を 見るにつけ
熱い涙が 先に立つ
ほんとにほんとに ご苦労ね
3
今日もまた降る 雨の中
何処が道やら 畑やら
見分けもつかぬ 泥濘(ぬかるみ)で
愛馬いたわる あの姿
ほんとにほんとに ご苦労ね
4
妻よ戦地の ことなどは
なにも心配 するじゃない
老いた両親(ふたおや) 頼むぞと
書いた勇士の あの音信(たより)
ほんとにほんとに ご苦労ね
国内で 「銃後」を守る立場から前線の将兵を思いやる気持を表した戦時歌謡として、戦場の兵士たちに圧倒的に支持され、その後も戦地の歌に移し変えた替え歌が沢山作られ、昭和17年頃から『軍隊小唄』として、 「いやじゃありませんか軍隊は カネのお椀に竹のはし」で始まる替え歌(19年の項参照)が特に有名で、復員兵が持ち帰って来た。陸・海・空の軍隊それぞれの小唄がある。戦後になっても学校や労働組合の応援歌などの替え歌として、またコミックソングとしても流行した。1970年代にお笑いグループのドリフターズが、『ほんとにほんとに御苦労ね』と『軍隊小唄』の両方の歌詞を組み合わせて替え歌したコミックソングが流行した。
『満州開拓の歌』
昭和14年 作詞:本間一咲/作曲:中山晋平
1
大陸色に焼き付けた
五体がっちり先駆者の
誇りに燃えて陽があたる
広い舞台だ この朝だ
やるぞどこまで根かぎり
2
花嫁部隊 今日ははや
モンペ凛々しい野良仕事
駒よいななけ 雲千里
骨を埋める覚悟なりや
住めば都よ 北の空
4
狭い天地で足掻くより
胸もすくよな大原野
拓く男子の心意気
見ろよ日毎に伸びていく
第二の祖国わが楽土
花嫁部隊とは、先に満州に渡って開拓する青年たちに対して、日本で「大陸の花嫁」を募集して、主に写真だけのお見合いで若い女性を集団で行かせたから、部隊の名が付いている。そこから夫婦で一生懸命に土地を開いて子供ももうけ、ここを終生の地としようと落ち着いた頃に日本は敗戦となり、ソ連(ロシア)軍が攻めてきて、あるいはそれまで抑圧されていた地元民の反乱に逢い、大惨劇が生じた。
『太平洋行進曲』
昭和14年(1939)7月発売。作詞:横山正徳/作曲:布施元/歌:藤原義江
海の記念日(7月20日)制定に際して、大阪毎日新聞、東京日日(毎日)新聞は海軍省の後援で懸賞応募を行い、海軍省選定歌となった。
1
海の民なら 男なら
みんな一度は 憧れた
太平洋の 黒潮を
共に勇んで 行ける日が
来たぞ歓喜の 血が燃える
2
今ぞ雄々しく 大陸に
明るい平和 築くとき
太平洋を 乗り越えて
希望涯ない 海の子の
意気を世界に 示すのだ
3
仰ぐ誉の 軍艦旗
舳(みよし)に菊を 戴いて
太平洋を 我が海と
風も輝く この朝だ
伸ばせ皇国(みくに)の 生命線
5(4略)
潮と湧き起つ 感激に
飛沫(しぶき)をあげて 海の子が
太平洋に 船脚を
揃えて進む 響きこそ
興る亜細亜の 雄叫(おたけ)びだ
いかにも勇壮な言葉が散りばめられている歌である。そうした言葉が戦争の現実を覆い隠している面は否めない。時は日中戦争最中であるが、「今ぞ … 明るい平和築くとき」とあるように、このころの一般の人々はそのための戦争であると本当に信じていたようである。軍の広報宣伝の力である。繰り返し繰り返し同じようなことを言われると、最初は疑問に思っていても、人はきっとそうなのかなと思わされてしまう。「伸ばせ皇国の生命線」とは、もっと日本の領土を増やしていこうということである。このように歌の中で「平和」を語っても(そのために現在戦争をしているという前提があって)何の問題もないが、実際に街中で戦争反対を叫ぶ平和運動をすれば、治安維持法によって即座に特高警察に逮捕拘留される時代であった。
この二年数ヶ月後、日本軍は太平洋戦争(大東亜戦争)に突入し、「太平洋を我が海と」しながら、その太平洋その他の海で、艦船を始めとする輸送船等が米軍などに数多く撃沈され、約35万人の命が海の中に消えた。
『九段の母』
昭和14年 作詩:石松秋二/作曲:能代八郎/歌:塩まさる他
1
上野駅から 九段まで
かってしらない じれったさ
杖をたよりに 一日がかり
せがれきたぞや 会いにきた
2
空をつくよな 大鳥居
こんな立派な おやしろに
神とまつられ もったいなさよ
母は泣けます うれしさに
3
両手あわせて ひざまづき
おがむはずみの お念仏
はっと気づいて うろたえました
せがれゆるせよ 田舎もの
4
鳶が鷹の子 うんだよで
いまじゃ果報が 身にあまる
金鵄(きんし)勲章が みせたいばかり
逢いに来たぞや 九段坂
軍国歌謡のど真ん中の歌で、九段とは千代田区九段にある靖国神社のことである。日中戦争で息子を亡くし、靖国に英霊として祀られている息子に田舎から「会いにきた」婦人のことを想定して語っている。この時期から太平洋戦争末まで、戦死者は英霊として称揚され、自動的に靖国神社に祀られることになる。ただ親、特に母親の気持ちになって考えてみれば、本当に英霊となって金鵄勲章をもらったことが、「身にあまる果報」と思えたかどうか、このような形ばかりのものより、たとえ片足を失ってでも息子に生きていて欲しかった、これが親の本心であろう。この時代、戦死の通知を受けても、その場では怨みごとひとつ言えず黙って受け取り、家の奥に入ってあるいは仏壇の前で嗚咽するしかなかった。一人目はともかく、この後の太平洋戦争もあって、二人目あるいは三人目の息子を失った母親は、半狂乱になって決して靖国に足を向けない方もいた。このような国からの押し付けの歌で、母親の心が慰められるわけはない。それでも親として気持ちの持って行き場がなく、靖国に足を向けられる方も当然いて、太平洋戦争開戦によってますます靖国神社は必要な存在となっていく。中には戦後、靖国神社に息子のための花嫁人形を持っていく母親もいた。
なお当時の小学校の生徒は敗戦まで軍歌ばかりを繰り返し歌わされていた。すでに80歳過ぎた女性もこの歌の「母は泣けます うれしさに」など数十曲を諳んじて歌えるという。
ちなみに靖国神社は、明治に入って創建され、戦争とその死者があって成り立っている神社である(ただし、初期の西南戦争で賊軍となった西郷隆盛とその同胞、部下は排除されている)。だから特攻隊を含めた戦死者だけでなく、上級軍人や、軍人でなくとも戦争遂行に貢献したとみなされる上級官僚、政治家まで死後に祀られている。これはいくらなんでも不自然で理屈に合わない。だからいまだに靖国は海外からも問題にされてしまう。靖国は純粋に戦死者を弔う場とすべきである。なお今では自衛隊で事故死した場合もここに祀られるというが、これは理屈上不自然に当たらないが、靖国神社としてはこのままでは(つまり今の戦争がない状態が長く続いては)祀られる人がいなくなってしまう危機感があるのであろう。
『のぼる朝日に照る月に』(銃後家庭強化の歌)
作詞:落久保音市/作曲:山田耕筰
サブタイトルに「銃後家庭強化の歌」とあるが、その主旨で愛国婦人会が詩を公募した。この歌は16年の『銃後の日本大丈夫』(愛国婦人会選定歌)とセットになっている。歌唱はこのころにヒット曲を多く歌った松原操(ミス・コロムビア)である。
1
国に召された感激を
襷の赤に引き締めて
征った我が子は我が夫は
どこの山河進むやら
風にはためく日の丸の
旗を仰げば気が勇む
2
昇る朝日に照る月に
勇士の家と護られて
燃ゆる銃後の真心は
今日も西から東から
高く輝く忠魂の
誉れ思えば血が躍る
3
桜明るい軍国の
栄ある母と謳われて
鎧(よろ)う心の一筋に
今ぞ揺るがぬ鉄の楯
見よや野末の草家にも
恵み遍(あまね)き大御稜威(おおみいつ)
前線で戦う将兵の後衛としての国民、母親や妻に対して「このように心を持ちなさい」という押し付けの歌で、否応なく婦人会で歌わされたであろう。この種の歌は今はもう表には出てこないが、この後もたくさん作られ続けた。誰にも分かるであろうが、母親や妻の心境は息子や夫を戦闘で怪我をしていないか、死んでしまわないかと日々案じ、心配するのが普通であって、「日の丸の旗を仰げば気が勇む」ことなどなく、「忠魂の誉れ」や「軍国の栄ある母」の立場などどうでもよく、ただひたすら生きて帰ってくれと念じていたはずである。「どうして死んで来なかったか」という将校はいたが、そんなことがを吐く母親や妻は一人もいなかっただろうし、もしいたらその顔を見てみたい。そのような人の心を絶対的に無視した戦争とはどれほど普段の人の心からかけ離れ歪んだ心を強いるものか。
『興亜奉公の歌』
昭和14年 作詞:野口米次郎/作曲:信時潔
国民精神総動員運動の一環としてこの14年9月から、毎月1日を興亜奉公日とし、とりわけ学校では国旗掲揚・宮城遥拝・神社参拝・勤労奉仕などの行事が行われるようになった。「全国民は挙って戦場の労苦を偲び自粛自省、これを実際生活の上に具現すると共に興亜の大業を翼賛して、一億一心奉公の誠を効し強力日本建設に向って邁進し、以って恒久実践の源泉たらしむる日となす」という趣旨の下実施された。国民の生活にも各種の規制が設けられた。食生活では「一汁一菜」、児童生徒の弁当は梅干し一つの日の丸弁当とすること、身だしなみでは「女性のパーマネント禁止」「男子学生の長髪禁止」など日常生活を戦時体制化するものだった。これに伴い、飲食・接客業は休業することとなった。その後17年から太平洋戦争(大東亜戦争)開戦を記念して毎月8日を大詔奉戴日として設定し、興亜奉公日はそれに統一され、廃止となる。
1
天に二つの太陽は照らず
理想の道は一つなり
築け東亜の新天地
勇者の歴史君を待つ
2
急げ我が友道遠し
されど朝日の一つ道
暗き荊棘を切り拓き
据えよ文化の支柱石
3
神の興(あた)えし進軍譜
我奉公の腕太し
新しき世の烽火とて
身を焼く霊火空を往く
4
断の一字を肩に掛け
腰に声あり破邪の剣
ああ聞け若人君を呼ぶ
興亜の喇叭音高し
学校では毎月1日に歌われたのであろうが、敗戦の年まで何かあるたびに逐一それに合わせた歌が作られていく。放っておいてくれと言いたいほどに生活や精神の隅々まで政府は干渉してきて、それでもこのころの国民は戦争に勝つためと素直に従った。しかし日中戦争は当初の目論見からすれば泥沼化し、出口が見えない状態で、この後太平洋戦争を含めて6年も続くとは、人々は想像できていなかったであろう。
「築け東亜の新天地」とは、もっと日本の植民地を増やそうということであり、それが「興亜」(アジアの興隆)につながり、我らはそのために「奉公の腕」を太くして「破邪の剣」を振るっていこうということであろう。とにかく日本軍に従わない者は「邪」なのである。
『出征兵士を送る歌』
昭和14年10月発売。 作詞:生田大三郎/作曲:林伊佐緒
これは新聞社でなく、大手出版社である現在の講談社が、陸軍省と提携して9雑誌で歌詞と曲を公募した。これには約13万件近くの応募があり、神戸市の生田大三郎の歌詞が一等となり、作曲の当選は一般応募した歌手の林伊佐緒であった。これまでは戦地に赴く出征兵士を見送る歌は少なく、『露営の歌』などが代用で歌われていたが、歌詞は物悲しく、逆に厭戦気分を煽りかねないとして出征歓送の場においては不適当とされた。こうした背景もあり、逆にこの歌は国民にも軍隊にも受け入れられヒットを飛ばし、続く太平洋戦争(大東亜戦争)期にも愛唱された。
1
我が大君(おおきみ)に召されたる
命栄えある朝ぼらけ
賛へて送る一億の
歓呼は高く天を衝く
いざ征けつはもの日本男児(以下繰返し)
2
華と咲く身の感激を
戎衣(じゅうい)の胸に引き緊めて
正義の軍(いくさ)行くところ
誰か阻まんこの歩武を
3
輝く御旗先立てて
越ゆる勝利の幾山河
無敵日本の武勲(いさおし)を
世界に示す時ぞ今
6(4、5略)
父祖の血汐に色映ゆる
国の誉(ほまれ)の日の丸を
世紀の空に燦然と
揚げて築けや新亜細亜(あじあ)
当時の日本の人口は7千万人を超えたところであり、ここでいう一億は、植民地であった台湾や朝鮮、満州を含めて言っている。「我が大君に召され」、「一億の歓呼」を受け、わが「正義の軍」は、誰にも阻まれず、「無敵日本の武勲を世界に示す時」であり、日の丸を揚げて「新アジア」を築こう、その心意気で出征していきなさい、との歌である。どのような場合も常に大君(天皇)の御意に召されてということが無条件に先にあるわけだが、明治の日清・日露戦争の時のように、満州事変も日中戦争(支那事変)も、天皇による「開戦の詔勅」が出されていない。つまりこの二つの戦争は満州の関東軍の謀略(決して「正義」によるものではないし、その実態は国民には隠され、謀略がはっきりしたのは戦後になってから)によって、しかも天皇の和平への意向を無視して行われたもので、結局日本の軍政府も「始めたものは仕方がない」と現地軍の勝手な行動を事後承諾の形で追認し、そこから日中戦争は泥沼状態となり(米国におけるベトナム戦争に似ている)、それに対する米英の勧告(中国からの撤退を要求)を受け入れず、経済制裁を受け、逆に米英に対し米国真珠湾と英領マレーへ宣戦布告無しの奇襲攻撃を同時に仕掛けて、大戦争へと突入する。今は真珠湾のほうしか取り上げられないが、英領マレーというのは、国内で枯渇しそうになっている資源獲得のためであって、そこからインドネシアに侵攻して、実際にオランダの石油基地を占領(横領)してしまう。
日本国内の出来事・様相
2月:臨時閣議で「国民精神総動員強化方策」を決定、金属回収などの強化を行う。「敵機を受けるか、鋼鉄出すか」という標語のもと、ポスト、ベンチ、広告塔、電灯、マンホール蓋、灰皿、火鉢、痰壷、柵、茶箱、履板、鉄製看板、表示塔、ガス燈など15品目が指定され回収される。また「金製品回収・強制買い上げ」が実施される。役所や職場、町内では隣組制度、その他愛国婦人会や女子青年団の手で実施された。
3月頃から演劇に対する取締が多くなり、歌舞伎座やオペラ館、新派でも上演禁止が相次ぐ。4月には「映画法」が公布され、10月1日に施行、ナチスドイツの映画検閲法を模倣したもので、娯楽映画を禁じ、国策に沿ったものを製作しなくてはならなくなる。
3−4月:文部省の各種通達=大学でも軍事教練を必修と通達/大学予科、高校の教科書許可制強化、24冊を却下。
教学局は大学生や専門学校生に興亜青年勤労報国隊(北支および蒙彊満洲への派 遣隊)参加を通達し、各学校は7−8月の間に交代で満州や中国東北地区に派遣することになった。一般の青年隊も含むが、翌年からは満州建設勤労奉仕隊に統一された。 これは前年の満蒙開拓青少年義勇軍募集に続くものであるが、先行の一般開拓団の労働力不足を補うものであった。一般の青年隊は一年とされ、学生や女子青年団員は短期で、内容は農耕特に除草開墾作業、建設作業(飛行場整備国防道路の建設作業 等) 、技術奉仕作業(鉱工業工場二の技術部門)、特務奉仕作業として医科学生を開拓地及勤労奉仕地において医療並に保健衛 生指導に勤労奉仕する、また獣医斑も開拓地の役畜の医療並に保健指導に勤労奉仕する等であった。
その趣旨は例によって、「東亜新秩序の建設は青年の織耳目なる奉公の精神と大陸に対する深き認識とに侠つこと大なるもあるに鑑み」ともっともらしいもので、このやり方が戦争終盤になって学生・女学生たちを通年勤労動員させるにあたっても「勤労即教育」という欺瞞的な言葉を打ち出すまでになる。
4月1日:三菱重工名古屋飛行機製作所が堀越二郎設計の戦闘機(零式艦上戦闘機ことゼロ戦)の初の試験飛行をする。海軍からの要求は最高速度500km、航続6時間であったが、完成した機体の性能は最高速度533km、航続3500kmという当時の世界中の航空機の中でも群を抜く性能であった。実際に投入されるのは翌年夏以降で、日中戦争においてである。
4月25日:国策ペン部隊が満州に出発。満州開拓に関心のある文学者達が拓務省と連携し活動する。小説や詩文による報国活動が目的。
5月:警視庁が事変が起こると自殺者が激減するという統計を発表。つまり戦争は精神的鍛錬にも有用であるということであろう。しかし、自殺者よりはるかに多い戦死者をどう考えてのことであろうか。
6月7日:明治神宮外苑競技場で満蒙開拓青少年義勇軍(前年既述)2500人の二度目の壮行会・大行進が挙行される。
6月:文部省は男子学生に対し、緊褌一番、長髪禁止、禁酒禁煙を、女子学生には口紅、白粉、頬紅、パーマネントの禁止を通達する。続いて7月、文部省は中等学校以上の生徒学生を勤労奉仕させるのは正課の授業の一環として組み込んだ。
7月1日:政府は国民の持っている金の強制申告制度を設け、指輪、首飾り、カフス、ネクタイピンなど装飾品から、時計、眼鏡、杯、スプーン、ライターなどありとあらゆる金製品を申告することになる、除外されるのは医療用針、避雷針や義歯など。
7月8日:国家総動員法による「国民徴用令」が公布・施行される。兵役の召集令状は「赤紙」だったのに対し、徴用令書は白色で「しろがみ」の召集令状と呼ばれた。この白紙一枚で国民を軍需工場などに動員することができるようになった。徴用第1号は建築技術者で、大部分は「大陸建設部隊」として現地に送られた。この年850人が、翌年5万人、16年25万人、17年31万人と飛躍的に伸びた。日本軍は中国の各地を占領したから、そこに各種の施設を作るのに大忙しであったろう。
同月:徴兵年齢前の15−18歳の若者に対して、陸軍少年兵(戦車兵)が募集され、応募者が殺到、一期生は150名募集のところに8229名が応募があった。当然多くの親は志願に反対したが、それでも押し切って志願する少年たちは多かった。その後定員増と年齢制限を下げて、延べ4000余名の少年が学んだが、そのうち600名余が戦死した。戦車特攻として戦死した少年もいる。
同月:米国は日本の中国支配が強くなっていることを牽制するため、日本に対し日米通商航海条約の破棄を通告、半年後に発効した。翌日、生糸生産市場が暴落する。
8月:厚生省が主催する《国民心身鍛錬運動》が20日までの日程で行われた。
同月:「ニッポン号」が世界一周の為羽田空港を飛び立つ。これは東京と大阪の毎日新聞が企画し、前年の朝日新聞による神風号の東京~ロンドン飛行に対応するもので、羽田を出発の後、北米経由でロサンゼルス、ニューヨーク、南米ブラジルを訪問し、大西洋を横断した後、アフリカのダカール、欧州のローマやギリシャ、そしてインド経由で世界一周を果たした。延べ飛行距離5万2860km、実飛行194時間で周航し10月20日に帰還した。
9月:欧州で第二次世界大戦勃発
同月:興亜奉公日設定。国民精神総動員運動の一環としてこの14年9月から、毎月1日を興亜奉公日とし、国旗掲揚・宮城遥拝・神社参拝・勤労奉仕などが行われた。国民に「戦死者の墓参」「前線への慰問文・慰問袋」「努めて歩く」「緊張して働く」「服装と食事はとくに質素に」「酒と煙草はやめる」「遊興はやめる」「節約して貯金」など8項目の実施が求められ、この日は食生活では「一汁一菜」、弁当は日の丸弁当が推奨された。「中元・歳暮の贈答廃止」なども含め日常生活を戦時体制化するものだった。
同月:厚生省が「結婚十訓」を発表、「産めよ殖やせよ国のため」の標語を掲げる。次々と戦死者が増えて、将来的な戦争も見据えてのことであろう。
10月:石油配給制実施/物価・運賃・賃金を凍結し物価を統制を実施。
11月:陸軍予科士官学校採用で2000人が発表される。競争率は過去最高の12倍であった。
同月:《白米禁止令》が公布される。
12月:植民地朝鮮人の氏名を日本式に創氏改名することを強制法令化した。
同月:15年度の予算概算が決定され、総額は103億6千万、そのうち軍事費66億で64%となった。
*この年には「遂げよ聖戦 興せよ東亜」/「聖戦だ 己殺して国生かせ」のスローガンが街角に出される。
童謡・流行歌(昭和14年:1939)
童謡・唱歌
子供達は学校で軍歌や国が勧める歌を歌わされ、童謡・唱歌は衰退期であった。
『お猿のかごや』 作詞:山上武夫/作曲:海沼 実
—— 「エーッサ エーッサ エッサホイサッサ お猿のかごやだ ホイサッサ 日暮れの山道細い道 小田原提灯ぶらさげて」
『ないしょ話』 作詞:結城よしを/作曲:山口保治(山口は『かわいい魚屋さん』を作曲)
—— 「ないしょ ないしょ ないしょの話は あのねのね にこにこにっこり ね かあちゃん お耳へこっそり あのねのね 坊やのお願い きいてよね」
『仲良し小道』 作詞:三苫やすし/作曲:河村光陽
—— 「仲よし小道は どこの道 いつも学校へ みよちゃんと ランドセル背負(しょ)って 元気よく お歌をうたって 通う道」
歌謡・叙情歌
軍歌が大量に作られ押し付けられる時流の中で、抵抗するように歌謡曲も多く作られたが、中には発禁になる歌もあった。
『追憶』 作詞:古関吉雄/スペイン民謡をもととするとされるが、明治23年に大和田建樹が作詞して唱歌として歌われていた『月みれば』を古関が新たに作詞、戦後も教科書に載り歌い継がれた。
—— 「星影やさしく またたくみ空 仰ぎてさまよい 木陰を行けば 葉うらのそよぎは 思い出さそいて 澄みゆく心に しのばるる昔 ああなつかしその日」
『古き花園』 作詞:サトウハチロー/作曲:早乙女光/歌:二葉あき子
映画『春雷』の主題歌としてヒットした。
—— 「古き花園には 想い出の数々よ 白きバラに涙して 雨が今日も降る 昔によく似た 雨の色はいぶし銀 ああ変りはてた さみしいわが胸」
『白蘭の歌』 作詩:久米正雄/作曲:竹岡信幸/歌:伊藤久男・二葉あき子
—— 「あの山かげにも川辺にも 尊き血潮は染みている その血の中に咲いた花 かぐわし君は白蘭の花」
東宝映画と満洲映画協会製作の国策映画でその主題歌である。長谷川一夫・李香蘭の主演による「大陸三部作」(「白蘭の歌」「支那の夜」「熱砂の誓い」)の第1作目。満州を舞台に、長谷川一夫扮する満鉄の少壮技師と李香蘭扮する満州の富豪の娘のラブロマンスを描いたもの。
『国境の春』 作詞:松村又一/作曲:上原げんと/歌唱:岡晴夫
—— 「遠い故郷は 早や春なれど 此処はソ満の国境い 春というても名のみの春よ 今日も吹雪に日が暮れて 流れ果てなき黒竜江(アム-ル)よ」
日本軍の占領する満州とソ連の国境で冬はマイナス30度にもなるが、この国境近くにも日本の満州開拓団や若者の義勇隊も派遣され、国防を担っていた。
『上海の花売り娘』 作詞:川俣栄一/作曲:上原げんと/歌:岡 晴夫
—— 「紅いランタン仄かに揺れる 宵の上海花売り娘 誰のかたみか可愛い指輪 じっと見つめて優しい瞳 ああ上海の花売り娘」
この種の歌はこの他にも多く出されたが、例えば戦闘で多くの犠牲者を出して占領された国のこの花売り娘は、その戦いで肉親を失い食べるために花を売っているのかもしれず、本当はどのような心で街中を偉そうに闊歩する日本人を見ているかは分からず、誠に身勝手なものの見方であるとしか言いようがない。この後二番煎じで「広東の花売娘」、「南京の花売娘 」が作られる。
『広東ブルース』 作詞:藤浦洸/作曲:服部良一/歌:渡辺はま子
—— 「丘の上からバンドを見れば 赤い灯青い灯夢のいろ ゆれて流れてどこへ行く フラワーボートの恋の歌 胡弓さびしや 盲妹かなし 月の夜更の広東ブルース」
ご当地ソングであるが、日本軍が広東(広州)を占領したことで作られた歌で、渡辺はま子自身も当地の慰問の際に歌った。渡辺は精力的に中国各地の日本軍への慰問に回った。敗戦時にも渡辺は慰問で中国にいたが、日本軍への協力容疑で10ヶ月抑留された。その後彼女は「わたしは歌う戦犯」と語ることもあったが、フィリピンで戦犯として死刑囚となっていた元日本兵たちの救済活動にも身を捧げた。なお服部も敗戦時に中国にいて、3ヶ月抑留されている。
『いとしあの星』 作詞:サトウ・ハチロー/作曲:服部良一/歌:渡辺はま子
—— 「馬車が行く行く 夕風に 青い柳にささやいて いとしこの身は どこまでも きめた心は かわりゃせぬ/暗いランプの灯のかげで たより書くのもなつかしや … いとしあの星あの瞳 今日の占い なんと出る」
日本の満州占領以来流行った大陸をさまよう男の姿を歌ったもので、下の「旅のつばくろ」も同様である。あえて言えば占領された国の人たちの心情など御構いなしで、身勝手とも言えるが、当時の日本の若い男たちは「おれも大陸に行って一旗あげてみたい」と思ったのである。
『旅のつばくろ』 作詞:清水みのる/作曲:倉若晴生/歌:小林千代子
—— 「茜(あか)い夕陽の 他国の空で しのぶ思いはみな同じ 泣いちゃいけない 笑顔をみせて 強く生きるのいつまでも」
『兵隊甚句』 作詞:若杉雄三郎/作曲:中山晋平/歌:市丸・鈴木正夫
—— 「ハァ ドントドントドント ドドントナ 打ち出す弾丸に ヨーイヨーイノ ヨイヨイヨイサテ 今日も勝鬨 日の御旗 日の御旗 サササ ヨーイヨーイノヨイヨイヨイ」
『夜のタンゴ』 作詞:サトー ハチロー/作曲:仁木 他喜雄/歌:淡谷のり子
—— 「夜のとばり紫にゆれ バラの花咲き 甘く香る 白き夢に心ふるわせ 悲しみ忘れて愛を誓う … 踊り続ける夜のタンゴ」
いわゆるコンチネンタルタンゴのドイツの同名曲(この数年前に映画で公開された)とは違うオリジナルの歌である。
『夜のプラットホーム』 作詞:奥野椰子夫/作曲:服部良一/歌:淡谷のり子
—— 「星はまたたき夜ふかく なりわたるなりわたる プラットホームの別れのベルよ さようならさようなら 君いつ帰る/ひとは散りはて ただひとり いつまでも …」
