日本の軍歌とその時代背景

──昭和編(昭和18年−20年:1943−1945)──

昭和18年(1943年)

軍事的背景

日中戦争

 日本軍は太平洋戦争の戦線を拡大しながら、中国各地への侵略作戦を継続していた。この戦争はすでに7年目に入ろうとしていた。日本軍の相手は蒋介石国民党軍と共産党の八路軍で、八路軍は三年前(昭和15年)よりゲリラ活動を主にしていた。このゲリラ活動を日本軍は恐れ、住民を含めた各種殲滅(せんめつ)掃蕩作戦を実行していた。この日本軍の殲滅作戦を中国側は「焼光、殺光、槍光」(焼きつくし、殺しつくし、奪いつくす)の「三光作戦」と呼んだ。ただし、こうした目立った日本軍の作戦の陰に、数多くの抵抗運動やゲリラ活動(特に共産軍に限らない)があったことは知っておかねばならない。

【各種殲滅作戦】

<江北殲滅作戦>(2-3月)

 江北は岳州北方、長江と漢水に挟まれた水郷地帯で、その農業生産力の高さに目を付けた日本軍は、日本軍の占領地帯の中に取り残された状態になって、共産党の勢力が増していたこの土地に侵攻し、中国軍を壊滅させて占領した。日本軍の戦死234人、戦傷890人に対し、中国軍遺棄死体8604、捕虜 2万3214であった。

<江南殲滅作戦>(4-6月)

 作戦の目的は湖北省宜昌より下流の長江の水上交通路確保にあった。作戦は三期にわたって行われたが、中国軍は死守をすべく抵抗し、その後半からは米軍の航空兵力(米軍も中国の要所に飛行場を確保していた)の支援を受けることができ、日本軍に損害が現れ始めたところで作戦を終了した。日本軍がまとめた「戦果」は中国軍の遺棄死体3万766、捕虜4279で、これに対して日本側の「損害」は戦死771人と戦傷2746人で、うち戦死者157人と戦傷者238人は米軍による空襲によるものであったという。とはいえ、日本軍の空襲はこの年だけでもこれ以上の中国人を殺傷していたことも知っておかねばならない。(筆者の「中国における日本軍の年月日別空爆全記録」参照)

<廠窖虐殺事件>(5月9日-12日)

 上記江南殲滅作戦第2期作戦中に、湖南省南県廠窖(しょうこう)鎮で、中国軍人および民間人合わせて3万人以上が殺害された。日本軍はこの江南作戦での国民党軍を撃滅する過程で、民間人も無差別に虐殺した。これは中国側の主張によると南京虐殺に次ぐ日中戦争中で2番目の規模の虐殺事件としている。もとより殲滅作戦と日本軍が自ら名付けているのでありうる話であり、これまで筆者が調べた中ではこれに伍する虐殺は他の各地に多く存在するから、それほど驚くには当たらない。犠牲者の内訳は、中国軍敗残兵5000人、地元住民7000人、近郊住民6000人、他地域からの避難民12000人で、数が概算なのはそれほどに悲惨な現場だったということである。その他に負傷者3000人、焼失家屋3000軒余、焼失舟艇2500艘余(避難民が乗る多数の船舶が爆撃された結果)、強姦された女性2000人以上などの被害が発生した。これには千人坑遺跡(千人単位の遺体が埋められた場所)などが残されていて、国家考古学者らによる遺骨の発掘調査も行われた。1986年、この虐殺の地に廠窖惨案遇難同胞記念碑が建立された。この江南殲滅作戦の司令官横山中将は、その後別な事件で戦犯に問われ、絞首刑判決(その後終身刑)がなされたが、巣鴨プリズンで病死した。

<常徳殲滅作戦>(11月-12月)

 太平洋方面で連合軍の反転攻撃が激しくなり、日本軍は中国の戦力を大幅に転用することになり、そこで上記江南殲滅作戦の横山中将は、自軍の戦力が十分なうちに湖南省常徳の中国国民党軍の戦力を削いでおくという作戦を立てた。作戦は順調に進み、第2期の常徳への包囲作戦に移った。アメリカ軍機による航空支援も活発化したが、激戦の末、城内に突入、市街戦を経て常徳城守備隊を降伏させた。しかし最終的には占領した常徳を撤退することとなり、中国軍はその日本軍を追撃し、日本軍は犠牲を出しつつ元の拠点へ帰還、そして常徳は再び中国軍の支配下となった。この常徳の場合だけでなく日本軍は兵士不足で占領しても守備軍をおくことができなかったという意味のない作戦が各地で行われた。日本側の記録では12月8日までの範囲で中国軍の損害は遺棄死体2万9503体、捕虜1万4025人、日本軍の損害は戦死傷者1万1000、中国側によれば日本軍の損害は死傷4万人以上、中国軍の死傷は6万人としている。この日本軍の作戦行動は、ただ単に相互に戦死者を増やすためだけの無駄な作戦であったとしか思えないが、無駄な作戦は太平洋戦線の各地で展開された。

 こうした背景もあって、中国内の守備兵力を太平洋戦線に転用する作戦は一部を除いて翌年1月に中止が決定された。つまり守備隊が手薄になると占領した土地を中国軍に奪い返されてしまうからである。逆に日本国内では学生の兵役猶予制度が解除されるなどし(一般の兵役年齢の下限が下げられ、上限も上げられる)、10月には神宮競技場で学徒出陣壮行会が行われるが、植民地である台湾や朝鮮でも同じように学生が徴兵され、壮行会が行われた。

 1月9日:日本及び南京国民政府(汪兆銘の日本軍傀儡政権)は日華共同声明を発表し、汪兆銘政権が米英に宣戦布告するという形をとった。

 2月21日:日本軍はフランス(ヴィシー政府)側の了解を得て、広州湾のフランス租界(広州湾租借地)に進駐するが、当時のフランスはナチスドイツに占領され、その同盟国日本の要望には従順であった。

 5月:占領地の中国人労働者(捕虜を含むと思われる)の日本への強制連行開始。ただこれ以上に朝鮮人労働者は朝鮮から徴用されている。

 10月25日:米軍の航空隊は中国の南方、昆明に拠点を構え、日本軍の占領する香港を空襲、その後も衡陽や桂林などを前進基地として香港や漢口を攻撃した。

 11月22日ー26日:カイロで英米中首脳会談が行われ、蒋介石が参加、ルーズベルト・チャーチル・蒋介石は、この会談で日本の無条件降伏、満州・台湾の返還、朝鮮独立の宣言をする。

 11月25日:台湾の新竹を米中連合航空隊が空襲。すでに米軍は蒋介石と連携し、中国内に航空基地を設置し、日本の植民地台湾の日本軍基地を攻撃、日本軍は多数の航空機を失った。

太平洋戦争

 開戦当初の快進撃は半年程度で終わり、前年のミッドウェー海戦敗北あたりから日本軍は守勢になり、各地で厳しい戦いが展開される。

【守勢一方の戦闘】

<ガダルカナル撤退>(2月1日-7日)

 ソロモン諸島ガダルカナル島の戦い(上記参照)からの撤収作戦で、兵力の2/3の2万2500人を失い1万人以上が撤退する(一部の島ではほぼ全滅)。9日、大本営は、ガダルカナル撤退を「転進」と発表する。

<ビスマルク海海戦=ダンピール海峡の悲劇>(3月2日-3日)

 日本軍はガダルカナルを撤退した後、前年3月に占領していた東部ニューギニアでの防衛に重点を移した。まずニューブリテン島ラバウルに集結し、2月中旬、日本陸海軍協同の輸送作戦を開始した。28日、駆逐艦8隻に護衛された8隻の日本軍輸送船団はラバウルから出撃し、ニューギニアのラエ・サラマウアへ向った。しかし連合国軍による早朝からの空襲を受けて戦闘機の多くを失って航空機の護衛は手薄となり、船団はビスマルク海からダンピール海峡において連合軍航空部隊約600の戦闘機による大規模な空撃を受け、3月3日までに8隻の全輸送船と護衛駆逐艦4隻計12隻が撃沈され、護衛駆逐艦の戦死者を除く4543名が戦死した(死亡率は58%)。この輸送作戦は無謀であったとされるが、輸送船が撃沈される悲劇はこの後もうち続く。

<フロリダ沖海戦>(4月7日-15日)

 ビスマルク海海戦の結果は日本軍に大きな衝撃をもたらした。そこで3月22日、日本陸海軍はニューギニア方面・ソロモン諸島および東部ニューギニアの連合軍の船団と航空兵力を撃破する作戦を立てた。零戦はじめ合計380機が集められ、ラバウル基地や母艦上から、4/7(226機出撃)、4/11(93機出撃)、4/12(177機出撃)、4/14(191機出撃)の4度にわたって空中戦を交えながら米軍基地と船隊を攻撃した。その結果日本軍は米・豪軍の駆逐艦や輸送船など30隻を撃沈、戦闘機を134機撃墜としていたが、米軍の報告では駆逐艦や輸送船37隻、戦闘機は25機の損失としている。それに比して日本軍の戦闘機の損害は61機であり、これは大した打撃にはならなかった。

 この作戦の後の4月18日、日本の連合艦隊司令長官山本五十六大将が、ラバウルから出立したところを、暗号を解読していた米軍に待ち伏せ攻撃をうけ、ブーゲンビル島上空で撃墜され戦死した。この事件はしばらく極秘にされたが大本営は5月21日に発表した。

<アッツ島の戦いと玉砕>(5月12日-29日)

 前年5月に日本軍は米国領アリューシャン列島のアッツ島とキスカ島を占領したが、米軍の動きを見て8月にアッツを撤退してキスカ島に集結、しかし再度10月末に占領し直した。そこから両島の飛行場建設に着手したが、すでに列島の制空権は連合国軍のものとなり、輸送船にも被害が続出し、島も空襲や艦砲射撃に晒された。この島付近は一年のほとんどが霧か時化という気候のため、守備隊にはストレスで精神を病む者が続出していた。この年2月、兵士・武器弾薬・物資の増援が計画されるも、アッツ行輸送船「あかがね丸」が米艦隊により撃沈された(生存者なし、搭載物件は糧秣や弾薬および数百名の増援部隊だったという)。再度計画され第一次増援輸送船団(君川丸、粟田丸、崎戸丸)では3月10日にアッツ島に到着して輸送に成功した。しかしこれが最後の輸送船補給となった。5月12日、アメリカ軍は日本軍のアッツ島守備隊約2670人に対し、11000人を上陸させ、これに対し大本営はアッツ島増援を検討したものの、最終的に電文で「最後に至らば潔く玉砕し、皇国軍人精神発祥することを望む」と返信した。日本軍はすでに援軍どころではなかったのである。玉砕命令を受けた山崎保代司令官は、玉砕戦法に出るしか道はなかった。アメリカ軍と17日間におよぶ激しい戦闘の末、日本の兵力は1000名前後までに減り、なおも激しい抵抗を続けるが、怪我を負い歩けない兵には自決を命じ、病気のものは安楽死させられ、残った最後の日本兵300名は(山崎は「生きて捕虜の辱めを受けざるよう覚悟せしめたり」と軍属を含めた全員に告知し)29日、アメリカ軍の降伏勧告を拒否して最後の突撃を行い、玉砕した。戦死2638人、生存(捕虜)28、米軍戦死600人、戦傷1200人。

 この後大本営は援軍の要請があったことを隠し(「山崎部隊長は、ただの一度も兵の増援を要求したことがない」と報道で発表)、「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓を守った英霊として祭り上げ、「アッツ島は皇軍の真髄発揮の聖地として永遠に悠久に歴史の上に記されることになったのであります」と発表、そしてそのための歌まで作って国民の戦闘意欲向上に利用した。

<キスカ島撤退作戦>(5月27日-7月29日)

 アッツ島が陥落し、キスカ島にいる守備隊(陸海軍あわせて6000余名)は孤立した。そこで樋口季一郎中将は大本営には相談せず、アッツ島のような無駄な玉砕方針を捨て、木村少将と図り守備隊6000人を撤退させる作戦を立てた。まず潜水艦による撤退作戦が立てられた。当初は潜水艦による輸送作戦が成功したが、アメリカ軍の哨戒網は厳重であり、潜水艦三隻が米艦により撃沈され、水上艦艇による作戦に切り替えられた。1ヶ月以上濃霧の日を待ち、7月22日夜、出撃したが逆に濃霧のためうまくいかず、29日に艦隊はキスカ湾に突入し、その後キスカ湾内が一時的に霧が晴れる幸運があり、ただちに待ち構えていたキスカ島守備隊員5183名を大発のピストン輸送によりわずか55分という短時間で守備隊全員を8隻に分譲収容、艦隊はキスカ湾を全速で離脱した。直後からまた深い霧に包まれ空襲圏外まで無事に離脱することができた。アメリカ軍はそれと知らず、8月15日、艦艇100隻余りを動員、兵力約3万4000名をもってキスカ島に上陸した。濃霧の中一斉に上陸を開始したアメリカ軍は、各所で同士討ちが発生し、死者約100名、負傷者数十名を出し、架空の戦闘は終わった。なお、この翌19年7月初旬にはサイパン島(戦死約2万1000名、自決約8000名、捕虜921名)、続いてグアム島、8月にはテニヤン島、9月にはペリリュー島の日本軍がほぼ全滅する。

<ブーゲンビル島の戦い>(1943年11月1日-1945年8月21日)

 この島は第一次世界大戦後オーストラリアによって委任統治されていた。1942年3月に日本軍はソロモン諸島の一部であるこの島を占領した。ガダルカナル島の戦いが始まると、ラバウルからの中間基地として飛行場が数カ所に作られた。ラバウルには日本軍の陸上兵力は陸軍4万人、海軍2万人が配備されていたが、アメリカ軍はラバウルの孤立化を目指す作戦を発動、日本軍は次に攻撃されるのがブーゲンビル島であるとみて、ブーゲンビル島へ物資を送り込んだ。しかしアメリカ軍はブーゲンビル島西岸のタロキナ岬に侵攻、タロキナの守備隊は270人のみであって、11月1日から三日間で日本軍は全滅した。連合軍は12月にタロキナに飛行場を完成させると、ジャングルに潜む日本軍を手当たりしだいに爆撃するようになった。しかしアメリカ軍は2000m級の山が連なるブーゲンビル島全域の占領は意図せず、日本軍の補給を断って孤立させれば十分であった。その後も終戦まで戦いが続くが、補給を断たれた島内の各地の日本部隊は畑を耕して芋を収穫したり、椰子の実やそのコプラなど食べられるものは何でも食べたが、餓死やマラリアなどでバタバタと倒れていった。この島での日本軍の戦死は2−3万(多くが餓死、病死だが、正確な死者数が確認されていないことは、軍としての管理がなされていなかったことになる)、米軍は1243人であった。

<マキン・タラワの戦い>(1943年11月20日-23日)

 日本軍は太平洋戦争開戦直後にギルバート諸島マキンを無血占領して以来、守備隊は70数名しか置いていなかった。前年8月17日に、221名のアメリカ海兵隊が2隻の潜水艦でマキンに奇襲上陸し戦闘で壊滅した。そこで日本軍は2月に海軍特別陸戦隊をギルバート方面に配備し、地上施設や航空施設の増強を行った。主力はタラワに配置され、マキンには分遣隊と水上機基地が置かれた。11月20日未明、連合軍の航空母艦三隻からなる艦載機約40機が来襲し、その後も第6波まで空襲が繰り返され、日本軍は島中央部の二つの陣地を放棄した。翌21日、米軍は艦砲射撃を開始し、大隊を西部海岸に上陸させたが日本軍守備隊は一部を除き西部陣地を脱出し、東部陣地に集結した。翌22日、米軍は東部陣地に対して一日中、空襲と砲撃を加え、日本軍守備隊で戦闘可能な者は30名程となった。翌日早朝、残存守備隊30名は米軍陣地に対して最期の攻撃を仕掛けたが、1名を除いて全員玉砕した。この戦いにより、日本軍人353、軍属340(うち朝鮮出身200)、合わせて693人のうち戦死589人、捕虜104(うち朝鮮出身軍属101)となり、米軍戦死は818人となった。米軍の戦死者が多いのは同士討ちと、護衛空母1隻が日本の潜水艦の魚雷攻撃により失われたことによる。

 これに並行して米軍海兵隊がタワラ上陸作戦を実施、日本軍は地下陣地による全島の要塞化を計り、堅固なトーチカを建設、各トーチカは地下壕で連絡され、有機的に連携していた。11月21日未明、米軍の輸送船から上陸第1波である125輛のLVTが発進したが日本軍の砲台が反撃し、上陸部隊は大損害を被った。米軍は艦砲射撃で反撃し、砲弾が日本軍の弾薬庫に命中し、島を揺り動かすほどの爆発が起こり、日本軍の西海岸砲は制圧された。この後も米軍は艦砲射撃を続け、上陸部隊は再び海岸を目指したが、一般の上陸用舟艇では珊瑚礁を乗り越えることができず、海に浸かりながら徒渉上陸を試みるが、日本軍の機銃掃射により上陸した米兵約5000名のうちその3分の1が死傷した。それでも米軍は艦砲射撃と戦闘機で攻撃し、日本軍守備隊はトーチカなどの陣地にこもって抵抗、大激戦が繰り広げられた。23日朝、米軍は最後の1個大隊を上陸させ、激しい攻撃により日本守備隊の生き残りは約350名ほどになった。日本軍残存守備隊は何度かに分けて最後の突撃を敢行、いずれも反撃されほぼ壊滅した。生き残った者は、自決したものを除き、重症や意識不明の状態で捕えられた者などごく一部だけであった。なお米軍は日本兵が降伏せずに最後まで抵抗する傾向があるため、残った日本兵を徹底的に殺害したとされる。

 この戦いにおいて、日本軍2600 と1000の日本人労働者と1200の朝鮮人労働者のうち戦死4713、捕虜160(軍人17名、軍属14名、朝鮮人軍属129名)であり、米軍3万5000の兵力のうち戦死1009、戦傷2296であった。日本人労働者は要塞を築くために国民徴用令などによって集められた技術者、労働者であり、朝鮮人は朝鮮から徴用されて集められた労働者、軍属は雑役に従事する者たちで、要はこれらほぼすべての人たちが戦闘に参加させられて戦死した。

【主な輸送船の沈没】

 上記ビスマルク海海戦における兵士輸送作戦では、8隻の輸送船が撃沈され、4500人以上の命が海に消えた。以下はこの年、それ以外の主な輸送船沈没についてである。軍艦以外の沈没船はあまり取り上げられないが、実際には陸海軍に民間から徴用された船(漁船・ 機帆船を含む)のうち、この18年に空撃や魚雷によって沈没した主な船は440隻に上るが、翌19年と20年8月の終戦まで加速度的に増え、この戦争全体では7240隻に及ぶ。

<龍田丸>(2月8日)

 昭和16年(1941)米・英との緊張関係が高まる中、日本政府は米・英・蘭三国政府と交渉し、米国・ハワイ・インド・東南アジア方面の在留邦人引き揚げのため、龍田丸(当時の豪華客船)を含め貨客船10隻を投入した。 10月15日、龍田丸は608名の主としてアメリカ人引揚客を乗せ横浜を出港、ホノルル経由で30日にサンフランシスコに入港した。そして860名の日本人引揚客を乗せ直ちに出港し、11月14日に横浜へ帰着した。この次の龍田丸の航海は、11月24日に横浜を出発し、12月7日前後にロサンゼルスに到着予定だった。しかしこの時点で日本の軍政府は12月8日の開戦を決定して準備を進めており、12月2日に龍田丸の出発を遅らせ、南米の観光団、英米の外交官、在日商館員、日系人の母国観光団などを乗せて横浜を出港した。北太平洋上で日付変更線を越えて一日戻った12月7日、龍田丸は日米開戦の報を受けて引き返した。この後龍田丸は翌17年1月に海軍に徴用され、兵員輸送船として活動、まず南洋諸島方面の兵員・物資輸送に従事、その後日英外交官交換船に投入され、東アフリカのポルトガル領交換地ロレンソ・マルケスで英外交官等と日本人外交官、民間人その他と交換し、日本に戻ってくる役割も果たした。18年2月8日夜、駆逐艦に護衛され横須賀からトラック泊地へ進行中、龍田丸は米潜水艦の魚雷攻撃により御蔵島(伊豆諸島)東方海域で撃沈された。乗船1283人、船員198人の全員が死亡した。

<鎌倉丸>(4月28日)

  鎌倉丸は昭和5年に大型客船として竣工 し、姉妹船は上記龍田丸と浅間丸であり、開戦翌17年、日英交換船として横浜出港10月8日帰港した。交換船とは開戦により帰国できなくなった相互の国にいる人たちを特別に交換船で帰国させるやり方であったが、それもこの18年には危険として中止され、軍の輸送船として徴用されていた。

 4月27日早朝、マニラを出港し、バリックパパン(ボルネオ島東岸)に向かっていた夜半過ぎ(翌日2時)、パナイ島ナソ岬西方9Km付近において米潜水艦から2発の魚雷攻撃を受け、沈没。約2500名の便乗者(陸海軍軍人・軍属=設営隊工員・民間技術者・女性・報道関係者)と多くの軍需品、車両などを搭載してていたが、高速船という理由で護衛なしの単独航行のため、救助が遅れ多くの犠牲 者を出した。乗船者約2000人死亡、船員201人中176人戦死。

<崑崙丸>(10月5日)

 下関から釜山に向け航行中の関釜航路の鉄道連絡船崑崙丸(3月30日に竣工し投入されたばかり)が、午前2時頃、福岡県の北方にある沖ノ島付近を、米潜水艦ワフーに雷撃され沈没する。乗客479、乗員176、計655人中、死者行方不明者583人にのぼった。鉄道連絡船で最初の戦争の犠牲であった。ちなみにこの米潜水艦は、海軍の追撃により、崑崙丸撃沈から一週間を経ない10月11日に、宗谷海峡で発見され撃沈された。

<す江ず丸>(11月29日)

 す江ず丸は労役による疾病などにより著しく健康を害した捕虜650名をセラム島アンボンからジャワ島に送り届けるため、日南丸と船団を組み出発、29日朝、米潜ボーンフィシュが放った魚雷のうち2本がす江ず丸に命中し船尾から沈下、第3船倉からは捕虜が上がってきたが、第4船倉からは誰も出てこれなかった。数時間漂流した後、掃海艇が救助したが日本兵93名と患者205名で一杯になり、海上で浮遊物に掴まっている捕虜たちを銃殺してしまった。掃海艇は逃亡を図った捕虜を処分したと連絡した。これで69名が死亡したが、船倉にいた546名はそのまま船とともに消えた。

軍歌(昭和18年:1943)

 この年の前線各地の日本軍の劣勢に比して、国内の軍歌はまだ意気盛んな状態にある。それは軍政府(大本営)がその劣勢を報じることをせず、隠し続けていたことによる。

『興亜讃美歌(集)

 昭和18年:日本基督教団讃美歌委員会発行

 昭和に入ってからの絶対的な軍国主義は、当然キリスト教団体にも大きな影響を与えた。とりわけ昭和12年(1937)の日中戦争以降は、キリスト教系学校にも天皇崇拝行事への圧力もあって、14年あたりから他の学校と同様に、「宮城(皇居)遥拝/靖国神社臨時大祭校庭で新たな護国の英霊に黙祷/『教育勅語』や『青少年に賜わりたる勅語』の奉読式 /海軍記念日等で黙祷 /支那事変勃発二周年記念式 /兵士への慰問袋500を作り海軍省へ寄付 /中等学校生徒を集めて代々木練兵場にて明治神宮奉戴式/陸海軍幹部の講演(例「支那事変と我海軍」など)」様々な行事に追われ、15年あたりから米英との関係が険悪になると、宣教師や牧師、シスターなどに対する排除が始まり、彼らはやむなく帰国していくことになり、そのピークが太平洋戦争開戦前の16年であった。

 一方でカトリック系に対しては当初は多少融和政策がとられていたが、17年7月、天皇と神道を絶対とした思想統制による指示で、全国から青山学院にカトリック系の修道士と修道女が集められ、「錬成会」が開かれた。その時の宣誓文に「我等は時局下宗教報国の使命重大なるに鑑み、ここに心身を錬成して日本精神昂揚の根帯を培い、もって八紘一宇の宏謨に則り道義的東亜新秩序の建設に貢献せんことを期す」とあり、明治神宮や護国神社への参拝も欠かさず行うことになった。従わなければ収容所に連行すると告げられた。

 これらの動きを機に、日本基督教讃美歌委員会は、新しく時局讃美歌編集委員会を構成し、『興亜讃美歌』の編纂に着手、18年3月に発行した。まずそのタイトルを掲げてみると、「大東亜建設・大東亜共栄圏・一億一心・滅私奉公・世界維新の歌・錬成の歌・銃後の家庭・時局と青年(女性)・軍国の母歌える・日本伝道・海外伝道」等々、タイトルだけ見れば普通の軍歌と変わらない。その中のいくつかをあげる。

『大東亜建設』

—— 「一億の皇民(みたみ)よ起ちて…日の出ずる東アジアを安国のうらやすにせん /… 四方の海同胞となり 天つ神 御父と崇め … /福音をあまねく宣べて … 日の出ずる東アジアに 打ち建てん 神の御国を」

『世界維新の歌』

—— 「見よ東雲(しののめ)の空明けて …/軛(くびき)解かれし感激に 東亜の民が共栄の 秩序建てんと奮い起つ 世界維新の秋は来ぬ/ 八紘為宇の大理想 目標(めあて)とすなる創造の 聖業(みわざ)のために身を献げ 世界維新を企てん …」

『銃後の家庭』

—— 「真玉と愛でて育てたる 吾子(あこ)をささげし光栄に ゆかし母父老いらくの いのちは明るく生くるなり/ … /こころをあわせ祈りつつ 互いに扶(たす)けはげまして 銃後をまもる皇民をば 護らせたまえ あまつ神」

『時局と青年』

—— 「遠つ父祖より享(う)けつぎし 正義の血潮高鳴りて 若人の起つべき秋(とき)ぞ来たりたる いでや我等はひとすじに 炎の道も衝きてゆかん/ … /国の興れる大御代に 生まれし身こそ幸なれや 大君の御盾のほまれ 身に負いて 大きアジアを築くべく 御神を仰ぎ勇みゆかん」

『海外伝道』

—— 「のぼる朝日の旗風に 東亜の空の雲晴れて アジアの種族 十億が ひとつにむすぶ朝は来ぬ/日いずる国の御民われ 神に召されしよろこびを いかでこころに秘めおかん 八潮路こえて伝えばや …」

 内容も、使う言葉も当時の各種の軍歌と変わりないが、いずれも終番などに“神”の名を入れて両方にかけるような微妙な配慮になっている。苦心の産物であろう。一種、長崎の隠れキリシタンの心境もあったかもしれない。

 なお、これに続いて『興亜少年讃美歌』と『日曜学校讃美歌』が編纂されている。

『欲しがりません勝つまでは』

 昭和18年 作詞:山上武夫/作曲:海沼実

 このコンビは戦後も童謡界において活躍し、有名な作品には「おさるのかごや」がある。童謡は昭和初期まではたくさん作られたが、この時期は童謡は求められず、作詞家としては苦難の時代であった。17年12月の大東亜戦争開戦一周年記念日のために公募された「国民決意の標語」のひとつがこの有名な標語で、これを題材に作られた。


どんな短い 鉛筆も
どんな小さい 紙切れも
無駄にしないで 使います
そうです 僕達 私達
「欲しがりません勝つまでは」(最終行繰返し)

靴や洋服 新しく
つくることより 役に立つ
強い体を つくります
そうです銃後も 戦地です

これは戦車に 飛行機に
これはお艦を つくるため
みんな揃って 貯金です
そうです心を 引き締めて

北に南に 次々と
あがる日の丸 勝鬨に
負けず劣らず 進みます
そうです 日本の子供なら

 「戦車に飛行機に … みんな揃って貯金です」とあるが、日中戦争以来献金ブームがあり、例えば各学校(女学校を含め)が連携して献金し、それで戦闘機を購入し「愛国号」などと名をつけて陸軍に献納するというまさに軍国主義教育を実践するような企画が全国的に行われた。裕福な子女の通う私学校など、一校で一機を献納する学校もあり、普通の学校では毎月子供が小遣いなどを持ち寄り貯金し(愛国貯金)この18年も続けられていた。当然国民も次第に窮乏していく。

 これとは別に、太平洋戦争突入の年8月には、武器生産に必要な金属資源の不足を補うため、金属類回収令が公布され、 官民所有の金属類回収が行われるようになった。家庭の余った鍋釜はもちろん、学校の門扉や鉄製の窓枠、お寺の梵鐘、学校や公園などにある銅像も対象となった。金属ボタンも供出され、それに代わって木や陶器のボタンが作られるようになった。鍋釜にも強度のある代用陶器も開発された。この18年あたりは家庭の宝石や貴金属も贅沢品として没収されるようになった。これには隣組の密告もあって隠すわけにはいかなかった。またこの法令は植民地の朝鮮、台湾でも一月遅れの同年10月より施行された。

 このスローガン以外に「国民決意の標語」に入選したものは以下である。

「たつた今!笑って散った友もある」・「頑張れ!適も必死だ」・「すべてを戦場へ」・「その手ゆるめば戦力にぶる」・「今日も決戦 明日も決戦」・「理窟言う間に一仕事」・「“足らぬ足らぬは”工夫が足らぬ」

『この決意』(大政翼賛会選定:国民合唱のうち)

 18年 作詞:大政翼賛会宣伝部/作曲:片山頴太郎


今だ!忘れてなるものか
あの日の朝の感激を

さうだ!誓はう英霊に
頑張り抜いて勝ち抜くと

これだ!唸るぞこの腕が
戦ふ力作るのだ

敵だ!倒すぞ米英を
一億の手で団結だ

 これは歌ではなく、スローガンの寄せ集めである。『進め一億火の玉だ』と同じことを書くようだが、政府機関の大政翼賛会が歌を作ると、どうしてこうも言葉のレベルが下がるのか。ほとんど思考力を持たないこの人たちの頭のレベルがわかるが、こういう人種にこの時代の戦争が主導されていたということで、これでは行き当たりばったりの戦略しか立てられず、この大きな戦争に勝てるわけがない。われわれ国民としても恥ずかしい思いがする。

 今ひとつ、18年に作られた『富士に誓ふ』(少年戦車兵訓練の記録)の主題歌(作詞:大木敦夫/作曲:二木多喜雄=「少年戦車兵」の歌と同じコンビ)がある。


希望輝く 東雲の
富士を誓ふて 大和魂
桜の花と 咲き薫り
明日は門出の 猛獅子か
不滅の勲 樹てやうぞ

弾丸(たま)のあられの その中を
戦車進めて 勇ましく
百万の敵 打ち砕く
その日 その時 その夢に
胸は鳴るぞよ 血は躍る

お国を背負ふは この肩ぞ
命捧げて 先がけて
大君の辺に 立つものもの
高い誇りに 眉あげる
我らは少年戦車兵

「その日その時 その夢に 胸は鳴るぞよ 血は躍る」と、まだ見ぬ実際の戦場へと大人たちが子供たちを掻き立てるのである。これはまるでヒトラー・ユーゲント(青少年教化組織=ヒトラー青少年団)の置かれた状態と同じである。ただ戦地へ出る前の少年たちの写真を見ると、みんな明るい顔をしている。

