戦争孤児

【孤児の実態】

 度重なる空襲下の悲惨な状況の中で突然家族を失った孤児や、地方に学童疎開をしたまま家族の死で帰る先を失った孤児が多く出た。

 昭和23年(1948)2月、当時の厚生省が行った調査によると、全国の戦災孤児は12万3511人(この数値の明細を足算すると計算ミスがある)となっているが、終戦後2年半経過後の統計であり、その間の死者(餓死や凍死、病死、食中毒死、衰弱死、虐待死、自殺等による)は無視されている。しかも直接の戦闘で10万人という最大の民間人犠牲者を出した沖縄の孤児たち、また養子になった孤児たちは集計されていないという。さらに21年(1946)11月18日の朝日新聞で「上野駅で処理された浮浪児の餓死体は10月の平均で1日2.5人」とある。つまり一つの駅でひと月に75人の孤児が死んでいたことになる。その他の新宿や池袋などではどうだったのだろう。それに敗戦から1年以上の月数を掛けると、上野駅でのその月までの孤児の死は、軽く千人を超える。別途、昭和21年(1946)春まで、つまり終戦後ほぼ半年間で京浜地区のみで1300人以上が餓死し、その大半が戦災孤児であったとの記録があり、大阪や京都や福岡の駅でも多くの孤児が報告されていて、餓死以外の多くの死因と集計漏れ等を考慮すると、終戦直後には孤児の数は15万人を軽く超えていたのではないか。

 事実、孤児達の多くは国や都から放置されていたことは、まともな救済施設すら作られなかったことでわかる。文部省も「集団合宿訓練所を新設する」と発表したが、国が具体的に実施することはなかった。一応都がそれを受けた形で『東京都戦災誌』に記載しているのは、三多摩地区に八ヶ所孤児を委託する施設を儲けたことになっているが、あくまで下町三区の疎開児童が孤児になったものたちを対象としたものであって、戦火の中で親兄弟が焼死して自分だけもしくは兄弟姉妹だけで残された孤児たちのことは全く無視されている。その他は単に「浮浪児対策」としての項目の中に出てくるだけである。このように計画だけ打ち出されて実施されなかったケースは多く、記録には東京都のようにその一部の計画だけが残るから、後世からは実施されたように見えてしまう。

 その後、米占領軍は街に溢れる「浮浪児」を一掃しろと命じ、国や都政もその意向に従って「浮浪児狩り」をして隔離等の措置に出た。メディアの扱いも浮浪児としてであり、この無神経な名付けで余計に世間の差別の目は厳しくなり、自分で生きるすべを持たない放置された子供達の多くは上記の餓死や衰弱死、あるいは精神的に追い詰められて自殺等の理由で死んで行った。そしてなんとか生き延びたとしても、世間の迫害と差別を受け続けた。仮に運良く施設に救われて学校に行けても、そこで同じ子供達からも孤児としていじめられた。やっと成人してからも自殺に追い込まれた孤児も少なくない。被害者が逆に差別されてしまうというこの社会の有り様は何なのであろうか。

 なお戦争孤児は、国内だけではなく、特に日本軍占領地の満州(中国)に住んでいた多くの日本人居留民が、終戦直前にソ連(ロシア)軍に侵攻され、そこで多くの悲劇が生まれたが、逃げる途中で親兄弟を失ってなんとか周囲の助けを得て帰国した孤児もいるし、中国人に引き取られ「残留孤児」となった子供たちも多くいる。中国の場合、農民の労働力として引き取られた面はあるが、その分愛情は注がれた様子がある。

【戦後に孤児が生きるということ】

 以下は自身が戦争孤児であった記録作家、金田茉莉の平成29年(2017)8月の朝日新聞のインタビュー記事その他からである。

 ——私が通っていた台東区の富士小学校では、宮城県に集団疎開中の66人が、空襲で孤児になった(先に3月10日の大空襲前に帰京した6年生は42人で合わせると108人)。私の家族は最初は行方不明とされ「私の手足がなくなってもいいから生きていて」と毎日必死に祈った。しかし4カ月後、母と姉の遺体が隅田川で見つかったと知らされて。妹の遺体は見つからぬままとなった。父は早くに病死していて、親戚宅を転々とした。全国の疎開孤児は、膨大な数だったと思う。孤児施設も極度に不足しており、引き取る親戚がなければ、(働き手が欲しい)農家などへ養子に出された。里親のもとで愛情深く育てられた子もいるが、戦後の混乱期と食糧不足で人心はすさんでいて、親戚でも邪魔者扱いされた。

