東京都の空襲被害

【概要】

 多摩地区も含めた全域から見て、空爆などを一度も受けなかった地区は現在の全53区市郡のうち西多摩郡の檜原村だけである。また有人の伊豆諸島のうちでは3島のみである(各島参照)。

 昭和17年(1942)4月の本土への初空襲を手始めに、周到な準備を経て本格的空襲が始まった昭和19年(1944)11月下旬から20年(1945)8月の終戦の日までの間に、東京は通算122回、延べ4870余機の空襲を受けて、市街地の大半はがれきの街となり、都全体で焼死等の戦災死は約11万5千人以上(この詳細は後半に述べる)、負傷者約15万人、損害家屋85万戸、310万人が家を失った。なお、全国206都市のうち空爆は98市におよび、死傷者約66万5千人、焼失家屋約236万戸であった。

 東京都の人口は昭和16年(1941)の太平洋戦争開戦時には都735万人だったが、19年(1944)2月現在では約655万人、11月には540万人、翌年の3、4月の大空襲を受けて5月には328万人、そして5月下旬の2度の大空襲を経て、6月には253万人となった。住宅は都区内の56%が消滅した。病院の全焼等は257ヶ所、診療所は歯科も含めて7155戸であり、このため空襲で大火傷や大怪我を負いながら治療が行き届かず、薬もなく死亡した人も多い。

 以下、都内各地の戦災記録は主に『東京大空襲・戦災誌第3巻』(昭和50年:東京空襲を記録する会:早乙女勝元主宰)と『東京都戦災誌』(昭和28年:東京都編集)から縦横に合わせて集計し直したものである。ちなみに後者はあくまで日本国内の記録からであり、前者は米軍側の記録も合わせて載せていて、B29の来襲機数は米軍側の記録を優先した。

【都内の主な空爆】

 昭和17年(1942)4月18日午後:前年12月8日の日本軍の真珠湾奇襲攻撃からほぼ4ヶ月後、本土への初空爆があり、東京から1200kmの太平洋上の米軍の空母からの発進によるB25爆撃機16機が東京、川崎、横須賀を始め、名古屋、大阪、神戸などを攻撃したもので、東京へは6機が来襲、都内の葛飾、荒川、品川などで計39人が死亡、重軽症307、全焼全壊家屋121、半焼半壊等家屋130であった。全国では太平洋上の船舶への攻撃を含めて87人が犠牲、重軽傷者466、損失家屋262の被害が出た。B25は欧州の第二次世界大戦後半で多く使用されていた。当時はまだ日本周辺の制海空権は保たれていたはずであったが、不意を突かれた形となった。

 これをドーリットル空襲というが、米軍の実際の話としては、16日早朝、日本海軍の監視船に空母が発見されたため、当初の計画よりも320キロも手前で日を繰り上げたという。そのためパイロットの後日談では、空爆後中国の支配地域の飛行場に到着予定が燃料がすれすれで、そこまでたどり着けずパラシュートで降下した隊もいたし、数機は中国内の日本軍占領地に不時着しその際3人が死亡、8人が日本軍の捕虜となり、うち3人が民間人銃撃の罪で処刑されたという。またロシア領に不時着し捕らえられた兵士もいた。

 いずれにしろ日本の飛行隊はまともな応戦ができず(飛行機の大半は中国をはじめとする太平洋戦線に投入されていた)、記録では迎撃する自軍の対空高射砲からの破片による被害も各地であり、犠牲者は9名。しかし大本営は「敵機9機を撃墜。損害軽微」「わが空地上両航空部隊の反撃を受け、逐次退散中なり」と発表し、また新聞は「初空襲に一億たぎる闘魂、敵機は燃え、堕ち、退散」「われに必勝不敗の国土防衛陣あり」等と報じた。しかし都民の間では誰も敵機が追撃されるのを見ず、一方で軍は被害地の住民にこの空爆被害の口外を禁じた。