昭和14年(1939)公開の映画『東京の女性』(主演:原節子)の挿入歌として淡谷のり子が吹き込んだが、出征する人物を悲しげに見送る歌詞があり、戦意高揚に反するとして検閲に引っかかり、発禁処分を受けた。これは作詞の奥野が出征兵士を駅のプラットホームで歓送する光景を見つつ、その影に淋しそうに佇んでいる兵士の新妻とおぼしき女性を見て作詞したという。そしてこの発禁処分に怒った服部良一が、2年後のこの16年、ドイツ人に歌詞を英訳させ、「I’ll Be Waiting」(待ち侘びて)として歌を訳者当人に歌わせ、輸入曲としてリリースした。英語が禁止される年であったが、歌手が三国同盟のドイツ人であったことなどで検閲を通ったという。作曲と編曲はR.Hatter(レオ.ハッター=服部良一のもじり)、作詞はVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)というドイツ系のハーフの男性の変名であった。タンゴ調のこの曲はヒットし、戦後もミゲル・カロ楽団によってレコーディングされた。さらに昭和22年に新たに二葉あき子がカバーし、大ヒットした。
『大利根月夜』 作詞:藤田まさと/作曲:長津義司/歌:田端義夫
—— 「あれを御覧と指差す方(かた)に 利根の流れをながれ月 昔笑うてながめた月も 今日は今日は 涙の顔で見る」
『島の船唄』 作詞:清水みのる/作曲:倉若晴生/歌:田端義夫
—— 「小島離れりゃ 船唄で 今日も暮れるか 海の上 いつも俺いらは 波まくら ひとり船頭で くらすのさ」
上の二曲は戦後も本人が歌って残った。
『名月赤城山』 作詞:矢島寵児/作曲:菊地 博/歌:東海林太郎
—— 「男ごころに 男が惚れて 意気がとけ合う 赤城山 澄んだ夜空の まんまる月に 今宵横笛 誰が吹く」
日中戦争開始以降、歌手たちは戦地の兵士への慰問に駆り出されるが、この歌をリクエストする兵士が多かった。その際、将校に軍服姿で歌うことを求められるが、東海林はこれが最高の儀礼服ですと言って、自前の燕尾服姿で歌ったという。これは淡谷のり子がその服が派手だとして将校が着替えるように強要しても、これが私の戦闘服ですと言って堂々と兵士たちの前で歌った話に通じる。むしろ綺麗な服を着た歌手の姿に兵士たちは心を慰められたのではなかろうか。なお、日本の敗戦時、淡谷は山形で慰問活動をしていたが、なんとその3日後、山形の役所から、進駐軍の前で歌ってくれとの要請が来たという。
『懐かしのボレロ』 作詞:藤浦 洸/作曲:服部良一/歌:藤山一郎
—— 「南の国 唄の国 太鼓を打て 拍子をとれ 楽しき今宵 南の星十字星 いとしの瞳に似て 輝けるは愛のひかり … 懐かしのボレロよ」
日本の占領地であった南方の島(第一次世界大戦でドイツから奪った南洋諸島)については、ほぼこのように明るい歌が歌われていた。
『吉良の仁吉』 作詞:萩原四朗/作曲:山下五郎唄/歌:美ち奴
—— 「海道名物 数あれど 三河音頭に 打ち太鼓 ちょいと太田の仁吉どん 後ろ姿の 粋なこと)
『潮来夜船』 作詞:藤田まさと/作曲:倉若晴生/歌:北廉太郎
—— 「雨はやんだに晴れたのに 娘船頭さんなぜ泣くの 独りぐらしが哀しいか 旅のお方が恋しいか)
『純情二重奏』 作詞:西条八十/作曲:万城目正/歌:霧島昇・高峰三枝子
—— 「森の青葉の陰に来て なぜに淋しくあふるる涙 思い切なく母の名呼べば 小鳥こたえぬ亡き母こいし」
『一杯のコーヒーから』 歌詞:藤浦洸/作曲:服部良一/歌:霧島昇 (ミス・コロムビアと)
—— 「一杯のコーヒーから 夢の花咲くこともある 街のテラスの夕暮れに ふたりの胸の灯が ちらりほらりとつきました」
『熱海ブルース』 作詞:佐伯孝夫/作曲:塙 六郎/歌:由利あけみ
—— 「昨日来た街今日また暮れて つきぬ情(おも)いの湯けむりよ 雨の匂いもやさしく甘く 君は湯上り春の顔」
『何日君再來』(いつの日君帰る/When Will You Return?) 作詞:黃嘉謨/作曲:劉雪庵/訳詩:長田恒雄/歌:渡辺はま子
—— 「忘れられない あの面影よ 灯ゆれる この霧の中 二人並んで 寄りそいながら ささやきも ほほえみも 楽しくとけあい 過したあの日 ああいとし君 いつ又帰る 何日君再来」
この2年前の1937年(上海事変の年)に上海で製作された映画『三星伴月』の挿入歌として制作、当時の人気歌手・周璇が歌い大ヒットとなった。1939年には香港で製作された香港映画『孤島天堂』の挿入歌にもなった。これを日本では渡辺はま子が歌い、さらに李香蘭(山口淑子)によっても歌われ、当時の日本でも大ヒットした。戦後も国籍や年代を問わず幅広く歌われている。
ただ、日本人にも愛唱されたことで“亡国の歌” であると中国側から見られていた時期もあり、一方で日本軍にとっては「何日君再來」の「君」の中国語の発音が「軍」のそれと同じことから、抗日戦に敗れ重慶に撤退した「君(=蔣介石)」に向けて「いつ帰ってくるのか」と呼びかける、いわば抗日的な思想を持った歌であると解釈され、やはりこの歌を排斥しようとした。戦後になってからは中国内では「淫靡歌曲」として他の曲とともに禁止され、さらに1949年の中国共産党政権の樹立後には「黃色音楽(歌曲)」としてこの歌は排斥されるようになった。黃色とは元は中国では王族を表す色であり、転じて軟弱なブルジョワジーを指すものとされた。さらに1957年の反右派闘争の際にも、その後の文化大革命時代(1966年−1976年)においても非難を浴び、作曲者の劉雪庵は、「自己批判書」を書かされ、公開の場で詠唱した後、教授職の剥奪、農村下放としての労働収容所に護送され、1975年にほぼ失明となり作業能力の喪失のために北京の自宅に送還された。1979年に口頭で無罪が立証され、いちおうの名誉回復がされたものの、三級職教授待遇と冷遇を受けたままとなった。一方で香港に逃亡した作詞の黃嘉謨は、さしたる批判もないままであった。ある意味、作曲の劉雪庵のメロディがどれだけ人々の心に響くものであったかの証左であろう。
しかもこの歌はここで終わらずに、1980年、テレサ・テン(鄧麗君)が改めて歌って爆発的なヒットとなり、全世界の中国人に愛唱されるチャイナ・メロディの代表曲となっているが、1982–1984年には再び中国共産党政府当局が「反精神汚染」および「反ブルジョア自由化」運動を発動し、この歌は「猥褻な歌曲で、半封建、半植民地の奇形的産物」であるとされて、一時期は輸入・販売・放送などが一切禁止された。それでも人々は当時のカセットテープにコピーし合い、自宅などで密かに聴いていたとは、筆者が実際に中国の人に聞いた話である。今はほぼそのまま許容されているが、良い歌は国境や制度を超えて愛される事実と、それが独裁政権(この場合は中国共産党)の偏狭な頭の政官人には嫉妬されることさえあるということを表している。
昭和15年(1940)
軍事的動向(日中戦争)
各種侵攻作戦
中国における戦闘は続き、前年12月、日本軍が占領した南寧を奪回するため、中国軍は兵力を増強し、猛攻により日本軍は劣勢になった。これに対し翁英作戦を展開していた日本軍が部隊を南寧方面へ転用させ、さらに海上輸送された軍団を加えて軍主力が集結したのちに、1月末から中国軍を撃退する「賓陽作戦」を行う。事前に約100機の航空機で桂林・柳州に空爆して制空権を獲得し、その後も空と地上からの大撃滅戦を展開して賓陽に入城、多くの残存中国軍に対して掃討作戦を行い、2月13日に作戦を終了した。中国軍の遺棄死体2万7041、捕虜1167、日本軍の損害は戦死295、戦傷1307となっている。
5月に入り、日本軍は漢口、運城基地から重慶、成都、宜昌を空襲する作戦を10月末まで実施した。これはほぼ無差別爆撃であり、重慶駐在のアメリカ大使ネルソン・T・ジョンソンは、昭和14年の夏までに66回の空襲を体験したと記録している。15年に入って米国国務長官コーデル・ハルは、ワシントン駐在日本大使に、日本軍飛行機によって爆撃された35以上の中国の都市名と、一部には日時までを明記してあるリストを手渡した。
また日本陸軍は5月から宜昌方面に対する一大反撃作戦を企図した(宜昌作戦)。宜昌は重慶(国民政府の首都)まで約480キロと最も近く、揚子江を遡江する表玄関であり、交通路の要衝でもあった。これは第1期と第2期作戦で行われ、6月には宜昌を完全攻略した。6月24日まで日本軍は、戦死1403人、戦傷4639人、中国軍遺棄死体6万3127、捕虜4797人であった。この5千人近くの捕虜の扱いはどうなったのであろうか。南京の場合、捕虜は作戦の邪魔になるとしてほぼすべて虐殺した。
8月20日、20万の八路軍(中国共産党軍の別称)が、山西省から河北省にかけて日本軍の拠点となっている鉄道、通信網、警備拠点を一斉に奇襲攻撃し、大攻勢をかけた「百団大戦」が展開される。さらに9月22からも第二次攻勢が行われ、日本軍は不意をつかれ、戦死者も含めて占領地の施設に多大な被害を受けた。日本軍はこの華北地域も第二の満州にしようとして「治安粛清作戦」を行なっていて、それが逆に抗日ゲリラ組織の拡大を許していた。この八路軍の作戦による日本側の全損害をまとめた史料はなく(なぜか日本軍が敗れた時の記録はいつもない)、中国側は、日本側拠点2993か所を攻略して、日本兵2万645人と満州国軍その他の親日政権軍将兵5155人(合わせて25800)を死傷させたとし、自軍の損害としても戦死傷者2万2000人を超えると認めている。
11月には日本の中国派遣軍(支那派遣軍)の兵力は20個中隊、総計約73万人であった。中国軍の反攻の意図を察知した日本軍は、豊富な兵器と航空機からの空爆を利用して機先を制して特に湖北省の漢水両岸の中国軍を急襲して撃破する「漢水作戦」を立案、実行した。これは中国軍の退避戦法を受けてほぼ一週間で作戦を終了した。交戦した敵兵力延7万6260、遺棄死体6439、捕虜474だった。対して日本側の損害は戦死132人、戦傷445人であった。
燼滅掃蕩作戦
これまで軽視していた中国共産党軍に対する評価を改め(日本軍は主に蒋介石国民党軍を相手にしていた)、対抗策を強化し、以後「敵性住民」の死滅も認めた報復攻撃をする目的で、10月から共産党八路軍の抗日根拠地に対しては徹底的に破壊焼却し、無人化するという掃討作戦を開始する。これは北支那方面軍第一軍参謀長の田中隆吉少将が「敵根拠地を燼滅掃蕩し敵が将来生存できないようにする」と恐ろしい命令をし、この後の作戦においての基本とされた。一方で中国側はこれを「三光作戦」と呼んだ。三光とは「焼光、殺光、槍光」、つまり焼きつくし、殺しつくし、奪いつくす(焼滅、殺戮、略奪)という非情きわまる戦術であった。仮に一人でも抗日八路軍の兵がいれば、村全部、人も建物も抹殺し無人地帯を作るということで、これはナチスドイツのやり方と極めて似ている。
またこの掃蕩作戦では陸軍の研究機関731部隊により、毒ガスと細菌も使用され、細菌は最初はペスト菌であったが(後にコレラ・赤痢・チフス菌も使う)、その方法はまず菌を持ったノミを穀物や藁に混ぜたものを飛行機から低空で八路軍の抗日根拠地と見なされる村に散布するというやり方で、3分の1以上の住民を失った地区もあり、感染を恐れて村ごと閉鎖されるか、それ以前に日本軍が焼き払った。この作戦はまず浙江省の各地で展開されたが、昭和16年(1941)から本格化し、43年頃までをピ-クとした。それでもこの40年には約14000人が死亡した。以下はその例である。
10月4日:陸軍航空隊は浙江省衢(く)県にペスト菌を散布。
10月5日:浙江省紹興市の諸曁(しょき)県城郊外に低空飛行で白色の糸状のものにペストノミを混ぜて散布した。
10月22日:浙江省の麗水市雲和に飛行機から細菌を撒く。
10月27日:浙江省寧波の繁華街(開明街と中山交路)に低空で穀物や綿に混ぜたペストノミを散布した。それに触れた人々の多くは数日を置かず発病し、3、4日後に死亡するケースが多かった。県政府当局はこのペストを撲滅するために11月末には開明街の137棟の建物と5千㎡が焼き払った。12月2日に終息とされるが、この汚染区の住民約500人は、住む家や生業(商店経営)を失い、路頭に迷うものも多かった。二次感染までの死亡者は1450人とされている。
11月27−28日:10月27日に続き、浙江省金華市の県城(市街地)に一機が飛来し白い粘着質の顆粒状の物質にペスト菌を混ぜたもの(これまでのように感染させたノミを穀物に混ぜたものではない)を低空で散布した。28日にも、2機が南門の外で同様な白い霧状のものを撒布した。すぐに省の衛生班が採取してペスト菌と判断されたが、これに触れた住民が11月3日までに37人死亡した。全体で死亡者160名であったが、早めに防疫が徹底され他所に拡散することはなかった。これにより上記のノミ作戦のほうが効果があると731部隊は判断したという。731部隊は中国住民をこのように「実験台」とみなしていた。
次に毒ガス作戦である。毒ガスについては陸軍は1919年というかなり早い時期から「研究開発」を始めていた。最初に使ったのは日本統治下の台湾での森林の中の原住民の反乱に対する討伐戦で飛行機から投下した。
1月8日、26日に広東省清遠市と雲浮市の羅定に爆撃をしつつ毒ガス弾も投下。17日と別な1日、広西省貴港市の八塘と南寧市の横県に毒ガス弾を投下。
2月16−17日:内モンゴル・臨河の国民党軍陣地に毒ガス弾が投下された。
5月:湖北省襄陽を攻撃中の7、8日および陥落前の30日、日本陸軍は毒ガス弾を投下。
6月13日:3機が山西省晋城市の外山村の抗日軍拠点に毒ガス弾を投下。
9月3日、陝西省安康(興安)県城に36機が爆撃と機銃掃射を加え、焼夷弾、毒ガス弾を合わせて500発以上投下、14日、山西省晋城市を爆撃、毒ガス弾も投下、また6機が陜西省潼関県城南大街を爆撃、また麒麟山の山麓の防空壕に毒ガス弾を投下、7人全員が死亡した。
10月8日、湖北省の宜昌城に日本機は毒ガスを投下、また浙江省杭州市臨安を襲撃、100発余りの爆弾を投下し、そのうち18発の細菌弾を投下、住民16人が直接死亡し、59人が毒ガスの被害を受けて相次いで死亡した。
対外関係の悪化
昭和12年の開戦以来、日本の海陸航空隊はほぼ毎日欠かさず、しかも一日に何度も中国各地に分散して空襲爆撃を繰り返していて、それこそ焦土作戦といってもよいが、15年1月、アメリカは中国の重慶等への空爆を始めとした軍事展開をやめない日本に対し、明治時代に提携した日米通商航海条約破棄を通告してきた。これにより日本は軍事用を主とする物資の入手が困難となった。そこで日本は資源の豊富な仏領インドシナ(現在のベトナム・ラオス・カンボジア地域で仏印とも言う)に注目し、第二次大戦下でフランス軍が手薄になっているのを好機として9月23日、中国南部からのルートを使って、北部仏印への強行進駐する(さらに翌年の7月末に南部仏印へ進駐)。
11月30日、 日本は傀儡政権である汪兆銘南京政府と日華基本条約に調印し、日満華共同宣言を発表、南京政府を中国中央政府として正式承認した。しかしこれは満州国すら承認されていない中での見え透いた自作自演劇であった。当然米英は即座に汪兆銘政府を否認、逆に米国は蒋介石国民政府に借款の追加供与1億ドル、英国と ソ連(ロシア)も借款を供与を発表、すでに日本軍の行動は欧米から100%否定されるものとなっていた。蒋介石はさらにアメリカに航空機の提供、日本本土遠距離爆撃のために当時のB17戦略爆撃機を要請したが、すでに欧州ではナチス・ドイツによる侵攻作戦が脅威となり、米国も英国にその多くを供与することになっていて、余裕がなかった。
軍歌(昭和15年:1940)
『紀元二千六百年』
昭和15年は皇紀(神話上の神武天皇即位を紀元とする)2600年とされ、これを祝して創作された国民歌。前年8月、内閣奉祝会・日本放送協会(NHK)の主宰によって広く国民から「奉祝歌」を募集する企画により、約1万8000の応募の中から、千代田区の増田好生の歌詞が一等に選ばれ、同時に募集した作曲は杉並区在住の音楽教諭森義八郎の曲が採用された。これは当時ラジオから毎日のように流された。ただし公式曲は東京音楽学校に嘱託された「紀元二千六百年頌歌」(信時潔作曲)で、これは荘重で儀式向けのものとしてあった。この他にも非公式に各種作られている。下記の一般向けの奉祝歌は行進曲風となっている。
1
金鵄(きんし)輝く 日本の
栄ある光 身にうけて
いまこそ祝え この朝(あした)
紀元は二千六百年
ああ 一億の胸はなる
2
歓喜あふるる この土を
しっかと我等 踏みしめて
はるかに仰ぐ 大御言(おおみこと)
紀元は二千六百年
ああ 肇国(ちょうこく)の雲青し
3
荒(すさ)ぶ世界に ただ一つ
揺るがぬ御代に 生立(おいた)ちし
感謝は清き 火と燃えて
紀元は二千六百年
ああ 報国の血は勇む
5(4略)
正義凛たる 旗の下
明朗アジア うち建てん
力と意気を 示せ今
紀元は二千六百年
ああ 弥栄(いやさか)の日は上る
あえて言えば、これまでの日本は「金鵄輝く日本の栄ある光」を周辺諸国に押し付けたくて仕方ないほどに驕り高ぶって、明治時代から近隣国に戦争を仕掛けてきたわけであったが、日中戦争に行き詰まり、欧米列強国から非難の対象になって経済制裁を受け始めていた。そうした閉塞状況を打破するのに、紀元二千六百年の祝典は格好の材料であったが、この年に行われるはずだった東京オリンピックを、戦争を優先して返上してしまっていた。
「荒ぶ世界に」とは何のことか、自国が勝手に周囲の国々に侵攻し、荒ぶ世界にしているだけではないのか。それを顧みず「明朗アジアうち建てん」とは勝手な言い草である。また「正義凛たる」とは、戦争に向かう国で、自国を正義としない国はないのであり、これは戦争をする国の常套句である。。
<替え歌>
この日中戦争の長期化により戦費調達のためタバコの値上げが一斉に行われた。そのタバコの銘柄に掛けて替え歌が作られた。どんな時にも庶民の遊び心によって替え歌は作られる。それが以下である。
——「金鵄」上がって15銭/栄えある「光」30銭/「朝日」昇って45銭(あるいは「今こそ来たぜ この値上げ」)/紀元は二千六百年/ああ一億の民は泣く(あるいは「ああ一億の金は減る」)
「金鵄」とは元の銘柄のゴールデンバットが、敵性語使用禁止で和名に変更されたもので、「光」も「朝日」もタバコの銘柄。
また子供たちの縄跳びの遊びでもこの替え歌が作られた。子供用の替え歌は意味を追うことが難しい。
—— 「きんし輝く日本の/アジア アメリカ ヨーロッパ/パッパッパリアの新学期/肉屋の大泥棒/鐘が鳴ります キンコンカン」
昭和15年には商工・農林省から「奢侈(しゃし)品等製造販売制限規則令」が出される。ぜいたく品には上限価格を設け、それを抑え生活必需品の製造、販売に絞る狙いがあった。施行された日にちなんで「七・七禁令」と言われたが、8月になると、国民精神総動員本部によって「ぜいたくは敵だ」の看板が立てられた。本部を構成する愛国婦人会などが街を歩く女性のパーマネントや指輪などまでチェックしていった。さらに10月を期限に東京の銀座などのダンスホールも閉鎖される。
『空の勇士』
昭和15年1月発売。 作詞:大槻一郎/作曲:蔵野今春
前年11月14日を期してレコード会社5社から発売された。昭和14年夏に発生したノモンハン事件を題材に、そのノモンハン航空戦で勇戦した陸軍航空部隊を歌った。作品は読売新聞社が陸軍省の後援で公募し、作詞と作曲は一般人。選定に当たったのは西条八十と北原白秋であった。詞と曲調が合致したようで、大ヒットした。
1
恩賜の煙草をいただいて
あすは死ぬぞと決めた夜は
曠野(あれの)の風もなまぐさく
ぐっとにらんだ敵空に
星が瞬く二つ三つ
2
素破(すは)こそ征(い)けの命一下
さつと羽ばたく荒鷲へ
何を小癪(こしゃく)な群雀(むらすずめ)
腕前見よと体当り
敵が火を噴く墜ちてゆく
5(3、4略)
世界戦史に燦然と
輝く陸の荒鷲へ
今日もうち振る日章旗
無敵の翼 とこしへに
守る亜細亜に栄(さかえ)あれ
「恩賜の煙草」とは、天皇より賜ったタバコで、決戦前などに兵士に配られた。荒鷲は陸海軍の飛行士につけられた愛称。
ノモンハン事件は、昭和14(1939)に既述しているが、ソビエト連邦(ロシア)の衛星国であったモンゴルとの国境線をめぐって発生した戦闘で、初戦は歌にあるように空中戦では勝利したが、中盤以降はソ連軍の巻き返しにあい、結果的に何も得るもののない無駄な消耗戦であったと言われる。つまりこの『空の勇士』は、陸軍が最終的な敗北を隠蔽してなお勝利したように新聞各紙に伝えて報道させた結果、その新聞上の架空の勝利の様子を元にして新聞社は一般人から歌詞を募集した。知らぬは国民ばかりなりで、実はこの飛行隊の航空機も160機、戦車も30輌失っている(相手側の被害も同様に大きいが)。
これはそもそも事件と言われる小さなレベルではなかったが、この「事件」が象徴するように、翌年末の太平洋戦争突入後も、まともな勝利は当初の真珠湾とマレーへの奇襲作戦とその延長上の半年間だけと言ってよく、現に開戦半年後の、本格的なミッドウェー海戦では、日本は(日露戦争時の緻密な作戦により勝利した日本海海戦のようには行かず)敗北し、これも作戦上の失敗と言われるが、やはり国内の報道では勝利のように伝えられた。そして太平洋戦争敗戦までどれだけ軍は隠蔽工作を重ねたか、それが結果的に失敗から学ばずに、(軍歌の中によく出てくるように)大和魂を持ってすれば何とかなるとの精神主義に走り、最終的には起死回生として神風特攻隊を生み、あたら将来のある多くの若い命を「散華」させてしまうのである。そして靖国神社に英霊として祀られ、さらに戦後になって、彼ら英霊の尊い犠牲があって、今日の日本の繁栄があると言われるようになるが、果たして本当にそうなのか、何百万人の犠牲者のうち、多くの夢を持ったまま命を散らした若者や、空襲で焼死したたくさんの子供たちが、もしそのまま生きていたなら、日本はもっと良い国になっていたのではないのか。
『暁に祈る』
昭和15年 作詩:野村俊夫/作曲:古関裕而/歌:伊藤久男 映画の主題歌として作られた。
軍馬を軸に前線の兵士(夫)と銃後の妻を描いた作品。サブタイトルに「征戦愛馬譜」とあるように、軍馬に対する認識と関心を高めるために陸軍省馬政課(当時の課長は栗林忠道騎兵大佐で、のちに硫黄島の戦いで玉砕したことで有名)が指導・後援して作ったもので、中国大陸でロケを行い、実戦部隊を動員して撮影した。陸軍省馬政課肝煎りの映画であったため、主題歌についても作詞を担当した野村俊夫は馬政課員の軍人達によって7回も書き直しを命じられた。その結果、歌い出しの「ああ」が生まれたと言われる。レコードは同じ映画内の 「愛馬花嫁」とのカップリングで映画よりも大ヒットした。
1
ああ あの顔で あの声で
手柄頼むと 妻や子が
ちぎれる程に 振った旗
遠い雲間に また浮かぶ
2
ああ 堂々の 輸送船
さらば祖国よ 栄えあれ
遙かに拝む 宮城の
空に誓った この決意
3
ああ 傷ついた この馬と
飲まず食わずの 日も三日
捧げた生命 これまでと
月の光で 走り書
4
ああ あの山も この川も
赤い忠義の 血がにじむ
故国(くに)まで届け 暁に
あげる興亜の この凱歌
戦場に送られる当時の将兵と妻子との別れの心情を表わしていて、戦場では軍馬とともにある姿である。詩よりも曲はクラシックを学んだ古関裕而によるもので、荘重な響きがあり、戦後も歌い続けられた(彼は戦後の東京オリンピックの入場行進曲も作曲した)。ただし、「ああ あの顔であの声で」がまったく違う意味でよく替え歌で使われた。既述の『愛馬進軍歌』もそうだが、馬をテーマに入れると馬への情が描かれて「戦意高揚」とまでは行かないようである。すでに日中戦争は三年が経ち、「手柄頼むと」という雰囲気はなかったように思われる。多少疲弊感が出てくる中、この翌年末に太平洋戦争に突入する。
ちなみに同じ映画の『愛馬花嫁』(作詞:西条八十/作曲:万城目 正)の歌詞は「ぬしは召されて 皇国(みくに)の勇士 わたしゃ銃後の花嫁御寮 ぬしの形見の可愛い黒馬(あお)に秣(まぐさ)刈りましょ 飼餌(かいば)も煮ましょ」となっている。
『燃ゆる大空』
昭和15年 作詞:佐藤惣之助/作曲:山田耕筰 同じく昭和15年5月公開の映画の主題歌
1
燃ゆる大空 気流だ雲だ
あがるぞ翔(かけ)るぞ 迅風(はやて)の如く
爆音正しく 高度を持して
輝くつばさよ 光華(ひかり)と勢(きそ)え
航空日本 空ゆくわれら
2
機翼どよもす 嵐だ雨だ
燦(きらめ)くプロペラ 真っ先かけて
皇国(みくに)に捧ぐる 雄雄(おお)しき命
無敵のつばさよ 溌剌(はつらつ)挙(こぞ)れ
闘志はつきぬ 精鋭われら
3
地上はるかに 南だ北だ
攻むるも守るも 縦横無尽
戦闘爆撃 第一線に
降魔のつばさよ 電波と奮(ふる)え
東亜の空を 制するわれら
4
空を拓(ひら)かん 希望だ道だ
七つの海原 大陸衝(つ)いて
文化を進むる 意気高らかに
金鵄(きんし)のつばさよ 世界を凌(しの)げ
国威(こくい)をになう 若人われら
