巣鴨における刑死者

巣鴨における刑死者

日本におけるBC級裁判は横浜で行われ、処刑は巣鴨で行われた。『世紀の遺書』はその処刑地によって区分されていて、その中の巣鴨の遺書の量は10数%である(その他は海外)。国内のBC級裁判の主な対象は、米軍機が国内へ空襲を行なった時に撃墜されて(墜落死以外の)落下傘で地上に逃れた飛行士たちへの処遇のこと(その場で処刑してしまった例もある)、あるいは海外の戦地で日本軍が欧米人を捉えて捕虜としつつ、不足している労働力を補うとして彼らを日本国内に輸送して捕虜収容所に入れ労働させたが、その彼らに対する処遇などであった。中には東京の収容所に入れたが、米軍の空襲により収容所が焼かれ、その時に捕虜の扉の鍵を閉ざしたまま監視員が逃げて、捕虜たちを焼死させたとして裁判にかけられた例もある。いずれにしろ戦後の米軍は、不明となったままの自軍の兵士たちの行方を徹底して追求して日本各地に入り、「国際法違反」として疑われた者たちは次々と裁判にかけられ、その多くが死刑に処された。

—— 捕虜収容所における虐待罪 ——

 ここに掲げる死刑囚の遺書の中では花山信勝教誨師(僧侶で仏教学者)が関わっている様子が見られる。どんなに勝気に物を言っている人も、花山師に感謝の言葉を捧げている。花山はまた、7人のA級戦犯にも付き添っている。

由利 敬

 長崎県出身。元陸軍中尉。昭和21年4月26日、巣鴨に於て刑死。27歳。

<遺書>(御母上様)

 すくすくと曲がりなき竹も烈風狂わば倒れ油満つれど烈風強ければ燈火滅すとか、古先の士を求めて意を柔ぐ快なるやなる哉。清なるかな。悲報と共に霊妙不可思議なる猛雨漣々として地上を覆う。是我が今を悲しむ神仏の血涙ならん。我れ全絶不滅のものに悟入しつつ、まもなく仏に帰依せんとす。死するに非ず。大生命の本源に帰するものなり。只物質なる肉体のみ止む無くポツダム宣言の露と消えん。

 …… 御母上様の御声を得る術もなくして散るを悲しむ。然し今又千言云うも甲斐なし。二十六年と百八日間の桜花と共に清く武人の最後を誉とす。嗚呼悲しかる哉。御母上様の運命、想えば涙漣々果つるを知らず、何卒敬の分も百年も二百年も強く生きられよ。

 ご先祖様には然るべく伝えます。時せまれり、伊都子初め皆々様へ呉々も宜しく伝えあれ。

(注:由利は福岡県大牟田俘虜収容所の分所長時代の、捕虜殺害等の罪に問われた。判決は絞首刑で、巣鴨プリズンで初めての死刑執行事件として注目された。大牟田俘虜収容所は三井三池炭鉱の近くにあり、捕虜はアメリカ、オーストラリアなど連合国軍の捕虜であり、炭鉱坑内での労働であり、またそこでは強制連行の中国人、朝鮮人が働いていた。捕虜は当初500人だったが、最終的には1750人に達し、日本国内で最大規模だった。容疑は営倉内に放置されていた米軍伍長が虐待され死亡したこと。また営倉から逃亡した米軍伍長を看守に命じて刺殺させたことであった。このほか由利のあと終戦まで分所長を務めた福原大尉など4名が死刑となっている)。

頴川幸生

 長崎県出身。元海軍上等兵曹。昭和23年8月21日、巣鴨に於て刑死。38歳。家族七人が長崎原爆にて死す。

<遺書>

姉上様

 遂々お別れです。…… 私の様な性格の弱い人聞が、斯る心境で死んで行けるとは自分でさえ思っていませんでした。……全く不思議で自分乍ら驚く程です。 約一時間半前、花山信勝先生に髪と爪をとって戴き、先生の御厚志による特別なる戒名さえつけて頂きました。…… 花山先生とも今笑って話しを致しました。こんな気持でいられる事は全く不思議な事です。これもみ仏の有難い慈悲や(三年前に原爆で)亡くなった七人の家族の霊が私を救い、見守って下されているお蔭だと感謝致して居ります。裁判の始まる迄は家族の霊がきっと自分を守り無実の罪を晴してくれると信じて居りましたが、み仏は現世にて此の身を救ふのでなくて永遠の生命に生かし霊を救って下さっていた事を知りました。…… 処刑は今夜中十二時三十分、私が第一番です。他の九名の人達と仲良く手をとって昇天します。先程から遂々雨になりました。随分暑い日ですが天も憐んでか、私達の為に涙を落としていてくれている様な気がします。今「ラヂオ」の軽音楽が遠く近く聞こえてきます。久し振りです。みんなに見送られている様です。 何の因縁か三年前家族達が次々と逝った後を追い、月も同じ八月、日も節三兄さんの二十日午前五時永眠と似通って二十一日です。 みんなが招いているのでしょう。……

 幸生は成程不運な男ではありましたが、皆様の愛情に包まれて今迄暮して参りました。亡き豈子(妻)も子供達も心から慕って呉れました。今度は親子水入らずで永遠に仲良く暮らせます。自分も一日も早く逝くことが倖です。本当に永い間有難う御座いました。大恩を受けて報いもせず逝く身が悔まれますが愚かな弟を何卒赦して下さい。不肖の子ではありましたが父母の最後(長崎原爆による)の折せめて僅かばかりの真心を尽す事が出来た事を悦んで居ります。私は亡き妻や子供の為にも早く死ななければなりません。……もう今度は永久に離れません。左右しっかりと抱いて親子四人父、母ともども仲良く暮します。最後の我儘な弟の願いとしてお聞き届け下さい。お姉様もう何も遺す言葉はありません。残り少ない姉弟仲良く、いついつ迄も健やかにお暮し下さる事をあの世とやらから祈って居ります。

