以下は『東京大空襲戦災誌』第2巻(証言集)よりいくつか拾ったものである。
<一ヵ月探したが…>
両親の住所は城東区亀戸町であり、当時江戸川区小岩町に住む徴用工で32歳の溝口松治の話である。
昭和20年3月9日夜半より、空襲警報と同時に東京湾より一機一機続いて江東地区を襲い、日の変わる1時より2時頃には東京の空は炎とその煙で真赤だった。明け方の5時頃までその空襲は続き、小岩の上空を飛んで帰る機体をうらめしく見送った。小岩地区にも高射砲陣地はあったが、2、3回の爆撃で使えない状態で、なすことを知らぬ有様だった。夜明けとともに千葉街道には江東地区の罹災者が千葉方面に向かって避難する人、または小岩地区に知人があれば尋ねて来る人で、その姿の痛ましいことは書き表わすにも困難で、すでに死んでいる赤ん坊をおぶって通る人が多く目についた。目もあけぬままお互いに手を取り合って行く人、顔中やけどのため、ものを言う元気もなく、夢遊病者のごとく列をなす。小岩地区の婦人会や在郷軍人の人びとは、せめてものおかゆを作り配給して力づけた。
私も亀戸三丁目に住む両親と姉のことを案じ、食糧や薬品をカバンに入れて地下足袋にて歩き出した。小松川橋はまだ通れぬということで、土手つたいに鉄橋に行き渡り始め、どうにか平井地区に入り亀戸に向かうところ、まだまだ工場が焼けていて入れず、向島に入り花王石けん工場の福神橋に行って驚いたことに、香取神社が残っているのと、一本の煙突が見えただけで、まったくの焼け野原になっていた。両親のいた所はその煙突のそばだったので、行ってみると、指物師だった父の家の焼跡には釘の焼け残りと、のこぎりの刃、またはかんなの刃くらいで、かなりあったタンスや茶ダンスその他木材はきれいに焼けてしまっていた。 まずどの方面に逃げて行ったのか、二、三時間たった頃、真黒な顔とぬれネズミになった一人の近所の人がドブ板の下から出て来たが、その人に両親のことを開いたら、まわりが火の海になる一分前まで見たと言う。天神通りから亀戸駅に向かう十三間通りに来て驚いたことに、通りにたおれている人びとは皆、男女の別さえわからガイ骨だった。駅に近づくにしたがってますますガイ骨が多くなって、駅ではふしぎに思うほど死人が山をなしていた。
当時六丁目に伯父がいて、伯父は裏の鉄道工事になっている土手の防空壕に入っていて助かったと言って喜んでいた。毎日いろいろな情報をもとにあらゆる方面を探したが、目につくものは悲惨な親子の死体、念仏をとなえながら死んだおばあさん。それ以来石川島造船場に徴用工にとられていたので、毎日毎日行きにかえりに食糧と薬品の入ったカバンをさげ、ゲートル、地下足袋姿で約一ヵ月かかり江東地区の病院は皆さがし、また警察の遺品係を探すもわからず。亀戸の署長さんも、もうあきらなさいということで、爆死検視書をもらい、遺品を入れた「ツボ」で葬儀はすませた。
<父よ、弟よ>
当時、中村俊子(旧姓・斎藤)は15歳の女学生で本所区(墨田区)菊川町に自宅があった。 当夜(3月9日)は千葉市の母親の疎開先にいた。
—— 私の家は、父45歳、母38歳、私、弟2人(13、3歳)、妹4人(11、8、6、1歳)の9人家族だった。空襲が激しくなったので、幼い子ら5人と母は千葉市に疎開し、私と下の弟は父と一緒に東京に残った。私は女学校の3年生で、どこの学校も授業はなく、私たちは千葉県市川の工場に勤労動員で通っていた。
その日、工場の帰りに母のところに寄るつもりで父に「今夜は遅くなるから裏戸をあけておいてよ」と言って家を出た。私達は校服の上衣にモンペをはいて綿の入った防空頭巾と救急袋を肩から下げた姿で友だちと一緒に工場を出た。東京に帰る友だちと千葉に行く私は別々のホームに立って、「さよなら、またあしたね」と手を振った。しかしその何人かの友だちともそれっきり再び会うことはなかった。疎開した母のところに行くと、小さい弟や妹が大喜びだった。久し振りの母の手料理はとてもおいしかった。東京では銭湯のある日も限られていたから、母はお風呂もわかしてくれた。東京に帰るのがいやになったが、父が心配するので帰るつもりでいた。そのころから風が強くなり、母も「外は真暗だし女の子一人で帰すわけにはいかない」と言って泊まるようにすすめられ、その気になり、弟と妹の間に入って寝た。
11時過ぎに警報のサイレンが鳴って飛び起きた。いつもより飛行機が飛んでいて、なかなか解除にならないと母と話して1時間くらいたったころ、私は気が気でないので外に出てみた。近所の方も2、3人出て東京方面の空を見ていた。うっすらと赤く、 おかしいと思い、浜に駆け足で行ってみた。東京の空が赤い、真赤な火の海だ。どうしよう…。父や弟は大丈夫だろうか、あの火の中にいるのか、 いつもサイレンがなると父は真先に警防団の本部にかけつけるので、弟と私は身仕度をととのえて防火用水の氷を割ったり火ハタキを持って待つのだったが、今夜は弟が一人で心配はつのるばかり、東京はますます激しく燃えひろがっていて、寒さを忘れて立ちすくんでいた。