帝国陸軍の航空部隊の戦闘機・爆撃機の操縦者として活躍する陸軍少年飛行学校(熊谷)出身の若き下士官達の学校時代の訓練生活から戦地で成長していく姿を描いたもの。皇紀2600年記念として陸軍省・陸軍航空本部全面協力のもと、製作期間3年をかけて(日中戦争開始の時期からであろうか)制作され、実物軍用機947機や装備、および現役空中勤務者らが多く撮影に参加した。翼にカメラを据えつけたり実機の操縦席から撮影されて臨場感のある映画となっている。歌はNHK国民歌謡にも選定され、躍動感ある歌詞と、ドイツの行進曲を思わせる旋律が人気を集めた。
映画の内容は、仲間が戦地で次々と死んでいくので、この歌ほどに「戦意高揚」になっていないという。実際の陸軍部隊の協力があったからこそ、映画は戦争の実情に近くなったかと思われる。
『熱砂の誓い』(建設の歌)
昭和15年 作詞:西條八十/作曲:古賀政男、歌唱:伊藤久男
東宝映画と華北電影公司の合作で、国策映画の主題歌である。映画の主演は長谷川一夫、李香蘭。
1
よろこびあふれる 歌声に
輝け荒野の 黄金(こがね) 雲
夜明けだサ夜明けだ 大陸に
わき立つわれらの 建設の歌
2
あの山この谷 勇ましく
血潮流した 兄弟(はらから)よ
今こそサ微笑め 聞いてくれ
われらの勝ち鬨 建設の歌
4(3略)
砂漠の野菊の 朝露に
燦めき拓ける 愛の路
光はサ昇るよ 東から
世界に轟け 建設の歌
前年に公布された国民徴用令によって「白紙」令状で動員された「大陸建設部隊」のことかと思われる。先の戦いで「血潮流した兄弟」たちが占領した土地に、主要な施設を建設するために行った男たちのための歌である。映画「熱砂の誓い」は当時、中国の日本占領地で上映された。
『月月火水木金金』
昭和15年 作詩:高橋俊策/作曲:江口夜詩 海軍省海軍軍事普及部推薦曲として発売。
土日返上で働くという意味で、もとは大日本帝国海軍で用いられたのが始まり。 海軍は日露戦争勝利後も、「勝って兜の緒を締めよ」とばかりに休日返上で猛訓練を行っていた。ある海軍大佐が、「これでは、まるで月月火水木金金じゃないか」とふと同僚に漏らした言葉が、やがて海軍中に広まったとされる。 当初は全く売れなかったが、NHKのミスによるラジオ放送がきっかけとなり、またたく間に流行歌として広く国民の間に親しまれるようになったという。
1
朝だ夜明けだ 潮の息扱き
うんと吸い込む あかがね色の
胸に若さの 漲る誇り
海の男の 艦隊勤務
月月火水木金金
2
赤い太陽に 流れる汗を
拭いてにっこり 大砲手入れ
太平洋の 波、波、波に
海の男だ 艦隊勤務
月月火水木金金
3
度胸ひとつに 火のような練磨
旗は鳴る鳴る ラッパは響く
行くぞ日の丸 日本の艦だ
海の男の 艦隊勤務
月月火水木金金
4
どんとぶつかる 怒濤の唄に
ゆれる釣床 今宵の夢は
明日の戦さの この腕試し
海の男だ 艦隊勤務
月月火水木金金
同じ軍歌でも、この種の歌は気晴らしになっていいのではないか。とりわけ太平洋戦争中は、国家総動員体制により中学生以上も「勤労即教育」という無理な理屈で授業は奪われ、軍需物資生産のために休みなく工場に駆り出される有様で、全国でも歌われるようになった。戦後の高度成長期も、我々筆者の世代は有給休暇の制度はあったが、誰もまともに取らずに、しばしば土日も出勤して働いた。それで文句をいうものもいず、このような歌を聞いて苦笑しつつ仕事に励んだ。
『愛国子守唄』
昭和15年 作詞:若杉雄三郎/作曲:近松貞
1
坊や良い子だねんねしな
坊やの父さんどこへ行った
あの山越えて海越えて
遠い戦地へ行きました
2
坊やの父さん今頃は
月の露営の仮枕
可愛い坊やの夢を見て
にっこり笑っているでしょう
3
坊や良い子だ母さんと
どんな苦労も忍びましょう
今に大きくなったなら
立派な手柄を立てましょう
(4略)
昭和12年にも同様な子守唄を紹介したが、内容はまったく似たり寄ったりである。時代の雰囲気に縛られて、プロの作詞家も個性が出せていない。この状態があと5年も続く。
この年に今ひとつ、『子守唄 (みんな海の子)』(高橋俊策作詞/中山晋平作曲)がある。歌詞は上記の有名な『月月火水木金金』を手がけた海軍の宣伝活動に従事した軍人であるが、「坊やのお国は海の国…かわいい弟と遊びましょう…みんな海の子…坊やも雄々しい浪育ち」、大きくなったら「海に日の丸立てましょう」となる。
『国民進軍歌』
昭和15年 作詞:下 泰(本名:光元篤之介)/作曲:松田洋平
やはり大阪と東京の毎日新聞が、国民に蹶起(けっき)を呼びかける歌の懸賞公募を行った。2万数千通の応募の中から、尼崎で鉄道員をしていた下の詞が選ばれ、作曲も約四千通の応募の中から岡山市の学校教員松田洋平の曲が選ばれ、同年8月に発表された。B面は二位の『みんな兵士だ弾丸だ』。これは軍事保護院、陸軍省、海軍省撰定となっている。軍事保護院は戦争で急増する戦傷者保護や遺族支援のために設けられた組織で、歌詞はそれに沿っている。
1
この陽 この空 この光
アジヤは明ける 厳かに
燃える希望の 一億が
傷痍の勇士 背に負うて
いま踏みしめる 第一歩
使命にこぞる 進軍だ
2
その血 その肉 その命
国にささげた 忠魂に
尽きぬ感謝の 一億が
ほまれの遺族 守り立てて
いま足音も 高々と
理想つらぬく 進軍だ
3
あの子 あの父 あの夫
皇国の楯と 征きに征く
奮ふ銃後の 一億が
つはものの家 扶(たす)けつつ
いま 前線に 呼応して
声もとどろく 進軍だ
4
わが身 わが意気 わが力
心ひとつに 協せつつ
固い覚悟の 一億が
帰還の勇士 先立てて
いま 大陸に 大洋に
国をあげての 進軍だ
ちなみにこの中で繰り返される一億は、当時の台湾と朝鮮の植民地を合わせて一億人以上になることで使われている。
歌詞としてはそのまま当時の軍歌の内容であるが、言葉がきちんと緩まず繋がっていて、並みのプロ以上によくできていると思われる。一般の仕事に従事している人々の中に、このように光るものを持っている人が多くいるということである。この人も年齢的に問題なければ、この後の太平洋戦争に一兵卒として従軍して、亡くなられたかもしれない。いわゆる戦史などには軍政府の要人などしか出てこないが、数々の才能を持ちながら虚しく死んでいった人々のことにも思いを致すべきである。もちろん子供を何人も残して無念の思いを持って死んだ人たちのこと、そして親を亡くして孤絶した状態の中で戦後の混乱の中を生き延びた多くの孤児たちのことをも。
なおこの歌はこの年の選抜高等学校(当時は中等学校)野球大会入場行進曲に選ばれたが、野球は翌16年から非常時という理由で終戦まで中止される。
日本国内の出来事・様相(昭和15:1940年)
2月、戦時体制下による挙国一致内閣の中で、民政党の斉藤隆夫代議士は衆議院で勇気ある「反軍演説」(支那事変処理に関する質問演説)を行ったが、この正論が(戦争遂行を阻害する言動として)議員除名処分とされた。これに弾みがついたのか、3月、衆議院は「聖戦貫徹決議案」が可決された。聖戦という言葉は日中戦争に突入した頃から使われているが、天皇のご威光をもって、統治する範囲を他の国々にも行き渡らせるための戦争であるという意味づけがあった。そして一度掲げられた「聖戦」という言葉の観念に呪縛され、議論の余地なしとして異論を排除していく姿というのは、それが破滅への道であっても、行くところまで行くしかないという当時日本が置かれていた時代状況を表している。
7月、政府は大東亜共栄圏構想(日本を盟主とするアジアの経済圏建設)を打ち出した。この裏には日本軍の暴走に対して欧米諸国からの経済制裁が始まったことがあり、実質はその資源を中国と東南アジアに求め、供給地域にするという対応策としてであった。 また基本国策要綱で「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国(建国)の大精神」と唱えた。これはかって神武天皇が八紘を統一して日本の国をつくったという神話にちなんだ言葉で、中国(満州も含む)や東南アジアをも八紘の範囲に組み込んで一つの宇(いえ)とするという構想であった。そうして「聖戦」、「大東亜共栄圏」、「八紘一宇」という一連の理念的な言葉が、軍政府自身と国民の思考力・判断力を奪っていき、文化人たちが一致協力して作った軍歌もその結果である。
9月、電撃的に日独伊三国同盟が締結される。この同盟が米英の心象をさらに悪くし、30日、米国は鉄鋼・屑鉄の対日輸出を禁止する法令を発布。
10月、国会内に与野党が大団結した「大政翼賛会」が結成され、与野党の政党が消失する。これにより戦争に対する異論(反対論)が完全に封じられてしまった。翼賛会は地方の組織と産業界や青年団も巻き込んだ。町内では隣組という制度が内部に形成され、10軒程度を一組とし、戦時下の住民動員や、統制物の配給、空襲を想定して防空活動などを行う傍ら、住民同士の思想統制や相互監視の役目も担った。翼賛会の文化部長には当時の文芸界の重鎮岸田國士が就任、日本文芸家協会も新体制の日本文芸中央会を発足させるなど、各種団体(例えば俳句協会など)も積極的に運動に参加した。物事を客観的に捉えてその見方を発信するべき文化人が、これではどうしよもない時代となっていった。
この時期は食糧も軍隊優先で、巷では食糧不足が深刻になり、農村の増産体制が敷かれるが、一方で男手を戦地に送っているから、その代わりに学生や中学生以上を農村に駆り出すことになる。そうした事情もあって日本が占領していた満州に、主に貧しい農村から集団移住が始まっていて、これに若い青年たちが加わり、この年満州への定住者約86万人に上っている。
<国内の出来事一覧>
1月:調理用及び医療用以外の暖房電熱器、家庭用電気冷蔵庫、電気風呂などの電気器具の使用が禁止される。
同月:後楽園球場が炭焼き場に、甲子園球場が木炭倉庫になる。
4月:米、みそ、醤油、塩、マッチ、木炭、砂糖などの日用品切符制決定、6大都市で実施。
同月:陸軍の少年飛行兵の制度が改めて作られ、相応の教育期間を経れば下士官候補になることができるとした。この年、各地に陸軍飛行学校が増設されて一挙に10倍もの採用者を増やすが、応募者もそれ以上にあった。この出身者が陸軍航空の中核となっていき、多くの特攻隊員が生まれる。
5月:修学旅行が禁止されるが、学校によっては修練旅行などの名前に変えて行われる場合があった。
7月:「ぜいたく禁止令」(奢侈品等製造販売制限規則)が発令。西陣織などの豪華な着物地や羽織地や、首飾りや耳飾り、ダイヤやルビー、金銀品や象牙製品の製造が禁止される。高級果物などもぜいたく品とされた。続いて「贅沢は敵だ!」の立て看板が東京の各地に出され、ぜいたく監視隊なども登場する。
8月:この年、各学校に軍隊の組織に倣った報国隊を作らせ、特に大学生の報国隊を満洲、北支(中国北部)、蒙疆(もうきょう:内モンゴルのうち旧察哈爾省・綏遠省一帯を指す)各地に交代で派遣した。また中高生男女には夏休みに勤労奉仕が義務付けられた。 同月:プロテスタント系キリスト教会が弾圧される。カトリック系の日本基督教団は「大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」を発表、「聖戦」に協力していく。また仏教界においても多くの仏教者が戦争を聖戦として肯定した。
同月:キリスト教社会運動家賀川豊彦が反戦平和論により憲兵隊に拘引される。
9月:講談落語協会の艶笑、博徒、毒婦、白波物(盗賊を主人公とした一連の世話物の通称)が公演禁止となる。
同月:敵性語追放の流れで野球などのスポーツにも英語の使用禁止が適用され、「ストライク」→「よし」「正球」、「ボール」→「だめ」「悪球」、「アウト」→「ひけ」「無為」、「セーフ」→「よし」「安全」、フライ→洋天などとされた。当時日本で活躍していたスタルヒン投手は須田博と改名された。また戦時下に合わせて野球の監督を「教士」、選手を「戦士」としたという。他に音楽のドレミファソラシド→ハニホヘトイロハは母音が全く合っていないので現場では困ったであろう。
同月:宝塚の雑誌『歌劇』が「不要不急」雑誌として217号をもって廃刊。宝塚唱舞奉仕隊が結成され、宝塚移動音楽慰問隊として慰問活動に動員される。
10月:東京でダンスホール完全閉鎖
11月:10日、この年は日本書紀の神話にある神武天皇が即位してから2600年と銘打ち、日本全国でその奉祝行事がなされた。宮城前広場では昭和天皇皇后出席のもとに約5万人が集まり2600年奉祝式典が行われた。11月14日まで関連行事が繰り広げられて国民の祝賀ムードは最高潮に達したようみ見えた。行事終了後に一斉に貼られた大政翼賛会のポスターは「祝い終つた さあ働こう!」であり、これを境に政府は再び引き締めに転じ、戦時下の国民生活はますます厳しさを増していく。なおこの奉祝行事は植民地台湾や朝鮮、満州でも行われている。
実はこの皇紀2600年には、東京オリンピックと万国博覧会が予定されていた。しかし日中戦争に突入し、国際的な非難からボイコットを表明する国も現れ、それに加えて物資が軍需へ優先されるため、資材不足が表面化し、この2年前にオリンピックと万博と札幌冬季オリンピックを一度に返上してしまった。本来この2600年にこそ格好の国威発揚の場としてオリンピックを招致したが、中国の領土拡大と利権が大事と、日本は戦争継続をを選んだ。この4年前はナチスドイツの興隆時に、ベルリンオリンピックが開かれているが、まだナチスドイツの脅威が表に出ていない時であった。
ちなみにこの戦争の結果、日本は戦後すぐにはオリンピックには参加できず、参加できたのは7年後の1952年であった。このころは日本は水泳が最も強い時代であったが、16年間出場できず、さぞ選手たちは無念の思いを抱いたであろう。軍政府はこの日中戦争を「東洋平和」のための「正義」の戦争と謳っていたが、平和の祭典オリンピックを足蹴にするほどに平和とは程遠い戦争優先策が取られたわけである。
◯ 日中戦争以降、中国で多くの戦死者が出始めていたから、徴兵が強化されていたが、この頃に無神経きわまるスローガンが採用されている —— 「笑顔で受け取る 召集令」/「りっぱな戦死と えがおの老母」そして「初湯(うぶゆ)から御楯(みたて)と願う国の母」(御楯=天皇の盾となる皇軍兵士)とは、子を国に捧げるつもりで産めということである。
童謡・流行歌(昭和15年:1940)
童謡・唱歌
この年取り上げられる新たな童謡はこの歌一つだけである。作詞家も作曲家もみんな軍歌のほうに意識を向けられた時代となっていた。
『りんごのひとりごと』 作詞:武内俊子/作曲:河村光陽
—— 「私は真っ赤なりんごです お国は寒い北の国 りんご畑の晴れた日に 箱につめられ汽車ぽっぽ 町の市場へつきました りんごりんごりんご りんごかわいい ひとりごと」
歌謡・叙情歌・戦時歌謡
軍歌全盛の時代となっていくが、一方で叙情的な歌はこの年はまだ命脈を保っていた。
『誰か故郷を想わざる』 作詞:西條八十/作曲:古賀政男/歌:霧島昇
—— 「花摘む野辺に 日は落ちて みんなで肩を くみながら 唄をうたった 帰り道 幼馴染の あの友この友 ああ 誰か故郷を想わざる / ひとりの姉が 嫁ぐ夜に 小川の岸で さみしさに 泣いた涙の なつかしさ 幼馴染の あの山この川 ああ 誰か故郷を想わざる」
これは当初あまり世間に受けず、売れないレコードは戦地への慰問用としてすべて送られた。ところがこれは中国の戦地で望郷の想いやみがたい兵士の間で大ヒットし、慰問に訪れる歌手にリクエストがあっても、まだ知らない歌手も多かった。そこから歌手たちは覚えて行くようになった。慰問に訪れた渡辺はま子がこれを歌うと、居合わせた大将から末端の兵士まで等しく泣き、渡辺も思わずもらい泣きしてしまったというエピソードもある。そして歌のヒットにより、後に同名映画が公開された。これは西條、古賀と霧島にとって代表的なヒット曲となり、戦後も懐メロ番組などで必ずといっていいほど歌われた。
この二年後の1942年、西條、古賀、霧島のコンビで『打倒米英』、『陥したぞシンガポール』などの歌を出したが(おそらく軍部の要請からであろう)、世間に受けるわけもなかった。無理をして戦意高揚の歌ばかり聞かされても、現実の長引く戦争の前の人の心には限界がある。作詞家も作曲家も自然的な発露から作った歌でないと心が入らず、いい歌は生まれない。
『高原の旅愁』 作詞:関沢潤一郎/作曲:鈴木義章/歌:伊藤久男
—— 「むかしの夢の 懐かしく 訪ね来たりし 信濃路の 山よ小川よ また森よ 姿昔のままなれど なぜにか君の影もなし」
『お島千太郎旅唄』 作詩:西条八十/作曲:奥山貞吉/歌:伊藤久男・二葉あき子
—— 「春の嵐に 散り行く花か 風にまかせた 身は旅役者 更けて流しの 三味の音聞けば 捨てた故郷に また涙」
『森の小径』 作詞:佐伯孝夫/作曲:灰田晴彦/唄:灰田勝彦
—— 「ほろほろこぼれる 白い花を うけて泣いていた 愛らしいあなたよ / 憶えているかい 森の小径 僕もかなしくて 青い空仰いだ」
『小雨の丘』 作詞:サトウ・ハチロー/作曲:服部良一/歌唱:小夜福子
—— 「雨が静かに降る 日暮れの町外れ そぼ降る小雨に ぬれゆくわが胸 夢のような小糠雨 亡き母の囁き 一人聞く一人聞く 寂しき胸に」
『地球の上に朝が来る』 作詞作曲:川田義雄
—— 「地球の上に朝が来る その裏側は夜だろう 西の国ならヨーロッパ 東の国は東洋の 富士と筑波の間(あい)に流るる隅田川 芝で生まれて神田で育ち 今じゃ浅草名物で ギター鳴らして歌うたい」
川田義雄とミルクブラザースの歌謡漫談の舞台出演時のテーマソングとして唄われ、それがレコード化され大ヒットした。
『春よいずこ』 作詞:西条八十/作曲:古賀政男/歌:二葉あき子・藤山一郎
—— 「おもいでは おもいでは 青い背広の 涙ににじむ 紅のあと ああ想い切ない 幻の 春はいずこぞ 雨が降る / あきらめて あきらめて」
同名映画の主題歌で、男女の別れ歌であるが、出征のためかどうかは歌詞ではわからない。歌はヒットした。B面は同じコンビの『なつかしの歌声』となっている。
『目ン無い千鳥』 作詞:サトウ・ハチロー/作曲:古賀政男/歌:霧島昇・ミス・コロムビア
—— 「目ン無い千鳥の 高島田 見えぬ鏡に いたわしや 曇る今宵の 金屏風 誰のとがやら 罪じゃやら」
山田五十鈴主演の映画「新妻鏡」の主題歌で、A面は『新妻鏡』であったが、B面のこちらの方がヒットした。戦後もカバー曲が歌われた。
『湖畔の宿』 作詞:佐藤惣之助/作曲:服部良一/歌:高峰三枝子
当時のスター女優高峰三枝子が歌い大ヒットした。ただ、悲哀に満ちた詞の内容と曲調とが日中戦争戦時下の時勢に適さないとして、まもなく発売禁止となった。
—— 「山の淋しい湖に ひとり来たのも悲しい心 胸の痛みにたえかねて 昨日の夢と炊き捨てる 古い手紙のうすけむり」
失恋して一人旅で湖畔の宿に来て、美しい自然に癒される内容であるが、殺伐とした戦場ではむしろかけ離れた世界であり、そのこと自体が心を癒す糧になったのではないかと思われる。軍当局からするとそのような軟弱な精神で銃後が護れるかということで発禁にしたらしい。しかし本人が前線に慰問に行くと多くのリクエストがあったという。戦争終盤では、明日出撃して逝く特攻隊員の前でも高峰は歌ったという。
『蘇州夜曲』 作詞:西條八十/作曲:服部良一/歌:霧島昇
李香蘭主演の映画「支那の夜」の劇中歌として発表された(先に『支那の夜』の歌がヒットしてこの年に映画が作られた)。映画では李香蘭(山口淑子)が歌ったが、その後レコードでは霧島昇や渡辺はま子も歌ってヒット曲となった。
—— 「君がみ胸に 抱かれてきくは 夢の船唄 鳥の唄 水の蘇州の 花散る春を 惜しむか柳がすすり泣く / 花をうかべて 流れる水の 明日のゆくえは 知らねども こよい映(うつ)した ふたりの姿 消えてくれるな いつまでも」
蘇州は現在の江蘇州で、上海の西、浙江省の北に位置する。運河による水運が生活に溶け込んでいる街で風光明媚で知られる。実は服部は2年前に杭州に慰問で訪れ、西湖を遊覧中にこのメロディが浮かび、西條の詩を見てこのメロディを乗せた。この歌は数多くの日本人歌手がカバーし、今だに歌い継がれている名曲であるが、中国本土では日本軍占領下の日本人による音楽ということで決して好まれない。事実、戦前の歌も含めて日本の美しいメロディーの歌を数々カバーしている台湾出身の歌姫テレサ・テン(鄧麗君)は、彼女の歌唱のイメージからしても当然これを取り上げて歌っているだろうと思われ、調べてみるとこの歌は歌っていない(当然『支那の夜』も歌っていない)。これはもとは中国大陸のルーツを持つテレサ・テンのけじめであろう。こうした背景は知っておくべきであるが、他にも多く日本軍が占領した地域に寄せる歌が作られ、その歌の醸し出す情緒により、占領下の中国(ばかりではなく)の住民の苦難は日本国民の前には覆い隠されていたわけである。
*以下はこの時期の戦争に関連した歌、戦時歌謡である。
『南洋航路』 作詞:若杉雄三郎/作曲:島口駒夫/歌:新田八郎
—— 「紅い夕日が波間に沈む 果ては何処か水平線よ 今日もはるばる南洋航路 男船乗りかもめ鳥」
後に『ラバウル小唄』(さらばラバウルよ 又来るまでは …)として替え歌で広まり、戦後にも残った元歌である。
『戦場撫子』 作詞:松村又一/作曲:江口夜詩/歌:青葉笙子
—— 「昨日の白衣脱ぎ捨てて あなたはまたも戦場へ 再び握る銃と剣 雄々しいお姿鉄兜 / あなたを送る病院の …」
戦場撫子とは看護婦のことであるが、戦場に向かう兵士を鼓舞しようとするわざとらしい詩である
『別れ船』 作詞:清水みのる/作曲:倉若晴生/歌:田端義夫
—— 「名残りつきないはてしない 別れ出船のかねがなる 思いなおしてあきらめて 夢は潮路に捨ててゆく / 望み遥かな波の背に 誓う心も君ゆえさ せめて時節の来るまでは 故郷(くに)で便りを待つがよい」(1番と3番)
この歌は出征する兵士の気持ちを表わすものであろう。田端義夫は船に関する歌でこの後もヒット曲を歌っている。同じ年に次の歌がある。
『旅出の歌』 作詞:大木敦夫/作曲:江口夜詩/歌:田端義夫
—— 「雲は流れるみどりは煙る 遠い希望の 陽はまねく 何が悲しと咽ぶか心 明日は旅出というものを / … 鳴けよ雀よ 別れの歌を 明日は異国の空にきく」
これも旅出=出征の歌である。田端は終戦の翌年、『かえり船』(作詞:清水みのる、作曲:倉若晴生)と題して戦地から日本に帰還する兵士の歌を歌い、大ヒットした。
『隣組』 作詞:岡本一平/作曲:飯田信夫/歌:徳山たまき
—— 「とんとん とんからりと 隣組 格子を開ければ 顔馴染み 廻して頂戴 回覧板 知らせられたり 知らせたり」
隣組は戦時体制による町内での連絡や防空体制のため、あるいはお互いの監視のために作られた。曲は軽い調子で歌いやすく、ヒットした。
『紅い睡蓮』 作詞:西条八十/作曲:古賀政男/歌:李香蘭(山口淑子)
国策映画「熱砂の誓い」の中で歌われた『建設の歌』(上記)と、この『紅い睡蓮』を別に李香蘭が劇中で歌った。李香蘭が出したレコードとしては、初のヒットとなった曲。
—— 「花の北京の灯し頃を わたしゃ夢見る支那娘 芙蓉散れ散れ 君待つ窓に 花は九つ 花は九つ 願いはひとつ」
戦後もこの歌は多くの歌手にカバーされているが、当時中国で育ち、中国人として活動していた山口としては、この歌詞の中の「わたしゃ夢見る支那娘」にはわだかまりがあったと思われる。
『興亜三人娘』 作詞:サトウハチロー/作曲:古賀政男/歌:奥山彩子・李香蘭・白光
—— 「色も香も芳し菊の花 窓に開いた昨日今日 誰に便りを持たせよか 心楽しきこの便り/夢にさえ 浮かべて嬉し蘭の花 … 霜をうけ 雪をくぐりて梅の花 … 三つの花 寄りそい共に手を取りて … 楽しき興亜の 友の鐘」
日本を菊、満州を蘭、支那(中国)を梅に例えて三人娘による興亜(アジアの興隆という意味)を歌うという綺麗事の内容である。この歌はこの昭和15年の年末に発表されたが、太平洋戦争開戦の一年前で、日中戦争はこの歌に反して泥沼状態にあり、米英から中国侵略から撤退するようにとの圧力(日本への石油輸出禁止などの経済制裁などによる)が強まっていた。
◯ 内務省は敵性のカタカナを使っている芸能人の名前を日本式に変えさせた。ディック・ミネ→三根耕一、ミス・コロンビア→松原操など。
昭和16年(1941年)
軍事的背景
終わりの見えない中国における戦争
中国における日本軍の戦線は局所的に継続されるが、中国軍内の「国共合作」はしばしば衝突を起こし、日本軍に付け入る隙を与えていた。
【予南作戦】(1/20−2/12)
河南省南部で行われた作戦で、中国軍に与えた死傷者は約1万6000に達したとされ、対して日本軍の損害は軽微とされるが実数不明。
【錦江作戦】(3/15−4/2)
江西省で行われたが、反撃を受けて日本軍は撃退された。中国側は「空前の大勝利」と宣伝し、「日本軍に死傷約1万5000余りの損害を与え、捕虜17名、その他多数の武器を捕獲」したとされ、「中国軍の死傷者1万7119名、失踪2814名」(相対的に中国軍の損害の方が多い)となっている。(日本軍の記録はないが、敗残した場合、日本側の記録はしばしば公表されない)
