東南アジアにおける刑死者

東南アジアにおける刑死者

—— 泰緬鉄道捕虜虐待事件 ——

 太平洋戦争中の1942年から1943年にかけて、日本軍はタイとイギリス領ビルマ(現・ミャンマー)間約415kmの軍用鉄道建設を敢行し、その建設に連合軍の捕虜(主にタイの収容所)やアジア人労働者を大量動員し強制労働させた。動員数は現地アジア人労働者が約20−30万人、連合軍の捕虜(主に英豪蘭軍)が約6万2千−5千人とされ、この泰緬鉄道の建設約1年4ヶ月の期間中に、約1万数千人の連合軍の捕虜が、飢餓と疾病と虐待のために死亡した(ほぼ4、5人に1人)。これは極めて短期間に険しい山岳地帯と密林を切り開くという過酷な工事が進められた結果である。このため戦後の1946年10月、英豪軍は捕虜に対する国際法違反として建設を強行した日本軍と管理者たちを起訴した。その結果日本人将校以下66人、朝鮮人軍属29人が戦犯として収容され、そのうち、日本人27人、朝鮮人8人が絞首刑に処せられた。

 一方でアジア人労働者の死亡数は、約4万人−7万人と推定されているが(アジア人に対する裁判は行われていない)、この曖昧さこそが日本軍の無謀な工事とずさんな管理が行われていた証となっている(ソ連によるシベリア抑留者の強制労働の死亡数ですらこれほど大きな落差はない)。

 結果的にこの戦犯裁判では、下級者に重く、司令官に軽いという傾向があるとして、英国本国でも問題視された。事実、この工事を強行したのは日本の大本営であり、鉄道関係の司令官も有期刑で済み、死刑の大半は捕虜収容所の監督者たちで、なかでも軍属として現場で雇用されていた朝鮮人8人が絞首刑とは気の毒である(後述の「台湾・朝鮮人軍属の刑死者」参照)。

 なお、この日本軍の泰緬鉄道建設は、ビルマ経由の援蒋ルート(米軍の蒋介石中国軍への物資援助のためのルート)を遮断し、この後に計画されたインパール作戦を成功させるためともあり、翌年開始されたインパール作戦は日本軍における最大の無謀な作戦とも言われ、参加した日本軍に約9万人のうち約3万人以上が死亡している。

水谷藤太郎

 宇都宮市。陸軍士官学校卒業。陸軍少佐。昭和21年11月22日、シンガポール・チャンギに於て刑死。61歳。

<遺書>

 敗戦の犠牲として死刑の宣告を受け、刑務所に於て絞首台上の露と消えるのは残念なり。然し是れは個人的の考えにて亦誠に巴むを得ざるものあり。…… 予は妻子に対し面目なきを如何にせん。多謝多謝。最後に家族近親の幸福を祈る。

<収容日記>

 昭和二十年九月二十四日泰(タイ)国盤谷(バンコク)バンアン刑務所に戦争犯罪者の一人として収容せらる。昭和二十一年三月十三日シンガポール・チャンギー刑務所に移送せらる。収容後は一回の取調べもなくも五月十七日軍法会議の公判を開始せられ奮闘努めしも遂に六月六日死刑の判決に接す。理由は泰緬鉄道建設中数千の俘虜を管理する収容所長として多くの俘虜が衣食住の不十分より数千の病者を出し次から次へと死去せしめたるは人道に悖りたる行為として国際法に違反したると言うに在り。理由は何とでも附け得ベし。洵に己むを得ざるものあり。…… 勿論万蔵を三唱し元気に旅立せしものなるは此の点喜んでくれ。…… こんな刑務所に未糠はないが昨夜の御馳走が心に残る。

  昭和二十一年十一月二十二日

臼杵喜司穏

 北海道。元陸軍中尉(第2分所分遣所長)。昭和21年11月22日、シンガポール・チャンギに於て刑死。28歳。

<遺書>

 昭和二十一年八月二十二日「シンガポール」戦争犯罪裁判の結果死刑を判決せられ、同年十一月二十日死刑決定の報に接し今月二十二日執行せらるることとなりました。抑留起訴の内容はかの世紀の鉄道泰緬線建設に於て俘虜を虐待し多数死者を生ぜしめたとの理由によるものであります。当時私は泰俘虜収容所第四分所長として泰国の人跡未踏なるジャングル内に約五千名の英濠俘虜を管理しつつ鉄道建設作業に従事していたものであります。然し該地に於ける当時の状況は第一に鉄道建設作業の速建を叫ばれ之れに全力を集中すべく命ぜられ従って俘虜の労力は最大限に要求されてゐたのです。第二に設営地附近は大ジャングル地帯にして輸送機関の運転にも困難を生じ且環境の悪き為、患者続出という非常に不利な悪条件下に於て滅私奉公任務完遂に突進すると共に分遺所諸設の改善合理化に努力して来たのでした。勿論建設作業完成の凱歌を表する迄には斯る悪条件にあったが為多数の尊号犠牲を生じたととは止むを得なかったことであります。決して個人的虐待の結果斯る事態に立ち至ったのではありません。……

 今刑の執行を前にして往時を回顧して筆をとっているのですが死しても悔は残りません。常に誠を以て統帥の大権を承行して来たのです。不幸にして刑場の露と消ゆるも是れ大君の命なりと諦め潔く散らんと欲しております。……

 母上様、息子は大日本帝国の為大君の為尽すべきを尽し今此処に従容として父上の待つ泉国へと旅立ちます。どうぞ御安心下さい。…… 母上様の御幸還を祈りつつ愚息二十八年の生涯を終ります。左様なら。

チャンギ 1刑務所に於て

  昭和二十一年十一月二十二日執行前

弘田栄治

 和歌山県出身。和歌山県箕島商業学校卒業。陸軍大尉(鉄道第9連隊小隊長)。昭和22年1月21日、シンガポール・チャンギに於て刑死。28歳。

<最後の手紙>

 皆様に最後の御便り申上げます。栄治は皇国の臣民として昭和二十一年九月二十一日「シンガポール」の第一号法廷に於て戦争犯罪人として絞首刑を宣告されました。それは泰緬線の「ヒントク」という処で作業指揮をしていた頃の事で此の地区の多数の俘虜が死亡した。それは作業の為で其の責任者は私であるということからで、三ヶ月聞に七十名程がマラリヤ、コレラ、胃腸疾患で死亡している、某の報復を私一名に課したのである。私の部下は既に無事帰国している。御安心を願う。

 栄治は当時少尉でした。馬来(マレー)作戦を終えビルマへそれから泰緬線の建設へと転戦を重ね作業にも兵力の運用にも精慣れて来た時分であった。そして誠心を以て部下と共に、千古斧鉞を入れざる原始林に闘争を続け、雨季と悪疫に侵され、言語に絶する死闘でした。命ただ奉ずるという一言にして誠心の闘いでした。今までの栄治の戦歴をかえりみて最も戦争をしているという感じと御国働いていると思ったのは此の頃のことであります。…… 此処で極刑になるのであります。…… 唯父上 、姉上、祖母様より先に逝く事を御許し願いたい。

 …… 以上の事情のもとに栄治は悠久の大義に生きて行きます。否栄治のみではありません。此のチャンギーの絞首台に祖国の万蔵を絶叫しつつ散った人々は皆祖国の礎石となって残る国民を信じて立派に安心して逝くのです。……

 明日もニ名銃殺されます。哀歌が庭から聞えます。後から逝くぞと見送っています。—— 見送るも逝くも祖国の春を待つ

 ……

 昭和二十一年十一月二十二日九名逝く

<遺書>

 前略愈々確定が参りました。静かに母のもとへ参ります。遺言既に届いている事と思うから今夏何も書くことがない。敗戦、地震、栄治の死と内外多事多端の日々お察し申上げます。しかし栄治は生きて泰坊、昌坊を導きましょう。

 万歳、これが栄治の最後の言葉です。…… 栄治の五体は健全です。心は爽快です。只今より静かに母のもとに参ります。

星 愛喜

 東京都。東京高等師範学校卒業。武道師範、陸軍大尉。昭和22年2月25日、シンガポール・チャンギに於て刑死。49歳。

<遺書>(妻へ)

 …… 昭和十七年八月二十一日釜山埠頭でお別れしてから四年有半になりますが、片時だってお前達のことは忘れた事がありません。…… 終戦後間もなく昭和二十年九月二十四日泰俘虜収容所職員全員盤谷郊外バンアン刑務所に収容されました。当時非常に俘虜の受けがよかったので罪を受けることなどは夢想だにしていませんでした。アメリカの取調官の或る大佐などは君は俘虜を正遇してくれたそうで多くの俘虜達は皆感謝している。君を釈放して貰う様英国側に交渉中だとさえ云われました。二十一年四月十九日チャンギーに護送されることになったので意外に思いましたが収容所職員全員送られたので気にも止めずにいました。突然七月二十四日、泰緬鉄道建設に従事せるピルマ側収容所職員十五名が起訴されました。そうして濠洲法廷で裁判を受けることになりました。起訴状を受取った時余りにも誇張して書かれているので責任上覚悟せねばなりませんでしたが、星は直接虐待の出来る様な男ではないと書かれていましたので一縷の望は持っていました。当時死の泰緬線と云う題で物凄く新聞で宣伝され法廷に立つ者は次から次と死刑の宣告を受けた様な状況でしたので一同観念していました。…… 千古斧鉞を加えざる密林重畳たるジャングル地帯に追い込まれ豪雨、泥濘、糧秣途絶し悪疫猖獗せる悪状況下にあの世紀の大偉業を果さねばならぬ任務を帯びていた為に相当の犠牲者は免れなかった訳です。…… 敵の立場としては無理もない事と思いますが結局悲が運が悪かったわけです。

 …… ピルマ時代のキャンプコマンダーラムセ中佐以下四名の将校が私の減刑嘆願書を出してくれたそうですから当然減刑されるものと自他共に信じて居りましたが、濠洲側は一人の減刑者も出さず処刑することになりました。…… 僻仰天地に愧じざる自分の行為を思う時明鏡止水、心気和平、心海波静かです。生命は生を知って死を知らず。私は決して死滅すると考えていません。必ず忠義の鬼となって、極天皇基を守り長く魂説を留めて君達を守護することを信じて貰い度い。…… 明二月二十五日午前九時昇天する一行は十名だ。特に遺言することもない。三人の子供の母として最後迄頑張って戴き度い。…… (昭和二十二年二月二十四日午後一時)

