戦時下の精神病院

 以下は『声なき虐殺—戦争は精神障害者に何をしたのか』(BOC出版、1983年:塚崎直樹)から、東京世田谷区の松沢病院に関わる部分の抜き書きである。著者の塚崎は京都大学付属病院の精神科に勤務していて、病院の図書室で戦時中の患者のカルテを見つけて一部を読み込み、その実態に触れ、退職後に改めて関連の調査を始め、体験者や看護師、親族等の聞き書を本にした。

〇 浦野シマ(元松沢病院病棟婦長)

<猛火に包まれて>

 松沢病院では男の患者さんは男子の看護者(現・看護師)が看て、女子は女子の看護婦が看ていました。昭和16年ごろ、男の看護者が皆召集されたり、徴用とか軍需工場とかに流れて行ってガタンと減り、男の病棟を初めて私が受け持ったのです。患者さんは、女はうるさいとかで、いろいろわがままも言ってきます。戦争で食糧が少なくなると動けない人も増え、合併症の病棟がいっぱいになって、私たちの受け持っている病棟でも、一部屋を六人から八人ぐらいのを合併症の部屋にした。いろいろな病気があって、一方では動く患者さん、一方では合併症、どちらかに主力を置くわけにはいかず、看護が両立しなければならない。

 私たちはできるだけ患者さんに尽くすように努力するのですが、それでも頭から病院を拒否してかかってくる。院長にしろ、管理者にしろ、人間を束縛しているという不満をいっぱい持っているのです。「こういう食事によって人間が生きていけるか、病院の看板をおろせ」など、絶えず文章を書いて、つきつけてくる。首班になる人は東大の法学部出ているので、理路整然で、絶えず新聞を見ていて、どこの病院ではどのくらいの配給量の米を確保したとか、三度の配給がごはんちゃわん一杯で、米何グラムになるというふうに、私たちにむかってくる。確かに少ない。だから食事をするときには、担当の先生とか医長ぐらいは一緒に一つの物を食べるとか、患者さんとの心の交流ということに力を入れていた。少しでも食糧を多くしようと、病棟の周りを一緒に開墾した。ジャガイモやカボチャを植えるとか。できた物を医局へ持って行って見せるとか。

 松沢病院には池があります。その池のほうに運動に連れて行くと、その人たちがまた言うわけ。あの池はただ歩くだけでは駄目なんだ、やっぱり池をながめたり、ひと休みをしたり、そういうことをしないと意味がないんだとかね。なるほどそれはそうだと、病院側に要求して、あちこちにベンチを作り、ベンチに名前をつけようと。そういうことを懇談会なんかで真剣に考えて。しかし、いくら私たちが努力しても、患者さんの不平不満というのは取れない。大きな問題、小さな問題、いろいろ出てくる。私たちはその患者さんだけが対象ではないので、ほかの患者さんが大勢いらっしゃる。身体的合併症のある人たちをなんとかしようとする。患者さんは、私たちが力をつくして、もののわからないような人たちを大切にして外へ連れ出すようなことをしているのを絶えず見ている。そういうことが患者さんの印象に作用して、少しずつ好意的になってきました。あるとき回診で、医者が配膳室を少しのぞいて「少ないですよ。婦長がもう少し給食に言って、増やしてもらわないといけないですよ」と、注意して行ったんです。すると配膳の手伝いをしている患者さんが、ツーと走って行ったんです。どうしたんですかと聞きましたら、「たまたま回ってきて、一生懸命がんばっている病棟の看護婦に何ごとだ」と怒っていたのです。「はり倒してやろう」と怒っていたんですよ。とにかくそういうふうに、患者さんというのは、人の心のありどころを実に良くとらえているなと思いました。

