序文
──世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう。
(人類学者:クロード・レヴィ・ストロース)
戦後生まれの団塊の世代の筆者も、広島や沖縄、特攻隊やナチス関係の本などをいくつか若い時に拾い読みしたこともあるが、当然読むのも気の重くなることが多く、その後はその種の本を読んだり、テレビ報道を見たりすることは極力避けて、いわゆる日本経済の高度成長期からバブル期を経て、その崩壊後の低成長期に至るまで、中小企業で仕事に追われてきた。そして時間の余裕ができてきたころ、ものぐさな筆者にもいろんな情報が追いかけてきた。そこで戦後68年目の8月に、目につくTVのドキュメントや新聞、読まないで放置していた本などにもいくつか触れてみた。当然年齢的に感じやすくなって来ている筆者には、見るに絶えず、聞くに耐えない、そして読むに耐えないものが多かった。しかしそこでみんなが一様に発する言葉があった。 ——「こんな戦争を二度としてはいけない。そのためにもぜひ次世代の若い人たちにも伝えたい」と。それはそうだろう、ではどうしたらよりよく広範囲に伝えられるのか、そこで思いついたのが、インターネットで発信することである。まず考えたのは「わが町の戦争」として、若者を含めた興味のある人が自分の地域のことだけでも読めるサイトの形であった。多少の資料収集を経て、二年後の戦後70年目から東京の各区毎に書き始めた。
ちなみに筆者の生まれた瀬戸内海に面する故郷には特攻用兵器、人間魚雷回天の訓練基地が沖合の島にあり、子どもの頃そこに海水浴に行ったこともあるが、その事実を筆者は高校で友人に教えられるまで知らなかった(今は立派な記念館もある)。また地元は海軍基地や大きな軍需工場があったので激しい空襲にもあっているが、筆者が物心がついた頃にはすでに街や工場は復興して(海軍基地は石油精製基地となって日本の経済復興を支えた)その面影もなく、また高校までまったくその話は学校で教えられなかったし、親も語らなかったし、何の情報もないから自分から聞くこともなかった。ただ近くの広島の原爆の話は時折耳にすることはあった。また母は結婚前、原爆に遭った広島市の近くの山里に住んでいて、その母から聞いたのは、毎日毎日、街からたくさんの死体が自分の村に運ばれてきて、それを毎日毎日焼いていて、その臭いがしばらく消えなかったということだけだった。あるいは婚約者を戦争で失い、生涯独身で暮らしていた叔母も一人いたが、自分ごとではなく、詳しい話を聞くこともなかった。それほどに親の世代は戦争を悪い夢でも見たように忘れたかったのかもしれないし、教育現場でも取り上げるにはこの悲劇的でかつ壮大な無駄のような戦争をまだ消化できなかったのであろうし、メディアも早めに取り上げるのは、大惨劇として世界的に注目された原爆のことからだった。
例えば東京大空襲のことで、その記録をある程度まとめた本が出始めたのが戦後25年前後あたりである。それまでも数々の本が出版されていたが、その多くは軍隊・軍人から見た戦史であり、特攻隊の悲劇的な話である。筆者は東京の空襲被害から始めたが、新聞紙上でその実態がまともに取り上げられるようになったのは、戦後30年も経ってからであった(大空襲の記事は敗戦10年後に朝日新聞に小さな記事として載ったのが最初であり、その後も数えるほどしかない)。これは意外な事実であったが、この辺りから民間の有志者が集まって調査した『東京大空襲・戦災誌 』などの資料が出始めてくる。すでに日本は高度成長期に入っていて、やっと過去を見直す余裕が出て来たのかもしれない。ただこれほど長い間、日本は戦争から目を背けてきていたのであり、そのことがこの戦争がどれだけ日本人にとって大きな負の遺産であったかを物語る。しかも一方で、占領軍GHQは、戦争、とりわけ米軍による空襲被害を思い出させる慰霊碑など建ててはならないという指令を出していて、その影響が7年後の占領解除後も底流にあったであろうし、日本の為政者もその方針を墨守してきた。そうしてやっとメディアや出版社、各自治体も含めて空襲だけではなく戦場の体験記録を集めるようになったのが、およそ戦後40年を経て、昭和55年(1980)のころからである。