 なお米軍による日本国土への初空爆は、その前月3月4日、すでに日本の軍事基地としてあった小笠原の南鳥島(東京都)に対してであるが、本格的空襲は二年半後の19年(1944)11月24日から始まる。その間米軍は、太平洋の制圧と日本軍占領のマリアナ諸島などを奪還することに専心し、そしてサイパン島、続いてグアム島、テニアン島等を順次陥落させた。これにより日本本土への直接の空爆が射程圏内に入り、これらの島を基地とし、対日本用に開発した最新鋭長距離大型爆撃機B29を大量にサイパンに配備、近辺のグアム島などにも戦闘機P51などを配備し、上空でB29と合流して日本に向かった。

 そしてこのB29から大量に投下され日本の都市を焼き尽くした焼夷弾は、米軍が日本の木造家屋向けにその模型を作り研究して開発したものである。このような周到な事前準備の余裕の違いは大きく、すでにこの時点で日本は勝ち目はなかったであろう。

 ちなみにB29は超空の要塞と呼ばれるほど大きく、かつ1万mの高度を航行できるが、日本の戦闘機はその低酸素の高度まで上昇できるエンジンの能力を持っていず、その能力は6000m程度で、B29が高度を下げて来ないと迎撃できなかった。それでもB29を日本の戦闘機の銃撃で撃ち落すのは難しく、体当たり的に突っ込んで破壊し、自身は落下傘で降下する方法も取られたし、そのまま自爆する場合も少なくなかった。また地上からの高射砲も同程度の高度までしか届かず、それが可能な高射砲が開発されたのは終戦近くなってからである。

 それに加えてB29は日本軍爆撃機の約10倍(9t)の爆弾を搭載することができ、これにより各種の大型爆弾10-30個、焼夷弾38発の入った束40個、つまり1520発を積み込むことができた。B29の搭乗定員は12人で(通常は11人)それぞれが分担して投爆を行った。


 昭和19年(1944)11月24日:サイパン島から初めて発進したB29が111機、東京に来襲、武蔵野町の中島飛行機武蔵製作所その他7区を目標とした爆撃が行われた。この日の高高度からの爆撃は米軍によると正確に行われたとはいえなかったが(「3月10日の大空襲に至る背景:米軍の戦略」参照)、死者224人。以後敗戦までの9ヶ月間、連日のように日本の都市への空爆が続けられる。

 昭和20年(1945)1月27日昼:B29・62機が主に有楽町・銀座地区を爆撃、低空での機銃掃射もあって有楽町駅周辺は遺体であふれた。死者は周辺区も含めて545人、負傷者910人、被災者5920人、焼失等家屋1610戸。

 2月25日:吹雪の悪天候の早朝に第一次としてB29・10機と艦載機(空母からの戦闘機)56機が来襲、下谷近辺で大量の焼夷弾が落とされ、3716棟が焼失、死者3名。午後、第二次としてB29・201機が来襲、やはり悪天候のため、ピンポイントで工場などを狙う計画ではなく、高高度から市街地への絨毯爆撃であった。それは都内の17区に渡り、死者195人、全焼等被害家屋2万681戸。皇居も主馬寮厩仕合宿所が焼夷弾によって焼失し、大宮御所、秩父宮御殿などが被害にあった。皇居は米軍の爆撃の対象から外されていたが、このような天候下での高高度からの爆撃によって外れたものであろう。おそらくこの日と3月4日は3月10日に向けての予行演習でもあったかと思われる。

 3月4日朝と夜の二度:177機のB29が都内北部(豊島、北、江東、墨田区、葛飾等)を中心として焼夷弾と爆弾で曇天下に高度から空爆、死者650人、負傷者350人以上、被災者1万4200人、焼失等家屋4035戸以上。