 かわいそうと言えば、ほんとうに食事は少ないし、家族は何も差し入れないし、補給といえば、自分たちがやっとつくったものを70人か80人で分けてるので。それと冬の寒さ。燃料がないでしょう。看護婦がついて行ってタキギをかき集めてくる。病棟の中には火鉢があっても、炭の配給なんかものすごく少なくなって、小さい火に大勢の人があたる。あたれない人もたくさんいる。衣類の配給だってほんとうに少ない。家族からも送ってこないし、寒さもこたえたと思う。夏はハダカでいる。ハダカはいかん、なんていうのは服のある時のことで、後にはハダカでも仕方ないというまでなった。少ない衣類の不潔の問題も出ました。家政課に出すと機械でやるので、4、5日から一週間に一回ということになる。それをどう解決するかということで、病院が病棟全体の周りに井戸をたくさん掘って、そうして患者さんと一緒になって洗って着せかえた。

 病状の悪い患者はよその病棟へ移さなきゃならないのですが、かわいそうで移せない。少しうるさくても、できるだけめんどうを見た。70人で受け取った患者さんが90人を超えて、7人の部屋には8人とか、中には9人寝てもらうことになった。そうすると、みんなが「法律的に刑務所のスペースを知っているか」と、そういう出方をしてくる。「今の病棟は刑務所より悪いぞ」って、追求してくる。合併症とか問題のある人がまじってると看護はやりにくい。何しろお風呂は非常に制限されてるので、気がつかないことが多く、患者数の限界はあると思いました。食糧事情だけでなくて、衛生面も悪い、暖房もない、気温の変化に対応できない、といった環境の悪さが患者の生命を縮めたのでしょう。

 患者さんは、一つの病棟に重症患者を入れるのをほんとうに嫌います。しかしその重症患者たちを移す場所がない。だからその人たちの持ち物はできるだけ消毒する。薬品がなくなってからはタキギを拾ってきては熱湯消毒です。なるべく患者さんに安心感を与えるようにしました。患者さんたちが指摘したことは、なかなか鋭いことが多かった。たとえば勤務の二交代制。朝8時から16時間働いて深夜の12時に交代する。それを病院側に指摘しましたよ。若い看護婦、まして女性を深夜重労働させるとは人道上の問題であるということを紙に書いて院長に直接持って行ったり。精神病院の改善のために生まれて来たような人だと思いました。ほんとうにかわいそうに、(外では)にくまれ、にくまれ続けている人たちだけど、これが病院を改善していくことなんです。

 そういう人たちに良い面を強調してあげると、非常に強力に病院の行事などに参加してきます。消防の防災係が出来て、毎日午後になると訓練をする。バケツリレーだとかはしご乗りだとか、どこに焼夷弾が落ちたらどう消すかとか、逃げる時にはきものをはく訓練とか…。すると「動けない患者さんはおれが背負ってやるよ」、「あの人はおれが引き受けた」とか言ってきます。男の患者さんは社会的連帯感が強いのですね。大詔換発(太平洋戦争開戦に際し、天皇の名により対米英宣戦の詔勅が渙発されたこと)で、諸官庁ではみなその大詔を読み上げたりして意気高揚するわけでしょう。「おれたちも日本の国民だから」と、午前7時に中庭に全員集合、「どんなことが起きようと、自分たちなりに対処していこう」と、気を引きしめていきました。そうすると、自分たちの生活条件も良くしていこうという意見が出る。戦況の情報を与えようと、壁新聞というのを患者さんのリーダーがつくって普及して行った。それから健康には生活をきちんとしていくことが必要だと、昭和16年ころ、日課表を作り上げたのです。朝6時に起きる、食前の手洗いをする、食後の片づけを当番でする、とか。これはわからない人に意欲を持たせるのに有効に働きました。患者さんが患者さんに教える。看護婦がやるよりよっぽど患者が動く。病棟全体が活気づいてきました。