 ちなみに少年兵としてはこの通信・戦車の他に「少年兵」「少年工科兵」「少年野砲兵」「少年重砲隊」「少年高射兵」などがあるが、当時植民地であった台湾や朝鮮からの少年志願兵も少なからずいた。現地では日本語教育がされていたから、当然日本語の試験を受けて合格したものたちである。

『索敵行』陸軍航空本部選定歌

 昭和18年 作詞:野村俊夫/作曲:万城目正/歌:伊藤久男・霧島昇・楠木繁夫

 映画「愛機南へ飛ぶ」の主題歌で、陸軍航空士官学校出身の偵察要員が主人公。


日の丸鉢巻 締め直し
ぐっと握った 操縦桿
万里の怒濤 何のその
往くぞロンドン ワシントン
空だ空こそ 国懸けた
天下分け目の 決戦場(下二行繰返し)

瞼に浮かんだ 母の顔
千人力の 後ろ楯
翼に込もる 一億の
燃える決意は 汚さぬぞ

 当時の日本の人口は約7千万人で、一億とは台湾・朝鮮の植民地を合わせたもの。「瞼に浮かんだ母」は決して「行け!」とは思っていず、「燃える決意」を汚してもいいからと、ただひたすら息子の無事を祈るだけであろう。

 同時上映は海軍の『決戦の大空へ』で海軍飛行予科練習生募集PR映画であり、下記がその主題歌で、レコードのAB両面で発売された。

『大空に祈る』

 昭和18年 作詞、作曲は上記に同じ、歌は松原操・三原純子・菊池章子


風吹きゃ 嵐にならぬやう
雨降りゃ さぞやご苦労と
飛び行く鳥の 影にさえ
我が子を偲ぶ この日頃
祈るこころは ただ一つ
晴れの手柄を 勲(いさおし)を(下二行繰返し)

南の空見りゃ 眼に浮かぶ
日の丸赤い その翼
湧き立つ雲を 朱に染め
戦ひ抜くか 今日もまた

 同じコメントになるが、親が「我が子を偲」び「祈るこころはただ一つ」、「晴れの手柄」など要らぬ、無事に帰ってこい、であろう。

『海軍航空の歌』(国民合唱の一つ)

 昭和18年5月 撰歌:海軍航空本部/作曲:海軍々楽隊 


万里の雲や 大洋の
空を圧して 敵を呑む
堂々の意気 この胸に
百練の技 この胸に
衝けば必殺 あますなし

翼に託す 明鏡の
何ぞ心に 曇りある
聖勅重し 身は軽し
使命に薫る さくら花
玉と砕けん 願ひのみ
4(3略)
百万の敵あらばあれ
一機断じて 挑み撃つ
不撓の決意 必勝の
敢闘まさに 時到る
今や世界は 新たなり

 意気揚々とした歌詞は、ここまでくるとみな同じである。戦局はすでに大きく敗勢に向かっていたが、軍政府は認めようとしていなかったし、国民も誰もが信じようとしなかった。この戦争は「聖勅」による聖戦であったから、負けることは考えられなかった。しかしその「聖勅」は天皇の意志ではなく、軍政府が天皇を誘導して作ったものとは、国民の誰もが考えていなかった。

『アッツ島血戦勇士顕彰国民歌』

 昭和18年 作詞:東巽 久信/作曲:山田 耕作 (朝日新聞選定歌)

 昭和17年(1942)6月、日本軍は海軍のミッドウェー作戦の陽動作戦としてアリューシャン列島のアッツ島をキスカ島と共に攻略、占領して「熱田島」と改称した。翌18年5月、日本軍のアッツ島守備隊約2670人に対し、アメリカ軍は1万1000人をアッツ島に上陸させたが、事前にアッツ島守備隊は弾丸、食糧などの物資と援軍を要請したが、大本営は電文で「最後に至らば潔く玉砕し、皇国軍人精神発祥することを望む」と返信した。この時期、日本軍の実情はすでに援軍どころではなかった。そこで守備隊長は、怪我を負い歩けない兵には自決を命じ、その上で玉砕戦法にでた。激しい戦闘の末に生き残った傷だらけの最後の日本兵300名は、山崎保代司令官を陣頭に突撃を行い、アメリカ軍の降伏勧告を拒否してほぼ全員討ち死にした。捕虜になったもの28名。

 大本営は、この玉砕を初めて公にし、援軍の要請があったことを隠し(「山崎部隊長は、ただの一度も兵の増援を要求したことがない」と報道で発表)、「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓を守った英霊として祭り上げ、「アッツ島は皇軍の真髄発揮の聖地として、永遠に悠久に歴史の上に記されることになったのであります」と発表、そしてそのための歌まで作って国民の戦闘意欲向上に利用した。

 このレコードは、「初戦以来、相次ぐ敗戦の敵米英は、長期戦を一擲、日本に時を課すなと絶叫。われに短期決戦を挑み来たる。(米軍は)ありあまる物資をたのみ、ガタルカナルの反撃を序曲として北より南より我に短期決戦を挑み来る。北海の春まだ浅き昭和18年5月12日、我アッツ島守備隊の2千数百名の将兵は、突然来襲する敵2万の大軍を迎え討ち、激戦に告ぐ激闘18夜、ついに全員壮絶な玉砕をとげた」という名調子の出だしで始まる。


刃も凍る北海の
御楯と立ちて二千余士
精鋭挙るアッツ島  
山崎大佐指揮をとる
(以下終行繰り返し)
3(2略)
陸海空の猛攻に
我が反撃は火を吐けど
巨弾落ちて地を抉り
山容ために改まる
5(4略)
火砲はすべて摧け飛び
僅かに銃剣 手(て)榴弾
寄せ来る敵と相搏ちて
血汐は花と雪に染む

一兵の援、一弾の
補給を乞はず敵情を
電波に託す二千キロ
波頭に映る星寒し
9(7、8略)
残れる勇士百有余
遥かに皇居伏し拝み
敢然鬨(とき)と諸共(もろとも)に
敵主力へと玉砕す
10
ああ皇軍の神髄に
久遠の大義生かしたる
忠魂のあとうけ継ぎて
撃ちてし止まん醜(しこ)の敵

 大本営の発表と合わせて「一兵の援、一弾の補給を乞はず」して玉砕したことになっている。これらの真相は戦時下では伏せられ、戦後しばらく経って明らかにされたことである。実はこうした戦いで捕虜になって生き残った人が、年老いてきて証言するようになったケースは多い。本人にとっては戦後の長い間思い出すことも辛く、胸に秘めてきた人々が、やはり死ぬまでに語っておくべきだと話し始めたのである。

 北海道に住む高木発明は(アッツ島守備隊はは北海道の部隊であった)この戦いで足に爆弾を受けて意識を失い気がつくとアメリカ軍のテントに収容されていた。捕虜は「不忠の中の不忠」と舌をかみ切ろうとしたが、一緒にいた別の仲間に止められた。終戦までハワイの捕虜収容所で過ごし、戦後一年経って復員した。故郷では村葬まで営まれていた。戦時中、祖国のために命を捧げることは何よりの名誉とされアッツ島から生きて帰ることは軍人として許されることではなかった。本人自身も、自分だけ生き延びて、死んだ戦友に申し訳ないと思い、身を隠すように生きてきたし、同様な人は多い。生き残って帰ってきた人を、なぜ貴方だけがと非難するように問いかける遺族もいるのである。ただ高木の場合、せめて死んだ時の様子を知りたいと、思い切って訪ねてくる遺族らの求めで、少しずつ語るようになった。高木はすでに靖国神社の玉砕者名簿にも名前が残り、しかし自分の名前を削除することを願い出ることはなかった。取材記者が何故かと聞くと、涙ながらに「みんなと一緒にいたいから」とのことだった。アッツ島守備隊が全滅した5/29、高木は毎年、北海道護国神社に参拝し、「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」を流して戦友たちの慰霊を続けているという。またアッツ島にはアメリカ軍が日本兵の遺体を埋めた墓地がある。(上記は主にRKB放送の取材記事より)

 それにしても一般の日本人のこうした義理堅さ、律儀さは何なのであろうか。それに比して、軍政府、政官人の無責任さは何なのであろうか。机上の会議で作戦を打ち出すだけの無責任な政官人が、律儀な日本国民を犠牲にし、その後「あの時はそうするしかなかった」と言って、のうのうと生きて暮らしている。

 ちなみに高名な日本文学研究者のドナルド・キーンは、若い時、このアッツ島の戦場にいて、自決している日本兵を見たと話している。不必要な精神主義による自殺は日本の悲劇であると語る。実際に兵士ばかりでなく、この後のサイパン島や沖縄や満州の戦いでも、追い詰められた日本人住民が集団自決を選んだ場合が多い。一般人を集団自決までさせるこの時代を包み込んでいた日本の狂気はどのように醸成されて行ったのか、少なくとも同じような軍国主義体制で第二次世界大戦を引き起こしたナチスドイツにおいてはそのような話は聞かない。日本の指導層が明治以来、神聖なる天皇像というものを作り上げ、それを利用して歪んだ精神主義を国民に植え込んで行った結果であろう。

 この米軍のアッツ島攻略作戦の次は、同じアリューシャン列島のキスカ島であった。こちらは約6000人の守備隊がいたが、樋口中将は大本営を無視して玉砕戦法をとらず、アッツ島玉砕後の5月下旬からから7月末までに、撤収作戦を実施し、濃霧を利用して連合軍に全く気づかれず無傷で撤収に成功した。こういう司令官を持てば兵士は少しでも安心であろう。

『みたみわれ』

 18年7月 作詞:海犬養岡麻呂(万葉集)/作曲:山本芳樹

 『海ゆかば』を「国民の歌」に制定した大政翼賛会が、さらに「国民の歌として決戦下の全国民があらゆる機会に力強く朗誦する」ためとして、この万葉集の一首を歌詞として、当時の音楽文化協会と共同で曲を一般公募した。これが決まるや、7月から大政翼賛会・NHK主催の「国民音楽会」として日本各地で発表された。一応『海ゆかば』は戦地へ行く将兵の歌、『みたみわれ』は銃後つまり国内にいて前線の支援する国民の歌とされた。

御民われ
生ける験(しるし)あり 
天地(あめつち)の 
栄ゆる時に 
相(あ)えらく 
念(おも)えば

 歌の意味は、天皇の民である私は、生きている甲斐があることよ、天地が栄える時に生まれ合わせたと思えるので、となる。

 この「みたみわれ」という言葉は、この時代の学校などで朗誦された「勝ち抜く誓い」という朗唱詩でも使われていて、その内容は以下である。

みたみわれ、大君にすべてを捧げまつらん
みたみわれ、すめらみくにを護りぬかん
みたみわれ、力のかぎり働きぬかん
みたみわれ、正しく明るく生きぬかん
みたみわれ、この大みいくさに勝ちぬかん

 「すめらみくに」とは天皇の統治する国の意である。大東亜戦争開戦の日(昭和16年12月8日)の詔勅にちなんで定められた毎月8日を大詔奉戴日とし、昭和17年から学校では国旗掲揚、君が代斉唱、開戦の詔勅、教育勅語奉読、宮城遥拝が行われていた。その日、ある女学校では朝早く学校に集合すると、上の「勝ち抜く誓い」を朗誦し、竹槍訓練をやり、神社に「ワッショイワッショイのかけ声も勇ましく」参拝し、学校へ着いてみんなが集まったところで解散。午後から再び登校、「一時間は大詔の奉読式を上げた」と記している。そこで『大詔奉戴日の歌』もあって、その内容は

——「天つ日の/光と仰ぐおおみこと/おしいただいて一億が/手に手をとって感激の/涙とともに必勝を/誓ったこの日を忘れまい」(以下略)

というのもであった。ここまで徹底して教育されると、この戦争は日本にとって、天皇がご聖断された必須の「聖戦」であると、少年少女たちは信じる以外に道はない。実のところは軍政府が昭和天皇を寄ってたかって言葉巧みに操り、本来の天皇の意思に反して開戦の詔勅を発するに至った。この詔勅の言葉も明治天皇の教育勅語も軍人勅諭も、すべて天皇の取り巻き(軍政府の要人たち)が書いたものであり、天皇の役目は玉璽を押すのみであった。それによって取り巻きは、さも天皇のご意志なるぞと、虚飾して国民を戦争に煽り立てたのが実際の姿である。

 このように学校でも戦時色に染められ、女学校でも軍事教練は免れず、この上さらに「銃後」の義務としての勤労動員があった。18年7月、「勤労新体制の確立」が打ち出され、 「決戦下、学徒の教室もまた戦場であり、それは直ちに前線に通じている。今や青年学徒の烈々たる殉忠報国の赤誠は報いられ、ここに学徒戦時動員体制は確立され、勤労体制は一段と強化された。戦局の現段階は、青年学徒は勿論、一億国民の勤労への総決起を促して止まない。男も女も、老いも若きも、ただ一筋に戦力増強の生産陣に挺身し、勤労を挙げて国家に捧ぐべきである」とした。こうして子供も含めて国への献身と耐乏生活を強い、そして多くの命を国というものに捧げさせた上で無残に敗北した。

 ここまで国民を洗脳し、狂気に煽り立てた国家は、人類史上ナチスドイツと日本だけであろう。二国の違いは、ナチスは独裁者によるもので、日本は首相がコロコロと変わる集団指導体制によるものであった。実は集団指導体制というのは、お互いに責任をなすり合う無責任体制と言ってよい。それにしても20世紀は科学が急速に発達した時代で、その中でも宇宙物理学の解明によって人間の存在の絶対性が否定されたと言ってよく、そのような客観的な世界観が確立されながら、どうして人類はこのような偏狭で独善的な大量虐殺を引き起こす戦争に走ってしまうのか、人間が宿命的に持っている我欲と征服欲が国という仮の楼閣を利用した結果なのか、いずれにしろその愚鈍な社会構造を克服していかないと、戦争の悲劇はなくならない。

『輸送船行進歌』

 18年頃 作詞:根ノ瀬信作/作曲:堀内敬三 (運輸通信省海運総局選歌)


戦雲深く立ちこむる
海上圧し船団は
日の丸高く堂々と
征くや怒濤の幾千里
ああ決戦に咲き匂ふ
花なり われら輸送船

嵐を凌ぎ 雲を衝き
敵機の群や敵潜の
補給路狙ふ北南
持ち場守りて敢闘す
ああ前線のつはものの
母なり われら輸送船

撃ちてし止まん烈々の
日本船員魂が
生死を越えてただ一路
使命に殉すその勲
ああ大東亜建設の
光ぞ われら輸送船

 この歌は巷にあまり流布していないと思われるが、地味な役割をもつ輸送船の船員に向けての歌である。これは「ああ前線のつはものの母なり」とあるように、軍に徴用された輸送船は軍隊の将兵ばかりでなく、その太平洋戦争開戦時に、数十万トンにも及ぶ武器、弾薬、戦闘車両、糧秣など様々な物資も運んだ。真珠湾奇襲攻撃と同時に、マレー半島上陸作戦に成功したのも、第一次大戦後に疲弊した海運事業を昭和に入って立て直し、この時代世界第三位の商船規模を誇るようになり、その船舶の多数を軍が徴用した結果であった。そして3ヶ月にわたる緒戦の侵攻作戦が大成功の下に終了したとき、投入された商船の12%に相当する約23万トンを失っていた。しかし軍はこれを重要視せず、つまり防御に力をおかず、次々に戦線を拡大していった。何よりもインドネシアで占領した石油基地からの石油輸送が重大な仕事であり、将兵への食料輸送も欠かせなかったが、問題はこれらの戦場が、本国よりもはるかに海の彼方の遠隔の地であったことである。次第に連合軍の艦船に包囲されるようになり、輸送船は確実にその数を減らしていったし、輸送の途中で失う兵力や武器弾薬、糧秣などは馬鹿にできなくなってきた。戦争終盤では、起死回生の特攻隊作戦(飛行機ではなく人間魚雷回天や自爆装置付きボート型の震洋隊などに乗る特攻隊員輸送)で、南の戦地への輸送中にその大半を失う始末であった。すでに制海権はほぼ奪われていたと言ってよく、すべては自国の戦艦や潜水艦を優位にみて、米国の海軍力を甘く見ていた日本海軍の過ちだとされる。戦死した兵士の6割が餓死であったという大きな理由もここにある。糧食を運べないから「現地調達」しかなく、現地はすでに敵軍で包囲されていた。

 戦争が始まって実際の輸送船の損害は海軍の予想を桁違いに超えるものであって、太平洋戦争第一年目96万トン、第二年目169万トン、第三年目392万トンという大損害となっている。戦争が終わった時の船舶被害の総数は、官・民一般汽船ー3575隻、機帆船ー2070隻、漁船ー1595隻、合計7240隻となっている。そして戦没船員数については、6万608名が海上で死亡しているが(全日本海員組合)、これはあくまで船を操る船員の数であり、その輸送船に乗って運ばれていた将兵は別で、また病院船として運ばれた傷病兵、疎開などで輸送船で運ばれた子供たちや民間人も別であり、さらに海軍の戦艦などで撃沈された将兵を合わせると全体で35万人が海に消えたとされる。異様な犠牲者数である。

『大航空の歌』(NHK国民合唱)

 昭和18年 作詞:西條 八十/作曲:佐々木俊一


見よ見よ大空に荒鷲が
撃ちてし止まん翼もて
描く亜細亜の新歴史
世界は明け行く日本の
翼 翼 輝く翼
高く羽ばたく翼より

迎えば敵無し皇軍の
勇む翼の感激に
誰か涙を流さざる
続けや若人雲蹴って
翼 翼 輝く翼
空は亜細亜を興す道

想えば天孫降臨の
空は御民の故郷ぞ
世界照らさん日の丸を
雲居に進めん時は今
翼 翼 輝く翼
挙れ一億大空へ

 この時期、かなりヒットした曲のようである。歌詞はまだまだ元気で、その内容も思うがままで、この調子でいけば戦争に負けるわけがないし、「空は御民の故郷」であれば、アジアどころか一気に全世界制覇も夢ではないであろう。歌というものが仮想の世界を歌うものであるということがよくわかるが、ここまでくると作詞家も無責任な存在である。しかし本人たちは国民の戦意高揚に貢献していると思い込んでいるわけである。

『若鷲の歌』

 昭和18年9月 作詞:西条八十/作曲:古関裕而

 海軍飛行予科練習生(予科練)を募集するための宣伝目的で作られ、予科練生の成長を描いた映画『決戦の大空へ』の主題歌で、この歌のために作詞・作曲の二人は土浦海軍航空隊に一日入隊し、その体験を生かして作ったという。古関裕而はクラシック音楽出身で、曲は高揚感があり、別名「予科練の歌」として大ヒットし、戦後も歌われ続けた。


若い血潮の 予科練の
七つボタンは 桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ
でっかい希望の 雲が湧く

燃える元気な 予科練の
腕はくろがね 心は火玉
さっと巣立てば 荒海越えて
行くぞ敵陣 なぐり込み

仰ぐ先輩 予科練の
手柄聞くたび 血潮が疼く
ぐんと練れ練れ 攻撃精神
大和魂にゃ 敵はない

生命惜しまぬ 予科練の
意気の翼は 勝利の翼
見事轟沈 した敵艦を
母へ写真で 送りたい

この映画と歌で、戦況は悪化しているにも関わらず予科練生の応募は一層増えたという。募集年齢は15歳からで、もともと狭き門であったが、太平洋戦争が始まると航空機搭乗員の大量育成のため、予科練入隊者は倍々と大幅に増員され、養成部隊の予科練航空隊は全国に新設された。それでも少年たちの応募はそれを上回るほど殺到した。

 実際の予科練での訓練生活は、ひどく厳しいものであった。

—— 「体罰はしょっ中で、顔を殴られたり尻をバットのような棍棒で叩かれる/食事は一汁一菜の麦飯だけ/何時も空腹、起床は夏は五時、冬は五時半/勉強は英数国漢と航空術などの専門の軍事学、そして講義の後すぐにテストがある/戸外訓練は陸戦、カッター、水泳、マラソン、いずれも体力の限界までやらされた/プライバシーの保護は全く無く手紙や郵便物は必ず検閲された/楽しい事は日曜毎の外出で、少年達は七ツ釦(ぼたん)のスマートな制服で町に出、下宿で寝転んだり映画を見たり、のんびりと休養をとった/外出の範囲は制限され、制限外のところに行ったのが見つかるとそれはひどい体罰を受けた。

 予科練から飛練に進むと実際に飛行機に乗って飛ぶための訓練を受ける。約半年間、一日も早く一人前の飛行機乗りになりたいと、それこそ血と汗にまみれ歯を喰い縛って頑張った。離着陸、編隊、宙返り、背面飛行と次々に習得していくが、ミスをすると教官から殴られ、広い飛行場を駆け足三周させられることもしばしばだった。飛練を卒業するとすぐに実戦部隊に配属された。そして私は台湾沖の海上でアメリカの戦闘機グラマンに撃墜され、同乗の二人は死んで機と共に海に沈み、私だけが約五時間海を漂流して助かった。漂流中、血の臭いをかぎつけたフカが寄ってきて怖い思いもした。私と同じく実戦に投げ入れられた者は、或る者は空中戦で敵と闘って殺され、或る者は爆弾を抱いてアメリカの軍艦に体当たりして若い肉体を粉砕させて死んだ。飛行兵は弾丸と同じ生きた消耗品だった。彼等は美しい日本の国と、愛する父母弟妹を守ろうと南溟(なんめい:南方の大海)の空に海にその若い生命を散らした。彼等には遺骨も無い。父母の元に帰った白木の遺骨箱の中は空だった。私は青春も知らずに死んでいった彼等の墓標はあの青い空にぽっかり浮かんでいる白い雲だと思っている …… 戦争が終わった時に数えてみたら、僅か二年位の間に入隊した者の約半数が死んでいた。年令は殆ど17、18才だった。大事な可愛い我が子を戦争で殺された両親の嘆きはどんなであっただろう」

(三重県、菊池三郎:終戦時18歳)

元々はこの方も「それはもう当時の少年達にとって飛行機に乗るのは夢と憧れだった。日の丸マークの軍用機にまたがり縦横に大空を飛び回り敵機と闘って相手を撃ち落とす … 誰しもがそのような近未来の己れの姿を描いていた」と、歌の内容そのままの気分で予科練に入隊した。仮に自分が死んで家族がどれだけ悲しい思いをするかなど、まるで考えていなかった。そして海軍予科練の卒業生2.4万人のうち、戦死した若者は1.9万人に上る。

 なお、いわゆる神風特攻隊員は予科練出身者ではなく、主に速成の学徒兵から選ばれた。予科練出身者を特攻隊員にしなかったのは、訓練に国がお金をかけているから「無駄に」死なせられないという理由によるという。この18年9月の時期には大学生は徴兵猶予が解除され、また繰り上げ卒業と徴兵年齢を下げられて「学徒出陣」として戦地に送られることになり、昭和19年後半にはわずか一年かそれ以下の訓練で特攻の搭乗員の中核となり、部隊によっては約90%が戦死するという結果になっている。

 また予科練の出身者の戦死の場合、「殆ど17、18才」であったが、学徒特攻隊の場合は19−21才が主であり、そもそも徴兵年齢は19年に18歳まで下げられたばかりで、予科練の「17、18才」とはルールに反している。しかも19年夏以降は実地訓練用の飛行機も足りず(資材が足りないため、最後は木製のプロペラを作ったほどである)、飛行訓練も停滞し、この時期以降に予科練を修了した者はまともに航空機に乗れないものが多く、基地や防空壕の建設などに従事する場合もあり、一方の特攻隊も航空機以外の人間魚雷回天・水上特攻艇震洋・人間機雷伏竜等の特攻兵器に回された者も多くいた。

『加藤隼戦闘隊』(陸軍飛行第64戦隊歌)

 昭和18年 作詩:田中林平、旭六郎/作曲:南支那方面軍軍楽隊 原田喜一軍曹

 昭和13年(1938年)8月、中国河南省安陽の彰徳飛行場において三個飛行中隊が合同して飛行第64戦隊が編成された。この中で加藤建夫陸軍中佐が率いる帝国陸軍の飛行第64戦隊の活躍を記録した同名の映画の主題歌である。加藤は昭和14年7月にはノモンハン事件に参加、ソ連赤色空軍を相手とするノモンハン航空戦では激戦を戦い抜き、戦果を挙げた。この翌年、田中林平准尉が士気高揚の為に、北支での戦訓をもとに部隊歌を作ることを発案、詩は旭六郎中尉との合作となり、作曲は軍楽隊に依頼した。その部隊歌が映画の時に使用され、国民が広く知ることとなった。

1 
エンジンの音 轟々と
隼は征く 雲の果て
翼に輝く 日の丸と
胸に描きし 赤鷲の
印はわれらが 戦闘機 
2 
寒風酷暑 ものかわと
艱難辛苦 打ちたえて
整備に当る強兵(つわもの)が
しっかりやって 来てくれと
愛機に祈る 親ごころ 
4(3略)
干戈(かんか)交ゆる 幾星霜
七度(ななたび)重なる 感状の
いさおの蔭に涙あり
ああ今は亡き武士(もののふ)の
笑って散った その心
5 
世界に誇る 荒鷲の
翼のばせし 幾千里
輝く伝統 受けつぎて
新たに興す 大アジア
われらは皇軍戦闘隊

 太平洋戦争開戦前の歌であり、また軍隊自身の作曲なので、比較的おとなしい内容になっている。実戦部隊が書く歌詞というのは、いわゆる局外にいる詩人が書くようには雄々しく勇壮には書かない。どこかで「いさおの蔭に涙あり」のような言葉が入ってくる。これが普通であることを「勇壮で荘厳な」軍歌を好む人には知っていただかなくてはならない。

『学徒空の進軍』(NHK国民合唱)

 昭和18年12月 作詞:吉田健次郎/作曲:大内 三郎

 この年の秋に学徒出陣した学生たちのことを歌っている。


戦い今ぞ酣(たけなわ)の
鉄血滾(たぎ)る決戦が
学窓深く響く時
ああ我征くと報国の
いや武心をいかにせん

学びの庭よいざさらば
恩師よ友よますらおの
道一筋と極まりぬ
今我は征く大空の
醜(しこ)お御楯と省みず

励ます母が日の御旗
賜いし父の日本刀
抱いて急ぐ空の果て
ああ悠久の祖国をば
巡る青雲後に見て

数をば誇り物力を
命と頼む敵勢と
輸贏(ゆえい=勝ち負け)を空に決すべし
出で日東の健男児
征きて砕かん国の仇

 歌詞の内容と調子はどれもよく似ている。ただ「空の進軍」とあるのは、学徒出陣した12月、まだ兵役に就いたばかりの若い彼らが陸海軍の飛行隊(当時空軍はない)を選ぶもの、あるいは行かされるものが多かったということであろうか。実際、結果的に目立つのは特攻隊の飛行士となって散っていく姿である。

 この18年は学生の兵役猶予制度が解除され、20歳の年齢に達している理工系以外の学生は徴兵されることになった。ただ、16年から繰り上げ卒業が実施され、最初は3ヶ月、翌17年は半年前の9月に卒業となっていた。これは兵役猶予制があるため、少しでも早く卒業させて兵役ほか軍事関係の仕事に就かせるためであった。軍政府はそれでも間に合わないと見て、この年の挙に出た。

 10月21日の神宮競技場での壮行会は、それこそ壮大なもので、観客席には女学生(今の中学上級生から高校生、専門学生)を中心に6万人以上を集め、関東近辺の出陣学徒2.5万人を集めて競技場内を行進させ、ラジオ中継も行われた。秋雨の強い日であったが、みんなが傘もささずずぶ濡れになりながら見送るという、むしろ感動的な演出がなされた。東條首相の形骸的な訓示があり、在校生の送辞があり、出陣学生代表の答辞では有名な「生等(われら)もとより生還を期せず」と述べ、最後に『海行かば』の大合唱で壮行会の幕を閉じた。この後日本の主要な地方都市でも壮行会が行われ、植民地である台湾や朝鮮でも同じように学生が徴兵され、壮行会が行われた。

 徴兵された20歳以上の学生たちは、この稿の前後に入れている10代の少年兵とは違って、もう少し冷静であった。このような応援的な歌もそのまま受け取ったわけではなかった。それはこの壮行会に参加していた学生の回顧時の感想でもわかる。

 —— 「とうとう来たかと思った。軍隊がイヤだから大学に入ったようなものだったから。… 軍隊にはできれば行きたくなかった。みんなそうではなかったんですか」

 —— 「これから人殺しをしなければならないと思うと、諦めだった。いま俺は、そういう時間と空間の流れの中にいるんだ、いやだというわけにはいかない」

 —— 「恥ずかしくない行為をしよう。誰も死にたくないよと思っていた。しかしこれも運命だからしょうがないという人生観になっていた」

 —— 「首相の訓示は忠君愛国をたたきこむ話で、またかという感じだった。毎度同じ事を聞かされてうんざりだった」

 —— 「答辞で、生還を期せずをことさら高く読み上げたのは、個人としては違和感があった。戦争だから死ぬことはあるが、できれば死なずに帰って、戦後の日本を建て直す努力をする方がよいわけで、死ぬことにこだわるのはおかしいと思っていた」

(NHK:「雨の神宮外苑『学徒出陣』56年目の証言」より)

 ただ、中には「国の考え方が正しいという前提に立っていたから、頼むよとの首相の言葉に対し、死をもって報いようと思った」という学生もいた。 (NHK:「雨の神宮外苑『学徒出陣』56年目の証言」より)

 そしてこの学生たちの中から多くの特攻隊員が養成され(ほとんど志願の形をとった、あるいはとらされた)、特攻死していく。彼らの多くは遺書を残しているが、その中で「悠久の大義に生きる」という言葉がよく使われた。これは日中戦争が四年目で混迷している昭和16年の年初に陸軍の訓令として示達された『戦陣訓』の中の「生死観」の項に「死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし」とあるところから来ている。この戦陣訓の特にこの項を書いた人たちというのは、この当時高名な文人や哲学者などであり、決して直接戦場に出て、死の危険にさらされることのない人たちが編み出した言葉である。つまりこうした軍歌を主に書く作詞家と同じである。いずれにしろ当時の軍国主義思想に支配された日本の中では、特攻隊員たちが出撃に当たって覚悟を決めて考えられる範囲は限られ、自分はこれから死ぬとしても、この「悠久の大義に生きる」という大まかな想念で、自分を納得させる以外になかった。悠久の大義とは崇敬する天皇の存在は悠久であるという皇国思想に他ならないが、当時軍政府の要人たちは、天皇を操り人形にして戦争を遂行し、この戦争自体に本来の大義はなかった、ということは後年の我々が言えることであり、当時の学生たちにそんな客観的思考の余裕はない。

 なお、この「生死観」の次に「名を惜しむ」の項があって、その中に有名な「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ」が挿入されている。これが戦争終盤で多くの軍民の自決者を出す元になったといわれるが、これを発した時の責任者である東條英機は、敗戦後にA級戦犯として拘引される前にピストルで自決未遂しているが、これはその勇気さえない彼の狂言自殺と言われ(他の大将レベルで自決に失敗した例はない)、世間の嘲笑を買った。

 この翌年には徴兵年齢が20歳が19歳に下げられるが、すでに壮行会が行われることはなかった。

『出陣賦』

 昭和18年 作詞:大木彬彦/作曲:川添萬夫 

 これは一般に流布していないが、18年に出征することになった東京帝国大学(現東京大学)の法学部学生自治会が出陣の歌として募ったもので、学生自らが出陣に臨んでの決意を歌っている。戦没学徒慰霊祭などで歌われているという。