 壮行会を賑々しくやっている。では御機嫌よう。皆様によろしく。

—— マレー・シンガポールにおいて ——

木村久夫

 大阪府。京都大学経済学部出身。元陸軍上等兵。昭和21年5月23日、シンガポール・チャンギに於て刑死。28歳。(注:木村は在学中に応召した学徒兵である)

<遺書>

 父宛

 此度は御先に失礼することになりました。生前の不孝を御許し下さい。何等報ゆることなく誠に残念であります。

 一、妹をできるだけ早く結婚させてください。

 二、私の所有の書籍を私の出身の高等学校に寄贈して下さい。

 三、私の死に落胆せず、一家平和に朗らかに暮らして下さることを祈ります。

 四、私は学者として立っていく途中一冊の著書をも作り上げる分際に至らずして死んでゆくことは大変遺憾に思って居ります。

<辞世>

 みんなみの露と消えゆく命もて朝がゆすする心かなしも

 朝がゆをすすりつつ思ふ故郷の父よ許せよ母よなげくな

 友のゆく読経の声をききながらわれのゆく日を指折りて待つ

 指をかみ涙流して遙かなる父母に祈りぬさらばさらばと

(処刑前夜)

 風も凪ぎ雨もやみたりさわやかに朝日をあびて明日は出でなむ

 注)これとは別に、木村の遺稿は『きけ わだつみのこえ』に掲載されている。彼の戦犯としての罪は、終戦間近の1945年7月、インド洋上のカーニコバル島において、イギリス軍から艦砲射撃を受け、当地の日本軍守備隊はスパイがいるといううわさをもとに島民を拷問するなどして、85人を殺害したというもの。木村は語学に長け、通訳を任されていたこともあって、島民に対して前面に立って顔をよく知られていたこともあり、彼を含めた下級兵士5人と責任を認めた旅団長が死刑、しかし命令を下す立場にあった参謀は自分が命令したものではないと主張し罪を免れた。木村は上記の遺書にあるように学者を志し、頭脳明晰であることは『きけ わだつみのこえ』にある遺稿に目を通せば明らかで、軍人たちの愚かさと身勝手さを断罪しているが、その中に「天皇の名をもっとも濫用し、悪用したのも軍人であった」と記している。その通りであろう。

 なお、京都大学出身で上等兵のままで通訳というのも理解しかねるが、木村は部隊の中で非集団的態度を取っていたのかもしれない(上記「天皇の名を」というような客観的な目を持っていたこともそうであろう)。ちなみにBC級戦犯で起訴された通訳者は105人、そのほとんどが有罪で死刑となった31人の半数以上が当時の植民地出身者だった(武田珂代子の調査)。

 

大貫安男

 茨木県出身。元憲兵軍曹。昭和21年8月2日、シンガポール・チャンギに於て刑死。29歳。

<父母に捧ぐ>

一、大詔奉じ七年の/征剣捨てて日は浅く/吾捕われの死刑囚/ああ運命の皮肉さよ

二、親を思わぬ子はあれど/子を思わぬ親はなし/まして愛し子逝くと聞き/なげきやいかに大ならん

三、孝ならんとせば親はなし/世間の人は斯く言えど/吾に二親ありながら/相見ることの許されず

四、父母よなげくな吾は今/馬来(マレー)の露と消ゆるとも/霊魂帰り永久に/父母の御胸に生きるなれ

 命日、昭和二十一年八月二日午前七時

 後数時間後自決する覚悟でおりますが平常の心と変わりません。

 下士官で国家の犯罪を背負った私ですから褒めて下さい。戦死と同一と考えて居ります。

(注:「自決する」とあったが、同日、死刑に処せられている)

村上誠毅

 山口県出身。元憲兵准尉。昭和21年12月17日、マレー半島・ペナン島に於て刑死。32歳

 村上善治殿/外御一同殿

一、昭和二十一年十二月九日馬来半島ペナン刑務所ニ於テ戦争犯罪者として死刑と決定す。

二、戦争犯罪者の名を蒙るも自己に於ては何等恥ずべき行為なく只誠の一字に尽きるなり。

三、現在の心境は明鏡止水の如く従容笑って死につく覚悟なり。

四、両親並兄上に受けし高恩の万分の一をも返す事なく黄泉に旅立つ事お許しを乞う。

……

  国の為散りし屍を踏み越えて吾も進まん敷島の道

鎌田喜悦

 宮城県。元憲兵准尉。昭和21年12月17日、マレー半島・ペナン島に於て刑死。33歳

<遺書>

鎌田記義殿、外一族

 余未だ存命なり。判決は九・二八、確定は一二・九、執行は未定なるも現実の生と悠久の活との境界日も近日中なるべし。今更記す事なきも許されたるを以て左に簡記す。

一、母上に先に逝く不孝を許されよ。

二、一家一族を始め三十余歳世話になりし世の五恩に感謝す。願くは永く幸福に暮されしことを。

四、余終日勅諭、勅語、国歌を奉唱しつつあり。

(以下略)

小林庄造

 大分県。元陸軍法務少佐(元シンガポール陸軍刑務所長)。昭和22年3月26日、シンガポール・チャンギに於て刑死。61歳

<遺言>

 私は如何に考えても死刑に処せらるべき理由を発見することが出来ない。刑務所(注:小林が監督した陸軍刑務所)は法規以外虜待等の行為を行って居らぬからである。…… 何故刑務所に対し特に苛酷であるのか、それは軍法会議で死刑の判決をした俘虜を死刑に処したからである。之は総じて公判という美名の下に全くの報復手段であると考える。…… 殊に私の外四名は全く何と申しあげてよいか、慰めの言葉はない。後藤の如きは未だ独身で家庭を持ったこともない。而して職員でないから一層気の毒でならない。…… 死の決定までは落付けない心で …… 死の決定が来て見れば左程でもない。…… 祖国再建の速からん事を思念して死んで行きます。

佐瀬頼幸

 千葉県出身。千葉中学校卒業、元警察官。元陸軍警部。昭和21年9月11日、シンガポール・チャンギに於て刑死。36歳。

<手紙>(略)

<日記より>

 昭和二十一年ラプアン収容所は鉄条網内のキャンプ生活にて総員四百数十名中既決百三十名ばかり(四十名余は死刑なり)未決者中より毎日百乃至百五十名の労役あり。給与不足にて野菜蒐集に二班出場し、補足しつつありし監視英印兵は性単純にして比較的好意を抱き居り、為にさしたる苦労もなく過す。死刑の台湾囚が衛門を堂々と通り食糧倉庫から失敬して来た等々の痛快事もあり。……

 昭和二十一年四月司令部、無罪者邦人は帰還し未既決の我等百七十余名を残す。六月一日シンガポール着、要塞の知きチャンギー刑務所に移監さる。二千二百余収容せられ、冷い石造の独房に本格的囚れの生活に入る。来る日も来る日も希望もなく空腹を抱えて呆然と過す。十七日「昭和十八年十二月警察署勤務事故、国旗事件、昭和十九年十二月憲兵隊応援中反日会事件」につき起訴さる、七月十七日開廷、…… 当方の陳述全然聞かれず、全く一方的に死刑を宣せられたり(十九日)。

 斯る裁判を受くるも運命か、自分ながら驚くばかり、心平静、省みて神明に恥じなく死に対する何等の恐怖もなく生への未練執着も断ち同志四十余名一読書三味に入り、明朗に最後の日を待ちつつあり。……

 既に境を異にせる者の遺した独房中の壁面の爪跡に燃ゆる雄叫びを見よ。

  七生報園、打倒英国主義

  大君のために何か惜しからむ昭南の地に身は朽ちるとも(中村軍医少佐)

  神州の不滅を信じ日本男子の意気を示せ。

  悠久の大義に生き、新興日本の捨石たる襟度を持せよ。

  親思ふ心にまさる親心今日のおとづれ何と聞くらむ(松陰)

中村鶴松

 岩手県出身。岩手県染色講習所卒。陸軍軍属、ブト刑務所所長。昭和22年9月3日、マレーシア・クアラルンプールに於て銃殺刑。56歳。

<遺書>

 自分は刑務所要員として馬来(マレー)に派遣せられ、一年六ヶ月勤務致しましたが昭和十九年四月一日より昭和二十年一月三十日迄クアラルンプール市ブト刑務所長在勤中多数(四百人)の囚人が病気で死亡致しました。これが刑務所長の責任となり(昭和二十年九月二十一日夕イピン刑務所に収監され、幾多の苦難を突破して来たが)昭和二十二年六月三日、英国軍法裁判で死刑の言渡を受け、昭和二十二年九月三日午前七時(本書は九月二日午後一時記)死刑執行せられるのである。

 私は日本人として立派に刑に服して死にます。決して何等未練もありません。どうか我

なき後は子孫の養育を頼む。尚老母が心配するでしょうが元気で死んだと頼む。…… では私は元気で行きます。

郷端逸人

 広島県出身。元建築業、元陸軍少尉。昭和23年1月2日、マレー半島、クアラルンプールに於て刑死。32歳。

<遺書>(妻へ)

 我々の幸福な生活は、無限の情愛を以て続けありしが、運命の悪戯は、遂に中途を以て遮断するに至り南海の地より御訣れの言葉を申上げることになった。…… 私は犯罪者の一員として処刑せらるるも現在迄再三再四伝言せる如く、破壊恥的行為に基くものでなく、上官としての責任を追及せられた結果に基くもので皇軍指揮系統の上、万己むを得ぬことなればも国の礎となりたるものと思って諦められたし。 …… 可哀想な靖雄、一度も見ない俊基のことを思いますと断腸の念を禁じ難きも運命に抗することは出来ず、世間の子供より肩身の狭い思いをさせぬ様に養育して下さい。……