ともあれ実際に取り掛かり始めてみると、この戦争による内外の被害の根は想定以上に広くかつ深刻で、当初予定していた時間の何倍以上もかかることがわかり、それは単に戦時中の戦死者や数々の空襲で被災した人たちの悲惨な状況ばかりでなく、戦後になっても戦争被害者が片隅に追いやられ、あるいは差別を受け、今の社会に大きな影を残し続けていることで、一層扱う材料が増えた。それはすでに述べたように近年になって語り始めた人々が増えたこともあり、それに加えて涙なしでは読めない体験記もあり、本や資料で事実を知れば知るほど、どうやってまとめていいか気が遠くなることもしばしばであった。とにかく少しずつでもと、とりあえず想定の何倍以上もかかって取り組んできた。なお「戦時下の大学・女学校」も一校ずつ個別に取り上げているが、男子高校を除外したのは単に数が多く、筆者として扱いきれないためである。
しかし東京都の記述途中で、どうしてこのような無謀な戦争が始まったのかという大きな疑問が生じ、いったん東京都の記述を休止し、明治時代から調べていった。そこで今ではほとんど世に取り上げられない事実が多くあることを筆者自身が知ることになった。また明治27年(1894)の日清戦争から日本は植民地の統治下においても反乱を抑圧するために日本軍がしばしば出動し、鎮圧と虐待、あるいは虐殺を行うという戦争状態が続いていたとも言え、そこで筆者は太平洋戦争の終わる昭和20年(1945)までを「50年戦争」とみなし、「日清戦争から太平洋戦争までの50年戦争」とした。
50年戦争としては現在、日中戦争開戦の年の昭和12年(1937)まで終えているが、この戦争の初期に南京事件が起きていて、その調査も含めてこの年だけでも想定を超える時間を費やした。またその中で日本軍の中国への爆撃の量が半端でないことを知り、それも協力スタッフに当時の新聞・雑誌を図書館で検索して調べてもらい、さらに中国から資料も取り寄せ、逐一確認し記述した。それが「中国における日本軍の年月日別空爆全記録」である。こちらは昭和20年(1945)までを終えていて、ざっと目を通していただくだけでも、その量に誰しも驚かれるはずである。
このほか計画して未着手のものが多いが、その中で当初より気になって一つの項目として取り上げようとしているのが「海洋上の艦船・輸送船・客船の沈没被害」である。戦時下では戦艦だけでなく民間の輸送船の多くが撃沈され、犠牲者は軍民約36万人とされるが、船が沈没すれば生き残りの人は少なく、その正確な記録・証言も少ないから、この惨劇が表に出されることもあまりない。筆者はこうした表に出ない戦時下の被害記録や証言を掘り出すことを主要な目的としている。
それにしても世の中には、上っ面で自分が見聞きしたことだけでわかったように安易に発言する人がいかに多いか、またその種の人たちの発言に一般の人たちがどれだけ惑わされているか、筆者はここまで調べてきたなかでつくづく思う。例えば筆者自身が一つのことを調べていて、その理由・背景などはこういうことであろうと推測的なことを書くとする、しかしその後に違った角度で記録を調べていると、その推測は大抵の場合間違っていることがわかる。これは(筆者を含む)文系の人間が陥る罠であって、研究者の論文にも時折そのような推断を目にする。実証を必要とする理系の世界では見られない傾向である。例えば科学的論文では時折データの改竄による論文の捏造が問題となるが、文系の場合それが表に出ることはまずない。それは捏造がないというわけではまったくなく、持論を述べても実証が必要とされないからで、自分に都合のよい資料だけで主張を展開し、仮に批判をされても無視すればすむのであり、その種の本が立派な出版社を通して出回っていてもほぼ問題とされることはない。理由はその種の本がそこそこ売れるからである。
いずれにしろそうした自己主張の強い人間(政官人を含む)の、裏付けのない思い込みによる軽い発言が世の中に流布され、それらの発言が積み重なると、むやみに差別主義がはびこり、時代状況によってはあらぬ敵を作り、それが人々の思考力を奪い、戦争を生じさせる流れを容易に作り出す(そのなかで理系の人たちは戦争の道具の開発に利用される)。そして実際に戦争が起こって一般国民の多くが犠牲となるわけだが、その後にその流れを作った人間たちが反省することはない。あったのは敗戦直後の首相による「一億総懺悔」、つまり国民も一緒に反省しましょうという言葉であった。