こうした一進一退の攻防の中で、4月中旬より重慶の国民政府と直接の対話ができないため(日本が重慶政府を相手としないと宣言し、南京に傀儡政権を作ったため)、日本はアメリカの仲介による日中戦争解決を要望したが、アメリカは交渉する前提として四原則(中国の領土保全と主権尊重、他国に対する内政不干渉、通商上の機会均等を含む平等原則、平和的手段により変更される場合を除き太平洋の現状維持)を提示し、しかし日本は受け入れがたいとして頓挫した。5月、逆に米国は対中武器貸与法発動し、中国を支援する。
【江北作戦】(5/6−5/25)
日本軍は予南作戦に続く短期的な作戦として、夏以降に予定されている長沙作戦のための「訓練の目的を兼ねた」作戦を湖北省で展開した。戦果は小さく、日本軍の損害は戦死115人、戦傷375人で、中国軍の損害不明。訓練の目的というだけで、死傷者を500人単位で出すという、人の命を将棋の駒のように扱っていることがわかる。
【中原会戦】(百号作戦:5/7−6/15)
山西省南部の山岳地帯を拠点にしている中国軍の包囲殲滅を狙い、掃討作戦によって大きな戦果を上げた。日本軍の損害は戦死673名、負傷2292名(戦死傷者約7000人との説もある)、中国軍に与えた損害は遺棄死体約4万2000、捕虜約3万5000名を数えたとされる。ただし、遺棄死体というのは日本側で見た概算であって、正確ではない。いずれにしろこのように相手側の死者が多いのは、日清・日露戦争当時のような歩兵と砲兵による戦ではなく、戦車連隊や航空隊を使ったことによる。またこれは国民政府軍と共産党軍のうち、前者を相手とした戦いで、日本軍が撤退した後には逆に共産党軍勢力が次第に浸透していった。
【重慶大空襲とその後】(102号作戦:5月−8月末)
前年の5/17−9/5までの重慶への大空襲(101号作戦)に続き、日中戦争の早期終結を目的に、首都重慶に対して改めて連続的に激しい空襲が行われた。しかし効果が薄く無意味かつ非人道的行為であるとして、絨毯爆撃に強く反対する声があり、この指揮をしつつ自分も搭乗して爆撃に参加していた遠藤三郎陸軍少将が中止を主張、当面陸軍は重慶への爆撃を中止することとなったと表向きには言われている。中国における爆撃の主力を担っていた海軍航空隊は、9月に入ると中国から撤退する。実は日本軍はすでに米英との開戦を想定し、その準備のための撤退であった。今さら重慶にかぎって「非人道的行為」とは、これまでの膨大な重慶以外への爆撃量からすれば言い訳がましく白々しい。重慶はすでに巨大な地下壕を建設し、政府組織も地下にあり、爆撃の大半は無駄であったという理由が大きいであろう。実際に海軍撤退後は陸軍航空隊が重慶以外の各地に無差別爆撃を続けていくが、以下の各種作戦の裏ではほぼ事前の爆撃が行われていた(筆者の「中国における日本軍の年月日別空爆全記録」参照)。そしてこの後12月8日に海軍は勇躍しハワイ真珠湾を奇襲攻撃する。ちなみにこの16年8月19日の重慶への爆撃には完成したばかりの零式艦上戦闘機(ゼロ戦)が初めて参加している。
【第一次長沙作戦】(9/5−11/6)
重慶政府を転覆させ、この日中戦争の早期終結のきっかけをつくるためにと、日本軍はかねてより湖南省東部の長沙への侵攻を計画していた。 これに対し中国軍は猛反撃し、日本軍は各地でしばしば劣勢に立たされた。その宜昌で日本軍は最後の手段として化学兵器(毒ガス)による攻撃を実行した。10月7日から10月11日にかけて、山砲兵が中心となって「あか弾(嘔吐性ガス)」1500発、「きい弾(糜爛性ガス)」1000発を発射した。その結果、「敵の攻撃企図を挫折」させ「ガスの効果は極めて大なりし」と分析した。これに対し10月27日、国民政府は宜昌戦で日本軍により毒ガス(特に糜爛性ガス)が使用され、約1350名が被毒、うち750名が死亡したことを国際的に告発した。この事件は太平洋戦争開戦2ヶ月前の日米交渉が難航していた時期ということもあり、アメリカ側を余計に硬化させた。空爆作戦にしろ毒ガスや細菌の使用(前年10月には細菌作戦をしている)にしろ、日本軍は世界に先駆けてこれらをやっていたことになる。この長沙作戦では、中国軍の遺棄死体5万4000(日本軍の推定)、捕虜4300人、対して日本側の「損害」は戦死戦傷1万3000人となっている。
【第二次長沙作戦】(12/24−翌年1/16)
第一次で作戦目的を達成したものの、中国側に与えた打撃は限定されたものであったとして、再度第二次長沙作戦を決行した。12月8日に太平洋戦争が開戦されていたが、中国戦線を重く見る阿南惟幾中将は改めて進撃し、弾薬・食料などの十分な準備もないまま長沙へ進攻したため、中国軍の頑強な抵抗もあって撤退し、中国側は戦勝を喧伝した。これによる日本側の戦死1591、戦傷4412人、中国側の戦死3万3941人となっていて、いずれにしろ中国側の被害は大きい。
【毒ガス・細菌作戦】
9月8−9日、湖北省の宜昌における陸軍の戦闘で、毒ガス(イペリット)弾を投下。
11月4日:湖南省の常徳へ穀物に混ぜたペスト菌を空から散布した。これは満州の731部隊が製造したもので、一次感染は310人、二次は2500人としている。翌年には三次感染が広域に拡大し、終息するまでに死者は7643人に及んだとされている。
11月15日、河南省鄭州の韓洞・胡洞に毒ガス・イペリット弾を投下。
12月31日、河南省鄭州市の中牟の中国軍守備陣地に毒ガス・イペリット弾を投下、70人余りが被毒した。
太平洋戦争突入(12月8日)
7月2日の御前会議において日本政府は独ソ戦争に呼応した対ソ戦準備と、前年の北部仏印進駐に続いて南部仏印(フランス領インドシナ)進駐を決定した。それを察知した米国は日本に警告、25日、在米日本資産を凍結、続いて28日、英国が在英日本資産凍結とともに日英通商条約廃棄を通告、しかし同日に日本軍は南部仏印進駐を開始した。8月1日、米国は「すべての侵略国」への石油輸出禁止の方針のもと、日本に対して石油輸出の全面禁止という経済制裁を発令し、イギリスとオランダもただちに同調した。これで米国からの必要物資は全て閉ざされ、国内物資の困窮が一層強まった。石油禁輸について日本はまったく想定しておらず、オランダ領東インド(蘭印=主にインドネシアだが、大きな石油基地を有していた)との交渉も決裂した。
対米英戦争を回避したい近衛首相は中国撤兵による対米交渉に道を求めたが、これに反対する東條英機陸相は、近衛に退陣を要求、10月に近衛内閣は総辞職し、後継に東條内閣が18日に成立する。11月1日の御前会議で、「大東亜新秩序を建設」するための米英蘭戦争を提起するとともに、対米交渉が12月1日までに成功すれば武力発動を中止するという案が採択された。しかしアメリカ側の最終提案は日本の一切の陸海空軍兵力を中国、インドシナから撤収することであって、これを受け入れがたいとして1日の御前会議において12月8日の開戦が最終決定された。昭和天皇はあくまで戦争を避けるように望んだが(天皇は命令はできない)、軍部の奢りと理屈の前に屈した形となった。
【香港攻略作戦】(12/8−12/25)
これは真珠湾奇襲攻撃などと同時並行して行われた戦闘である。香港は1842年(天保13年)よりイギリスが占領し、世界有数の大国際港になっていた。1937年(昭和12年)の日中戦争からは、蒋介石率いる中華民国は香港に諸外国との連絡を維持するための窓口を持ち、物資の中継基地としても重要な地位を占めていたから、日本軍にとって香港の占領は意味があった。香港は九龍半島中央部一帯に要塞線があったが、そこにある貯水池から香港に水道水が供給され、その弱点を日本軍は狙った。8日夜明け、日本軍飛行隊は香港の飛行場のイギリス軍機に空爆を加えつつ攻撃、九龍半島は予定より早く13日までに陥落した。この戦闘で日本軍の戦死22名、戦傷121名、イギリス軍は遺棄死体165、捕虜49名を数えた。続けて香港島への給水を断ち、香港市街は全面断水となった。その結果25日夕、香港西部の陣地にあったヤング総督が白旗を掲げた。香港島内における戦いで日本軍は戦死683、戦傷1413名であり、イギリス軍の戦死は1555、捕虜は1万1000名(その内訳はイギリス人が5000名、インド人が4000名、カナダ人が2000名)であった。なお香港の捕虜の多くは、日本や台湾に移送され、人手不足となった軍需産業を補うための要員とされた。
【真珠湾その他への同時奇襲攻撃】(12月8日)
日本軍はすでに数ヶ月以上前より開戦に向けて周到な準備をしていて、現在一般的にはハワイ真珠湾奇襲攻撃のことしか語られないが、上記の香港攻略作戦も含めて12月8日、真珠湾の他にマレー半島、フィリピン(空爆)、グアム島などへ攻撃、開戦を予期していなかったアメリカ軍やイギリス軍に対し連戦連勝で多大な損害を与えた。実は日中戦争開始以来、海軍の航空隊は何年も主力となって爆撃を続けていたが、9月には中国から撤退していて(その後は陸軍の航空隊が爆撃を続けた)、その爆撃部隊を真珠湾攻撃などに回していた。つまり対米英への開戦は夏場より用意されていたということになる。この同時多発の奇襲攻撃成功により日本の国内は興奮の坩堝となった。マレー半島への上陸は、当時の友好国であるタイへの進駐とオランダ領インドネシアの大きな石油基地を奪う目的があり、翌年早々に成功する。
ちなみに昭和6年(1931年)の満州事変からこの太平洋戦争(軍政府は開始後に「大東亜戦争」と呼んだ)を含めて、現在ではアジア・太平洋戦争(あるいは15年戦争)と呼ぶ。
またこの開戦と同時に、主に米英系の教会や修道院、ミッションスクールなどのキリスト教関連の人々、つまり敵国人とされる人々は、日本各地に設置された合計34ヵ所の収容所に抑留された。ただ、収容所として指定された施設の多くは、その教会系の施設であったから、軟禁の一種であった。外交官やその家族は、それぞれの大使館や自宅などに軟禁された状態でその後の交換船による帰国の機会を待った。スパイ活動として疑われることのない一般の敵国民間人や、外国人二世は連合国側の国籍を持っていても、収容所での拘留や軟禁されることはなかったが、憲兵隊や特高警察によって常に生活を監視された。
【米国日系人の強制収容所連行】
一方で、米国に移民として住んでいた日本人たちの多く(約1300人)がこの日に突然逮捕された。日本との関係悪化が進んでいた中で、危険人物と思われる日本人が事前に調べられていた上でのことだった。彼らは正式な容疑を告げられることもなく、家族は面会を許されなかった(そのまま戦後になっても再会できなかった家族もいる)。その後、米国籍を持つ日系人も含めて全て(12万人)が米国内10カ所の強制収容所に送られ、銀行口座も凍結され、24時間監視の有刺鉄線に囲まれて貧しい暮らしを強いられた(逃亡を企て、射殺された人もいる)。そしてそこから遠方の工業地帯に労働力として送られるか、若者は米国に忠誠を誓わされ、米軍人として戦地に向かった。この辺りはアメリカのほうが日系人に対し過酷な扱いをしているが、捕虜に対してはアメリカ軍のほうが手厚い扱いをした。ただし、戦後の昭和63年(1988年)、レーガン政権下で市民の自由法(強制収容補償法)成立に伴い、日系人の強制収容は重大な誤りだったと謝罪した。こうした率直な謝罪を21世紀の現在に至るまで日本の政府がすることはまずなく(内外も含めて)、政治の姿勢において基本的な違いがある。
軍歌(昭和16年:1941年)
『梅と兵隊』
昭和16年 作詩:南条歌美/作曲:倉若晴生/歌:田端義夫
1
春まだ浅き 戦線の
古城にかおる 梅の花
せめて一輪 母上に
便りに秘めて 送ろじゃないか
2
覚悟をきめた 吾が身でも
梅が香むせぶ 春の夜は
戦忘れて ひとときを
語れば戦友(とも)よ 愉快じゃないか
3
明日出てゆく 前線で
何れが華と 散ろうとて
武士の誉じゃ 白梅を
戦闘帽にさして 行こうじゃないか
南条歌美は女性の作詞家で、そのせいか花をテーマにするなど目の付けどころが違っている。田端は軍の要請で日中戦争の前線で日本兵を慰問した。ここで歌った「梅と兵隊」は、戦線に咲く梅の花に寄せ、母を思う兵隊の気持ちが込められていて、兵士たちは一心に聴き入ったという。
『忠義ざくら』
昭和16年 作詞:南条歌美/作曲:細川潤一/歌:三門順子
1
桜ほろ散る院の庄 遠き昔を偲ぶれば 幹をけずりて高徳が 書いた至誠の詩がたみ
2
大君の御心安かれと 闇に紛れてただ一人 刻む忠節筆の跡 巡る懐古に涙湧く
3
風に晒され雨に濡れ 文字はいつしか消えたれど 尽きぬ誉れの物語 永久に輝く花の影
後醍醐天皇が隠岐に流される途中、津山の院の庄に立ち寄った時、児島高徳という武将がお救いせんと遠方からはるばる来たが、警戒が厳しく諦めざるを得ず、桜の幹を削って漢詩を書き残したとの故事を唄ったもの。ご当地ソングであるが、戦時中は歌詞の内容が忠考の模範の曲でもあり教科書にも取り入れられた。
『靖国神社の歌』
昭和16年 作詞:細渕国造/作曲:海軍軍楽隊(和 真人)
前年に主婦の友社が歌詞を公募し、陸海軍の軍楽隊隊員が曲を競作し、その結果海軍軍楽隊隊員の和真人の譜が選ばれた。
1
日の本の 光に映えて
尽忠の雄魂祀(まつ)る
宮柱 太く燦たり
ああ大君の御拝し給う
栄光の宮 靖国神社
2
日の御旗 断乎と守り
その命 国に捧げし
ますらおの御魂鎮まる
ああ国民(くにたみ)の拝み称(たた)う
勲(いさお)しの宮 靖国神社
4(3略)
幸(さき)御魂 幸映えまして
千木高く輝くところ
皇国は永遠(とわ)に厳たり
ああ一億の 畏(かしこ)み祈る
国護る宮 靖国神社
靖国神社は明治に入って創建され、国のために戦死した御霊(この歌でいう「尽忠の雄魂」)を祀るために不可欠の神社として存在する。とりわけ日中戦争から増え続けた戦死者のために何かにつけ靖国は持ち上げられ、これまでに取り上げた歌詞の中にも度々取り上げられている。
歌詞自体は適度に古語を使いつつ靖国がいかに尊厳な神社であるかを表現している。ただ、純粋に戦死した将兵に限って祀られているかと言えば、そうでないから問題となっている。その中で、太平洋戦争を直接起こしてA級戦犯として処刑された東條英機のことはよく言われるが、彼は陸軍大臣でもあったから、その意味では数パーセント程度は理解してもよいとして、軍人でもなく、昭和の戦争以前から司法官僚として主要な地位にいて、短期であるが昭和14年(1939年)に首相を務めたことがある平沼騏一郎もA級戦犯として終身刑を受け、その刑期の途中で病死し、その彼も合祀している。同様な人間(要人)が他に10数人いる。明らかに彼らは戦争遂行に邁進し、多くの前途ある若者たちばかりでなく、戦地で240万人、国内で空襲や原爆によって女性子供を含めた80万人の民間人の命を奪うことに加担している。そういう戦争推進者たちを合祀するとは、これら犠牲になった人々の無念な気持ちを無視することで、大変失礼な行いではないのか。それ以前に建前を言うなら、300万人以上の犠牲者を全て等しく祀ることが先ではないのか。すべての人々が「その命、国に捧げ」て死んだのである。しかも空襲や原爆で亡くなったということは、国内も戦場になったということである。つまり、女性子供も老人も「戦死」したのである。にもかかわらず、戦後、軍人とされる者たちは恩給や年金などで手厚く(現在に至るまで)報いられているが、原爆以外の空襲などで死傷した人々や孤児たちは一円の補償もされていない。こんなことは日本だけである。さらに言うなら、国民が空襲や原爆で体ごと粉砕され、あるいは焦熱地獄の中で焼かれて死んだ時に、政官軍の要人たちはどこにいたのか?自分たちは地下の堅牢な防空壕の中で悠々と過ごしていたのである。外地の戦場の前線にも出ることなく、内地では安全な防空壕に隠れていて、単に机上で逃げずに戦え(空襲があった場合も逃げずに火を消せ)などと命令しているのである。
このA級戦犯合祀問題は占領軍GHQの撤退後からくすぶっていて、紆余曲折があって昭和43年(1978年)に新たな宮司に就任したばかりの松平永芳が、密かに行った。すぐに発覚したが、それまで何度か靖国神社に参拝していた昭和天皇は、それ以降参拝することをやめた。昭和天皇も密かに思うところがあることがこれでわかる。(詳しくは筆者の代田区の靖国神社参照)
『海の進軍』
昭和16年 作詩:海老沼正男/作曲:古関裕而/歌:伊藤久男、藤山一郎他
読売新聞社が一般公募し、軍歌の作曲者としての地位を築きつつあった古関が作曲した。海軍省撰定で国民歌とされた。
1
あの日揚がった Z旗を
父が仰いだ 波の上
今日はその子が その孫が
強く雄雄しい 血を継いで
八重の潮路を 越へるのだ
2
菊の御紋の かげうつす
固い護りの 太平洋
海の男の 生甲斐は
沖の夕陽に 撃滅の
敵のマストを 夢に見る
3
御稜威(みいつ)輝く 大空に
意気に羽ばたく 海鷲が
描く制覇の 勇ましさ
僚友(とも)よ七度 生きかわり
波に勲を 咲かさうぞ
4
海へ海へと 燃えあがる
大和魂 しっかりと
胸に抱いて 波千里
進む皇国の 海軍の
晴れの姿に 栄えあれ
「海鷲」とは海軍飛行隊のことで、この3、4はプロによって書き換えられている。3番の元の「征く日は微笑んで、波を枕に眠らうぞ」が、「七度生き変り波に勲を咲かさうぞ」となっている。”七度生まれ変わって国に報いよ”を意味する「七生報国」は、この時代「忠君愛国」や「滅私奉公」とともに修身教育に採り入れられていた標語である。皮肉にとれば、七度は生まれ変わって国のために戦ってもらわないと、兵士が足りない!というほどに、この年末に突入した太平洋戦争では戦線を一挙に広げすぎ、その結果海外各地で多くの悲劇が生まれた。
太平洋戦争は奇襲攻撃によって始まり、初戦は奇襲のゆえに成功するが、翌年の(晴れの舞台である)ミッドウェー海戦で、日本は航空母艦4隻、戦闘機289機を失い、手痛い負けを喫する。日本軍の戦死者は約3000人で、米軍は約300人であった。しかし新聞各紙は大本営発表として「我が方の損害」として空母1隻喪失、同1隻大破、未帰還機35機で敵方に大きな損害を与えたと書かれていた。そして生きて帰還した兵士たちは情報隠しのために病院に隔離され、その後南方戦線に送られ、餓死が6割という多くの犠牲者を出した。このような海軍省撰定ともとれる内容の軍歌を広め続けているなかでは、米国との初めての大海戦で負けたとは言えなかったのであろう。日本の精神第一主義の弊害である。ここから日本の軍政府の隠蔽工作が敗戦まで続けられた。
『そうだその意気』(副題:国民総意の歌)
昭和16年 上記『海の進軍』のB面。作詞:西條八十/作曲:古賀政男
1
なんにも云えず 靖国の
宮のきざはし ひれ伏せば
熱い涙が こみあげる
そうだ 感謝の その気持
揃う揃う気持が 国護る(以下繰り返し)
2
雁の鳴きわたる 月の空
今夜いまごろ 戦地では
弾丸(たま)を浴びてる
朋友(とも)がある
そうだ 済まない その気持
3
戦に勝つにゃ お互いが
持場 職場に 命がけ
こんな苦労じゃ まだ足りぬ
そうだ その意気 その気持
これは戦後も有名な作詞・作曲のコンビによるものであり、歌詞はいわゆる戦争の前線に立つ将兵に対して、国内を守り支える役目としての「銃後」と言われた国民の心構えを説く内容である。「靖国の宮のきざはしひれ伏せば」戦死した方々への「熱い涙がこみあげる」、「済まない」と思ってみんなが「揃う気持が国護る」、だから「持場職場に命がけ、こんな苦労じゃまだ足りぬ」と思って精進せよ、ということである。この年あたりから徴兵によって国内の男手が不足してきて、学生・生徒の「勤労奉仕」は工場や食糧不足を補うための農場への定期的な「勤労動員」に切り替えられて行き、家庭の主婦も含めて若い女性にも動員がかかるようになる。これによってある程度、女性の職場進出が果たされるようになる。昭和18年(1943年)になって戦況が過酷になると軍需工場への学徒勤労動員は強化され、昭和19年(1944年)からは小学校高学年以上はほとんどまともな授業は受けられず、「勤労即教育」という軍政府の手前勝手なスローガンが打ち出される。そんな時代にこの歌は、まともな食事も取れない中で国民を鼓舞するものとして勤労の現場で流されたようである。
ただし、この曲は上記の『海の進軍』とのカップリングで制作され、吹き込み時には軍人が立ち会った。ところがそのメロディが軟弱で悲哀を持つと軍に叱責され、古賀はこの後軍歌より歌謡の作曲に傾いていく。
『大日本青少年団歌』(戦時少国民の歌の一つ:大日本青少年団選定)
昭和16年 作詞:市瀬正生/作曲:富原薫(いずれも公募)
1
若き者 朝日の如く新なる
われら大日本青少年団
ああ御稜威あまねきところ
空は晴れたり空は晴れたり
いざ共に聖恩の旗仰ぎつつ
勅語を胸に われら起たん
2
若き者 はばたき強く巣だち行く
われら大日本青少年団
ああ希望かがやくところ
力みなぎる 力みなぎる
いざ共に皇国の明日担ひつつ
御民の幸に われら生きん
3
若き者 鋼と鍛へ火と燃ゆる
われら大日本青少年団
ああ誠 つらぬくところ
固く結びて 固く結びて
いざ共に荊棘の道拓きつつ
興亜の使命 われら遂げん
大日本青少年団(この年1月に結成され、文部大臣の統轄下におかれた)の資格は小学校3年からで、早すぎるとは思うが、この年の春から小学校は国民学校初等科として名称を変えて「皇国の道」にのっとった教育をめざし,教科書も全面改訂されたという背景もあるだろう。ちなみに『国民学校の歌』も作られた。
—— 「皇御国(すめらみくに)に生まれ来た 感謝に燃えて一心に 学ぶ国民学校の 児童だ我ら朗らかに 輝く歴史受け継いで 共に進もう民の道」
『少年産業戰士の歌』(文部省選定)
1
朝に頂く残の星影
夕べに踏み来る野道の月影
生産増産我等の勤めと
鍬執り鎌砥ぐ少年戦士
2
油に塗れて額に汗して
飛び散る火花に輝く瞳よ
生産増産我等の勤めと
鉄打ち鍛える少年戦士
3
この腕この技御国に捧げて
いや増し興さん東亜の産業
生産増産我等の勤めと
微笑み働く少年戦士
これも小学生に歌わせた歌である。こうして戦士としてのイメージを子供の頭に刷り込ませ「軍国少年」が出来上がっていった。まさに教育の力である。
『戦陣訓の歌』
昭和16年 作詞:梅木三郎/作曲:須摩洋朔
日中戦争で軍紀が乱れているとの対策で、教育総監部が軍人勅諭を補足するものとして『戦陣訓』の作成をはじめた。これがこの年1月に上奏され、陸訓第一号として全軍に示達され、新聞などのメディアはこれを大きく報じた。これを基にして東京毎日新聞記者の梅木三郎が詞を付け、軍楽隊の須摩洋朔が曲をつけた。これを追って朝日新聞と読売新聞その他も同名の歌を発表したが、毎日系のビクター盤が最も広く普及した。なお現在でも陸上自衛隊中央音楽隊は行進曲『戦陣訓』を演奏する。
1
日本男児と 生まれ来て
戦さの場(にわ)に 立つからは
名をこそ惜しめ 武士(つわもの)よ
散るべき時に 清く散り
御国(みくに)に薫れ桜花
2
情けに厚き 丈夫(ますらお)も
正しき剣(つるぎ) とる時は
千万人も 辞するなし
信ずる者は 常に勝ち
皇師(こうし)に 向かう敵あらじ
3
五条の訓(おしえ) 畏(かしこ)みて
戦野に屍(しかばね) さらすこそ
武人(ぶじん)の覚悟 昔より
一髪(いっぱつ)土に 残さずも
誉れになんの 悔(くい)やある
4
山ぬく威武(いぶい)も 驕(おご)るなく
海をも容るる 仁を持ち
つらぬく大義 三千年
大和心の ひと筋は
これこそ皇軍の 大精神
「五条の訓」とは明治時代の軍人勅諭にある五条のことで、この戦陣訓は昭和の時代に即応するものとして作られたが、「文人(作家や詩人)」が何人も元の草案に対して手を加え、あれもこれもと文章を捻って長文になっている。しかしこうしたものを、まるで軍人と対極にある、つまり実際に戦場に立てば真っ先に逃げるような文人という人種たちに手を加えさせるとは、軍人もわかっていない。この種のものは本来、仮にも戦場で胸に刻んでおくものであるなら、明治の軍人勅諭のように簡潔であるほど良い。しかもこの長文を軍人や学生に覚えさせようとしたことに無理がある。1972年、フィリピンルバング島から発見された小野田寛郎元陸軍少尉が記者会見で、このビクター盤の『戦陣訓の歌』の3番にある「一髪土に残さずも…」を引用して発言した。
いずれにしろこの歌詞は、当時の日本のとがった精神主義がよく表れている。「散るべき時に清く散り… 信ずる者は常に勝ち、皇師(天皇の軍隊、つまり皇軍)に向かう敵はなく」、そして4番は、これ以上はないほどの言葉で日本軍を形容している。ただ、山ぬく威武(威光と武力)と海をも容るる仁を持ち、三千年の大義があるというほどに日本軍が実際に輝いているなら、「敵」は戦わずして逃げ去るかその場で降伏しているであろう。しかしそのような話は聞いたことがなく、すでに戦いは日中戦争から4年目に入っていて、各地で激しい抵抗を受け、泥沼状態になっていた(だからこそ「高邁な」歌を作って戦意高揚を意図したのであろうが、軍歌でそれができれば世話はない)。それでも自分たちが持つのは常に正しき剣とし、天皇の威光を盾にし、我らにこそ三千年の大義があり、しかも海をも飲み込むほどの「仁」(人間愛)を持ち、驕ることはないと言っているわけで、それこそが驕りそのものではないのか。むしろ最初から相手を見下し、仁どころか謙虚さがどこにもなく、慢心だらけである。どこに「大精神」があるのか、大精神という言葉を使えば、その大精神が自分たちの軍に宿るとでも思っているのか、こういう安易な精神主義(空疎で大げさな言葉の羅列)に自己満足しているから、日本はこののち、無謀な大戦争に挑み、負けるのである。