  昭和二十三年一月一日十二時

—— フィリピン・マニラにおいて——

大田清一

 鹿児島市出身。元憲兵大佐。昭和21年2月23日、マニラに於て刑死。50歳。

<最後の手記>

 当地は今内地の初秋の気候に侯。皆様お愛りも無之侯哉、御伺ひ申上侯。

 先日は一月二十三日附にて家族御一同の御便りに接し、それこそ貪る様に拝読仕侯。厚く御礼申上侯。御身は東京迄行かれた由、其の心根に感泣仕侯。但し万事は運命に侯。小生は今出発二時間前に落ちつき払って此の手紙を書居り侯。五十年の修養、此処に来り悠然泰然たる気持にて筆取申候。文も字も平素と少しも変わらぬ筈。呵々。 

 一月五日判決後は前便にて申上侯通り山下、本間将軍以下多くの旧友や部下と共に愉快に生活仕候。自分でも不思議な程達観し、皆して朝から寝る迄、他愛もなき話に笑ひ興じて暮申侯。米側の取扱は紳士的で寛大に侯いて、食事、起居、運動等申分無之候。身体も丸々と太り殺すには惜しき程に侯。呵々。

 裁判其他については近く帰国の旧部下岩岡大尉が貴地訪問の上詳細可申上候。小生の罪名については新聞紙上で承知の事と思う。敗けたから仕方がない。狂と呼び賊と呼ぶも人の評に委す。別に弁解は不要。

(以下は家族個々への文章で略)

槙田時三

 広島県出身。元工員。元陸軍曹長。昭和22年2月24日、マニラに於て刑死。30歳。

<遺書>

 死も亦楽し。永遠の生に入り祖国の復活を祈る。

 自分は此の様な運命に生れた事を悲しまない。生れたる運命に対し、今日迄生きたる運命に対し感謝しつつ従容として死に就く。第二の世界に待つ戦友と楽しく語る事を思う。……

 私の死をけっして悲しまないで下さい。むしろ喜んで下さい。部下の罪を一身に受けて一人の死に何名かの可愛い部下が助かると思えば死も亦楽しく幸福である。私は立派な戦死です。世の人に又部落の人にけっして肩身のせまい思いをしないで下さい。……

 事件の内容は —— 昭和十九年一月十三日、パナイ島イロイ口州ミヤガオ町サンホセ部落に於て十五名殺害、三月、ミヤガオ町内で五十五名、五月、マリンガヤン部落で十名、此の事件につき土民が起訴して居る。

 当時自分の部下であった音一戸町河部健夫君に聞けば此の事件の真実がよくわかる。又彼はバタン戦からの部下で比島へ来でからの自分の行動を詳しく知る事が出来る。(21年7月)

<第二信>

 神の御力か仏の御めぐみか、ニューギニヤ方面に居るとばかり思って居た哲夫が突然面会に来た。九月十八日の二時頃死刑囚には珍らLい面会で心あたりもなく不安に思い乍ら鉄柵を出て事務室の方へ歩いて行った。… 事務室に近づくと見た事のある人だと思ったが哲夫だとは思い出せなかった。眼鏡を掛けていたからでもあるし、まさか比島ヘ転進して来ていたとは思われない。悪戦苦斗五年、… 転戦を重ね敗戦のかなしさに彼の顔にも心にも非常な変化を来たして居たのだろう。… 二米、一米、自分は其の人の顔を見ながら遥り過ぎ様としたとたん兄さんと涙ぐんだ声で抱きついて来た。… 米兵の前で恥もかまわず感激の涙はどうする事も出来なかった。噫ゝ感慨転無量、死を目前に控へて血を分けた兄弟が相見えしは正しく神のお力としか思われなかった。… 此の戦争裁判に於て命令に依って作戦行動をなせる一下士宮に迄其の責任をおわせ、死刑にする米軍に対し満腔の恨みを抱いて居るが今日の出来事に就いて神仏は存在するものである事を痛切に感じた。そして神は自分が無罪である事を明白に知っておわすものと信じる様になった。……(22年2月25日7時55分とあり、上記の死刑日とずれがある)

加藤 実

 宮崎県出身。青年師範学校卒業。元教員、元陣軍少尉。昭和22年3月31日、マニラに於て刑死。27歳。

(第二信)

 父上、母上も忍の事は己に新聞で御承知の事と存じますが私は決して罪を感じて居りません。噌当時の中隊長が戦死されて現在居られない事や其他種々の事情で弘は死刑の宣告を受けましたが、これは決して正しい判決とは信じられません。部隊のものから話を聞かれたら何もかもわかる事と思いますい唯父上、母上だけは私の心を信じて下さい。私は戦地に来てからも唯皇国の御為のみに一身を捧げて来ましたが華々しい時代に戦死する機会を得ず、今こうなる事は残念であり、御両親様に対しても相済まないと思って居ります。…… 私は神の力を信じて居ります。必ず無罪になって帰ります。それまでは父上も母上も体に御気をつけられて待っていて下さい。……

(第三信)

 私は死刑を執行される直前迄自分の真実を通す事に努力し神を信じて一切を神におまかせ致して居ります。私が宣告された死刑を甘じて受け何もなす事なく此の世を去ったとしたならば、之れは私一人の不幸ではなく皆様の不幸であり日本人の不幸、否世界人類の不幸であります。何故ならば真実正しい事が不正なる証人、誤った裁判に依り葬り去られた事になるからであります。……

(第六信)

 私は歎願書も出しました。私の本当の事を書いて、私の出した歎願書が認められなかったら此の世の中は全く虚偽の世の中です。私は裁判を受ける時に、私は責任者ではないけれども被告の中で私が一番階級が上だから皆を助ける為に私が責任を負ってやろうと思っていました。それで私は何も答弁致しませんでした。然しその考えは間違いであったと思って歎願書を出したのです。神様は必ず私の証明をして下さる事を信じます。皆様もお祈り下さい。

(第十一信)

 二十二年の正月も半分以上過ぎました。私も今日で獄生活百五十二日になりました。集団していた「キャンプ」が次々に復員して今日は吾々と未決の人達で僅かです。 昨日は又無期有期の連中が帰国致しました。もう何日間か執行もなく私達もどうなる事かと不思議に思って居ります。何だか今年になって一希望がある様な気がして、然し決して安心して居るのではありません。私はともかく苦労を共にした友の多くが復員した事を喜んで居ります。部下となって働いて呉れた人々へ特に戦死された人々の家庭へ何とかしてお慰めして上げたい気持で一杯です。……

(第十五信)

 敏、正が無事帰還した事は何より嬉しく想います。今頃は昭子も無事帰省して居ることと想いますが私一人を除いて皆揃った楽しい故郷を毎晩想像して床に就きます。……(辞世の歌は21年8月20日となっている)

菅原亥三郎

 山形県出身。元農業。元海軍上等兵曹。昭和22年4月1目、マニラに於て刑死。36歳。

<手紙>

 貴家御一同皆様には御健在の事と察します。

 私の事件の内容を一寸申上ます。私はボルネオ島(バリックパパン)サマリンダ町の警備隊に居りました。二十一年二月米人搭乗員三名(捕虜)を死刑執行の時私も現場に行き執行者になったわけです。命令はバリックパパン司令部参謀よりサマリンダ警備隊長に来たのです。我々は何んの為に死刑になったのか知りません。ただ私の小隊長より死刑の現場に行く様と云われたから行って実行しただけです。結局命令通りやったので私の様な一下士官が何で罪あろうかと思います。それが裁判の時に至って直接命令を出した参謀が自分はそんな命令は出さないと嘘を云って居るのです。

 又其れを米人は信用して居るから詰りは我国軍隊の組織又法規を知らないと思います。現在我々戦犯者の上官連は昔豪語した事は知らん振りをして又部下を沢山殺した事も忘れ精神の抜けたごむ人形の様な者です。

 其れでも私は誰も恨みません。むしろそう云う人聞を憐れと思います。私等の事件でも警備隊中、誰かが実行しなければならないのだから私が代表して皆の為めに責任を持ったと思えば何等恥ずる事なく却って良い事をやったと思います。こんな事書くと貴方は気違いに成ったと思うかも知りませんが、私としてはそれでも何時かはわかる事と思う。日本再建の土台となったと思えば満足です。

 事件は右の如くです。皆様御丈夫に。

 敗戦国のわが国に於いて過去の事、すべては軍の誤りと一般の人は云うであろうが、私の考えとしては各個人の責任だと思います。個人々々の責任と思わなかったら今後の再建日本は難しいものである。今日の自由主義の如きことでも利己的にして卑劣なる性質を、縦横に振まい、それを普通と思い込むと云う様な傾きがある。国家というのは自分等のかたまりだと思って考え直して戴きたいと想います。(以下略)

宮本司馬夫

 熊本県出身。九州高等簿記学校卒業。元農業。陸軍伍長。昭和22年10月17日、未決拘留中、マニラに於て自決、29歳。

<手紙>

 出征以来今日まで種々御迷惑をお掛け厚く感謝致しております。

 兄上御壮健ですので忠も故郷を遠く離れて毎日の作業にも安心して精出すことが出来ます。家族の事に就きましては今後共よろしく御配慮下さいます様お願い致します。

 故郷の様子は如何でしょうか、遠く離れて居ますと家庭、親類の安否が気づかわれます。 ……

 最後に皆様の御健康をお祈りしております。(前畑のおじさん、おばさん)親類の方々によろしく。

さようなら さようなら 九月五日 宮本司馬夫より

 兄上様

—— フィリピン・モンテンルパにおいて——

 上記はフィリピン・マニラにおいて処刑された人々の一部の例であるが、これは米軍によって1945年10月から開始された裁判で、山下裁判を皮切りに47年4月まで一年半の間に97の裁判が開かれ、217名が起訴され、判決結果は死刑92名、終身刑39名、有期刑66名、無罪20名であった。無罪とされた中には部下にその責任をなすりつけた者もいたであろう。この後フィリピンは日本が侵略する前の過去の約束でアメリカからの独立を果たし、フィリピン独立後も米軍が戦犯の処分を続けることへの法的疑義もあって、米軍は1947年3月28日、フィリピン側に未決囚300人の引継ぎと裁判権の移管した。フィリピン側の対日戦犯裁判は同年8月1日に始まり、最後の判決は1949年(昭和24)12月28日であった。そのうち212名が起訴され、177名(この数には異説がある)が有罪(死刑69名、終身刑33名、有期刑75名、無罪33名、釈放2名)となった。法廷はマニラの米軍敷地内であったが、有罪者はマニラ郊外のモンテンルパのニュービリビッド(モンテンルパ)刑務所に移された(このモンテンルパはオールドビリビッドとともに日本がフィリピンを占領していた時期には、米軍や民間人の捕虜収容所として使用されていた)。その後の経緯は不明ながら、まず3名が死刑に処され、しばらく執行されなかったが、1951年1月19日深夜から未明にかけ、突如として14名の死刑が執行された。その者たちの遺書の一部が下記で、これが海外におけるほぼ最後の処刑であった。