一晩中ねむれず、夜明けまで待って東京に行く電車に乗った。車内ではみな興奮して空襲の話をしていた。本所深川方面は全滅だというような話が耳に入ってきた。市川駅につくと、電車はそこから先は行かないという。私は線路づたいに歩いて東京に向かった。しぼらくするとけがをした人、やけどをした人、びっこを引きながら子供の手を引いている人、焦げた服、真赤に目をはらし命からがらの人達に出会う。もう 家どころではない、2人とも命がありますように、あるいは父も弟もこんな姿で歩いてくるのではないかと、すれちがう人の顔をみながら歩いた。亀戸の駅の近くまできたら火事場独特の臭いと熱気に包まれた。そのうち驚いて足がとまった。土手には、だいだい色で全身がふくれ上がった死体がゴロゴロたおれている。手をつなぎ合ったり、大人が子供をかばって倒れている様子、目をおおいたくなる。悲惨だった。精工舎の近くまで行ったら、まだまだ先には火の手があり、黒い煙がたちこめて空が薄暗くなっている。暑くてこれより先には行けない。足をひきずって歩いてきて顔も黒くなっていた男の人に私はきいてみた。「三之橋の近くですけれど」 − 「家なんかないよ。だめだめ、死人でいっぱいだよ」。家はなくともよい、父や弟はどうしたのだろう、 命だけはあってほしい、けがをしてもやけどをしてびっこになっても会いたい。……
次の日、私は幼い弟妹のお守りをして、母はおじさん達とトラックで父と弟を探しに出かけた。お腹もすいていることだろうと、水、おにぎり、着がえ、弟の好きなものを用意して行った。私はお母さん役で小さい妹のおしめを洗い、あとかたづけをして一番下の弟と妹の手をひいてミルクを買いに行った。しかし、どこの店に行ってもことわられ悲しくなった。私はくじけず背中の子のために歩き、親切なお店、分けを話してミルクを売ってもらい、とても嬉しかった。
母達が夕方真黒な顔をして元気なく帰ってきた。あたり一面焼け野原、道々にも死体、川の中は死体が重なり、想像以上にひどいと話してくれた。近所の方々にも会えないし、もちろん父や弟もぜんぜんわからない。翌日からもおにぎりと着がえをもって母は父と弟を探しにでかけた。焼け野原には用水桶に片足を入れそのままの姿で焼けている人、自転車にのったままの姿で丸こげの人……、母は帰ってくると話してくれた。母は毎日毎日出かけ、疲れて帰ってきた。生き残った人は自分の家の焼跡に立札を立て始めたが、自宅には立ってないのでやっぱりだめなのかと母は言い始めた。半月くらい千葉から通った。
ある日弟の先生に会い、あの夜弟は家の前でひとりで立っていたので「一緒に逃げよう」とさそいをかけたが、「おとうちゃんがくるまで待っている」と動かなかったので、先生は猿江町の恩賜公園に逃げこんで助かったとのことだった。先生は母に「あの時はもう四方から火に包まれていましたから、まず逃げられなかったでしょう」—— ああやっぱり弟は一人で父が本部から帰ってくるのを待っていたのだ。その時の気持ちを察すると、かわいそうでならない。もう一人すぐ裏の白石さんに会いお話を伺うと、親子四人で菊川橋のそばにある防空壕で避難していたが、火の粉がとんでくるので川から水をくんでかけていたそうだ。火がなめるようにかぶさり、目の前で大勢の人が「あつい、あつい」と叫びながら死んでいった。自分は橋の裏側につかまっていて助かったとのことで、大やけどしたがやっと命があったと言っていた。川のいかだが燃え始め、その上にいた人びとの荷物に火がうつり、川も火の海になり、橋の上からは入びとが逃げてきてあつい、あついと叫びながら、もみがらを流すように川の中へおちていったそうだ。その中にいれば泳ぎができても浮き上がることができない。お宅でもひろちゃんをサイドカーに乗せて行くのをみかけたよと教えてくてれたので、菊川橋に行ってみたら、橋の中ほどに真茶色に焼けたサイドカーがおいてあったので、ここまでは二人して逃げてきて火に追われどうにもならなくて川に入ったのでは? だんだん望みが薄くなってきた。それでも二人がひょっこりかえってくるのではないかと心では待っていた。