同タイトルの別な作詞:佐藤惣之助/作曲:古関祐而のプロのコンビの歌は以下である。
1
夫(そ)れ 戦陣のつはものは
ただ勅諭を命とし
忠に魁(さきが)け義に勇み
大日本の花と咲け
2
神武の精神厳かに
命令一下欣然と
生死を越ゆる団結は
我が皇軍の誉れなり
(以下略)
「花と咲け」は桜の花のように命を散らせということであろう。この後、特攻隊が創出され、突撃して死ぬときに「散華」という言葉が使われるようになる。散華のもとは仏に供養するため花をまき散らすことであり、戦死を美化するために使われるようになった(肉体を花のように散らすということか)。戦陣訓の中に有名な「生きて虜囚の辱を受けず」という言葉があるが、それと対をなす言葉として「身心一切の力を尽くし、従容(しょうよう)として悠久の大義に生くることを悦びとすべし」とあるが、若き特攻隊員が最後に残した日記や手紙にはこの「悠久の大義に生きる」として自身を納得させている場合が多い。上記の歌詞にある「つらぬく大義三千年」(天皇家が三千年の歴史があるとの意味)につながる言葉であるが、裏返して言えば、文人たちが安穏とした立場に身を置く中で捻り出した罪作りな言葉である。
(もう一つ『宮本武蔵』で著名となった作家、吉川英治の戦陣訓の詩があるが、力みで一杯の内容で、読むに耐えない)
『今ぞ召されて』
昭和16年 作詞 西條八十/作曲 万城目正
1
晴れのお召しを受けたる朝は
月もまん丸気も朗ら
咲いた咲いたぞ男の花が
撫でて嬉しい力瘤(ちからこぶ)
2
受けた赤紙しみじみ見れば
大和桜の花の色
友よ見てくれ日本刀
物を言わせる時が来た
3
栄えの赤紙押し頂いて
遠く拝む二重橋
醜(しこ)の御楯と出で立つ朝を
祝う亜細亜の明けの鐘
召集令状が届いた時の心持ちを表す歌である。つまりこのように「あるべき」と国が押し付ける姿である。「醜の御楯」とは天皇を守る盾となる私奴(わたくしめ)という意味だが、そして戦死して遺骨が帰されてきたら英霊とされるから、家族は喜んで迎え入れなさいという押し付けと同じである。何度も書くが、「日本刀」はすでにこの時代の戦争には無用であり、特に中国では捕虜を殺す時「試し斬り」に使われた。
『大政翼賛の歌』(大政翼賛会選定歌)
昭和15年に発足した大政翼賛会(国会の各政党が来るべき大戦争に備えて大同団結したもの)の主催で公募され、詞は長野県の教員だった山岡勝人、曲は当時中学5年生だった鷹司平通が選ばれた。
1
両手を高く差し上げて
我等一億心から
叫ぶ皇国の大理想
今ぞ大政翼賛に
燃え立つ力合わせよう
3(2略)
足並み揃え日章旗
立てて臣道まっしぐら
御稜威の光射す所
興る東亜の国々を
明日の栄えに導こう
すでに国民の自由な思考力はなくなっていると言ってよく、誰が書いても似たような言葉の羅列である。この歌詞を書いた教師も、生徒たちの前で張り切って日本の皇道精神とか日本軍の強さ(それも日露戦争で勝った頃のこと)など話していたのであろう。
一方で、この数年前より町内会や学校では「防空演習」がしきりに行なわれていた。まだ、日本はどこからも空襲を受けていず、むしろこの時期の10年前の昭和6年(1931)の満州事変後の10月、日本軍は中国の錦州に初の空爆を行って世界を驚かせた。その後日中戦争(昭和12年)から毎日のごとく、また1日に数度かそれ以上の空爆を分散して行っている。自分たちがこのように空爆を行なっているから(またすでに欧州で第一次世界大戦が始まって盛んに空爆が行われるようになっていたから)、逆に今後に備えて国内でも防空演習を行なっていたのであろう。そして太平洋戦争開戦の二ヶ月前の10月、以下のような歌が発表された。
『空襲なんぞ恐るべき』
昭和16年 作詞:難波三十四/作曲:飯田信夫 NHKの番組「われらの歌」で流された。
1
空襲何んぞ恐るべき
護る大空鉄の陣
老いも若きも今ぞ起つ
栄えある国土防衛の
誉れを我等担いたり
来たらば来たれ敵機いざ
2
空襲何ぞ恐るべき
つけよ持場にその部署に
我に輝く歴史あり
爆撃猛火に狂うとも
戦い勝たんこの試練
来たらば来たれ敵機いざ
(3略)
まだ実際に空襲を受けたことがない身では、何とでも言えるというだけの内容である。しかもすでに上記のように、日本は中国に対して想像以上の空爆を続けていた。その事実を踏まえて書かれたものなのかどうなのか。ところが実際に翌17年4/18、米軍は試験的に太平洋上の空母艦から、中型爆撃機B25を16機出撃させ、米陸軍機が東京、名古屋、神戸などを初空襲、全国での死者87人、東京都の死者は39人だった。しかし軍の発表はかすり傷程度、日本の戦闘機は米軍機を追い散らしたとし、新聞もそのまま報じた。ここから米軍は2年半の沈黙の間に周到な準備と対策をして、最新の長距離大型爆撃機B29(つまり大量の爆弾と焼夷弾を一機に積み込める)を開発、それを大量生産し、19年半ば、日本軍の占領するサイパンやグアム島を陥落させ、その飛行場を新たに整備して19年11月24日より、日本本土へ大空襲を開始、国内にも多くの悲劇を生むことになる。とても「空襲何んぞ恐るべき」状態ではなかったが、政府は訓令でその精神で立ち向かえ、逃げずに消火に努めよと指示して一層大きな犠牲者を出した。
その国内各地の惨劇を見聞きして、すでに激しい空爆を日本軍から受け続けて多くの犠牲を生じていた中国の特に重慶の人たちにとって、米軍の日本に対する猛烈な空爆に対して、同情するどころかいい気味だと快哉を叫んでいたのではなかろうか。それが人の自然の感情である。しかもなおこの間、米国は原爆を開発していて(元は対ドイツ用であったが、ドイツは先に降伏してしまった)、20年7月半ばに実験に成功し、その完成した原爆を後ろ手に隠して、連合軍は日本に全面降伏を要求した。しかし日本の軍政府は何も知らずにこれを拒否、そして8月に入って広島・長崎に続けて原爆が落とされ、降伏以外に道はなくなった。この「空襲何んぞ恐るべき」その他の歌に代表される精神主義が、日本軍に最後の悪あがきを続けさせ、一年間で全体の2/3以上の犠牲者を出すに至った。
『産業報国歌』
昭和16年 作詞:北原白秋/作曲:高楷哲夫
1
雲に轟く新世紀
秋なりいざや我起たん
国運正に隆々と
東亜に臨む この朝
全産業の陣挙げて
仰げよ今ぞ日は昇る
産業 産業 産業報国
2
熱と汗との湧く所
誠は天を貫かん
総力一に烈々と
銃後に開くこの火花
全産業の輝きを
放てよ海の底までも
産業 産業 産業報国
(3、4略)
戦時下におけるその時々の政策までも逐一歌にしていたことがよくわかる。北原白秋は翌年の11月に57歳で病死したが、生きていればどんどん軍歌を作り、軍に貢献したであろう。良い悪いではなく、大半の文人が時代の波にのまれ積極的、消極的を問わず協力したが、白秋は積極派であり、子供に向けた「軍詩」もたくさん作っていた。
『銀輪の歌』
昭和16年 作詞:薮内喜一郎/作曲:下村好広
1
走る銀輪 希望を乗せて
今日も明るい空の色
力一杯働く胸に
香るそよ風そよ風
日もうらら
2
走る銀輪 銃後の空へ
目指す興亜の道一つ
心揃えて新日本に
伸びる彼方へ
伸びる彼方へ飛べ車
(3、4略)
日中戦争が長引く中、日本軍は南方から中国への物資ルートを断とうと、南進する。ちょうど第二次世界大戦が始まってインドシナ半島を占領していたフランス軍が手薄になっていた時期で、まず15年(1940)、容易に北部仏印まで侵攻でき、この16年には南印つまり今のベトナムまで侵攻した。この侵攻作戦で日本軍は一般兵士の移動を自転車に頼った。中国内は道無き道が多かったが、仏印領は道が整備されていたことによる。そこで銀輪部隊と呼ばれてこの歌が生まれる。
他に『ペダル進軍歌』(詩:大高ひさを)がある。—— 「甘いマンゴが香る 仏印碧い風 アンナン娘が日の丸振って 微笑むこの街白い路 脚に覚えのペダルを踏んで 朗らか進軍どこまで飛ばす/… あの空遠い空 花咲くカンボジア 夢みるラオス」という、侵攻先の娘たちも勝利軍を歓迎してくれるであろうという図に乗った内容である。
『銃後の日本大丈夫』(銃後家庭強化の歌
昭和16年 作詞:陸名一雄/作曲:名倉晴
1
後を頼むとますらをが
召されて征つたあの日から
あなたの役はこのわたし
妻の務めに今朝もまた
強い力が溢れます
国の銃後は大丈夫大丈夫
2
強いあなたの血を継いだ
いとしわが児の笑顔
日毎みるたび思ふたび
銃後を護るひとすぢの
熱い血潮がたぎります
留守のわが家は大丈夫大丈夫
4(3略)
父や我が子や兄弟を
国に捧げた天晴れな
誉の家に感謝して
一億民が手を握り
共に励まし扶け合ふ
銃後の日本大丈夫 大丈夫
副題に「銃後家庭強化の歌」とあるように、14年に発表された『のぼる朝日に照る月に』とセットの歌である。「父や我が子や兄弟を国に捧げた天晴れな誉の家」とあるが、仮にもそのようにして「母」のみ残してすべて死んでしまえば、「誉の家」など成り立たず、そこで絶えてしまう。「この命を国に捧げる」と、この時代は盛んに唱えられたが、そもそも国というのは国民一人一人とその家族によって支えられているという観点が絶対的に抜けている。人間は国がなくても生きられるが、それは家族があってこそである。しかも最終的には米軍による大空襲を受け、「大丈夫 大丈夫」と唱えさせた母親たちを焼死もしくは爆死させ、父親はすでに戦死し、身寄りのなくなった孤児をたくさん生じさせた。その孤児たちに対し戦後、国はもはや「誉の子」として扱わず、何の援助もせず放置し、彼らの多くは餓死、病死、時には自殺もした。生き残った孤児たちは、孤児というだけで酷い差別を受け、苦難の人生を歩まざるを得なかった。これがこのような着飾った軍歌を作り続けさせた日本という国の為したことである。仮にも同盟国であったドイツは、同じ敗戦国でも、戦後こうした戦争孤児や被災者たちにきちんと手当てをした。
「戦争で多くの尊い命を捧げた人たちがあって、今の日本の繁栄がある」と語る人は多いが、そんなことは軽々しく言うべきではない。仮にもそれを言うなら、「戦前戦後を通して国が見捨てた多くの人々の犠牲もあって」と付け加えるべきである。この戦争で日本人の戦死・戦災死合わせて310万人と言われている。そのうち民間人は約80万人(うち海外30万人)であり、この80万人のうちほとんどが最後の一年以内に死に、兵士の230万人のうちその2/3がやはり最後の一年以内に死んでいる(ちなみにその6割が餓死)。この数字を見ただけでも、日本の軍政府がどれだけ無策で戦争を続けたのかがわかる。つまり戦死した彼ら(英霊を含めて)はほとんど無駄死にであった。
<太平洋戦争開戦後>
いったん沈静していた軍歌は、12月8日の太平洋戦争突入によって、再び怒涛のごとく作られるようになる。手始めとなるのが、ニュース軍歌であった。つまりラジオのニュースによるもので、この時代ラジオはまだNHKだけであったが、昭和6年に100万台であったものが、この年には660万台に至り、当時の家族構成からすると全国で二軒に一台の普及率と思われる。テレビの普及期もそうであったが、ラジオのない家庭は隣の家にニュースなど聞きに行っていたであろう。NHKはこの開戦以来「ニュース歌謡」という枠を設け、刻々と伝えられる戦勝のニュースを即座に国民に知らせるだけでなく、戦意を鼓舞しようと、スタジオに作詞家・作曲家を待機させて対応した。
12月8日:『宣戦布告』
—— 「敵は米英 宣戦の 大君の詔勅 今下る 五千浬の太平洋 我等制さむ大進軍」
9日:『皇軍の戦果輝く』
—— 「握る拳が感激に 燃えてふるえた大号令 臨時ニュースを聴いたとき胸が血潮がたぎったぞ」
『太平洋の凱歌』
—— 「さかまく怒濤 颶風を衝いて 見よ見よ進む この電撃は アジヤがアジヤをうち建てる 太平洋の朝焼けだ 屠れ砕け米英を われらが敵を打ち砕け」
10日:『フイリッピン進撃』、その他『マニラ陥落』や『タイ国進駐』、『シンガポール陥落』など次々にニュース軍歌で流された。その中での傑作はこの10日の『英国東洋艦隊潰滅』と言われる。
日本海軍は真珠湾攻撃の片方で、マレー半島にも艦隊を出撃させて、半島上陸作戦を行っていたが、その沖で英国東洋艦隊の主力艦「レパルス」と「プリンス・オブ・ウェールズ」二隻を撃沈、これは英国を驚かせるほどの戦果であった。この勝利は同日夕方にさっそくラジオで速報され、国民を狂喜させたが、この勝利を「ニュース歌謡」にして7時の番組で流そうとNHKのスタッフはさっそく作詞を高橋掬太郎に、作曲を古関裕而に依頼、歌手には藤山一郎を手配した。放送までの三時間で作詞と作曲家は電話で連絡を取りながらこの歌を作り、歌唱の藤山一郎は編曲が出来るまでの間に歌を覚え、なんとか放送に間に合ったという。
『英国東洋艦隊潰滅』
1
滅びたり 滅びたり
敵東洋艦隊は マレー半島
クワンタン沖にいまぞ沈み行きぬ
勲し赫たり 海の荒鷲よ
沈むレパルス 沈むプリンス・オブ・ウェールズ
2
戦えり 戦えり
わが強者らは皇国の
興廃を今ぞ身に負いぬ
傲れるイギリス東洋艦隊を
荒ぶ波に 沈め去りぬ
ただこの歌はNHKの方針でレコード化されなかった。これを惜しいと思ったコロムビアレコードは、サトウハチローに古関のメロディに作詞させて『断じて勝つぞ』というレコードを作ったが、あまり売れなかった。
これとは別に大政翼賛会文化部では、短歌と詩を音声を通して国民 に聞かせることを放送当局者に進言しつつ、詩人たちにもこの時局にあった詩を献納してもらいたいと詩人団体を通じ て訴えた」ところ、1941年末までに約300篇の詩が集まり、そのいくつかはラジオで放送され、レコードにも吹き込まれて劇場で朗読され、『大東亜戦争愛国詩歌集』 の本も刊行された。その中には、野口米次郎「宣戦布告」、西条八十「戦勝のラジオの前で」、堀口大学「戦いて死する幸」、高村光太郎「必死の時」な どが収録されている。堀口大学も有名な詩人であるが、「戦いて死する幸」とは、自分も戦場に行って死にたかったのかどうか、本人に聞いてみたいところである。
◯『放送』(1942年1月号・日本放送出版協会発行)の「放送局だより」には、次のような記事がある。
「米英と戦端を開くや銃後国民の士気は一段とたかまり、街に村にラジオに和して元気な歌声がわいており、どしどし勇壮かつ雄大な音楽を放送してくれという投書が山積いたしました。これにこたえるため協会では楽壇を総動員して豪快活発な日本的管弦楽曲を多量に作って戦時下の音楽放送を一層充実させることになりました。まず決戦下新年を豪壮に彩る序曲を山田耕筰、信時潔、飯田信夫の三氏に委嘱、その他絶えず国民の士気を鼓舞するような行進曲を堀内敬三他三十氏にそれぞれ作曲をお願いすることになりました。また大東亜戦争の必勝を誓う国民歌を二十名の作詞、作曲家に委嘱製作し不断に電波にのせて国民の士気を鼓舞することになりました」(これはブログ「空席通信」櫻本富雄“歌と戦争”より転載)
もはやこの世間的な流れはどう見ても止まりそうにない。実際には日本の軍部にとっても勝算があって開戦に踏み切ったわけではなかった。山本五十六海軍大将は持って一、二年としていた。ともかくまず最初に米英軍を叩くだけ叩いて、有利な交渉条件を引き出そうとしていたが、結局は国民のこうした高揚感とが相俟って、引き際が見つけられず、多大な犠牲者を出して終わったのである。
なおこの年、敵国の英語使用禁止によりレコードメーカーはその社名を以下のように変更した。
日本コロムビア →日蓄工業、日本ビクター →日響(日本音響)、ポリドール→大東亜蓄音器、キング →富士音盤
日本国内の出来事・様相(昭和16年:1941)
1月:米屋の自由営業が廃止/食糧不足に備えて国鉄の線路脇では食糧増産の為にトウモロコシが栽培され、東京市内の公園には麦やキャベツなどが植えられ、日比谷公園も農園化され、目黒競馬場も広大な芋畑となる。
同月:大日本青少年団結成(大日本連合青年団、大日本連合女子青年団、大日本少年団連盟、帝国少年団協会の4つを統合)。「皇国の道に則って確固不抜の国民的性格を錬成し、戦争遂行の国策に協力することを目的」とした。
2月:一般車のガソリン使用が禁止された。
3月:国民学校令が公布され、尋常小学校が国民学校となって「皇国の道に則って初等普通教育を施し国民の基礎的錬成を為すことを目的」とする。これに伴い、朝鮮総督府は植民地である朝鮮にも国民学校規定を公布して、朝鮮語の学習を禁止する。
同月:戦前最後の全国選抜中等学校(現高等学校)野球大会開催。
4月:中等学校の新入学生の制服も男子は国民服に戦闘帽となる。女子の場合は国防目的として高学年の体練科に弓道やなぎなたが導入される。
5月:酒類も切符制となる。
8月:情報局が軍需に必要なフィルムは民間に回せないとして映画を国家管理するとし、これによって10社あった映画会社が3社となり、映画制作数もこれまで30本ほどあったものが3社で6本に制限される。
同月:衣料品から木炭や食用油、みそ醤油などの家庭用品までさまざまなものが配給制度となる。
9月:1日、武器生産に必要な金属資源の不足を補うため、国家総動員法に基づいて「金属回収令」が公布される。職場や家庭から不要な金属製品は供出せよというもので、その後さらに強制的になってくる。
9月:新たに定められた9月20日の「航空の日」にちなんで、宝塚歌劇のレビューで『大空の母』が公開される。空を守るために出征する夫や子供を送り出す母を描いたもので、これ以外にも『進め軍艦旗』『海の日本』などが歌われる。
10月:大学や専門学校などの修業期間を3ヶ月繰上げて卒業することが発表される。これは長引く戦局で兵員不足を補うため、徴兵猶予のある学生たちを早めに戦場に送るためであった。翌17年には半年の繰り上げとなり、さらに18年は学生の徴兵猶予解除となる。
同月:臨時郵便取締令を公布し、外国郵便を開封検閲する。
11月:国民勤労報国協力令を公布し、14−40歳の男子と14−25歳の未婚女子の年30日以内の勤労奉仕を義務化。
12月:開戦と同時に防空対策上から天候が機密扱いとなり、新聞やラジオでの天気予報が禁止となる。
同月:米英映画の上映が中止され、昭和2年から送られてきた青い眼の人形も、各地の小学校では焼かれたりした。
同月:世界最大級の戦艦大和が竣工する。
童謡・流行歌(昭和16年:1941)
童謡・唱歌
『ほたる来い』 作詞作曲者不明(わらべ歌)
—— 「ほう ほう ほたる来い あっちのみずは にがいぞ こっちのみずは あまいぞ ほう ほう ほたる来い」
『たなばたさま』 作詞:権藤はなよ/作曲:下総皖一
—— 「ささの葉さらさら 軒(のき)ばにゆれる きらきらお星さま 金銀砂子(すなご)」
『あの子はたあれ』 作詞:細川雄太郎/作曲: 海沼實
—— 「あの子はだあれ だれでしょね なんなんなつめの 花の下 お人形さんと 遊んでる 可愛い美代ちゃんじゃ ないでしょか」
『おうま』 作詞:林柳波/作曲:松島つね
—— 「おうまのおやこは なかよしこよし いつでもいっしょに ポックリポックリ あるく」
『船頭さん』 作詞:武内俊子/作曲:河村光陽
—— 「村の渡しの 船頭さんは ことし六十の おじいさん 年はとっても お船をこぐ時は 元気いっぱい 櫓(ろ)がしなる ソレ ギッチラギッチラ ギッチラコ」
この歌の2番は「雨の降る日も 岸から岸へ ぬれて舟こぐおじいさん 今日も渡しでお馬が通る あれは戦地へ行くお馬」となっていたが、戦後改作され、後半は「けさもかわいい子馬を二匹 向こう牧場へ乗せてった」となった。3番にあった「村の御用やお国の御用」も変えられた。
『たきび』 作詞:巽 聖歌/作曲:渡辺 茂
—— 「かきねの かきねの まがりかど たきびだ たきびだ おちばたき あたろうか あたろうよ きたかぜぴいぷう ふいている」
この歌はNHKラジオの幼少向け歌番組で、真珠湾奇襲攻撃で太平洋戦争を開始した翌日に放送されたが、軍部の横槍が入って放送2日で打ち切りになった。その理由は、「たき火は敵機の攻撃目標になる」「落ち葉も貴重な燃料のうちだ、風呂ぐらいは焚ける」というひどいものであった。
歌謡・戦時歌謡
『四つ葉のクローバー』
明治時代に東京音楽学校(東京藝術大学音楽学部の前身)の音楽教師であった米国人ルドルフ・エルネスト・ロイテル (Rudolph Ernest Reuter)が作曲した旋律がつけられて広まり、二葉あき子、関屋敏子らのレコードが制作された。
—— 「うららに照る日影に 百千(ももち)の花ほほえむ 人知らぬ里に生ふる 四つ葉のクローバ 三つの葉は 希望 信仰 愛情のしるし」
『琵琶湖哀歌』 作詞:奥野椰子夫/作曲:菊池博/歌:東海林太郎・小笠原美都子
昭和16年(1941)春に第四高等学校漕艇部(現金沢大学)の部員11人が琵琶湖で練習中に突風のため転覆し、全員死亡した事故を悼んでその年6月に作られた。メロデーは『琵琶湖周航の歌』(大正6年)を元にした即席の歌であったが、事故後間もないこともあってヒットした。
—— 「遠くかすむは彦根城 波に暮れゆく竹生島 三井(みい)の晩鐘音絶えて なにすすり泣く浜千鳥 … 雄々しき姿よ 今いずこ … 御霊を守れ 湖の上」
戦後、元歌の『琵琶湖周航の歌』が加藤登紀子によって歌われ、今はこちらの方が主になっている。
『十三夜』 作詞:石松秋二/作曲:長津義司/歌:小笠原美都子
—— 「河岸の柳の行きずりに ふと見合せる顔と顔 立止り 懐かしいやら嬉しやら 青い月夜の十三夜」
この翌年にヒットするが、戦後もカバーされてヒットした。
『I’ll Be Waiting』(待ち侘びて=作詞:Vic Maxwell/作曲:Reo.Hatter/歌:Vic. Maxwell)
この曲は昭和12年に発禁となった『夜のプラットホーム』(作詞:奥野椰子夫/作曲:服部良一/歌:淡谷のり子)の英訳版であり、レオ・ハッターとは服部良一が自身の名をもじって作った変名で、作詞も歌も当時の友好国ドイツの作曲者と歌手であるとして検閲をくぐり抜けた。服部による執念の発売であった。この曲はヒットし、戦後もプレスされて、当時を代表するアルゼンチン・タンゴの楽団ミゲル・カロ楽団によってもレコーディングされた。元歌は 昭和22年に(淡谷のり子は所属会社を変えていたため)二葉あき子が歌って大ヒットした。
< Soon I will be all alone, Soon you will be gone. How sad each long day, How dark the long nights. I will be waiting here, dear, Counting the hours you're away. Goodby, my love, …… >
実はこの2年前に服部良一はReo Hatter名義で「Love’s Gone」を作曲していて(作詞も同じVic Maxwell)、それを日本語題『夢去りぬ』として霧島昇などが吹き込みをして、洋楽としてヒットさせていた。
『雪の満州里』(満州里小唄) 作詩:島田芳文/作曲:陸奥明/歌:ディック・ミネ)
—— 「積もる吹雪に 暮れゆく街よ 渡り鳥なら つたえておくれ 風のまにまに シベリアがらす ここは雪国 満州里(まんちゅうり)」
満州占領後によく作られた大陸浪人とされる歌の一つで、満州里は内モンゴル東でロシア・シベリアに接する国境の町。以下も同じである。
『蘭の花咲く満州で』 作詩:藤村閑夫/作曲:長津義司/歌:田端義夫
—— 「生まれ故郷をあとにして 俺もはるばるやって来た 蘭の花咲く満州で 男一匹腕だめし」
『パラオ恋しや』 作詩:森地一夫/作曲:上原げんと/歌:岡 晴夫
—— 「海でくらすなら パラオ島におじゃれ 北はマリアナ 南はポナペ 島の夜風に 椰子の葉揺れて 若いダイバーの 船唄もれる」
日本は第一次世界大戦参戦によってドイツが統治していた南洋諸島を占領、その一つパラオ諸島には日本人が多数移住し、農業や漁業を営んでいた。その中でも真珠貝採取業が盛んで、多くの日本人が従事していて、ダイバーとはそれを指す。歌にあるように良き時代であったようだが、この後太平洋戦争が起こり、パラオは重要防衛線の一つとなり、ペリリュー島に日本軍の陣地が築かれた。この2年後には日本人約2万5000人、朝鮮人約2500人、パラオ人先住民約6500人との構成であった。1944年、米軍の進撃によってまずサイパン島やグアム島が6月に陥落、その際、軍人ばかりでなく特に日本人居留者に多大な犠牲者を出した(サイパンでは軍人以外の一般日本人約1万人で、中には追い詰められた住民の自決も多数あったが、米軍が捕虜を殺さないことを知らされていなかった理由も大きい)。この数ヶ月後に米軍はペリリュー島に上陸作戦開始、激戦となり2ヶ月を超える戦いで日本軍約1万人がほぼ玉砕した。この時、サイパンの例もあって事前に日本人居留民とパラオ人は先に別な島や日本本土に疎開させていてほぼ犠牲者は出なかった。これを軍の司令官の美談に仕立てる人もいるが、この後の硫黄島その他でも同様に住民を疎開させているから、特別な例ではない。ちなみに米軍はこのサイパン島とグアム島に飛行場基地を整備し、11月下旬から日本本土にB29による爆撃を仕掛け、そのまま翌年の原爆投下に至った。