 さらにこの後、残された死刑囚を含む106名(異説あり)は、1953年7月のフィリピン共和国独立7周年記念日にキリノ大統領が大規模な恩赦を行い、死刑をすべて終身刑に減刑、その後全員が釈放され日本に帰国した。キリノ大統領自身、妻と次男、長女、三女の家族4人、さらに5人の親族をを日本軍に殺されているから、よほどに私情を捨てた人道的決断で、将来の国際交流を見据えてのことであったとされる。

陣内起也

 長崎市出身。京都大学法学部卒業。元会社員。元陸軍中尉。昭和26年1月19日、モンテンルパに於て刑死。35歳。

<最後の手紙>

 御父上/つる叔母/みか小母様/公一/和子/嗣郎

 明けましておめでとうございます。二十世紀も半ばを超え新しき年を迎えました。父上始め御老年の方々にはとの変転の激しかった半世記を振返って感慨無量のものが御座いましょう。私も外地で八年目PWになって六度目独房に入って三度目の正月でございました。元旦にはプニエ所長が年賀を述べに独房に参り段々年が経つにつれて対日感情も良くなるし、今年は諸君達にとって良い年であることと思われる。又諸君達の身柄の日本返還の話も出ているから肴望を持つ様に、との話があり今年こそ忍の最良の年となってくれれば良いがと思って居ります。

 久方振りに写真を撮りましたので新年の御挨拶旁々お送りします。仏教会の人の記念写真に飛入りして撮ってもらい加賀尾先生から戴きました。皆誠に囚人顔して物凄き形相ですが実物は皆之程ではございません。皆の名誉の為(下略)

小野安夫

 小倉市出身。門鉄小倉工場工員。陸軍伍長。昭和26年1月20日、モンテンルパに於て刑死。34歳。

<手紙>

 父母様初め一同元気とのこと安心致しております。私も相変わらず元気で暮して居りますれば乍他御安心下さい。…… 私達の確実な事は判決の通り絞首刑と申し上げるより外にありません。今は噂と想像位のものです。近頃は刑の執行もなく今後も執行されないだろうとの噂が濃厚です。又日本人は全部近き将来に於て帰還出来るだろうとこれも噂にすぎません。こんな事では楽観は出来ません。私達は対日講和条約でも生前にあれば懐しい祖国の土が踏めるのではないかと望みを持って居ります。私達死刑囚は絞首刑の判決を受けたままで二年半も終ろうとしている状態です。終戦と同時に捕虜となり容疑者生活から獄舎生活の現在に至るまでの長い歳月で娑婆の生活は頭から消え去ってしまった様な南方ボケになってしまいました。…… (25年11月1日付)

 神の導きに依り日々を正しく導かれつつある我々はこうして又便りが故郷にミチエの手許に出せる事を心より感謝して居ります。…… 私もご存知のごとく判決を受けて二年七カ月は過ぎ去りましたが別に変わった事も無く…… ミチエの苦労を思えば此処にこうして日々を過ごす事は残念でなりませんが如何とも仕方がありません。只神に祈る外ありません。正月が近づいてきました。皆様にはより良き年を迎えられん事を切にお祈り致しつつペンを置きます。さよなら(25年12月14日付)

金田貞夫

 大分県出身。元農業。陸軍曹長。昭和26年1月20日、モンテンルパに於て刑死。34歳。

<最後の言葉>(刑場へ向う車上で加賀尾教誨師に)

 心は晴れています。おばあさんや兄弟へ永い間色々お世話になりました。二年の間に心もできました。安心してください。子供のことについて、どうか人並みの着物を着せてくれるよう、兄弟相助け合うよう。

  このままに比島の土に消ゆるとも無実の罪のいつか晴れなん

 碁をやっていてもう少しだったのに、おしいことをした、…… 今度の大乗のお経の導師をするところでした。大分稽古しましたのに、… 皆さんによろしく。

 先生と肩を並べて笑って行けるのが嬉しいです。どうか私の死に顔をよく見てやってください。

  水のごと澄める心を誰知るや 我れ刑台に笑みてのぼらん

—— オーストラリア領ラバウルなどにおいて ——

白木仁一

 北海道出身、元農業。元憲兵曹長。昭和21年6月26日、ラバウルに於て刑死。26歳。

<遺書>

 大東亜戦の終結以来早くも十ヶ月、次々と海列派遣将兵の帰還に伴い私のみは何時になりても帰らずさぞ御両親様には御心痛の事と思います。…… 以下私の所信及近況を記し最後の便りとします。

 私は本年一月十五日「ラバウル」の濠軍に戦争犯罪容疑者として収容せられ、去る五月二十四日、二十五日の両日の軍事裁判の結果死刑の宣告を受けました。…… 私達は戦争目的達成の為、我等が守備する「ニューアイルランド」島警備の為、野戦憲兵本来の任務たる敵諜報網を数度に豆り検挙し敵に大打撃を与え終戦前二回迄も殊勤を上申され一意自己の任務に運進して来たのです。然るに停戦となるや、濠軍の手先となって我軍の情報収集に活躍したる第三国人及原住民の厳重処分は不当な行為と称し政策的裁判に於て死刑の宣告を受けたのです。私と一緒に被告となり裁判せられし人は(陸軍中将伊東武夫以下略)の十名でした。法廷に於て伊東閣下は「本事件の全責任は此の伊東に在り、部下は私の命令を忠実に実行したるのみで責任は全然ない」と力説せられた。部下の罪を軽減せんとする閣下の心も遂に効なく閣下以下参謀及憲兵五名が死刑を宣告されたのです。幸にして精助憲兵壬名が無罪とかのたるを共に喜びました。

 死刑を言い渡されて控室に帰った閣下は、「我々は戦に勝つために総てが正なり、と信じ戦況上止むを得ず行った事で最も忠実に働いて呉れた諸君を今こうした運命に到らしめた事は此の伊東の不徳の致すところである。愚なる上官を持ったと諦めて呉れ、斯くなりたる上は最後まで明朗に暮しあの世まで手を取合って敗戦国民の犠牲者となって行こう」と言われた時は私は死刑の宣告を受けた悲しみは全然なく立派な上官を持った嬉しさと共に刑場の露と消えて行く事を覚悟致しました。…… 私と同じ運命にある憲兵も多数ありも第六野戦憲兵隊長の菊地覚憲兵大佐も既に弘と同一刑を言い渡され共に刑執行の日を待機している次第です。当ラバウルに於ても既に二十名の人が刑場の露と消えて行きました。当地に於て……約七五〇名が収容せられ今村閣下以下全員同一生活をなし次々と裁判を受けています。二十有余万の将兵中僅か七百余名中の一人に加わり、その上死刑の宣告を受けるとは余りにも不幸な伜と思われる事と推察致しますが私は決して不幸とは思いません。

 今村閣下は我等を「光栄ある国家の犠牲者なり」と言って居られ我々の収容所を光部隊と名付けています。新聞によれば内地では畏くも宮殿下までが戦犯容疑者として米軍に収容せられた由誠に畏れ多き極みです。私如き一下士官、何で不服を言いましょう。総てが敗戦国民なるが故に致方ありません。…… 前途に大きな希望を持ち乍ら二十七才を最後に今南海の露と消える事は残念至極壱あるが、一方戦友達を思ふに昭和十六年一月東部七十八部隊(高射砲第七部隊〕に防空兵として入営した同年兵の大部分はシンガポール作戦にアッツ島に或は船団防空兵として服務中殆んどが名誉の戦死をしてしまった。自分は憲兵となった為に今日まで生を得たのだ。

 又「ニューギニア」「ガダルカナル」島「プーゲンビル」島「マヌス」島の警一備の戦友達は或る者は戦死し或る者は食糧も被服、薬物に欠乏し幾万の人が病気の為に戦わずして斃れて行った。然るに私は今日まで達者で御奉公出来たのです。

 一月十五日収容されて以来の生活は軍隊生活五ヶ年半を通じて一番体には楽をした。仮令死刑になっても幾多の人達に惜まれ乍ら国家の犠牲者として散って行く事は病魔に艶れた戦友と比較一するならばそれは幸福すぎる位です。収容所内の生活は特別な作業もなく食事等も停戦前の日本軍の給与甘藷と塩汁だけのと比較すれば実に賀沢な生活で連日読書に囲碁にと余生を楽しんでゐる次第です。又日曜日などは野球もして至極明朗に暮しています。裁判の結果有期の刑を受けた方もありますが今後蔑年も囚人として苦労する事を思えば死刑の判決は私の最も希望したところです。長男でありながら何一つ孝行らしき事もせず此の世を去る事は誠に申訳なく残念に思いますが何卒悪しからず御赦し下さいませ。……

酒井 隆

 福島県出身。(上記の同名とは別人)元陸軍伍長。昭和21年6月27日、ラバウルに於て刑死。

<遺稿>

 あと二十分しかない生命。三将校は私らの毎日の日課に合せてラジオ体操をおやりになるのです。何という素晴しい落着でしょう。徹し切った真人の姿そのままではありませんか。これが数分後に死なれる方かと思うと云いしれぬ戦慄を感じたのは私だけではないと存じます。……