 3月10日未明:(東京大空襲の日)301機のB29が来襲、江東、台東、墨田区の住宅の密集した下町地区を中心に、今度は低空飛行で空襲警報解除までの約2時間半の間に、晩冬特有の強い北々西風も(風速30mとされる)利用して(事前に天気予報で確認していたと言われる)大量の焼夷弾を落とし、この空襲を受けた地域の約4割が一夜にして焼失した。当時の警視庁の調査での被害数は、死者8万3793人、負傷者4万918人、被災者100万8005人、焼失等家屋26万8358戸。空襲としては世界史上最大規模の犠牲者を出した無差別空爆である。負傷者が死者の半分程度というのは普通は逆であり、どれだけ焼夷弾による大火災が激しいものであったかがうかがい知れる。この日、B29の損失は14機であるが、日本軍が撃墜できたのは5機だけである(POW研究会資料より)。

 3月9日の深夜10:30に発せられた空襲警報は一旦解除され(ラジオは「敵機は遁走せり」という情報を流した)、日が変わって改めて警報が鳴った時にはすでにB29の軍団は上空に来ていた。これは米軍の作戦で、先に二機だけ来て、すぐに退去したと見せかけ、人々が安心したところに大量のB29が押し寄せた。空襲は風下の荒川西岸から西に向かってなされた。煙で街が覆われるのを避け大量の焼夷弾を正確に一定の間隔で投下しやすくするためである。そのためまだ火のない西側に逃げようとすると、それを塞ぐように前方に焼夷弾が拡がって落とされ、人々は燃え盛る火で囲われた。空襲の標的となった下町地区は、隅田川を中心として無数の運河が走る地域で、そのため猛烈な火勢から逃れようとして、身を焼かれながら多くの人が水の中へ飛び込んでいった。橋の上も両側から来る人々で逃げ場がなく、そこに荷物や服に火が移り、河に飛び込む人も多くいた。しかし、川はまだ氷が張るほど冷たく、冬の厚い服装は水中では身動きを封じた。しかも猛火は風によって川面をも覆い、溺死、窒息死、燃焼によって発生する一酸化炭素での中毒死、あらゆる原因で人々は息絶えていった。人々は自宅の小さな庭あるいは床下に簡易な防空壕を作っていたが、その上に猛火が襲い、そこから逃げ遅れた人たちは窒息し蒸し焼きのようになった。逃げる途中で失神して倒れ、その上に何人もの人が折り重なって倒れこみ、その人たちは焼け死んだが、最初に倒れて下にいた自分だけが助かったという人もいる。路上の多くの焼死体とは、このように途中で力尽きた人たちなのであろう。

 この日の火災を表現するのに「炎の坩堝」「地獄の劫火」「火葬場」「火の海の沸騰」等がある。「空気が燃える」という表現もあり、焼夷弾の炎や物が燃える温度を通り越して、白熱状態になり、その中で火が移るのではなく、物が突然燃え始めるという。これは炎自体よりも周囲の温度の方が高いという現象と同じである。この日の火力に関して、あまり見かけない証言がある。——「道路のアスファルトが燃えて、死体のあるところだけが燃えないので高くなっていた。死体の下には燃え残った衣服の重なった色の布が見え、その周りに身体の油が染み出して、アスファルトが濡れて黒く見えた。…都電の通る線路の間とその外側には花崗岩の敷石が敷かれていたが、その外側にあったアスファルトが燃えて全く無く、まるで工事前の状態であった」という。つまり猛火から逃げつつ、耐えきれずに地面にうつ伏せになっても、この火力から逃れることはできなかったということである。普通の火事では考えられない。

 最終的に鎮火したのは午前8時過ぎだった。路上には丸太、あるいはマネキン人形が焼け焦げたような姿で無数に横たわる人々、母親の黒い焼死体のそばに、背中におんぶしていたはずの子が焼け転がっている姿(その背中だけが白く残っている写真がある)、あちこちの橋の上には山のように折り重なった焼死体、助けを求めて両手を空に向けたまま焼かれた人々、あるいは防火用水に頭から突っ込んで息絶えた人々、赤ちゃんを抱いてうつ伏せになったまま死んだ母親の姿、等々があった。