*以下は戦時歌謡で、主に日本が侵攻、占領した国々に関する歌(一種のご当地ソング)が多くを占める。
『めんこい子馬』 作詞:サトウハチロー/作曲:仁木他喜雄/歌:二葉あき子・高橋祐子
陸軍省選定の映画、「馬」の主題歌として作られた。中国戦線に将校馬として徴発された馬(勝山号)が、幾たびも銃弾の下を潜り抜け、背に乗せた将校たちは戦死したものの自身は3度も死地を潜り抜けたのち、不死身の名馬として戦地から送還され、褒章馬として明治神宮の御神馬とされて戦意高揚の題材とされた。
—— 「ぬれた仔馬のたてがみを 撫でりゃ両手に朝の露 呼べば答えてめんこいぞ オーラ 掛けて行こうよ丘の道 ハイド ハイドウ 丘の道」
この歌は戦時歌謡としては馴染みやすい歌詞と軽快なメロディでヒットしたが、戦後は歌詞の戦時色の強い部分が改変されて(3番には「…遠い戦地でお仲間が オーラ 手柄を立てたお話を…」とある)広く親しまれ、アニメ映画などでも使われて現在にも残っている。
『ああ草枕幾度ぞ』 作詩:徳土良介/作曲:陸奥 明 /歌:東海林太郎
—— 「ああ草枕 幾度ぞ すてる命は惜しまねど まだつきざるか荒野原 駒の吐息が気にかかる/ … 思へば遠く来しものぞ 渡る風さへ母の声 未練ぢゃないがふる里へ 夢や今宵は通うらん」
おそらく歩兵隊を歌ったもので、歩兵隊は基本歩いて行軍し、時に列車やトラックに乗れれば幸運であった。
『牡丹の曲』 作詩:西条八十/作曲:服部良一/歌:山田五十鈴
—— 「赤い牡丹の花びらそめた 踊り衣裳が涙でぬれる 泣いちゃいけない支那人形 春はやさしくまたかえる/ … 呼べば応える心と心 海をへだてた二つの国に 笑顔花咲く愛の空 春はやさしくまたかえる」
映画「上海の月」の主題歌で、その中には下記のもう一つがある。
『明日の運命(さだめ)』(同上)
—— 「夕焼け雲のかげ映す 流れの岸に語らえど むすぶすべなき ふたつの心 ああ秋の上海うずら泣く / 乙女の胸 紅染めて … 」
『夜霧の馬車』 作詩:西条八十/作曲:古賀政男/歌:李香蘭
—— 「行け嘆きの馬車 紅い花散る港の夕べ 旅を行く我を送る 鐘の音さらばよ いとしのこの町君故に 幾度び振り返える」
上の三つは占領した側の日本人の一方的な妄想を手助けするものと言ってよい。
『仏印だより』(作詞:小島政二郎/作曲:飯田景応/歌:上原敏)
—— 「ここは西貢(サイゴン)小巴里(パリ)安南(アンナン)娘 誰も彼も 手に手に翳す日章旗 可憐な瞳見る度に 血の近さをば感じます」
日中戦争が長引く中、日本軍は南方から中国への物資ルートを断とうと南進する。ちょうど欧州で第二次世界大戦が始まってフランス軍が占領していたインドシナ半島(仏印領という)が手薄になっていた時期で、まず前年の15年(1940)、北部仏印まで侵攻し、そこからこの年には今のベトナム南部まで侵攻し占領した。ベトナム(越南)という国名はまだなく、安南人と呼んでいた。サイゴンは現在のホーチミン市。
このころの人気歌手上原敏は『上海だより』をヒットさせた以後、『南京だより』『北満だより』など、「たよりもの」と呼ばれる一連の曲があり、これもその中のひとつ。一連のたよりものは、日本軍の起こした事変や進駐にあわせて作られていて、また兵士から母親にあてた手紙の形式をとっている。「手に手に翳す日章旗」とは、もともと現地では日章旗を用意しているはずもないから眉唾であると思っていたが、昭和12年の上海攻略の時に、一部の住民は日本軍に乱暴略奪されるのを警戒して家に手作りの日章旗を掲げたという話が残っていて、その後も日本軍の侵攻先では同じ話が残っている。日の丸は作るのは簡単であるから事実かもしれないが、娘の「可憐な瞳」というのも日本兵の妄想を手助けするものであろう。
昭和17年(1942年)
軍事的背景
日中戦争(各種侵攻作戦)
前年1941年12月8日、日本が米英に対して宣戦布告したとのニュースに、重慶の蒋介石中華民国政府は狂喜した。そして12月9日、中華民国政府は日独伊に宣戦布告し、正式に米英側の連合国となった。1月1日、蒋介石は「日本は一時の興奮を得るが、結局は自滅する」と語ったというが、日本軍の性質を知ってのことであったろうか、結果的にその通りとなる。また日本軍は太平洋戦争を展開しながら中国戦線もさほど停滞させることなく、中国各地への侵攻作戦を続けた。
【第二次長沙作戦(続)】
無理を押したこの作戦で苦闘した日本軍は、年初から一進一退の攻防を繰り返し、軍司令部の戦闘中止命令で撤退することになり、それを中国軍が追撃して日本軍は大きな損害を出しつつ、1月16日ごろ帰還した。この作戦における日本軍の損害は戦死1591人、戦傷4412人であった。また、この作戦で中国軍に与えた損害は、遺棄死体約2万8612、捕虜1065人であると報告されているが、重慶国民政府はこの会戦における完全勝利を宣言、日本軍の損害を死傷5万6944人、捕虜139人、捕獲品多数と発表し、内外に対し戦勝の宣伝に努めた。戦後、蒋介石は「抗日戦でもっとも納得できる快勝」と回想し、日本側師団長の一人は「思い出したくもない、第二次長沙は恐怖の一言に尽きる」と評した。
【浙贛作戦】(5月−9月)
4月18日、太平洋上の米軍の空母からB25爆撃機16機が東京・名古屋・神戸などに対し日本本土への初空襲を成し、その帰着地が主に中国の飛行場であった。その飛行場を破壊する目的で、浙江省と江西省にまたがる地域(浙贛:せきかん)にかけて攻撃が行われ、約12−18万の兵力を用いた。この作戦には浙江省東部一帯の蛍石産地の占領もあったと言われる。大企業と軍部が連携して利権獲得に動いた作戦である。つまりこのような目的で兵士を道具として使うわけで、これはどの国にもある。飛行場破壊にともなって「飛行場を中心とする半径1.5km周辺地域の施設、利敵民家、樹木、橋梁はほとんど破壊」するとし、浙江省内の主要鉄道も破壊した。また沿線の民船約800隻を押収し、水陸輸送能力を撃滅するというような破壊方法だった。日本軍はこの戦役で約1万7千人の戦死傷者を出している。
【細菌作戦】
この一方で(前年にも触れたが)鉱山のある金華を中心とした都市への侵攻がうまくいかず、そこで関東軍731部隊(部隊長石井四郎)その他が参加し、8月下旬に玉山、金華、浦江の諸都市付近でペスト菌、コレラ菌、チフス菌等を前年と同様、感染したノミを穀物に混入して飛行機から低空で撒布、あるいは菌の入った水筒を貯水池、河川、井戸に投込み、あるいは事前に作って注射器で有毒な細菌を注入した餅や饅頭やビスケット、あめを、撤退する日本軍が置き忘れたように見せかけて食べさせた。そして細菌に犯され多くの死亡者が出た村は焼き払うなどもした。また3千人の中国兵捕虜に細菌入り饅頭を食わせて釈放した場合もあった。しかしこれは極秘作戦であり、知らされていなかった前線の日本兵は汚染された地域に踏み込み、自身に多くの被害を出した。日本軍の1万人が感染し、1200人以上の兵士が死亡した(1700人以上の説も)。広範囲に実行されたこの細菌作戦は敗戦の年、昭和20年(1945)まで目立たないように実施された。これらによる中国側の犠牲者は60万人に上るともされる。
5月2日、湖北省宜昌市へ300kgの毒ガス・イペリットを散布、4日、雲南省保山への大量爆撃のうち、細菌弾も同時に投下、数日後に保山、施旬にコレラが爆発的に流行し、保山でコレラに罹って死んだ人は6万人、施旬ででは1万以上に達した。その後雲南58の県市でコレラが拡散し、患者は12万人以上、死者は9万人以上だった。
8月8日、四川省(重慶)梁山を爆撃、爆弾20発のほか、「細菌弾」4個を投下。19日、西省上饒市玉山・広豊から浙江省衢州市江山金華に向けて撤退する時、細菌に感染したノミを空より散布し、また地上ではペスト・コレラ・チフス菌などの入った瓶や缶、水筒などを井戸や沼や貯水池に投げ入れ、また二棟の収容所に約3000人いた中国兵捕虜に細菌入り饅頭を配って食べさせて釈放したと言う(元衛生兵の証言)500人以上いた毛宅村は200人になり、稲刈りの農繁期に人手がなく、稲を腐らせてしまった。
9月21日、浙江省義烏市崇山村の上空で、日本の戦闘機が音のしない爆弾を落として飛び去った。それから一週間後、崇山の村道や農家からネズミが大量に出てきて死んだ。直後、村に最初の患者が現れ、不思議な死に方をした。翌日、看病した王道生夫妻も死んでしまった。それから崇山村では日一日と、口から泡を吹いて人が死んでいった。死者が400人に達するあたりの11月18日、日本軍の化学防護服を着た部隊が突然崇山村を包囲し、彼らは生き残った者たちを一人ずつロープで繋ぎ、銃剣で追い立てて近くの山林寺に連れて行き殺害、その後家々は焼かれた(時隠れて生き延びた王潤華の証言)。1946年8月2の極東国際軍事裁判で、元日本軍731部隊支隊長は、この部隊が中国の浙江省一帯で細菌兵器を使用したことがあると明らかにした。
【中国側の戦死者】
7月6日、日本の大本営は支那事変(日中戦争)5周年にあたり、敵遺棄死体233万8千人、撃墜・破壊飛行機2800機と発表。中国側の死者は日本陸軍が中国軍遺棄死体として確認できた数値であり、これ以外に飛行機の銃爆撃による兵士と民間人の死者、河川上の砲艦爆撃による死者、さらに占領軍による捕虜や民衆への虐殺もあり、殲滅作戦による村の住民ごとの虐殺も含めれば(捕虜や住民に対する虐殺は「敵死」には入れない)、この時点でも500万人は軽く超えるであろうし、これ以降もまだ三年続く。これだけでも日本の戦争犠牲者をはるかに超え、この重い事実も戦後の日本は振り返ることをしないからほとんどの人は知らない。
太平洋戦争
【同時多方面作戦による快進撃】
太平洋戦争は昭和16年(1941)12月8日、海軍戦闘機によるハワイ真珠湾攻撃で幕が開かれたというのが一般的になっているが、日本軍はすでに8月よりは南方作戦の実施をを計画していた。南方作戦の攻略目標は、ハワイの他にマレー、フィリピン、ジャワの三つが柱になっていた。同日、海軍はハワイとフィリピン(米国領)、さらにグアム(米国領)を空襲爆撃し、陸軍は香港(既述)の他にマレー半島(英国領)に奇襲上陸した。グアムは10日に占領し、マレー作戦はシンガポール攻略を最終目標にしていて、日本軍は1月11日にクワラルンプールを攻略、フィリピンに上陸した日本軍は1月2日、マニラを占領する。ジャワは蘭印(オランダ領東インドシナ、現在のインドネシア)と呼んでいて、東洋最大の石油基地やその他鉱物資源が豊富にあった。この蘭印作戦としては、オランダはすでにナチスの占領下にあり、イギリスに亡命政府を作っていたから、仏印のフランス領の場合と同様、日本軍は無血進駐を工作したが亡命政府は拒否、それによりオランダに宣戦布告し、1月11日、オランダ領ボルネオ島北部のタラカン島に上陸して数日で占領、25日に石油などの資源産出地の一つバリクパパンを占領した。
日本軍は転戦してオーストラリア領ニューギニア(現パプアニューギニア)の重要な拠点であるカビエンとラバウル占領を計画、1月23日までに攻略した。この後日本軍はこの港を大規模な基地とし、またオーストラリアの飛行場も整備し直した。ただこの時、捕虜となった約千人のオーストラリア軍兵士のうちおよそ160人が4つの独房で日本軍に虐殺され、生存者6人が証言した。その他のオーストラリア軍兵士845と民間人172、他36、計1053人の捕虜は、この年の7月1日に、輸送船「もんてびでお丸」でラバウルから日本へと向かう途中(日本国内での労役のため)、アメリカ軍の潜水艦スタージョンによって撃沈され命を落とした。生存者なしである。
【初期の犠牲者と想定外の捕虜数】
この初期の戦闘での香港以外の犠牲者は以下である。真珠湾攻撃:日本軍戦死64/米軍戦死2334、戦艦4隻沈没、4隻損傷。マレー上陸作戦:日本軍戦死1770人、戦傷者2437人/イギリス・オーストラリア連合軍の戦死傷約2万5000人、捕虜約8000人。マレー沖海戦:日本軍戦死21人、戦艦沈没等により英軍840人。フィリピン戦(米国領):日本軍戦死・行方不明約4417人、戦傷6808人/米・比連合軍戦死2万5000人、戦傷2万1000人、捕虜8万3631人。グアム島戦(米国占有地):日本軍戦死傷7人/米軍戦死傷約120−130人。ウェーク島戦(米国占有地):日本軍戦死504人、戦傷174人/米軍戦死122(うち民間人70)−130人、戦傷50人、捕虜約1600人(民間人含む)。以上で1月初旬までの日本軍戦死は約6800人で、相手方は4万人を超える。
次に2月14日、オランダ領インドネシアの今一つの東洋最大の石油基地、スマトラ島のパレンバンへの攻略を開始、この時に落下傘部隊を使うという奇襲作戦で占領に成功した。この落下傘部隊は「空の神兵」と呼ばれ、映画や歌にもなった。ここからの石油は戦争終盤に米軍潜水艦によって石油輸送船が次々と撃沈されるまで、日本に貴重な石油を供給し続けた。戦争というものはこのように無条件に相手の資源物資を略奪できるから、勝てばこれ以上のことはない。
2月15日、マレーシアから転戦した日本軍は、英国の占領するシンガポールを陥落させた。ここまでは驚異的な速攻攻撃であったが、イギリス・オーストラリア軍にとっても予想外の作戦で、早々と撤兵を決めた。この作戦間の戦果と損害は、日本軍の戦死1713人、戦傷3378人。イギリス軍は約5000人が戦死し、同数以上が戦傷したが、イギリス軍は植民地インドなどから調達した多民族からなるまとまりのない軍隊であった。シンガポール陥落により約8万人のイギリス軍将兵やイギリス領インド軍兵士、オーストラリア軍将兵が捕虜となり、これまでにマレー半島の戦争で投降した5万人に加わった。これは想定外の数で、日本軍を困惑させ、それだけの食料も用意できず、その処遇は劣悪で大きな禍根を残した。この戦勝に対し日本国内では各地で祝勝会が行われ、提灯行列も行われ、「侵略の地に 共栄の日章旗、征け 米英にとどめ刺すまで」などが唱えられた。「侵略の地」が簡単に「共栄」の国になるとは思えない。それよりもこの4年前の日中戦争では、「捕虜は取らず」の方針が打ち出され(進軍の足手まといになり食糧も用意できないという理由)、ほぼすべて殺してしまったという事実が残る。
年初にフィリピン・マニラの占領に成功した日本軍はこの2月、米・比軍が撤退したバターン半島の要塞攻略に取り組んだが、2週間で約2000名の死傷者を出し、一旦攻撃を中断、3月下旬に再度攻撃し、4月9日に占領、この時捕虜となった米・比軍はこれも約7万6千名という想定外の多さであり、一部を除いて鉄道のある駅までの83kmを徒歩で護送した。しかし捕虜達の食糧も用意できず、飢えと疲労が重なった捕虜にとって炎天下の行軍は拷問で、途中で1200名のアメリカ人と1万6000名のフィリピン人将兵が死亡したといわれる(バターン死の行進)。また4月半ば、日本軍は米・比軍が残っていたコレヒドール島要塞へ攻撃を向け、6月9日までに米比軍の全部隊が降伏し、そこまでの日本軍の戦死4130、行方不明287、戦傷6808人の犠牲者を出し、米・比軍側は戦死2万5000人、戦傷2万1000、捕虜8万3631人であった。
12月8日にマレー半島に上陸した日本の別部隊は、タイ国内に順次進駐し(当時タイは友好国)、タイ・ビルマ国境に集結し1月18日、国境を越えイギリス領ビルマへ進攻し、3月8日にラングーンへ入城した。さらに4月上旬から北部ビルマへの進撃を開始、イギリス軍と中国軍を退却させて5月下旬までにビルマ全土を制圧した。
2月下旬、日本海軍は米英蘭軍連合艦隊とのスラバヤ沖とバタビア沖海戦などで勝利、ジャワ島近海の制海権は完全に日本軍のものとなり、3月1日、日本軍は一斉にジャワ島に上陸し首都バタビア(ジャカルタ)を占領した。このジャワ作戦の日本軍の戦死840人、戦傷1784人で、連合軍の死者は不明で捕虜 8万2618人(蘭印軍6万6219、オーストラリア軍4890名、イギリス軍1万626名、アメリカ軍883名)であったが、これも想定を超える多さであった。
続いて3月7日、日本軍は飛行場と港湾の適地であるニューギニアのラエとサラモアに上陸、どちらも米豪連合軍はすでに撤退していたためそのまま飛行場などを占領した(この二つの基地は翌年9月には連合軍によって奪還される)。続いて27日、日本軍はボルネオ島やスマトラ島の残部などを制圧し、蘭印軍スマトラ司令部は日本軍に降伏する。すでにオランダ本国はナチスドイツに占領されていて戦意はなかった。
【その後の作戦展開と実情】
ここまでで日本軍は計画していた東南アジア全域制覇したことになる。しかし日本軍の快進撃もほぼこのあたりまでであった。ここから2年と4ヶ月後、米軍は十分な戦力でフィリピンに戻ってきて、日本軍は約43万人の戦死者を出し、これ以上のフィリピン民間人も犠牲にして完全敗北する。
<アリューシャン作戦>
大本営の作戦指令により、まず6月3−7日にかけて、アメリカ領アリューシャン列島のアッツ島、キスカ島に向けて空母2隻その他をもって攻略が行われたが、両島ともアメリカ軍の守備隊は存在していず、日本軍は容易に両島を占領した。これはアメリカにとって初の領土(植民地を除く)喪失であった。しかし翌1943年5月12日、アメリカ軍がアッツ島に上陸を開始、アッツ島日本軍守備隊は上陸したアメリカ軍と17日間におよぶ激しい戦闘の末、5月29日に玉砕した(戦死 2371、生存=捕虜29名)。太平洋戦争において初めて日本国民に日本軍の敗北が発表された。同時期にアメリカ軍はキスカ島奪回に向かったが、樋口季一郎中将らの判断により、濃霧の深い夜を利用して陸海軍あわせて6000人余の守備隊を米軍上陸前に脱出させ、部下の命を守った。
<ミッドウェー海戦>
6月4日、日本海軍はミッドウェー島攻略作戦を行うが、米軍は日本軍の暗号解読に成功していて日本軍を迎え撃つ形となった。前日からお互いに艦船戦闘機による攻撃を開始、日本軍はミッドウェー島の航空基地を攻撃するが、米軍は多数の飛行機を退避させていた。その後の本格的海戦では戦闘機による空母への爆撃戦が主体で、日本軍は航空母艦4隻全てと戦闘機289機喪失を失い、米軍は母艦1隻で日本は敗退した。日本軍の戦死3057人(航空機搭乗員の戦死者は110)、米軍戦死307人であった。ただ、仮にアッツ、キスカ島に向かわせた2隻の空母をミッドウェーに参戦させていれば、米軍は負けていただろうとニミッツ司令官は後で述べている。これは初期に成功した多方面作戦を踏襲して失敗した例である。この海戦について大本営発表では国民には「我が方の損害として空母1隻喪失、同1隻大破」という勝利したように伝えられ、その実態については海軍内はもとより陸軍内でも情報統制がなされた。そのことで作戦計画の反省や検証がなされず(隠すことが先にあるから)、後々の方針に生かされることはなかった。しかもこの戦闘で生き残った兵士たちは本国に戻ると病棟へ監禁され、その後東南アジアの激戦地に送られ、その多くが餓死した。
<ポートモレスビー作戦>(スタンレー作戦:7/21−翌年1/22)
まず5月に入り、ニューギニアの首都ポートモレスビー攻略を目指して珊瑚海に進出する日本軍の計画に対し米軍は先行攻撃し、計画は頓挫した。海側からの攻略に失敗した日本軍は7月、改めて半島の反対側の陸路から高さ4000mのスタンレー山脈を越えてポートモレスビーを攻略する無謀な作戦に出た。21日、日本軍は進撃を開始し、29日には半島中央のココダの豪軍陣地を占領した。そこからさらに山岳と密林の中で苦戦しつつ9月には敵陣の数カ所を占領した。しかしガダルカナル島の戦局劣勢により援軍も来ず、日本軍は食料も危機的状況に陥り、栄養失調やマラリアで動けない兵士が多くなり、主力の撤退を開始する。そこからオーストラリア軍は反攻に転じ、日本軍は上陸地点の基地まで後退した。そこでは米軍の空爆を受け、海からの援軍の補給も滞った。それでもこの戦闘は翌年1月22まで続けられ、日本軍はほぼ全滅、将校の多くは自決した。しかし2月9日、大本営は「一月下旬陣地を撤し他に転進せしめられたり」と虚偽の発表をした。この作戦での日本軍の戦死者は約2万1100(その多くは餓死や病死)、連合軍は約7520である。特に最後の戦闘では日本軍の戦死者は約7000で捕虜約70人を残すのみとなっていた。
<ガダルカナル島の戦い>(8/7− 翌年2/7)
日本海軍はアメリカとオーストラリアの間の交通を分断してオーストラリアを孤立させる作戦を立て、5月3日にガダルカナル島(ソロモン諸島の本島)の北部に上陸して占領、そこから防衛線としてフロリダ諸島のツラギを中心として飛行場の建設を計画し、8月には完成して戦闘機を配置する準備をした。それに対して連合軍は8月7日、ツラギなどの三島に分散上陸して飛行場や基地を攻略、それにより翌日、日本軍合わせて約1100人が全滅、残り3人のみが捕虜となった(米軍の戦死者は122)。この小さな島々がいわゆる「玉砕」の始まりである。
ここからガダルカナル島の戦いが始まると、日本軍は戦力(兵員、航空機、艦船)をガダルカナル島に優先投入し、飛行場を巡る地上戦では9月まで対等の戦いであったが10月からは劣勢になり、しかも食料の陸揚げにも失敗し、兵士たちは饑餓状態になった。しかも米軍は別の場所に密かに飛行場を作り、空でも優勢になった。この戦いではラバウルの航空隊が支援したが、往復2000kmもの長距離飛行を強いられ、多くの航空機と貴重な熟練搭乗員を失った。この結果12月末に日本はガダルカナル島からの撤退を決定、大本営発表は「部隊は……激戦敢闘克く敵戦力を撃摧(げきさい)しつつありしが、その目的を達成せるにより2月上旬同島を撤し、他に転進せしめられたり」というもので、ポートモレスビー作戦同様、敗北は糊塗された。
この戦いにおける日本軍の上陸した総兵力は3万1404人(3万6200人とも)、戦死1万9200人(2万2500人とも)、うち戦闘による死者8500人、つまり残りの1万700人は餓死と病死(マラリアなど)などであった(別に戦闘での戦死者は約5000人、残り約1万5000人は餓死・病死との説もあるが、これに行方不明が1000人以上加わる)。さらに捕虜約1000人、軍艦38隻、航空機683機損失。アメリカ軍の死者7100人、負傷者7789人以上、軍艦29隻、航空機615機を損失。撤退作戦については参加した海軍輸送部隊指揮官の言によると、傷病兵の多くは捕虜になることを防ぐため手榴弾などで自決するか、戦友たちの手(銃・銃剣など)によって葬られたという。2月から撤退作戦が行われ、奇跡的に撤退できたものは約1万1000人であった。しかし撤退できた将兵の多くはそのまま南方地域の激戦地にとどめ置かれた。これも敗戦の隠蔽工作の一つである。ちなみにガダルカナル島には密林が多く、その中で生き残った兵士もいて、最後の日本兵が投降したのは、終戦2年後の昭和22年(1947)10月であった。これに似た例は各地で多くある。
<りすぼん丸事件>
10月1日、前年末に香港で降伏した英軍捕虜を輸送船りすぼん丸で門司に輸送する途中、米潜水艦の魚雷が右舷石炭庫に命中、炸裂したがすぐに沈没することはなかった。ところが甲板にいた捕虜たちは即座に船倉に追いやられ、船倉内に閉じ込められた。遅くなって駆逐艦が機関がりすぼん丸の救助に駆け付けたが、先に内地に帰還する日本軍兵士778名を駆逐艦に移乗させ「りすぼん丸」を浅海まで曳航することになった。軍の輸送指揮官は人命を優先するという船長の意見を無視し、浸水が始まった船倉内の捕虜を放置した。2日の夜明け、船は浅瀬に着底して突然傾斜し、沈没の危険に瀕した。船長は総員退去を要請したが指揮官はこれを拒否、捕虜はパニックになって甲板に殺到して海中に飛び込んだが、それを警備兵が上から射撃した。後部にいた捕虜たちは自軍の将校の命令に従って規律を守って脱出した。そこに日本側の巡視艇や多数の中国人のジャンク船などが来て遭難者を救助し、約200人の捕虜は近くの島に泳ぎ着いた。10月5日までに捕虜は上海の埠頭に集められ、日本への移動を続行することになったが、当初の1816人の捕虜うち842人が溺死するか、射殺された。重傷病者35名を上海に残置し、3名は中国人に匿われ隠れたままで、残り936人が「真盛丸」で日本に移送された。門司に到着するまでにさらに5名が死亡した。(POW研究報告書より)上記の「もんてびでお丸」でも捕虜たちが撃沈されて犠牲になっているが、戦時中はこの後も頻発する。
<その他>
2月19日:ルーズベルト米大統領が日系人11万人の強制収容に踏み切る。
4月18日:太平洋上のアメリカ空母艦から、B25爆撃機16機が東京、名古屋、神戸などを初空襲。東京では荒川区や葛飾、品川、渋谷などが被害を受けた。国内の死者87人、重軽傷460名(ドーリットル空襲)。 作戦遂行においては中華民国軍の支援を受けており、日本本土爆撃を終えたB25のうち15機は中国に不時着した。そのうち数機は日本の占領地であり、8人が捕虜として拘束された後、上海市で開廷された軍事裁判の結果「人道に反する行為を犯した罪」という戦犯扱いで死刑が言い渡された。これまで日本自身が中国各地で毎日数回以上も行なっている爆撃はなんなのであろうか。ただし実際に処刑されたのは3名で、残りは無期監禁とされた。これに対しアメリカは猛烈に抗議した。