 お正月になると初詣に行きたいと言ってきました。看護婦は朝は2人で、80人の世話にてんてこ舞い、とても朝の5時についていけない。で、許可をしました。ところが患者さん同士に責任を持たせると、(本来なら外出が許されない患者に)お前はダメだとは言えない。一人や二人は増えてしまう。それが逃走をねらってる患者です。ずいぶん逃げられた。お正月の一日、二日、三日と、始末書出して落ち着くまで、ずいぶん大変でした。逃げたと警察に報告すると「公」のことになるわけ。だからまず自分たちで探すというのがその当時のあり方です。それで八方手を回して探して歩いた。お医者さんは「それで働けるのならいいだろう」というのですが、逃げると看護婦の責任になる。問題によっては譴責処分です。先生方は「死ななきゃいいんだよ、逃げたって恐れるな」なんて言うけど、看護婦はどこまでも追求されます。そんな私たちの情況を見て、連れていった責任者は非常に気の毒がってくれましたけど。

 松沢病院は定期的に勤務交代するが、私の交代期になると留任運動になった。(患者さんが)巻紙に長い理由を書いて、数十人の連名を全部書いて、院長に提出します。それでも交代になって、女子病棟を受け持つようになった。私が移ったあと、後任の婦長さんが病棟の周りを開墾したら、炭が出てきて、二十俵ぐらい出てきた。戦時体制に入る前は、消耗品とかとても豊かで、男の患者さんは、よい炭だけ使って、細かい炭はみな捨てていたものだった。

 そのころは毎日毎日空襲警報。今みたいに公休というのがなく、深夜の勤務をして朝の引き継ぎを終えると、午前中勤務して翌朝まで寮に引けるけど、警報が鳴るとすぐ飛んでくる。だから夜なんか、寝ると言ったって靴なんかぬげない。防空ずきんの上に鉄かぶと、モンペのまま寝る。着たまま寝るとノミがつく。寝たと思うと警報で、また起きる。防空壕が中庭に掘ってあって、警報というとそこへ一時退避。患者さんや職員には「早く入りなさい」と言うけど、私は一回も入らなかった。みんな入ってしまったら誰が情報伝達するのですか。副婦長さんで、親に帰ってこい、帰ってこいと言われて、警報が鳴るたびに「どうしよう、どうしよう」って言ってた人がいたけど、私は父に引導を渡されて、「お前は病院と生命を共にしなさい」と言われてたから、気は楽でした。だから未練なく働けました。

 5月25日は、何となしに落ち着かなかった。今夜あたり来るかしらと。そしたら代田橋のほうから花火が落ちるみたいに、きれいに落ちるんです。ああ落ちて来たと。それから病棟の中じゅう、「集まって、集まって」と、各部屋をどれくらい回ったかしれない。患者さんの中には、「いま行きます。帯を締めてから行きます」なんて言って、繰り返すだけの人、動かない人もいる。私より体の大きいおばあさんは、「死ぬからいいんだ」と、腕をつかませない。最後には出しましたけど。最後にもう一度部屋をのぞいて、誰もいないように思ったので、病歴(カルテ)を全部背負いました。そのときはもう廊下を火が走って、早いですね。これで出たら最後、自分の荷物は全部置いてあって、みんな灰になるのだな、と思いながら病棟を出たら、「婦長さん!」と呼ぶ。「患者さんが二人わからないのです」と。いつも自殺意図のあったKさんは、と聞くと、「います」。「じゃ、誰だろう」「誰だかわかりません」。それで病歴を渡して引っ返すときに消防士さんが遠くを通ったものだから、「患者さんが二人たりないんですよ」と怒鳴ったら、「よし、引き受けた、大丈夫だ」という声が戻ってきた。ホッとしました。

 病棟に戻ると柱だけが残っていて、下一面、火でしたが、何か患者さんが助けを求めているのではないかと飛び込もうとしたら、それを両脇にいた看護婦が押さえたということを、あとで聞きました。ともかく夢中だったのですね。それで引き返したとき、あの池、池が全部火でした。ほうぼう燃えているのが映って、病院全体火の海でした。深夜でしたけど、B29が烏みたいに真っ黒になって飛んでいて、全く何とも言えない一晩でした。