ちょうど3月10日から49日目の4月27日の夕方だった。裏の白石さんがほうたいに顔を包み、杖をつき足をひきずり尋ねてくれた。父と弟の死体が菊川橋からあがり、猿江町の恩賜公園に埋めてあるとわざわざ教えにきて下さった。…まだ空襲があったが、翌日とにかく私は一人で小雨ふるなかを父と弟のねむる公園に出掛けた。ずらりと並べて埋めてあった。墓標があり番号がふってあった。もう涙で目がかすみ字がよめない、涙をふきふき名前を探した。千三百何番と番号があり「斎藤清吉」、あっ、お父ちゃん。土がうっすらとかけてあり、顔はわからなかったが、衣類と靴が確かにまちがいなかった。私はこの雨の中さぞかし冷たいであろうと思わず傘をさしかけてあげた。できるならば私も一緒に寝て暖めてあげたい…。次に弟を探し、30番違いの場所に斎藤博、校服にゲートルまきの姿で土の中に眠っていた(注:このように氏名のわかるケースは多くなく、焼け焦げた人は衣服に縫い付けた氏名など残ってはいなかった)。今思い出してもかわいそうでならない。一夜でもいいから(空襲がなくなって)朝までゆっくりねたいとよく話していた弟、その望みも叶わず死んでしまった。やさしかった父、いつまでも離れることができなかった。空襲警報が鳴っても防空壕に入る気はなく、父弟のそばに暗くなるまでいた。死体はすぐ渡してくれず、その後空襲のあい間をみては公園に行った。この日のことは一生忘れられない。あの姿を思うと涙で字もかけない。
しばらくして父の身の回り品は一品もなく、弟のサイフを渡された。終戦後、骨は全部まとめて焼き、どなたのかわからなかったが、同じ夜、一つの気持で亡くなった人びとのものだから、二人分いただいて持ち帰った
<慟哭の日々>
望月正子、当時36歳の話である。
当時私は滝野川区(北区)田端町に主人と女中と三人で暮らしていた。すぐ隣に甥(私の長姉の子)夫婦がいたが、 姉一家は本所(墨田区)柳原町にいた。3月10日未明からの空襲は言語に絶する大規模なもので、田端の高台から見える下町一帯はまったくの火の海で、姉(当時39歳)の家辺りもと思うと、身体がガタガタふるえて立っていられなかった。無事に田端へ逃げてくればと祈りつつ、夜通しねむれずに朝を迎えた。10日午前、甥が姉の様子を見に行き、こちらに逃げて来るはずと、いつ来てもよいように食事の用意をして待っていた。夕方、甥が帰ってきて、実姉の家の焼けたこと、焼跡には誰もいないことを知らされた。甥は「いちばん近い菊川国民学校をはじめあの周辺を探したが、黒く焼けた人と蒸し焼きになった人、川の中も遺体でいっぱいだった」と言い、どこか遠くまで逃げて、まだ焼跡に帰りつかないのかと話し合った。
翌日、「田端無事、おいで待つ、正子」と書いた立札を作り、甥が一人でふたたび出かけた(主人は仕事で出張中)。家で待つ私は、今誰か来るか、オバサンと言って7人が揃って来るかと、門を出たり入ったり、気が気ではなかった。夕方、甥が「今日は遠くまで探したが誰もいないし、焼跡にもいない。立札は立ててきた」と力なく帰ってきた。一応、田舎(栃木県)と主人に「ハラダ(原田) ヤケタ マサコ」の電報を打ち、12日からは甥と私で探しに出かけた。秋葉原駅からは電車も不通で、歩くほかなかったが、見渡す限りの焼跡で、道路といわず家々の焼跡といわず黒く焼けた人、人、人の山だった。
あまりの悲惨さにおどろき、始めは声も涙も出ず、ボウゼンと立ちすくんでいた。歩きに歩いて姉の焼跡に着いたが、そこは一週間前(3月6日)に訪れ、「空襲になったら早く逃げようね」と話し合い、義兄は「火事になったら風上に逃げることだよ」と教えてくれた時の面影はミジンもない。家の中心部あたりにポツンと金庫が残り、前日の立札がそのまま。頑丈に作った防空壕もガタンと落ち、子供用の自転車、釜等が焼けただれてころがり、ニワトリが骨だけになって、私は動く力がなくなり、焼けた木に腰かけたままだったが、甥に励まされ、7人の行方を探しに歩いた。道路、橋の上、川、どこもどこも遺体でいっぱい。黒く焼けた人は見分けがつかないし、一日中探し歩いても、7人のうちの1人にも逢えず、やはり肉親を探している人達に逢っても皆知らない人ばかり。それでも亡くなったとは考えられず、アレコレ思いをめぐらせつつ重い足で帰途についた。次の日もまた次の日も、その時は軍隊が出て、焼けた人をトラックに乗せ、川の中の遺体は長い棒の先にカギの付いているもの(鳶口)で引き上げていて、甥と私は不安になった。「逃げきれずにこうした姿になってしまったのではないか」と、一人ひとりのぞいて歩き続けた。夕方帰宅。江崎と相談のうえ、ふたたび田舎と主人へ「七 フメイマサコ」の電報を打った(当時は電報にもくわしいことを書くと受け付けてくれなかった)。
次の日、焼跡に主人の店の者たちも来て一緒に探してくれた。そして 初めて姉の近所の人に逢い、その様子を開くと「奥さんと澄子ちゃんに橋の上でちょっと逢ったが、人波に押されてすぐ行き違いになった。自分達は橋から川へ飛び込み、朝まで岸の石垣につかまっていて助かった」とのこと、どこの橋かを聞いて行ってみると、そこは何度も何度も探し歩いた菊柳橋で、家からはわずか60、70メートルくらいの所だった。