はろばろと青き空なり 厳しくもさやけき朝や
我等蹶(た)つ醜(しこ)の御楯(みたて)と 大君の任(まけ)のまにまに
眉あげて今ぞ征(ゆ)かむ

さばへなす仇共討つと 風凍る北の島わに
天燃ゆる南の辺土(はて)に 愛(は)しけやし祖国をろがみ(拝み)
同胞(はらから)は戦ひ死にき
5(3、4略)
ああ我等究めし道は 一筋の真理(まこと)の精神(こころ)
戦ひの庭に出でては 荒魂の雄叫び猛(たけ)く
征き征きてかへりみはせじ

師よ父母よ心安かれ 男(を)の子われみことかしこみ
天翔(あまかけ)り国土(くに)翔りつつ 七つ度(たび)生れ死にては
護らでや祖国の生命

 古語を多用し、あちこちから言葉を集めているが、精一杯に心を張り詰めて書いたものであろう。祖国日本を命に代えてでも護ろうとする決意を述べている。仮にも「七つ度生れ死にては」という「七生報国」(七度生まれ変わって国に報いよ)の言葉通りにできるものなら一度や二度死んでも構いはしないし、その後生まれ変わってまた「究めし道」に戻ればいいが、たった一度だけの命を学生たちは投げ出す覚悟をしなければならなかった。前項にも書いたように、このような気持ちのまま、出陣学徒壮行会に臨んだものは少なかった。建前と本音は違うということだが、この時代の流れの裏にはどこまでも天皇を逆に「御楯」にした軍政府の愚鈍な行いが隠されているから、すでに少年でもない彼らに、わずかでもなんらかの疑問が宿らないわけがない。王道楽土(満州国建国の際の理念)、万邦協和、或いは八紘一宇(八方世界を一つの家にする)等、「大東亜戦争」として海外侵攻を正当化するスローガンが打ち出されていたが、本当にそのまま信じていた学生がどのくらいいただろうか。本来、自分たちが生きていってこそそれらの理想とする世界が築かれるはずであるが、それを死んで築けという本末転倒の世界観がこの時代を支配していた。

 当時は現今のように徴兵を拒否することなど100%できなかった。拒否すれば「非国民」という痛烈な言葉があり、それで指弾されると家族も村八分的な扱いを受けた。いずれにしろ日本全体で憎き敵としていたその米国に敗れ、そのまま占領され、逆に国民全体が親米となって、死んで行った学徒兵たちは梯子を外されてしまった。しかも敗戦時に軍政府は戦時書類の全焼却を日本の隅々まで命じ、自分たちが唱えていた「正義の戦争」や「聖戦」などまるでなかったことにして責任逃れをしようとし、また実際にそうした。これには死んだ学徒兵たちは梯子どころか「英霊」として祀りあげられた「天つ国」から突き落とされる思いをしたのではなかったか。

『大アジア獅子吼の歌』

 昭和18年 作詞:大木惇夫/作曲:園部為之

 日本文学報国会と日本音楽文化協会がこの歌を献納し、軍事保護院・陸軍省・海軍省の選定歌となった。国民合唱として18年9月に放送され、11月8日の大詔奉戴日に戦意高揚集会が全国の主要都市で催され、その中で複数の歌手も参加し、踊りを交えながら披露された。


東の日出ずる国の
日の皇子の御民ぞわれら
御鉾とりすでに起ちたり
虐げて アジヤをみだる
よこしまの夷を撃つと

みいくさや大義のつるぎ
北の果南の際に
かちどきを高くあげたり
苦しめるアジアの民を
さきがけて解き放たんと

あけぼのぞ よきおとずれぞ
荒野なる眠れる獅子よ
目覚めよや吼えよ奮えよ
いざ奮(こぞ)れアジアは一つ
(以下略)

 戦況は劣勢となり、兵力強化のため、学生の徴兵猶予を解除した時期である。その中の多くの学生が、一定の(短くされた)訓練期間を経て、ほぼ一年後に起死回生の策としての特攻隊作戦に駆り出されるか、激戦地に送られることになる。もはや「かちどきを高くあげ」る有利な戦闘場面はどこにもなく、とても「アジアの民をさきがけて解き放たんと」する余裕など、一滴もなかった。それでも軍政府は戦況が不利な情報を国民に流さず、このような鼓舞する歌を作らせ、国民をなおも徴兵して次々と死地に赴かせた。決して死地に赴くことのない軍政府の官僚たちが徴兵の枠を適当に広げてリストを作成し、「赤紙」を個々に送りつけた。その中には学校の教師(特に女学校)も少なからずいて、各学校では送別会が催されている。それに従って翌年からは授業も大きく削減され、学生・生徒は軍需工場への「勤労動員」に駆り出されていく(19年の歌『ああ紅の血は燃ゆる』参照)。

日本国内の出来事・様相(昭和18年:1943)

 2月:陸軍省、「撃ちてし止まむ」の標語ポスター5万枚を配布

 3月:大日本言論報国会創立。「日本世界観の確立と国内思想戦の遂行」のため国粋思想を宣伝する。

 同月:兵役法が一部改正され、植民地朝鮮に徴兵制を敷き、8月から施行される。つまり彼らを日本兵として徴兵するのである。

 同月28日:米国で日系人の大学志願兵部隊が第442連隊戦闘部隊に入隊、その442部隊志願兵1686名の壮行会をホノルル商工会議所が開いた。彼らは欧州戦線に向かい、ドイツ軍と戦うことになる。

 同月:<建物疎開>東京と大阪の過密地帯で、空襲時の延焼防止のため空地帯を指定、その地域の住宅などが強制的に撤去されることになる。この作業は町内の防火隊や、中高大学生の勤労隊が行うことになる。

 4月:中等学校の5年の修業年限を1年短縮の4年制となる。戦時体制強化のためである。

 同月:銀座の街路灯、金属回収で撤去される。

 同月:文化学院校長・西村伊作、不敬罪で検挙、続いて8月、文化学院強制閉鎖

 同月:東京六大学野球連盟解散。

 5月:陸軍少年兵の志願年齢、14歳に引き下げる。

 同月:前年の朝鮮人労働者に続き、中国人(主に満州)労働者の日本への強制連行開始。

 6月:政府は「食糧増産応急対策要綱」を決定。休閑地の徹底利用で雑穀類の増産などを掲げる。東京・昭和通りの植樹帯が菜園に、神奈川県の各ゴルフ場も農園に変わる。

 同月8日:日本海軍の戦艦「陸奥」が、瀬戸内海岩国市の柱島泊地で原因不明の火薬爆発で爆沈し、乗員 1121人中771人が死亡する。生存者350人は大本営にこの事故を一切口外しないとの血判誓約書を書かされた上、南洋の戦地に送られ、その多くが戦死した。

 同月:工業就業時間制限令廃止。婦人や年少労働者の労働時間制限を撤廃し、坑内労働禁止を解除。

 同月25日:政府は「学徒戦時動員体制確立要綱」を決定。学校報国隊を強化し、勤労動員命令により、学徒は一定期間学業を休止して軍需生産に従事することを規定(戦争末期から敗戦まで約300万人の学徒を動員)。さらに本土防衛のため軍事訓練・防空訓練を図り、女子は救護訓練を行う。

 7月:国民徴用令改正公布。軍需に必要な技術者を政府が重要産業と指定する仕事に徴用するためで、18年度中に約70万人が徴用される。

 8月:甲子園球場で金属回収のため鉄傘の解体工事開始

 9月:閣議で、国内必勝勤労対策を決定、14歳から25歳の未婚女子を勤労挺身隊に動員する。

 同月:1945年度より台湾に徴兵制を導入することを決定する。

 同月:文部省、学徒体育大会を全面的に禁止。

 10月2日:学生・生徒の徴兵猶予を停止、また卒業を半年繰り上げされ、9月に卒業式を終えていた学生もいる。

 同月12日:「教育に関する戦時非常措置方策」が閣議決定され、理工科系と教員徨成系以外の文科系および専門学校については徴兵猶予を停止、20歳以上の学生は、在学のままでも徴兵されることになる。さらに文科系大学の理科系への転換、年間3分の1の勤労働員を義務付ける。また女子専門学校の教育内容については男子の職場に代わるべき職業教育を施すために所要の改正を行う。これらは「施策の目標を悠久なる国運の発展を考えつつ、当面の戦争遂行力の増強を図ることのみに集中するものとする」とある。

 同月16日:戸塚球場で、慶大と早大の野球部が出陣学徒壮行試合を開催(戦前最後の早慶戦) 

 同月21日:明治神宮外苑陸上競技場で、出陣学徒壮行会が開催される。

 同月31日:後楽園球場で金属製取付椅子1万8千個を供出。

 同月:日本統治の朝鮮において学徒志願兵制度実施

 11月1日:兵役法改正公布、国民兵役を45歳まで延長。

 同月13日:3月末の<建物疎開>に関連し、東京都は帝都重要地帯疎開計画を発表。防火地帯の設置重要工場付近の建物疎開、駅前広場の造成などを行う。

 同月:22日、風船爆弾の打上げ開始。これは気球に爆弾を搭載した爆撃兵器で、偏西風にのせてアメリカ本土まで運び、落下させるというもので、この製作に多くの女学生が関わった。その中のごく一部がアメリカに着地して、不発弾の爆発により6人の犠牲者が出た。

 12月10日:文部省が学童の縁故疎開促進を発表する。都市への空襲を予想して、地方に縁故のある学童を疎開させるさせるように奨励。

 12月24日:徴兵適齢臨時特例が公布施行され、徴兵の適齢が1年下げられて19歳となる。つまり10月に20歳で出征した若者に続いて、すぐに19歳の学徒が応召されることになった。

童謡・流行歌(昭和18年:1943)

 前年6月のミッドウェー海戦の敗北、この年2月はガダルカナル島から撤退を余儀なくされ、4月には山本五十六連合艦隊司令長官の乗る飛行機が撃墜され戦死、5月にはアッツ島守備隊が玉砕するなど、戦況はひたすら悪化の一途を辿った。その大半の実態は隠され、逆に軍歌も次第に狂気を帯びていく。また前年12月には『海ゆかば』が大政翼賛会によって国歌に次ぐ「国民の歌」に指定され、各種の会合で歌うよう義務付けられたこともあり、一躍日本を代表する軍歌となっていく。ただし玉砕戦の時ニュースで用いられることが多く、この歌は「鎮魂歌」のイメージと重なっていく。

 また前年から政府による音楽業界への締め付けも強くなって、敵性英語禁止の通達により、レコード会社は英語のブランド名を改称させられ、「コロムビア」は「日蓄:ニッチク」に、「キング」は「富士音盤」に、「ポリドール」は「大東亜」に、「ビクター」は「日本音響」に変えた。さらに18年1月には「米英音楽の追放」としてジャズなど「敵性音楽」に対する取り締まりが本格化し、それに従って外国人音楽家の演奏の禁止、また10月には物資(紙)不足から音楽雑誌も再び統合され、ついに『音楽文化』と『音楽知識』の二誌となった。さらに内閣情報局は禁止「敵性音楽」の曲名のリストを掲げ、鼻声でも歌ってはならぬなどと通知した。

 その一方で大政翼賛会により、この年には1月から3月までと7月から8月までの二度にわたって「国民皆唱運動」(「国民の心を明るくのびのびとさせるための運動」)が各地で実施された。その際、74曲が「一億総進軍の軍歌『国民の歌』」として「国民皆唱の歌」に選ばれた。その中には「海ゆかば」「愛国行進曲」を筆頭に、「軍艦行進曲」「敵は幾万」「来れや来れ」「雪の進軍」などの明治期の軍歌が入り、「愛馬進軍歌」「空の勇士」「露営の歌」「出征兵士を送る歌」「靖国神社の歌」などの懸賞募集歌、さらに「暁に祈る」「燃ゆる大空」「さうだその意気」「愛国の花」「月月火水木金金」といった軍歌が並んでいる。

 これらが「国民の心を明るくのびのびとさせるための運動」というから、軍・政・官人の神経が疑われる。また大日本産業報国会などの他の統制団体でも、労働者を慰安し生産性を高める「厚生音楽」として軍歌がトップダウンで利用された。「厚生音楽」というなら、主に明治時代終盤から大正時代にかけてたくさん作られた童謡や叙情歌のほうがずっと役にたつと思うが、政官人という人種は国民を統制する観点からしかものを考えていないということがよくわかる。本来、国民の個々の置かれた境遇にまず寄り添うのが政官人の役目であるが、そのような自覚と使命感を持った政官人というのは今の時代でも希少である。

童謡・唱歌

 特に見当たらず。

歌謡・戦時歌謡

 一般の歌謡曲も少ないが、戦時歌謡も軍歌に押されて枯渇してきている。

『勘太郎月夜』 作詞:佐伯孝夫/作曲:清水 保雄/歌:小畑実

—— 「影かやなぎか 勘太郎さんか 伊那は七谷 糸ひく煙り 棄てて別れた故郷の月に しのぶ今宵のほととぎす/ なりはやくざにやつれていても 月よ見てくれこころの錦 生まれ変わって天竜の 水に映す男の晴れすがた」

*以下はほぼ戦時歌謡である。

『南の花嫁さん』 作詞:藤浦洸/原曲:任光/編曲:古賀政男/歌:高峰三枝子

—— 「ねむの並木を お馬のせなに ゆらゆらゆらと 花なら赤い かんなの花か 散りそで散らぬ 花びら風情(ふぜい) 隣の村へお嫁入り」

 これは南方の占領地のご当地ソングの一つかと思われ、歌詞はそうかもしれないが、原曲は中国人の任光が楽器の二胡のために「彩雲追月」というタイトルで作曲した。これが曲の良さもあって日本に伝わり、古賀政男が編曲し藤浦洸が詞を付け、高峰三枝子が歌ってヒットした。これは前線の兵士にも人気が出て、戦後も昭和20年代頃まで、復員兵を捜す尋ね人のラジオ番組にも流された。この任光はフランスにも音楽留学していて、中国でいくつかの映画音楽を作ったが、日中戦争勃発後に共産党軍のもとで抗日活動に参加、41歳の若さで国民党との内戦で死亡した。

『シャンラン節』 作詞:村松秀一/作曲:不詳/歌:美ち奴

—— 「薫るジャスミン どなたがくれた パパイヤ畑の月に問え 月に問え ツーツーレロレロ ツーレロ ツレラレトレツレトレシャン ツレラレトレ シャンランラン」

 ツーレロ節とも呼ばれ、作曲者は不明で、元々は台湾民謡とも言われ、海軍で歌われていた(ともいう)ものを美ち奴が歌ってヒットした。その後替え歌も多く作られ、戦後、ザ・ドリフターズの「ドリフのツーレロ節」でヒットした。

『風は海から』  作詞:西条八十/作曲:服部良一/歌:渡辺はま子

—— 「風は海から吹いてくる 沖のジャンクの帆を吹く風よ 情あるなら教えておくれ 私の姉さんどこで待つ」

 広東が舞台の映画『阿片戦争』(清国とイギリスの間で1840年から1842年にかけて行われたアヘンをめぐる戦争)の主題歌で、映画は日本国内で豪華なセットを作って撮影され、映画の中では高峰秀子が歌っている。この映画は敵国イギリスの悪を暴くという趣旨なのだろうが、日本軍が中国で積極的にアヘンを栽培していることは当然隠されている。

『花白蘭』 作詞:白井鐵造=イタリヤのカンツォーネ「私を忘れないで」から翻案/編曲:古賀政男/歌:楠木繁夫・李香蘭

—— 「薫りも高き白蘭の 花の香りの清らけさ 心の人となれかしと 母の願いの蘭花扇」

 英米仏の歌は駄目であったろうが、同盟国のイタリアの歌だから許されたのだろう。

『お使いは自転車に乗って』 作詞:上山雅輔/作曲:鈴木静一/歌:轟夕起子

—— 「お使いは自転車で 気軽に行きましょ並木路 そよ風明るい青空 お使いは自転車に乗って 颯爽とあの町この道 チリリリリン リン』

 シンプルで爽やかな歌だが、これも戦時歌謡の一つで、雑誌に連載されたマンガ『銃後のハナ子さん』を原作にして作られた。ハナ子さんが隣組の人たちと協力して銃後の役割を果たしていく話である。戦後もレコード化され歌われた。

『アラカンの夜明け』 歌詞:大倉芳郎/作曲:上原げんと/歌:岡晴夫

—— 「アラカンの谷 木魂して 夜明けを告げるあの喇叭 ああ南国の朝風に 若いビルマの陽が昇る」

 アラカンはビルマ(ミャンマー)にあるラカイン州の旧称。開戦後、日本はマレー半島上陸作戦を成功させ、タイを経由してイギリスの占領するビルマに侵攻、半年後には全土を制圧した。その後イギリス軍は植民地インドからインド軍を指揮しこのアラカンで反撃に出るが、日本軍が勝利した。そのことを歌っているのだが、歌の最後には相変わらず「ああラングーンの街角に 歓び歌う人の波 微笑む瞳乙女等が 祈るパゴダに虹は呼ぶ」という好い気で手前勝手な言葉を並べている。この翌1944年に日本軍はこの太平洋戦争史上もっとも愚かな作戦と言われるインパール作戦を実施し、戦死・戦傷病死・行方不明が5−6万人となっている。

『アリューシャンの春』 作詞:松村又一/作曲:島田逸平/歌:立花ひろし

—— 「春とは言えど 名ばかりの ここは極北アリューシャン 見渡すかぎり雪の山 せめて来て鳴けロッペン鳥よ/(途中で望郷の思いを綴り)/敵機を今日も撃ち墜とし 凱歌挙ぐれば胸朗らか ああ極北の防人(さきもり)に せめて輝けオーロラの光」

 実はこの歌はアリューシャン列島のアッツ島で日本軍が玉砕した翌月に発売され、タイミングが悪かった。

 この他の「ご当地ソング」としては、『マニラの辻馬車』『アユチャ(タイのアユタヤ)の町』『マライの虎』などがある。

昭和19年(1944年)

軍事的背景

日中戦争
【大陸打通作戦】

 3月1日:米中空軍の混成大隊が日本海軍の占拠する海南島を30機で爆撃、日本機多数を破壊。

 4月:日本軍は「大陸打通作戦」を展開する。この作戦の最大の目的は、中国西南地区(桂林や柳州)に設置されたアメリカ空軍基地群を排除、占領することだった。また日本の勢力下にあるフランス領インドシナへ中国からの陸路を開くことも目的とした。その後日本軍は北京から広州まで大陸縦断鉄道の京漢線、粤漢線の全線占領に成功、更に年末までに西南の広西省桂林、柳州、南寧にまでに達した。これは順調とも言えたが、蒋介石国民党軍は日本軍とまともに戦う意志を持たなかったからで、すでに太平洋戦線での日本軍の敗戦を予測していた蒋介石は、その後の中国共産党との戦いに備えて戦力を保持しておきたいという作戦によるものであった。

 4月−5月:鄭州と洛陽を占領し、大陸打通作戦前半の京漢作戦が成功。中国軍の損害は遺棄死体3万2390体、捕虜7800人に及んだ。日本軍は洛陽に1937年11月から5月13日まで469機の出撃をして爆撃を続け、4月22日だけで延べ113機が出撃した。5月24日、洛陽城を全力で爆撃し、翌25日に日本軍は洛陽を占領。また鄭州にはここまで通算170回以上日本軍機が爆撃した。これまでも南京以来、日本軍の進撃には必ずこのような飛行機による爆撃が行われ、占領を容易にしている。

 5月−8月:5月27日より湖南方面作戦を開始、戦術目標は湖南−貴州−広西の鉄道の確保であり、長沙と衡陽に進軍。長沙と衡陽はこの3年前に一度攻略、占領していたはずだが、6月より日本軍は激しい空爆を繰り返し、6月18日に長沙を占領(ところがその夜、アメリカ軍機が激しい空爆をし、長沙市街は焼きつくされた)。6月20日までの作戦の結果は、中国側遺棄死体6万1862、捕虜1万9777、撃墜した飛行機35、日本軍の損害は戦死2008とされた。

 その後衡陽攻略に向かい、衡陽では中国軍の抵抗が激しく、8月8日までの48日間ほぼ毎日、日本機は衡陽を爆撃し、3万を超える家屋を爆破し、多数の民間人を殺害したうえで衡陽を陥落させた(この間の7/11、衡陽の虎形山に毒ガス弾を投下した)。日本軍の確認では、衡陽での敵死体は4100人以上、捕虜1万3300人。ここまでの日本側の死傷者1万9000人、中国側の死傷者4万8000以上とされる。日本軍はこの衡陽飛行場を早急に復旧し、米軍機の基地となっている広西省桂林を集中的に爆撃することになるが、米軍は桂林から基地を成都に移しつつあった。

【米軍の大型爆撃機B29の投入】

 6−8月:新たに成都に航空基地を建設した米軍は量産しつつあった最新鋭大型爆撃機B29を投入、6月15日、成都から75機のB29を北九州の八幡製鉄所へ出撃させ、爆撃に成功した(B29の航続距離が北九州辺りまでであったことによる)。続いて九州へは長崎、佐世保、大村、八幡などを爆撃していくが、7月7日、26日に満州の鞍山の昭和製鋼所、29日にはやはり成都から満州の天津、大連、鞍山、塘沽及び河南省鄭州などの日本軍事施設を爆撃した。満 洲鞍山の昭和製鋼所ではこの爆撃で129人が死亡し工場の生産は減産を強いられた。ここまで日本軍も相当数米軍の爆撃機や戦闘機等を破壊したが、米軍側の機数はそれ以上に補充され続けていて、逆に陸軍航空隊はこうした消耗と太平洋方面への転出で200機弱程度に減少し、米中軍機は約三倍と推測され、制空権は米中の連合軍にほぼ奪われつつあり、日本機の爆撃は深夜に限れれた。

 10月:アメリカ軍の連続大爆撃。8日、海軍は中国軍との連合作戦を行い、台湾における日本の軍事基地を連続的に攻撃し、14日までに日本機600機を撃破し、日本艦約70隻を撃沈した。10日、米軍機が延400機をもって4回に渡り日本の南西諸島(沖縄、宮古島、奄美大島等)を爆撃。12−14日、米軍は12日は早朝から夜まで、台湾へ延べ千百機(航空母艦からが多数、ちなみにこの翌年3月の東京大空襲時の爆撃機は約500機である)を爆撃、また13日も朝から爆撃を続け、14日には二度にわたり延べ約450機が台湾各地を爆撃、さらに午後、中国本土方面からB29約100機が攻撃。

 11月11日:日本軍は米軍基地のある広西省桂林と柳州を占領。1937年10月15日からこの日までの7年間、広西省桂林は51回空爆され、690人が死亡し、1056人が負傷、3000戸以上の家屋が焼失、破壊された。柳州も同程度の被害があったが、大本営発表の桂林攻略の戦果として、中国側の遺棄死体5665、捕虜13151とした。その後の発表で、桂林と柳州を合わせた作戦(9月上旬よりここまで)においての戦果は、敵死3万9千、捕虜18200、自軍の戦死4500とした。実は中国軍主力は戦闘を回避して後退していて、アメリカ軍は日本軍の侵攻に先立つ10月に航空基地を爆破した上で撤収していた。広大な中国ではどこでも飛行場建設はできた。いつもながら日本軍の無駄な戦争の姿がある。

 12月:日本の支那派遣軍と南方軍の部隊が南寧の南西で合流。一応、仏印ルートの打通を達成し、大陸打通作戦はここで区切りとなる。この作戦での日本軍の戦死・戦病傷死は約10万人、戦病傷死のうち戦傷死13.9%に対し、脚気、腸炎、戦争栄養失調症等の死亡率は73.5%を占めたというほど無理な戦争を強いられていた。中国軍の戦死傷は75万人。

 12月1日:関東軍は在満州の日本在郷軍人(退役軍人)に対する召集令を発令。兵士不足によるもの。

 12月:米軍はB29などにより日本本土への空爆以外に中国各地の日本軍占領の基地などに爆撃を繰り返し、満州の奉天(長春)、大連、広西省桂林・柳州、山西省太原、山東省済南、河南省新郷、南京、上海、香港、安徽省安慶、広州、漢口などの武漢、湖南省岳陽・零陵・衡陽・常寧、河南省許昌・覇王城など、主要な都市に対しては繰り返し爆撃し、中国人民にとってはこれまで(というよりまだ続いていたが)日本軍により繰り返し爆撃を受け、多大な被害を出していたから、米軍の日本本土への爆撃も含めて痛快な気持ちになったかもしれないが、しかし中国内への爆撃はさらに被害を拡大した。事実この中で18日の爆撃は「漢口大空襲」と呼ばれ、漢口の市街地では焼夷弾による大火災が発生し、長江岸から5km以内の範囲は3日間にわたって燃え続けた。これにより日本人居留地(日本租界)を含む市街地全体の50%が焼失した。アメリカ軍は開発した焼夷弾を初めてこの地で使ったが、それは日本の木造家屋用に工夫したものであった。もっとも日本軍もこの中国で焼夷弾を散々使っているが、アメリカ軍のものは、日本の瓦屋根を貫通できるようになっていた。

【強制労働の一例】

 日本軍は1944年春から占領した浙江省金華の空港を造成し完成は翌年までかかった。一日の平均派遣労働者は1000人で、延べ36万人に達した。このため地元や中国内の占領各地から労働者(強制)を集めたが、5000人余りが空港工事中に死傷した。金華市の1946年の統計によると、日本軍が金華を占領していた間、3631人が殺害され全体の死傷者は5000人以上、女性千人以上が強姦され、家屋4万5515室を焼失した。物資損失は計り知れない。別途、同時期に浙江省舟山市定海に海軍の飛行場を作るため、山東省や江蘇省北から労働者として600人余りを連行した。その中で200人余りが拷問や病気などで動けなくなった。これは中国大陸で8年の間に行われたほんの一例である。

太平洋戦争
【玉砕が続く日本軍】

 1月30日:米軍は日本軍のマーシャル諸島の中枢基地クェゼリン・ルオット島へ艦載機で爆撃開始、2月1日に上陸し、6日、日本軍は6800名が玉砕。

 2月17−18日:米機動部隊がトラック島を空襲。日本海軍最大の前進基地は燃料補給に致命的打撃を被った。これによりラバウルが孤立。

 2月23日:米軍、マリアナ諸島のサイパン・テニアンを空襲開始。

 3月:ビルマの日本軍はインパール作戦を開始。5月中旬、参謀本部が中止命令を伝達。それでもやめず7月8日、インパール作戦全員撤退命令。実際の戦死者は少なく、戦傷病死者を合わせて約6−7万人、そのうちの多くが餓死であった。この作戦の推進者は第十五軍司令官牟田口廉也中将で、思考力に欠けた無謀な作戦であり、指揮官の一声で、何万人もの人間の命が無駄に失われた例であった。というよりこの戦争自体が無謀であったから無謀な作戦を引き起こした。彼は支那事変(日中戦争)の発端となった廬溝橋事件発生時の責任者でもあった。

 3月30日−31日:米機動部隊、パラオを空襲。日本側の損害多大。

 6月11日、米機動部隊はサイパン、テニアン、グァムを空襲。日本軍の航空部隊壊滅。

 6月15日:米軍は空爆を重ねた後にサイパンに上陸。

 6月19−20日:マリアナ沖海戦。日本は空母3、航空機395機を失い、海軍の残存戦力の大半を失った。これで太平洋における制海権、制空権を喪失した。ちなみにこの時の大本営発表(6/23)は以下のごとくで実態と異なる。

 ——「戦闘は翌20日に及び其の間敵航空母艦5隻、戦艦1隻以上を撃沈破、敵機100機以上を撃墜せるも決定的打撃を与ふるに至らず 我方航空母艦1隻、附属油槽船2隻及び飛行機50機を失へり」

 7月7日:米軍との激戦の末、サイパン島の日本軍守備隊約3万人が玉砕し(うち約5000人が自決)、民間人も兵士と共にバンザイ突撃まで行って約1万人死亡、奥地に逃げた者たちの中には家族ぐるみで集団自決をした。日本軍の愚鈍な指揮を体現した例で、司令官の南雲中将ら三人は6日に自決し、残った軍民を放置してしまうというありえない行動に出た。米軍の死者3551、戦傷 1万3061。米軍はこの占領した基地を整備し、新たに開発したB29大型爆撃機を集め、11月24日、ここから日本本土への爆撃を開始した。(詳しくは下記の『サイパン殉国の歌』の説明参照)

 7月21日:米軍、グァム島に上陸、8月10日、守備隊1万8千人玉砕。

 8月2日:サイパン島の隣のテニアン島も陥落、ほぼ玉砕で、戦死8010、捕虜313人。米軍の戦死328、負傷1571人。民間人は1万5700人(うち朝鮮人2700)入植していたが、角田覚治司令官はサイパン島の二の舞を避け、彼らを救う策を考え、義勇兵として徴用した16歳から45歳までの男子3500人を除いた老人や婦女子や朝鮮人1万2200名を、テニアン島のジャングルや洞窟など身を隠す場所が多いカロリナス高地に避難させた。その結果、アメリカ軍が収容した民間人は1万3000人(うち朝鮮人2679人)となった。それでも自決した民間人はいて、米軍はテニアン島も日本本土攻撃の基地とし、広島・長崎への原爆を積んだ爆撃機はこの島から発進した。

 8月3日:米中連合軍、ビルマのミッチーナー(ミイトキーナ:ミャンマー北部のカチン州の州都)占領。これも参謀の死守命令があり、日本軍戦死者790人負傷1180人、米軍戦死者272名、中国軍戦死者972名。 8月10日:米軍はサイパンを陥落させてからグアム島攻撃に転じ、ここで日本軍守備隊が壊滅、日本軍2万2554人のうち戦死1万8500人(捕虜1250人)、米軍5万5000人のうち戦死2124人、負傷5676人であった。グアム島もサイパン・テニアンに続いて飛行場が整備されて日本への空襲の基地となった。しかしその前に約7千人の日本兵が密林の中に逃げ込んでいて、抵抗を続けながらその多くが餓死した。最後の投降兵があって区切りがついたのは翌年8月の敗戦の翌月であった。昭和47年(1972年)に終戦を知らなかった横井庄一伍長がグアム島住民に発見され、保護されて一大ニュースとなった。

 10月10日:米軍機が4回に渡り延べ400機をもって日本の南西諸島(沖縄、宮古島、奄美大島等)を空爆、しかし日本側の記録では「我が方、船舶及び地上施設に若干の損害を受く」とだけある。そんなはずはなく、翌年3月の東京大空襲は500機である。

 10月12−14日:米軍は12日から台湾への大規模な空爆を開始(延べ千百機)、そこから台湾沖で日本軍との航空戦が展開された。大本営発表では日本軍は大戦果を挙げたと報じられ、日本国内は久々の勝利に沸き立ったが、ほとんどが虚報で日本軍は航空機650機を失った。

 10月17日:大本営はフィリピン方面を米軍との主決戦場とする作戦を発動、それに伴い中国における航空隊は台湾などに帰還した。一方でフィリピンではレイテ島を中心に大航空戦が展開されていく。