 焼け跡に行ってくすぶってるところを二か所みたら、そこに患者さんがいた。一人は寝たまま、ふとんかぶったまま死んでいて、一人は向こうのほうに動いて死んだようです。そのときの女子部の医長が林先生で、ずいぶん焼夷弾を消してるんですよ。先生から「直撃ならしょうがないんだよ」と勇気づけられました。夜が明けたとき、二人でぼんやり焼け跡に立って、先生の顔が真っ黒だったことを覚えている。焼けちゃって何一つない。身軽になって、気楽になりました。

 それから患者さんは別の病棟に移って、私たちもそこへ行きましたけど、そのとき助けた患者さんが、そのころ食事がよくないでしょう、恨んで恨んで、「あのとき死のうと思ったのに、助けたからこんなみじめな思いをする。こんな思いをするのがイヤだから死のうと思ったのに」って、毎日怒鳴って、怒られました。戦争というのは、そういうことですね。
(1981.8.23採録)

〇 北島治雄(敗戦当時、松沢病院 看護人)

<犬も食いネコも食いつくして>

 戦時下の精神病院で最初に起こるのは栄養失調です。栄養失調もいろいろあって、一番初めは夜盲です。夜盲の時期が過ぎると今度は睾丸がはれて、こんなに(手まり大)になってむくんじゃう。それが過ぎるとマブタがはれる。次は全身がむくむ。その次は全くむまない。むくんでるうちはまだ栄養があるのです。一番困ったのは食糧です。世間では皆、ヤミをやってたけど、精神病院では遅配、欠配。燃料もない。そして大勢の患者さんが栄養失調で死んだ。死んだ患者さんは、最初は火葬場へマキを持って行って焼いてもらったが、しまいには焼いてくれない。それで当時、杉山と言っていた今の講堂の後ろ側に埋めたのです。相当埋めました。戦後、昭和22年か23年ごろ堀り出したんですが、二百体以上あった。初めのうちは一人に一つの穴でしたが、間に合わなくなって大きな穴を掘った。死ぬと霊安室に持って行きますが、10体なり20体なりたまると穴へ入れる。穴は全部はふさぎません。はじっこに置いて泥をザザッとかけて、残っている穴にまた入れた。初めのうちは墓標なんか立てましたが、しまいにはそんなもの…。着物も初めは着せてましたが、最後には着物もなくなって、はだかでまとめて入れたのです。一番ひどいのが、昭和19年、20年でしょう。16年ごろは、まださほどじゃない。戦争が始まったばかりで、勝った勝ったって言ってる時分だから。配給制度がひどくなったのは18年からで、食糧事情はそんなに悪くなかった。 一番ひどかったのが20年です。5月25日、松沢病院も焼けて食糧がなくなったうえに塩がなくなった。塩けのないのが何日も続いて、塩けがあればむくむんですが、塩がなければむくみません。米なんてほとんどない。お汁に入ってる菜っ葉もジャガイモの葉みたいなもの。患者さんの配給の酒は物々交換です。松沢病院は広いんですが、運動場でも土手でも空き地でも、サツマイモやトウモロコシを植えた。

 患者さんで生き残った人と死んだ人がいる。生き残った人には三通りある。自分で作業能力があってイモやトウモロコシを作った人と、ちょろまかすようなこすい人。それから何にもしないで、昏迷状態みたいな、じっと部屋の隅にいた人。じっとしてるからカロリーを消耗しなかったんです。破瓜型(統合失調症)のウロチョロしたのは皆ダメだ。緊張型の昏迷でじっとしてるのが助かった。

 燃やすものがないから風呂がない。不潔になる。ノミとシラミがうんといて、 疥癬ができて、シラミがまたそれを媒介する。ふとんもないので敷きぶとんを部屋の中にずっと敷いて、何人でも寝かして、上から掛けてやる。だから疥癬がふえる。冬は、周りの木を、生木を切って燃やすので、病棟はススで真っ黒。食える草という草はみんな食った。ヘビは食う、カエルは食う、ネズミも食う。犬がうっかりして入ってくると、つかまえて食っちゃった。職員も食えば患者さんも食った。ネコでも何でも、食えるものは皆食ったですよ。今では想像つかんでしょう。

