惨禍に至るまで

【焼夷弾の威力】

 米軍はとりわけ燃えやすい日本の木造家屋の仕組みを研究し、実際の日本家屋の模型を作り、実験を繰り返して火災誘発効果の高い焼夷弾を開発し、それを日本全国に大量に投下した。一応、工場などへは大型爆弾、住宅地へは焼夷弾と分けて使われた。この焼夷弾は、油脂(ナパーム)、テルミット、マグネシウム、黄燐、白燐など、つまり可燃性素材を組み合わせてできていた。これは直径8cm・全長50cm・重量2.4kgの六角形の金属筒のM69焼夷弾を子弾として38発内蔵するクラスター爆弾で、E46収束焼夷弾と呼ばれた。この収束焼夷弾が上空約700mで分離し、38発の子爆弾となって着弾し、目標(木造家屋の瓦屋根など)への貫通力を高めるため、姿勢を垂直に保つ目的のリボン(青く細長い布)が取り付けられていた。上空での分離時に使用されている火薬によって、このリボンに着火し、それがあたかも火の帯のようになり一斉に降り注ぎ、火の雨が降るように見えたという。B29一機には計算上3000発以上の子焼夷弾が積めたが、時間的にもそこまでは搭載しなかったようである。

 外に逃げて避難する人の荷物に当たればそのまま燃えたが、分散された焼夷弾の細長い筒が、背中や首に当たると即死であり、腕がもがれたり、また背中におんぶした赤ちゃんに当たり、赤ちゃんの首がないままそれと知らずに必死に逃げ惑う母親の姿もあったと証言にある。また、鉄筋コンクリートの建物でも、屋上は守れたが、その慣性や風もあって斜めから降り注ぐため、ガラス窓を突き破り、内部が焼き尽くされたが、付近の木造建物からの火力自体が強く、その熱で針金入りのガラスも割れて火が中に入ってきたとの証言もある。3月10日は38万1300発のM69焼夷弾が東京に放たれたという。B29一機あたりで1300発以上の焼夷弾を落とした計算になる。

【3月10日の大空襲に至る背景:米軍の戦略】

 昭和19年(1944)11月24日からの中島飛行機を中心とした爆撃は当初の計画通りに進んではいなかった。B29は高度1万mからも正確に爆撃できる照準器も備えていたが、この1万mの高さでは日本の上空はいわゆる偏西風(ジェット気流)が常時流れていて、しかも冬場はより強くなり、しばしば爆撃目標地を外れて爆弾は投下された。しかも天候に恵まれず、111機のB29のうち中島飛行機の武蔵野製作所を爆撃できたのは24機のみであった。続く11月27日の爆撃では天候上、中島への爆撃が困難となり、低空で都心を狙った。名古屋の三菱重工業発動機製作所への空爆結果も似たようなもので、その確率の悪い成果に業を煮やした責任者のヘンリー・アーノルド大将は、当初の爆撃実行司令官のハンセル准将を外し、翌年1月20日、後任としてドイツ戦線での爆撃で成果を上げ、さらに中国の成都の基地へ移ってB29を使い、九州への爆撃を成功させていたカーチス・ルメイ少将をサイパン・グアム島を含むマリアナ諸島の基地の司令官に任命した。ルメイは日本軍の高射砲がドイツよりもはるかに劣ることを見て取り、これまでの昼間でも命中率の低い高高度からの爆撃をやめ、夜間での低空飛行からの焼夷弾投下を中心とすることに切り替えた。こうして3月10日の大空襲は、深夜に大量の焼夷弾を使用する東京焦土作戦としてなされた。

 この大空襲については、目標周辺の外側から投爆して都民の退路をふさぎ、その内側を無差別爆撃したという被災者の証言もあるが、米軍の作戦報告書によれば、強風の中、空爆の目標が大量の煙で見えなくなるのを避けるため、風下の東南側から(荒川の西岸から西へ)攻撃する作戦が取られた。とりわけ江東、墨田、台東の下町を集中的に狙った大きな名目は、この下町にある中小の下請けの工場群が、軍需産業機器の部品の一大生産拠点と見なしたからとのカーチス・ルメイによる証言がある(下記)。この日以降、時計の針の逆まわりに、北部・西部・南部をしらみ潰しに焼夷弾攻撃を加えた。米軍の報告書では、東京への爆撃機の実数は1669機(上記の4870余機の数字は延べ)である。このうち米軍機の損失は70機にすぎない。また、爆弾投下の総重量は1万1472トン、これに対して大阪は1627機で1万417トン、名古屋は1647機で1万144トンであり、ほぼ近い量ながら、東京との犠牲者の比率では格段に少ない。これは特に3月10日が北からの強風の吹く日であったことが大きく、米軍が気象予報から、その日を選んで人口密集地に大量の焼夷弾を投下し大火災を呼び起こしたからとされる。