 10月20日:米豪の連合軍はレイテ島に上陸、フィリピン奪回作戦を開始した。

【戦艦武蔵の撃沈と神風特攻隊の出現】

 10月24−26日:24日、レイテ沖海戦で日本の誇る戦艦武蔵が米軍機による集中爆撃を受け続け、最後に米艦による魚雷を受け、大火災を起こし沈没、戦艦3、空母1、改装空母3、重巡6など残存艦船をほぼ失うが(この海戦では戦艦大和もいたが一応無事であった)、25日、神風特別攻撃隊が米軍艦船に対して体当たり攻撃、護送用航空母艦一隻を撃沈、その他五隻を爆破。出撃機は零戦機を主として17機18名が突撃死。この直前に別の航空艦隊が250機の総力を投じ従来の航空爆撃を行ったが、やはり大量の航空機を喪失、空母も全滅した。すでに日本としてはこれ以上航空機の喪失を防ぐためには特攻隊の方法でしか戦えないと判断され、30日まで連日で特攻隊の出撃があり、62名が突撃死した。月末までの戦果は、撃沈空母三隻、巡洋艦一隻、輸送船一隻とある。

 10月28日未明:魚雷挺身隊(特殊潜航艇人間魚雷回天)がパラオ諸島の「ペリリュー島東方海面的輸送船団を肉薄攻撃し、4隻を撃沈、2隻を撃破」。

 11月5日、神風特攻隊がフィリピン東方の海上で米軍艦船に特攻攻撃、空母3隻を撃沈。ただしこの日までにすでに20数機が途上で撃墜されている。7日にも第二陣がフィリピン・ルソン島東方で「敵機動部隊を猛攻、体当りす」るが、戦果記載なし。

 11月20日:西太平洋カロリン諸島東北にあるウルシー環礁に停泊する米軍艦船を、日本海軍の人間魚雷回天(菊水隊)が攻撃、用意した8基のうち、3基が故障で発進できず、残った5基のうち2基が途中で座礁して自爆、1基は途中で敵駆逐艦の攻撃を受けて沈没、残る2基が湾内に入り、給油艦1隻を撃沈、米兵犠牲者63名、最後の1基は至近距離で発見され、砲弾を受けて爆沈した。翌月下旬にも同地区を金剛隊が6度攻撃を試みたが、事前に察知された潜水母艦が撃沈されることが多く、戦果はほぼなかった。回天は400基量産されたが、その後の戦果は翌年7月24日に米軍駆逐艦一隻を撃沈させただけである。むしろ回天を搭載した母艦の被害のほうが大きかった。

 11月24日:米軍はサイパン島などマリアナ諸島から日本本土への本格的空襲を開始、以後9ヶ月で原爆死を含め、国内で約50万人が犠牲となる。

 11月25−27日、神風特攻隊がフィリピン北部、フィリピン中部、レイテ島北東部、レイテ湾内の艦船群を次々と特攻相応の戦果を挙げた。

 11月27日:二ヶ月の戦闘でパラオ諸島のペリリュー島が陥落、日本兵守備隊はほぼ玉砕し、戦死者1万695、捕虜202人、生存34(洞窟内で戦後まで生きた)、米軍戦死者2336人。

 12月:米軍は硫黄島に対して12月に14回爆撃する。

【主な輸送船の沈没】

 実際の戦闘以外に多くの兵民が海で犠牲になっていることは驚くほかなく、壮大な無駄である。少数の犠牲のケースはカットするが、こうした軍にとって負の出来事は、その多くが秘匿され、生存者も少ないため、後の記録では入れ違いがあったりする場合がある。

 1月21日:生駒丸は捕虜(日本陸軍に強制的に組み込まれた印度独立旅団の兵士たち)を輸送中、パラオ南東で米潜シーホースから魚雷を受け沈没、2隻の駆潜艇が日本人を救助した後に印度兵を救助、船員43名と印度兵418名が死亡者、生存193名。

 1月31日未明:靖国丸はトラック島へ向けて横須賀を出港、アメリカ潜水艦トリガーから雷撃を受け沈没、乗員300名、便乗者888名が死亡した。

 2月8日:陸軍輸送船「りま丸」は陸軍部隊3241名を乗せ、香港に向け門司を出港。 五島列島南西約30マイルで米潜水艦スヌークの雷撃により沈没、警戒隊9名、便乗者4名、船員56名の合計2765名が戦死 。

 2月25日夜:インドネシアのジャワ島スラバヤからアンボン、ハルク島に向かっていた日本の船団(掃海艇2隻、特設駆潜艇1隻が護衛)のうち、約3500人のジャワ人とインド兵捕虜の強制労働労務者を乗せた輸送船丹後丸が米潜水艦ラッシャーからの魚雷 攻撃を受け撃沈し、3000人以上が犠牲(あるいは5734名とも)、 続いて2時間後、日本軍兵士など6699名を乗せた同じ船団の輸送船「隆西丸」が同潜水艦に撃沈され、4999名が犠牲となった。

 3月6日:サイパン玉砕の4ヶ月前、戦局の悪化を受けてサイパン島から日本本土へ引き揚げ疎開する民間人514名を、亜米利加丸が乗せて横須賀港へ向けて出航、米軍潜水艦ノーチラスが発射した魚雷2本を受けて沈没、婦女子を含む民間人511名、軍関係者4名、乗員87名、合計602名中599名が死亡し、同じ6日、第29師団の部隊をサイパンに輸送中の輸送船崎戸丸もアメリカ海軍潜水艦の雷撃で撃沈され、乗船者約3900人のうち助かった者は半数以下の1720人であった。

 4月26日:上海を出港した竹一船団の第一吉田丸がルソン島北西沖において米潜水艦 ジャックの雷撃により沈没。 約3500人のうち2649名が戦死。

 5月6日:竹一船団の残りはその後8隻で護衛をつけてマニラからニューギニアへ向けて航行中、セレベス島北東端付近で待ち伏せていた米潜ガーナードの攻撃を受け、天津山丸(3400人乗船)、亜丁丸(約2400人)、但馬丸(約2700人)が沈没、亜丁丸では2407名のうち523名が戦死、沈没3船合計約8500人中では約1200が戦死。竹一船団は中国戦線からフィリピン方面への複数師団の移送であった。

 6月24日深夜:玉鉾丸は7500トンの銅鉱石を積載し、さらに米・英・豪・蘭の捕虜772名を乗せてシンガポールからマニラ、台湾を経由して日本に移送中、九州に近づいたころ、米潜水艦タングの魚雷により沈没、捕虜772名のうち560名が死亡、生存212名。

 6月28日早朝:貨物船富山丸を含めた12隻の船団が27日に鹿児島湾を出港、沖縄本島への増援のため旅団将兵と重火器やトラックなどの装備とガソリンを搭載したドラム缶1500本、将兵たち4600人を乗せていた。米軍潜水艦が徳之島の東で魚雷4本発射、そのうち3本が命中、船体は二つに折れて轟沈、ガソリンが海上にも流出して引火しほとんどが脱出できず、3680−3874名が戦死、生存者は270−300名。 この惨事も大本営により秘匿された。

 8月4日未明:セレベス島マカッサルの飛行場を修理するためにジャワ人労務者 1513名と便乗者540名を乗せた光州丸がマカッサルに向けて航海中、米潜レイが魚雷を発射、船は二つに折れて瞬時に沈没し便乗者273名、乗組員と砲兵28名、ジャワ人労務者1239名が海に消えた。

 8月18−19日:九州伊万里湾からフィリピン経由シンガポールに向かっていた兵士と物資の輸送船団がルソン島北岸付近で米軍潜水艦ラッシャーその他の雷撃を受け、15隻の輸送船のうち4隻が撃沈され、帝亜丸では軍人・軍属4936人と民間人286人のうち2665名が死亡、玉津丸では4820人中4755名が死亡した。

 8月22日:7月のサイパン陥落の次は沖縄を防衛線と見定めた政府は、まず沖縄の学童たちを本土に疎開させることにし、輸送船対馬丸ともう一隻が疎開児童、一隻が民間人で、護衛艦をつけて長崎に向けて21日に出港した。そこにアメリカの潜水艦が多数の魚雷を発射、対馬丸だけが魚雷を受けて沈没、学童の犠牲者1484名を出し、生き残った児童はわずかに59名、他に生き残った者168名。

 9月12日:シンガポールから「勝鬨丸」(英捕虜)と「楽洋丸」(米、英、豪捕虜)を含めた7隻の船団が6隻の護衛船に守られシンガポールを出港、海南島沖で米潜水艦グローラーとシーライオンの魚雷を受け、勝鬨丸は英捕虜380名死亡、生存520名、楽洋丸は捕虜1161名死亡、生存157名。

 9月17日:「真洋丸」はフィリピン・ミンダナオ島からマニラに向けて米兵捕虜捕虜750名を船倉に入れミンダナオ島の西海岸沿いに航行中、米潜パドルから魚雷を受け「真洋丸」は爆発で分断し、捕虜の大半は魚雷の炸裂か船内で溺死した。しかし船外に脱出した者の大半も日本軍に射殺された。米捕虜約750名のうち死者667名、生存82名。

 9月18日:「順陽丸」は捕虜約2200(米14、蘭約1700、他506)名・、ジャワ人労務者4320名の計5649名をジャワ島バタビアからスマトラ島パダンへ移送中、スマトラ島沖合で英潜水艦トレードウインドから魚雷を受け海没、捕虜のうち1520名、4320名のジャワ人労務者のうち4120名が死亡、計5640名の犠牲者が出た。

 9月21日:豊福丸はシンガポールの捕虜1289名(英1076、蘭213)をマニラ経由で移送中、ルソン島マシンロック沖で米空母第38機動部隊の艦載機約100機の攻撃を受けて沈没、1047名死亡、生存242名。

 9月29日: 日錦丸は香港への補充兵3400名を門司から上海にむけ移送中、米潜水艦Tangの魚雷攻撃を受け、30日朝鮮半島全羅南道紅島北方付近で沈没、将兵3150名、船員69名 合計3219名が戦死。この時期に徴兵された者は若年層が少なかったと思われるが、ここでも戦わずして戦死した。

 10月24日:米軍のフィリピンへの上陸に備え、アメリカ人捕虜1781人を船団でマニラから日本へ移送中、米潜水艦7隻の集中攻撃を受け、23日午後5時半から次々と撃沈された。その翌日阿里山丸(竣工してまだ4ヶ月)も魚雷の砲撃を受け沈没した。沈没時、捕虜は船倉から解放されたというが、そのほとんどが行方不明となり、生存が確認されたのは日本船と中国の民間船に救助された9人だけであった。日本人の遭難船員204人中22人、捕虜護送隊員40人中5人および船舶砲兵隊の85人中13人が死亡または行方不明で、捕虜との生存率の差は大きい。

 11月15−17日:8/18−19の輸送船団と同様、九州伊万里湾からフィリピン・ルソン島やレイテ島への軍隊輸送とシンガポールからの石油輸送を担った船団10隻が組まれ、護衛に空母その他が配された。この船団には、満州の関東軍から回された第23師団が主力であった。済州島東方110km付近で、陸軍特殊船あきつ丸(乗員2576名、馬450匹)がアメリカ潜水艦クイーンフィッシュの魚雷攻撃を受けわずか数分で沈没し、乗船者2576人のうち2000名以上が死亡した。さらにあきつ丸の生存者を収容した船団は、島々を利用しながら前進したが、17日朝、中国大陸から飛来した海軍の哨戒機によって発見され、米潜水艦群は日没を待って襲撃を開始し、夕刻摩耶山丸が被雷して轟沈、乗員約4500人中3187人(あるいは3437人)が戦死した。摩耶山丸の沈没から5時間後の深夜、今度は空母神鷹に米軍潜水艦魚雷4本が命中、神鷹は爆発を繰り返しながら沈没した。ガソリンが海面に燃え広がったため生存者は少なく、乗員1160人中1100人が戦死した。被害は空母1、輸送船2隻、戦死者は約6200−6700人。

 11月17−18日:「ミ27船団 」は門司港から台湾高雄に向け航行中、17日22時頃から米潜水艦サンフィッシュとピートの攻撃を受け始め、逢坂山丸、江戸川丸、盛祥丸、鎮海丸が次々と被雷沈没し、中でも江戸川丸は大爆発を起こし、乗船部隊1997名、船砲隊46名、船員70名の計2113名が戦死。その他の輸送船で629名死亡。

 11月25日未明:3月に亜米利加丸と同じくサイパン島から引揚げ者を乗せて出港したさんとす丸は無事に日本本土に到着した。その「さんとす丸」は船団のなかで海軍部隊約1500人を乗せてマニラから高雄に向けてサブタン島沖を航行中、米潜水艦アトゥルに雷撃され沈没、約800人が戦死。

軍歌(昭和19年:1944)

『少年兵を送る歌』(大日本青少年団制定歌)

 昭和19年3月 作詞:松村又一/作曲:林伊佐緒

 3月に開催された「陸海軍少年兵壮行大会」に伴う「志気昂揚錬成行軍」の際に歌われた。


胸に付けたる紅の
若き誇りのこの章
今こそ我等国の為
命捧げる時ぞ来ぬ
征けや皇国の少年兵(終行繰り返し)

国を挙げての決戦に
我等行くべき道一つ
遠く神代の昔より
伝え受けたるこの血潮

君が門出を微笑みて
富士が高嶺も見送らん
かの大空に海陸に
示せ練磨の腕と胸

ああ神州の若桜
散りて栄えあるこの誉れ
燃ゆる決意の眉上げて
後に続かん我等また

 この頃は兵隊予備軍として各種少年兵学校が増設され、応募する者も多く、それにそってこの歌も作られた。また一般の徴兵年齢はこの年の秋、19歳に下げられたが、もともと陸海軍関係の少年兵学校は14歳もしくは15歳からの募集であり、志願兵という意味もあって、少年たちは少なくとも17歳から実戦部隊に送られるようになっていた。軍隊は次第にこれら「少年兵」にまで触手を伸ばしてきたわけで、ほぼ特別攻撃隊要員となっていく。これはナチスドイツのヒトラー・ユーゲント(青少年団)とほぼ似ていて、ただヒトラー・ユーゲントは戦局の悪化とともに国民突撃隊に併合され、もっと若い(12、13歳の)少年たちを戦地に送り込むようになって、送り込まれた側の軍隊長が「ここはお前たちのくるところではない!」と叫んだほどであった。

 ちなみに翌20年3−6月の沖縄戦においては現地の14歳− 17歳の少年を「鉄血勤皇隊」や「少年護郷隊」として防衛召集した。これは「防衛」のための召集でという名目で、正規の召集ではなかった。鉄血勤皇隊は、旧制中学生ら1780人によって編成され、沖縄戦での戦闘に動員されて、約半数が戦死した(17歳未満の戦死者は567名)。なかには戦車への斬り込み攻撃によって爆死した者もいる。本土でも戦争末期は「本土決戦」用員として、少年層もなし崩し的に国内守備隊に回されることになる。そしてこの沖縄戦ではとりわけ18年の秋に学徒出陣として学業半ばに下士官候補生として召集された19−20歳前後の若者が、特攻隊に志願して一個の肉弾として死んでいった。

 このような実際の背景を持ってして、この歌を見直せばどのように感じるだろうか。国のためと教えられつつ、その国を動かしているのは、埒もない軍政府の要人たちであり、その多くは敗戦と同時に責任から逃げた。具体的には内外の軍事関係資料をすべて焼却して、まるで戦争がなかったことにしようとした。果たしてそうした無責任な軍政府の要人たちが起こした戦争の結果、10代で特攻死した貴兄に「散りて栄え」があったのか。例えば問う、大事な息子であった貴兄が先に死んでしまって(あるいは貴兄の前に貴兄の兄が先に死んではいなかったか?)、その結果慟哭の中に残された家族は戦後に栄えたのか?その「誉れ」は家族の役に立ったのか?貴兄が生きていたほうが本当は家族にとってはるかに良かったのではないか?また貴兄も含めて命を散らした他の多くの若者たちが生きていれば、家族のためにも、つまり日本のためにも良かったのではないか?そして日本はもっと良い国になっていたのではないか等々考え、この底しれぬ不条理を見つめ直すことは今でも必要であろう。

『特幹の歌』

 昭和19年 作詩 清水かつら/作曲 佐々木俊一/歌:藤原義江

 特幹は上記の陸軍特別幹部候補生のことで、これは特に福岡の大刀洗少年兵学校を歌ったものである。

1 
翼輝く 日の丸に
燃える闘魂 眼にも見よ
今日もさからう 雲切れず
風も静まる 大刀洗(たちあらい)
ああ特幹の 大刀洗
2 
強く雄々しい 若松に
匂う暁 宇品港
ゆくぞ波風 岩も裂く
船の男児の 心意気
ああ特幹の 心意気
3 
吹けよ朝風 初陣の
翼さやかな 肌ざわり
胸の火玉に 昇る陽に
命捨て身の 武者ぶるい
ああ特幹の 武者ぶるい
4 
叩く敵陣 矢がつきりゃ
なんの当身の 弾吹雪(たまふぶき)
母もみている きいている
船と翼の 勝ち名乗り
ああ特幹の 勝ち名乗り

 まだ、実際に戦闘の現場に出ない中で訓練中の少年兵たちは、意気盛んに堂々とこの歌を歌ったことであろう。この歌の大刀洗陸軍飛行学校は、東京陸軍航空学校を卒業した操縦分科の陸軍少年飛行兵となる生徒、および同生徒の課程を修了して上等兵の階級を与えられた少年飛行兵に基本操縦教育を行うことを主な目的として、昭和15年10月に大刀洗陸軍飛行場に開設され、西日本で最大の飛行学校であった。昭和18年10月より採用が始まった陸軍特別操縦見習士官(高等教育機関の卒業生・在学生中の志願者を予備役将校操縦者として登用した制度で、しばしば特操と略される)の教育、翌19年4月からは3000名を超える陸軍特別幹部候補生(15歳以上20歳未満)の教育が行われたが、危うくなった戦局の打開策としての募集で、この特操や特幹たちは一年の基礎教育がカットされ、即成要員であった。本校の置かれた福岡県三井郡のほかにも、各地に所在する陸軍飛行場に分教所を設置し訓練を行った。分教所は朝鮮にも4ヶ所置かれた。ただ、米軍の空襲に遭ったこともあって、翌20年2月に航空師団の一部の改編のため閉鎖された。

 特攻隊員となった多くの少年飛行兵が特攻機で飛び立ったのは、大刀洗の分校だった鹿児島県の知覧からで、輸送機では特攻要員4、5人ずつ大刀洗から知覧に運んだ。そして知覧に配備されている特攻機に乗って20年3月からの沖縄戦に向かった。末期には大刀洗から直接特攻機が離陸したこともあったが、初めての実戦でいきなり敵戦艦に向かって特攻というのだから、出発時に武者震いもしたであろうが、その気持ちをわれわれが推し量ることはとてもできない。この特攻隊を考え出した日本軍幹部は、仮にも自分の息子がこの立場になったらと、少しでも考えたことがあるのだろうか。

 なお、既述のように陸軍の少年兵学校は6部門あったが、いずれも即成要員を養成するとして18年末から特別幹部候補生を募集し、それには航空、船舶、通信、技術等の部隊があった。その中でも船舶特別幹部候補生というのは、実は水上肉迫攻撃艇に乗り込む要員となり、その艇は一人乗りで、その材質はベニヤ合板で全長5-6m、速力25ノット。250kg爆雷を二個搭載して、敵艦にぶつかっていくものである。これは日本軍にはすでに飛行機・兵器も艦船も失って少なくなり、新たに作るにも資材も枯渇していて、残された戦闘機用の石油さえ欠乏し、起死回生の策として考案された。ちょうど同じものを海軍も開発し、それは震洋艇と名付けられ、陸軍はマルレ艇とされた。その中で陸軍の候補生は、四国の香川県で訓練され、若潮部隊と呼ばれた。そして志願兵約8千人が4期に分かれ訓練を受け、第1期生約2千人のうち、1147人が犠牲になった。みんな10代の若者である。特別幹部候補生(特幹)というのは実態は幹部ではなく、単身突撃兵のことであった。他も同様である。

 特幹の通信、技術の兵たちは一年の敎育・訓練期間もないまま15、16歳から戦地に連れて行かれた。戦闘員ではないという理由である。その時に「貴様らが内地へ帰るときの姿は蒲鉾だ。遺骨は戻らない。代りに、封筒に遺髪と爪を切って入れよ。遺言のある者は入れてよし」と教官から告げられたという。すでに戦局は最大に悪化し、教官たちも戻してやりたいが無理だろうと判断していたのだろう。

『若桜の歌』(少年飛行兵の歌)

 昭和19年 作詞:熊谷陸軍飛行学校/作曲:川本晴朗

 『燃ゆる大空』も熊谷陸軍飛行学校の歌である。


昭和の御世に育くまれ
碧に澄める大空に
若き命を捧げんと
小楠公の道を行く
清き姿の若桜 (最終行繰返し)

御稜威(みいつ)の原の若武者
伸び行く力競いつつ
豊かに育つ少年の
心明るく逞しく
5(3、4略)
荒ぶ赤城の野嵐に
強き闘志を鍛えつつ
誉の伝統受け継ぎて
尽忠至誠の色に起つ

試練の涙は幾度か
今修練の実を結び
決戦の空まで遠く
制空権の道を行く

 熊谷陸軍飛行学校は昭和10年に下士官となる航空兵養成学校として埼玉県に設立された。その前年に開設された埼玉県所沢の飛行学校は12年に廃止されて熊谷に吸収、そして15年には少年飛行兵の制度ができて、14歳− 17歳程度の少年たちが入校、基礎教育は武蔵村山市の東京陸軍少年飛行兵学校で行い、その後熊谷のほか栃木県宇都宮でも、操縦分科少年飛行兵の基本操縦教育を行った。戦局による増員のため、少年飛行兵学校は滋賀県大津、上記の福岡県太刀洗にも作られたが、同じ航空兵でも整備、通信などを担う学校は別に置かれていた。

 この熊谷飛行学校は、太刀洗と同様に各地の飛行場に分教場があった。そのうちの桶川飛行学校は昭和12年から設置されていて、数多くの飛行士を養成したが、終盤ではほぼ特攻隊の訓練場となり、少年飛行兵のほか学徒出陣の特別操縦見習士官の訓練も行われた。そして沖縄戦が始まってここから次々と特攻兵が飛び立った。太刀洗と同様、一旦鹿児島の知覧まで行くのである。ところがここで飛行の指導していた32歳の教官が、「教え子だけを特攻に出すわけにはいかない」と、おそらく未来のある若者の死を一人でも減らそうと考えてのことであろうか、途中で自分が割り込んで知覧から飛び立って行き、帰らぬ人となった。彼には妻と幼い2人の娘と生まれたばかりの長男がいた。

 この歌作られた年には、すでに資材不足のため飛行機の増産も難しく、仮にこの年に入校した若者たちは翌年短期卒業して各地の飛行隊に配属されたとしても、実際には飛び立つことなく、待機したまま終戦を迎える場合が多かった。だから「決戦の空まで遠く」というのはその通りとなり、「制空権の道」は米軍機に制圧されてほぼ無くなっていったと言っていいし、彼らの多くは死なずに済んだ。実際に、特攻用の実機が足りなくなり、この桶川の練習機の12機が4月以降に特攻用に送り出されたほどである。しかし小学校から軍国少年に育てられ、勇んで難関を突破して少年飛行兵となった彼らにとって、飛び立てず、「大空に若き命を捧げ」られなかったことは本当に悔しいことでもあった。

 「心明るく逞しく/豊かに育つ少年」だからこそ、本当に国のためを考えるなら、死んでもらっては困るのであるが、国ために死ぬことこそ「清き姿の若桜」として美しいなどと、軍の幹部たちは自分の老醜の命をこそ喜んで差し出すべきなのに、それを堅牢な建物の奥に後生大事にしまい込んで、戦場から遠い場所にいるまま、特攻死した若者を賞賛する、その醜悪な自己保身の態度こそが(自分が実際に戦場に出ずに遠くから命令を出すだけで済むという立場)、この戦争を安易に開始し、内外に一千万人をはるかに超える犠牲者を生むことになった。それでも敗戦後に反省をすることなく(軍事関連資料を全部焼却して戦争の証拠隠滅を図り)、政官の表裏にうまく入り込んで指導的立場を保持した。会社なら永久追放で自己破産者になっても不思議ではないが、政官の世界というものはどうしてこうも緩いのか、この辺りを正さないと、日本の社会は良くならない。

 だからよく言われる「こうした若者たちの多くの犠牲があってこそ、今の日本の平和が …」というのは正しくない。敗戦によって世界的な制裁を受けたから、再び戦争ができなくなり、その分生き残った若者たちが必死に働いて日本の経済成長を果たしたということである。そしてそれをも戦後にうまく生き残って政官人の中で指導的立場を保持した輩たちが、後追いをして自分たちの成果のようにして偉そうにしている。決してそんなことはなく、彼らの指導した間違った戦争遂行に従って生真面目に努力した同じ日本の一般の人々が、もはや政府を信用せずに、失った同僚たちのことを思いつつ、同じ努力を経済の復興発展に努力した結果なのである。

『勝利の日まで』

 昭和19年3月 作詞:サトウハチロー/作曲:古賀 政男/歌:霧島昇他8名で競作された。

 翌年明けに同名の映画が公開されたが、終戦後占領軍GHQによって上映禁止とされ、フィルムが焼却されたので幻の映画となっている。上映禁止は他にも多くあるが、フィルムは結構残されている。


丘にはためく あの日の丸を
仰ぎ眺める 我等の瞳
いつか溢るる 感謝の涙
燃えて来る来る 心の炎
我等は皆 力の限り
勝利の日まで 勝利の日まで(最終行繰返し)

山で斧振る 翁の腕も
海の若者 櫓を漕ぐ腕も
町の工場の 乙女の指も
今日も来る来る 御国の為に
4(3略)
空に飛び行く 翼に祈り
沖をすぎ行く 煙に誓う
国を挙げての この戦に
湧いて来る来る 撃ちてし止まん

 銃後(国内)の国民に向け、「御国の為に」「力の限り」「勝利の日まで」与えられた仕事に励めとの歌である。この年は各種劇場が閉鎖され、松竹少女歌劇団は解散されて「松竹芸能本部女子挺身隊」に改められ、内外の軍隊への慰問興行に回り、この『勝利の日まで』などを歌うことになる。またこのころより「町の工場の乙女」とあるように中学校や女学校の多くが軍需工場にされていく。子供たちは授業どころではなく、軍事教練(子供や女子は竹槍訓練など)もあって勉強に励むこともできず、小学校も食糧増産のため運動場も畑として耕したりし始めた。「空に飛び行く翼」も「沖をすぎ行く煙」をたなびかせる艦船もこの後中国や東南アジアで次々と連合軍に撃墜もしくは撃沈され、日本軍は追い詰められていく。

『突撃ラッパ鳴り渡る』(一億総蹶起の歌)

昭和19年5月 作詞:勝 承夫/作曲:古関裕而/ 歌:楠木繁夫・近江俊郎


勝って逢おうと 誓って征った 
友の襟が 目にしみる 
俺も名もある あの旗を 
踏みにじらせて なるものか 
止むに止まれぬ 総蹶起 
突撃ラッパだ どんとゆけ(最終二行繰返し)

祖先以来の 日本刀が 
切って捨てよと 叫ぶのだ 
迫る鬼畜の米英を 
太平洋に叩き込め 

俺の覚悟は 日の丸たすき 
きっと守るぞ この職場 
数をたのんで 来るならば 
数でも勝とう 大和魂 

 この歌は「本土決戦」を想定し、一億総蹶起して戦い抜こうという「銃後」(国内)の守りを歌っている。相変わらず「日本刀」とか「大和魂」の言葉が出てくるが、女学校でも、やって来るであろう米兵を相手にする竹槍の訓練を一生懸命やっていて、しかし仮にも米兵が来れば必ず銃砲を手にしているわけで、その想定すら無視されていた。ついでながら男子学校には軍事教練用に兵器倉庫があって、そこに置いてある本物の銃は、次々と兵力補充のため徴兵される兵隊用に回されて木銃にとって変えられていて、18年には徴兵の上限も45歳までとなっていたから、戦争終盤には中年軍団が送られるようになっていき、その中年軍団がとぼとぼと歩く後ろ姿を見て、これではもう勝てないと思った人もいるほどである。突撃ラッパ以前の問題があった。

『轟沈』

 昭和19年9月 作詞:米山忠雄/作曲:江口夜詩/歌:楠木繁夫・三原純子

 記録映画『轟沈』の主題歌で、作詞の米山忠雄は海軍の嘱託職員。「轟沈」という言葉は、初期のマレー沖海戦で日本海軍が英戦艦を撃沈した時に大本営発表から使われ、以後、馴染まれて使われていた言葉であるが、逆に日本の艦船が連合軍の潜水艦からの魚雷を受け、既述のように次々と轟沈されている時期であった。当初は『魚雷を抱いて』という題名であったが、発売直前に映画の題名に合わせて変更となった。この時代としては潜水艦乗りの生活を歌った、ある種の開き直りのような、気楽な歌詞と、ユーモラスなメロディで、広く愛唱された。


可愛い魚雷と 一緒に積んだ
青いバナナも 黄色く熟れた
男世帯は 気ままなものよ
髭も生えます 無精髭

針路西へと 波また波の
飛沫厳しい 見張りは続く
初の獲物に 何時の日会える
今日も暮れるか 腕が鳴る

轟沈轟沈 凱歌が挙がりゃ
つもる苦労も 苦労にゃならぬ
嬉し涙に 潜望鏡も
曇る夕陽の インド洋

昇る朝日に 十字の星に
思い遙かな 緑の基地よ
戦友も笑顔で 待っててくれる
故郷の便りも 待っている

 皮肉なことに、この歌の発売後の10月24日、日本海軍の誇る戦艦武蔵が米軍とのレイテ沖海戦において激しい空爆と何発もの魚雷攻撃によって撃沈、その他の戦艦とともに海に消え、日本の連合艦隊は事実上壊滅した(この海戦には戦艦大和もいたが、生き残った)。

『ああ紅の血は燃ゆる』(副題:学徒動員の歌)

 昭和19年9月 作詞:野村俊夫/作曲:明本京静/歌:酒井弘・安西愛子

 この歌は学徒出陣で戦地に行った学生たちのことを歌っていると誤解されているが、19年3月、今でいう中学生以上に対する勤労学徒動員令が発令されて、それまで年に4ヶ月の交代で勤労動員であったものを一年間を通じて行われるようになり(これは学徒勤労報国隊とも称された)、そのためにこの歌が作られた。国民合唱として19年6月から放送合唱団によって流された。勤労動員で工場あるいは農場へ通う時、行列を組んでこの歌を歌った。


花もつぼみの若桜
五尺の生命ひっさげて
国の大事に殉ずるは
我ら学徒の面目ぞ
ああ紅の血は燃ゆる(最終行繰り返し)

後に続けと兄の声
今こそ筆を投げうちて
勝利揺るがぬ生産に
勇み立ちたる兵ぞ

君は鍬とれ我は鎚
戦う道に二つなし
国の使命を遂ぐるこそ
我ら学徒の本分ぞ

何を荒ぶか小夜嵐
神州男児ここに在り
決意ひとたび火となりて
守る国土は鉄壁ぞ

 昭和18年6月、東条内閣は「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定し、学校報国隊を強化し、戦技・特技・防空訓練を図り、女子は救護訓練を行うとともに、軍需部門を中心に次第に労働力不足が深刻化したため、学徒の勤労動員の従事日数を大幅に増やした。そして19年2月、「決戦非常措置要綱」が閣議決定され、3月、それに基づく「学徒動員実施要綱」で、通年動員、学校の種類による学徒の計画的適正配置、教職員の指導と勤労管理が決められ、文部省は学校別動員基準を決定し、4月から軍需工場への本格的動員が始まった。当時の中学校や女学校(当時の学校は男女別学)は5年制で、少なくとも3年生(14歳)以上が対象とされたが、7月には「航空機緊急増産」の必要によって、学徒動員の強化が目指され、場合によっては中等学校低学年生徒の動員や深夜業を女学生にも課するなどした。8月、学徒勤労令と女子挺身勤労令(下記)が同日交付された。学校にも教室を利用して工場が作られるようになり、とりわけ女学校の校長はむしろそれを利用して生徒たちへの授業の時間を少しでも多く確保しようとした。呆れるのは学徒勤労令の中に「勤労即敎育」という言葉が打ち出されることで、使える理屈はなんでも使って押し付けようとする、政府の厚顔さが見え見えである。