 では永久に永久にお別れ致します。

 遺詠

 ふみのぼる絞首の台をえがきみてたじろがぬわれこころうれしく

相原一胤

 愛援県出身。元陸軍伍長。昭和23年8月21日、巣鴨に於て刑死。37歳。

<遺書>

 今日は最後の日昭和二十三年八月二十日です。私の処刑は明日二十一日午前零時三十分と宣告せられました。求刑されて一年三ヶ月私の人生に於て最も偉大なる期間でありました。達観とまで申さなくとも諦観することを得ました。或る程度

迄死と言うことを知り自己を知り得た喜びに浸っています。数時間後に処刑せられるのです。……

 私は普通人以上に善人とも思ってiませんがまた死刑を受ける程の極悪人とも考えていません。軍国主義の手先として働いたとも考えていません。結局日本の国家組織に欠陥があった。この犠牲と考えればよいでしょう。其罪を個人に負荷することの是非。これは如何に人智の進んだ現代の社会に於ても解決不能なのであろう。……

 最後を飾らん、人生意気に感ずだ。生者必滅の習い栄枯盛衰は世の常だ。再度日本が今日の惨事を繰り返さざる国家となることを祈りつつ。…… 本日午後三時導師花山先生に最後の面会をした。先生から直接遺髪及爪を取って戴きました。仏の戒名迄名付けて下さって誠に有難い。どうぞとの戒名で先祖の碑と並べて下され度。…… 裁判の事に就いては何も申上げ度くないが死刑求刑後の生活は全く勿体ない生活が続けられた。其点大いに感謝している。

川手晴美

 東京都。東京俘虜収容所満島(長野県)分所所属。陸軍軍属。昭和23年8月21日、巣鴨に於て刑死。30歳。

<ざんげの辞世>

 人をも殺しかねぬ身が殺される今日となりぬかな

 極重罪悪凡夫の身が明日は仏となれる嬉しさよ

  八月二十日夜

 花山先生ヘ

道下正能

 石川県出身。元農業、陸軍曹長。昭和23年8月21日、巣鴨に於て刑死。30歳。

<遺書>

 生仏のような先生。私は死が近づくにつれて仏の国が目に見えます。… 先生、人間世界こそ呪ふベぎところでありますね。しかし人間として人間界を見ればまた美しい場合もありますが、私を死とする人間界の一部ははなはだ悪いところと思います。先生、人間として行動した私も決して悪いとは思われません。… ゆえに私は人間界をはなれるのをありがたいと思います。……

 花山先生

 悪いと思わず死にゆく私を叱って下さいませ。どうしてもそう思われない私を先生どうぞ叱って下さいませ。

(注:上記川手と同じ東京俘虜収容所満島分所所属である)

吉田正人

 福島県出身。中学校卒業。元陸軍大尉。未決拘留中も昭和23年6月16日、東京米軍病院に於て病死。38歳。

<遺書>

三名の子供へ

 父は大東亜戦争に於て日京帝国が大敗に帰したる結果戦争犯罪人として今聯合国の軍事法廷に於て裁かれて居ります。わずか五ヶ月余の俘虜収容所長としての勤務が罪人として裁きを受けようとは夢にも考える事が出来ませんでした。それが現実となって現われ様とは人聞の運命の恐ろしさ。事件の内容は母がよく知って居ります、母上からきかれるよう。……

 不幸にして父は修養も余り積まずも故に真の人間性を発揮することを得ず、未完成の人生として世を去ることになりました。…… 父はお前達を養育せねばならぬ義務を有して居ります。此の度の事件に依って其の義務を果し得ず世を去る父は何んとお前達にお詫びして良いやら言葉も有りません。ことに末の子は自分が戦地に在る留守に生れたる為め殆んど手も掛けず誠に申訳無い事と思って居ります。しかしお前達三名の幸福と健壌とを地下に於て必ず見守って居ります。…… ではさようなら。

水口安俊

 東京都。(朝鮮)京城帝国大学医学部卒業。元医師、元陸軍軍医少尉。昭和24年2月12日、巣鴨に於て刑死。34歳。

<日記>

 昭和二十二年七月十一日ハ(金)

 裁判所の庭に目本人の子供が二、三人集っているのが目についた。乞食同然の姿で親が無く野宿している事が一見して知れる。米兵から食物でも貰うべく群っているのだろう。私は涙が出て仕方が無かった。それらの一人は米兵の靴を磨いていた。米兵は悠然と片方の足を前につき出して磨かしていた。憐れな姿だ。私は見ておれなかった。此の様な姿は私が朝鮮でしばしば見た姿で、その時はこんなに強く感じなかった。かつての其の朝鮮人の姿が今は日本人にうつって来ているのだ。四等国民と言われても仕方がないのか。子供よひがんではならぬ、すくすくと育ってほしい、国民に食はしてやる政治は一体何時来るのだろう。

 昭和二十二年八月八日(金)

 八月七日の朝日の第一面に「六日午前八時十五分平和への第一弾が破裂して丸二年、広島は平和祭を催した云々」とかかげマッカーサーの写真入りでメッセージを載せている。考えて見るとおかしくて物が云えぬ。「平和の第一弾」とは何か。日本がこの原子爆弾を投下されても之を非難する新聞記者が一人も居ない。新聞はことごとく当時の軍の方針を無条件に賛成して拍手を送って激励したではないか。忘れたとはいわせない。今になって此んな進駐軍にへつらった云い方をする骨なしの日本記者はことごとく撲殺して仕舞うべき非国民だ。開戦当時私も長年の憂慣を晴らして思わず万歳を叫び一快哉を絶叫した。何等恐れず堂々と告白をする。誰が何と云ってもこの事には相違あるまい。然し時世の移り変りと共に人聞の考え方も変って来るのは私も認める。だから新聞記者は「当時我々も明かに政府の方針に拍手を送った者の一人である。それに対しては率直に責任を感ずるものである」と前おきすべきだ。ともかく情ない憐れな人間ばかり満ちて誠に困ったものだ。鳴呼!