山のように重なっている遺体を軍隊が上から順々にトラックに乗せていた。一人一人顔をのぞいて歩くうち、おりました、いちばん下側に実姉と澄子(13歳)が…。何度も何度も歩いた橋の上だったが、人が重なっていてわからなかった。ちゃんとヒザを折って坐り、左手を下からさしのべ、その手の上に澄子が仰向けに頭を乗せ、姉の右手はしっかりと澄子の背中に回し、2人はかたくかたく抱き合っておりました。どういうわけか、髪の毛は焼けず、髪型、金歯、ヒザを折っていた内側の着物の柄(模様)など…ヒザの内側の肉はピンク色をしておりました。辺りには普段、遊びに行った時に見馴れていたアルマイトのお弁当箱と、半分になったカツオブシが散らかっていた。私、甥、店の者で実姉と澄子に違いないとわかった時は、ただしがみついて、「どうして、どうして、こんなことに…」と、あとは言葉にならず、泣きながら離れることができなかった。が、軍用トラックが忙しく遺体を運んで行き来していて、いつまでもそこにいることはできず、軍隊の人に実姉と姪であることを話すと、「あと10分発見が遅かったらこのトラックで運ばれてしまったところです。発見できてまだよかったですよ。まったくかわいそうに…」と言って両手を合わせ、一緒に泣いてくださいました。私が着て行ったオーバーを掛け、みんなで焼跡まで運んだものの、その姿のままではどうすることもできないので(私が替ってやれるものなら替ってやりたい)、相談のうえ、回りの焼けた木を集め、防空壕のくぽんだ所で木を何段にも積んでその上に2人の遺体を置き、私がマッチをつけた。ただただ、嗚咽の声ばかり。言葉を出す者のない何時間…。
夕方、暗くなってからお骨を上げ、まだぬくもりのある遺骨をしっかりと胸に抱き、もちろん電燈などついていない暗い道を、カの抜けた重い足を引きずりながら、ただ黙々と帰った。泣いて泣いて涙も涸れ果てるばかり、 橋の上で発見した時は、夢中で何を考える余裕もなかったが、後から姉の姿を思い浮かべる時、姉自身はちゃんと正座し、両腕の中に長女澄子をしっかりと抱きしめ、顔と顔を押し当てて(死んでも離すまいと)いたあの姿は「母性愛の極地の姿」というほかなく、一糸乱さず膝もくずさずに正座していた姿は、昔の武士の妻の最後を思わせる、実に実に立派な姿であった。
二人の遺体を発見してからは田端へは誰も来ないし、田舎からも何の連絡もないので、「あるいは逃げのびることができなくて、あとの5人も…」という不安がつのるばかりだった。次の朝、田舎から、姉の夫の実兄や義兄が多くの食糧を持って来てくれ、さっそく焼け跡に案内したが、ただただ驚くばかりで、田舎にいて想像していたこととのあまりにも大きな違いで、「これでは、とても生きている見込みはない」と、ポッンと一言。次の日も次の日も、残る5人を求めて…。義兄は川の中のイカダまで下りて、1人1人の顔をのぞいて歩き回った。その間にも小さな空襲は絶えずあるので、まったく命がけだった。二人は、遺骨と金庫の書類を持って、ひとまず田舎へ帰った。
次の日、姉の夫がようやく帰京した。出張先が山奥(宮城県)ゆえ、電報の配達もおそく、また家の7人が皆、田端に来ていると思って、「まず食糧だ」と考えて、米、味噌、豆類、モチ、野菜等多量を集め、鉄道便で発送してきたのでおそくなったと言った。ところが荷物は赤羽駅までしか行かない。その先は不通だからと言われたとのことで、赤羽駅から田端の家までは10個以上の荷物を背負って、何回も歩いて運んだ。それにしても家族の7人が誰一人、田端にいないのでガッカリ力を落としてしまい、それのみか、実姉と澄子ちゃんのことを話すと、顔は真青になり、信じられないと言うばかり。あとの5人も万一と…。早速焼け跡へ行き、周辺を探し、川へ逃げたとしても泳ぎはできても人、人、人にさえぎられて力尽きたかも。そして海に続いているその辺の掘割で、潮の干満によって海の方までも流されたかも、等々、考えられる、あらゆる考えをめぐらしつつ、徒労の足を引き返した。
そして次の日も…見当たらない。さらに次の日、田舎の兄たちも来て、本所周辺を探した。2日、3日、見当たらない。しかも夜ごと続く空襲に実兄たちも驚き、おそれを抱かずにおれないようだった。その頃には何万もの遺体は大体片付けられ、取り残された分が、あちらこちらに散っていた。
4日、5日、兄は実情を見て回り、「これだけ探して見当たらないのだから、明日一日探して、明くる夕方は帰郷する」と言い、次の日は午後から一人で出かけた。夕方、青い顔をして帰って来て、錦糸公園で清弍(兄の長男、22歳)の遺体を見付けた」と言う。ではすぐにと、みんなで本所錦糸公園に行った。何百という遺体が土を掘ったままの所に一体ずつ並べられていて、すでに土を掛けられている所もあった。そこの遺体は川に入った人達と思われた。清弌も服の左胸に「大野清弌」の名札を縫いつけ、どこも焼けた所はなく顔もそのままで間違いはない。泳ぎができるので川に逃げ、力尽きてと考えるほかなかった。そしておそらく遠くまで流されて、その日に川から上げられたので、その日までは見付けることができなかったと考えるほかない。「弌ぼうちゃん」と、遺体にとりすがったが、「オバサン」という返事は得られない。このまま黙って連れて行ってよいものやらどうなのか迷って、公園の外に出て見たら、交番らしき焼跡にお巡りさんが立っていて、事情を話すと「明朝八時には軍隊が来て、土を掛けることになっている。土を掛けてしまえば三年間は動かすことができないから、軍隊の来ないさきに遺体をお引き取りになってよろしいです。ダビに付した後はお骨を見せに来てください」と親切に教えて下さった。