 しかし肝心な食料も乏しく(軍隊に優先的に回されることもあって)、大学生や専門学生は北海道まで「援農」に行ったり、東京近郊の農地開拓まで従事した(それが歌にある「君は鍬とれ我は鎚」となる)。その前に学校の運動場や空き地は耕されてさつま芋などの畑になり、生徒たちはそれで自分たちの食料を確保するようになる。

 さらに、11月下旬から米軍による本格的な空襲が開始され、大きな軍需工場は米軍の空襲の標的になり、空襲警報があって防空壕に逃げても防空壕自体が大型爆弾で飛ばされて死者が出たり、防空壕まで逃げ切れずに工場の中で死亡する場合もあった。つまり国内も戦場となり、「守る国土は鉄壁」とはまったくならなかった。その中で翌20年3月には「決戦教育措置要綱」を閣議決定し、これにより、春から一年間の完全授業停止による学徒勤労総動員の体制がとられた。しかも自宅近くの工場が割り当てられるわけではなく、地方の工場に集団で行かされる場合もあった。それも一年間と続かなかったが、昭和20年(1945)8月15日、動員先の工場で終戦の詔勅を聞いた動員学徒は340万人であった。そして学徒動員による死者は1万966人、傷病者は9789人であった。

 以下は女子用に作られた歌である。

『輝く黒髪』(女子挺身隊の歌)

 昭和19年 作詞:西條八十/作曲:古関祐而/歌:千葉静子

 18年9月、女子挺身隊が創設されたが(同時期に学生の徴兵猶予制度撤廃による学徒出陣も決定された)、19年3月には女子労働力の強化を図る目的で「女子挺身隊制度強化方策要綱」が閣議決定され、この女子挺身勤労令に伴い、この歌が制定された。

 女子挺身隊とは、当初は14歳から25歳までの学業についていない若い女性や、女学校を卒業しながら職業についていない女性たちを軍需工場に動員するもので、女学生の勤労動員とは区別される。これにより3月に学校を卒業となった女性は卒業と同時に女子挺身隊に入り、全国一斉に各地の軍需工場等へ動員された。


靡く黒髪きりりと結び
今朝も朗らに朝露踏んで
行けば迎える友の歌
ああ愛国の陽は燃える
我等乙女の挺身隊(最終二行繰返し)

撃てど払えど数増す敵機
北も南も無念の歯噛み
勇士想えば胸痛む

可愛い工具に頬擦り寄せて
花の命も姿もいらぬ
早く翼が送りたい

産んだ増産にっこり仰ぎ
窓の夕日に手を取り交わし
明日の努力をまた誓う

 このころは女子挺身隊も女子勤労動員生もみんなが日の丸の鉢巻きに「必勝」「神風」などの文字を書き込み、日本は必ず勝つ!と信じて、この歌や『そうだその意気』の歌にあるような気持を抱いて工場でせっせと生産に励んだ。ただこの歌の「可愛い工具に頬擦り寄せて」とは作詞家の創作でしかなく、実際には女性も普通は男性しか扱わない旋盤加工の仕事もやり、怪我もし、指を落とした若い女性もいたのである。それでも翌20年の春過ぎあたりからは、加工すべき金属などの材料が届かず(家庭などから金属類を供出させていたが、それももはや尽きかけていた)、他の仕事をしながら時間を潰すこともあった。

 この時代「銃後」の女性は「後方支援部隊」として老いも若きも忙しかった。学校では勤労動員も含めて、食糧不足を補うため、校庭を開墾してさつまいもやかぼちゃを育て、自分たちの足りない食料を補った。その上、軍事教練もあった。竹槍や薙刀を使って米兵が上陸してきた場合に直接対決するためである(とても敵の銃器に対抗するのは無理だと思うが)。各地の町内会でも事情は同じで、主婦たちも防空訓練や防空壕掘りも盛んに行われ、しかしこの臨時の防空壕は実際の大空襲にはあまり役に立たず、その中で蒸し焼きになって死ぬ人も多かった。

 ちなみに軍用の立派な防空壕作りや軍需工場にも、植民地の朝鮮からも徴用されて来て仕事として従事している場合が多く(日本国内で約70万人)、これがしばしば徴用工とか強制労働と呼ばれるが、これは女子挺身隊や学徒勤労動員も事情は同じで、そこそこの給料は支払われたのである。ただ、敗戦のどさくさで特に朝鮮の労働者に支払われなかった場合も多く、主にはそのことがいまだに問題になっている。

 ついでながら、各地にある軍需工場の多くは爆撃され犠牲者を出したが、当時東洋一と言われた愛知県の豊川海軍工廠(航空機用機銃と対空機銃などを製造し約5万人が従事していた)では、広島への原爆の翌日の8/7、B29爆撃機124機が短時間に大量の爆弾を投下し、工場は壊滅、合計2667名が犠牲となり、そのうち勤労動員されていた中学生、女学生、大学・高等科生徒たち約6000人のうち、男193名、女259名、計452名が死亡した。この中には東京や他の地方からも動員されていたものも多くいたが、女子挺身隊としての数は、近隣の臨時雇用の女性労働者と同じ扱いで、明らかではないが、朝鮮人徴用工は約200人のうち23名が亡くなっている。7月下旬に連合軍から告げられた降伏勧告を無視して「一億玉砕」を唱え、戦争を続けようとして、原爆を含めてさらにこのような犠牲者を増やした軍政府の責任は重いというだけでは済まされないものがある。

『サイパン殉国の歌』

 昭和19年 作詞:大木惇夫/作曲:山田耕作


泣け怒れ奮えよ撃てよ
夕映えの茜の雲や
血に咽ぶサイパンの島
皇国を死して護ると
つわもの等 玉と砕けぬ

泣け怒れ讃えよ褒めよ
皇軍に力協せて
同胞はよくぞ起ちたり
勇ましや老いも若きも
義に燃えて国に殉じぬ

泣け怒れ讃えよ褒めよ
武器執りて起ち得る者は
武器執りて皆戦えり
後には大和撫子
紅に咲きて匂いぬ

泣け怒れ讃えよ褒めよ
代々享けし忠武の血もて
旗印高く揚げたり
仰ぎ見て同じ心に
戦いに我等続かん

 「我等続かん」と言えるような戦いであったのかどうか、以下、この歌の背景である。

 1914年(大正3)7月、第一次世界大戦が勃発し、少し遅れてドイツ軍に対する連合国の構成員として参戦した日本軍は、ドイツ軍が欧州戦線に専念している隙を狙い、もともとドイツが領有していた赤道以北の南洋諸島を容易に占領した。大戦終結後の1920年にサイパンを含めてパラオやマーシャル諸島、カロリン諸島が日本の委任統治領となり、南洋庁サイパン支庁が設置された。その後サイパン島は内地から南洋への玄関口として栄え、周囲の島々との間での貿易の中継地点としても発展した。この時期には、砂糖生産などの労働力、港湾荷役労働者、貿易商として、日本本土だけでなく沖縄県や台湾、朝鮮からも多く移住者がいた。第二次世界大戦前には、日本軍の太平洋における要衝の一つとして日本軍司令部が設置され、太平洋戦争勃発後は日本海軍の重要拠点となった。昭和18年(1943)8月の時点での人口は日本人(台湾、朝鮮出身者含む)2万9348人、現地系3926人となっていた。

 昭和19年(1944)6月11日、アメリカ軍艦載機1100機によりサイパン島に奇襲的な空襲が行われ、13日からは艦隊が接近、砲弾合計18万発もの艦砲射撃が行われ、水際にあった日本軍の陣地は半壊し、サイパン基地の航空機は20機を残し撃破され、日本艦船も最大の船団がほぼ全滅した。15日、アメリカ軍を主力とする連合国軍が上陸、激戦が始まった。応戦する日本軍は約3万1600人、攻撃する米軍は6万6800人であり戦車などの兵器も米軍の方が優っていた。

 一方では南洋諸島での戦闘が想定され、この年2月に兵員増強の輸送船の帰りの船を利用して、住民の婦女子・老人を日本へ疎開させるよう計画された。ただし、16歳−60歳の男性は防衛強化要員として帰国が禁止された。周辺の島からもサイパン経由で帰国が計画されていた。しかし3月の帰国船「亜米利加丸」がアメリカの潜水艦に撃沈され、500名の民間人ほぼ全員が死亡し、6月4日「白山丸」が米潜水艦の魚雷を受け沈没、320人は日本の海防艦などで救助されたが、民間人276人を含む324人が死亡、そのうち半数が子供であった。その他にも多数の民間人犠牲者が出ている。結果的に米軍上陸の時点での在留邦人は約2万人と推計される。

 激しい攻防を経て日本軍は追い詰められたが、戦闘を指揮した南雲中将と斎藤中将は7月5日に全兵士に対し総攻撃の上玉砕せよとの命令を発し、さらに6日、「今や止まるも死、進むも死、生死すべからくその時を得て帝国男児の真骨頂あり、今米軍に一撃を加え太平洋の防波堤としてサイパン島に骨を埋めんとす」との訓示を行い、南雲中将ら3名の指揮官が自決(どうして部下を放置してこの時点で自決してしまうのか、極めて無責任である。少しでも部下や民間人の命を救いたいと思わなかったのか、その立場を持ってすれば米軍と交渉できたはずである)、しかし一般邦人も入り混じった混成部隊およそ3000名が残っていて、武器がない者も多く、棒に銃剣を結び付けたものや、石を持っただけの者もあったが、突撃部隊は3軍に分かれて突撃することとし、7月7日未明、アメリカ軍がバンザイ突撃と名付けた白兵突撃が行われた。

 日本軍はこの玉砕戦法で戦死者約3万人、捕虜921人、民間人死者8千−1万人となっていて(米軍の戦死3441人、戦傷1万1685人)、この民間人死者の数が異様である。日本軍が玉砕戦法をとる中、住民も有名な「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓の精神的な呪縛を受けていて、一部の日本軍とともに後退していき、米軍に追い詰められると次々と集団自決していくことになった。これは米軍は鬼畜であり男性は惨殺され、女性は凌辱された上で殺されるという軍の宣伝に囚われた故のことであった。現在でも語られるバンザイクリフ(Banzai Cliff)は、追い詰められた(と思い込んでいる)女性が子供を抱えたまま崖上から飛び込み自殺をすることで、この姿は米軍のフィルムに収められている。

 この後、米軍はサイパンの飛行場を整備し、すでに開発し量産していた長距離超大型爆撃機B29を次々と配置、続いてテニアン島(サイパンと同様第一次大戦後の日本の統治領)と、開戦直後に日本軍が占領していたグアム島も陥落させ、多数の最新鋭戦闘機も配置、同年11月24日から、日本本土への本格的空爆を開始した。

『この仇討たん』

 昭和19年 作詞:高橋掬太郎/作曲:服部良一/歌:高峰三枝子


大和桜の散り際見せて
勇士の熱い血潮の飛沫
玉と砕けた山崎部隊
一億誓ってこの仇討たん(以下最終行繰り返し)

裂けた戎衣を夜露に曝し
草を噛み噛み戦い抜いた
ガダルカナルの恨みも深い

続く反抗マーシャルまでも
深く食い入る敵機の憎さ
醜(しこ)の御楯の覚悟は今ぞ

 一番は1943年のアッツ島の守備隊の全滅(戦死2638人、生存28人)、二番は1942年のガダルカナル島の戦いからの退却で置き去りにされた部隊(戦死約8500人でそれ以外に約1万人が餓死者が出たとされる)のこと、三番は上記のサイパンを含めたマーシャル諸島のことをそれぞれ歌っている。「仇討たん」とする気持ちはわかるが、絶対国防圏とされ死守すべきマーシャル諸島が完全に崩落して、日本軍はすでに守勢に回り、挽回の方途などすでになくなっていた。それでもこのような歌を軍は国民に歌わせ、戦争遂行にこだわった。このころに戦争が終わっていれば、日本人だけで言えば、犠牲者は300万人もいかず、100万人で済んでいたであろう。

『ラバウル海軍航空隊』

 昭和19年 歌詞:佐伯孝夫/作曲:古関裕而/歌:灰田勝彦

 ラバウルは、パプアニューギニアの島嶼地方の東ニューブリテン州の都市で、オーストラリアの統治下にあった。太平洋戦争開戦の翌17年(1942)1月下旬には、オーストラリア軍とイギリス軍と戦った末に日本軍が占領し、東南方面への一大軍事拠点となる。航空隊の基地と海軍の要港が築かれ、陸海軍合わせて9万余の大軍が配置された。連合国軍側からは「ラバウル要塞」と呼ばれ、この地域の防衛の要となり、この基地から日本軍航空隊は周辺各地に攻撃を加えていった。1943年には連合国軍との激しい攻防が繰り返され、ラバウルは補給線を切断され後方に取り残される。それでも日本軍は度重なる連合国軍による攻撃に耐えつつ、兵力を温存し洞窟陣地にこもり武器を自作するなどし、食料や日用品の自給自足体制まで整え「籠城」を行なった。1944年には基地の機能はなくなるが、連合国軍は、頑強な抵抗が予想されるラバウルを攻撃せず包囲するにとどめた結果、1945年8月の終戦まで日本が占領し、ポツダム宣言を受け入れ日本が降伏した際、ラバウルになお6万9000人の兵士が残留していた。漫画家の水木しげるはラバウルで左腕を失い、その片腕で『ゲゲゲの鬼太郎』などの妖怪漫画で人気を得て、自身の戦争体験(「ラバウル戦記」)も描いた。なおこの歌は前半の航空戦の戦果を歌っている。


銀翼連ねて 南の前線
揺るがぬ護りの 海鷲達が
肉弾砕く 敵の主力
栄(は)えある我等 ラバウル航空隊

海軍精神 燃え立つ闘魂
いざ見よ 南の輝く太陽
雲に波に 敵を破り
轟くその名 ラバウル航空隊

沈めた敵艦 墜とした敵機も
忘れて見つめる 夜更けの星は
我に語る 戦友(とも)の御霊(みたま)
勲(いさお)は高し ラバウル航空隊

 初期の上陸、占領作戦においてはオーストラリア軍の守備隊は1500人程度の少数で、日本軍はさほどの抵抗を受けず短期間で占領した。そこで約1000人のオーストラリア軍兵士を捕虜としたが、そのうちおよそ160人は、近くのジャングルに小集団で連れ込まれ、日本軍兵士によって銃剣で虐殺されたと、この虐殺を逃れた6人の生存者が戦後の裁判の喚問において、虐殺の状況について証言した。その他の場所でも捕虜は射殺されたとしている(連合国は後にこれらの虐殺の責任を当時の指揮官に求めたが、1946年下旬に彼は食を断って絶命した)。さらにおよそ845人のオーストラリア人兵士と172、他36の民間人の捕虜計1053人を1942年の7月1日に「もんてびでお丸」で(日本国内での労役のため)ラバウルから日本へと輸送の途中、アメリカ軍の潜水艦スタージョンによって撃沈され、全員が命を落とした。

『今ぞ決戦』

 昭和19年 歌詞:藤浦洸/作曲:明本京静/歌:楠木繁夫・近江俊朗

 同名映画の主題歌。


死ぬも生きるも国のため
意気は凛々しく天を衝く
「今ぞ決戦」結んだ口の
断の一文字貫くぞ

男命の散るときは
香りゆかしき若桜
「今ぞ決戦」勇んで立てば
何の刃向う敵があろう 
(以下略)

 もはや現実離れした気持ちだけの歌である。しかし軍が好んで書かせた歌であろう。以下は上記映画の挿入歌で、レコードのB面である。

『決戦むすめ』(銃後の歌)

 昭和19年 作詞:野村俊夫/作曲:平川英夫/歌:奥山彩子・菅沼幸子


野辺の菫も都の花も
同じ皇国の決戦娘
今日も溌剌戦う瞳
夢と希望に燃えている

心一筋勇士に続く
固い覚悟の決戦娘
何の雨風茨の道も
笑顔明るく越えて行く

敵の銃後に後れは取らぬ
大和島根の決戦娘
朝に夕べに星影踏みて
意気を見せましょこの意気を

花の亜細亜の緑の朝を
築く私等決戦娘
やがて楽しい春告鳥が
飛んでくる日を友と待つ

 このような歌を女子挺身隊や女学生の勤労報国隊の働く軍需工場で聴かせ、あるいは歌わせていたのであろうか。この年の11月下旬から、米軍は超大型爆撃機B29を、日本軍から奪還したサイパン島などから大編隊で送り込み、まずは軍需工場を中心に爆撃を開始、そして空襲警報が鳴るたびに女性たちは防空壕に逃げ、解除されるとまた現場に戻ることを繰り返し、そのうち本当に自分たちの工場にも爆弾が落とされて死者が出ることもあった。いくら「意気を見せましょ」と言われても、意気で防げることではなかった。「花の亜細亜の緑の朝」とはいかにも綺麗事であるが、日本軍がこの6、7年前から先んじてそのアジアの地に爆弾の雨を降らせていたのである。歌詞というものは言葉を使えばどのようにでも書け、結局はこのように現実とかけ離れた空疎な言葉の羅列となる。作詞者も不利な戦況を知りつつ、「やがて楽しい春告鳥が」くるとは思わないまま書いていたのではないだろうか。

『ビルマ派遣軍の歌』

 昭和19年 作詞:火野葦平/作曲:古関裕而

 ビルマ(ミャンマー)におけるインパール作戦目前の頃、慰問に訪れた火野(『麦と兵隊』の著者)と古関が現地で製作したもの。インパール作戦は司令官の無謀な戦略によって無駄に多くの犠牲者を出し、太平洋戦争史上もっとも愚かな作戦と言われる。火野は一兵士として日中戦争に従軍した経験をもとに書いた『麦と兵隊』によってベストセラー作家となったが、この時期火野は軍に従軍記者のように利用されていた。仮にそうではなく、実際にこのビルマ戦に兵士として参戦していたら、以下のような綺麗事で空疎な詩は書けなかったであろう。


詔勅のもと勇躍し
神兵ビルマの地を衝けば
首都ラングーンは忽ちに
我が手に陥ちて敵軍は
算をみだして潰えたり
宿敵老獪英国の
策謀ここに終焉す
光燦たりビルマ派遣軍

イラワジ河の水ゆるく
御国の楯と進みゆく
我が兵の背に高く
黄金のパゴダそびえ立ち
セクパンの花萌え出でて
再生ビルマの民衆に
兵の笑顔の莞爾たり
御稜威(みいつ)洽(あまね)しビルマ派遣軍

 詔勅(天皇のお言葉)のもと勇躍した神兵(わが天皇を戴く日本軍)は御国(ビルマ)の楯として、この後も「再生ビルマ」のために天皇のご威光の下、笑顔で進んで行くという意味であろう。また「再生ビルマ」というのは、イギリスの占領下にあったビルマを日本軍が解放したという立場を表していて、日本軍はこの太平洋戦争を開始した1941年12月8日に真珠湾奇襲攻撃と同時にマレー半島にも奇襲上陸し、一軍はシンガポールに侵攻、もう一軍は友好国タイを経由してビルマに進撃した。ビルマではイギリスからの独立運動はすでにあったが、日本軍はタイで「ビルマ独立義勇軍」を募り、彼らを加えて山脈を越えて進軍、途中でビルマの青年たちは次々と義勇軍へ身を投じた。相手のイギリス軍はインド師団であったが準備不足で、日本軍の急襲を受けて撤退、日本軍はサルウィン川とシッタン川を渡って進撃し、1942年3月8日、首都ラングーンを占領した。そこで義勇軍は「ビルマ防衛軍」となった。その後日本側は早期のビルマ独立の方針を具体化し、1943年3月10日『緬甸独立指導要綱』を決定し、8月1日、日本の軍政を廃止、ビルマは独立を宣言し、バー・モウを国家元首とした。この形は日本が満州に傀儡国家を作った経緯と似ている。1943年以降、ビルマ全土に対するイギリス連合軍の爆撃が激化し、ビルマ国民の生活も疲弊した。そこで日本軍は中国におけるような「ビルマ方面軍」を創設し、ビルマの戦力を増強した。ちなみに連合軍の中には米軍と米軍の指導による中国軍も入り、各地で日本軍への攻撃を行った。

 第15軍司令官牟田口中将は、ビルマの防衛のためにイギリス軍の拠点インパールを攻略する構想を持ち始め、1944年3月、ビルマ方面軍の反対を抑えてインパール作戦を強行した。作戦は川幅1000mの川を渡り、標高2000m級のアラカン山脈を踏破するもので最大の問題は補給だった。そして惨憺たる失敗に終わり、7月からの退却は困難を極め、将兵は豪雨の中、疲労と飢えと病に苦しみながら、泥濘に覆われた山道を退却し、その道に沿って死体が折り重なり、その様子は「白骨街道」と呼ばれた。インパール作戦は、日本軍は兵力約8万5600名のうち約3万名が戦死・餓死・戦病死し2万名が負傷、イギリス軍側の死者1万7587名、戦傷約2万5千という双方に大きな被害を与えた。その後も戦闘は続くが、1945年3月にはビルマ国民軍が日本軍に反旗を翻し、5月に入ると首都ラングーンはイギリス軍に奪還された。8月の日本の敗戦まで、ビルマ戦線での日本人の戦没者は18万名に達した。

『米英撃滅の歌』

 昭和19年 作詞:野口米次郎/作曲:山田耕筰/歌:合唱

 同名の松竹映画の封切りを前に「勝ち抜く為の大演奏会」が日比谷公会堂で開催され、その中で大東亜交響楽団がこの挿入歌を発表した。いわゆる国策映画の国策歌謡である。


濤(とう)は哮(たけ)る 撃滅の時は今だ
空母戦艦 断じて屠(はふ)れ
海が彼奴らの 墓場だ 塚だ(三行目を繰返す)

風は咆える 覆滅の時は今だ
魔翼 妖鳥 断じて堕とせ
雲が彼奴らの 経帷子だ

草は燃える 殲滅の時は今だ
鬼畜米英 断じて斃せ
山が彼奴らの 墓標だ墓石だ

時は今だ 決勝の時は今だ
興亜聖戦 断じて遂げよ
み民われらの 命が的だ

 この時期ではすでに悪あがきの歌である。「海が彼奴らの墓場だ/草は燃える殲滅の時 … /山が彼奴らの墓標だ」とあるから、これも“本土決戦”を前提としているが、この映画と歌になおも鼓舞された人たちがいたのかどうか、疑問である。彼方からやって来る「空母戦艦断じて屠れ」と威勢はいいが、逆にそれまでどのくらい日本の艦船が撃沈させられていたか、すでに南太平洋航路などは抑えられ、その結果翌年の終戦までに(終戦後も多少あるが)35万人を超える海没死者が出ている(この異様な数は他国に例がなく、しかも語られることが少ない)。陸上でも“本土決戦”とならずに米軍の各都市への連日の空爆で約50万人の死者(原爆死も含め)を出している。こうして実際に「み民われらの命」を的にして、多大な犠牲者を出した上での敗戦であった。そこから考えると、このような映画や歌を作らせて、戦争を長引かせた軍政府の罪がどれだけ重いか、問うことすら虚しい。

『お山の杉の子』(少国民歌)

 作詞:吉田テフ子(サトウハチロー補作)/作曲:佐々木すぐる

 昭和19年、少国民文化協会が行った少国民歌の懸賞募集の第一位入賞歌で、戦死した父を持つ子どもを励ます歌であった。11月下旬、米軍の激しい空襲が開始された直後の12月に発売された。


むかしむかし そのむかし
椎の木林の すぐそばに
小さなお山が あつたとさ あつたとさ
まるまる坊主の 禿山は
いつでもみんなの 笑ひもの
「これこれ杉の子起きなさい」
お日さまニコニコ 声かけた 声かけた

一二 三四 五六七
八日九日 十日経ち
ニョッキリ芽が出る 山の上 山の上
小さな杉の子 顔出して
「ハイハイ お日さま今日は」
これを眺めた 椎の木は
アッハッハのアッハッハと 大笑ひ 大笑ひ

「こんななチビ助 何になる」
びつくり仰天 杉の子は
おもはずお首を ひつこめた ひつこめた
ひつこめながらも 考へた
「何の負けるか いまにみろ」
大きくなつて 国のため
お役に立つて 見せまする 見せまする
5(4略)
大きな杉は 何になる
兵隊さんを 運ぶ船
傷痍の勇士の 寝るお家 寝るお家
本箱お机 下駄足駄
おいしいお弁当 たべる箸
鉛筆筆入 そのほかに
楽しや まだまだ 役に立つ 役に立つ

さあさ負けるな 杉の木に
勇士の遺児なら なほ強い
からだを鍛へ がんばつて がんばつて
いまに立派な 兵隊さん
忠義孝行 ひとすじに
お日さま出る国 神の国
この日本を 守りましょう 守りましょう

 子供たちすべてに、立派な兵隊になって日本の国を守りましょうと洗脳している歌である。「戦死した父を持つ子どもを励ます歌」というが、その母親はとても自分の子供に聞かせたくなかった歌ではないか。夫に続いて子供も…とは耐えがたい。しかしそのような配慮は国には微塵もない。それに、杉の木ばかり育てて、つまり均一な人間ばかりを作ってどうするつもりだろう(戦後の政策で杉の木ばかり植林して問題を残している)。椎の木だってそのどんぐりの実は、この時期の食料不足に役立った。国民に多様性がなくなれば国は滅びてしまう。この時期、滅びに向かっていたことは確かであるが。何よりも次の世に各分野で役に立つであろうたくさんの若い人間の芽を、この戦争は摘み取ってしまった。この杉の木のように大きくなるまで待つことをしなかった。その意味でもこの歌詞には酷い矛盾があるが、そんなことを考えもせずに堂々と「少国民」に歌わせていることがおぞましい。なおこの歌は戦後も軍国調の歌詞の部分を変えられて歌われた。

『僕は空へ君は海へ』(少国民歌)

 昭和19年 作詞:サトウハチロー/作曲:佐々木すぐる


仰ぎ眺めるこの空は
世界の空へ続いてる
小手を翳して見る海も
世界の海へ続いてる
行こう行こうぞ きっと行くぞ
僕は空へ君は海へ(最終二行は繰返し)

僕の兄さん飛行兵
君の父さん船長さん
船だ翼だ進軍だ
国の力だ魂だ

僕が大空翔ける時
君は海から手を振れよ
翼の歌と荒波の
歌を互いに歌おうぜ

 戦時下も戦後も活躍したサトウハチローの詩である。彼に限らず多くの作詞家が国策によりこのような青少年を鼓舞する歌を作った。しかも当時の少年たちは、こうした歌をそのまま素直に受け取って、自分が戦争で活躍する夢を持っていた。それもひとえに小学校からそういう教育を受けていたからで、中学校に上がる頃にはみんな軍国少年として出来上がっていた。既述の少年飛行学校などは応募者多数で狭き門であったが、それでも親に言えば反対するからと、親に相談しないで応募する(印鑑は自分で探して押す)子も少なくなかった。仮にも「僕の兄さん飛行兵」であれば、二人も子を失いたくない親は必ず反対する。子供にはそんな親の気持ちはわからない。それでも三人もの男の子を失い、その結果、息子たちは犬死にさせられたとブチ切れて、絶対に国を信用しなくなった母親もいた。当時子供であった人たちに対する戦後のアンケートでは、自分は戦争に行って死ぬものだと思い込んでいたのは7、8割に上る。それほどに軍国主義教育は徹底していたということである。この昭和の戦時下は、言って見れば現今の全体主義国家の北朝鮮の様子とよく似ている。

『決戦の秋は来たれり』

 昭和19年 作詞:三好達治/作曲:林 松木/歌:日本放送合唱団


皇御国(すめらみくに)の興廃は
今日の戦に懸りたり
ああこの戦勝たずんば
祖宗の国をいかにせん
起て一億 決戦の秋(とき)は来たれり

皇御国のもののふが
血潮に染めし紅の
波の音高し北海に
波の音高し南海に
起て一億 決戦の秋は来たれり

皇御国の海近く 
浮かびて驕る夷(えびす)らも
御空を共に戴かず
いざ一撃に屠るべし
起て一億 決戦の秋は来たれり

仇を屠りて宸襟を
安んじ奉れ大御業(おおみわざ)
今日の戦は一億の
肩に等しく懸かりたり
起て一億 決戦の秋は来たれり

 10月9日に発表され、NHKで放送された。すでにマーシャル諸島(既述のサイパンやグアムなど)絶対国防圏が破綻し、本土決戦を真剣に検討すべき戦況になっていた。すでにこの年の1月ごろから大本営の転進計画(長野県の松代)が秘密裏に進められ、また7月20日、参謀総長は『本土沿岸築城実施要綱』を示し、連合国軍の上陸に備え、九十九里浜や鹿島灘、八戸に陣地構築を命じた。 その後米軍はフィリピンにが侵攻、10月20日からのレイテ沖海戦で戦艦武蔵を含む日本の艦隊が壊滅する大敗を喫し、日本は海上作戦能力を事実上喪失した。これにより大本営は本格的に本土防衛計画に迫られることになったが、連合国軍が侵攻してきた場合、出来る限り抗戦して敵の出血を図りつつ、日本本土深くまで誘い込んだ上で撃退するという海軍の漸減迎撃戦略が採用された。これはしかし翌年3月からの沖縄決戦が本土決戦の代替戦のようなものとなり、多大な住民の犠牲を出して大敗した。それでも日本は降伏を考えず、「一億総玉砕」、「神州不滅」のようなスローガンを打ち出して、原爆投下を含めた大きな犠牲者を出すことになる。国全体が、大きな宗教集団のようになっていたと言っていい。

『愛国子守唄』

 昭和19年 作詞:雨宮頼保/作曲:信時潔/歌:松田トシ

 1944年1月に、日本少国民文化協会と大日本婦人会が、情報局、文部省、大政翼賛会、日本放送協会の後援を受けて、歌詞を公募し制作したものだった。

 日本少国民文化協会と大日本婦人会が、情報局、文部省、大政翼賛会、NHKの後援を受けて歌詞を公募し制作したもの。7月に神田の共立講堂で開催された「海行く少国民大会」で発表されたがレコードの発売は11月であった。


ねんねん よい子のねる国は 
神さま お産みになった国 
海からお日さまのぼる国

ねんねん よい子のねる国は 
さくらの咲く国 強い国 
みんなで忠義をつくす国

ねんねん よい子のねる国は 
富士のお山のあるお国 
千年万年つづく国

 同様のタイトルでいくつかすでに作られているが、戦時下で作られた最後の子守唄であろうか。日本は神国なので、安心して眠れ、桜と富士山のがあれば日本は強い国だからということである。ところが、この歌が発表されてから数ヵ月後には、大型爆撃機B29の大編隊による本土空襲が本格化し、大人も子供もうかうか寝ていられなくなってしまった。翌年3月10日の東京大空襲では、母親は赤ん坊をおんぶしたまま大火から逃げ惑ううち、もう安全と気がついたら背中の子供が窒息などで死んでいたという例はいくらもある。あるいは逃げ切れずに子供を抱いてうつ伏せになってわずかな穴を手で掘り、母親は焼け焦げ、子供はきれいな顔のまま死んでいたという例もある。桜も富士山も、ましてや神である天皇も母子の命を守ってはくれなかった。何のためにこのような子守唄を作って押し付け、なおも戦争を続けようとしていたのであろうか。