 市川市に住んでいた人は、「東京方面から橋を渡ってくる大勢の人々の行列を見て驚いた。誰もが髪が焼け、やけどを負った肌をさらしていた。背負った子供が亡くなったことに気付いていない母親もいた。その中には首や腕、足がなくなった子供を背負っている母親もいた」と証言している。このような例は他の各地でも目にするが、周囲の人たちは背中の子供が亡くなっていることを気の毒で声をかけられないのだという。西側から家族を探しに来た人は、「両国橋に差し掛かると、向こうからぞろぞろ、ぞろぞろと、一晩中、炎の中を逃げ惑ったのだろう、衣服は焦げ、煤けて顔や手も真っ黒、ほとんど何も持たないで、ぼろをまとったようになった人たちが、4、5人幅の縦隊で、よろけたりしながら、ずうっと続いて無言で歩いてくる」という光景を目にしている。広島における原爆の惨状とよく似ている。
(この3月10日の被災については参照)

 4月13-14日:都の西寄りから南の区域が狙われ、13日はB29・330機、14日は200機により、死者は合わせて2545人、負傷者6437人、焼失等家屋23万1086戸、被災者95万696人。城北大空襲と呼ぶ(豊島荒川区参照)。

 4月15日:京浜大空襲、B29約310機により都内は大田区が主で死者約841人。

 5月24、25日:24日は区内中心にB29・525機により、死者762人、負傷者4000人、焼失等家屋6万5000戸、被災者23万8000人。25日は特に西域を中心に470機が来襲、死者3648人、負傷者は1万7899人、焼失等家屋16万5454戸、被災者62万125人。両日合わせて4410人の死者、負傷者約2万2000人、被災者約86万人となり、前日を城南大空襲(品川大田区参照)、後日を山の手大空襲(渋谷新宿中野区参照)と呼ぶ。これが東京への大空襲の最後で、「そして東京は焼夷弾攻撃のリストから消された」と米軍の記録にある。

 5月29日:横浜大空襲。B29爆撃機517機・P51戦闘機101機により死者約1万名。これ以降、米軍は地方都市の空爆に向かう。

 8月1-2日:八王子大空襲。B29約310機の大編隊が関東近郊から北陸まで爆撃、とりわけ八王子に大量の焼夷弾が投下され、大半の民家が焼失したが、米軍による予告のチラシが投下されたこともあり、死者225と少ない。(八王子参照)

【多くの小学校の焼失】

 空襲で多くの小学校が焼失した。『東京都戦災誌』では都内の小学校の全半焼被害は367校となっている(ちなみに中学校=女子は高等女学校や職業学校で大小合わせて236校とある)。筆者側で23区に限って調べた結果、237校が全焼、26校が半焼等で計263校であった。漏れもあると思われるが、この中には全半焼が明確でない場合もあり半焼はもっと多いと思われる。その明細は各区に記す。とりわけ下町三区の場合、鉄筋コンクリートの小学校(関東大震災の大火災の後に、多くの学校が鉄筋造に新築されていた)は避難場所に指定され、そこに逃げ込んだ住民の大半が悲惨な死を遂げた。鉄筋でも、大量の焼夷弾は斜めから窓ガラスを突き破って内部を燃やし尽くした場合もあり、強風に煽られた火勢自体が強く、その高熱と火力が窓ガラスを割って中に入ったわけである(墨田区江東区参照)。なお一番多く焼失したのは江東区で、次は品川区であり、被害をほとんど受けなかったのは葛飾区のみである。

 被災した地区の中でも、小学校の多くは爆撃の対象となった。学校は工場とは違い上空からでも識別は可能なはずだが、無差別空爆に切り替えてからは、狙いやすい対象であったのだろう。さらにはB29が終戦まで地方都市への空爆を繰り返している時に、P51などの戦闘機が機銃掃射で学校を狙うばかりでなく、その校庭や外にいる子供たちをも超低空で(そのパイロットの笑っている顔が見えるほどに)脅し、時には機銃掃射で殺した。このころはすでに日本の戦闘機も尽きて、米軍は自由に飛び回ることができ、飛行士は遊戯感覚で殺傷したものと思われる。

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