<遺書>

 父上へ

 …… 最後まで忍のそばにつきそって何くれと勇気づけて下さった花山先生には受刑後一年五ヶ月間陰に陽に大層お世話様になりましたのです。私はこの先生の導きにより誠に力強く安心しておれました。どうか先生によろしく御礼を申して下さい。…… では只今より刑場へと向います。

(注:水口は軍医として朝鮮の仁川捕虜収容所に勤務していた。この捕虜収容所には1942年にシンガポールで投降した英豪軍将兵の捕虜が収容されていた。水口は20年7月5日まで勤務していてその後帰還し、日本の大津市にいたところを敗戦後、GHQから召喚され、捕虜虐待の罪で巣鴨に収容された)

—— 石垣島事件 ——

 1945年(昭和20年)4月15日朝、沖縄県石垣島の宮良飛行場を空襲した米軍の艦載機1機が撃墜され、米兵3名がパラシュート降下し、石垣島の海軍警備隊に捕獲された。彼らは情報聴取の後、その夜に海軍警備隊本部近くの荒地へ連行され、二人が斬首された。残り一人は激昂した数十人の日本兵によって刺突演習の材料とされて殺された。死体は穴に埋められたが、敗戦直後に証拠隠滅のために掘り返され、焼いて灰にして海中に投げ捨てられたという。戦後、匿名の投書が米軍に寄せられ、事件が発覚した。横浜裁判では46人が起訴され、そのうち41人が絞首刑の判決を受けた。その後数度減刑が行われ、最終的には海軍警備隊司令官の井上乙彦大佐、幕田稔大尉、副司令官の井上勝太郎大尉、榎本宗憲中尉、田口泰正少尉、成迫忠邦兵曹、藤中松雄兵曹の7人に絞首刑が執行され、将校3人と兵曹29人が5年から無期懲役となった。(POW研究会の資料から)

 巣鴨における戦犯の死刑の実行に関しては、彼ら7人が最後となった。

◯名と準備室に曳かれて来ています。皆しっかりしているのには敬服とも感激とも言い様がありません。唯頭が下るばかりです。前から責任者である私だけにしてあとは減刑して下さいと幾度か願ったが終にこの結果になって御本人にも御遺族の方にも誠に相済みません。

 公判以来弁護に歎願にたくさんの方々にお世話になりましたが御礼の方法もなく死亡通知も出せるかどうか判らず、止むを得ぬ事だと思います。

「笑って行く」と署名してある壁文字を遺書おく棚のわきに見出しぬ

<歎願書>

マッカーサー元帥閣下

 私は4月7日巣鴨監獄にて絞首刑を受ける元石垣島海軍警備隊司令井上乙彦であります。

 私独りが絞首刑を執行され、今回執行予定の旧部下の六名及び既に減刑された人達を減刑されん事を三回に亘り事情を具して歎願致しましたが、今日の結果となりました事を誠に遺憾に存じ乍ら私は刑死してゆくのであります。

 由来、日本では命令者が最高責任者でありまして受令者の行為はそれが命令による場合ば極めて責任が軽い事になっています。戦時中の私達の行動は総て其の様に処理されていたのであります。

 若し間に合わばこの六名を助命して戴きたいのであります。

 閣下よ。今回の私達の絞首刑を以て日本戦犯絞首刑の最後の執行とせられんことを伏して私は歎願致します。これ以上絞首刑を続行するは米国の為にも世界平和の為にも百害あって一利なきことを確信する次第であります。また神は不公正及び欺瞞ある公判によって刑死者を続出するは好み給わぬと信じます。尚之を押し進めるならば神の罰を被るは必然と信じます。願くは刑死しゆく私の歎願書を懸悲深く、広量なる閣下の御心に聞き届け給はん事を。

4月6日 井上 乙彦

 筆者注:石垣島の警備隊司令であった海軍大佐井上乙彦は、逮捕された当初「自分は連日部隊の視察に行っており、本部に居らず、事件の事は何も知らない、命令した覚えはない」との主張をしていたとされる。しかしその後始まった裁判の中では、すべては自分の命令によるとして主張を変えたが、時すでに遅しであったという(上記のように部下6人の助命嘆願をしたのは自分を含めた7人の死刑の前日であるが、せめてものとの思いによる井上の最後の願いであったようだ)。検察側としての米軍は「共同謀議罪」として一蓮托生に処刑するという最初の方針を押し通したともされる。

 なお、死刑確定は13名であったが、執行の一週間ほど前の3月29日に6名が死刑を解除され、無期懲役などに減刑された。これは例えば減刑された中の一人、炭床静男にとっても理由がわからず、減刑されずに処刑された同胞を思うと茫然とし、まったく喜べなかったという。「そして3月29日、突如石垣島関係者六名の減刑が発表された。其の中に幸にも私の名前もあったが、遂に成迫君の名前を見出すことは出来なかった。同じ事を同じ命令に依り行ったのに、吾々のみ減刑となって君等に対して慰め様はなかった。『暫くの辛抱だと思うから頑張って呉れ』と言っては見たものの吾ながら何かそらぞらしい思いに苦しんだ。出て来る私共を笑って見送って呉れたのだが、これが今生の死別となってしまったのである。あの時の君の笑顔、そして澄み通った瞳、私はそれを永久に忘れる事が出来ない。4月6日朝、石垣島の七名は昨夜ブリュー(巣鴨拘置所内の米軍が名付けた地区名)に移されたと聞かされた。私は全身の力がぬけたようで、暫しは動く事も出来なかった。一週間前あんなに元気で送って呉れたのに、此の世には神も仏もないものか、何の罪もないものをどうして殺さなくてはならないのか。吾等の気持を考えると只涙が滲み出るばかりであった」。

 井上の死から36年後(1986年)、妻・千鶴子は、石垣島に戦死者のための慰霊碑を建立した。

“石垣島に逝きしこゝだ(たくさん)の戦友の遺族思ひをり最期の夜ごろを”

(以上の要旨はRKB毎日放送の記事から)