 私らの中には実際やられた方の名が告訴されず、告発人の名前のうろ覚えに依って訴えられ無実であり乍ら処刑される方や、命令された方が内地帰還された為、下士宮兵の身で責任を問われ極刑になられる御気の毒な方がおいでですが、これも濠洲は戦犯者の員数を揃へ様としているのだ、余り忠実に裁判すれば戦犯者が予想数以下になって了うから少しでも疑しい者は有罪として了う、きすればそれらの者の中に幾人かは真犯者が居るという風に濠測は考へて居るのだ、日本人の誰かが犠牲にならなければならないのだ。私は員数で処刑されるのだ、とお考えになって御覧なさい。すると不思議に気は軽くなり、口笛でも吹いて死のうという気になりますから。私らは只今から、処刑日の態度をあらかじめ心構え致して置きましょう。

 私が死刑執行を云い渡されましたならば、先ずジェームス少佐、スミス中尉、ショーテス准尉、ラハーム伍長に云おう。

「今日迄私ら極刑者の心理をよく理解して下さり、非常に寛大なる取扱を受けたと思います。厚く御礼申上げます。……」

池葉東馬

 栃木県出身、県立真問中学校卒。元陣軍大尉。昭和21年8月12日、ラバウルに於て自決。48歳

<遺書>

 戦争犯罪と言えば極悪無道の者の様にお考絵になるかも知れませんが小生の為したことは元私の部下でありました印度人

イシドネシヤ人(注:現地で日本軍が雇用した者たち)にして敵前に於て奔敵、逃亡した者、また党を組み多数の者を煽動して敵に走らんとした者を止むを得ず陸軍刑法及び軍命令に従って略式裁判に依り死刑を命時ましたのです。之は当時の情況上、作戦上軍紀を維持するため極めて合法的、正当なる処置でありまして俯仰天地に恥じず、一点のやましいこともないから何卒御安心下さい。……

 東京から一緒に来た中村森之大尉(茨城県人)山本兵太郎大尉(東京府人)の両君も私同様の運命に在り、御互いに慰め合って居ります。今は何事も運命と諦め只阿弥陀仏様に凡てを委して居りますから如何様になるとも御心配なきよう願います。…… 子供等のことに就ては呉々もよろしく願います。

 ……

 日本も今迄のような野蛮極まる軍国主義を廃し多年専横の限りを尽して国民を苦しめて居た軍閥が倒れ「平和の日本」として更生する日が来たことを今次戦争のもたらした唯一の収穫として喜んで居ります。そして一日も早く祖国の復興されるよう祈って居ります。子供等には東洋古来の学問、殊に支那の古典を研究するよう御指導願います。……

  昭和二十一年七月二十一日 ラバウル戦争犯罪収容所

<辞世>

 名も知れぬ草にはあれど島の辺に朽ちても残る大和心根

<自決書>

 予は左記の如き理由に依り自決す。

 未執行の諸君に対し迷惑の及ぶべきは重々承知なるも日本人として斯くせざるを得ざなるなり。……

一、予は濠軍の手に依りて死するを欲せず。……

二、予は一方的不合理なる裁判の判決に対し鮮血を以て抗議するものなり。……

 右の趣旨は濠軍当局にも書置せり。

 御手数乍ら全日木将兵各位にも宜敷御伝言あらんことを希う。

昭和二十一年八月十二日夜

田島盛司

 埼玉県出身。元工員。元陸軍伍長。昭和21年11月2日。ラバウルに於て刑死。31歳。

<手紙>

 大兄、妹又親戚の皆様、勝つと誓った大東亜戦争も今は破れて敗戦の憂目を見るに到りました。誠に残念に思います。私も聖戦に従事して五年苦労した甲斐も無く祖国の為命をかけて尽した今、戦犯者としてラバウルの一角に収容され裁判も終り刑執行の日を待って居ります。

 此収容所には現在六百人からの戦犯者が居り死刑の判決を受けた者が百名、刑を執行された者が十数名居ります。此処には爪哇作戦で名を売った今村大将も入って居ります。他に将官級が二十数名佐官尉官は収容人員の三分の一は居るでしょう。何れも国の為に尽した人許りです。若し日本が勝って居たら皆金鶏勲章に浴す人許りです。

 私等当然この収容所に入る様なこと等はして居りませんポ停戦と同時に支那人俘虜に殺人事件で告訴されました。当時日本の軍法により行われた事件も現在の聯合国の裁判には適用されず、殺人はして居なくとも現場に立会った者は同罪であるということです。……

 事実を語れば私と米田は救はれるでしょうが事実を語れば十八名の罪人が出るのです。そして十一名が死刑七名の者が有罪になることは明かです。そして又彼等の家族のことも考えて見れば私にはとても真実は語れませんでした。…… 私は真犯人を出せば無罪となったでしょうが死刑の判決を受けた訳です。友情は最後迄失いたくありませんでした。……

馬場正郎

 東京都出身。陸軍大学出身、元陸軍中将。昭和22年8月7日、ラバウルに於て刑死。55歳。

<請願書>

 塾々考うるに小生齢既に50を超え茲に戦争の犠牲として職に殉ずるとも敢て悲しむ事にあらずと雖も未だ齢若き多数の入所者に対しては同情に耐えぬものがありますので茲に御願いする次第であります。

 此等の入所者は仮令戦犯として挙げられておりまするとも当時の戦況を考えますと実に同情に耐えないものがあります。即ち海上輸送の途絶したる当時の状況下特にボルネオの様な所では連合軍の優勢なる空海陸の攻撃を受けますときは人力の尽し難きものがあります。どうか賢明なる閣下のご理解とご同情とに依りまして取敢えず拘置所の日本内地及び台湾移動と死刑囚の減刑とを実現せしめられて先ず心の安定を計られたく御願い致します。……

 日本の将来を担う者は此等入所者の如き齢若き人々と其指導的人物でありまして今の時に於て相互理解しあいて将来の計をたてることは緊要のことと考えます。

 茲に刑の執行を前にして閣下のご健勝を御祈りすると共に右御願いいたします。

 昭和22年8月6日

  豪州第八軍管区司令官閣下

【最後の死刑囚】

津穐孝彦

 山口県出身。神戸高等商船学校卒業。満鉄社員。元海軍大尉。昭和26年6月11日、濠洲マヌス島(オーストラリア領パプアニューギニア)に於て刑死。39歳。

<手紙>

 勝負は決った。そして最後の決は時がそれを定めるでしょう。… これからが私の修養の段階に入りましょう。人間らしくなりたいものであります。… 一日一刻、一分間の中にも意義を見出して行きたいと考えます。… この文を持って日本に帰り、送り届けられる人は無罪の人です。何故他の人が無罪になるのに小生が罰を受けるのかということを考えてはなりません。当然無罪の人が無罪になるので、考え方を混同したり、うらやむべき筋合の問題ではありません。…… ポツダム宣言を受諾した日本は戦犯者を戦勝国に引渡さなければなりません。戦犯者を引渡すことによって日本の今日あることが約束されたのだという事が出来ます。戦犯者を相手国に引渡すことが日本存続の要件でありました。

 国際条約に違反した行動が戦争中あったことを見せられました。しかし多くの人は、その行為が違反したものであったことを知らずに居りました。又知って居ても異議を申立てることは当時の軍隊の命令に対しては許されませんでした。要するに命令権者の無責任な独善的な、人権と法規を無視した、神がかりの観念が原因をなしたと信じます。裁判に際して感じましたことは、日本人の或者が如何に無責任な出鱈目な、その場逃れの供述を東京でしているかと云うことであります。知らないことは知らないと云えば済むものを、話をつくり出しても関係者は生命にかかわる迷惑を受けて居ります。反対に、十分に自分で知りながら問題を他人に押しつけた者もあります。日本人は支那人を馬鹿にしますが、支那人は如何なる脅迫を受けても他人の事は決して喋らないそうです。此の点、支那人を見習はなければならない人ばかりではないでしょうか。報復的な気持でこの裁判が行はれなかったとしても、当時の軍隊の命令系統、日本人と白人の物の考え方も習慣等からして物事の解釈の仕方が具るのでも我に不利となることが生ずるのは止むを得ません。……

<最後の文>

 この文は十一日の朝小生の手を離れる第二十一信で、小生が静ちゃんに送る最後のものとなりました。…… 余り書く事は徒らに悲しみを与える事になるとは知りつつも少し書きましょう。そして先づ私は極めて平静である事を附記して置きましょう。……

 母を慕いて —— 今日の我が身を恨みつつ/きらめく空を眺むれば/想は馳せる故郷へ/いとしき母は今何処(以下略)

注)このマヌス島にける処刑は、同じ日に津穐の他何人かに対して行われたが、以下の西村もそのうちの一人で、重要人物であった。

西村琢磨

 福岡県出身。陸軍士官学校(22期)卒業。陸軍中将、近衛師団長。昭和26年年6月11日、61歳。オーストラリア領パプアニューギニア・マヌス島で刑死。

 西村中将については『世紀の遺書』に遺言はないが、上記津穐孝彦と同じく最後の戦犯死刑囚であり、その概略に触れてみる。

 昭和15年(1940)9月、印度支那派遣軍司令官として仏印に進駐。16年6月、独立混成第21旅団長。同年12月、第25軍の指揮下でマレー作戦参加。17年2−3月、シンガポール占領後、市郊外の掃討作戦を指揮。同年、スマトラ作戦参加。その後予備役編入。18年、ビルマ・シャン州政庁長官。19年、蘭印・スマトラ州知事。

 20年(1945)8月、日本敗戦によりジャワ島スラバヤ付近の収容所に入り、21年、シンガポール・チャンギー監獄に移され、22年に英軍のシンガポールにおける裁判でシンガポール華僑粛清事件で終身刑、シンガポールでの4年ほどの服役の後、残りの刑期を果たすため日本に送還される途中、オーストラリア軍警察によって香港の船から強制的に連れ去られ、西村はマヌス島裁判でマレー作戦中のムアルの戦いの後の連合国軍捕虜虐殺事件の責任者として改めて起訴された。昭和26年(1951)死刑判決を受け、同島で絞首刑に処された。戦犯裁判で実際に死刑執行がなされた最後の人物となったとされるが、実際にはこの日、他数名が一緒にマヌス島で処刑され、それらの遺書は『世紀の遺書』にある。