『比島決戦の歌』

 昭和19年 作詞:西条八十/作曲:古関裕而

 この年10月下旬にレイテ島攻防戦から始まったフィリピン攻防戦に際し、大本営陸軍部が読売新聞社に戦意高揚の歌を作るよう依頼し、作詞、作曲は名コンビに預けられ、この年の12月に出来あがった。すでにこの時期は物資欠乏で、レコード化されなかったが、ラジオでは流された。


決戦かがやく亜細亜の曙 
命惜しまぬ若桜
いま咲き競うフィリッピン
いざ来いニミッツ マッカーサー
出てくりゃ地獄へ逆落とし(最終二行は繰返し)

陸には猛虎の山下将軍 
海に鉄血大川内
見よ頼もしの必殺陣

正義の雷 世界を撼わせ
特攻隊の往くところ
我等一億 共に往く

御稜威に栄ゆる同胞十億
興亡岐つこの一戦
ああ血煙のフィリッピン

 「いざ来いニミッツ、マッカーサー」とは、当時のアメリカ軍の指揮官が、マッカーサー(陸軍総司令)とニミッツ(海軍総司令)の両将軍だった関係でその名前が入っているが、西条の歌詞にしては「地獄へ逆落とし」など雑な感じを受ける。実は陸軍報道部の中佐がこのように書き直すように命じたからという。しかも「いざ来いニミッツ・マッカーサー、出てくりゃ地獄へさか落し」と記した大きな長い垂れ幕が、東京の丸ビルや有楽町駅の近くのビルの屋上や屋根に出された。それにしても軍の報道部か宣伝部の言葉へのセンスのなさは際立っているが、これが学校の軍事教練でも竹槍を持って米兵を突き刺す仮装訓練にも使われたという。そしてこの戦意高揚作戦にも関わらず、日本海軍はこのレイテ沖海戦で敗れ、連合艦隊の主力を失った。また特攻隊はこのフィリピン戦から始めれれたが、早くもこの歌の中(3番)に取り入れられている。

 1番の「若桜いま咲き競ふ」とは、若き血がフィリピンの地で飛び散り競うということであろうか、きれいな言葉の中におぞましい表現がなされている。また4番に「同胞十億」とあるが、これは日本軍の中国や東南アジアへの侵攻地域を含めての数であって、それをすでに「同胞」と手前勝手に括ってしまうとは、この聖戦と名付けられた戦争の本質を表しているのではないか。なおラジオでの放送は、すでに兵士を鼓舞する猶予もない戦況の悪化で、一週間で打ち切られたという。

 当時フィリピンに展開していた総兵力は陸海軍合わせて約40万人、その後の追加戦力を合わせて53万人、しかもフィリピン戦は島々に散った日本軍は補給が断たれ、多くの餓死者を出した。日本軍全体の戦死者のうち6割が餓死というから、どれだけ無謀な計画のもとで将兵たちは戦わされたかがわかるだろう(敗戦後にも終戦が知らされず、密林に立てこもって死んだ兵士も多い)。結果的に戦死・戦病死は約43万人にのぼり、米軍の戦死者は約2万3300人、フィリピン連邦軍は多数)、さらに在留民間人の死傷者は数知れずという甚大な損害を出した。特に20年2月のマニラ市街戦では、総指揮の陸軍がマニラの放棄と無防備都市宣言を決めていたにもかかわらず、海軍がマニラ海軍防衛隊約1万4千人を編成して立て籠もり、米軍との激烈な市街戦の後にほぼ全滅。市街地の大半は廃墟と化し、巻き添えでマニラ市民70万人のうち約10万人が死亡したと言われる。しかも戦闘はその敗戦間際まで続き、フィリピン全体の軍民の死者総数は、フィリピン側の発表では100万人は軽く超えるとしている。

 ちなみに、平成28年(2016)、平成天皇・皇后は国交正常化60年に当たってフィリピンを公式訪問し、両陛下の強い意向で、太平洋戦争の激戦地だった同国で日比両国の戦没者慰霊も旅の日程に盛り込まれ、慰霊をされた。

 下記特攻隊の歌はこのフィリピン戦に即して作られた歌である。

『嗚呼神風特別攻撃隊』

 昭和19年 作詞:野村俊夫/作曲:古関裕而/歌:春日八郎

 上記レイテ沖海戦以降の神風特別攻撃隊の攻撃戦果を称えるために作られた軍歌。

 この年の10月、米軍が日本軍の占領するフィリピン・レイテ島への進攻を開始した頃、残りわずかな航空戦力で米艦隊を攻撃するには、体当たりでいくしかないという無謀な作戦が立てられ、学徒出陣による若者たちを中心に「神風攻撃隊」が結成された。その頃、読売新聞社は国民の士気を鼓舞するため、新作戦時歌謡を企画し、作詞の野村と作曲の古関がその求めに応じ、この歌を制作した。そして10月25日の神風特別攻撃隊による「大戦果報道」を受け、11月にラジオ報道歌謡として全国に流された。


無念の歯噛み堪えつつ 
待ちに待ちたる決戦ぞ 
今こそ敵を屠らんと 
奮い立ちたる若桜

この一戦に勝たざれば 
祖国の行く手いかならん 
撃滅せよの命受けし 
神風特別攻撃隊

送るも行くも今生の 
別れと知れど微笑みて 
爆音高く基地を蹴る 
ああ神鷲の肉弾行

大義の血潮雲染めて 
必死必中体当り 
敵艦などて逃すべき 
見よや不滅の大戦果

凱歌は高く轟けど 
今は帰らぬますらおよ 
千尋の海に沈みつつ 
なおも皇国の護り神

熱涙伝う顔上げて
勲を偲ぶ国の民 
永久に忘れじその名こそ 
神風特別攻撃隊

 神風特攻隊の目標は米海軍の艦隊、特に空母であり、初出撃は10月21日だったが、天候が悪く未達(予備学生の一機未帰還)、23日も敵艦隊と遭遇できず一機未帰還、25日早朝からのレイテ沖への出撃で特攻隊は二隻の護衛空母と三隻の駆逐艦を撃沈させ、その他の護衛空母等にも損傷を与え、米軍の戦死1500名、負傷1200名、艦載機128機を喪失するという大損害を与えた。その後も特攻隊での攻撃は続けられ、米軍はの空母部隊の大きな損害により、11月11日に計画していた艦載機による初の大規模な東京空襲は中止に追い込まれたという(しかしこの11/24から、米軍が攻め落としたサイパンを基地としてB29の大編隊が日本に向かい空爆を開始、それが原爆を含めて8/15の敗戦まで続けられた)。この時の米軍の司令官の一人は「いかに勇敢なアメリカ軍兵士と言えども、少なくとも生き残るチャンスがない任務を決して引き受けはしない」「切腹の文化があるというものの、この様な部隊を編成するために十分な隊員を集め得るとは、我々には信じられなかった」と衝撃を持って語っている。翌年1月6日までのフィリピン戦で、日本軍は陸海軍の航空隊合わせて特攻機543機を投入し、671名の搭乗員を失ったのに対して、アメリカ軍は、特攻により22隻の艦艇が沈没、110隻が損傷、戦死者は約4300人に上った。この戦果は通常の戦闘機の攻撃から比べると多大であった。しかし何よりも日本軍には戦闘機が不足していたから、その理由で一旦作戦は終え、あとはフィリピン各島での地上戦となり、惨劇が続いた。

 その後、台湾沖や九州沖で特攻機が多少の米軍艦船を攻撃したのち、2月19日にアメリカ軍が硫黄島に上陸した。これに対しても特攻作戦が行われた。この結果、護衛空母一隻を撃沈、二隻の空母を大破もしくは損傷を与えて一応の「戦果」を挙げた。しかし洋上の長距離飛行(台湾からの出撃が多かった)を要する硫黄島への特攻は負担が大きく、再び実行されることはなかった。結果的に硫黄島の戦いでは玉砕で3月26日までに約1万8400人が戦死、その間の3月10日の東京大空襲では、死者・行方不明者が約10万人となった。

 その3月に並行して米国連合軍の沖縄攻略も遠くない状況になったとみていた海軍軍令部は、全海軍航空部隊の特攻化を企図、3月25日、アメリカ軍が沖縄の慶良間諸島に上陸を開始したとの情報が入ると、日本の連合艦隊は連合軍を沖縄で迎え撃つ作戦に出て、順次航空戦力増強を図った。すでに零戦などの戦闘機が不足していた状況の中で、それまで国内各地で使っていた練習機(赤トンボという)や水上偵察機、旧式の複葉機なども出動させた。そして4月1日の時点で300機、その後陸軍も合わせて19日までに合計2895機もの大量の戦闘機が九州の各基地に進出した。この中に有名な知覧の陸軍特攻基地と鹿屋の海軍の特攻基地がある。ちなみに練習機は木製が多く、実際に金属不足で、国内で学徒勤労隊が工場で木製のプロペラを作っていたとの証言は多くある。ところが木製は米軍のレーダーに映りづらく、逆に特攻攻撃には効果的な側面があった。

 まず、4月1日に35機、2日44機、3日74機と特攻の出撃機数を増やし、連合軍はイギリス軍の空母も含めて護衛空母や輸送駆逐艦、 巡洋艦など28隻が大破、損傷して戦線離脱、合計約1000名の死傷者を出すなど大きな損害があった。特攻に苦しめられたアメリカ軍はその対策として、B29大型爆撃機を一時的に九州の特攻基地攻撃の戦術爆撃に転用したが、1万mの上空から特攻基地を爆撃するには不向きで、大きな打撃を加えることはできなかった。いずれにしろ本土決戦の代行とも言える沖縄の地上戦は苛烈を極め、5月中旬には敗戦が濃厚になり、そこで司令部は次の本土決戦に向けた準備として、特攻機を温存する作戦に転換した。沖縄戦は敵味方20万人の犠牲者を出し(その半数の約10万人は住民)6月23日に陥落した。

 日本軍は沖縄戦の3ヶ月間で特攻機1895機(当然ながらこのうち大半が事前に撃墜されている)、通常作戦機1112機を失い、アメリカ海軍の損害は艦船沈没36隻、損傷368隻、艦上での戦死者は4907名、負傷者4824名と大きなものとなり、その大部分は特攻による損害で、アメリカ海軍史上単一の作戦で受けた損害としては最悪のものとなっている。

 特攻作戦の有効率はフィリピン戦で26.8%、米軍の警戒が強まった沖縄戦では14.7%、平均で18.6%であった。フィリピン戦から沖縄戦までの特攻隊員の戦死者は海軍2632人、陸軍1983人の計4615人に上るとされる。連合軍の被害は調査方法によって違いはあるが、戦死者は7000−8000人、艦船の撃沈57隻、大破で戦力を失ったもの108隻とされる。

 なお特攻隊は零戦などの戦闘機ばかりでなく、人間魚雷回天および震洋(陸軍ではマルレ艇)と言われるボート型特攻艇などがあり、回天特攻の戦果は撃沈3隻、損傷6隻、震洋の戦果は撃沈7隻、損傷19隻で、こちらのほうの有効率はずっと低かった。

 この歌のように「必死必中体当り」とまでは行かず、「なおも皇国の護り神」になる前に肝心の飛行機も欠乏し(だから待機しながら、出撃しないで済んだ特攻隊員も少なからずいた)、敵艦船の手前で撃墜された場合も多く、中途半端に終わった。結局敗戦となり、若者たちは虚しく命を散らして行った(これは「散華」という美しげな言葉が使われる)ことになる。そして日本は許しがたい最大の敵であった米国を主とする連合軍に占領され、その米国の指導で民主国家となり、その後占領が解かれて(代わりに沖縄他の米軍基地が残った)、日本は何事もなかったように経済的復興を遂げる。この復興自体は、日本人の生真面目に努力する性格によるものであって、よく言われるように特攻隊などの犠牲者のおかげではない。それをいうなら、敵国であった米国の、占領後の宥和政策のおかげであって、仮に敗戦間際に突然不可侵条約を破棄して満州に攻め込んできたソ連(ロシア)のような国に占領されていたら、日本は戦後も(東欧諸国のように)暗黒の時代が続いていたであろう。犠牲者はどこまでも犠牲者であって、特攻隊員が日本の愚鈍な軍政府によって無駄に命を奪われたことに間違いはない。

日本国内の出来事・様相(昭和19年:1944)

 この年、「神州(天皇の在する国)不滅」/「最後には神風が吹いて日本は必ず勝つ」などのスローガンが流され、小中学生たちはそのまま信じた。他に「鬼畜米英をうて」/「本土決戦」/「一億玉砕」のような言葉もあり、政府は国民への覚悟を迫った。「アメリカ人をぶち殺せ!」と婦人雑誌にも載った。

 1月:第一次建物疎開(空襲に備えて延焼を防ぐための措置)が決まり、指定密集地の住宅の強制取壊しが始まる。

 同月11日:直接税大増税案(税率50%引き上げ)を閣議で決定。2月16日、物品税も増税。

 2月:「決戦非常措置要綱」決定。空襲対策、学徒勤労動員の強化、旅行の制限、高級娯楽の停止(待合、カフェー、遊郭、劇場などの休業)、官庁の休日削減などが実施された。

 2月:首相の東条英機は、陸軍大臣、参謀総長の三職を兼任した。これには反発もあったが、前首相の近衛文麿は「せっかく東条がヒットラーと共に世界の憎まれ者になっているのだから、彼に全責任を負わしめる方がよいと思う」と語ったという。この前首相の思考方自体が、国民を戦争に巻き込んだ責任というものをまったく感じていないということを表している。またこれが日本の集団指導体制の無責任さでもある。

 2月23日:毎日新聞が「勝利か滅亡か、戦局はここまで来た」とし、「竹槍では間に合わぬ。飛行機だ、海洋航空機だ」と東条首相の政策を真っ向から批判した。これに東条は激怒し、記事を書いた記者は懲罰として戦地に徴兵された。

 2月25日:文部省は食糧増産に学徒500万人の動員を決定。

 2月29日:高級劇場(歌舞伎座、東劇、京都南座など)が閉鎖される。個人演奏会も禁止。

 2月:東京都、ビアホール・百貨店・喫茶店などで雑炊食堂を開設、大人気となる。

 3月3日:国民学校(小学校)で食糧増産のため運動場を畑として使用。栄養状態の悪い児童に学校給食。

 3月6日:紙不足もあって新聞各社、夕刊を廃止する。

 3月:日本海軍の軍令部は、戦局の挽回を図る「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定、これにより神風特別攻撃隊、人間魚雷「回天」、人間爆弾「桜花」、特攻艇「震洋」が計画され、のちに実行される。

 3月:松竹少女歌劇団を解散し、「松竹芸能本部女子挺身隊」に改められ、内外の軍隊への慰問興行に回ることになった。

 同月:宝塚大劇場と東京宝塚劇場閉鎖命令、それに伴い「宝塚音楽舞踊学校女子挺身隊」、翌月 「宝塚歌劇団勤労報国隊」を結成。

 3月29日:中学生勤労動員大綱決定。

 4月:海軍予科練甲種の受験資格を15歳に下げるが、続けて14歳に下げる。

 4月:旅行が制限され、許可制となる。

 4月:日本統治の台湾において学徒動員実施要綱を発表

 4月22日:日本軍は中国在住の日本人2万人の徴兵を決定。

 5月:文部省、学校工場化実施要綱を発表、これにより女学校の下級生も学校内で勤労動員されることになる。

 5月:日本統治の朝鮮で徴兵制を実施、朝鮮人の徴兵検査開始。翌年まで徴兵制で動員された朝鮮人は21万人となった。

 6月:政府は学童疎開促進要綱を発し、8月から学童の地方への集団疎開を推進する。

 6月10日:大日本言論報告会は言論人総決起大会を開催し、ヒットラーに激励電報を送った。

 6月11日:米軍大型爆撃機B29が初めて日本本土(九州八幡)を爆撃。これは中国の成都から出撃したもので死傷者数百名を出した。

 7月:サイパンの守備隊が玉砕した責任をとって東条英機内閣が総辞職。

 7月11日:これまで対象外であった国民学校高等科、中等学校低学年も学徒勤労動員の対象に決定。

 7月20日:参謀総長は『本土沿岸築城実施要綱』を示し、連合国軍の上陸に備え、九十九里浜や鹿島灘、八戸に陣地構築を命じた。

 8月22日:沖縄からの学童疎開船「対馬丸」が米潜水艦により雷撃沈没、学童の犠牲者1484名。

 8月23日:「学徒勤労令」公布・施行、この時期から学生・生徒の勤労動員が常態化し、「勤労即教育」という戦争に都合の良いスローガンが打ち出された。特に上級生の授業はなくなると同時に女子挺身勤労令(14才から40才までの就業していない女性を工場などに強制動員)公布・施行。この結果、敗戦時での動員学徒数は340万人を超えたといわれ、学徒動員による空襲等による死亡者は1万966人、傷病者は9789人にも及んだ。

 9月:朝鮮において日本への労働力動員のため国民徴用令を適用、これは翌年8月の終戦までの11ヶ月間続けられるが、実際には3月に下関−釜山間の連絡船の運航が困難になるまでの7ヵ月間であった。いわゆる「朝鮮人強制連行」は主としてこの徴用令に基づく内地等への労働力移入を指す。考え方としては国内の学生や女学生の勤労動員も「強制労働」の一つであり、しかしどちらにも賃金は支払われているが、中には敗戦の混乱で放置されたケースもあり、いまだに問題となっている。

 10月:海軍第一航空艦隊の志願者24人が神風特別攻撃隊として編成される。国内では兵役法が改定され、さらに徴兵年齢が下げられ、19歳以上の大学生は戦地へ駆り出され、その多くが特攻隊としてフィリピンや沖縄などの激戦地に送られる。また同時に一般の徴兵年齢もさらに下げられて17歳から、上は45歳までとされた。

 11月3日:鹿島灘より和紙で作った直径10mの巨大な風船に15キロ爆弾1個と焼夷弾2個を吊して、ジェット気流にまかせてアメリカ本土を爆撃する作戦を展開。これを風船爆弾というが、この製造は主に女学校の生徒の勤労動員などにより作られた。そのいくつかは米国の西側に落下し、負傷者も出た。これにペスト菌やコレラ菌を乗せてばら撒こうという計画もあったという。

 11月24日:米軍は占領したマリアナ基地から111機のB29で、初の東京空襲を行う。

 12月7日:東南海大地震が生じ、最大震度6という揺れと津波によって三重県、愛知県、静岡県を中心に死亡・不明は1223名、負傷者2864人、全半壊家屋5万6千戸、堤防決壊155個所、津波による流失3千戸にのぼったが、軍政府は厳重な報道管制を敷き全く公表しなかった。

童謡・流行歌(昭和19年:1944)

 この年になると童謡も含め「歌謡曲」的な歌は全滅といってよく、大半が戦時歌謡、軍国歌謡と言われるものになっていく。しかもレコードは、次第に材料不足となって、販売を制限されてきた。

童謡・唱歌

 取り上げるものはない。
『お山の杉の子』→軍歌の項参照

歌謡・戦時歌謡

『月夜船』 作詩:藤浦洸/作曲:古賀政男/歌:波平暁男

—— 「お—いそこゆく のぼり船 今夜は月夜だ どこゆきだえー 船底いっぱい 荷をつんで 釜石行きだよ 追い風だよ」

 この年では戦時色のない希少な歌となっている。そのために戦後にもリメイク盤が発売された。

『惜別のうた』 作詞:島崎藤村/作曲:藤江英輔

—— 「遠き別れに耐えかねて この高殿(たかどの)にのぼるかな 悲しむなかれわが友よ 旅の衣(ころも)をととのえよ / 別れといえば昔より この人の世の常なるを 流るる水を眺むれば 夢はずかしき涙かな / 君がさやけき目の色も 君くれないのくちびるも 君がみどりの黒髪も またいつか見んこの別れ」

 作曲者は前年の学徒動員令で軍需工場造兵廠で軍需品の生産に従事していた中央大学生であり、その中の学友に召集令状が来て、一人二人と抜けていき、そんなある時、同じ勤労動員中の女学生に島崎藤村の若菜集にある「高楼」を見せられて、もとは嫁に行く姉に妹が別れを告げるものだったが、それを再び会えるかどうかわからない戦地に赴く学友を送る歌として、音楽の素養のあった藤江自身が曲をつけ、藤江が「わが友よ」と言葉を変え、自分で歌っているうちに次第に周囲に広まり、戦後も大学の中や外のサークルなどで歌い継がれ、それがレコード会社も目にとまり、俳優の小林旭に歌わせて全国に広まり定着した。藤江の母校中央大学でも卒業式で歌われているという。

『ラバウル小唄』 作詞:若杉雄三郎/作曲:島口駒夫

 この歌は、昭和15年(1940)に発売された『南洋航路』が元の歌である。その歌詞に日本海軍の拠点であったラバウルの地名が入っていたこともあり、南方から撤退する兵士たちによって、その地域ごとに土地の名前を入れ替えた歌詞で好んで歌われた。敗戦による復員後に広められ、戦後の1954年に『さらばラバウル』の映画が公開された。

—— 「さらばラバウルよ 又来るまでは しばし別れの 涙がにじむ 恋しなつかし あの島見れば 椰子の葉かげに 十字星 / 船は出てゆく 港の沖へ 愛しあの娘の うちふるハンカチ 声をしのんで 心で泣いて 両手合わせて ありがとう」

 この歌は軍隊の悲壮感も何もないが、ラバウルは海軍の基地として太平洋戦争中に長い駐屯生活があり、連合軍は作戦上攻撃せず、他の玉砕した島々とは様子が違う。

『ジャワのあけくれ』(作詞 横山隆一/作曲 古賀政男/歌:二葉あき子)

—— 「南十字の星影消えて 椰子の梢に日の丸掲げ 仰ぐ銀翼ジャワ娘 / 嫁入り支度の 更紗を染めて ジョクジャの可愛い耳輪 首を傾げりゃ鳥の声」

 これに限らず占領地では、このように現地の娘のことを多く取り上げるが、それも無条件に親日本の姿で歌われている。どうにも男の自分本位の目であって、配慮に欠ける心が見えてくる。これを歌わされた女性歌手は、どのような思いで歌っていたのだろうか。

 この他にも『たそがれのマニラ』など、前年ほどではないが(すでに各地の日本軍には余裕がなくなっている)、ご当地ソングはいくつか出されている。

『夜来香』 作詞(原詞)作曲:黎錦光

 もとは中国の歌謡曲で、この1944年、満洲映画協会のスターであった李香蘭(山口淑子)の歌唱により上海で発売された。李香蘭の名とともに満州国や日本などにもこの歌は広がった。李香蘭は日本に帰国後、山口淑子として、佐伯孝夫による訳詞による日本語を1950年(昭和25年)に発表、1951年、これを主題歌にした同名映画が公開された。その後テレサ・テン(鄧麗君)もカバーし、中国や台湾で親しまれている。

—— 「あわれ春風に嘆くうぐいすよ 月にせつなくも匂う夜来香(イエライシィアン) この香りよ/長き夜の泪 唄ううぐいすよ 恋の夢消えて 残る夜来香 この夜来香」
反戦歌謡

 長引く戦争に疲弊した人々の中で、表に出ないところで反戦的な歌が歌われていた。作詞者等はほとんど不明で、別な歌からの替え歌である。

『反戦数え歌』

一つとせ 
人もいやがる戦争に
天皇の命(めい)だと名を附けて
赤紙一枚で引き出せるー
二つとせ 
ふた夜さまをあとにして
可愛スーちゃんと泣き別れ
三年、三年、又一年
三つとせ 
皆さん勲章が何になる
人を殺すが功(てがら)だと
何の自分が犬死だ!
四つとせ 
夜は寝もせず歩哨に立てば
思わず浮ぶ父母の顔
すぐさま帰れと呼んでいる!
五つとせ 
何時までたってもこの戦
ますますわけはわからない
平和なんぞは更に来ぬ!
六つとせ 
無理を言うなよ隊長さん
お前はすぐさま凱旋だ
やたらに殺されてなるものか!
七つとせ 
何にも知らない兵隊さん
欺瞞宣伝にのせられて
XX近衛の腹こやす!
八つとせ 
休む暇なく戦争して 
たった八円八十銭
ピー買するにも足りません!
九つとせ 
此処で命を捨てたなら
妻子は他人の手にかかる
早く帰ろうよ 嬶(かあ)のため
十とせ 
友よ目覚めよ此の戦
軍部・資産家はおらの敵
ともに手を取り打倒せ!

 「天皇の命だと名を附けて」、「人を殺すが功だと、何の自分が犬死だ!」、「思わず浮ぶ父母の顔、すぐさま帰れと呼んでいる!」、「ますますわけはわからない、平和なんぞは更に来ぬ!」等々、これほどストレートに心に響く文句はこの時代他になかったのではないか。

『可愛いスーちやん』(作詞作曲者不詳)


お国のためとは言いながら
人の嫌がる軍隊に
召されて行く身のあわれさよ
可愛いあの娘(スーちゃん)と泣き別れ

これから勤める三年間
朝は早よから起されて
寝るも起きるも皆ラッパ
泣き泣き送る日の長さ

日は早落ちて月が出る
二年兵のはいた泥靴を
月の光にてらされて
磨く此の身のあわれさよ

海山遠く離れては
面会などは更になし
ついた手紙のうれしさよ
かわいいあの娘(スーちゃん)の筆のあと

 この歌は多少違うフレーズもあるが、この時代、特高警察なるものがあって、反戦・反軍国・反皇国的な動きが市民の中にあれば、即座に取り締まる権限を持っていて、とりわけ共産主義あるいは自由主義的活動には厳しく、それによって拘留され、極端な場合、拷問によって獄中死する例もあった(それでも警察は何の責任も持たない。そもそも疑われる者が悪いのであり、その傾向は今の時代にもあるが、それが権力というものの性質である)。それは書籍や音楽に対しても同様であったが、仮に元歌は発禁できたとしても、人々の口移しによる替え歌などの反軍歌謡に関しては、形として残らないので特高警察は手を焼いたようであり、「特高月報」などにこの歌などが載せられ、「自棄的替え歌流行しあるにより、それぞれ措置取り締まり中なり」とある。

『ダンチョネ節』


沖の鴎と飛行機乗りは 
どこで散るやらネ 果てるやらダンチョネ

俺が死ぬ時ハンカチ振って 
友よ彼女よネ さようならダンチョネ

弾丸は飛び来るマストは折れる 
ここが命のネ 捨てどころダンチョネ

俺が死んだら三途の川で 
鬼を集めてネ 相撲とるダンチョネ

飛行機乗りには娘はやれぬ 
やれぬ娘がネ 行きたがるダンチョネ

飛行機乗りには嫁には行けぬ 
今日の花嫁ネ 明日の後家ダンチョネ
(以下略)

 この歌は大正時代から昭和にかけて、俗謡として酒席で流行し歌われた。各節の最後に入る「ダンチョネ」は、語源に諸説あるが「断腸の思い」からきているとも言われる。元は船乗りの悲哀を歌っており、その節を使って色々な替え歌が作られた。東京高等商船学校の学生によって愛誦された学生歌でもあったが、これは軍隊で飛行機乗りの悲哀を歌詞にしているが、下のカット部分は船乗りの歌になっている、前年から米軍との決戦に備え、陸海軍の飛行隊学校が大募集され、増員されていた。

『ズンドコ節』(海軍小唄)

 昭和19年 作者は福岡の当時22歳のM・Kという学生で氏名不詳。


汽車の窓から 手をにぎり
送ってくれた 人よりも
ホームの陰で 泣いていた
可愛いあの娘(こ)が 忘られぬ
トコ ズンドコ ズンドコ

花は桜木 人は武士
語ってくれた 人よりも
港のすみで 泣いていた
可愛いあの娘が 目に浮かぶ
トコ ズンドコ ズンドコ

 戦地で水兵などに広まり歌われて、「海軍小唄」と呼ばれるようになったが、陸軍兵士の愛唱歌にもなった。 戦意高揚のための軍歌とは異なり、一般兵士たちが、つらい軍隊生活のなかで気を紛らすためにしばしば歌われた。曲もリズミカルで、戦後も何度もリメークされ、中でも「ドリフのズンドコ節」が最も有名で公称150万枚を売り上げた。

 次の歌も同様な歌である。

『軍隊小唄』(陸海空軍小唄)

 昭和19年 作詞:不詳(補作:下条ひでと/作曲:倉若晴生

 昭和14年に流行った『ほんとにほんとに御苦労ね』の替え歌として、太平洋戦争あたりから次第に軍隊の中で流行って行った。


いやじゃありませんか 軍隊は
カネのお椀に 竹のはし
仏さまでも あるまいに
一ぜん飯とは なさけなや

腰の軍刀に すがりつき
連れてゆきゃんせ どこまでも
連れてゆくのは やすけれど
女は乗せない 戦闘機

女乗せない 戦闘機
みどりの黒髪 裁ち切って
男姿に 身をやつし
ついて行きます どこまでも

七つボタンを 脱ぎ捨てて
いきなマフラー 特攻服
飛行機枕に 見る夢は
可愛いスーチャンのなきぼくろ

 陸・海・空軍それぞれのバージョンの替え歌が作られ、この上記は航空隊のもので代表している。一番は各軍共通で、「女は乗せない戦闘機」の部分は、陸軍:「女は乗せない戦車隊」、海軍:「女は乗せない輸送船」となる。しかし部隊によっても様々な替え歌が作られて歌われていた。もちろん上官の前で歌えるものではなく、上記の「海軍小唄」と同様、普段の厳しい軍隊生活の合間に好んで歌われた。終わりが見えず、すでに疲弊した軍隊の中でこの種の歌が流行るのは必然であった。なお、『ズンドコ節』と同様に、戦後、ザ・ドリフターズが取り上げて流行った。

『夕焼け小焼け』

 大正時代に発表され、戦後も子供たちに愛唱され続けた代表的な童謡であるが、昭和19年の夏から都市部の小学生を空襲から守るため田舎に集団疎開させる政策が打ち出され、疎開先の子供たちの間で広まった替え歌だという。

夕焼け小焼けで日が暮れない
—— 都市は連日連夜の空襲で上空はまっ赤に染まっていた

山のお寺の鐘鳴らない
—— 国中の寺の鐘は武器・砲弾の材料として供出させられた

お手々つないでみな帰れない(or 戦争なかなか終わらない)
—— 親兄弟のいる都会の自分のうちに帰りたくても帰れない

烏も一緒に帰れない
—— 食糧難で烏も捕獲して食べた(スズメは時折食べられていたが、カラスまで食べたということだろう)