井上勝太郎

 岐阜県出身。慶応大学卒業、元海軍大尉。昭和25年4月7日に巣鴨に於て刑死。27歳。

<28時間の記録>

(前略)

 29号室に司令(注:井上乙彦のこと)がいる。31号幕田、32号田口、33号楠木、34号藤中、35号成迫、此の配列は考えてみると興味深いものだ。即ち此の中に二人の老人がいる。所でその老人達は一人で冥土へ行くのは厭だと言い張って各々若者達をお供に従えた。若者と言うのは此の中四人迄は未婚で裁判当時は皆五人共二十歳台であったのだ。死刑囚棟二年の生活で二人は三十歳台になったけれども。絞首台は四つのはずだから此の組合せが一蓮托生の組合せになる訳だ。……

 不思議な因縁で今までの処刑日は大抵雨が降っている。お天道さまも拝めずじまいという事。洗面を終り体操をしていると食事を持って来る。飯が山盛りに来た。如何なる巣鴨の勇者といえ之丈けは食い切れまい。

(中略)

 今午前七時三十分

 生の最後の輝きのギラギラする如く私の想は後から後から出て来る。…… 私は三月三日に第二番目の感得する事があった。そしてそれからは実際一刻を惜んで本を読み坐禅もして来た 。云い変えれば現在を最善に生きるべく努力して来た。そして多くの事を為し遂げた様に思う。…… 現在にして振り返ってみると実に不思議な因縁だと思う。その経過中において六名の人達は減刑され我々七名は今此所にいる訳であるがスタートに於て私は斯うなる事は予期していなかったけれども、実に不思議な仏の導きに依ると言えよう。仏とは自己の内心を見よである。…… 私は死刑囚棟二年の生活が無かったなら仏道に入らして貰えなかっただう。…… 私は米軍に依って与えられた死に喜んで服する等という馬鹿げた事を言っているのでは無い。私は此の生の現在という一点を凝視し今まで歩んで来た私の道を振返って見た時、私の為し得た事に満足しているかどうかという事だ。

 実際私は私自身を見出したのだ。私は二年間悩んだ挙句昨年六月突如としで新しいものを見たのだ。それは私にとって生涯嘗って無かった歓喜だった。自分の大きさを発見したのだ。換言すれば尊厳を。私は段々足が地について遂にしっかりと踏んだのだ。それからは私は瞬間々々を疎かに生きなかった。一時一刻が尊かったのだ。……

 私の生涯にやって来た事には数多くの過誤がある。そして多くの迷惑を掛け、又御恩になり通しだった。普通ならば何も御恩返しをせずに死んでゆくというお詫びをせねばならない。然し私は之で良いのだ。…… 私は不遜かも知れない。然し或る完結を私は見て居る様に思う。

 此処まで書いた時呼び出されて指紋採取をされる。念の入った事だ。昨夜からの私の意識を反省してみると概ね自分の事と身辺の事しか考えていない。それと母や抹や弟、親戚の人々、友達の事も多少考える。実際弘は類稀なる慈愛にみちた人々の中で温く育った。私はこれ等寛容と善意に満ちた人々に対して満腔の謝意を捧げ、それ等の人々の多幸を祈る。母は戦争で父を失い、又私さえも失うのである。その悲嘆は到底私の察し難い所である。然し堪えて下さい。之は払が言うのはおかしい事ですが。そして章を立派に育てて下さい。弟は立派な人間になりましょうから。

 昨夜司令(井上乙彦)が連出される時「どうも拙い事になって申訳ない」と言った。私は今更責めようとは思わない。唯呵責と悔恨の重荷を負いつゝゆくより、有り得ざる決定に死んでゆく事は、考え様によってはつまらぬ馬鹿々々しい事ではあるが同時に不思議に気が軽い事である。昔から冤罪や自己の主義主援の為に死んでゆく人々の従容たり得し理由も分る。

 三人を処刑した事(米軍飛行士)に対し七名を死刑にする等という残虐行為を1950年聖年の復活祭前日に平然とやる様な彼等キリストを冒涜した人種が神の恩寵やキリスト教をいくら宣伝しようと何になろうか。恐るべき偽善者である。斯る国が支配する此の地上の国等は所詮呪われた世界でしかない。絞首刑の判決をして二年間生殺しにしてさて人殺し道具の利き具合を試そうという訳だ。 宜しくやり給え。之が彼等の言う人道であり正義なのだ。……

 幕田氏昼食後歌を歌えと言う。後一食を余す匂最後の晩餐のみ。昼食の時は母を思い涙止らず。

五目飯食いつゝ涙止まずけの看守に顔をそむけたりけり

(中略)

 死というものは直面するならば何人も冷静に迎え得るものだ。我々が恐れている死は抽象的な頭の中で考えている死なのだ。死は何人も一度は迎えるのだ。言い換れば凡ての人が死刑囚なのだ。…… 死刑を待つ前の二十四時間を斯くも平静に過し得るという事は奇蹟でなく事実なのだ。

 司令は昨夜申し渡の時、彼一人で済む様に何度も云ったのにと言いし由、それは再審後の事だ。神に対して申訳する必要は無い。彼は初めから逃げ腰であったのだ。そして最初の命令は誰にも依らず彼の独断に依って発せられた事は間違いない事実であった。彼の性格の弱さが此の事件に致命的であって取返しのつかない事にしてしまった。それは彼自らが人生の終り今において知り得るのだ。万事はそれで良い。この種の事は横浜裁判中最も重い判決を起し、若い有為の人達を斯くも多く道連れにしたのだという事を率直に知って頂き度いのだ。それが我々の死を少くとももう一層意義あらしめる事なのだ。

 自己犠牲にのみ人は生き得るのだ。屈辱と不名誉のうちに埋れてはならない。それは他人の意想のうちにではない。自分自身の中に自分を滅してしまうのだ。それは絶対的な零であり虚無なのだ。…… もう直ぐ夜のとばりが降りるだろう。そして人の寝静まった頃吾々七人は密やかに還るのだ、自然に。そして再び昼を見ないのだ。