そもそも戦争が起こるきっかけは軍人の暴発であるから、文民統制(シビリアンコントロール)が大事であるとよく言われる。しかし軍人の暴発はあっても小さなきっかけであって、そこから実際の戦争に至らしめるのは「文民」である。例えば日中戦争開戦時の首相は近衛文麿であり、近衛は「暴支膺懲」(横暴な支那を懲らしめよ)との政府声明を発し、事実上開戦に踏み切り、「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」という立派な標語も掲げた。また太平洋戦争開戦直前までの首相も(第三次内閣としての)近衛文麿であった。後者の開戦決定時は東條英機であるにしろ、文民的政治家が下手な正義感をもって戦争に導くことのほうがずっと多い。もとより欧米の民主主義先進国においても文民統制は機能していず、目立った例としては平成15年(2003)、米国のブッシュ大統領が、イラクにおいて実際にはなかった「大量破壊兵器」を保持していると仮想し、英国などの同盟国を巻き込んで多国籍軍としてイラクに侵攻を開始した。これは文民政治家としての大統領が机上でサインして決定し、その管理下にある軍が単純に命令に従って実施したものである。この時の多国籍軍の戦死者は8年間で約4800人で、一方でイラク人の死者は最終的に推定50万人とされている(これこそ米軍等の使った大量破壊兵器によるものであろう)。それほどの多大な犠牲者を出しながら、その後大量破壊兵器はなかったとわかっても、大統領は責任を問われることはなく、自身の反省も謝罪もなかった。このような人の命よりも自分の名誉を優先する無責任な文民政治家は少なくないし、日本でも多くの政治家がそうであろう。
本サイトのタイトルについて
本サイトでは、日本の戦争を扱うにあたり、当初は「昭和の戦争(アジア・太平洋戦争)」を中心に、その全体像を概略的に記述することを目的としていました。その途中、なぜ日本はこのような大それた戦争に至ったのかという疑問が起こり、明治時代から調べ直してみようと、それを海外の被害記録を含めてできるだけ詳しく記述した。その結果、本サイト全体を『日本の戦争 ──50年戦争:その加害と被害──』という「大それた」タイトルで構成することにした。
一つのメッセージ(序に添えて)
1977年に打ち上げられた米国の無人宇宙探査機ボイジャー1号が、1990年2月に土星を過ぎ去る頃(地球から59億km)、一度地球のほうを振り返って写真を撮らせることをカール・セーガン博士が計画し、それを実現した。地球はその広大無限の宇宙の中で、薄暗い茶の帯の中に小さな薄青い点として写っていた。以下はこのことに触れてのセーガン博士の本の冒頭のメッセージである。(『惑星へ』カール・セーガン:朝日新聞社 1996年:原題は“Pale Blue Dot”より)
もう一度、あの「薄青い点」(Pale Blue Dot)を見てほしい。そこに現にあり、私たちのふるさとであり、私たちそのものであるあの点を。
あなたの愛する人も、あなたの知っている人も、あなたが伝え聞いたことのある人も、そしてかってそこにいたすべての人も、みな、そこで人生を送ったのである。私たち人類の歴史に刻まれたすべての喜びと苦しみ、幾千もの確信に満ちた宗教やイデオロギーや経済理論、狩猟者と略奪者、英雄と憶病者、文明の創造者と破壊者、王と小作人、恋人たち、父と母、希望に満ちた子どもたち、発明家と冒険家、倫理の教師たち、腐放した政治家、”スーパースター”に”偉大なる指導者”、聖人と罪人、これらのいずれもが、太陽の光のなかの、ちっぽけな点のなかに存在したのである。
……
地球は広大な宇宙にあって、ごくごく小さな場所でしかない。考えてみてほしい。あまたの将軍や皇帝たちが、勝利と栄光を求めて、このちっぽけな点のそのまた一部でほんの束の間の支配者となるために流された血の川を。また、この点の一角の居住者が、そことほとんど見分けのつかない別の一角の居住者のところに攻め入っては振るった、際限のない残虐行為を。そしていかに頻繁に偏見と誤解が繰り返され、激しく憎悪を燃やし、互いを殺し合おうとしたかを。
……
私たちの心構え、つまり自分だけが重要であるという思い込み、そして宇宙のなかで私たちは特別な存在であるという錯覚は、この薄青い光の点によって、見直しを迫られている。私たちの惑星は、果てしない宇宙の闇のなかの、孤独な点でしかない。その存在のかすかさと、宇宙の広大さを考えれば、私たちを私たち自身から救ってくれるものが、どこか別のところから来るなどとは、望みようもない。