『僕は軍人』 作詞 水谷まさる

 明治37年(1905)の『日本海軍』(作詞:大和田建樹/作曲:小山作之助)の替え歌で、1937年ごろに水谷まさるの作詞で全く違う内容の次の歌が作られていた。

——「僕は軍人大好きよ いまに大きくなったらば 勲章つけて剣さげて お馬にのってはいどうどう 」

これに対して

——「僕は軍人大きらい 今に小さくなったなら おっかさんに抱かれて オッパイ飲んで 一銭もらって 飴買いに(or お膝でスヤス ヤねんねする)」

 この頃の子供が特に反戦を意識して歌ったものではなく、言葉遊び的に作られ、流行ったものという。

『歩兵の本領』(1901年、作詞:加藤明勝)の替え歌

 元歌は「万朶の桜か襟の色 花は吉野にあらし吹く 大和男子と生れては 散兵線の花と散れ」である。それが以下の二つになる。

—— 「大東亜戦争が勝ったなら 電信柱に花が咲く ネズミが猫を追いかける 焼いた魚が踊りだす」
—— 「もし日本が負けたなら 電信柱に花が咲き 焼いた魚が泳ぎ出し 絵にかいただるまさんが踊りだす」

 「勝ったなら」も「負けたなら」も相対的に皮肉が込められている。つまり子供たちは戦況が不利な中、「日本が戦争に負けることはない。最後には神風が吹いて必ず勝つ」と教え込まれていた。この歌も子供たちが疎開先で意味も分からず、みんなでよく歌っていたという。そのうちに先生からこ の歌は絶対に歌ってはいけないと厳しく言われるが、その理由が分らず、ただ淋しい思いをしたという。
(下の二点は立命館大学:鵜野祐介教授の論考より転用)

昭和20年(1945年)

軍事的背景

日中戦争
【守勢となる日本軍】

 この時期は一般的に太平洋戦争についてしか語られることはないが、日中戦争は8年目に入っていて、日本軍はいまだに出口が見えない中で侵攻・占領作戦を続けていた。この年の日本軍の空陸による攻撃は、陝西省安康市、江西省遂川・贛州・新城、広東省韶関、安徽省宣城市、広東省南雄、福建省泉州・建甌、河南省南陽市社旗、広西省柳州などであり、中でも福建省建甌は1937年8月末この年の3月末までに日本軍機は176回爆撃し、のべ761機を出撃させ、869人の死傷者を出したとあるが、この被害は一つの都市では普通である。

 日本軍はこれまで難攻不落の首都重慶への爆撃は繰り返しおこなってきたが、実際に攻略を目指すとして西正面進行作戦を計画、その前段階として湖南省芷江攻略を考え、まず中米連合軍の飛行場基地のある湖北省老河口や芷江などの制圧を企図し、まず老河口への爆撃を繰り返し3月末に攻略した。4月から芷江作戦を開始し、序盤は順調に進撃できたものの、中国側の激しい反撃が始まり、アメリカ軍機による支援爆撃などもあり、4月25日頃には前進困難となった。兵站線も空襲で寸断され、独立歩兵大隊も5月10日頃までに分断包囲されて全滅し、大隊長も戦死した。ここで作戦は中止、病死者も続出し日本軍は撤退を開始するが、かろうじて脱出に成功し、6月上旬までには出撃地点へと帰還した。この3ヶ月の作戦期間中の日本軍の損害は、戦死695人・戦病死2184人、戦傷1181人・戦病2万2456人、戦死傷病の合計約2万8000人であった。相変わらず日本軍は無理な作戦による戦病死者が多いのは兵士の命を捨て駒にしか考えていない証拠であろう。日本軍はこれ以降、中国戦線で大きな攻勢を行うことはなくなった。

 次に日本軍は米軍が中国沿岸から上陸の可能性もあるとし、中国南部(雲南、広西、広東、福建省など)の戦線を縮小、撤退し、上海、南京、杭州の三角地帯に兵力を集中させようとした。5月28日、大本営は湘桂・粤漢鉄路沿線の占領地域から撤収を支那派遣軍に下令。しかし米軍の強まる攻撃で鉄道や揚子江の船舶輸送も途絶され、地上部隊は自分たちが破壊し占領後修復した粤漢鉄道なども使えず(侵攻当初は日本軍は鉄道の多くを破壊し、その後自軍が占領するとそれを修復、しかしそれを米軍が空爆で破壊するという無駄の繰り返し)移動は極度に制約されて、困難な状態に置かれた。こうして、日本軍が1941年より南方作戦によって奮戦し、多大な犠牲(つまり中国民も含めて)を出しながら手に入れたはずの中南部地方を実質上ほぼ手放すことになった。

【日本軍の終わらない蛮行】

 この戦争の最終年度も、中国各地に駐留しつつ占領地を広げようとする日本軍は、近隣の町や村に攻撃を仕掛け、蛮行を繰り返していた。何よりも日本軍は糧食は現地調達以外になく、そのほとんどは近隣より奪ってくるもの(徴発という名の掠奪)で、それは太平洋戦争として東南アジアや島々に放置されて一応戦闘している日本軍も同じ状況に置かれていたが、島々の密林などには町や村というものがほぼなく、この頃は餓死の危険と隣り合わせで(ただし一部では島民から強制的に食料を奪って島民を餓死者させた例もある)、それに対して中国の広い国土にはあちこちに町や村があり、必要に応じて襲撃して食料や物品を奪うことが常態化していた。しかもそれだけではなく、襲撃した村々にその後火をつけ、反抗する者は容赦なく殺し、特に女性に暴行を加えたし、そのまま殺すことも頻発した。占領側にとっては現地は何をしても罰せられることがない無法地帯であった。以下はその中の少しばかりの例である。

 1945年1月11日、日本軍第27師団は株洲市茶陵県の占領を経て22日に江西省吉安市永新を占領、3月初めに県境を離れるまでの41日間、33の郷鎮で日本軍は353人を殺害、54人が捕虜とされ、540人が行方不明、小学校も含めた家屋392棟が放火され焼失した。2月5日、日本軍は江西省贛州市贛県県城を占領、直ちに警備司令部を設立し「統治」し、住民に税金や食糧を納めさせ、賭博場、売春宿を開かせた。7月、撤退するときに市内に放火し多くの店舗と家屋が焼失、死亡181人、行方不明98人、負傷623人、姦淫した女性千人、多数の家畜と大量の財物を破壊した。そのほか4月から5月にかけて湖南省宝慶(現・邵陽)の駐留部隊約3千人が新化県から洋渓に侵入、この地区で焼殺略奪を繰り返し、3461人が犠牲となった。6月、この頃より南方戦線からの撤退が始まり、その過程で25日、日本軍千余人は浙江省臨海城を襲い、県城を5日間占領し、その間に暴行は30の郷・鎮と100余の村を越え、被害は2万余戸に達した。また湘桂路、広東漢路から南昌に向って撤退した日本軍は、7月14日から2つのルートに分かれて宜春を通過した。その際、行く先々で人を捕らえて殺し、大量の家畜を屠殺し、姦淫、略奪、放火を繰り返した。8月3日、日本軍は江西省新幹に侵入、街で店舗など100軒余りを燃やして、女性に乱暴狼藉を繰り返し、8月4日、日本軍は峡江から3ルートに分けて江西省新余県城と羅坊などに侵入し、7日7晩行く先々で、放火し店舗320数軒、民家2700軒を焼失させ女性に乱暴した。この8月に江西省にいるということは撤退作戦がうまく行っていないということで、この8月15日に日本の敗戦が決まった。それでも日本の敗戦を信じない(日本は中国では負けていないとする)将校たちもいて、8月23日、日本軍数百人は江西省南昌市の百福、小洞、小竹、辛田、舒家一帯で避難民28人を捕らえ、すべて銃剣で殺した事件があった。(以上は中国の『日軍侵華暴行実録』などより)

【ソ連軍の侵攻】

 太平洋戦争における日本の敗勢が濃くなり、広島に原爆が落とされた二日後の8月8日、ソ連は日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦を布告、翌9日未明に国境で接する日本の植民地満洲国、朝鮮半島などに侵攻を開始した。満洲は満州事変より日本の政策により累計で27万人が移住していたが、戦局の悪化により、7月からは開拓団からも召集され、約4万7000人が召集されていた。8月10−11日に満州の興安が爆撃を受け、約3千人いた興安の居留民は避難することにし、東西の二班に分かれ、西の班は先に貨物列車に乗って脱出したが、東半分の住民は集合に手間取り、すでに列車はなくなり、馬車や自動車は住民を守るはずの関東軍や諸官庁の職員が使って先に逃げていた。そこで葛根廟駅への列車の到着を待って南下するという計画にし12日から移動を開始、14日に葛根廟丘陵付近まで到達したところで、ソ連軍中型戦車部隊と歩兵部隊に遭遇した。ソ連軍は丘の上から避難民に対し戦車と機関銃で攻撃を加え、時には人々を轢き殺し何度も繰り返し、最後には銃剣で止めを刺していった。その多くは女性、子供であり、1000人以上が犠牲となり、残った人々の多くは自決し、生存者は百数十名とされている。犠牲者のうちの200名近くの児童は、興安街在満国民学校の児童であった(葛根廟事件)。なんと残酷なと思われるが、同様なことは日本軍も中国で行っていた。なおこの後も満州では同様な事件が多発し、8月12日の鶏寧県麻生区における哈達河開拓団の421名に及ぶ集団自決事件、8月17日の東京荏原開拓団964名の受難(双明子事件)、8月25日の仁義佛立講開拓団400名の受難などがあり、その前後にも受難は多々あり、終戦時の在満日本人約22万人中、死亡・行方不明約8万2000人、まだソ連のシベリアに抑留された男性たちは約3万6000人であった。

【中国における膨大な犠牲者数】

 この8年間の日中戦争では日本軍の戦死は41万人,戦傷病者は92万人とされている。中国のうけた被害ははるかに甚大で、翌1946年の国民政府の発表では軍人の死者130余万、戦傷病者約300万人としていたが、これには共闘した共産党軍の数字は含まれていず、同じく1947年の発表では軍人死傷者365万、一般人死傷者913万とされた。その後中国は国民党と共産党の内戦状態に入り、共産党政権成立後は国内平定に長い時間がかかり、1985年の「抗日勝利40周年」では軍民合わせての死亡は2100万と発表された(1995年には軍民死傷約3500万とされる)。今の日本では認識されていないが凄まじい数である。これは上記のように8年間(遡れば1931年の満州事変より14年間)の間に日本軍が中国各地で無差別爆撃を含めて蛮行を繰り返した結果であり、いわゆる南京事件(1937年)の30万人など、小さな数であることがわかる。

太平洋戦争
【ルソン島の戦い】

 1月6日−8月15日:フィリピン奪回を目指すアメリカ軍を中心とした連合軍は、レイテ沖海戦・レイテ島の戦いに勝利し、ルソン島への上陸作戦を決行、1月6日からはアメリカ海軍が空爆と艦砲射撃が開始し、各方面から上陸を果たし、2月3日にマニラに突入した。約1ヶ月間激しい市街戦が行われ、日本軍は撃退されて3月3日にマニラは連合軍が制圧した。この市街戦による日本軍の死者は約1万2000人、連合軍側の戦死1020人、戦傷約5600人に達したほか、10万人以上のマニラ市民が犠牲になった。これは日本軍が市街戦のなかでゲリラ掃蕩作戦として住民の避難所に押し入り、放火や銃殺によって集団虐殺を行っていたことが大きい。このとき捕虜収容所2カ所も解放され、連合軍捕虜約5800人とフィリピン人の囚人約3800人がアメリカ軍に収容されたが、日本軍が拠点にしていたサンチャゴ要塞の地下牢にはフィリピン市民600人の遺棄死体があった。マニラ陥落後、日本軍はルソン島北部と南部において戦闘を続け、いずれも山中へと追い詰められ、食糧の補給は完全に途絶えて餓死者やマラリアや赤痢にかかる者も続出し、戦闘能力を失った。降伏は禁じられていたため、手榴弾で自決する日本兵もいて、道の至る所に死体が転がった。終戦の4日後の8月19日になって山下大将は停戦命令を受けいれた。しかし分散した各部隊への連絡は困難で、半年かけてようやく全軍が降伏した。このフィリピンの戦闘で日本軍の戦死・戦病死(行方不明も含め)21万7000人、米軍の戦死8310人であった。山下奉文大将は特にマニラ市街地での住民虐殺の責任を問われ、戦犯として死刑に処せられた。

【硫黄島の戦い】

 2月18日−3月26日:小笠原諸島は絶対国防圏として戦力が増強され、そのうちの硫黄島には守備兵力2万933名と強固な陣地が構築されて、住民約1000人は軍属を除いてすでに日本本土に疎開されていた。アメリカ軍は大艦隊を硫黄島に差し向け、2月18日になって本格的に艦砲射撃を繰り返し、合間には艦載機が交互に空爆をおこなった。この激しい攻撃により、島の摺鉢山の1/4は飛散してしまい、多数の火砲を失った。しかし硫黄島の地中に張り巡らされた地下陣地(全長17kmで司令部は地下20m)は堅固で、大きな影響はなく、これがアメリカ軍の誤算となり、翌日から始まった上陸作戦では予想以上の苦戦を強いられ、一週間以内での攻略作戦は一ヶ月以上もかかった。2月28日の時点で硫黄島の半分はアメリカ軍の手に落ちたが、そこから縦横にめぐらせた地下道を使った日本軍のゲリラ戦法は有効で、アメリカ軍海兵隊にも多くの死傷者をもたらした。しかし(アッツ島やサイパン島なども含めて常にそうであったが)最初から孤立無援の戦いであり、日本軍は水の確保がままならず、食糧も枯渇してきて追い詰められ、3月16日、司令官の栗林忠道中将は大本営へ訣別電報を送った。その後の3月26日、栗林以下3、400名が最後の総攻撃を敢行し壊滅した。こうして日本軍の95%の1万9900名が戦死あるいは行方不明となり、アメリカ軍は戦死6821名・戦傷2万1865名という大きな損害を受けた。ただし地下壕に残る残存兵によって局地的戦闘やゲリラによる遊撃戦が8月の終戦まで続き、中には投降するグループもいたが、投降を拒んで自決するものもいて、さらには戦闘を続けて4月21日にアメリカ軍陣地に突撃して壊滅した隊もいた。また投降せずに反撃する日本軍を恐れて、海兵隊は多くの地下壕を爆破して閉鎖したため、壕内で6000人の日本兵が生き埋めになったとされる。

【沖縄戦】

 3月26日−6月23日:沖縄は「絶対国防圏」の一つとして位置付けられ、前年の1944年3月に日本軍は第32軍を組織、夏から部隊が続々と沖縄に配備されていた。同じ頃マリアナ諸島などが陥落し、日本軍は「本土防衛」のための「不沈空母」として沖縄の本島や離島の各地に飛行場と防御陣地を建設し、多くの沖縄県民が駆り出され、その他植民地の朝鮮半島から連れてこられた人々約1万人もいた。アメリカ軍の本土への本格的空襲前の10月10日、沖縄は5回にわたって激しい空襲を受け、一般住民を含め約660人が死亡、那覇市は約90%が焼失した。硫黄島の陥落から間髪をおかず、米軍の上陸は3月26日に東南の慶良間諸島から始まったが、まず3月23日から沖縄本島に上陸前の大空襲を行い、1週間で約4万発の砲弾を撃ち込み、1600機の艦載機で爆撃・機銃掃射を加えた。そして4月1日、米軍は中部西海岸の北谷村、読谷村から上陸したが、それまでに約11万発もの砲弾が撃ち込まれた。米軍は飛行場を占領しつつ3日には東海岸まで到達し、4月5日頃までには中部一帯をほぼ制圧して南北を分断、その後約10日間で北部まで制圧した。激戦はここから3カ月続いた。日本軍の司令部は首里城にあり、中部から首里で行われた戦闘は40日以上続き、この戦闘で日本軍は主力の8割を失い、5月下旬、日本軍は住民をまきこんで本島南端の摩文仁へ撤退した。この時、野戦病院などに収容されていた重傷の兵士たちは薬物注射を打たれるなどして殺害された。そして特にこの南部は最後の戦場となり多くの住民が犠牲となった。

 この沖縄戦による死亡者は、沖縄住民9万4000人(沖縄県民の4人に1人)、日本軍約9万4136人、米軍1万2520人、負傷者は7万人以上とされている。沖縄戦に参加した米軍は約54万人で、そのうち18万3000人が上陸。それに対し日本兵は11万人で、そのうち2万数千人は沖縄で徴集された民間人防衛隊や学徒隊で、学徒隊は14−17歳が主体で、男子は「鉄血勤皇隊」、女子は「ひめゆり学徒隊」その他の名称で呼ばれ、男子1464人のうち816人、女子505人のうち202人が戦死した(男子生徒は、伝令や弾薬など物資の運搬など、女学生は主に野戦病院勤務だが、最終的に追い込まれて自決した女学生たちも多くいる)。このほか陸軍中野学校の出身将校によって作られた2つの少年兵ゲリラ部隊が編成され、「護郷隊」と呼ばれたが、この中には戦車への斬り込み攻撃を命じられた者もいた。つまり爆弾を入れた木箱を背負って戦車に体当たりして爆破する役目で、一つの特攻隊攻撃である。戦時下の軍事教育は、少年をここまで追い込んでいたという例であるが、一般人に対しても米軍の捕虜となるくらいなら自決するようにという思想が植えつけられていたからよく知られる洞窟の中での集団自決も起きた。6月23日、司令官の牛島満中将が司令部壕内で自決し、一応は戦闘が終わったとされるが、宮古郡島や八重山郡島では8月15日まで戦闘状態が続いた。上記の硫黄島も含めていずれの戦闘地でもそうであるが、兵士たちには「徹底抗戦」ばかりが吹き込まれていて、その戦闘が終わっても先に責任者が自決などしてその後の通達が不徹底で、一層無駄な戦死者を増やしているという状況が生じていて、これは8月15日の終戦という区切りにおいても同様で、どのように見ても日本の軍政府は無責任な面を否定できない。なお6月だけで住民の犠牲者は4万7000人とされている。

【出来事一覧】

 1945年1月24日:イギリス海軍、日本の占領するスマトラの製油施設を空爆。

 3月18日:米軍の沖縄攻撃に備えて、人間魚雷回天特攻隊(白龍隊)が沖縄に向かい、基地要員120名、輸送艦乗組員225名を載せた第18号輸送艦は、到着を目前にしたこの日の未明、米国潜水艦と遭遇し、三度にわたって魚雷計8本の攻撃を受け4発が命中、粟国島近海で沈没し、ほぼ全員が戦死した。この後も沖縄戦で神武隊や多々良隊、天武隊が進撃したが戦果はなく、被害の方が大きい。

 3月27日:アメリカ軍は日本軍の海上輸送ルートを遮断すべく「飢餓作戦」を計画。日本の近海に機雷をばらまくもので、B29爆撃機により関門海峡周辺や瀬戸内海への機雷投下が開始された。のべ246機により総計2030個の機雷が敷設された。これにより、5月2日までには沈没19隻、損傷39隻に上った。

 4月7日:沖縄戦に向かう途中の戦艦大和が米軍の波状攻撃により沈没(鹿児島坊ノ岬沖海戦)。死者3063名、生存者269名。

 4月12日:特攻用特殊滑空機「桜花」が沖縄戦に投入され、一ヶ月間に10回出撃して米軍艦船2隻を撃沈、5隻を大破させるが、桜花パイロット55名が特攻で戦死、その母機の搭乗員は365名が戦死した。

 4月:日本統治の台湾において徴兵制度実施

 4月:同じく朝鮮において国民勤労動員令を適用

 5月:ベルリンが陥落しナチス・ドイツが無条件降伏。これにより第二次世界大戦の連合国軍にとって、日本が唯一の敵として残った。

 5月16日:マレー半島ペナン島沖でイギリス軍と海戦、重巡洋艦羽黒が撃沈され400人近くが戦死。

 7月16日:米国が原子爆弾の実験に成功。

 7月26日:米国を中心とした連合国軍はポツダム宣言を発し、日本に全面降伏を求めた。つまりアメリカは後ろ手に原爆の存在を隠し、日本に降伏を迫った。しかし日本軍政府はすぐに対応を決められず、結果的に拒否した。この日本の拒否はトルーマン大統領には最初から折り込み済みで、これによって原爆の使用が米国にとって正当化された。

 7月28日:すでにまともな戦闘機がついえた中、台湾の海軍基地で「神風特別攻撃隊第三竜虎隊」が結成され、その使用戦闘機は木製の練習機であった。これに250kg爆弾をくくりつけ、いったん石垣島から宮古島に渡り、夜間、沖縄に向かい、那覇市の南西90kmの海上において米駆逐艦キャラハンその他3隻の艦艇を撃沈した。隊員7名死亡。

 7月30日:人間魚雷回天作戦中の伊58潜水艦が、原爆の部品運搬任務後レイテ島へ向け単独航行をしていた重巡洋艦インディアナポリスに遭遇し、回天ではなく通常の魚雷を6本発射し3本が命中、わずか12分で艦は沈没し、883名の米兵が海に消えた。皮肉なことに、回天がらみではこの通常の魚雷によるものが最大の戦果であった。

 8月8日:ソ連、日ソ中立条約を破棄し、対日参戦を表明。9日、満洲国と朝鮮半島に侵攻。

 8月11日:ソ連軍が南樺太へ侵攻(樺太の戦い)。

 8月15日:日本、連合国に対しポツダム宣言の受諾(降伏)を正式に表明。蒋介石「怨みに報いるに怨みをもってすべからず」と演説。

 8月18日 :ソ連軍が千島列島で攻撃開始。

 9月2日:日本、連合国と米戦艦ミズーリ号にて降伏文書に調印。

 9月2、4日:シンガポールとウェーク島の日本軍が降伏。

 9月9日:連合国主催の下、南京にて支那派遣軍総司令官岡村寧次大将、中華民国陸軍総司令何応欽と降伏文書に調印。

 9月22日:ソ連のスターリン、中国東北全域を解放し日本軍51万人を捕虜としたと発表(シベリア抑留)。

【主な輸送船の沈没】

 この年は大小の輸送船、自営船 を含めて雷撃や機雷による無数の沈没船が生じている。以下は千人単位の犠牲者の例である。

 1月8−9日:第十九師団輸送(モタ30)船団はシンガポール向けの油槽船5隻と台湾増援部隊を輸送するためたが、台湾北西部に達したとき、 米海軍の潜水艦や機動部隊の艦載機に襲撃され、参加船舶9隻の内6隻が沈没した。死者2662名。そのうち久川丸は南方総軍補充要員2183名と船員170名の合計2353名が戦死。油槽船安洋丸は海軍部隊約1000名と台湾派遣の航空隊関係者と船員138名が戦死、海軍部 隊の死者数は不明だが1000名のほとんどが死亡とみられる。辰洋丸の積載は魚雷、爆薬などで 船員63名全員戦死。三洋丸は座礁で計46名戦死。

 1月9日:前年12月に受難した鴨緑丸で助かった米軍捕虜を江ノ浦丸で移送する際、台湾高雄港内で米艦載機の空襲により捕虜約330名が死亡。

 1月20日、満州派兵の歩兵46連隊は陸軍輸送船に分乗して門司を出港した。25日、馬来丸(マレー丸)は鹿児島県久志湾口北側付近を航行中に米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没。乗船部隊・船砲隊・船員1612名が戦死。さらに29日、台湾最北端基隆北西において「くらいど丸」は米潜水艦Picudaの雷撃を受けて沈没、1099人戦死。

 3月19日:筥崎丸 は上海向けに食糧、兵器、車両、ガソリン等を積んで航行中、上海北北東220km付近で米潜水艦Balaoの雷撃により沈没、1118人戦死。

 4月1日:シンガポールから日本へ向けて航行中であった阿波丸が、福建省南部の牛山島付近を航行していたところ米潜水艦クイーンフィッシュにより沈没、商船員480人、商社員・技術者・公務員など600人、軍人・軍属820人が、乗員と合わせて2003−2129人ほぼ全員が海没した(2277名とも)。

 4月9日:日光丸は台湾産の砂糖や帰国する引揚者、陸軍兵士および上海からの水兵などを乗せていたが、山東半島沖で米潜水艦ティランテの雷撃により沈没、668人死亡。  4月19日:海上機動第三旅団など1300人が乗船して函館に向かっていた大誠丸は、米潜水艦の攻撃を受けて北海道新冠郡節婦沖で沈没、686名死亡。

 5月29日:天領丸は樺太東岸愛郎岬沖で米潜水艦Sterleによる雷撃で沈没、856人死亡。

 7月14日:青函連絡船11隻が、本州の東方海上の米軍の機動部隊(空母4隻の艦載機248機)から爆撃され、400人近い乗員乗客が犠牲となった。

 8月8日:羅津丸は1日、富山県伏木港を出港後、七尾港に寄港して連隊約1000名と便乗者約200名を乗せて北鮮の羅津へ航行中、米潜水艦Pargoの魚雷を受けて沈没、乗船部隊と便乗者約1151名と船員35名が死亡した。

 8月15日の日本降伏後:米軍の飢餓作戦で投下された機雷や日本軍による機雷で海外からの引き揚げ船の事故が多発した。8月24日、舞鶴港で貨客船が触雷沈没し549名が死亡(浮島丸事件)、10月7日、475名が死亡した室戸丸の沈没事故、10月14日、対馬美津島町ではおよそ1000名以上の乗船者(切符無しの乗船者も多数)のうち800名以上が死亡という例があり、1950年までに118隻(掃海艦艇含む)が触雷し、うち55隻が沈没している。

軍歌(昭和20年:1945)

 敗戦が濃厚になった昭和20年に入ってからは、さすがに軍歌を作るエネルギーもなくなっていた。

『必勝歌』 (情報局撰定国民歌)

 昭和20年 杉江健司作/作曲:大村能章

 情報局では「決戦の秋(とき)を迎へていやが上にも昂揚し来つた全国民の必勝の闘魂を表現した愛国歌」を作成することとなり、その歌詞を広く国民から応募した。また曲は「勇壮活発にして万人の唱和と行進に適するものなること」が要求された。

 募集は前年11月末日に締切られたが、外地の前線兵士や工場や農村に従事する人々、官吏、勤労動員の学生等々あらゆる階層の人々から寄せられた応募総数は約1万千篇に及んだ。

 そしてこの歌を浸透させるために、当時の名のある監督を7人も集め、俳優も総動員し、10編あまりのストーリーの合間に戦場や空襲や当時の記録フィルムを挟んだ国策オムニバス映画として2月下旬に公開された。すでに日本の敗戦は客観的には見えていて、この歌詞の募集が締切られた頃には米軍による本格的空襲が開始されていて、この映画の公開の約20日後に東京大空襲があり、人々は映画を鑑賞する余裕などなくなっていたし、この映画のために集められた監督も、おそらく士気が上がらず心も入らず、義務感だけで作っていたのではなかろうか。


今日よりはかへりみなくて大君(おほきみ)の
しこの御楯(みたて)と 出で発つ我は
ああ 防人(さきもり)の昔より
み民我等(の雄心(おごころ)は
皇国(みくに)の護り富士が嶺(ね)の
千古(せんこ)の雪とかがやけり

天皇(すめろぎ)の御楯(みたて)と誓ふ真心は
留めおかまし命死ぬとも
ああ陸海に大空に
高く雄叫(おたけ)ぶ軍神の
後にぞ続く我等また
万朶(ばんだ)の花と咲き咲かん

青雲(あをぐも)の向伏(むかふ)す極み天皇の
御稜威(みいつ)かがやく御代(みよ)になしてん
ああ一億の起つところ
いかで神風吹かざらん
困苦はものの数ならず
かならず勝たんこの戦(いくさ)

 み民(天皇の臣民)我等は天皇の御楯となって死など恐れずに邁進するが、「かならず勝たんこの戦」と言いつつ、結局は、「いかで神風吹かざらん」と、天皇の御稜威による神風に頼るという日本軍(皇軍)の精神主義をこの歌は表している。最後は勝つための作戦というものがなかったし、実際に決定的な物量不足により、作戦計画など立てようもなく、だから特攻隊というものを生み出して、その場をしのぐしかなかった。この悪あがき的行き当たりばったりの作戦(玉砕戦法もしかり)により、この満州事変以来の昭和の15年戦争において、最後の一年間で2/3以上の戦死者を出した。それこそ「後にぞ続く我等また万朶(ばんだ)の花と咲き咲かん」の通りになった(咲き咲かんとは咲いて散るということである)。国民の命を、このような歌でいかにも崇高な使命と見せかけて、まるで虫けらのように失わせ続けた。

 ちなみにこの映画が公開されていた時に起こされた3月10日の東京大空襲から二週間後、本土決戦の身代わりともいうべき沖縄戦が始まり、3ヶ月の激戦を経てから陥落直前に、司令官の牛島満中将は、全軍に最後の軍命令を発した。「今や刀折れ矢尽き軍の運命旦夕に迫る。既に部隊間の通信連絡杜絶せんとし、軍司令官の指揮は至難となれり。爾今(今後)各部隊は各極地における生存者中の上級者之を指揮し、最後まで敢闘し生きて虜囚の屈辱を受けることなく、悠久の大義に生くべし」。この『戦陣訓』に基づいた指令により、残った将兵たちはアメリカ軍に決死の突撃をし、ほとんどが戦死し、捕虜になったものはわずか343人であった。6月23日に3ヶ月に渡った激戦が終結、犠牲者はアメリカ軍人約2万人を含めて21万人、その中で県外の日本軍将兵約6万6000人、沖縄県軍民死者12万2000人超、うち民間人死者9万4000であり、民間人にも女学生を含めて多くの自決者が出た。これでも日本は降伏しようとせず、本土決戦を唱えて広島・長崎への原爆投下を招き、やっと8月15日に終戦となった。

 あえていうなら、その『戦陣訓』を発した時に陸軍大臣として責任者であった東條英機は(そのすぐ後に首相となって太平洋戦争開戦に導いた)、敗戦後連合軍GHQにA級戦犯として呼び出される前に拳銃で自決しようとして失敗し、そのまま裁判で絞首刑となったが、同じく戦時下で首相を務めていた近衛文麿は、同罪で召喚される前に服毒自殺した。つまり強気で鳴らした東條自身は、自らが発した『戦陣訓』のように、軍人としての心構えも勇気も持たない凡愚の人間であったということである。実際に当時、本気で自殺した将校たちは、日本刀で割腹するか、拳銃であれば数発自分に打ち込んで、自決している。このような小心な指導者によって「英霊」にされた多くの若者たちの立場はどういうものなのか。

『勝ちぬく僕等小国民』

 昭和20年 作詞:上村数馬/作曲:橋本国彦

 「少国民」向けに敗戦間際につくられたが、すでに徴兵年齢の枠を拡大して戦線に送り、国内ではある意味子供たちしか残っていなかったという側面もあるだろう。


勝ちぬく僕等少国民
天皇陛下の御為に
死ねと教へた父母の
赤い血潮を受けついで
心に決死の白襷
かけて勇んで突撃だ

必勝祈願の朝詣
八幡さまの神前で
木刀振って真剣に
敵を百千斬り斃す
ちからをつけて見せますと
今朝も祈りをこめて来た

僕等の身体に込めてある
弾は肉弾大和魂
不沈を誇る敵艦も
一発必中体当たり
見事轟沈させて見る
飛行機位は何のその

今日増産の帰り道
みんなで摘んだ花束を
英霊室に供へたら
次は君等だわかったか
しっかりやれよたのんだと
胸にひびいた神の声

後に続くよ僕達が
君は海軍予科練に
僕は陸軍若鷲に
やがて大空飛び越えて
敵の本土の空高く
日の丸の旗立てるのだ

 この歌の2番は、刀で「敵を百千斬り斃す」という時代錯誤的なイメージが描かれ、それが無理と見て3番は、逆に前年秋から始まった特攻隊の精神をそのまま子供に植え付けようと、自分の体をそのまま爆弾とせよということで、これは実際に沖縄の少年たちをして戦車に肉弾攻撃させている。もう亡国の歌と言っていい。国としてこれから子孫を残して繁栄させるべき子供たちを、「英霊」に続いて命を投げ出させてやるということで、仮にこのまま50年以上戦争が続けば、子孫が絶えてしまうであろう。ただ5番の「やがて大空飛び越えて 敵の本土の空高く 日の丸の旗立てるのだ」というのはこの時期にあっては滑稽で、すでに飛行機を作る金属の材料もなく、それを動かす石油も枯渇し(日本軍は太平洋戦争開戦当初、オランダ領インドネシアの石油基地を奪ったが、この時期はその輸送船も連合軍の戦艦や潜水艦で次々と太平洋上で撃沈され、補給ができない状態になっていた。そこでそれに代わる松根油というのを作るべく、小学生まで駆り出されて日本の松の木は次々と切り倒され松根油が精製されたが、しかし石油ほどの上質なものはできず、あまり使い物にならなかったという滑稽な話も残る)戦艦も次々に撃沈されて、もはや日本は戦う資力がなく、だからこそ一機で自爆して敵艦を撃破するという特攻隊が編み出されたわけである。