急ぎ帰宅して、フトン、敷布、枕、上掛け、木炭などを用意して、夜明けを待って公園に行き、焼けたリヤカーの上にフトンを敷き、遺体を置いて上掛けを掛けて原田の跡まで運び、先日の実姉と澄子との同じ場所に焼け木を集め井ゲタに組み、間に木炭を入れ、幾重にも木を積み、フトンのままの遺体を置き、主人が「お義兄さんはそちらにいらして下さい、私達でしますから」と言ってマッチを擦った。そしてみんなで見守った。実兄が最後の日という夕方、遺体が発見されたことは、清弌が「お父さん、僕はここにいるよ、早く来て」と呼んだとしか考えられない。何という悲しさ。誰も言葉なく、生きた心地もなく、皆無言の涙をのみ、何時間も何時間も…。
大空襲の4、5日前、「学校の帰り」だと言って田端の家に寄り、防空壕の中にしまっておいたブドウ酒を二人で飲みながら話をし、元気に帰ったのに、それがこの地上での別れになろうとは…。空襲のない頃にはよく「今日は午後の講義がなかったから」と言っては、「オバサン、東大から上野の山づたいに散歩しながら歩いて来た」と言って田端の家に遊んだ、私にとっては可愛い甥の一人だった。
暗くなる頃、お骨になり、4人でお骨を上げ、先の交番に見せに行った。お巡りさんが「お骨を見ればわかるのですが、この人は身体の丈夫な人でしたね、お骨が真白でで太いから。何万の遺族の方が肉親を探して毎日歩いていても探し当てられないでいます。ご冥福を祈ります」と、涙を流してくださった。まだ温かいお骨を抱き、黙々と帰路についた時はもう真暗で、一点の明りもなく、薄ら寒い風にパタンパタンと鳴る焼けトタンの音、木につまずいたと思うと、それは焼けた遺体であり、ヒョウヒョウと吹く屍臭の風は、何万もの人の霊が、「助けて、助けて」と叫びながら追って来るように背中に迫り、なんとも名状し難い哀れと悲しさと戦争に対する怒りにおそわれた。姉と澄子ちゃんの時と同様、寂しく暗いお通夜をし、翌朝遺骨を抱いて帰郷する実兄の後姿を、泣きながら見送った。
またすぐに錦糸公園に行った。昨日のムキ出しの遺体にはみな土が掛けられ、頭の方に住所氏名を書いた墓標が立てられていた。広い公園は何百何千の墓標の林だった。一柱一柱、腰をかがめて見てゆくうち、奥の方に「原田敏多」(16歳)の墓標を見出した。昨日のお巡りさんの所に行って肉親であることを話したが、「土を掛けてしまった方は、三年間動かせない規則なので、お気の毒ですが、どうすることもできません」と言われ。届けだけをすませて帰るほか仕方なかった。3年経てば敏多の遺骨はいただけることが確認されたので。残りの不明は3人になった。なお、3人(姉の夫44歳、姉の三男14歳、清弌の弟20歳)の行方探しは続いたが、どうしても見当たらなかった。ボツン、ポツンと取り残されていた道路、川の遺体も日ごとに片付けられて、もう探す術もなくなってしまった。
その後、3年を経て、敏多の遺骨は東京都の方から丁重にいただき、田舎の墓所に納めた。が、残り3人は不明のまま、「都慰霊堂」の戦災者名簿を何度見ても、そこにも見出すことはできない、現在もなお……。
(なお、ざーと各種の証言記録を見ていて、ここまで執念深く肉親を探され、すべてではないが、ここまで見つけられたケースは珍しい)
<父母の名はなく>
浅草区(台東区)橋場に住んでいた佐藤寿美子、当時22歳の話である。
—— 戦局も煮つまった昭和20年、軍のきびしい報道管制の下で戦々恐々とその日暮らしをしていた私たちは、いつわが身に来るかもしれない空襲の噂におびえていた。そのうち夫の勤務先の品川専売局の隣の軍需工場も直撃弾をうけて、工員の手足が吹っ飛び’爆風に裂かれた人の腹から腸が垂れさがったと聞いて、身体がふるえてきた。
夫はそのころ結核を療養の身で、乳飲み子と老いた父母ばかりでは心細く、「もう私たちは年だから、いまさらガタガタせずこの土地で死にたい」と言っていた父母を説き伏せ。ひとまず夫の生家の青梅に行くことにして、疎開のための証明書その他、やっと手続きを終えたのが3月9日の午後だった。「今夜はみなで一晩泊まっておいで」と父母は引き留めたが、堀切に借家を借りて夫と私、長男の三人で住み始めたばかりで、留守の堀切の家が気になって、私たちは泊まれなかった。一身の安危をかえりみず、家を守れと隣組も警防団も、ことのほかうるさい時節であった。
もうすぐ家族一緒に安全なところに疎開できると、その夜は久しぶりにホッとして床についた。外は風が強い、今夜もどこかに空襲はあるのだろうか?燈火管制下の暗闇の中でただひとつ、つけ放したラジオの小さい灯の下でしばし眠った。その日の夜のラジオの東部軍情報は、日本上空に入った敵機が、じきに南方洋上に去ったことを告げて沈黙した。と、ほどなくおしつけるような飛行機の爆音が頭上にひびいてきた。