 当時5年生だった男性は、集団疎開から戻った上野駅で迎えがなくパニック状態になり、焼け跡で家族を捜しても見つからず、日が暮れて駅に戻った。「生きていないと親に会えない」と思い、盗みを始めた。同じ境遇で一緒に地下道にいた3年生の男の子は、何日間も何も口にできず、“お母さん、どこにいるの”と言った翌日、隣で冷たくなっていたと。いったん親戚や里親に引き取られても、重労働や虐待に耐えかねて家出をして「浮浪児」になった子も数多くいた。そしてだれも食べさせてくれないから、盗みを働くほかなかった。不潔だ、不良だと白い目でみられ、「浮浪児に食べ物をやらないで」という貼り紙まで街頭にあった。

 浮浪児とされた路上の孤児たちは取り締まりの対象となり「狩り込み」と呼ばれた行政による強制的な保護収容では、1匹、2匹と動物のように数えられた。当時10歳で浮浪児となり、上野駅で狩り込みに捕まった女性の証言では、30人ほどの子どもがトラックの荷台にのせられ、そのまま夜の山奥に捨てられたという。信じがたい話である。

 少ない孤児施設も多くが食糧不足で劣悪な環境で、当時6歳だった女性からは「死体の横に寝かされた」と聞いた。さらにこの女性は、心に異変をきたしていた何人もの子が施設の柱に何度も自分で頭を打ちつける姿を目にした。いくらか元気な子どもは、施設から逃げて行った。なんとか安心できる施設に預けられ、検査を受けると、13歳の女の子が梅毒の性病にかかっていたという話もある。

 親戚の家や養子先で成長した子どもも、心を殺して生きなければならなかった。当時小5で11歳だった女性は親戚宅を転々と回された。学校も行かずに働き、仕事先も次々に変わった。ある女中(他人の家や旅館で雑用をする女性)先で性的虐待を受けそうになった。やっと美容院の住み込みになり、苦しい修業をへて美容師の資格をとろうとしたら、中学を卒業していないから資格が取れないといわれた。

 ——私自身は親戚から「野良犬、出て行け」とののしられ、「親と一緒に死んでくれたら」との陰口も耳にした。刃物が胸に刺さる思いで、心も死んでいた。18歳のとき無一文で東京へ出てきた。家がないので住み込み先を捜したが、親も家もないので断られ、やっと見つけた店員も夜具一式持ってくるようにいわれ、ふとんを買うお金がなかったのであきらめた。ふとんなしで働ける所は飲み屋の女中しかなかった。飲み屋で働いていたとき女将から養女になれといわれ断ったら、夜に追い出された。泊まるところがない。浅草寺の脇でしゃがみこんでいたらヤクザに追いかけられた。私の持ち物は少しの下着の入ったバッグ一つ、それが私の全財産だった。…お金のない惨めさは、親の援助のもとで学校へ通っている人には想像もできないだろう。孤児たちはお金がないため、どれほど苦労してきたか、どん底の生活を余儀なくされた。——

 数々の辛苦の体験を経て成人した金田は結婚し、子も生まれたが、子が大きくなって生活が安定してからも、時折「お母さんと一緒に死にたかった」とつぶやき、大人になった子息に叱られたという。同じ境遇だった多くの人たちが同じような気持ちを吐露していて、自分の身に突然降りかかった「原体験」というのは消えることがないのである。

【語ることのできない孤児たち】

 金田を含めて元孤児たちは、あまりにも辛い経験を、世間に対してはもちろん、家族にも長年語ることはなかった。その理由などは以下で、金田の記述の続きである。

 ——語るには過去が重すぎた。世間の目も怖い。親戚や里親との関係を語れば、そんなことあるわけがない、お世話になったのにと批判される。私自身、思い出すのも嫌で、夫や子どもにも長く話せなかった。

 大病をしていつ死ぬかわからないと痛感し、50代になって命あるうちに記録を残さねばと思い、疎開関係の資料や新聞記事などを手がかりに連絡先を調べ、一人一人に手紙を出した。しかし何人もの人に「話したくない」と断られ、聞き取り中に当時を思い出し、手足が震えだした人もいる。1990年代初めにアンケートをとった22人のうち18人が自殺を考えたと答えている。弟が自殺し、自分も青酸カリを持ち歩いていたという男性もいた。私もそうだが、親と一緒に死んだほうがよかったという思いが消えない。

