戦没並びに殉職者慰霊祭に於ける東京大学 南原繁総長告文
今次大戦に於いて出陣したるために永久に帰らぬ我が同友学徒諸君のため、ここに哀しき式を挙行せんとして、感懐尽くるところを知らない。
顧みればこの幾年、われわれ国民は何処をどうたどり来ったか。混沌錯乱あたかも模糊たる夢の中を彷徨しつつあった如くである。しかし、それにしては余りに厳しき歴史の現実であり、つぎつぎに大なる事件の発生、それによる不安と焦慮、緊張と興奮、絶望と悲哀の交織であった。ただ一事、それを貫いて今や白日の下に曝されたことは、軍閥・超国家主義者等少数者の無知と無謀と野望さえによって企てられたただ戦争一途と、そして没落の断崖目がけて国を挙げての突入であった。
されば長き中日事変に続いて、遂に国民の運命を決した太平洋戦争の勃発に於いて、その緒戦における勝報にもかかわらず、本学園の雰囲気はかえって沈痛、諸君は敢えて動きはしなかった。『童衛に笛吹けども君たちは踊らなかった』のである。蓋(けだ)し、真理の探究に従事し、その身をおく者には、彼らの理性と良心がそれをさせなかったのである。殊(こと)に哲学・政治・法律・経済の学を攻究するものに取っては、最初より余りに事の背理と無謀なるを知っていたからである。諸君はただ黙々として自己の本領、学徒としての本文に従事し、またわれら教師はさように説きかつ教えて来たのである。
然(しか)るににひとたび動員下令、学生の特権が停止させられて戦に召されるや、諸君はペンを剣に代えて粛(しゅく)然として壮途に上った。その際、あまた学徒のうち誰一人、かつて諸国に見られた如き命を拒んで国民としての義務を免れんとする者は無かった。諸君のすべては国家の意志と命令に忠実に従ったのである。日頃それを教えた我らが正しかった否かを知らぬ。諸君は賽(さい)に黙って従ったばかりではない。忘れもせぬ先年十一月学徒一斉出陣の秋、いかに愛国奉公の情熱に燃えて、諸君は勇躍して我らの許を立ったか。更に涯しもなき戦場や内外の陣地に於いて、勇戦敢闘、生命を賭してよく軍人としての任務を遂行したか。その間の労苦と艱難はそれを共にした者のみの能(よ)く知るところであろう。
しかし、諸君は何事にも知らざる只の兵士とは異なっていた筈である。諸君は武人たると同時に学徒であった。諸君はいたずらに独断狂信的なる「必勝の信念」を以て闘ったのではない。戦と決したる以上「勝たざるべからず」との決意こそすれ、諸君はなによりも正義と真理の勝利を乞い願った筈である。然るに不幸にして真理の正義は我らの上にはなく、米英の上に止まった。それは只に「戦に勝った者が正義」というのではなく、世界歴史における厳然たる「理性の審判」であり、我ら共に敗残の悲痛の中からおごそかにその宣告を受け取らなければならぬ。
諸君は客年(昨年)八月十五日、わが邦(くに)肇国(ちょうこく)以来の呪わしき運命の日を目撃しなかった。かの日の我らの痛恨 ― それは外に対するよりもむしろ自己自らに対する悲憤、それ以来受けつつある国民の生活の悲惨、更にそれにもまさってわれわれの精神の苦痛は、正に民族の負える「現実の十字架」である。われわれは飽くまでもそれに堪え、忍ばなければならぬ。国民はいま戦争にまさる一大試練の中を通過しつつあるのである。
しかし諸君に告げたいことは、我らの行く手に民族の新たな曙光、大いなる黎明は既に明け始めつつあることである。今やわが国は有史以来の偉大なる政治的社会的精神的変革を遂げつつある。我らはそれを通して平和と道義の真正日本の建設と新日本文化の創造を為さなければならぬ。これこそは就中(なかんずく)われわれ学徒が精魂を傾けて成し遂げねばならぬ偉業であり、心血を注いでの我らの新たな戦 —「理性」を薔薇の花として、それと厳しき「現実」との融和を図る平和の戦である。