 いずれにしろこのころの少年たちは小学生からの軍国教育で頭の中は自分も戦争に行って名誉の戦死を遂げるのだという思考が出来上がっていて、この年に敗戦が決まるのだが、その時にこれで死ななくて済むというよりも、子供たちはこれからどうしたらいいのか茫然自失したという。しかも敗戦が決まるとこれまで国のため、天皇のための熱血指導として子供達に体罰をも加えていた学校の先生や街の警防団たちの態度もころっと変わり、これからは民主主義だ、憎き敵とされていたアメリカを見習えなどと話し始め、子供たちは大人というものが信用できなくなる。むしろこれによって子供たちに自分で考えて動くという自立心が生まれ、それが戦後日本の復興に向けて邁進する力となっていったのかもしれない。

 ひるがえって「天皇陛下の御為に死ねと教へた父母」がどれだけ本当にいたのか、軽々しくこの詩を書いた人とそれを書かせた軍政府側の人間の無思慮な頭の中を疑わなくてはならない。重ねて書くが、天皇ご自身が、自分のために命を捧げてくれと本当に思われていたか、そんなわけはないのである。天皇の立場というのは、どこまでも国民一人一人の安寧を祈念するところにあって、それを忘れることはない。しかし軍政府にうまく誘導されて開戦に至ってしまった、どうにか早くこの戦争を終える手立てはないものか、日々考えられていたはずである。しかし軍政府は逆に戦争を継続するために「天皇の御ために」この戦争は負けるわけにはいかないと国民を鼓舞し、「本土決戦!」「一億総玉砕!」とのスローガンを唱えながら「神州不滅!」つまり天皇の存する神の国日本は不滅である、つまり負けることはないとしている。だからこそ日本は、最後には「神風」が吹いて必ず勝つ!と一般に流布させて、子供たちにも信じ込ませた。

 いずれにしろ、当初「東洋の平和」を偽善的に掲げた戦争の意義は何だったのか。しかしこのころの一方的な情報網と言論統制の管理体制の中では、この戦争は負けると言っただけで、特攻警察に引っ張られる時代状況であった。そうした巷の状態は、今のようにテレビもネットもない時代で、新聞はすべて軍部の御用新聞と成り、天皇の耳目にも客観的な情報がまともに届くことはなかった。この20年3/10の東京大空襲の時でさえ、実態を自分の目で見たいと言う天皇を、一週間もとどめ置いて、その間に街に無数に転がる焼死体を護国隊や囚人などに片付けさて、その限定した範囲の通りだけ見せて(その時の視察の写真が残されている)、大半の住民は(軍の指揮で)何とか火災から逃れて無事でいますのようなことを平然と述べるわけである。その地獄のような悲惨な実態をそのまま見せていれば、天皇は早く戦争を止めるようにと軍政府の要人たちに告げ、その後の二度の原爆も回避できたであろうと思われる。この時代の軍政府の連中は、こうして天皇を騙し、国民をも騙し続けて、内外に多大な犠牲者を生んだのである。

 ちなみにこの歌が戦後31年経った1976年に、『軍歌戦時歌謡大全集』の中の一つとして児童合唱団を使ってレコード化をされた。どのような意図で大人がこの歌を取り上げ、当時の子供たちに歌わせたのか。おそらく戦時下の軍政府の無責任な要人たちと同じ頭脳レベルの大人たち、つまりこれを聴きたい人も作りたい人もいて、ありがたがって作ったのであろうが、何も知らない児童合唱団に歌わせるとは、恥というものを知らないのであろうか。子供たちを戦争という名の「郷愁」へと洗脳し戦争を美化する意図があったのかどうなのか。

『かくて神風は吹く』

 昭和20年 作詞:高橋掬太郎/作曲:竹岡信幸


海を圧して寄せ来る敵を 
何で逃がしてなるものか 
今だ討ち取れ力を一に 
かくて吹くのだ神風が

敵は鬼畜だ幼い子まで 
嬲(なぶ)り殺しにする奴だ 
皆起て起て日本男児 
かくて吹くのだ神風が

皇土日本一足たりと
敵の土足に踏ませりょか 
何の討ち死に死んでも護れ 
かくて吹くのだ神風が

撃てよ沈めよ海底深く 
憎いこの敵この仇を 
燃える闘魂火花と散って 
かくて吹くのだ神風が

 もはや軍民ともに神頼みとなっている。学校の教師もこの歌のように教え、子供や女学生もそれを信じ込んでいた。そもそも「神風が吹く」とは、1274年(文永10年)と1281年(弘安4年)の二度にわたり、当時の中国大陸の覇者元寇が日本に襲来した時に元軍に大損害を与えた暴風雨のことで、この「神話」が特にこの戦時下に吹聴され、最後には神風が吹いて日本は必ず勝つからそれまで頑張れ、のように国内では喧伝された。そして神風は吹かず、空襲と原爆によって国内で約50万人が死亡、都市は廃墟となり、8/15の天皇による終戦の詔勅を聞いて、人々は呆然とたたずんだ。

 ちなみに日本が海外から侵攻されたのはその元寇の襲来の時だけであり、それ以外の戦争はすべて日本が先に海を渡って侵攻して引き起こしたものであることは意外に日本人自身には認識されていない。日本は明治以来立派な侵略国であり、好戦的な国であったが、教育現場でそのように教えられていないからである。その結果日本が歴史的にどのように海外諸国に被害をもたらしたかを知る日本人は少なく、現地へ旅行などに行って初めて知り、困惑する人が多い。

『噫呼聖断は降りたり』

 詞:喜多紀世雄  昭和20年、終戦の詔勅にちなんで作詞されたもので曲は付いていないが象徴的な詩なので取り上げる。作者についての来歴等未詳。


噫呼(ああ)聖断は降りたり 
何の顔(かんばせ)ありてこそ 
祖宗の霊に見えんや 
されど勅命(みこと)の重ければ 
悲憤の涙拭うべし

噫呼万世の太平を 
願い給うは大御心ぞ 
無念や矛を収むれど 
護国の花と散り果てし 
戦友が英魂許すべし

噫呼国体の護持こそは 
遠き御祖(みおや)の御旨なり 
天津日嗣(あまつひつぎ=皇位継承のこと)のしろしめす 
国に勝れる国は無し 
民挙りて護るべし

噫呼聖断は降りたり 
今ぞ恩讐耐え忍び
臥薪嘗胆決意凝る 
七度生まれて日本の 
永久の栄光築くべし

 どこまでも天皇の御心を察し奉り、国体の護持を忘れず、今は辛抱して新たに日本の栄光を取り戻していこうという国民の心を表そうとしているが、「七度生まれて」という「七生報国」(七度生まれ変わって国に報いよ)の精神は、これまで戦争が対象であったが、これからは「永久の栄光築く」ことに向けてくださいということであろう。

 8月15日の終戦の詔勅の日、玉音放送のあった昼頃から、皇居前広場には様々な人が集まった。中には勤労動員が昼までに解除になってやってきた女学生もいて、主婦や守備隊の軍人を含めてほとんどの人が砂利の上で正座し、皇居に向かってお辞儀をして泣いていた。この人たちの共通の心は、この戦争に負けてしまったのは自分たちの力が足りなかったせいで、天皇陛下には申し訳が立たないというもので、軍人の中にはその場で自決した人もあちこちにいた。このような実直な人たちの心をどのように評価すればいいか、筆者にはわからない。ただただ天皇という存在と名を利用してこの戦争を推し進め、ここに掲げてきた欺瞞に満ちた歌の言葉の数々を作らせて、国民をも利用してきた軍政府の責任者たちには、実はそのような心はなかっただろうこと、そしてどのように責任逃れをし(その第一弾として内外の戦時関連資料をすべて焼却させ、この戦争をなかったことにしようとした)、敗戦後にも自分の身を守っていこうという考えしかなかっただろうことは確かだろう。ただその中間にいた陸軍近衛兵の若い将校たちは、徹底抗戦を主張し終戦の詔勅の放送に反対、前日深夜に金庫に保管されたこの天皇の録音盤の奪取を計画、止めに入った近衛師団長を惨殺し幾人かの犠牲者を出し、その責任を取って南陸軍相が割腹自殺し、事態は鎮圧に向かったというクーデター未遂事件があった。おそらくこの事件も知らずに、突然敗戦となって取り残された人々のごく一部がこのように皇居にやってきていた。

 神風が吹かなかったと呆然と立ち尽くす若い学生や女学生もいたが、当然、当初からこの戦争は間違っていて、日本は必ず負けると考えていた一部の大人たちから聞かされていた女学生たちは冷静であって、やっと終わったとホッとした気持ちで受け止めていた。そうでなくてもこの戦争はおかしいと思い続けてきた大人の特に女性たちは手を取り合って万歳と言って喜んだというが、町内会の隣組などでお国のためと頑張っていた主婦たちには戸惑いが多く、そんな余裕はなかったであろう。また父親がラジオを聞き、「戦争が終わったァー!」と安堵したように叫ぶのをみて、中学校一年生の男の子は「神国日本」は今に「神風」が吹いて敵は降伏し、日本は戦いに必ず勝つと信じていたから、「そんな馬鹿なことがあるもんか」と、父親に反論したほどにこの年齢の少年は、学校教育で軍国少年に成り切っていて、その塊のまま、夏の暑い日差しの中、静まり返った世界に放り出された。一方で特攻隊員を教育し、若者たちを戦地に送り出していった教官の中には、「自分も後から行く」と言いながら果たせず、責任を感じ、敗戦三日後に妻と幼い子を道連れに自決した人もいたし、遠い福岡で女学生の子も含めて自決した軍人一家もいた。総じて、何よりもまず空襲に対する灯火管制が解除され、夜には電灯を点けて過ごせ、これで夜はゆっくり眠れると安心した人が大半であった。

 敗戦直後に推挙されて首相になった皇族の東久邇稔彦は17日のラジオ放送で一億総懺悔(全国民総懺悔)を唱え、それがわが国再建の第一歩とした。これは敗戦したことを天皇へ懺悔するともいわれるが、実際には「軍・官・民・国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならない」ということのようである。これに対しては国民の大半が納得したとされるが、本当はまず、政府としてこの戦争に導いたことを国民にお詫びし反省するとするのが筋であったろう。そしてこの政府の姿勢が今もなお続き、二度とこうした戦争を起こさないためにとする国としての反省と国民が学習をする体制も作られていず、それがそのまま周辺国に対し戦争を仕掛けた国として、ドイツのように正式に謝罪することをしていない。

 一ヶ月もしないうちに米国を中心とする占領連合軍(GHQ)がやってきて、次々と新しい施策を作り、軍歌なども使用禁止にされた。とりわけ日本軍というのはこの戦争を通じて他国に比べても特別に厄介な存在だという印象が彼らにはあって、戦争放棄を含む新憲法が作られた。その後、その米軍の都合で警察予備隊、そして軍隊という色を隠す自衛隊が創設されるが、今では戦争放棄の憲法の条文を「改正」すべきという意見がしばしば持ち上がっている。その一番の理由というのが、この憲法はアメリカに押し付けられたものだということで、しかしそこには論理の矛盾があって、もしそうであるなら、そもそも基本の民主主義体制も米国に押し付けられたものであり、それまでの軍国主義体制から日本人が自分の手で民主主義体制を作り上げたわけではまったくない。まずそこからやり直すべきではないのか。だから今の日本の借りてきた民主主義は中途半端なのであり、三権分立など形だけのもので、その裏での政・官・司法の癒着は戦前にも通じていて、看過しがたいものがある。いずれにしろ仮にこの後、再び独裁政権が生じると、どんな立派な憲法があっても、それは簡単に破棄されてしまうから、そうならないような本当の民主主義体制を作るのが先ではないだろうか。

 ここで一番の問題は、日本が国としてこれまでこの昭和の戦争に対する検証と反省の時間を持たずにやり過ごしてきたことである。少なくともドイツはそれを行なった。日本は、戦争に関わった個々の人々は心の中で密かに反省するのだが、国としての反省はない。これはドイツの場合、ヒトラーという独裁者が大戦争を起こしたということであるが、日本の場合、集団指導体制の中で起こしたことであり、その責任をお互いになすりつけ合う空気があり、その自覚ができていない。いずれにしろ戦後に昭和天皇が「反省」という言葉を入れようとしたら、周囲の政官人が寄ってたかって止めさせたのである。その理由は、反省するということは、この戦争が悪い戦争であったと認めることになるというのである。だとすると米国はどこまでも許しがたい敵にしておかねばならず、親米国になっている今の姿はなんなのか。呆れた思考法であるが、その彼らの矛盾した思考法が、今の時代も連綿として続いている。

 この戦争で「このような大きな犠牲を払って得た今の平和のありがたさを痛感している」と語る人が多いが、それは違うだろうと筆者は考える。最初からこれは無謀で益のない戦争であると理解していた人は当時にも少なからずいて、しかしそのような意見は勇気ある政治家も含めて「非国民」として黙殺され、むしろ弾圧された。明治時代から築き上げられた堅固な軍国主義体制は、天皇をも戦争拡大への道具として利用し、このような多大な犠牲者を出さなければ終わらなかったことも事実であろうが、ただひたすら内外の多くの人命と多大な資材を無駄にした無益な戦争であった。「大きな犠牲を払って得た今の平和」というなら、わが国の310万人の犠牲者だけでなく、わが国が侵攻して関わった戦争によって亡くなった海外の国々の犠牲者たちはその数倍どころではない(中国だけでも民間人の死者は1000万人以上とされる)という事実を踏まえて言えるのかどうか、それら海外の犠牲者とその国々が辿ってきた不幸な現実も踏まえて「今の平和」の答えを出さなくてはならない。それこそ「東洋の平和」を掲げて戦争を開始し、その東洋諸国に膨大な被害を与えた事実がある以上、日本だけが「今の平和」を語っても意味がない。

 明治以来の日本が行なった戦争の本質は、すべて侵略戦争であるという事実は我々は前提としてよく認識しておかねばならない。

日本国内の出来事・様相(昭和20年:1945)

 1月:国民勤労動員令要綱を決定、軍需工場と食糧生産への根こそぎ動員。

 1月13日:1ヶ月前に発生した東南海地震に続き、三河地震発生。死者1961人、全半壊1万7千戸におよぶが戦時下による報道管制が敷かれ救援活動もなかった。

 3月6日:「国民勤労動員令」公布。本土決戦に備えた「国民皆働」「総員勤労配置」の実現を目標とし、文科系の大学および高等専門学校の閉鎖を実施、病人も動員の対象とした。

 3月:小磯内閣は「 一億玉砕」のスローガンを掲げる。

 3月23日:「国民義勇隊」創設、本土決戦に向けた国民の組織化・民間防衛が目的。

 3月28日:「軍事特別措置法」制定。本土決戦に備えて、私有財産も含め、国民の一切の権利を制限するとした。

 4月8日:大本営は『決号作戦準備要綱』を示達し、連合軍上陸の際には各方面軍が独立して最期まで戦闘にあたること、部隊の後退、持久を認めない旨を各部隊に通達し、一億玉砕の精神を暗に要求する。

 6月:大政翼賛会・大日本翼賛壮年団・大日本婦人会などを国民義勇隊に吸収・統合。

 6月23日:(沖縄戦終結の日)義勇兵役法(新たな兵役義務を課す)を公布、即日に施行。続いて「国民義勇戦闘隊」が編成され、15歳−60歳の男子および、17歳−40歳以下の女子に義勇兵役を課し「真に一億国民を挙げて光栄ある天皇親率の軍隊に編入」するとした。

 6月30日:花岡鉱山で強制労働中の中国人850人が蜂起。

 7月10日:在郷軍人25万名、満州居留邦人15万名が「根こそぎ動員」によって動員される。

 8月6日、9日: アメリカ軍が広島・長崎へ原子爆弾を投下。

 8月7日:愛知県の豊川海軍工廠へ大空襲があり壊滅。犠牲者は2667名。勤労動員されていた中学生、女学生、高等科生徒にも多数の犠牲者が出、男193名、女259名、計452名にのぼった。

 8月15日:未明、陸軍一部がクーデター未遂(宮城事件)。昭和天皇による「終戦の詔勅」発布。

 8月18日:内務省は占領軍向け特殊慰安施設を設置するよう地方長官に通達。

 8月18日:連合国軍最高司令官としてアメリカ陸軍のマッカーサー元帥が厚木飛行場に到着。

 この昭和20年(1945)3月に公布された国民勤労動員令では、それまでの似たような各種法令(国民徴用令、国民勤労報国協力令、女子挺身勤労令など)が統合され、一方で本土決戦に備えた「国民皆働」「総員勤労配置」の実現を目標とし、文科系の大学および高等専門学校の閉鎖(すべてではなく、統合された場合が多い)を実施、病人も動員の対象とした。これに伴い学校の授業も小学校を除き一年間停止となったが、すでに前年半ばごろより学校の多くが軍需工場にされていた。これは軍需工場への直接の空爆を避ける目的もあったが、それでも焼夷弾で容赦無く燃やされた学校も多い。

 3月下旬は硫黄島で日本軍が玉砕し、ほぼ同時に米軍は沖縄上陸作戦を開始、本土決戦の前哨戦ともいうべき、沖縄での死闘は3ヶ月繰り広げられ、約20万人の死者(うち半分は民間人)を出した。この沖縄の戦闘に、多くの特攻隊員が突撃して命を散らし、15歳前後の少年も戦闘員とされて死に、女学生や住民たちが追い詰められて投降せずに自決する事態が続いた。

 この6月、つまり敗戦の二ヶ月前(沖縄決戦で日本軍が陥落しようとしている頃)、軍政府が制定した「義勇兵役法」は、15歳以上の男子と17歳以上の女子に対して義勇兵役の「臣民の義務」を課すこととし、日本全国で男女の少年兵を召集して戦闘に参加させることを可能とした。すでに沖縄戦で、本土決戦の身代わりというべき大惨劇を演出しておきながら、その実態をまともに国民に報知せず、本土決戦としてさらに大きな戦闘を用意していた。広島・長崎への原爆投下によってそれはなくなったが、軍政府の要人たちにとって、国民はすでに戦争を継続するための道具でしかなかった。なんのための戦争であったのか、おめおめ負けられないとする要人たちの体面のためだけではなかったのか。

 すでに前年11月下旬より、米軍の大空襲が始まっていて、この3月10日、いわゆる東京大空襲があり、墨田、江東、台東の下町三区が無数の焼夷弾によって大火災に包まれ、一夜にして10万人近くの死者が出た。軍としては想定外の被害であり、緊急事態であったが、なおも海外での戦闘行為は続けられた。すでに対抗できる日本の戦闘機も枯渇し、対空高射砲もはるか上空を飛ぶ米軍のB29にはほとんど役に立たなかった。以下はその米軍の主な爆撃の羅列である。

【日本本土への空爆】

 前年1944年11月下旬に始まった空爆が激化、全国206都市のうち98市におよび、死傷者約66万5千人、焼失家屋約236万戸、日本は文字通り焦土と化した。

 1月:6日 京都空襲/14日 宇治山田空襲

 2月:15日 浜松空襲

 3月:2日 大垣空襲/10日 東京大空襲/12日 名古屋大空襲/14日 大阪大空襲/16日 神戸空襲/18日 鹿児島空襲/19日 呉軍港空襲/25日 名古屋大空襲

 4月:4日 立川・横浜空襲/12日 郡山空襲/13−14日 東京城北大空襲/15日 川崎大空襲/20日 倉敷空襲/30日 浜松空襲

 5月:5日 呉市空襲/10日 徳山大空襲/19日 浜松空襲/24日 東京城南大空襲/25日 山の手大空襲/29日 横浜大空襲/31日 台北大空襲

 6月:1日 奈良・尼崎空襲/9日 熱田空襲/10日 日立・千葉・土浦海軍航空隊空襲/17日 鹿児島大空襲/18日 四日市・浜松空襲/19日 八幡空襲/19−20日 福岡・静岡大空襲、豊橋空襲/22日 姫路・水島・各務原・呉工廠空襲/26日 奈良・津空襲/28−29日 佐世保大空襲/29日 岡山・延岡大空襲、下関空襲

 7月:1−2日 熊本大空襲、呉空襲/2日 下関空襲/3日 姫路大空襲/4日 徳島・高松・高知大空襲/6日 千葉・甲府空襲/7日 岐阜・千葉・明石・清水空襲/9日 堺空襲/9−10日 和歌山大空襲/10日 仙台空襲、岐阜空襲/12日 宇都宮大空襲、敦賀空襲/12−13日 一宮空襲/14日 釜石艦砲射撃/14日 青函連絡船/14−15日 函館・北海道空襲/15日 室蘭艦砲射撃、多治見・小樽空襲/16日 平塚空襲/16−17日 大分・平塚空襲/17日 沼津大空襲、桑名空襲、日立艦砲射撃/19日 銚子空襲/19−20日 福井・岡崎・日立空襲/24日 呉軍港・津・大津・大垣・半田空襲/25日 保戸島(大分)空襲/26日 松山大空襲・徳山空襲/27日 大牟田・鹿児島空襲/28日 青森大空襲・呉軍港空襲/28−29日 宇治山田・一宮空襲/29日 大垣空襲/30日 那賀川鉄橋・鎌倉空襲

 8月:1−2日 長岡・水戸・八王子空襲/2日 富山大空襲/5日 前橋・佐賀空襲/5−6日 今治空襲/6日 広島に原子爆弾投下/7日 豊川空襲/8日 福山・八幡大空襲/8−9日 大湊空襲/9日 長崎に原爆投下/10日 酒田・花巻空襲、横手・鳥栖・加治木・久留米空襲/12日 阿久根空襲 /13日 大月・長野・上田空襲/14日 岩国・光空襲/14−15日 秋田土崎製油所空襲/15日 伊勢崎・熊谷・小田原空襲(降伏は14日に連合軍に伝えられていたが、米軍はあくまで日本の正式な発表の15日昼まで爆撃を続けた)

童謡・流行歌(昭和20年:1945)

 8月15日、敗戦の年である。もはや人々に童謡や歌謡曲を作る余裕はなくなっていた。この年は資材不足により、レコードの生産も停止されていた。以下二点は終戦後に流行り、激しい空襲で焦土となり、同時に深刻な食糧不足の中にあった都市部の人々と、次々に外地から復員してくる人々(つまり海外の戦地にいた軍人と占領地にいた民間人は約660万人と言われている)に対して、敗戦後の希望を託す歌でもあった。

『リンゴの唄 』

 作詞:サトウハチロー/作曲:万城目正/歌:並木路子・霧島昇


赤いリンゴに 口びるよせて
だまってみている 青い空
リンゴはなんにも いわないけれど
リンゴの気持は よくわかる
リンゴ可愛(かわ)いや可愛いやリンゴ

あの娘(こ)よい子だ 気立てのよい娘
リンゴによく似た かわいい娘
どなたが言ったか うれしいうわさ
かるいクシャミも とんで出る
リンゴ可愛いや可愛いやリンゴ

朝のあいさつ 夕べの別れ
いとしいリンゴに ささやけば
言葉は出さずに 小くびをまげて
あすもまたネと 夢見顔
リンゴ可愛いや可愛いやリンゴ

歌いましょうか リンゴの歌を
二人で歌えば なおたのし
みんなで歌えば なおなおうれし
リンゴの気持を 伝えよか
リンゴ可愛いや可愛いやリンゴ

 戦後のヒット曲第一号であり、戦後2ヶ月も立たない10月に公開された音楽映画『そよかぜ』の主題歌である。映画は並木が主演を務め、霧島も出演して歌っている。映画は敗戦直後から企画され、サトウハチローがこの詞を作ったのは撮影が始まる時であり、作曲も撮影の途中に完成した。脚本は、戦時中に戦意高揚映画として書かれた『百万人の合唱』を、敗戦となって急遽作り変えたものという。「リンゴの唄」吹き込みの際、作曲者の万城目正は「もっと明るく歌うように」と並木に度々ダメを出したが、並木は戦争で父親と次兄、3/10の東京大空襲で母を亡くして大きな傷心の中にいた。それを聞いた万城目は、「君一人が不幸じゃないんだよ」と並木を励まし、あの明るい歌声が生まれたという。即製の映画自体は酷評されたが、歌は大ヒットした。

『里の秋』(作詞:斉藤信夫/作曲 海沼実/歌:川田正子)


静かな静かな里の秋 
お背戸に木の実の落ちる夜は 
ああ母さんとただ二人 
栗の実煮てます囲炉裏端

明るい明るい星の空 
鳴き鳴き夜鴨の渡る夜は 
ああ父さんのあの笑顔 
栗の実食べては思い出す

さよならさよなら椰子の島 
お舟に揺られて帰られる 
ああ父さんよ御無事でと 
今夜も母さんと祈ります

 この敗戦の年末、ラジオ番組「外地引揚同胞激励の午后」の中で引揚援護局のあいさつの後、川田正子の新曲として全国に向けて放送された。放送直後から多くの反響があり、翌年に始まったラジオ番組「復員だより」の曲として使われ、23年にレコード化された。1番ではふるさとの秋を母親と過ごす様子、2番では出征中の父親を夜空の下で思う様子、3番では戦争が終わって南方からの父親の無事な復員を願う母子の思いを表現している。

 この歌詞の元は『星月夜』で、地方で国民学校の教師をしていた斎藤信夫が、太平洋戦争の始まりを報せる臨時ニュースに高揚感を覚え、昭和16年(1941)12月に1番から4番までの歌詞で作り、後に童謡の雑誌に掲載された。1、2番は「里の秋」と同じだが、続く後半の3、4番は「父さんの活躍を祈ってます。将来ボクも国を護ります」という内容であった。これを童謡にしてもらうため作曲者の海沼に送ったが、放置されていた。終戦を迎え、海沼は放送局から番組に使う曲を依頼され、そこで手元の歌詞を探して見つけたのが「星月夜」だった。そのままの歌詞では使えないと判断した海沼は、電報で斎藤を東京まで呼び出し、歌詞を書き変えさせ、曲名も「里の秋」に変えられた。この歌は戦後長く国民に愛唱された。

〇 最後に、この戦時下に高名な作曲家が書いた「檄文」がある。

 「… 此の峻烈な戦局の下にあってはなお一層の反省を加え、勇猛心を振るい起こさねばならぬと信じる。楽壇から平時的な生活態度や微温的な思想傾向を除き去り、楽壇を全く戦争目的のために統一し、心を一にして邁進することが急務であると痛感する。…音楽は戦力増強の糧である。今は音楽を消閑消費の面に用いてはならない。国民をして皇国に生まれた光栄を自覚せしめ、勇気を振るい起こし、協力団結の精神を培い、耐乏の意志を強め、戦いのために、戦時産業のために、不撓不屈の気力を養うことが、音楽に課せられた重要な任務である。… 戦争の役に立たぬ音楽は今は要らぬと思う。皇国の光となるような永久的な文化の建設が必要なことはいうまでもないが、目前の戦争に勝ち抜いてこそ永久的な文化も考えられる。“国破れて文化あり”では仕様がない。… 此の大戦争にかちぬかなければ日本の文化はない。… 我々は戦時下の正しき皇民道に向かって誠心誠意邁進し、皇民たるに恥づる所なき力強い音楽活動を必死の努力で展開して報国の誠を効したい」

(『音楽之友』1943年7月号:石川浩ブログより転用)

 これは誰あろう、数々の有名な童謡も作曲し、今も愛唱歌が残る山田耕筰である。「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」の作曲も彼である。しかし彼のみならず、戦後も活躍した著名な作曲家や作詞家が競って軍歌や戦時歌謡を書いている。「山田耕筰は107つもの戦争協力の曲を作った」と批判している評者もいるが、それは後の時代の者の言える表層的な見方である。それほどにこの時代の人々の戦争への思い入れは圧倒的であり、山田のみならず、各分野の文化人はそれに率直に応えた。どれほどの文化人が真珠湾奇襲攻撃に成功した時興奮して受け入れたか、驚くほどである。実はいわゆる文化人たちは、明治大正を経て近代的生活を享受し、知識的にも自分たちの世界観が広がってくるにつけ、密かに欧米へのコンプレックスに悩まされていた。それを一挙に開放したのが、16年(1941)12/8の真珠湾攻撃(同時にマレー半島への侵攻)であった。実際に「新しい世界が開けた感じがした」、あるいは天皇の「宣戦の大詔」をラジオで聞いて。「総身が震えるような厳粛な感動の中にいた」とか、「天地が開けたほどの開放感」で思わず涙が出たとか思わず万歳をしたとか清々しい思いとか、色々述べ、日記に書いた文人たちは多くいた。「宣戦の大詔」と言っても、元々は天皇自身が起草したものではないが、そこまで見通して考えることのできる冷静な文化人・知識人はほとんどいなかった。むしろ退役軍人の方が冷静に見ていた(勝てる見込みがあるのかどうかなど)様子がある。この日の様子だけ見ても、「シビリアン・コントロール」がいかに当てにできないかがわかる。

 叙情・童謡詩人の北原白秋も残念ながら昭和17年に病死したが、それまで意欲的に軍歌作りに傾注した。生きていればもっと「貢献」していたであろう。軍政府内のひと握りの要人たちの、「戦争をする」という無謀な決定が、これほどに文化的指導層も含めて大多数の国民の心を変えてしまうとは、今の世からすると信じがたい思いがするが、時代の大きな流れには大半の人々が巻き込まれてしまうということだろう。ただ山田の予測に反して、国破れても文化は残り、むしろ繁栄した。それはひとえに、敗戦によって日本人の心がリセットされ、皮肉にも最大の許すべからざる敵であった米軍の占領政策による(押し付けられた)民主主義によって自由がもたらされたからである(これが仮にソ連の占領であったらと考えると恐ろしい)。それによって日本人は180度転換して親米国民となった。元の軍政府内の多くの要人たちもうまく戦争責任から逃れ、素知らぬ顔をして親米政権を作り上げた。上記の国内の出来事にある8月18日の「内務省は占領軍向け特殊慰安施設を設置するよう地方長官に通達」というのは、米軍を主とする占領軍に対して、早くも敗戦の三日後にはその施設を用意するという従順な姿を示している。占領解除後の今の日本は形の上では独立国であるが、実態は米国の属国であり続けている。これには「英霊」となった若者たちは影で何のために死んだのかと斬鬼の涙を流しているのではないだろうか。

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