 別の男性は「長い間、妻にも元浮浪児だったことを伝えなかった。言ってもよかったが、なんとなく恥ずかしいという気持ちがあった。だからついつい言い損なった。職場で言っても、信用されなかった」と言い、つまり一緒に仕事をしている職場の仲間が、目の前でまともに働いている男が、元浮浪孤児であるなどと本人が語っても冗談だろうと思われたのである(注:この事実自体が世の中の根強い偏見というものを示している)。

 なぜ孤児が浮浪児になったのか、国の責任もうやむやにされている。戦後、戦争孤児の保護対策要綱を決め、集団合宿教育所を全国につくる方針を示したが、予算も規模もまったく不十分だった。戦争孤児は、国に棄てられたと私(金田)は思っている。20代のころに、生活苦で、わらにもすがる思いで当時の厚生省(現厚生労働省)に戦没者遺族への補償(「戦後の補償」参照)を受けられないか、問い合わせたが、軍人・軍属の遺族ではないので、対象ではないと言われた。(注:民間の空襲被害者も孤児と同様に差別されている。学童疎開は国策として実施されたのに、戦争に負けると孤児たちは放り出された)

 政府は昭和21年(1946)の国会で、戦争孤児の総数を3千名前後と答弁した。混乱期とはいえ、あまりの過小評価で、23年(1948)にようやく厚生省が全国一斉調査をして、孤児は12万人以上いたことがわかった(注:しかしこの国の資料は公にされず、金田自身が横浜の図書館で見つけた)。病死などとされたその他8万人余りも内訳は不明で、実質的には大半が戦争孤児だと私は考えている。——

 筆者注:しかしながら「当時の」とは言い難い、この社会の根深い差別意識を見ると、仮に補償を得たとしても、そのことでまた孤児のくせにと揶揄され、妬みを受けたであろうことは、日本人社会の体質からも想像される。もちろん手当がずっと早ければ、親戚に無下にされることはなく、その分いくらかは大事に扱われたであろう。為政者が少しでも保護者のいない彼らの心や置かれた立場に寄り添う情があれば、かなりの孤児たちが救われたであろうに。

 被害者が逆に差別されてしまうというのは、後にも触れるが、空爆被害者も、広島・長崎の原爆被爆者も、戦後の高度成長期の水俣病などの公害被害者も全く同様に世間的に疎んじられて差別された。仮にこれが日本の社会的体質だとしても、なおかつその差別から被害者を守るべき国が、逆に追い討ちをかけるように被害者を窮地に追い込んでしまうとは、何のために国があるのか、政官人の自覚のなさは驚くばかりである。

(戦争孤児に関しては他に台東区墨田区(特に集団疎開関係)、東京湾:お台場、八丈島の項参照。また金田と同様に戦争孤児であった海老名香葉子の体験談は『各種テーマ別の記録・証言』参照)

【孤児に対する国政の無策】

 この問題は終戦後に持ち上がったのではなく、空襲の始まった前年からの犠牲者を見て、昭和20年(1945)の年初から東京都では「疎開学童援護会」を発足させ、戦災遺児援護に向けて対策が検討されている。特に3月10日の大空襲で多大な犠牲者が出たため、各小学校長や文部省の担当官も含めて「戦災孤児救済運動」が立ち上がり、そこでは既存の孤児院に収容せず、大規模な「国児院」を設立すべきと提案されたが、予算の関係として没にされた。一方で都の疎開学童援護会は若干の養護施設に依頼する活動で終わった。国レベルでは再び6月になって戦災遺児援護対策懇談会が持たれ、改めて国児院が提唱されたが、その意見を踏まえ、厚生省、文部省等9の機関が戦災遺児保護対策要綱案の検討に入った。その案の方針は孤児に対し国家での「保護育成の方途を講じ、殉国者の遺児たるの矜持を永遠に保持せしむると共に、宿敵撃滅への旺盛なる闘魂を涵養し、…本土決戦に敢闘せしめんとす」と、戦争終盤の背景をそのまま表す内容であった。その他「遺児に対する社会的処遇の確保」として「一般国民が単なる憐憫の情ではなく、殉国者に対する敬虔なる感謝と温情溢るる慈愛心をもって処遇するように…孤児等の名称を廃し、国児と呼称すること」とある。その保護育成については、各市町村で「国児台帳」に登録し、養子縁組や適当な施設に収容させ、慈善・教育・宗教団体に全面的に協力させ、財政措置も恩賜財団戦災援護会を通して特別の措置を講じるとある。しかしこれらの対策は、決定されるに至らず、敗戦によってゼロになった。