 今の精神病院では、暖房設備がどうの、栄養がどうのというけれど、カロリーも何もあったもんじゃない。配給は一般より多く、一般が二合1勺(1日の米の量)のとき二合三勺だったんですが、それは初めのうちで、しまいには遅配、欠配です。補充もつかないし、あるもんでまかなわなきゃならない。そのうち空襲が激しくなって、家族との連絡もとだえる。家族も死んじゃったかもしれないわけ。中には、こっちから危篤と電報を打っても誰も来ず、相当経って来た時には死んでたというのもあります。戦後何十年も経ってから、親の遺産分配で奄美大島からはるばるたずねて来た人もいる。戸籍上生きてるんですが、死んだという手紙を頼りに来て、何か証拠をくれと言う。衰弱で死んだという看護記録をコピーして渡したら、助かりました、とても喜ばれました。

 最後には、カルテも看護記録も、書く紙がなくなった。それでも、入院した時と死んだ時ぐらい書いとこうじゃないかとね、みんな、持ってる本を持ち寄ることにした。本から便せんから、何か印刷してあるものでも裏返して使った。インクもない、どうしたかというと、夏になるとハナガラという草がある。その花をしぼるとインクの色が出るんです。それから、古い荒物屋には三角の染粉を売ってましたが、それをとかして使うとか、山ゴボウとツゲの実が秋になると紫色になる、その汁なんかで記入しました。紙もインクももったいないから、半ページで入院から死ぬまで書いちゃった。重症になっても栄養失調になっても、経過は書けませんよ。でも、それがあるから、死んだ、生きた、がわかったのです。いま考えたら、うそみたいですが。

 死んだ人は大きな穴にまとめて入れて、ちょこちょこと土かけて…。六月の入梅になると腐るでしょう。腐ったやつがしみ出してくる。グジュグジュグジュと、いまだったら犬が食っちまうかもしれないけど、その時分は犬もいない。院内へ入った犬は、みんなつかまえて食ってたから…。

 空襲前に避難訓練とか防火訓練とかやったけど、あんなの、いざ空襲が来ると役に立たない。バカバカしいと思いましたね。いざ空襲になって、病棟が燃え、社宅が燃え、患者さんは焼け死んだしね。伝令なんかやっても何もわかりません。こすいやつは職場放棄して家に逃げちゃったのもいる。まじめなやつは駆けつけたけど。

 昔から特定の人の作業療法はあったけど、開放だとか何だとか始めたのは、必然的に戦時中からでしょうね。 逃げて家に帰っても、配給だから食い物がありゃしないから。井の頭公園まで根っこ掘りに行ったこともある。井の頭公園というのは大きな杉山だった。それを軍隊が杉を切って持って行って、根っこが残ってた。その根っこを都からもらって掘りに行くわけですよ。患者連れて大八車引いて。要するに燃料です。炊事は石炭燃やして蒸気でやってたけど、何もなくなっちゃって、根っこを燃やした。院内にたくさん生えていた桜の木も切って燃料にした。根っこ掘りはお昼の弁当にメシが少しよけいつく。それで患者さんも大勢連れて行ったのですが、それで開放(病棟)や作業(療法)が盛んになったというか、これが発端じゃないだろうか。戦後になって、開放だとか生活指導だとか作業指導だとか言ってるけど、戦争のお陰というか、何もなくなっちゃったから生きるためにやったんでしょうね、理屈ぬきに。いまは皆、理屈つけてるけども、看護者と患者なんていう区分も、その時分にはなくなっちゃった。一団になってやってかなくちゃ生きていかれないから。