……
地球はこれまで知り得るかぎり、生命を育む唯一の天体である。少なくとも近い将来に、私たち人類が移住できるようなところはどこにもない。もちろんほかの天体を訪ねてはみた。しかしまだ、そこに住みついたわけではない。好むと好まざるとにかかわらず、地球こそが、ここしばらくのあいだ、人類の拠って立つ場所なのである。
……
天文学は、人に謙虚さを教え、人格を育てる学問であるといわれてきた。私たちのちっぽけな天体を、はるかかなたから撮ったこの写真ほど、人間の独善のおろかさを教えてくれるものは、おそらくほかにはないだろう。お互いをもっと大切に扱うこと、そして、私たちが知っている唯一のふるさとであるこの「薄青い点」を守り育んでいくこと、それは私たちの責任であることを、この写真が強く訴えているように、私には思える。
……
この「薄青い点」をじっと見つめたあとでもなお、「そこに住んでいる1000万種もの生物のうちのたった一種類のために神が宇宙全体を創造したのだと、自分を納得させられるだろうか。さらに一歩進めて、わずか一つの種、あるいは一つの性、一つの民族、一つの宗教のためだけに、すべてのものが創造されたのだと想像できるだろうか。もし、こうしたことがあり得ないことではないと思うのなら、別の点を見てほしい。その小さな点に、私たちとは違う知的生物が住んでいて、彼らもまた、彼らのためだけに神がすべてのものを創造したのだと信じているとしたら?あなたは彼らの主張を、どれだけ真剣に受けとめるだろうか。
……
哲学や宗教は、神々は私たちよりはるかに強く、自分たちの特権を守るために用心怠りなく、傲慢が限度を超すとただちに正義を行使すると、注意を喚起していた。同時にこれらの教義は、いかに宇宙が秩序づけられているかについて自分たちが教えている内容が、独断や妄想でしかないことには、まったく気づいていなかった。… つまり彼らが堅く信じていることが誤りであるかもしれないなどとは、考えもしなかった。教義でいう謙遜など、他者が実践すればよいことだった。しかし、実のところ、彼ら自身、自分で意識しているよりはるかに、謙虚であるべきであったのだ。
……
「あの星をごらん」、父親がこういうと、娘は聞き返す。「あの明るい赤い星のこと?」
「そう、あの星は、もうそこにはないかもしれないんだよ。爆発するか何かでね。星の光は遠く宇宙を越えてきて、ちょうどいま、私たちの目に届いたんだ。でも、私たちが見ているのは、その星のいまの姿ではなくて、過去の姿なんだよ」
この単純な事実にはじめて出合ったときの驚きを、多くの人が経験したことがあるに違いない。
……
恒星や銀河から私たちのいるところまでのはるかな距離を考えれば、私たちが宇宙で見ているものは、みな過去の姿である。なかには、地球が誕生する前のものもあるだろう。望遠鏡は、つまりはタイムマシンなのである。遠い昔、生まれたばかりの銀河が周囲の闇のなかに光を放ち始めたころ、それから何十億年もたったあと、あるところに岩石や金属の塊や氷、有機分子が寄り集まって地球と呼ばれる天体ができることなど、だれが知ることができたろう。ましてや、そこで生命が誕生し、考える生物に進化して、ある日、その銀河の光をわずかに捕らえて、その光はいったいどこからきたのかと考えをめぐらすなどとは、だれが想像できただろうか。
そして、おそらく今から50億年ほどたって地球が死を迎えたあと、つまり地球がカリカリに焼けるか太陽に飲み込まれてしまったあと、誕生するであろう新しい惑星や恒星や銀河のだれが、かつて地球と呼ばれた場所があったことを知るだろうか。
……
筆者私見:「人間の独善のおろかさを教えてくれるもの」、そして自分たち人間という存在に奢らずに「謙虚であるべき」という知見を、われわれ人類は科学によって地球を外側から見るに至り、宇宙の深淵を解明するにつれ、すでにして認識して来ているはずなのである。しかし、なかなか人間は我欲と自己中心的思考が捨てられず、科学が進歩しているほどには客観的思考が身につかず、従って学習能力が思っているほど進んでいないことは、同じ科学による近代兵器によって世界的な大量虐殺を招来した第二次世界大戦(日本では太平洋戦争)を経てもなお、世界の中で地域的な戦争が頻繁に生じ、新たに開発された兵器による虐殺が続いていることでもわかる。