 今日は一日根限り書き続けた。戦争中に多くの同期生が死んだ。遠い南海で戦勝を信じつゝ。私は敗戦の後に永らへて獄に死なんとするのだ。

(中略)

 田嶋先生より最後の看経用に般若心経を戴く。…… 今五時、食事を用意する音がする。田嶋先生よりの話で一緒に食事になる。大いに飲み且歌う。歌の数々愉快になる。六時半に至りて止む。看守が来て様々に事件の事を問う。些か銘即したり。最後の夕食は豚カツ、刺身、すし、味噌汁(豚肉入り)コーヒー、リンゴ、梨、プドー酒、田嶋先生を交えて八人なり。看守ら疲労して眠き如し。田嶋先生の来られる迄横になる。

 暫くの後般若心経観音経をあげ静座す。落ち着いた静かな気持でやれた。有難し。一切が終わった気がする。煙草を吸う。処刑準備も概ね完了しつゝあり。今八時十分前。……

 お寝みなさいお母さん。淑子。章よ。  井上勝太郎

 母上に捧ぐ

幕田 稔

 山形県出身。海軍兵学校卒業、元海軍大尉。昭和25年4月7日、巣鴨に於て刑死。30歳

<無題>

 夜9時頃処刑言渡式があり、承認の署名を求められるかと考えていたがなかった。署名は兎に角こりこりである。全く強制暴力により署名させられ、それが自発的自白になる苦い経験は二度とくりかえしたくない。死によってすべて御破算になるのではない。

 言渡式が始まるのを外の廊下で椅子に腰かけて待っているとき本当に落着いた気持になって考えたら死というものはない様に思われる。かねがねの不死の確信が絶対間違いでなかった事が絶対の立場に臨んで確証されたと信ずる。私の肉体は亡びる。生命も消散するであろう。霊魂という様なものがあったら其れも無に帰するであろう。然し現在の私は永遠に存続する。比の世界宇宙は残っている。(中略)

 こんな理であるから理性的に考えてみれば署名した事が私の死後どうなろうと私の知った事ではないのであるが、私は現在即永遠の私の残生に対して莫迦げた高圧的な圧力に屈したくなかったのである。私の良心に対し、私の内なる仏に対し厳密に忠実でありたかったわけである。いくら考えても軍隊組織内に於て命令でやった事が比の現実的な世界に於て死に価するとは考えられない。原爆で死せる幾十万の人間を生かして私の眼の前に並べてくれたら私は喜んで署名もしよう。そうでない限り受諾出来ないのである。大体この世界に於て人間の行為に対し罰し得る者は居ない筈である。罰し得るのは自分自身だけである。自分自身の内なる仏があるのみである。敢て他人を罰するのは人間の増長慢なり。神仏を知らざる神仏に逆きたる者である。(中略)

 正直の所私は今回の判決に対して死に価するとは思わない。私の心を深くみきわめしとき人間は必ず一度経験しなければならない死を無視して永遠に自分にだけは死がないという様な考えを持っていた。それはそれでよいのであろうが一度現実の死を深く勇敢に凝視して人間の死は実際に於てはないものだとの自覚に到達するのが仏教の教えの一点であり、人生を自覚し永世を得る所以であると考える。結果は同じであり、平凡であるが自覚の内容、根底に於て異なるものがあるのだと確信する。(中略)

 古人日く「人生は生死一大事因縁をあきらめる道場なり」と、古人の比の気魄が私に無限の勇気を与えてくれ何となくうれしい。……

 一昨年九月頃から(座禅により)文字通り唯「仏の実在か不実在か」をあきらめんとして五里霧中の暗黒を彷徨しつづけた。文字通り寝食を忘れた精神が全く莫迦げた私の三十年の人生にとり一点の光明であったと信ずる。 … そして昨年五月二十五日が私の人生の永遠に再生した日であった。何の理屈もいらない、「吾即宇宙」。 … 唯釈尊も比のちっぽけな私も根本に於ては一つであったのだ。…… 次に頭に浮んだのは「私は正に処刑されんとしているが、なあんだ比の大宇宙を殺さんとしているのも同じ事ではないか、知らざる者の阿呆さよ」と腹の底から湧き出んとするのに一苦労した事であった。 … 今頃此の俺を殺さんとするのは丁度空気を棒でたたく様なものだ。

網越しに今日見し母の額なる深き皺々眼はなれず

注)『世紀の遺書』には載っていないが、”天皇も人民も頼りとしてはをれず孤独を生きしこの二年半”という辞世の句を残している。

藤中松雄

 福岡県出身。元農業、元海軍一等兵曹。昭和25年4月7日、巣鴨に於て刑死。29歳。

<遺書>(永遠の平和を)

南無阿弥陀仏

 吾既に生れ褒り御仏の国に在り

 直ちに父母、妻子の許に帰り永遠に守り抜かん

昭和25年4月5日夜8時30分頃 藤中松雄

 今日夕食後、突然空気が変なので悪い予感がする。直ぐ身の廻りの品を整理して時間が来るまで日記を誌すことにする。普通は点呼が済むと直ぐ訪問(他室を訪ねること)が許されるのであるが、今夜は点呼も終ってどんどん時間が過ぎてゆくが訪問が許される風はない。同室の森さんと今夜は臭いぞと語り合う。そして若し今夜であれば自分達だろうと思った。

 七時半頃になっても訪問が許されず愈々今夜だと言う予感が強くなる。お念仏を称えながら写真を写真帳に貼った。

 ここまで書いていると米兵が連れ出しに来た。今度こそは刑執行の申渡しである。手錠を掛けられ、それを更にバンドで抑え階下に連れて行かれる。下に行くと両側に米兵に挟まれて榎本さんが一人腰掛けていた。そこで申渡しがあるのかと思ったが、そうではなかった。誰かが先に部屋に行って申渡しを受けている。仏間の方から何か読み上げる声が聞える。待つこと二、三分、三、四人の米兵に護られて田口さんが出て来る。それと入れ替りに榎本さんが監視兵に両腕をとられて部屋に入って行く。暫くすると成迫さんが二階から下りて来て私の後に待たされる。