 風呂もなくて、誰かがどっかからドラム缶二つ見つけて来た。燃すものは病棟で調達しなければならない。病棟で調達するといっても、病院の中の木を切っておいて、干して、割ってね、水の中ににつけといて燃せば、すぐ燃えるんですよ。でも、一つに一人しか入れないでしょう。ひと月に一回風呂に入れりゃいいほうですよ。

 体重の限界は何キロか…。平均42キロでしょう。40キロになるとバタバタいく。中には47-50キロ近くの人もいるし、32、3キロの人もいますが、全員の平均が42キロだったら大変だ。45キロなら大したことはないが。それと、平均体温が36度切ったら大変です。栄養失調になったら、体温なくなっちゃう。36度5分なんて出る人、少ないですよ。脈も60なんてありゃしない。少ない人は50いくつです。栄養失調が進むとむくまなくなる。きのうまで作業に出ていた人が、今日はかったるいから休むと言う。その日はメシを食う。翌日になって、朝メシは食うけど昼メシは食いたくないというと、夕方死ぬわけです。朝食いたくないというと昼ごろ死ぬ。一食抜くと、たいてい死にます。食う元気もなくなっちゃう。「墓穴を掘る」という言葉があるけれど、自分で掘った穴へ自分で入った、というのが松沢でしょうね。作業治寮の一環として、先に穴を掘っておくんですよ、いっぱい掘っとかないと間に合わないから。その、自分で掘った穴に入った患者がいるんですよ。きょう作業に出て掘って、翌日かったるいから休む、その翌日に入っちゃったという男がいるのです。うそみたいな話ですが。

 昭和19年からは看護者もいなくなった。徴用もあった、兵隊もあった、しかし軍需工場へ行っちゃうんですよ。給料がいいから。それでも松沢が助かったのは、空襲で本館が燃えなかったこと、食糧倉庫も燃えなかったからだろうね。焼夷弾が相当落ちて、職員も死んじゃったし、患者も二人死んだ。一回外へ出したけど、荷物を取りに入ってね。

 医者も幾人もいない、看護者はいないから夜勤がいない。それで、しっかりした患者を看護者代わりに夜勤に立てるんですよ。職員は夜勤に立つと代休くれるんですが、代休もとれないし、金もくれない。いなくちゃ困るから残った。理屈抜きだね。私なんか、ひと月家に帰らないことがあった。そしたら女房が、昭和17年生まれの長男をおぶって、自転車で松沢まで来た。父ちゃんいるのかいないのかって。その時分は電話があるわけじゃなし、死んだら何か通知があるから心配するなって。

 欲得じゃないんだね。労働意欲とか勤労者とか言うより、生活の場なんだね。患者でもなければ看護者でもなくなっちまって。看護者というより団体のまとめ役だったんだね。そうしなかったら、一病棟に患者50人で3人か4人しかいないんですよ。中には体こわすやつもいれば、いなかで誰か死んだと言えば休みをとる。どうなります。夜勤も間に合あなくなって、わかった患者さんに鍵渡して夜勤させたっていうのが現実ですよ。そういう時分になってくると、患者さんのほうもそぅいうもんだと思うし、逃走するやつもほとんどいないし。それでも逃走したやつがいるんですよ。ところが二日ぐらいしてへ病院へノコノコ戻って来た。どこへ行っても食いものがない。病院に着いてホッとしたというのです。

 いまひとつ、ほかの病院が燃えて来た患者、その患者は早く栄養失調で死ぬんです。それに昭和19年ごろから戦争が激しかったので、他府県の患者は他へ疎開させ、帰しちやった。患者も少し死んで空き病棟が少しずつできてきた。そこへ、よそから来た患者を50、100と入れるわけですが、それがだんだんいなくなる。なぜかって、生活の場がないんですね。松沢にずっといる患者は生活の場を持っている。松沢にずっといる患者さんは、何とかかんとか食料の確保について、友達仲間もいるし、融通もつくわけだ。よそから来たのはそれがないから、離れ小島で栄養失調になっちゃう。自然にいなくなっちゃう。二、三ヶ月でね。だから生き伸びたほとんどは松沢の患者なんですよ。物交するったって何するったって、生活の場が持てなかったわけだね。