この平和の戦と新たな建設に於いて、わが大学の荷える責務は極めて重い。諸君の出征中、我ら後に残った者は真理の殿堂を守って、勤労作業やもろもろの悪条件の下に学問の研究を継続しつつ、寧(むし)ろ今日の日のために備え来ったのである。その間幾たびの激しき空襲下、大学を戦火より免れしめんがために、職に殉じたものもある。われわれは隠れたこの尊き犠牲を決して忘れはしないであろう。まことに多数学徒が出で立った後の大学は寂寞そのものであり、銀杏並木の下に殆んど人影を見なかった時もある。
戦終わって何処からともなく集まり来った我らの仲間を、われわれはいかに喜び迎えたことであろう。諸君と同じく肩を並べて出征した戦友の恐らくは死するにまさる恥を忍んで還り来ったのも — これからの新たな戦 — 大学の復興と祖国再建の事業に参加せんがためである。今は殆んどそのすべてが還り来った中に、幾多俊秀の遂に再びいづれの教室にも研究室にも見出され得ぬことは、我らの限りなき痛恨である。
憶(おも)えば諸君のうちには、いよいよ戦地に出発すると云って、倉皇の時のわれわれの許を訪ねてくれたのも永遠の別離であった。また諸君が陣中より切々の純情を綴って送ってくれた書簡に、我ら幾たび涙したか知れぬ。まことに諸君は凡(およ)そ学園とは懸け離れた厳しき軍律の世界に身を置き、殊に遠く故国を離れた戦地に在って、ひとしお大学を恋い、学問を思い、かかる師を懐かしんでくれた。我ら縷々(るる)その一人ひとりの名を呼んで天地に訴えたい衝動をどうすることもできぬ。ましてや諸君を生み、これまで育て、家庭相団欒した諸君の父母兄弟の心を思えば、今次の戦争が無名の師であっただけに、人間として同胞としてはなはだ痛嘆と同情に堪えぬものがある。
しかし、かくの如きはこの戦争に於いて、わが民族の献(ささ)げねばならなかった犠牲 — 国民的罪過に対する贖罪の犠牲に外ならぬ。諸君は同胞に代わって自ら進んでこれに当たり、莞爾(かんじ)として死地に就いたのである。諸君はわれらに対って語る如くである。『今にして誰を恨み誰を咎めようぞ、全学全国民心を一にして祖国再建の事業に当たられよ。これわが永世の悲願である』と。然り、我らは諸君のこの尊き犠牲の上に新たに祖国を再建しなければならぬ。祖国は断じて滅亡せしめてはならぬ。我らは諸君の意志を嗣(つ)ぎ、全学一致団結、国民の中核となり、新日本建設と新文化の創造に邁進しなければならぬ。
諸君の嘗(かつ)て幾たびか集った思い出多き講堂、別しても先年全学の壮行会を開いて此処から出で征(ゆ)いたその同じ場所に於いて、今日追悼記念の式を挙げるに当たり、諸君の霊は必ずや帰り来って此処に在るであろう。その英霊を囲んで、学園にふさわしく何の宗教的儀式をも持たぬ純一無雑な慰霊祭において、不肖ながら自ら祭主となって執り行った我らの衷情を諸君は屹度(きっと)酌(く)んでくれるであろう。
いまわが心の悲しみ拙詠二首、挽歌として霊前に献げたいと思う。
桜花咲きのさかりを益良夫(ますらを)のいのち死にせば哭(な)かざらめやも 戦に死すともいのち蘇り君とことはに国をまもらむ 信愛なる我が同友学徒の霊よ、翼ば饗けよ昭和二十一年三月三十日
(出典:『大学新聞』昭和21年4月1日付)
注:南原繁は敗戦後(1945年12月)に東大総長となるが、空爆が激化した3月、東大法学部長の時期に高木八尺、田中耕太郎などの東大の教授達7人と連携して政府の要人たちと会い終戦への可能性を探った。これは可能性がほぼゼロの中でのことであったが、仮にもこの時期(敗戦の5ヶ月前)に終戦が実現していれば、100万人単位以上の国民の命が救われていたはずである。また終戦1年前であれば200万人以上、つまり戦死者の2/3以上という数字もある。ちなみにナチスドイツも最後の10ヶ月で連合軍に対する「総力戦」(国民総動員)が行われ、それにより民間人だけで200万人が死亡した。