 敗戦からひと月後になって文部省は上記のように「集団合宿教育所」を設置する計画を打ち出したが、それは各自治体に任せる形に終わり(ただ広島で二ヶ所実際に運営されたようである)、別途、厚生省が「戦災孤児等保護対策要綱」を打ち出したが、その中で戦災孤児は1169名としていて、まったく桁が違うもので、どのような調査と数字合わせをしたのか不明である。しかも「国児台帳」どころか、学童疎開中の各学校の記録や資料は上記のように、どのような意図か、軍事関係書類と一緒に文部省が焼却させてしまったから、実態がつかめるはずもなかった。その後の都の「復帰学童調査」では引き取り手がなく帰京できない学童は1万7051人いたとある。

 ただ孤児には、戦災で両親を同時に失った子だけではなく、戦災で母親をなくしたうえに父親を戦死で亡くした子も大勢いて、しかも父親の戦死も戦後しばらく不明の場合も多かった。その子たちはどのように身を処せばよいのか、子供にわかるはずもない。どちらかの親が残っていれば、その親が手続きして国が用意した共同施設や焼け跡のバラックで身を寄せ合うことができた。しかし、そうではない孤児たちにはその手段もなにもわかるわけもなく、放置されたのである。(遅れて帰還してきた父親が、自分の子を探し回り、その子が亡くなった少し後に、わが子の孤児友達に死を知らされた例もある)

 敗戦一年以上経ってから(昭和21年:1946)、上野など街中に浮浪する孤児たちが目立ち始め、さすがに国会でも取り上げられた。当時の日本民主党議員の布利秋がその実態を調べて、抜本的な救護を求めて建議案を提出した。街角で日々餓死などで死ぬ者、縁戚に引き取られ、あるいは養子になっても逃げ出す者、施設に配給品が回っていても子供には渡されず、闇に流されたりしていて、施設からも逃げ出す者が多くいることなどを切々と語り、国の施策が不十分であることを訴えた。しかしいつの時代でも日本の国会はそうであるが、「善処したい」という曖昧な言葉の答弁で終わってしまう。建議案は一応通されたが、翌22年(1947)にも志のある議員たちが改めて各地の実態を視察し、第一次大戦後の欧州各国の十分な施策と比べても、児童福祉施設が場当たり的で無計画なやり方に始終し、子供を養育するという姿が見られない、篤志家の慈善事業ばかりに任せていてよいのか、国がきちんと経費を使って施設を充実し、増設していくべきではないのか等々と訴えたが、当時の大臣は「… ご意見には同感である。施設の不完全な点については国家財政の許す範囲において拡大強化していきたい」と述べるも、その後の進展はなかった。国会内で一応議論されていてさえ、この有様である。ただこの年に児童福祉法が制定され、翌年施行された。これによって個人の奉仕家によって運営されていた施設にも多少の援助が出るようになったが、根本的な解決には至っていない。

(以上は主に『戦争孤児と戦後児童保護の歴史』藤井常文:明石書店から)

 この時代、外地からの大勢の帰還者に加えて凶作による食糧危機等の問題、占領軍GHQから次々に出される指令による対応で官僚・役人は忙しく「声なき孤児たち」への対応まで頭が回らなかったとの元官僚の証言も筆者は読んだことがある。それにしても多くの子供の命に関わる問題であり、将来の国の宝となりうる子たちである。本来、市民や住民の立場になってより良い施策を考えることが為政者と役人の努めであるのだが、いつも上層部からの指示をこなすことに明け暮れ、形式的な処理に終わってしまう日本の施政構造はどういうものなのであろうか。厚生省は「保護委託、養子縁組の斡旋などの対策を講じた」というが、掛け声だけで自治体に任せ、その自治体も戦後の混乱に紛れて、自分たちの声を届ける手段を持たない孤児たちは放置された。実際には養子縁組という名の下に、農村地帯で孤児の人身売買が多発し、社会問題になった。大卒の初任給が約3000円だった時代、子供たちが一人3000-5000円で売られていたのである。それは八丈島にまで及んでいる(同島参照)。

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