一機、二機、十機、二〇機、数える間もなく数を増し、たえまなく屋根をふるわす無気味な爆音で、ただごとではなかった。夫がはね起き、長男を抱いた私は、彼ににじり寄った。唯一の情報を伝えてくれるラジオからは何の声もきかれない。爆音はなお続いている。時計は正に12時。外では身を切るような冷たい風の中で隣組の人たちが一群となって夜空の一角を凝然と見つめている。浅草のわが家の方角の上空を…大蛇のように空に這い上がる火の手に、暗い夜空の奥から大きな風が生まれ、悪魔の咆哮のようにごうごうとうなりながら空の炎をかきたてていた。「火は風を呼ぶ、この風に吹き煽られてはあの下の人びとは助からないだろう」と、群れの中の老人が言った。その人の顔も桃色に染まって浮き立つほど、あたりは大火の光で明るかった。
夜明けを待たず、夫は厳重に身づくろいして、握り飯の包みを腰に、橋場の家に向かった。もしや被災して家は焼けても、父母さえ無事ならばと、門を出る彼の後ろ姿に祈る思いであった。「掘切を渡って、いま被災者がぞろぞろ逃げて来るよ」と、お隣のおばさんが叫んで走り去った。家の中で何ひとつ手につかなかった私もあとに続いて走った。長い堀切橋の上をきれ目なく蟻のように黒い人の列が来る。疲れきった老若男女だった。近づくとどの顔も煤け切って目は腫れあがり、衣類は焦げ、ほとんどの足ははだしだった。日中の光のなかでさえ、彼らの姿は影のように見えた。狸のように目のふちを黒ずませたなかのひとりが、いきなり私にすがりついて泣き出した。少し離れた清川町の床屋の娘さんだった。小さい包みをさげただけの彼女とはたがいに何も言えず、固く手を握りしめただけで別れた。その後、日暮れまで立ちつくした私の前にとうとう父母は姿を見せなかった。夕方やっと帰宅した夫は、一日のうちにげっそりやつれて見えた。あとかたもないわが家の焼跡から、負傷者の仮収容所までたずねつくしても父母は見えなかったと言う。
翌日、私は寝もやらぬ思いで夜の白むのも待たず、暗い荒川べりを歩き続けて、その先どういうふうに隅田川辺までたどりついたか記憶がない。建物の強制疎開あとの広い道路をへだてて、白髭橋際の橋場三丁目は無事だったが、その先はまったく焼け野原で、ポッツリと浅草の五重塔が見えるばかり。あたり一面にむかつくような異臭が漂い、すべてを焼きつくしてなおあきたらぬ火が、灰燼中にチロチロと低い炎を上げて地をなめている。灰ぽこりの中の道は2日を経てなお熟い。隅田川畔の、もと小松宮跡の、千坪ほどの空地は死体でいっぱいだった。10日の12時頃から二時間ほどの間にここで千人もの人が焼死したという。警防団の人びとが黙々とかたづけている死体は、ただ黒い炭のかたまりで、戸板にのせようと一人が手をかけた瞬間、わずかに保っていた人の形からポロリと首が落ちた。焼けぼっくいと化した手足ばかりが、薪のようにつみ上げられて単なる物とまったく変わりがない。
岸に遠い一方の高みにずらりと並べられた死体の方は半焼け状態で、ひじの先が焼け切れて腕立て伏せの姿勢でうつ伏すもの、赤い毛糸の下着だけがヒラヒラと腰部にまつわった若い女性の肌は異様に脂びかりして、壊れたマネキン人形さながらに、幾体も幾体も地面にころがっていた。それらの中の水から引き揚げられたと覚しい濡れた死体の間を通りながら、合掌しつつ、もしや父母ではないかと、いろいろ顔をのぞいた。どの顔にも無惨な断末魔の苦しみが残っていた。
いったいこの人たちはどんな罪過があってこれほどの責苦にあわなければならなかったのだろう?だれがこんなむごい刑罰を与えたのだろう?もれようとする声を押さえて、倒れた死体のあいだを行きながら、あの日なぜ父母と別れてしまったのかと、何かに向かってしきりに恨んだ。と同時に殺されてももう自分は死ぬものか!と、私は死体にしたものに向かって声のない叫びをたたきつけた。当の敵のB29よりももっと遠い、えたいの知れない残酷なものに向かって…。
おびただしい死体の列のはずれに若い母親らしいなきがらが横たわり、かたわらに生後一年ぐらいの男の子の死体が並べてあった。静かに目を閉じているその表情は安らかで、お地蔵さまのように美しかった。「こんなに小さい罪もない者をなぜ?」、たぷん私はつぶやいていたのだろう。肩の近くで静かな男の人の声がした。「おとなと違って子供は苦しまないのですよ。生命力が弱いからすぐ息が止まってしまうので、こんなきれいな死顔をしているんですよ」と。もしかしたら子供をなくした人だったのかもしれない。その人の顔は見なかったが、しみじみとした声音はいつまでも私の耳底に残った。