 栄養失調がうんとひどくなると、元に戻るのにどれくらいかかると思います。 むくまなくて、体がガサガサするまでやせたのは、一年以上だね。カロリー入れて点滴して、一年以上かかる。やせちゃったのに栄養入れるでしょう。だんだんむくむでしょう。むくまなくちゃ困るわけですよ。むくむまでにいい加減時間がかかる。最初から一度に栄養を入れるわけにいかないでしょう。おかゆやなんかで少しずつ入れなきゃいけない。

(1981.1.30 採録)

〇 神谷健一(仮名:敗戦当時、松沢病院入院中)

 私が最初松沢病院に入院したのは、昭和17年で、それから昭和24年まで入院していた。当時は食糧というものが、スイトンみたいな、ダンゴみたいなものでね。朝食はパン、夕食はごはんで、昼食はスイトンみたいなものです。やせていく人が多かった。むくんできて、またやせていく。私は普通の状態でした。 私は作業にも出ていず、食事を増やしてもらうということはなかった。面会はありました。食べ物の差し入れがありました。ふた月に一ぺんか三月に一ぺんです。入院していたのは状態が悪い人の入る閉鎖された狂操病棟でした。その時分、たたみじゃなくて直接床に寝ていた。人数は部屋に一人か二人、多くなっても三人までで、暖房は全然なく寒かった。とにかくいつも寝てたから、外出とか散歩とかは全然ない。部屋にいて寝ているだけで、ほとんど動かない。他の病棟で状態が悪くなった人が入るような病棟で、毎日病棟の中庭というのに出るのだけれど、中庭に出てた人がいなくなると、どうしたのかと思うと、たいがい死んでた。毎日中庭に出て、煙草をすわせるために出る。出るたびに誰かいなくなる。あの人はどうしたんだと聞くと、「いった」と看護人が言う。つまり死んだということ。亡くなるのは毎日三人くらい。病棟の中に28、9人ぐらいいたけれど、そこから毎日3人ぐらい亡くなっていた。それは昭和19年か20年ぐらいです。しかし、亡くなる人も、私からは普通のように見えた。空襲ということで一晩か二晩、全員が他の病棟へ移ったことがある。防空壕というのには入らなかった。

 狂操病棟にいると、病院全体がどうなっていたかなんて、わかりません。ともかく外へ出さないんだから。狂操病棟というと、すっぱだかでいるような人のいる病棟だから。昭和17年ごろは運動会とかあったけど、狂操病棟の人は連れて行かない。散歩にも連れて行かない。食事も部屋の中、トイレも部屋の中。食事は部屋の小さな窓みたいな所から入れる。当時はシラミがものすごく多かったね。寝ていると、ともかくかゆい。見るとシラミだらけで、寝間着の内側にくっついている。洗たくはしない。寝間着はずっと着っぱなしで、風呂にも入らない。昭和19、20年ぐらい、一年ぐらい全然風呂がない。入院したころは風呂はあった。看護人とか医者は、戦争の影響で減ったというようには見えなかった(注:彼が入院した頃はすでに多くが徴兵されていた)。診察なんていうのはなく、ただ顔を見に回ってくるだけで、毎日顔を見に来る。あいさつ程度の話はしたけど。患者の中に働く人がいて、そういう人がトイレを入れかえる。掃除もみんな患者がやる。そんな作業をしている人で死んでいく人もあった。ほんとにたくさん死んだ。季節には関係なく、どんどん死んで行った。食事は戦争が終わっても、あまりましにはならなかった。良くなったのは病院が変わってからで、昭和24年ごろです。

(1982・6・29 採録)注:シラミはこの時期日本中にいて、特に集団疎開の子供達もシラミに悩まされた。