 取調べにおいて西村は部下らの「(西村から)捕虜の処分を命じられた」との証言を否定できなかったが、公判では「(自分は)本部へ後送するよう処置をとれと言ったはずだ」「処分しろと言ったとしても、(日本語では)処分とは本来は処置することを意味する、この場合は後方に送って処置する意味だ」と抗弁したが、この主張は通らなかった。

 筆者私見:この西村の言う「本来は処置」とは具体的に何を指すのか?これについては筆者がこれまで日中戦争を含め、将兵たちの証言記録を見てきた上での私見であるが、この時代の「処分」や「処置」という言葉はいずれも「処理」すなわち処刑という意味であることは間違いない。西村の部下がその言葉を受けて、改めて意味を聞かずにそのまま捕虜を処刑してしまうことはあり得ない。暗黙の了解があっての言葉であり、仮にも部下が「処分とは?」と聞き返せば「そんな事もわからないのか!」と怒鳴り返されるところである。この言い訳だけで西村は部下を守ろうとする腹も据わっていない指揮官であることがわかる(既述の「部下を守った司令官」と比較されたい)。したがって筆者は西村を一部の意見があるように無罪(冤罪)とは見ない。例えば戦場ではこの他に「解決」という言葉もあり、上海事変から南京事件までを通じて300人斬りを行なった一人の隊長が、これを便利な言葉として意識的に使っている事実がある。またこの「解決」という言葉はナチス・ドイツ軍でも使われた。つまりナチスはユダヤ人を「解決」するためにアウシュビッツなどの強制収容所に送り、そのまま彼らをガス室に詰め込んで大量に殺戮し、さらに焼却炉に放り込んで灰にして「解決」した。

 西村の辞世の句 ——「責めに生き責めに死すのは長(おさ)たらむ人の途なり憾(うらみ)やはする」

—— インドネシアその他の地区において ——

森本清光

 三重県出身。元憲兵准尉。昭和21年3月31日、モロタイ島(インドネシア)にて銃殺刑。33歳。

<手紙>

 …… 去る二月六日戦争犯罪者として濠洲軍軍法会議の裁判の結果「銃殺刑」の宣告を受けた。併し余りにも重刑且不当な宣告なる為め目下更に同軍最高司令官宛上告中にして後一二ヶ月中には最後の確定を見るものと思って居るが到底原刑通り銃殺刑に処せられるものと既に当初より決心し覚悟している。総て上官の命令により戦争に勝たんが為に為したる事が敗戦したるが故に如斯く哀れなる結果に終らなければならない。到底この俺は再びお前達と会う事は出来ないであろう。後に残したお前や幼い裕輔には実に可哀想且申訳ない事だが万事は此れ抱一の不運と諦めて呉れ。……

 お前の両親其の他へ万々よろしく。では強く、雄々しく御壮健にて幸福に暮されん事を遠く南洋の地より御祈りしている。

第五野戦憲兵隊北セレベス特設第一憲兵分隊(所属)夫より

 最愛の妻ヘ

<遺書>

 私が戦争犯罪者になりました状況に付き簡単に申上げます。其れは昨年六月中旬頃セレベス島の悲達の駐屯せる地域を襲

いました濠軍爆撃機を撃墜せる時、二名の捕虜を逮捕致しましたがその二名を殺害したからです。勿論私個人の所為ではありません。其の地の駐屯地司令部より私の上官である隊長を通じ処刑せよとの命令により実施した次第です。隊長は既に当地に来る前病死致しましたので結局私に全責任がかかった訳です。(隊長の次ですから)…… 処刑された方々には全く可哀想な事であり申訳ない事です。…… 日本人であり武人です。潔よく刑に服します。…… 死を前にしながらも只祈るは日本の再建とお前達二人の幸福のみ。再び昔の日本にいやそれ以上の日本に成長する日迄も生き永らえん事を。……

 茲で一寸獄中の状況を御知らせする。六畳一間程のコンクリートの一室に私を入れて四名が起居して居ます。獄の周囲は約三百米にて鉄条網を張り廻らして居ります 。其の中に三棟のバラック建があり、二棟は懲役囚小さい一環は死刑囚にと区分されて居ります。朝六時半起床、午前午後二回各二時間宛体操を実施します。入室は午後六時半其れ迄は水浴、散歩は自由、娯楽は手製の碁、将棋トラシプ、花札等で退屈を凌いで居ります。入室後は勿論「カギ」を掛けられます。(今迄は私共は罪人を「カギ」して居りましたが今では反対です。笑うなよ)夜十時に再び開けられて用便を達します。そして朝の起床時迄就寝となりますが電燈がありますので引続き室内で碁将棋等をして出来得る限り此の世の気分を味って居ります。日本軍と同じ上下二着の衣服と蚊張(一人用)寝具、食器等が与へられて居ります。食事も三度白飯に時折果物屋パン等も与えられ先づ腹八分で丁度いい具合です。タバコも月一回二十本与えられて居ります。此の様な具合一で別に何不自由なく、又考える事もなく、お前一達の想保して居る以上に気楽に過して居ります。かえってそちらよりもいいではないかとすまないも申訳ない様な気持がしてなりません。……

 父母、兄姉上様其の他皆々様御壮健でしょうか。どうぞよろしく御伝え下さい。桜の花も漸く咲く事でしょう。祐輔も今頃は桜の木の下でたわむれて居る事でしょう。笑顔のお前、走り廻る祐輔、元気な父母、兄姉の姿が次から次へと走馬燈の様に浮んで来る。……

田島一郎

 東京都。「歩215」所属、元陸軍中尉。昭和21年7月15日、ビルマ・ラングーンに於て銃殺刑。

<日記>

 四月十二日 金曜日 晴

 私は二分に対しては常に最善を尽した積りで後悔はありませんが、親孝行と弟の面倒を見る点に於ては常に胸をしめつけられる様な後悔の念で一杯です。啓造君よ、貞哲君にも伝えてくれ、私の分迄親孝行してくれと。……

 四月十二日 金曜日 晴

 今日も亦生きられた。時々「今生きて居る」と云う事に大きな不思議を感ずる。当然迎えるであろう明日に全く新しい世界を感じつつ眠りに就く。……

 地球は廻って居る。少しづつの厄介者を振り落とし乍ら。…… 俺は何時振り落とされるかと鉄格子にしがみついて遠くの星を見る。

<遺稿>

 …… 吾々は共存共栄の最高なる道徳の世界を生み出す為に、之が障碍を排除する戦いを大東亜戦争と名付けた。そしてその結果は敗れた。然しその理想は等しく各国人の認めるところとなった。南方各国は独立を叫び、欧州各国は之を認めざるを得なくなった。…… そしてこの大いなる歩みの為に散るこそ悠久に生きる事であるのだ。

笠井次雄

 静岡県出身。元憲兵大尉。昭和22年1月9日、英国領北ボルネオ(現・マレーシア)ミリに於て刑死。28歳。

<遺書>

 天皇陛下の命に依り次雄は昭和二十年十月五日北ボルネオ「ミリ」に於て連合軍に降伏せり。昭和二十一年六月一日シンガポールに移され十月十七日英軍軍法会議に附せられ死刑を宣告さる。是れ運命なり。次雄は神の法廷に出頭し少しも怖れず神の判決を受くる事が出来た。次雄は唯皇国の勝利を希って実行したのである。此の任務の為に次雄は生来の努力の全部を投入した。それが罪禍であり得よう筈が無い。死に臨み父上母上、兄、姉、妹、弟の幸福を祈る。

  昭和二十一年十月十七日

<手紙>

 再び北ボルネオに行くべき運命になりたるを以て過去を思い一筆致します。次雄の心境は極めて落つき平静なる故此の点御安心下さい。

 次雄は昭和二十年一月十五日「ミリ」憲兵分隊長の要職に任命されました。…… ミリは泊田地帯でもあり重要地点なる

故貴官に期待する所誠に大なりとの祝詞を頂き勇躍任地に到着したのでした。当時既に連合軍より若干の空襲あり、六月に入るや戦況は悪化し遂にミリにも連合軍の上陸となり日本軍は作戦上一時ジャングル地帯に撤退し約二ヶ月間交戦状態となり各部隊共に相当の損害を生じ次雄も直接部下三名を失いました。比の時次雄は既に死を覚悟していたのです。……

 次雄の事件は反日的原住民を日木軍律会議に送るべく憲兵隊に留置中連合軍と交戦状態になりたるを以てミリ地区最高指揮官相京大佐の命令に依り憲兵隊員が銃殺したので次雄は此の指揮官だったのです。日本人として軍人として当然やるべき事で正しいものと信じて実行したのです。

 次雄の裁判は部下九名と共に十月十四日より十七日の間にシンガポールで行われました。部下の中一名は死刑、二名は禁銅五年、一名は一年半、二名は一年、残り三名一は六ヶ月でした。部下に対しても申訳ないと思って居ります。今チャンギー刑務所に死刑を宣告された者五十一名居り軍司令官原田中将を始め少将二名、参謀とか将校下士官軍属等で皆大悟し死を超越し真に天国の生活です。食糧も豊富です。……

 終りに臨み次雄は決して軍人として恥ずべき行為で最後を終ったのでない、武士として日本人として当然なすべぎ事をたしたのである事を誓います。

 次維は短い人生ではありましたが今更何等心残りはありません。 唯父上、母上様に尽すべき時機のなかった事を申訳なく思っています。此の点は御許し下さい。

  昭和二十一年十一月九日

佐藤源治 

 岩手県出身。水沢農学校卒業。元農業。憲兵曹長。昭和23年9月22日、蘭印(インドネシア)パタビア・チピナン(注:グロドッグともある)において銃殺刑。32歳。

<執行前日>

 更衣室で全部着替えて囚衣となった。跣足で独房に歩いて行く。山本閣下等が入っていた独房である。奥の方から浅木、佐藤、山畑、野中、斉藤、清水の順である。ゴミだらけの独房の板床の上に仰向いて寝てみたが何も考えるものがない。俳句、短歌もわざとらしく感ずるのでじっとしている。……昼食が来た。……別に胸に万感満ちもせんが、飯は食わない。