 今度は榎本さんと入れ代りに私が部屋に這入って行く。部屋は三十坪程の大部屋で電燈が昼も欺くばかり煌々と輝き、窓際に据えられている机には所長であろう。その左に二世の通訳が居てその左右には米軍将校が並んでいる。這入って直ぐ眼に映ったのは多数いる将校の中に只一人法衣を纏っている人がいる。私達の導師田嶋先生である。机の前に立って先生の方を向き、先生、御苦労様と短い挨拶を述べる。先生も吃驚されているのであろう。黙って領かれただけであった。通訳が申渡書を読み上げだした。一ヶ所不明な点があったのでそこをも一度読んで貰った。そして最後に昭和二十五年四月七日午前零時三十分頃、藤中松雄を巣鴨拘置所に於て絞首刑に処すベし云々と読み上げた。…… 申渡しが済むと二階へ連れて行かれた。宣告申渡書は日本語で書いたものが四枚と英語で書いたものが二枚を兵隊が持って来て呉れた。

 南無阿禰陀仏

 最後の瞬間になって私の友となり父母となり兄弟妹妻子となり、そして導師となって下さる人は南無阿禰陀仏以外の何者

でもない。南無阿禰陀仏之即ち禰陀の本領にましまして吾が永遠の親様なり。

昭和二十五年四月六日午前七時頃

<家族へ>

父母上様

 在家中は本当に色々実子にも及ぼぬ愛情を不孝者の私に注いで下され松雄はどんなに幸福だったか知れません。父母上様の慈悲の御恩は永遠に決して忘れは致しません。改めてここに深感謝致しますと共に其の高大な父母上様の御恩に対し万分の一の報恩も出来ず、そして報恩どころか重ね重ねの不孝此の上ない御心配をおかけしたまま散って逝かねばならぬかと思うと残念でなりません。老いたた父上様を柱と頼む光子を、十才と四才の幼い孝一と孝幸を残して逝く事はなんと言っても忍び得ない事であります。

(後略)

妻へ

(前略)

 別れなど言うと悲しい事でしょう。まして永遠の死別であって見れば言語に絶することです。然し私はそうは思いません。”死” それは永遠に亡びるものではなく只姿の代るだけで罪科に汚れた此の身を捨てて仏に生れ代らして頂くのです。そして今度は勿体なくも仏に生れかわらして頂き君や孝一や孝幸を終始守り導く事が出来るかと思いますと言い知れぬ喜びが湧き仏恩の有難さ不思議な本願のお力にただただ感泣させられます。合掌、南無阿弥陀仏。

 …… 昨夜、執行申渡しを受けて約四十分程して田嶋先生が私の部屋を訪れて下さり、同じ部屋の中で先生と二人で三十分位話し合いました。その時先生が真先きに口にされたのは藤中さん本当に気の毒ですねと言われました。…… 先生の言葉で強く強く私の心を打ちましたことは「お子さん方が可哀想ですね。併し藤中さん心配しなさるな、出来る限りの激励をして上げます」と言われた事であります。私は心から感謝致しました。田嶋先生、今井先生に呉々も宜敷お礼を言って下さい。

(後略)

子供へ(前略)

 父は例へ死んでも父の生命は何時如何なる時でも孝一や孝幸の心の中に宿っているのですから父に会いたい時は御仏を念じ父を呼びなさい。そうすれば何時でも父ほ現われて来ますから。……

 以下は大切な事だから書いて行きます。刻々と時間が過ぎて行きますから父が忘れる事の出来ない可愛い孝一と孝幸に最後の言葉として最も強く残して置きたいのは、父は何故死んで逝かねばならないか?と言う事であります。…… そうした結果をもたらした原因は何でありましょうか、それは全世界人類がこぞって嫌ういまいましい戦争なのです。父は今となって上官の命令云々などと言う時間の余裕がありません。戦争さえ無かったら命令する人もなく父が処刑されるような事件も起らなかった筈です。そして戦場で幾千幾百万と言う多くの人が戦死もせず、またそり家族の人達が夫を、子を奪われ父を兄を弟を奪われて泣き悲しむ必要もなかったのです。だから父は孝一と孝幸に願って止まない事は如何なる事があっても

「戦争は絶対反対」を生命のある限り、そして子にも孫にも叫んで頂くと共に全人類が挙って願う「世界永遠の平和のために」貢献して頂き度い事であります。

(後略)

 昭和二十五年四月六日午後七時三十分頃

 南無阿禰陀仏 此処も浄土なり

田口泰正

 北海道出身。元海軍少尉。昭和25年4月7日、巣鴨に於て刑死。

<わが最後の記録>

 私に対して絞首刑執行の期が急追した事ははや数日前よりわかっていた。最終審の結果が発表されたばかりか、その理由ではなく看守等の挙動からそれが充分に察知されたのである。それのみか筆には表現出来ないある予感があった。昨夜(四月四日)囚友W氏より死刑囚の死の予感に就て伺ったが、全く同様の事が私にもあった。霊感の不可思議を否定し得ない事を死に臨んでまざまざと体感した。

 この数日聞は何かしらいやな気持であった。全く平常通りであったとは断言出来ない。昭和二十三年三月中旬横浜の公判廷にて死刑を宣告されて以来二ヶ年余り仏道に精進して居たにもかかわらずこの様かと誰かに叱られるかも知れぬが事実なれば致し方もない。だがこのいやな気持の中に、否このいやな気持を超越した大きな諦観を持って居た事を私は断言出来る。だから特に溶着きを失う様なことは無かったのだと思う。これこそ如来の大智であり、大慈でなくて何であろう。要するに我が心に二面の活動があったわけである。幸なることには正見の面の方が強かった様である。