太平洋戦争は、(今は重要視されていないが)その4年以上前から日本が起こした日中戦争の長期化・泥沼化に対して、日本に制裁を加えてくる米英を中心とした諸外国の圧力を覆そうと、日本が国のプライドを掲げて一発逆転を狙って仕掛けたことによる。それは真珠湾攻撃だけでなく、英領マレー半島や香港、インドネシアに対しても同時多発的に奇襲攻撃を仕掛けたもので、大東亜共栄圏建設とは名ばかりの標語で、中国以外の東南アジアの石油等の資源を狙っての戦争であった。その結果、日本の内外においてどれだけの人々が犠牲になったか。軽く、ナチス・ドイツによる第二次世界大戦の犠牲者に匹敵することがわれわれ日本人の中で自覚されていないのはなぜなのか。
カール・セーガンはアメリカ人であるが、第二次世界大戦後もアメリカの大統領の幾人もが、アメリカという「正義の国」のプライドを掲げて、朝鮮戦争やベトナム戦争を代表として、数々の他国への介入戦争を引き起こしてきた。それ以外にも歴史が後戻りしたような民族紛争が世界各地で多発し、殺戮が繰り返され、多くの子供たちが泣き叫び、飢えと恐怖に震えながら死に至っている。
今、人間は、その人類という種全体の歴史の中でどのような時期(幼年期・少年期・青年期などの時期)に存在しているのだろうか。そして人間個々人の命と同様に、人類もいずれは死に絶えるのである。なんのために今、この宇宙の中の極小の点の中において、自分たちがこの命を授かっているのか、そうしたことを感じる心を持った人がどうして国の指導者とならないのか。せめて世界の政治家たちが4年に一度でもよいから、もし可能なら国際宇宙ステーションに定期的に集って、そこで宇宙の中での地球の危うい姿を眺めながら首脳会議を開催してもらいたいと願う。もっとも、尊大な類の指導者の中には、その地上から400kmの高い位置からして、ますます自分が選ばれた特別な人間だと勘違いし、むしろその尊大さを増し、権勢欲を高めていく人間もいるのであろうから、人間というものは厄介で、なかなか戦争もなくならないのである。
ここに一つの至言がある。
—— 「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」
(人類学者:クロード・レヴィ ・ストロース )
君死にたまふことなかれ(与謝野晶子の詩)
——旅順の攻圍(包囲)軍にある弟宗七を歎きて——
日露戦争最中の明治37年(1904)、詩歌・文芸雑誌『明星』の9月号にて発表
ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ。
末に生れし君なれば
親のなさけは勝りしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せと敎へしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までを育てしや。
堺の街のあきびと(商人)の
老舗(しにせ)を誇るあるじにて、
親の名を繼ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ。
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家の習ひに無きことを。
君死にたまふことなかれ。
すめらみことは、戰ひに
おほみづからは出でまさね、
互(かたみ)に人の血を流し、
獸の道に死ねよとは、
死ぬるを人の譽(ほまれ)れとは、
おほみこころの深ければ
もとより如何(いか)で思(おぼ)されん。
ああ、弟よ、戰ひに
君死にたまふことなかれ。
過ぎにし秋を父君に
おくれたまへる母君は、
歎きのなかに、いたましく、
我子を召され、家を守(も)り、
安しと聞ける大御代(おほみよ)も
母の白髮(しらが)は増さりゆく。
暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかに若き新妻を
君忘るるや、思へるや。
十月(とつき)も添はで別れたる
少女(おとめ)ごころを思ひみよ。
この世ひとりの君ならで
ああまた誰を頼むべき。
君死にたまふことなかれ
戦争を非難するこの詩は国賊的であるとして、当時同じ詩人家たちからも大きな非難があった。それに対し与謝野晶子は、「歌(詩)は歌である。誠の心をうたわない歌に、何の値打ちがあるのか」と反論した。
(2025年7月記)