 大便をしていると検事が来た。所長とロシア人の通訳も来た。「貴方の嘆願書が却下になって48時間以内に…」と言い渡してから何かいうことはないかと云うから、「俺は死刑の執行を受けるが、心に何一つやましいところはない。君が云ったような、死者も怪我人もつくったことはない。しかし今助かることを考えているのではないから誤解するな。……その死に様をよくみておけ。……」。検事にいい終わってからニッコリ笑ってやったら、彼は泣きそうな大分困ったような顔をしていたが、さらに「一番先に執行してくれ」と云うと肯いて行った。……そのうちに私は浅木氏の室に入れ替えになった。執行順らしい。この室で坊さんと会った。いろいろとお話を承り涙が出そうであった。別れる時「野中、山畑、斉藤、清水達にはすまない。彼らには妻のある人もあり、片親の人もいる。その人達に同情し、お詫びしていることを坊さんの胸に入れておいてください」と頼んだ。佐藤師の悲壮なる決心をきき感謝に堪えず、安心して死んで行ける。

 便所用水に顔を映して眺める。これが自分の顔の見納めかと思って見ると、父の顔に似ているなと思う。笑ってみたりしかめてみたり。百面相をやってみた。マタハリの花が枯れるので、その水に挿してやった。明日まで咲いてくれと祈りながら。

 注)佐藤は日本軍の占領地(元オランダ領)スラバヤ で警備にあたっていた。敗戦後、オランダの報復の的は憲兵に向けられ、裁判は昭和21年8月5日から始められ昭和24年10月24日まで、死刑判決は64名に下された。善政の施いたとされる堀内海軍大佐も死刑、警察任務に当たっていた憲兵隊は根こそぎ死刑であった。佐藤は刑務所に入ってから獄中記を大量に書き遺しているが、それは軍用罫紙や周囲にあった煙草の巻紙や反故紙などあらゆるものを使っていて、それを後年遺族が整理しまとめ、私家版が出されていて、さらに1985年に『ジャワ獄中記』 (草思社)として出版された。その記憶力と筆力は優れていて、惜しいものがある。

伊東義光

 北海道出身、元憲兵曹長。昭和23年10月4日、インドネシア・セレベス島(スラウェシ島)「マカツサル市キイス兵営獄舎」に於て、銃殺刑。31歳。

<父上様>

 赤道遥かなる南溟の地より、義光は今次の戦争に際し南方ハルマヘラ島に上陸して転戦満三ヶ年、ひたすら報国の一念に燃えて御奉公にいそしんで来たのでありましたが、武運拙く敗れ去り二十一年六月セレべス島に於いて和蘭軍に逮捕拘留せらるる処となり戦争犯罪者として裁きを受くることとなったのであります。寿光の犯したる犯罪状況に就いては此処に詳述することは許されませんけれども将来必ず世に明らかとなり歴史が解決して呉れる問題であります。殺人其他世にいう破廉恥的なるものでは決してないのであります。即ち戦争中憲兵として当然の任務を遂行したることが国際法規違反となり所謂組織的テロ行為として其責任を問わるるに至ったものであります。 …… 私の裁判は本23年3月24日、和蘭軍マカツサル臨時軍法会議に於て部下と共に無期刑を求刑せられ、同年5月28日、同会議に於て其責任上死刑の判決を宣告せられたのであります。 …… 古今東西もののふにして戦いに敗れたるものの今日あるは元より覚悟の上でありました。願わくば父上様よりよくぞ責任を果したと誉めて戴き度いのであります。……

 私と運命を共にする人に中村益視という部下の軍曹があります。此人に対しては私は上官たる責任に於いて誠に相済まない次第であります。 …… 私の分隊長でありました大柴大尉、班長たりし古瀬准尉、分隊員たりし井手尾軍曹も運命を共にする戦友であります。 …… 義光の体は異国に滅びてゆきます。しかし義光の魂は必ずや父上と母上の御胸に永遠に生きてゆくでありましょう。

(なお、中村益視の遺書も伊東の内容に似ている。獄舎内で伊東のものを参考にしたものと思われる)

上野千里

 栃木県出身。元海軍軍医中佐。昭和24年3月31日、グアム島に於て刑死。43歳。(上野は昭和21年に復員し、実家の病院で診療を再開したが、翌年に米軍に逮捕され、グアム島に連行された)

 筆者前注:上野はいわゆる従軍医師で、西太平洋のトラック島の日本海軍の基地に勤務していた。トラック諸島は第一次世界大戦後の1919年に日本の委任統治領となり、軍人・軍属や民間人など約2万人の人々が暮らしていた。島には町が作られ、病院や小学校、映画館や料亭までが立ち並んでいた。太平洋戦争開戦後、トラック諸島は日本帝国海軍連合艦隊の重要基地となっていた。昭和18年(1943年)末、トラック環礁付近で米軍潜水艦が拿捕され、海軍警備隊は約50名の捕虜を収容した。翌19年2月、米軍はこのトラック島に大空襲を行い、その後も断続的に空爆は加えられた。そうした時期の出来事で、上野自身が妻に宛てた手紙の内容を簡略に記すと、—— 6月に米軍の空襲があり、当時収容中の米軍の捕虜5名の中、3名が即死、2名が大怪我を負った。その2名を手術で助けようとしたが、司令、副長はその2名を「片付けろ」と命令してきた。それでも自分は手術に踏み切ったが、その途中で呼び出され、その間に2名は他に移されて処刑された。その処刑の実行は自分の部下であったが、その部下の責任を負い、自分は米軍の裁判で死刑となった —— ということである。

 ところが客観的な記録によると、この年の1月から何度にもわたって、海軍第4艦隊所属の第4病院の軍医官らが医学的実験としてアメリカ人捕虜を使って生体実験を行なった。なおこの生体実験は陸軍の731部隊に遅れを取らないように計画されたともいわれる。その中の一つで6月、第41警備隊の警備隊病室で、軍医官らが、医学的実験としてアメリカ人捕虜1人を解剖し下士官に殺害を指示、同時に、別の捕虜1人を銃剣刺突によって殺害したとされている。終戦後、米軍から追及されることをおそれた司令部や第4病院、第41警備隊の関係者は、その事実が露見しないよう捕虜の死体を掘り返して海に捨てるなどして隠し、関係者に口止めをした。しかし米軍は徹底的に追求し、6月を含めた数軒を立件、グアムで裁判を行なった。

 そして判決が下った後の上野が妻に宛てた手紙は長く細々と事の経緯を記しているが、決して生体実験には触れていず、どこか言い訳がましい面がある。ただそれは妻や子供たちに対する心象を慮ったものだろう。以下はごく一部の抜き書きである。

<妻へ>

 (前略)…… 手術のことに関しても私は酷しい裁を受けましたが、このととに関する恨の連坐したのは司令と私の二人きりに止めることが出来ました。私は重い罰を受けたことよりも多数の部下が始めから起訴すらされなかったことの喜びの方が心の大部を占める自分が嬉しくあります。…… 部下の多数は … 新生日本の一員として私の分まで働いてくれるでしょう。文字に出来ぬ点もあります。お察し下さい。

 …… 私は人間の理性の限界を偽り多き彼等(軍人)の職業武士道の姿を自の辺りにまざまざと見せつけられて唯淋しく苦笑せねばならなかった。…… 斯る穀業武士道の小智が生み出した巧言に乗って悲惨な戦争に誘い込まれた国民自身も深く自らを省る必要があるのではないでしょうか。……

<遺書>(妻宛は略、五人の子供へ)

 …… 他に言わず、御身等心を合せ世の弱く貧しき人のため縁の下の力となる心意気を常日頃より養割れんことを。しかして世の正義の為、真の愛の為、美しき祖国の再建に挺身されよ。

 …… 日本の敗たるは当然なり。物資に乏しく科学性に稚なく、人心久しく腐敗し盲目なりしなり。日本の敗戦をこそ神の御摂理、聖なる裁きと心され喜びて新しき祖国の建設に身をもって一石を投ぜられよ。日本人は生れ変わるべきなり。

<遺詠>

 悲しみのつきぬところにこそ

 かすかな喜びの芽生えの声がある

 熱い涙のその珠にこそ

 あの虹の七色は映え宿る

(以下略)

 筆者後注:この遺詠はネット上でも引用され、上野医師の無罪をそのまま信じる方もいる。ただこれと類似した例として、中国の山西省で731部隊の生体実験に関わった一人の医師がいて、彼は戦後も中国に残り医師として働き、その後共産党政権樹立により改めて戦犯として捕らえられ、数年以上に及ぶ調査でその罪を認めた結果、他の戦犯とともにほぼ全員が釈放された(撫順の奇蹟)。その彼は生体実験に関わってはいたが、戦時下の異様な状況の中で、それが犯罪であるという認識はまったく持っておらず、だから戦後も中国に残っていた。そしてこの上野医師も戦後一旦日本に帰還して実家の診療所で働き、何の咎を受けるような意識も持たず医師として暮らし始めたところで召喚されて逮捕されたわけである。この片方の医師の詳しい経緯については筆者の『各種参考資料』の中の「慈恵医大卒業生:湯浅謙の軍医体験」を参照。

半沢 勇

 福島県出身。安積中学校卒業。憲兵曹長。昭和24年9月26日、ジャカルタ・グロドックに於いて刑死、31歳。

<遺す言葉>

 (前略)……

 私個人としては又私に連なる親族に不幸を及ぼす責任を痛感し、信義、友愛を立てその範囲内に於て最善を尽し彼等に与える悲嘆を減少すべくこれ努めてきました。人事を尽して天命を待つ、天は自ら助くるものを助く。誠に御承知の如く未だ前例もない程に「ベルグ」氏や裁判長が決然として私の為に助命奔走して呉れました。冤罪を被って居る私として、それは当然の様にも見えますが、実際には理論の通らない人間感情の渦巻の中では、通常こちらの言分は笑殺されても如何ともなし得ね悪条件の状況にあっては殆ど不可能と思える事でした。両者の助命努力によって九ヶ月も執行延期となり一時は有望視されたのでしたが衆寡敵せず軍配は上りました。