 さて遺品の整理も出来たし夕食後読経を終えて、しばらくしていると連行に来た。この時は既に特に動揺する様な事はなく、元気一杯同囚の人達に最後の別れの挨拶をして、緑地区独房に入る前に着ていた衣類全部脱ぎ他のものと交換する。房へ入ってカギをかけられ網扉の前に看守が二人立っている。早速この最後の日記を思いたち書き始める。……

 午後十時頃階下の房で当拘置所長より通訳を介して、罪状項目の決定及び絞首刑宣告を言い渡される。罪状項目に不閉の点があったので質問したが実に簡単な一文である。…… 私の絞首刑の執行は四月七日午前零時三十分頃と宣告された。あと二十有六時間の生命である。田嶋先生が隣室に来られたらしい。幕田氏の甲高い声が聞える。今は既に明るい気持である。煙草はキンシであるが、欲しい時一本宛差入れてくれるので、喫いつつ筆を運ばせている。一寸筆を休めて愚作三首、

明月の如く澄みたる心にてあと一昼夜の生命を思ふ(以下略)

 田嶋先生が私の房に来られて三十分許りお話した。際限なくお話したいが他の人達の都合もあり、田嶋先生の御健康のことも心配になる。この短い時間に家の祖父母、父母、弟のこと、私の心境から、最後の晩食の献立の事までお話してきた。日本酒にトンカツ、ハム、寿司、白身の刺身、果物として林檎を希望した。家族宛の最後の言葉は明日に書こう。最後の一夜をぐっすりと寝るのだ。

 明けて四月六日午前五時過ぎに起床した。口をすすぎ洗面して玻璃窓を開き、十五回程深呼吸する。外は春雨がけぶっている。実に静かな朝だ。…… 一夜を越した私の今の心境も寂かである。昨夜は床に入って直ぐは寝付かれなかった。二十有八年の生涯の思い出が走馬燈の如く脳裏を廻る。楽しい思い出も、苦しい思い出も既に皆懐しかった思い出として甦って来る。……

 午前九時頃、係将校二名に依り最後の指紋をとられた。左右両指各々五本全部のを二回繰り返す。大尉はラッキー一本私に与へて火をつけてくれた。…… 房にもどって十時半頃、大体遺書を書き終えた。今頃田嶋先生は五棟三階の囚友に釈尊の日にちなんで先週来の約束たりしレコードコンサートをやっていられる事であろう。…… あと十数時間後の寿命に迫った私も全く感慨無量なるものがある。変化流転の常に絶ゆるなき現実がまざまざと身に迫る。

 十一時頃外人牧師が二人来た。井上乙彦氏(上記参照)の処に行ったらしい。クリスチャンだから仏教徒たる私の処には寄らずに帰られた。一寸横になりかけたらはや昼食である。昼食の前に林檎一個づつ配給があったので食べかけたら昼食が来た。献立は色御飯(肉、人参入)スープ(ネギ入り)大根と玉ねぎの煮付、沢庵、ミカン缶詰に日本茶である。量が通常より多いので、とても食べきれない。……

 榎本氏が午前に作ったという短歌三首程朗詠す。仲々よい歌で拍手が起る。人が恋しい、何となく人が恋しい。榎本氏もきっと人が恋しいので短歌の朗読を始められたのであろう。…… 今の私なら数時間位一人でしゃべるかも知れない。先程誰か看守に他房訪問の許可を求めていたが担否された。人聞の心中にある普遍的な何ものかが斯様な衝動に駆り立てるのであろう。

朝な夕なにわが帰るを待ち給ふ父母弟よ最後の日の暮れ

 午後三時三十分頃田嶋先生が今日初めて来訪されて、遺品として髪及爪を切られる。 田嶋先生にお伺いした処、確実に田嶋先生が家宛に御届けされる由、安心する。午前、午後に亘って田嶋先生の法話があった為遅れられた由、早くも我等の処刑の報を知った既決の人達及び昨日まで一緒に暮していた人達より呉々もよろしくとの報を聞く。友等の一刻も早き出所と健康多幸を祈って止まない。……

 もうすぐ最後の晩餐だそうである。田嶋先生を中心に(死刑となる)七名一緒に出来る許可があった由、田嶋先生より伺って嬉しく思う。午後五時半頃より一時間程最後の晩餐をする。田嶋先生を中心にしてウイスキーを乾杯し御馳走をいただく。注文の通り寿司、トンカツ、マグロ刺身、味噌汁、コーヒーにりんご、梨の果物がついた。十二分に堪能して余興に入る。十分に酔う程アルコール分は体に廻らなかったが、相当よい気持で歌い始む。世界的名曲から流行歌、渋い処まで続出する。私の伊那節にて最後の晩餐会を終り、各人夫々の房に帰る。唯今の時間は午後六時三十分、あと六時間ほどの寿命である。間もなく田嶋先生が最後の訪問に来られるかもしれないので、わが生涯最後の日記もこれにて稿を閉じねばならぬかも知れぬ。

辞世

 ひとすじに世界平和を祈りつつ円寂の地へいましゆくなり 泰正

 では日本よ、同胞よ、祖父母様、父母様、弟よ。御機嫌よろしう。左様奈良。

昭和二十五年四月六日午後七時  田口泰正

注)田口は東京の水産講習所(現在の東京海洋大学)に席があったまま出陣した学徒兵である。なお田口たち7人の刑死から2ヶ月後、朝鮮戦争が勃発。巣鴨プリズンを管理していた米軍部隊が朝鮮に転戦。さらには講和条約発効の恩赦などによる減刑で、田口たちが戦犯としての最後の刑死者となる。