8月13日:米国でマンハッタン計画が開始された。これは原子爆弾製造計画で、当初はナチスドイツ軍に対抗するためであったが、結果的に日本に使用された。
軍歌(昭和17年:1942年)
『空爆の歌』
作詞:勝承夫/作曲:林伊佐緒
1
翼の日の丸朝日を受けて
進む雄々しい飛行隊
行けよいざ行け爆弾投下
空の勇士の意気を示せよ
2
「よし」と落とせばそれ黒煙
木っ端微塵の敵の陣
胸もすくよな爆弾投下
空の勇士の意気を示せよ
(以下略)
この時期、中国戦線で首都重慶その他の都市への空爆を続けていて、それを想定してのことであろうが、これだけの爆撃を繰り返せば当然無差別空爆が避けられない。「胸もすくよな爆弾投下」とは、爆弾を落とされた地上の人々の惨劇が見えないから言えるのであって、これが近代戦争の残酷な面である。米軍はこの年の4月、太平洋上の空母から16機の爆撃機B25を発進させ、東京を含めた大都市に爆弾を投下し国内で最初の犠牲者を出した。しかしここから2年半の間、米国は周到な準備に徹して大型爆撃機B29を大量生産し、19年(1944)の半ば、サイパン島などを日本から奪還し、そこを基地として11月24日から東京を手始めとして日本各地に大空襲を展開していく。日本はこのような歌ばかり量産して士気を高めようとしても、勝てるわけがなかった。
『還らぬ白衣』
昭和17年 作詞:石松秋二/作曲:長津義司/歌:東海林太郎
1
つわもの達は銃を執り
君は担架と弾丸の中
愛の天使は赤十字
真白い腕血に染めて
憐れ黒髪還らぬ白衣
2
病院船の揺れる灯に
乳房押さえて阿呆鳥
愛の天使は赤十字
皇国の為に母の身を
海の果て行き還らぬ白衣
3
サルビアの花ほろと散る
野戦病舎の夜の窓
愛の天使は赤十字
看とるその身を看とられて
純情(まこと)捧げて還らぬ白衣
(4略)
とりわけ赤十字社の看護婦は、徴兵される男性と同様に召集令状が届き、時には前線近くまで行って傷病兵の手当てをした。野戦病院も爆撃され、あるいは病院船が魚雷で撃沈されて死ぬ例もあったが、伝染病などの病死が多かった。「愛の天使は赤十字」というが、赤十字は世界的な組織であって、敵方の赤十字にもその愛の天使がいたはずである。つまり両者ともこんな戦争が早く終わってほしいと心の中で願っていたはずである。
以下、同様の歌二例。
『白衣の進軍歌』(作詞:島田磐也/作曲:阿部武雄)
1
波の花散る玄海を
越えて遥々戦場へ
進む白衣に火と燃ゆる
愛と正義の赤十字
2
野辺の草葉を朱に染め
伏して傷付くつわものを
運ぶ担架も仮病舎
同じ祖国の血が熱い
(以下略)
『白衣の勤め』(小学生用文部省唱歌)
1
白衣の勤め乙女にあれど
軍の庭に雄々しく出でて
勇士守らん御国の為に
2
御楯と立ちて戦う軍
痛まし君が深手を看取り
巻くは白妙真心込めて
(以下略)
唱歌が作られなくなり、文部省はこのような歌を作って子供に歌わせた。これで子供が自分も看護婦になって「御国の為に」役立ちたいと思ったかどうか。以下も同じ唱歌である。
『無言のがいせん』(無言の凱旋)
昭和17年 文部省唱歌:国民学校初等科4年向。
1
雲山万里を かけめぐり
敵を破った おじさんが
今日は無言で 帰られた
2
無言の勇士の がいせんに
梅のかおりが 身にしみる
みんなは無言で おじぎした
3
み国の使命に ぼくたちも
やがて働く 日が来たら
おじさんあなたが 手本です
「無言のがいせん」とは、戦死して遺骨を納めた白木の箱で帰還してきて、町村内で迎えるということであるが、それをあえて凱旋と呼ばせる。名誉の戦死であり、英霊となって凱旋して帰ってきたということである。おじさんは近所のおじさんであろうが、出かける時には町や村中で「祝〇〇君出征!」と幟を立て、日の丸の旗に「祈必勝」などの寄せ書きをもらって、みんなの万歳三唱を受けて敬礼をして「意気揚々と」(内心は違うであろう)出かけて行くのである。そばでは母親や妻が涙をこらえて見守っていたことであろうが、家に帰ると人目のつかない場所で涙するのである。みんなの前で「生きて帰ってこい」などと言えなかった。言えば近くで監視している特高警察が「非国民!」として殴りつけるのである。そして案の定生きて帰ってこなかった。その光景を、小学生に「あなたが手本です」と歌わせるのである。
この17年の時代はまだましであった。その後戦死者が加速度的に増えて行くが、仮にも玉砕戦法が採られたりすると、骨など野ざらしで、誰も拾いに来ない。すると白木の箱が家族に届けられる場合、その中には何のつもりか、石ころと戦死広報(死亡通知書)が入っていて、骨などない。そのうち残された中年の男性たちが出征する場合は壮行会など行われなくなり、むしろ人目につかないように出て行くようになった。世間には暗い空気が漂うようになるが、それでも軍政府は数々のスローガンをひねり出して国民を煽り続けるのである。
『大東亜決戦の歌』
昭和17年3月 作詞:伊藤豊太/作曲:海軍軍楽隊
やはり東京と大阪毎日新聞が募集した懸賞歌である。12月8日の太平洋戦争開戦の翌日募集され、5日後、1941年(昭和16年)12月13日に締め切るという日程で作られた。当初は「興国決戦の歌」と題がつけられたが、12日に軍政府は「大東亜戦争」と名付けたから、それに倣った。詞はコロムビアレコード勤務の青年、曲は海軍軍楽隊が作った。音盤は二社によって歌手別に作られた。米国の真珠湾と英国領のマレー半島への同時奇襲攻撃が大成功となり、しばらくは快進撃が続き、泥沼の日中戦争(支那事変)の閉塞感を払拭したわけであった。
1
起つや忽(たちま)ち撃滅の
かちどき挙がる太平洋
東亜侵略百年の
野望をここに覆す
いま決戦の時来る
2
征くや激しき皇軍の
砲火は哮(たけ)ぶ大東亜
一発必中肉弾と散って悔いなき大和魂
いま尽忠の時来る
3
見よや燦(さん)たる皇国の
歴史をまもる大決意
前線銃後一丸に
燃えて轟くこの歩調
いま興国の時来る
4
いざや果たさん十億の
アジアを興す大使命
断乎 膺懲(ようちょう)堂々と
正義貫く鉄石心
いま決戦の時来る
「東亜侵略百年の野望」とは、明治以前からの欧米のアジア各地の植民地化を言い、それを大日本帝国が覆す、つまり日本が欧米に代わってアジアの盟主となって支配するということである(すでに台湾と朝鮮と満州を植民地としているから、その延長でやっていくということ)。そのための「十億のアジアを興す大使命」による大東亜戦争ということになる。全体的にも威勢のいい言葉が飛び跳ねていて、その羅列である。ただ、「皇国の歴史をまもる」ということ、あるいは「興国」がどうして「十億のアジア」につながるのかよくわからない(すでに日本自身は明治時代に「皇国の歴史」を復活させ、「興国」を成し遂げているはずである)。ここにまた当然のように「正義貫く」という言葉も入っているが、この裏で続いている日中戦争も堂々の行軍による正義に戦いであったはずで、どうしてそれが展望の見えない戦いになっていたのか、そのために(中国から撤兵するようにと)米欧から経済制裁を受け、それを拒否してあえてこの大戦争に突入し、何の見通しもなく「十億のアジア」、つまり戦争を仕掛けている中国にも東南アジアにも一致協力させて欧米に対して戦うように仕向けようとしたのであろうが(実際に「十億の進軍」という歌も出る)、せいぜい台湾と朝鮮の人々を日本軍と一緒に徴兵し、彼らをも死地に追いやっただけである。このような何の実態もない歌を選定する当時の新聞社も罪の片棒を担いでいたというほかない。
『進め一億火の玉だ』
昭和17年 作詞:大政翼賛会/作曲:長妻完至 (NHK国民合唱「決戦の歌」の一つ)
1
行くぞ行かうぞ ぐゎんとやるぞ
大和魂だてぢゃない
見たか知ったか底力
こらへこらへた一億の
かんにん袋の緒が切れた
2
靖国神社の御前に
拍手打ってぬかづけば
親子兄弟夫らが
今だたのむと声がする
おいらの胸にゃぐっときた
3
さうだ一億火の玉だ
一人一人が決死隊
がっちり組んだこの腕で
守る銃後は鉄壁だ
何がなんでもやり抜くぞ
進め一億火の玉だ
行くぞ一億どんと行くぞ
戦前のこのレコードの最後には「進めぇーー!一億!火の玉だぁー!!行くぞぉー!!一億!どぉんとぉ行くぞぉおおー!!」という発狂気味の絶叫が入っているという。
大政翼賛会作詞とは、当時の国の非常時体制における国会の統一会派、大政翼賛会が作った戦意高揚歌ということである。国のレベルがこれほどにお粗末な歌を作るとは、この戦争は彼らには最初から無謀な戦争ということがわかっていたから、国民一億(日本の植民地台湾・朝鮮を合わせた数)を火の玉のように進めさせれば何とかなると思っていた心がそのまま出ているようにも思われる。いずれにしてもこのような頭のレベルの軍政府に引きずられて国民は戦争に追い込まれ、むざむざと多くの命を失ってしまった(海外の「敵国」の人たちの多くの命をも)。それも当時の軍政府の連中よりもずっと国の発展に役立つはずの多くの若者が、その将来の夢を閉ざされ、「国のために」と親より先に死んで行った。老親より先に死んで行くことがどうして国のためになるのか、その論理がわかる人がいるなら教えていただきたい。その国とは、このような低レベルの歌しか作り得ない連中で成り立っている。つまり彼らのその場その場の見栄や体裁のために若者は戦場に送られた。そうではない、天皇のためだと語る人もいる。では果たして昭和天皇が「余のために」と、捨てるに惜しい才能を多様に持つ若者を戦場に送ることを望まれたと、本当に思っていたと思われるのか。逆に言えば、天皇が自分のためにと命を捨てる若者が多いのを見て、本当に喜ばれたとでも思われるか。「天皇のために」と言い続けたのはどこまでも当時の頭のレベルの低い軍政府の要人たちであって、開戦しかないと(彼らにとって都合のよい情報しか与えられなかった)天皇を「やむ得ない」とうまく説得したのも、その要人たちであった。なお、「進め一億火の玉だ」は、敗戦までスローガンとして使われた。
〇 開戦以来この三月までに出された便乗レコードは数多く、「戦ひ抜かう大東亜戦」・「一億の決死隊」・「一億の総進軍」・「一億の総進撃」・「総進軍の鐘は鳴る」・「ハワイ大海戦」・「大東亜行進歌」・「特別攻撃隊」・「十億の進軍」・「国民総出陣の歌」・「枢軸軍総進軍の歌」、「必勝進軍」、「世紀の決戦」、「生命かけての突撃だ」、「日本の決意」・「頑張りどころだ」・「断じて勝つぞ」・「僕等の誓ひ」・「やつたぞ万才」・「感激の合唱」・「感激と感謝」・「打倒米英」・「撃て米英」・「屠れ米英我等の敵だ」・「産報青年隊歌」・「アジアの力」・「マレー沖の凱歌」・「大日本青少年団歌」・「決意一番」等々である。
これに備えるかのように、4月には日本蓄音機レコード文化協会(現・日本レコード協会)が発足し、9月には「民心ノ鼓舞」を目的とした「演奏家協会音楽挺身隊」、11月には音楽家の一元化組織「日本音楽文化協会」が発足した。また10月には14の音楽雑誌が統合され、今日も続く『音楽之友』などの六誌が創刊された。こうした組織や雑誌をベースに、太平洋戦争期は軍歌が陸続と発信されていくことになり、日本は欧米先進国と並ぶ「音楽大国」となっていた。軍隊も積極的に音楽を利用し、音楽業界は「レコード報国」を率先して行った。業界にとっては、前線でどれだけ兵士の犠牲が出ようとも、レコードが売れて儲かればいいのである。
当然子供にも直接影響があって、当時月二回のぺースで発行されていた『講談社の絵本』に『日の丸バンザイ』があって、「ニッポンヨイクニ ツヨイクニ カガヤクヒノマル フジノヤマ」ではじまり、そこに「軍歌と愛国歌」のページに、「海ゆかば」「愛国行進曲」「軍艦行進曲」「進め一億火の玉だ」「荒鷲の歌」「アジヤの力」「太平洋行進曲」「国民進軍歌」「空襲なんぞ恐るべき」などがふりがな付きで絵とともに掲載されていた。
『空の神兵』
昭和17年4月 作詞:梅木三郎/作曲:高木東六
大日本帝国陸軍・海軍の落下傘部隊の落下傘兵(空挺兵・挺進兵)を描くもので、のちにこれを主題歌として映画化された。太平洋戦争突入後の蘭印作戦で、17年1月11日、海軍の横須賀鎮守府第一特別陸戦隊がセレベス島メナドに侵攻し、2月14に陸軍の第一挺進団がスマトラ島パレンバンの敵前に奇襲落下傘降下を敢行、作戦は成功しオランダ軍が守備する飛行場(メナドとパレンバン)や大油田・製油所を制圧した。これらの活躍から日本軍落下傘部隊に対し「空の神兵」の愛称が付けられた。軍歌としては異色な曲調でヒットした。作曲者の高木東六は戦後も活躍した。なお、他に落下傘部隊を歌った軍歌として、『陸軍落下傘部隊の歌』(陸軍航空本部選詞・山田耕筰作曲)と『海軍落下傘部隊の歌』(米山忠雄作詞・江口夜詩作曲)があり、ともに同年に発売されている。
1
藍より蒼き 大空に大空に
たちまち開く 百千の
真白き薔薇の 花模様
見よ落下傘 空に降り
見よ落下傘 空を征く
(最終行繰返し、以下同)
2
世紀の華よ 落下傘落下傘
その純白に 赤き血を
捧げて悔いぬ 奇襲隊
この青空も 敵の空
この山河も 敵の陣
3
敵撃摧(げきさい)と 舞い降る舞い降る
まなじり高き つわものの
いづくか見ゆる 幼(おさな)顔
ああ純白の 花負いて
4
讃えよ空の 神兵を神兵を
肉弾粉と 砕くとも
撃ちてし止まぬ 大和魂(だま)
我が丈夫(ますらお)は 天降(あまくだ)る
我が皇軍は 天降る
歌詞自体は大変うまくできている。当時の軍国少年たちもこの歌を聞いてさぞ興奮し胸躍らせたのではないかと思われる。ただこれは常識的に見れば敵(勝手に侵攻した相手国)の大油田・製油所を奪い取るという、いわば大泥棒の行為を、素晴らしく勇敢な行為だとして飾り立てて賛美しているわけである。もともと真珠湾奇襲攻撃と同時に行われた東南アジア侵攻は、米欧の日本への経済制裁により国内の石油が枯渇し、まずそれを補うことが最大の目的であった。この油田と製油所はもともとこの地を植民地にしていたオランダの大手石油メーカーが大きな投資をして開発、建造していたもので(そもそもその土地をオランダも奪っていた)、海賊も足元に及ばないほどの略奪行為である。果たしてこの中に軍歌の詩の中に散りばめられる「皇道」や「大義」や「正義」や「仁(人間愛)」があるのか考えてみればよい。少なくともこれによって、これまで大きな利害関係のなかったオランダをも一方的に敵にしてしまった。
戦争というものはそれ自体が無法を前提として行われ、だから戦争という行為の中で「戦争犯罪」という規範が設けられていることが根本的におかしいと思わなければならない。何しろ戦争自体が殺し合いという犯罪を前提としているのだから、戦争犯罪が守られるわけがない。 捕虜を大事に扱わねばならないというのは、殺し損ねて生き残った敵兵だけは丁重に扱いましょうということであり、最後の最後に守られるべきとする規範であって、それまでの大半は無法状態の中で戦闘(殺し合い)することに変わりはない。
『大東亜戦争陸軍の歌』
昭和17年 朝日新聞社選定 作詞:佐藤惣之助/作曲:古関裕而
開戦直後の快進撃を歌ったものである。陸軍は東南アジア進攻を主に担当した。この歌は朝日新聞社から軍へ「献納」された。
1
今こそ撃てと宣戦の
大詔(おおみこと)に勇むつわものが
火蓋を切って押し渡る
時、12月その8日
2
マレーにつづくルソン島
快速部隊の進撃に
鉄より固き香港も
わが肉弾に砕けたり
3
春真先に大マニラ
陥して更にボルネオも
迅速(はやて)の如き勢いに
なびくジャングル椰子の浜
5(4略)
60余日の追撃に
白梅かおる紀元節
シンガポールを撃ち陥し
大建設の日のみ旗
7(6=上記「空の神兵」の地:略)
ビルマもなんぞ濠州も
わが皇軍の征くところ
電波は躍る勝鬨に
朝日かがやく大東亜
開戦後の陸軍のフィリピンからマレー、シンガポール、インドネシア等々への快進撃の様子を描いている。最後に「濠州(オーストラリア)も」とあるのは、ドイツ帝国が占有していた南洋諸島を、第一次世界大戦でドイツが欧州で苦戦している間に日本が奪い取り、今回の南方作戦で濠州と接している南洋の領地も奪い取る戦略でいたことによる。それ以前からベトナム以南(仏領インドシナ)にも進攻していて、要はこのように東南アジア全域にも戦線を拡大した結果、日本軍は補給もまともにできなくなり(洋上では連合軍の戦艦・潜水艦が待ち受けるから)、戦争終盤には各地で餓死者が続出するという悲惨な結果を招くことになる(最終的に日本軍戦死者の6割が餓死)。他国ではあり得ないと思われるが、それが「朝日かがやく大東亜」を謳い、精神主義で乗り越えようとした結果である。
『大東亜戦争海軍の歌』
昭和17年7月 朝日新聞社選定 作詞:河西新太郎/作曲:橋本国彦
上記陸軍の歌に合わせて作られたものであろう。
1
見よ檣頭(しょうとう)に思い出の
Z旗高く翻る
時こそ来たれ令一下
ああ十二月八日朝
星条旗まず破れたり
巨艦裂けたり沈みたり
2
あの日旅順の閉塞に
命捧げた父祖の血を
継いで潜った真珠湾
ああ一億はみな泣けり
帰らぬ五隻九柱(くはしら)の
弾と砕けし軍神(いくさがみ)
4(3略)
水漬く屍(かばね)と潔く
散りて栄えある若桜
見よ空ゆかば雲に散る
ああ壮烈の海の鷲
爆弾抱いて体当たり
微塵に砕く敵の艦(ふね)
5
進めば遙か印度洋
世紀は讃う気は澄みて
微笑む南十字星
ああ大東亜光さす
無敵の誇りくろがねの
聞け艨艟(もうどう)の旗の風
歌詞にもあるように1番は12/8の真珠湾奇襲攻撃の成功(奇襲だから成功したのだが)、そこから始まった「大東亜戦争」での進撃を描いている。「あの日旅順の閉塞に」とは、日露戦争の時にロシア艦隊の基地港を封鎖する作戦に失敗したことを指す。また2番の「還からぬ五隻、九柱」というのは真珠湾攻撃で特殊潜行挺5隻に乗っていた9人のことで、一人は気を失ったが生き残って米軍の第一号の捕虜となった。しかし海軍はその一人のことは無視し、死んだ9人は「軍神」と賞賛された。この結果、捕虜となった一人の家族は人々から「非国民」と非難された。なんという国であろうか。これで余計に『戦陣訓』の「生きて虜囚の辱めを受けず」の言葉が輝きを増してくる。「なぜお前は死んで来なかったのか」とは、なんとか生き延びて帰ってきた兵士に上官がしばしば投げかけた言葉である。「水漬く屍」はあちこちに使われているが、海軍だから海に沈んで死ぬ、ただその飛行隊は「雲に散る」で、とにかく日本の軍歌は「爆弾抱いて体当たり」等、「若桜」の命を殺さずにはいられない。そしてこうした内容の歌が勇壮とか荘重と評される。ひどい時代である。
『戦友の遺骨を抱いて』
昭和17年 作詞:逵原実(辻原実=軍曹)/作曲:松井孝造(一等軍曹)
この年の2月16日、マレー作戦に従軍していた辻原実は、自分が詠んだ七五調の歌詞を記した手帳をマレー軍宣伝班に託し、なんとか歌にできればと依頼した。シンガポール入城のおり、戦死した戦友を悼みつつ、彼の遺品の国旗(出征時に武運長久を祈って日の丸の旗に親しい人たちが寄せ書きをしたもの)を山の上に立てるという内容である。宣伝班の長屋操は、「暗い歌詞だが、本当のことを云っていて迫力がある」と考えて、陣中新聞の編集部に「建設戦」誌上での歌曲の募集を依頼した。しかし適当な曲が集まらなかったため、海軍軍楽隊に曲付けを依頼することになり、2つの曲案を受け取った。宣伝班では片方を採用し「建設戦」で発表したところ、たちまち全軍に広がり、内地でも歌われようになった。
1
一番乗りをやるんだと
力んで死んだ戦友の
遺骨を抱いて今入る
シンガポールの街の朝
2
男だなんで泣くものか
噛んでこらえた感激も
山から起こる万歳に
思わず頬が濡れてくる
3
負けず嫌いの戦友の
形見の旗を取り出して
汗に汚れた寄書を
山の頂上に立ててやる
4
戦友(とも)よ見てくれあの凪いだ
マラッカ海の十字星
夜を日に継いだ進撃に
君と眺めたあの星を
(5略)
結局、前線の兵士に受けるのは、明治の日露戦争の時にでき、しっかり歌い継がれてきた『戦友』と同様、飾り立てのないこのような歌である。この歌を取り持った長屋は「病院の兵隊に一番うけるのは『暁に祈る』と『遺骨を抱いて』の2つである。… シンガポール攻略戦で負傷した兵隊は、『遺骨を抱いて』を歌うとき、「まだ進撃はこれからだ …」というところに来ると、わっと泣き伏してしまうことがある。一番よく泣かせる歌と云った方がいいかもしれない。日本軍がシンガポールを陥落させさえすれば、戦争は終わると思い込んでいた兵が多かったからだろう。罪なことをしたものだ。「まだ進撃はこれからだ」と云うところに、恨めしさが籠もっている」と語っている。1990年、靖国神社で帝国陸海軍軍楽隊出身者による「靖国の英霊に捧げる−−合同演奏会」が行われ、この時『戦友の遺骨を抱いて』の場面で、作詞をした逵原実さんがそばにいた。シンガポールで戦死した戦友たちと一緒にこの歌を聞いていたのだろう、涙をぬぐっていたという。
『少年通信兵の歌』
昭和17年 作詞:陸軍少年通信兵学校/作曲:陸軍戸山学校軍楽隊
昭和8年(1933)、陸軍通信学校で少年兵(14歳以上)を募集、15年末から陸軍少年通信兵学校とし、翌年東京陸軍少年通信兵学校となる。通信兵は当時の軍隊には必須のもので、これなしには前線の戦略が立てられなかった。修学期間は約2年であり、戦争終盤では、徴兵年齢に達しない者も前線に送られたから、戦死者も出ているはずである(下記の『少年戦車兵の歌』参照)。当時の軍国主義教育の中では少年にとって飛行兵に並んで憧れの職業であり、入学希望者は全国から集まり、昭和18年(1943)の11期生は、定員700人のところ1万人の応募があったという。(この学校については東村山市を参照)
1
直く明るき若人は
流れぞ浄き浦安の
御垣の守りひたすらに
五彩の光胸に祕め
皇国に誓う忠誠を
永劫に変えまじ一筋に
2
強く伸び行く若草の
香り気高き学び家に
朝な夕なに研ぐ技は
空を過りて雷光の
使命伝うる我が任務
永劫に磨かん撓みなく
『少年戦車兵の歌』
昭和17年 作詞:大木惇夫/作曲 仁木他喜雄
千葉市穴川にあった千葉陸軍戦車学校内において、昭和14年(1939)12月から「少年戦車兵の生徒隊」を設置して教育を開始。16年12月から陸軍少年戦車兵学校として分離、 17年7月に静岡県富士郡(現・富士古市)に陸軍少年戦車兵学校新校舎完成、8月に移駐する。この歌はおそらく移設後に作られたものである。少年戦車隊の一期生は150名募集のところに8229名の応募があり、実に55倍の競争率であった。少年戦車兵は若獅子、豆タンクの愛称で、空の若鷲(少年航空兵)と並び、国軍の双璧と讚えられた。2年を教育の年限としたが、戦況の悪化に伴い、1年半から1年での繰上卒業が多くなっていき、本来徴兵年齢に届かない「少年」まで戦地に向かうことになる。
1
朝に仰ぐ富士が根や
御諭(おさとし)いたに畏みて
誓いも堅く意気高く
文武の道に鍛えなす
我等は少年戦車兵(以下最終行同、略)
2
聖戦万里行くころ
高鳴る胸や大和魂
咲きては桜 凝れば鉄
百錬の勲岩を断つ
3
一度起てば地も動け
輝く歴史戦車魂
雄叫び吼えて難に行く
烈々の血を承け継がん
4
天津日(あまつひ)高く照るところ
御稜威(みいつ)の光拝みて
戦陣の華永遠の栄え
いざ軍神に続かなん
実は、この兵学校五期生のうち270名は、戦局が悪化したフィリピン戦・沖縄戦に投入されるために、最短となる11ヶ月での繰上卒業となった。彼らは昭和19年(1944)11月に門司港を離れたが、五島列島沖・済州島沖で雷撃を受けて空母神鷹、あきつ丸、摩耶山丸などが連合軍により撃沈され、多くの少年兵が、戦わずして船と運命を共にした(レイテ輸送団の悲劇)。この270名のうち、台湾の部隊に赴任した約20名(輸送船が途中で立ち寄り下船した)を除けば、生還者は9名のみである。昭和20年のルソン島の戦いでは、4月17日にバギオにおいて「戦車特攻」が行われ、2両のうち九五式軽戦車1両に少年戦車兵3名が乗車、アメリカ軍M4中戦車に突撃・自爆している(イリサン戦車特攻、戦車の頭突き)。結果的に出征した少年戦車兵および教職員のうち、600余名が戦死している。
「いざ軍神に続かなん」と心に誓っても、この少年兵の多くのように戦場に行く途中で無残に果てた若者は、特攻兵を含めて他にも多くいた。人間魚雷回天の特攻隊員もやはり沖縄や硫黄島の戦闘に向かったが、目的地に着く前に回天を搭載した母艦が次々と撃沈されていった。輸送船が撃沈された中でも沖縄から疎開させるために子供達を乗せた対馬丸の話は有名だが(乗船者1788人のうち1485人が死亡、そのうち学童は780人で、6歳以下の子どもを含めると1000人余の幼い命が犠牲になったが、当時は箝口令が敷かれ、この事件は戦後になって明らかにされた)、他にも同様な話は数多くある。仮に実戦に参加できたとしてもフィリピン戦・沖縄戦の中で散った若者も数知れないし、この戦車兵も途中で撃沈されずにフィリピン・沖縄の戦闘に参加していれば、その2/3は戦死していただろう。沖縄戦では地元の15歳前後の子供達も戦闘に参加させられ、米軍の戦車に向かって爆弾を抱えて突撃・自爆させられているのである。それを日本軍の中野学校出身の工作員が訓練し指示した。そういう実態を心に刻んで、この歌の詩のイメージと比べてみるべきである。