 結局死刑の結果そのものは同一に帰しましたが、私の死刑が過重である一立証がなり、人間的には両者の努力に感謝が湧き、到底真実を知るに困難な問題が、急速に理解される運びになったところに、有形無形に天恵あるを知ります。この両者が私の予審官と裁判官であったら …。それは時既に遅く正に運命の皮肉であります。然れ共私によって最大の打撃を受ける妻子も之等の事情を知れば、悲しみの中にも自然に慰められ、又私の妻子を愛する心に喜びの湧くことを汲みとられる事と信じます。只今これを書いている途中に松浦氏が来られ一時間快談致しまして帰った許りです。今日は25日昼少し前、執行は明朝、至極元気ですから御安心下さい。……

 今佐藤氏が来てお経を読んで下さったり、一緒にお話をして帰りました。もう執行を待つ許り、今夜はゆっくり眠って酷使した肉体を休ませて、おさらばしようと思って居ります。……

 では一日も早く御帰還される事を祈って、あなたの御家族様方にも宜敷。(後略)

九月二十五日午後四時

<家族への遺書>(略)

<独房悲歌>

1)死ぬ意義

 何の為に死ぬのか、いや死なねばならぬか、一応は死ぬ者にとって考へねばならぬ問題である。犠牲、だが何の犠牲か。日く、日本の再建の為の、否、報復の犠牲であると。 松田長官は、犠牲でも何でもない全くの犬死であると云っていた。

 又、犠牲との見解を持する側にも三色あって勝村少佐は、日本再建の為の犠牲であって有意義であると提唱していた。和田大尉は、犠牲は犠牲であっても、報復の犠牲であり、無駄死であると云い、浅木少尉は犠牲が有意義であるか、無駄になるかは、将来の日本人が立証して呉れるものであると折衷説をもっていた。……

 谷口少佐が、処刑の寸前にすら自分は何の為死なねばならぬかと云っていたが、人間として理性が働く以上は、思索し、死ぬ迄に、一通り頭の中を整理して置きたいと努力するであろう。…… 然し納得しようがしまいが、否応なしに、刻々と時が、死を強要しつつあるところに言い知れぬ苦悶が内在して居る。……

 何故であろう。云う迄もなく、吾々が過去に於て教育された死生観は、ここで通用しないのだ。即ち青年が、これまで教育された天皇陛下のために笑って命を捧げる日本軍人の死生観原理は、何の勇気も与へず、それをロにする者も居ないのは悲しい限りである。

 臨終の際、天皇陛下万才を三唱するのは日本軍人の典型であり、それが国運の隆運を祈る日本人の表徴でもある。山畑君が出発の前日、天皇陛下万才を言いたくないが、云わないと残った家族が苦労するであろう、家族のために万才を云ってやるかなと、さびしそうに云っていた。又橋本君は刑場に発つ前迄、天皇陛下万才を三唱しないと云って居たそうである。……

 青年が純粋に信じていた筈の確固たる何かを見失うと同時に、凡てが瓦解したのだ。死ぬ者にとっては、退廃的な虚無感で充満し、和田大尉や山根軍医が、地球が破裂して一切が消えれば好いと云ったが、その心は寂寞として荒廃なるを知らう。後日和田大尉が逃亡するに及んだ一端も窺知できる。死ぬ意義を発見納得し得ない苦悩が深刻な一面を呈している。

2)覚醒と後悔

 漸く青年期に達すると兵隊に入り、戦争に従事して来た吾々青年は、国家社会、政治は勿論、自己の人生にすら無批判であったと云えよう。一途に養なわれて来たものを信じ、それが凡てであり、忠節を尽すことによって報いられるものが何であるか、深く考えてみる必要はなかった。只尽すことが要求され居り、そして尽すことが吾々の道であった。

 それが終戦後、殻を破られ、吾々が嘗て想像しなかった事態が展開し、宛然傾倒した感がある。昔売国奴と呼ばれて国外へ隠遁して居た者が、(戦後になって)今や逆転し、檜舞台に立って指導して居る。

 悪と信じて居たものは、実は悪でなかった。これが人生の最高と思って居たのは、無智以外の何ものでもない。ここが難しい問題であろう。覚醒した時は万事休すである。そして一切を運命として諦めんとする。何れにしても諦めざるを得ない問題であるが、諦めは諦めとして、常に精神と内訌の起るのは当然であろう。

 覚醒が希望となり、発奮となる立場と異り、覚醒は後悔になって、責め、萌芽せんとする思念は、自ら断たねばならぬ。無智なる者は、無智なる時に死んだ方が楽であると思う。ここに彼等が苦悩の痕を見逃せない。……

3)死の恐怖

 必然的に経験しなければならない究極の問題は死であるが、判決後、処刑の期日が迫るに伴い、刑場の情景を思い浮べて種々の空想をしているらしい。太田伍長は、室内で、一人刑場に歩む練習をして居ると話したことがあった。来る処まで来れば、死そのものは恐れる筈がない。銃口の前に立つには、そして息の根が止る迄が最も気掛りのところである。

 意識して銃口の前に立つには、相当な勇気がいる。宗教的な信仰も何もない吾々青年は日本人の意気だけで頑張れるだけだ。人に笑われたくない。それだけに真剣になってる努力が見える。

 処刑直前、和田軍曹が小さい堀を見て、「この川は、何処へ流れる河か」と訊いたのは判断に苦しむが、山根軍医が、見るもの総て清く美しく見えると云ったそうだが、実際そう見えるのだろう。橋本君が坊さんに「先になって歩いてくれ。俺は後から一人で行く」と云って凄愴な笑を浮べたと云うが、それは坊さんの臆病な見方か。が、人の真剣なるや、霊気が漂うことは肯ける。清水君が太陽を見て美しいお月様が出たと云ったのは間接的に聞いたのだが、鬼気迫るものがあろう。……

4)情懐

 彼等青年の九〇パーセントは、独身者で入営以来郷里に帰ったことの無い人も多い。

 嘗て、独房に「咆哮」という名で、各自の寄稿を編綴したものがある。毎月二回発行して独房を回覧して居るのを見て、自分も一度投稿したのを覚えている。それを一読して彼等が如何に肉親を追慕して居るかを見る。

 十年余何時かは再会を期待しつつ今日に至った時、つらつら秋風の淋しさを感じたと云うように、遠慮勝ちにその気持を叙して居る。それは弱味を見せまいとする努力も窺われるが一般に「咆哮」に書いたものは真に迫って胸を突く底のものはなかったようだ。…… 然し実際は、日常二、三人集ってしんみり話すところに、真実が浮んで居る。自分と同期生の佐藤君の厳父は、同君の死刑を知って驚き、そして如何なる重罪を犯したかと嘆じた便りを寄越したらしい。佐藤君はそれについて苦悶していた。何時かは戦犯の性質について理解される日が来るであろう。少なくとも、肉親にだけは理解せしめねばならぬが、それは又別な問題である。実際肉親からも重罪を犯したように思われるのは救われ難い苦痛であろう。……

5)自覚

 精神的準拠は覆り、虚無と絶望から危く崩壊せんとするのを強く支へて居るのは、日本人的自覚であろう。その自覚を更に確固たらしむるのは、直接間接に激励する同胞の存在であろう。日本魂は、幾多の苦悶を包蔵しながら、強く堪へ、顔で笑うことが出来るのである。

 日本人の意気を見せようと、寧ろ積極的な勇気が湧いてくる。上杉、野中君が、一暴れして死に花を咲かせようかと考えていたが、全体のためを考えて、躊躇していたのは必ずしも純粋な意味に於て壮と云へないであろうが、最後迄斗魂に燃えて居た点、異なるものがある。特に終始悠然とした恬淡さで一際目立ったのは、吾々より一代古いが、岡田少佐であろう。彼は動もすれば、沈滞的な空気を醸す状況にあって、後輩を導かんとして、一歩進んだ自覚の上に立って居た。……

 21年11月下旬、山本中佐が自殺する時、自分は隣室にいて、その断末魔の唸り声で目を覚ましたが、彼に就いては精神的な噂もあるから原因について知り得ないが、その後、岩政大尉が自殺したのや、スラバヤに送られた実松曹長、又久米曹長の自殺を、肉体的苦痛を与へられたとしても、よしんば肉体的苦痛が直接の誘因だと譲歩して考えても、彼等の心底を洗れる孤独感と絶望感を看過することが出来ない。

6)宗教

 自分が独房に来てから、嘗て宗教の話は口にでた事がなかったと云って過言でない。最近老人が独房に来てから一部に、仏が有難く涙がこぼれると云うような事を云い、仏にすがって彼の世に渡らせて貰うべく、熱心に南無阿弥陀仏を唱へて居るが、これとて話を聞けば終戦後の信仰らしい。……

 吾々青年に宗教心がないわけではない。その大部分は宗教を知らずに来たと云った方が適切であろう。生れたときから祖先伝来の宗教がある筈だが、…… ここで云い得るのは、人間が全く孤独に陥った時に、空飛ぶ鳥を見ても羨む、無力な弱い一面を知ることができるし、天皇陛下のために笑って死ぬべき筈であった日本人が、笑って死ねなくなった時、淋しい空虚を感ずるであろう。……

 はしなくも敗戦によって、従来の日本人的死生観に大きな弱点を発見した。神聖な国体を汚されたことによって、従来の国家理念に鋭いメスが加へらるべきは必然である。将来天皇中心主義者が、独善的一方面に陶酔することは不可能になった。

 この戦争を通じて、最大の犠牲を払ったのは、吾々青年の上に見られる。何百万の英霊は何の為に死んだか。南無阿弥陀仏を唱へたか、アーメンと十字を切ったか、否、天皇陛下万才を叫んだことは誰も疑はないであろう。日本人の血を感じる者、誰しもが知るところである。その崇高たる犠牲に、讃美の声を禁じ得なかった吾々は、彼等何百万の戦友が、魂の真の叫び、天皇陛下万才に改めて耳を傾けようではないか。そして又、尚天皇陛下万才が続いて居る。その犠牲に吾々は最早や嘗ての崇高なる感激を貰えるより、悲痛な哀感が強く響いて居る。独房から消えて行った、吾々とその歩みを同じくする青年が秘める苦悩、笑って訣別の言葉を交す裏面に漂う悲痛なる声は、彼等の奏する悲歌として共に味う何かを教えられる。……

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