—— 部下を守った司令官 ——

岡田 資 

 東京都。陸軍大学卒業、元陸軍中将。昭和24年9月17日、巣鴨に於て刑死。59歳。

 注:岡田資(たすく)は中将として名古屋を含む東海地区の防衛を担任する第十三方面軍司令官だった。彼の容疑は捕虜虐殺であった。20年3月以来の名古屋地区の大空襲に際して、数回にわたって撃墜したB29の搭乗員27名(延べ38人とも)を、岡田は自らの命令で戦時重要犯として処刑した。戦後、岡田と現場で処刑に立ち会った部下の計19人はB級戦犯として起訴された。岡田は横浜の法廷で処刑に至る略式手続きの正当性と、米軍の名古屋地区への爆撃は無差別のものであり、搭乗員を戦争犯罪人として扱ったのは正しいと主張、しかし「部下が行なったすべてについて、唯一の責任者は司令官である私である」として自分一人を責任者として断罪すべきであるとの論を展開した。その毅然とした態度に、米国人弁護士だけでなく、米国人検事も「終身刑が相当である」とする岡田中将の死刑執行の免除に動いたというが、他の同種の裁判に比して例外は認められず死刑判決は覆ることなく、絞首刑による死刑となった。そして部下たちは減刑され重労働という罪で済んだ。以下は岡田がその裁判所での様子を始めとして遺書の代わりに客観的に書いたものの要約である。

<白雲>

 昭和廿三年五月十七日、判決を受ける為に十時に出廷したのだが、前日に於ける委員の意見が纏まらなかったからとて一日延期された。一方我々は当然の事をしているのに拘らず、巣鴨の住人は、知ると知らぬに関らず、絶大な後援を送って呉れた。あれやこれや一種の満足感に浸ったものか、判決延期など別に気にも掛らぬ。

 十八日法廷に入ると割合狭かった室は、外来客でそれとそ立錐の余地もない、私の定席の右側にフェザ・ストーン博士の夫人と令息らしいのが居る。私は和かな気持で無雑作に呼び掛け、博士の好意に満ちた大努力に対し心から感謝した。夫人は硬直した表情で「唯々神に祈る」意味を返した。…… 右にフェザ博士左に沢辺弁護士と併列して。巌かな声で、第一起訴項目有罪、第二項目等々、そして最後にハング(絞首刑)と結ばれた。

 終始委員の頭を凝視するともなく眺めて居たが、宣告の瞬間に心なしか委員等の瞳が動くのを見た。傍聴席から軽いざわめきの起るのを聞いた。…… 私は自らの胸に聞く、嬉しゃ具常はない。手先に一寸注意を集めて見る、別に震へて居ない。

 手錠を掛けられて退場した。…… 傍聴席に居た妻には出る間際に相当接近し得たので、一言「本望である」と云うた。…… 私の身体からは眼鏡、鉛筆等を取り上げられて、準備された別室に禁固された。一物もないコンクリートの部屋だ。高窓が只一つ中庭に向って開いている。…… 真綿をもぎった様な白雲が右から左へ、一片又一片、悠々と浮び流れて行く。此の様な落付いた気持は敗戦後始めてである。…… 静かに合掌して長い軍職の最後の幕を、恥も少く引く事を得させて戴いたのを感謝した。私の気持はすっかりあの白雲に没入した。

 其の時隣室に今一人入った事を感じたので非常に心配したが、大西参謀の無期重労働なる事を知ってから、いよいよ安心した。他は問題ではないからである。

 そうこうして居る内に、扉の細長い一線窓に色々の眼や挨拶の声が明滅する。すると珍しや米軍衛兵の一人で、終始我等と本裁判の往復を共にした青年が居る。「ゼネラル」、「ゼネラル」と鼻声で、そして後には暫く言葉も無く、うるむ二つの限のみ残る。私は徴笑もて軽くうなずくのみ。

 巣鴨帰りのパス内では先づ二十分許り居眠り、覚めて見ると(他の面々は)沈思瞑目、追憶放談や、色取々である。浮かぬ顔の某が思案頭、最後迄弱気で我等を困らせたものだ。…… 巣鴨には裏門から帰った。二十米程歩いた所で、私は左、一同は右と別れた。旧東海軍司令部も愈々之で真に解散である。「御苦労様だ。私の代りに若い諸君よ、元気に新時代に尽せよ。ではさようなら」、ほんとうに左様ならだ。

 第五棟の青年諸君に 九月十六日

一、昨夕はよく送って呉れました。賑やかに旅立ち致しました。

一、実は昨夕はねし寝苦しかったと白状します。

一、私への宣告はね、爆撃機搭乗員激励方策上己むを得ないこと、就中私は東海一軍唯一人の死刑ですから。

 諸君は比れから御自身を楽観的に見なさいよ。大丈夫だよ。

 本仏実在常住、生命は久遠です。

  絶筆 9月16日

 母様/温子殿/正雄/達子/博子

 此報を得たら皆は驚くことだろう。気の毒で堪まらぬ。けれどもこれは仏の授けられた最善の途だよ。もともと覚慣を定めて渦中へ飛び込み、すべての力とすべての人々の御蔭を以て思いのままに法廷をすませたのだから夫でよいのである。色々な情報の為に且つは私の積極的活動性の為に、…… 一寸慾を出したので軽き失望感を味うたが、何一夜の夢さ。

(中略)

 妻へ

 今次の様な民族国家の大変動にあつては個人の事なんかとても問題でない。況んや敗戦国の将軍では犠牲壇上に登るのが当然です。聊かのうらみもない。出来得たら次の大活動をと思うたが仏の御受用は遂にこの道であった。それを喜んで頂戴しよう。好きであった酒の為に度々そなたに迷惑かけたが、其他の公人生活は御蔭で志を伸べることが出来た。人生と日本軍の将領としての最後もこれで所謂有終の美と言えそうです。……

 私は戒名なんか不要です。仏縁により今生を得て働かせてもらった。其俗名こそ懐しけれ、何々院殿ではやりきれない。子供等もあれでは遠からず忘れるでしょう。髪とか爪とが私は残す必要を認めません。……こんな世に特に葬式法要一切不要です。お曼荼羅の前に写真や俗名を並べてくれたら夫で結構です。私はとくに仏の御受用を信念として居る身です。仏を離れては私は在りませぬ。此世に御都合なところに私は又法位を頂戴して働きます。私の生命ほ真に久遠です。業は正に不滅です。小なる自我を去れば我は大我である。すべてと一体である。即ち之亦永遠である。……

(以下略)

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