この少年戦車兵学校元敷地の一角には、戦死した兵学校の教官・生徒600余名の御霊を御祭神とし、若獅子神社という名称の神社が建立されている。同神社内には慰霊塔のほか、「帰還戦車」と呼ばれる大破した九七式中戦車(チハ車)が置かれている。サイパン島から帰還したこの戦車は、サイパンの戦い(19年6月)で戦死した40余名の少年戦車兵への追悼の願いが込められている。
『陸軍少年戦車兵学校校歌』
昭和17年 作詞:相馬御風/作曲:陸軍戸山学校軍楽隊
1
朝空高く 聳(そび)えたつ
富士の神嶺 仰ぎては
悠久無限 皇国の
大義不動の 信高め
誓いは固し 若桜
われらは神の つわものぞ
3
わが日の本は 神の国
神にまします 大君の
御盾の誉 戴きて
詔(みのり)畏(かしこ)み ひとすじに
忠魂武胆 凝るところ
命も何か 惜しからん
これはすでに戦車兵としての歌ではなく、この当時の戦士としての日本特有の精神性を謳い上げるだけの内容になっている。「大君の御盾」とは、神である天皇を守る盾になって命を投げ出せということであるが、本来、天皇の役割・使命というものは臣民(国民)の安寧を祈念するというものであって、決して臣民が天皇のために命を投げ出せということではない。だから明治時代から創り上げられた天皇へ身命を賭するという犠牲的精神というのは、大日本帝国主義政策下の軍人の精神的支柱を、ただひたすら天皇という存在の上に打ち建てるものであって、逆に言えば軍人が天皇を利用してきた歴史でもあった。だからこの時代は、国民全体にその犠牲的精神を浸透させる目的で天皇の名が徹底的に利用されたといえる。そしてそれが昭和天皇の本意であったろうとはとても思えない。
また少年ではなく一般兵のもある。
『戦車兵の歌』
聖戦万里 海を越え
朔風荒ぶ 大陸に
わが精鋭の行くところ
常に先鋒 戦車あり
旭旗燦たり 皇軍の
精華 われらは戦車兵
『少国民進軍歌』
昭和17年 作詞:軍事保護院/作曲:佐々木すぐる (陸・海軍省撰定)
2年前に『国民進軍歌』が発売されているが、その少国民版。戦傷者や遺族保護を目的とした軍事保護院の選定で、歌詞は一般公募。内容も「傷ついた勇士」「戦死をされた丈夫」など、保護院という組織の目的に沿ったものとなっている。
1
轟く轟く足音は
お国の為に傷ついた
勇士を守り僕達が
共栄圏の友と行く
揃ふ歩調だ揃ふ歩調だ 足音だ
2
響くよ響くよ歌声は
戦死をされた丈夫の
忠義の心 受けついで
感謝で進む僕達が
歌ふ国旗だ 歌ふ国旗だ 君が代だ
4(3略)
呼んでる呼んでるあの声は
誉の遺児と諸共に
未来を担ふ僕達が
雄飛の時を待つている
七つの海だ七つの海だ 大陸だ
少国民とはこの軍国主義の時代、子供のことを「天皇に仕える小さな皇国民」という意味として使われた。そして少年たちはこの歌詞のような教育をされ続け、大きくなったら兵隊さんになってお国のために戦って死ぬのだという「夢」を持たされていた。「共栄圏の友」とは、侵略して支配下に収めた国の人たちと友になるようにということである(仮にその支配地で大人たちが現地住民を見下すような態度をとれば子供はすぐに真似するから、そう簡単には友達にはなれないだろう)。「誉の遺児」とは、名誉の戦死をした兵士の遺した子供ということだが、その子たちと一緒に雄飛して戦いに行けということである。もうそういう可哀想な遺児を増やさないように、君たちが平和を築いて行けということなら普通の思考範囲のことであるが、これはもし君たちにも同じように子供ができたら、同じように親なしの可哀想な目に遭わせなさいということで、むしろそうなる前に戦って死ねということだから、そのうち日本民族はいなくなり、国は滅びるのではないかということすらこの歌詞は想像させる。これが陸海軍幹部たちが愚鈍な頭の中から選び出した「撰定歌」の内容である。
『明日はお立ちか』<出征兵士壮行の唄>
昭和17年 作詞:佐伯孝夫/作曲:佐々木俊一
いわゆる軍歌ではないが、戦局厳しい中で新妻が夫を戦地に送る時の心の内を表している。これは小唄勝太郎(女性)の歌唱によってヒットした。
1
明日はお立ちか お名残り惜しや
大和男児(おのこ)の 晴れの旅
朝日を浴びて いでたつ君よ
おがむこころで 送りたや
2
胸の手綱を しみじみとれば
胸にすがしい 今朝の風
お山も晴れて 湧きたつ雲よ
君を見送る 峠道
3
時計みつめて 今頃あたり
汽車を降りてか 船の中
船酔いせぬか 嵐は来ぬか
アレサ夜空に 夫婦星
この歌詞の中の「晴れの旅」や「胸にすがしい今朝の風」などは、内務省の検閲の結果書き換えられたのではないかと言われる。「出征兵士壮行の唄」という副題からしてもそうであろう。とりわけ太平洋戦争に突入して次々と召集令状が一般勤労男性に届くようになり、仮にも結婚したばかりであろうと御構いなしで、例えば新婚三ヶ月で妊娠したばかりの女性を残して出征するケースもあり、男性は戦場で、子どもが無事に生まれたとの知らせを受け、喜びもつかの間その子の顔も見れずに虚しく戦死して行った。そして戦後乳飲み子を抱えて、女性は必死に子供を育てなければならなかった。あるいは子どもが数名いて夫は戦場を転戦しながら妻や子供たちと手紙やハガキのやり取りを数十回あるいは百回以上しながら、終戦間際に戦死したケースもあり、この妻も戦後必死に働き子供を育て上げた、そのような話もよく見聞きする。こうした場合「靖国神社」がどれだけの救いを、彼女や残された子供たちにもたらしたのか、実際に靖国の存在に救われたという話はあまり聞かない(この時代の国策雑誌で靖国に関して意図的に開かれた婦人たちの座談会を読んだことはあるが)。
『英霊讃歌』
昭和17年10月 作詞:山崎真其人/作曲:山田耕筰
1
大君の御楯となりて
出で立てる戦の庭に
散りましし御霊偲べば
尊さに頭は垂るる
永久に讃へ奉らん勲(いさお)しを (以下繰り返し)
2
天地と共に栄行く
日の国の鎮めとなりて
輝ける御霊仰げば
畏(かしこ)さに涙は溢る
3
新東亜明けゆく朝
建設の礎石となれる
ますらおの御霊拝めば
雄々しさに高鳴る血潮
太平洋戦争突入のほぼ一年後の歌で、加速的に戦死者が増えていた。そのわが息子や夫の「御霊」を英霊として喜んで受け入れなければならない母親や乳飲み子を抱えた妻たちの実際の心境は如何ばかりであったろうか。少なくともこの歌で慰められたとは思えない。結局はその死は「国の鎮め」とはならず「建設の礎石」を築くこともなく「新東亜明けゆく朝」が来ることもなく、敗戦となって「日の国」は「憎き敵米英」に占領されてしまった。
〇 この時期、戦争を揶揄する替え歌も出てきている。
『愛国行進曲』(昭和13年)の「見よ東海の 空あけて 旭日高く 輝けば…」は、「見よ東条の禿頭 旭日高く輝けば 天地にぴかりと反 射する ハエがとまればつるとすべる/おお清潔にあきらかに そびゆる禿の光こそ 戦争進めゆるぎなき わが日本のご同慶」と密かに流行した。
『紀元二千六百年』の歌は昭和15年に紹介した。
昭和15年に大ヒットした叙情歌『湖畔の宿』の「山の淋しい湖に ひとり来たのも悲しい心 …」も替え歌が作られ、「きのう召されたタコ八は 弾にあたって名誉 の戦死 タコの遺骨はいつかえる 骨がないのでかえらない タコの親たちゃかわい そう」と、英霊とされながら遺骨が還って来ない親を悼んだ強烈な替え歌となった。
(以上は主に静岡県立大学教授 前坂俊之監修『保存版傑作国策標語大全』より)
〇 この時代に作曲で活躍していた堀内敬三は、『音楽之友』を編集・発行していたが、この年の前半、いち早く敵性音楽の追放を叫んだ。 「…米英系の音楽を閉め出し、…今までジャズ音楽に親しみすぎた結果なかなか方向を変えにくいのであろう … 敵国の音楽に少しでもかぶれているというのは絶対にいけないのだ。もしこの転向のできない人は音楽をやめてもらうよりほかはない。世間は敵国の音楽に対して寛容であるが、それは音楽についての知識が乏しいからだ。… しかし音楽家がそれと知りながら敵国の音楽を演奏したり敵国音楽の頽廃的な面を真似たりするのは許されない。日本は米英を地上から覆滅すべく戦っている。米英は根こそぎ叩き潰すのだ…」
また堀内は1944年に『日本の軍歌』を執筆しているが、その中で「大東亜決戦の歌」を大東亜戦争最初の軍歌として「この歌の歌曲の豪快な味は全く敵を圧する雄渾な魂の流露である。開戦劈頭(へきとう)に於ける皇軍の大戦果は、最初の軍歌に斯かる良きものを生み出した。… 『特別攻撃隊』は昭和17年4月読売新聞が歌詞を公募選定したもので、荘厳なる曲調はむしろ頌歌という感じである … 同社が北原白秋に作詞を、海軍軍楽隊に作曲を委嘱した「ハワイ大海戦」も明朗快活なものである。大東亜戦争は正に「夜の明けた感じ」を総ての日本人に与えた … 他に数十の軍歌が出ているが … すべてこういう軍歌の中には純粋な熱情が見られ、詞句の扱い方もよく磨かれていて、過去の軍歌よりも概して立ち優って見えるが、一般に大東亜戦争の軍歌は、これまで巧緻から巧緻へと進んできた大衆歌曲の常道を振り捨てて、強力な直截な、そうして剛健な方向へ転じている」とある。(以上はブログ櫻本富雄「空席通信」“歌と戦争”より転載)
しかし筆者はほぼこれらの軍歌を、実際には戦争に行くことのない文化人の、頭の中の観念で生まれた空疎な戯れとして時折コメントしているが、ただ実際にこの時代に生きていて同じ立場にいたら、わが身がどのような対応をしていたか、それは自分にもわからない。自分は自由に生きているつもりでも、なかなかその時代の世の中の規範や大きな流れから逃れていない場合が実際には多い。後から批判することは簡単である。
ただ、この時代の日本の文化人は米英に対して相当なコンプレックスを持っていて(その分、中国や朝鮮等の国々には優越感を持っていたが)、それを日本軍が初期の戦いにおいては想定以上の勝利を重ねたので、快哉を持って心地よい気分で迎えたことはそのころの彼らの発言を見ると明らかである。そしてその高揚した気分、「夜の明けた感じ」をもっと味わいたくて、最後まで「米英は根こそぎ叩き潰す」という期待を持って、作曲家たちも勇壮な曲作りに精魂を傾けていた。しかしそれらが軍の実戦部隊の士気を上げていくことはなかった。戦場は歌の世界とは違うのである。
以下は、ある女性の子供時代の思い出である。
—— 安立国民学校(現・安立小学校、大阪市)は歌の教育が熱心な学校のようでした。他の学校の先生方がいつも参観に見えていました。歌の勉強は運動場や講堂、教室でした。たくさんの歌を習いましたが、今でも鮮烈に心に残る3つの歌詞があります。戦争中の子どもはこんなすさまじい歌を歌って、銃後の守りをしていたのです。
1.(真珠湾攻撃)「ラジオを聴いてお父様 膝を正しておっしゃった あの12月8日の日 太平洋の真中で 大きな手柄を立てたのは 若い9人の勇士です/ 新聞読んでお母様 涙をふきふきおっしゃった 小さな5隻の潜行艇 沈む敵艦見届けて桜のように 潔く散りました」
3年生のときの運動会のお遊戯での歌で、3、4番もありましたが覚えていません。
2.(アッツ島玉砕)「刃(やいば)も凍る北海の 御楯(みたて)と立ちて2千余士 精鋭こぞるアッツ島 山崎大佐 指揮をとる」
2番もありましたが覚えていません。子どもながら涙して歌いました。
3.(米英撃滅)「神国だ 御民だ我ら 英米の命根こそぎ 撃ちてしやまん 撃ちてしやまん 撃ちてしやまん」
2、3、4番とありましたが覚えていません。
運動場で血湧き肉躍る思いで大きな声で歌ったことが昨日のようです。メロディをお聞かせできないのは残念です。60数年前の少女時代に戻り、投稿させて頂きました。
(NHK戦争証言アーカイブスより)
日本国内の出来事・様相(昭和17年:1942)
1月:2日、それまでの興亜奉公日を廃止し、毎月8日(太平洋戦争=大東亜戦争開戦の日)を大詔奉戴日とすることになり、8日には学校や職場で詔書奉読式、必勝祈願、各戸の国旗掲揚、職域奉公を義務づけられた。
16日、戦争完遂目的で大増税が行われた。
この年、官斡旋で朝鮮人労働者を日本本土への送り出しが始まる。次々と徴兵されて国内に男手が足りなくなったからである。
2月:衣料品の点数切符制が実施された。
同月:愛国婦人会、国防婦人会、連合婦人会が大日本婦人会に統合発足。
4月:18日、太平洋上の空母艦から、アメリカのB25爆撃機16機が東京、名古屋、神戸などを初空襲。東京では荒川区や葛飾、品川、渋谷などが被害を受けた。国内の死者87人、重軽傷460名(ドーリットル空襲)。これに対し新聞は『バケツ、火叩きの殊勲、我家まもる女子、街々に健気な隣組』『初空襲に一億たぎる闘魂、敵機は燃え、堕ち、退散。”必消”の民防空に凱歌』等と報じた。
4−5月:総選挙が行われ、大政翼賛会所属議員が圧勝(翼賛選挙と言われる)
5月:企業整備令が公布され、軍需物資の不足から、重要産業に人と資源を集中させるべく、不要不急の中小企業を廃業させて軍需工場の工員にさせた。
同月:金属の強制回収が決まる。
同月:日本文芸家協会が解散し、日本文学報国会が結成される。国会の大政翼賛会の文芸家版である。
同月:文部省は各学校の報国団に並行して報国隊を組織させ、学生・生徒の勤労動員体制を作る。
6月:日本のホーリネス教会の聖職者96名が逮捕。(ホーリネス弾圧事件)
7月:朝日新聞社がこの年の全国中等学校野球大会(現:全国高校野球選手権大会)の中止を発表。すでに各地で予選も始まり、甲子園の指定席券の前売りもされていたところに、文部省は「新体制」(9月に「大日本学徒体育振興会」が発足)で総力大会を開催するとして、主催の朝日新聞社に通告した。朝日新聞は主催権は譲るとして、大会回数と優勝旗の継承を望んだが拒否された。この後再開されたのは敗戦の翌年からである。
8月:上記の大会中止の代わりに、文部省主催による全国中等学校野球大会が出場校を絞って甲子園球場で開幕。軍人が進行の大半を担っていたため、スコアボードには「勝って兜の緒を締めよ 戦い抜こう大東亜戦」という軍事スローガンが掲げられ、試合開催時サイレンは鳴らされず、進軍ラッパが代用された。
9月:海軍特別年少兵 (特年兵)が募集される。これは高等小学校(小学校の上の任意の二年制の学校で中学校とは別)卒業程度の14歳から16歳までの少年を特に対象とするもので、世間的には極秘で進められ、学校で教師たちの口から伝達された。海軍では予科練が人気だったため、それに準じる枠として応募は多く、この年3500名が入団し、約10ヶ月の実地での練習兵教程を卒業後、それぞれ技術学校で学び、15歳で第一戦艦隊や航空隊・陸戦隊などに配属された。その後毎年募集され、18年7月が3900名、19年7月が5400名、20年5月が5360名であった。これは親にも内緒で応募させられ、例えば「学校の教室で担任の先生が志願者を募ったところ誰も手を挙げず、“日本の国がどうなってもいいのか”と声を張り上げたため、恐る恐る手を挙げた生徒の中で自分だけが合格した」場合もあった。内緒で応募し合格して初めて聞いた父親は黙ってしまい、母親は泣いて止めたが、志願をした以上、覆せるような世情ではなかった。
そして主に17、18年の合格者が太平洋戦争最大の激戦地、沖縄・硫黄島の守備や戦艦内の仕事に従事し、特年兵の多くが戦死した。19年までに入団の1万」2800名のうち、戦死者は5000名であり、しかも15、16歳の本当の少年である。表向きは機関教習生であって兵士とされていないが、戦闘に参加させられたのは間違いない。しかも第一期生の3500名に限って言えば、戦死者は2500名で、72%である。19年に徴兵年齢が20歳から19歳に下げられたが、その2年前に彼らは募集されたのである。またこの中の多数名が戦艦武蔵、大和などにも乗艦していて、あまりにも若い命を散らした。陸軍も負けじと後に同様な募集をしていて、やはり過酷な戦場に送った。しかも20歳前後の零戦特攻隊員などと違い、まだ自分のことを語る言葉も持てず、従って遺書もまともに書けず、考える余裕もなく戦闘に巻き込まれた陸海軍の少年たちの犠牲をこそ、ずっと重く見るべきである。戦死者5000名は、特攻隊の死者よりも多い。
9月:在日宣教師(特に米英人)を抑留所に強制収容する。
10月:召集に新たに「防衛召集」が新設された。空襲などの際の国土防衛のため、予備役・補充兵役・国民兵役(在郷軍人)を短期間召集することであり、いわゆる赤紙に対して青紙で召集され、これが20年の本土決戦の準備に効力を持った。
同月:この月を最後に東京六大学野球が文部省により中止とされる。
11月:大東亜省開庁。拓務省、興亜院など29局13部を廃止、官吏17万人を削減、削減された彼らを戦線へ送った。
同月:日本文学報国会が「愛国百人一首」を発表。これは新しいものではなく、万葉集時代からの歌をこの時代に即して編集したものである。
〇 この年のスローガンは「欲しがりません、勝つまでは」/「”足らぬ足らぬ”は工夫が足らぬ」/「働いて 耐えて笑つて 御奉公」などであった。
これに対して 、厳しい言論統制が敷かれた戦時下にも庶民は密かに風刺言葉を流す心があった。 例えば「米機英機を葬れ」 のポスターが銀座に掲げられたが、当時の東条英機首相への揶揄として「米機逃して英機に叱られ…」(4/18の空襲のこと)とか、軍人たちの横暴を引っかけて「乱暴、無謀、参謀」、「軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」(軍人勅喩)を「軍人は要領を本分すべし」と言い換えたり、「徴用 は懲用だ」、「皇軍は蝗(いなご)軍」等あった。
(主に静岡県立大学教授 前坂俊之監修『保存版傑作国策標語大全』より)
童謡・流行歌(昭和17年:1942)
童謡・唱歌
文部省唱歌としては『白衣の勤め』『無言のがいせん』の二つを上記軍歌の中に入れている。
『森の水車』 作詞:清水みのる/作曲:米山正夫/歌:高峰秀子
――「緑の森の彼方から 陽気な歌が聞えます あれは水車のまわる音 耳をすましてお聞きなさい コトコト コットン コトコト コットン ファミレドシドレミファ コトコト コットン コトコト コットン 仕事にはげみましょう コトコト コットン コトコト コットン いつの日か 楽しい春がやって来る」
相変わらず子供用の普通の歌は作られていないが、今も親しまれているこの童謡は、昭和17年の9月、内務省の検閲により発売の4日後に発禁となった。このメロディが米英調だという理由とも言われたが、実は敵性英語禁止の時代になっていて、ドレミファの言葉が禁止されていたからで、代わりにイロハ二ホヘトを使うようにされ、現場の教師は困った。戦後の昭和26年に並木路子の歌によって復活した。
歌謡・戦時歌謡
『新雪』(作詞:佐伯孝夫/作曲:佐々木俊一/歌:灰田勝彦
—— 「紫けむる新雪の 峰ふりり仰ぐこのこころ ふもとの丘の小草をしけば 草の青さが身にしみる」
同名の新聞連載小説(連載開始後に太平洋戦争が始まる)が「さわやかな恋物語」として好評となり、映画化され、その主題歌として大ヒットした。
『婦系図の歌』(湯島の白梅) 作詞:佐伯孝夫/作曲:清水保雄/歌:小畑実・藤原亮子
—— 「湯島通れば 想い出す お蔦主税の 心意気 知るや白梅 玉垣に 残る二人の 影法師」
この年公開の映画「続婦系図」の主題歌で、元は泉鏡花の小説で、何度も舞台や映画になっている。
『勘太郎月夜唄』 作詩:佐伯孝夫/作曲:清水保雄/歌:小畑実・藤原亮子
—— 「影か柳か 勘太郎さんか 伊那は七谷 糸ひく煙り 棄てて別れた 故郷の月に 偲ぶ今宵の ほととぎす」
同名映画の主題歌。「婦系図の歌」に続くヒットになった。
『黒田節』(黒田武士) 歌:赤坂小梅
—— 「酒は呑め呑め呑むならば 日の本一のこの槍を 呑みとるほどに呑むならば これぞまことの黒田武士」
福岡藩の武士たちに歌われていたものが日本全国に広まっていたが、当初は「黒田武士」の題で吹き込み、歌詞は戦意高揚の内容であった。戦後の昭和25年(1950)5月に歌詞を一部変更し「黒田節」と題して再発売され、改めて普及した。
『高原の月』 作詞:西條八十/作曲:二木他嘉雄/歌:霧島昇・二葉あき子
—— 「真白に高き雪の峰 浮世の塵に染まぬ花 清き世界を照らしゆく ああ高原の月なに想う」
戦時下を背景にした映画「高原の月」の主題歌で、下記の歌もその挿入歌である。
『ふるさとの灯』 作詞:西條八十/作曲:早乙女光/歌:高峰三枝子
—— 「故郷の空の青さよ静けさよ なんで心にこう沁みる 幼馴染の小鳥が飛んで 幼馴染の雲が往く」
『朝だ元気で』 作詞:八十島稔/作曲:飯田信夫/歌:柴田睦陸、藤原亮子
—— 「朝だ朝だよ朝陽がのぼる 燃ゆる大空陽がのぼる みんな元気で元気で起てよ 朝はこころをきりりとしめて あなたもわたしも 君らも僕も ひとり残らずそら起て朝だ」
この後、「朝はとどろく 興亜の鐘に」という言葉も入っていて、戦意高揚を図る歌の一つである。シンプルでリズムはよいので、戦後、改詩されて歌い継がれた。
『鈴懸の径』 作詞:佐伯孝夫/作曲:灰田有紀彦/歌:灰田勝彦(有紀彦の弟)
—— 「友と語らん鈴懸の径 通いなれたる 学舎(まなびや)の街 やさしの小鈴 葉陰に鳴れば 夢はかえるよ 鈴懸の径」
戦時色が全く感じられない爽やかな歌で、戦後も歌い継がれ、海外でも取り上げられている。もともとは『マロニエの径』として作詞されたが、感傷的な内容で暗いとして軍部の検閲で発売禁止となり、それならばと学園歌として歌詞を変えたもの。
『迎春花』 作詞:西條八十/作曲:古賀政男/歌:李香蘭(山口淑子)
—— 「窓を開ければアカシアの 青い芽を吹く春の風 ペチカ歌えよ 春が来る来る迎春花」
李香蘭が主演した満洲映画協会製作(満鉄と満州国の共同出資)の劇映画「迎春花」の主題歌である。満映の製作ではフィルムが現存する数少ない作品の一つと言われる。ちなみに満映の映画は昭和15からこの17年が最盛期で、この17年からは太平洋戦争による日本人映画関係スタッフも次々と召集され、翌年からまともに運営できなくなった。
*以下は戦時歌謡で、相変わらず日本軍が侵攻した国や町に寄せた歌が素早く作られている。
『三味線軍歌』 作詞:穂積久/作曲:清水保雄/歌:小唄勝太郎
—— 「浮き立つ調べ 粋な音に 胸のすくよな撥捌き 声も弾んだ二上がりの さても勇まし三味線軍歌 / 翳した扇 日の丸の 模様晴れ晴れ舞い姿 今日の門出に誠心を込めた一差し 振りの手の嬉し祝いの三味線軍歌」
おそらく軍の将兵が送別会(門出)などの時にお座敷で歌ったのであろう。一般庶民は食糧難の中にあったが、軍人には特別に食料は確保されていた時代である。
『西貢(サイゴン)だより』 作詞:月原橙一郎/作曲:服部良一/歌:藤山一郎・渡辺はま子
—— 「コンマンタレブー お母さん ちょいと覚えたフランス語 僕は元気で愉快です 目方も三キロ増えました」
前年の『仏印だより』参照。「コンマンタレブー」とは仏語で、英語の “How are you”。
『バタビアの夜は更けて』 作詞:佐伯孝夫 作曲:清水保雄/歌:灰田勝彦
—— 「都バタビヤ 運河も暮れて 燃える夜空の 十字星 遥か祖国よ あの日の旗よ 風に歓呼の声がする/ジャワは常夏 南の基地に 撫でる翼の弾丸の痕 なんの苦労と 口笛吹けば 月にちるちる 白い花」
バタビア(Batavia) はインドネシアの首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称。 日本軍はマレー半島、インドネシア、フィリピンなどを早期に制圧した。
『ジャワのマンゴ売り』 作詞・門田ゆたか/作曲:佐野鋤/歌:灰田勝彦・大谷冽子
—— 「ラーラー ラーラー 火焔木の木陰に 更紗のサロンを靡かせて 笑顔も優しく呼び掛ける乙女よ ああジャワのマンゴ売り」
『マニラの街角で』 作詞:佐伯孝夫/作曲:清水保雄/歌:灰田勝彦・歌上艶子
—— 「いつか見たこの夢 嬉しい夢 今日は迎えて楽し 我等の街よ 花のマニラの街 青空高く 喜びは胸に満ち 苦し夜は明け行く 花のマニラの街 とく走れ小馬車 深緑 鐘は鳴る新しき朝だ」
『ボルネオの娘』 作詞:清水操六/作曲:和田健作/歌:松島詩子
—— 「南の南のボルネオの 夜明けだ日の出だ娘さん 可愛いや楽しや朝が来た 椰子の実抱え微笑み交わし 覚えた言葉で コンニチワ オハヨウ」
以上、日本が占領を果たした国で、勝利軍としての将兵が妄想するであろう甘っちょろい情景を歌詩にしたものだが、この翌年後半からは日本軍は連合軍の逆襲を受け、厳しい状況に追い込まれていく。
*この他「ご当地ソング」としては『印度の夜明け』『昭南島(シンガポール)だより』『昭南島の朝風』『パゴダの鐘』(パゴダは特にミャンマーの仏塔をいう)『バリ島の舞姫』など。
こうした進軍に即応して次々に作られる歌などを見ていると、日本人は調子のよい人種なのかと思われる。今ひとつ『ロッキー越えて』というのがあり、これはアメリカのロッキー山脈を越えてニューヨークまで爆撃をしに行くという、さらに調子に乗った気の早い内容である。