一昨日は紅蓮の川と化して、炎が水面を渡ったという隅田川の面は、今はよどんでいて、幾艘かの小舟が手鉤を持った人びとを乗せてゆっくり上下している。川底に沈んだ死体を求めては引き揚げているのだ。隣組の若い中田さんの奥さんは、川に逃れたが、混雑の中で抱いていた赤ちゃんを取り落として、そのまま気が狂ったという。3月の水温の冷たさに川中で凍え死んだという赤井さんのおばあさん。出征中の夫に代わって目の不自由な老父の面倒をみていた林さんのお嫁さんは、その盲の老人を残して赤ちゃんを背に溺れ死んでいた。そして私の父母は…、いよいよのとき、どっと川に雪崩れ入ろうとする人波にたがいの間をへだてられて、父は母を、母は父を呼び交わした絶叫を最後に、そのあとの姿をだれにも見られていないのだ。何で白髭橋の方へ逃げなかったのか?大震災のときこの川岸で焼死した人びとをいやというほど見つくしたはずの父母だったのに、どうしても死ぬ運命であったのか…。
私は水をみつめて立ちつくした。位牌や、お米が入ったままのお釜、鉄かぶとなどがそこここに散乱する川岸には、もう阿鼻叫喚の芦は聞こえない。どんな物音もない。目の前に今、水から引き揚げられたばかりの若い美しい女性が、長い黒い髪を背に流してのけぞったまま、目を開けて川の上の空を見つめていた。着衣も顔もそのままで。まるで生きているように見えるが、彼女は正しく死んでいるのだ。
死体への恐怖はもうなかった。この世の中のあらゆる恐怖は私の心から消えていた。抜けるような青い空、太陽は昨日とまったく変わりなくあからさまに大地とその上の惨状を照らしている。この景色は夢ではないのか?ほんとうに夢なのかもしれない。涙は一滴も出ない、反対に笑いたい。いつまでも、とめどもなく、ここに坐りこんで…。立ちつくす私の背後から、夫の手が私の身体を支え続けていた。わが家の焼跡は見慣れた瀬戸物のかけらでやっとここは台所、ここは居間と知るばかりだった。小さい冷蔵庫がトタン張りの内側だけ形を留めていた。その中に疎開の費用にと、母が郵便局からおろしてきて納めた紙幣の束がそっくり灰になっていた。掌の上に載せたそれは折からの風に羽毛より軽く四方へ吹き飛んだ。
連日、堀切の家から橋場の焼跡まで通っては、隅田公園までくまなく父母のなきがらを求めてさまよい、六区内の区役所のおびただしい被災者の名簿を調べ、その中にも父母の名前はないと知ると、毎夜私は二人が揃って帰ってくる夢を見た。きっとあまりの恐怖に気が狂って帰る家を忘れたのだ。狂ったままどこかで生きているのだと、信じていたかった。しかし、そのころ自己の身をかえりみず、焦土を歩きまわった夫の病状は知らぬ間に悪化していて、折々にのどに針を刺すような痛み訴えはじめた。来診した医師はむずかしい顔をて、「なぜもっと早く診せなかった?」となじるように私を見た。そのころの医学では不治といわれる喉頭結核が進んでいた。
私たちをさらに痛めつけるように、焼跡の土地いっぱいに悪質な借家人がバラックを建てはじめていた。生前、父が頼んで衣類を疎開していた正直そうな千住の百姓家から、それを返して貰って来て見れば、目ぼしい品々は影もなかった。貸地、貸家の収入が唯一だった生活の道は絶え、タケノコ生活でわずかに残った衣類と、みるみる減ってゆく貯金通帳をふところに、食糧も医薬もなく、空襲の噂に明け暮れる東京から、私たちがほんとうに疎開できたのは、父母の四十九日も間近い四月の未だった。
8月、終戦の報をきいて間もなく夫は清瀬の療院に送られ、ある限りの衣類を乏しい食糧にかえては、私は彼の病床に通いつめた。絶望、あと一か月の命と医師に聞かされてもその事実に故意に目を背けて…。今このとき、寄りすがる唯一の柱である彼を失ったら、私と子どもはどう生きたらよいのか?神仏の奇跡はないのか?夫の病状と私の祈りとの闘いの日々が続いた。だが、療院の内外は荒れはてて、医薬といえばルゴールを痛むのどに塗るだけ、真黒い炭末が唯一の胃腸薬の明け暮れ。
10月、かけぶとんの下に肉体があると信じられぬほどやせた夫は、はじめて朝食をさじで口に運んでくれと私に頼んだ。消耗の極みには人の肉体は箸をとり上げるだけの力さえなくなるのか。夫が自己の死を口にしたのはこのときがはじめてだった。きれぎれに彼は言い続けた。「こんなに世間知らずのおまえと宏孝を残して死にたくない。おまえたちのためにどうしても生きたい」 ……生かすどころか、痛むのどに落としてやる一滴の果汁さえないではないか。何もかも不如意のまま一分をもその生命を延ばせずにいま、死なせゆく、この優しき子供の父を。戦争さえなかったら、あの3月10日さえなかったら。もっと早く気づいて手あつい看護をしていたら…。
父母の死のときは茫漠たる空へ放つばかりだった怒りと悲しみが、まっすぐに戦争に向かって胸を、のどを、頬を焼く涙となってとめどなく彼と私の手を濡らした。意識のなくなるまえ、夫は「だれかが来た、二人来た」と白い壁に向かって言い続けた。見えない死の導き手はもしや父母ではなかっただろうか?