 ルメイ将軍は、明らかに無差別空爆を実行したとする批判に対して、戦後の回想記のなかで「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だった。ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。これをやっつけて何が悪いのか…」と。勝利者としての指揮官は、事後にどのようにでも理由づけできる。戦争は常にこうした建前でなされ、大きな犠牲を生む。結果として一夜で民間人8万数千人を殺すことになった。さすがにルメイ将軍は大量の焼夷弾による地獄の劫火のような下で、丸太のようになって焼け焦げた人々の姿までは想像できなかったであろう。

 この後ルメイ将軍は、グアム島在米爆撃隊司令官として、広島・長崎に投下された原子爆弾にも深く係った。そして戦後、日本政府の要請で航空自衛隊の育成に協力し、その結果、昭和39年(1964)、時の日本政府はルメイ将軍(当時米空軍参謀総長)に対し、その貢献を理由にして勲一等旭日大綬章を贈った。当時の総理大臣は、後に沖縄返還に尽力したとしてノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作だった。いずれにしろ、日本の指導者のこのけじめも誇りも持たない、無神経で負け犬的根性的で、国民の心に寄り添う配慮も持たないこの感覚は何なのであろう。対米追従にもほどがある。筆者がこの勲章の話をヨーロッパ人にすると、口を空けて言葉を失ってしまう姿が見られた。

【防空法の弊害】

 昭和12年(1937)に日中戦争に突入する数ヶ月前の4月に防空法が公布され、10月1日より施行された。この中に「航空機の来襲により生ずべき危害を防止し、又は之に因る被害を軽減する」とあり、防空訓練への参加、灯火管制への協力が示され、退去の禁止、応急消火義務が定められ、違反者には一年以上の懲役もしくは千円(現在の数百万円)以下の罰金を科すとされた。つまり日本の軍政府はこの時期から敵の爆撃機による空爆を想定していたことになる。実際にこの防空法によって全国的に町内会から学校も含めて防火訓練が繰り返し行われた。日本軍はこの4年後の太平洋戦争突入以前の日中戦争開戦と同時に上海を中心に爆撃を行い、そこから中国へ毎日のように(悪天候の日以外)大量爆撃を繰り返して行くが、それ以前の満州事変以降から「敵」の陣地に対し、爆撃を行っていた。このことは(いわゆる識者の誰も取り上げないから)我々日本人はほとんど知らないが事実である(筆者がほぼ二年かけて記した「中国における日本軍の年月日別空爆全記録」を参照)。とりわけ筆者自身が最初に戦時下の国内のことから調べ始めていた中で、早くもこの12年(1937)の頃から防空訓練が行われていたことに違和感を持ったが、すでに日本軍自身が中国へ間断なく爆撃を行っていたことを知って納得した。

 昭和19年(1944)の11月下旬から本格的に始まった米軍の空襲に際して、政府は(防空法に従い)まず消火に努めよと強調した。このため最初の大空襲の際には落とされた焼夷弾を消し止めるなどで逃げ遅れ、犠牲になった人が大勢いた。それにもかかわらずこの大空襲の翌朝、政府は「空襲を恐れるな」とラジオ放送で伝えた。自分たちはその時、堅固で安全な地下防空壕にいたはずで、まだ現場の実態を見ずに言うのである。記録作家早乙女勝元の父親は、この大空襲時、鉄兜をかぶり、防火責任者として特に支給された1m近い竹製の大きな水鉄砲を背負って消火に当たろうとしていたという。これは本土決戦に備えて女性子供に竹槍を持たせて訓練していたことと同じで、江戸時代的な光景である。

 さらに『東京都長官(知事)と警視総監の連名による告諭』というものがあり、「罹災者の救護には万全を期している」、「都民は空襲を恐れることなく、ますます一致団結して奮って皇都庇護の大任を全うせよ」という。この大空襲による悲惨な被害の実態はラジオや新聞で報道されず、「被害は僅少」という大本営発表が報じられたので、それを信じる国民も多かったのである。

 さらに、この3月10日の午後7時20分、小磯國昭首相はラジオ演説で次のように国民へ呼びかけた。——「敵は、今後ますます空襲を激化してくると考えます。敢然として空襲に耐えることこそ勝利の近道であります」、そして「断じて一時の不幸に屈することなく、国民が征戦目的の達成に邁進することを切望する」というもので、国民を案じる言葉などどこにもない。ただこの後、惨状は都民に伝わって、人々はまず先に逃げるようになった。

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