半年の間にあらゆるものを失った私のかたわらに、ただひとり、やっとおすわりができるようになった幼い宏孝がいた。いつまでも夫亡きあと、その生家にもいられない私たちは、点々と家を求めて東京中の施設をまわった。「お母さんがいては…、ここは孤児収容所でして…」と断わられるたびに、それでは母親に死ねというのか、子供を捨てろというのか?二人ではなぜ生きられない?と涙がこぼれた。
やっと一間を借りた家では、奥さんの留守にその主人が私の手を握る。万策つきた母子に、亡夫の兄が物置小屋に住むことを許してくれた。戦災孤児と、夜の女と、復員の兵士があてもなく闇市をうろつく東京をあとに、宏孝をおぶって、ふたたび私は亡夫の故郷へ帰っていった。
<今戸の義母は…>
当時、国民学校高等科の16歳の小田巻松枝の話である。
—— 当時私の家は東京都浅草区(墨田区)今戸町三丁目にあった。言問橋を少し上った隅田川右岸に隅田公園があり、次いで今戸国民学校、空地、料亭と並んでおり、私の家はその料亭の前にあった。当時私は16歳で品川の沖電気に国民学校高等科より勤労動員で通っていた。私は義父母のもとで暮していたが、たまたま遊びに行っていた実母のいる静岡市より急ぎ東京へ10日に引き返した。切符はどうにか手に入った。銀座通りには都電が残っていたので、それに乗って深川へ行き「何とか橋」を渡って義姉(義父の子)の家へ行った。義姉の家は残っていた。養父は今戸の自宅からここに避難をしていたのだと思われる。私はそこからら自分の家へ約30分歩いて行って見た。勿論何一つない焼跡である。私はただ呆然とした。人びとが川へ小舟を出して岸付近から死体を鳶ロのようなものを使用して、盛んに舟に引き揚げては川岸に揚げている。その舟は数艘あったか、 隅田川の岸からは死体が何百、いや何千と揚げられている。川の中程からも探り出して岸の方へ引きずって来ては揚げている。もう死体は置き切れず重ねて置かれている。私はその死体の一つ一つを覗いて義母の顔を探した。死体は泥だらけである。火を逃れて飛び込んだため、焼けた死体はなかったので顔とか男女の識別は容易であった。服装は女はモンペ、上着。男は国防色の服にきゃ絆など着衣のままであった。非常袋をつけたままの人もいた。胸のネームはすべての死体につけてあった。それは読もうと思えばおおむね読み取ることができた。
私は必死になって義母を探していたので、汚いとかきれいとか臭い匂いがするなどといったことは気にならなかった。伏している者を上l向けにしたりして私は探した。大勢の人が肉親の死体を探していたが、私はついに「あった!」と肉親を探し当てた人の声を聞いたことがなかった。四月になっても同じように探しに来る人は絶えず、人数もさほど変わらなかった。皆夢中で探しているのだ。他人のことは殆ど眼中になかった。皆真剣である。泣きながら探す人はいなかった。探し当てる見込みのないものを探している。ただ探すことが心の慰めであったのだろう。
三月中は死体は川面には浮かばず、舟で次々と鳶ロのようなもので引き揚げられていた。それが四月になってからは、一斉に浮上した。右岸の川面の三分の一くらいは死体で埋まってしまった。
養父は全身火傷であった。焼けたリヤカーに乗せて私は毎日午前中は聖路加病院に運んだ。知っている医師がいたので、 一心に通ったが、片道一時間くらいかかった。そして午後からは死体を探すのが日課だったが、ついに養母の死体を見つけだすことはできなかった。どこからか傷ついた姿で、いつかは目の前に現われるのではないかという気ばかりしていた。私は涙など忘れ去って無我夢中であった。死体は、学校、空地、公園などに次々と山積みされている。
四月上旬の爆撃で家も壊された。そこで私と養父はしかたなく養父の本籍地の神奈川県の田舎へ引き払うこととなった。私と養父はその村のある一軒に寄寓したが二、三日で出るはめになり、次の家に一ヵ月くらい寄寓したが、そこもまた出るはめになった。言うなれば追い出されるような事態となった。それ以来、山の中の繭の乾燥小屋に追われるようにして行った。そこで11月18日に亡くなるまで、約半年間、山小屋で私は義父の手当てをしながら過ごした。皆がよくそれまで命を長らえたと不思議がっていた。父の容態は顔、足など比較的よく癒ってきたが、といっても当時のこととて何一つ薬もなく看護といえば食事の甘藷や粥を与えるくらいのものであった。… 村人の世話でどうにか葬儀を済ませた私は、農家の手伝いやなれない茶摘みをしたりしていた。繭小屋に移ってからの村人は、意外に親切であった。甘藷を作ってごらんと言って、小さな畑を貸してくれたが、素人の私にはついに何もとれなかった。ある人は薪を拾って使いなさいと言ってくれ、またある人は人参、大根、牛蒡、甘藷などを持ってきてくれたり、風呂を勧めてくれた。
私はとある時、東京で木炭が配給されてるのを知り、村人から木炭を売ってもらって、売りにいくことを考えた。木炭一俵分をリュックサックに入れて、夜が明けると歩いて一里ほどのパス停留所に行き、そこから二里バスに揺られて、何度も電車に乗り換えて渋谷まで行き、そこで一軒一軒歩いて売り捌いていった。そして小銭を手に生計を立てた。足かけ三年の間、何回か数え切れないくらい往復をした。家を朝早く出て、帰って来るのが夕暮れ迫る頃であったが、山によく霞がかかって来る時があり、道が隠れてしまって心細くなってしまったことを覚えている。 沢の水で貧しい炊事をして足かけ三年の生活であった。ある日深川から義兄がやって来た。そして虎の子の一万円を持ち去った。私は裁判所に申し出てみたが、結果的には私には何も利はなかった。結局は判事さんの勧めで実母のいる静岡市に帰って来た。(注:この時点で本人はまだ20歳前である)