戦時下の大学・女学校

大学・女学校別の詳細

戦時下の大学・女学校の概説

【当時の学制】

 戦前の教育課程は、概ね4段階からなるが、構成は複雑である。小学校(昭和18年:1943年から終戦まで国民学校)は同じだが、そこまでが義務制で、その上が分かれ、2年制の高等小学校があり(これが今の中学校に近いが、この上に実業学校がある)、別途中学校があって基本は5年制、同様に女子には5年制の高等女学校があった(12−17歳)。いずれも比較的裕福な家庭の子女が通った。この中学校と高等女学校の上に(旧制)男子高等学校や男女専門学校、女子高等師範学校があるが、この場合、中学校と高等女学校を4年で終えて進級できた。大学は少し重なるが17歳から二年間の予科に入学でき、これは教養課程にあたる。大学は3年制で(医科大学は4年制)、順調に行けば22歳で卒業となる。

 なお大学は大正時代に入っても 正式には官立しか認められていなかったが、私立の専門学校を含む高等教育機関による大学昇格運動などもあって、大正7年(1918)、大学令が発布された。その中で「大学は国家に須要なる学術を教授し、その蘊奥を攻究すること」とし、合わせて「人格の陶冶及び国家思想の涵養に努めるべき」とした。ただし文部大臣に監督権があり、専任教員の採用も大臣の認可が必要とされるなど、私立大学には規制の多いものであった。

 なお、昭和15年(1940)の大学生数は5万人(3学年)ほどで、大学だけでなく専門学校などを含む高等教育機関全体でみても、進学率はわずか5%程度、大学だけで見ると1%ほどだった。

 この稿で対象としたのは大学と高等女学校で、大学は別として、単純に取り上げる数の問題で男子系の中学・高等学校は外した。しかし予想外に高等女学校の数が多かった。これは戦前も日本の教育水準が高かったことを示すものであろう。また、女学校の戦時下の体験というものは世間的にはあまり知られておらず、これを表に出すことは有益であったと思われる。

【戦争の流れ】

 日清・日露戦争が象徴するように明治時代から日本は軍事優先(軍国主義)国家としてあったが、日清戦争(明治27年:1894年)は朝鮮の支配権を巡って中国と争ったものであり、日露戦争(明治37年:1904年)は中国の東北沿岸地区の支配権を巡ってロシアと争ったもので、日本は日清戦争では台湾の領有権を、日露戦争ではロシアが権益を持っていた遼東半島南端の関東州と南満州の鉄道の利権を得た。さらに大正3年(1914)、第一次世界大戦に途中から参戦し、ドイツが領有していた中国の山東半島膠州湾の租借権を奪い、さらに南洋のドイツ領地であるマーシャル諸島も獲得した。次に大正7年(1918)、革命に揺れるロシアへの干渉で連合軍としてシベリア出兵を行い、その連合軍が撤退した後も日本軍は侵攻し続け、この出兵で日本軍はロシアへの深刻な加害を与えるとともに自身への大きな損害を生じさせた。

 昭和4年(1929)、世界経済の恐慌が起こり、翌年日本も巻き込まれ、6年(1931)には東北を中心とした大凶作が追い討ちをかけた。とりわけ東北地方の農村は深刻で、娘の身売りも発生していた。そうした中で昭和6年(1931)日本軍は南満州の利権を利用して満州事変を起こし、中国北部の満洲を占領し、翌7年(1932)3月、満州の建国を宣言し植民地とした。この事変に対しては欧米列強国からの非難が高まり、国際連盟による満州への調査団の視察が始まった。その結果8年(1933)、国際連盟により日本は満州からの撤退を求められるが、それを不服として日本は国際連盟を脱退してしまった。ほぼここから日本は孤立化し、戦争への傾斜が強まっていく。

 こうした戦争への流れが不況下の国民の不満を吸収し、貧困農村の青年の食い扶持先として軍隊があった。この頃の世界政治は軍縮化の潮流にあったが日本は結果的に従わず、国際連盟脱退後の11年(1936)にロンドン軍縮会議を脱退、欧米の対日感情は一層悪化した。国内では5・15事件や2・26事件という軍の反乱で首相その他の政治家が暗殺される等の出来事があって、軍の力が増して行った。

 満州事変から中国側との衝突を繰り返していたが、昭和12年(1937)7月の盧溝橋事件をきっかけにして8月、上海事変から日中戦争に突入し、12月に首都の南京を占領し多大な犠牲者を出した。米欧からの非難は一層強くなった。14年(1939)にはドイツが欧州の各地に侵攻し第二次世界大戦が勃発したが、翌15年(1940)に日本は独伊と三国同盟を結び、米英を敵としての戦争体制を整えていった。またドイツに占領されたフランスの隙を狙って日本は中国から南に侵攻し、仏印(フランス領のベトナム・カンボジア・ラオス地域)へ進駐、米欧もその日本の動きを警戒して経済制裁をしてくるようになった。

 さらに16年(1941)、米英などは日本に対し石油製品の輸出停止から海外資産の凍結までの措置に踏み切った。日本は対米戦争やむなしの雰囲気になっていたが、その裏での日米交渉において、米国は日本の中国からの全面撤退を条件とした。日本はそれは飲めないとして12月8日、米英蘭に宣戦布告、米国ハワイの真珠湾に奇襲攻撃を仕掛け(ハワイ時間は12月7日)、同日にフィリピン(米国植民地)、マレーシア(英国)、少し後にインドネシア(オランダ)に石油やゴムなどの資源確保を求めて侵攻し、翌17年(1942)5月までに全域を攻略、連戦連勝の勢いであった。しかし6月の太平洋上ミッドウェー海戦の敗北(航空母艦4隻、艦載戦闘機289機を喪失)からすでに戦況は不利になりつつも、この事実は新聞でもまともに報じられず、国民の意気もむしろ高揚していった。

 これを歴史上は太平洋戦争と呼ぶが、当時の軍政府はアジアの盟主であろうとして大東亜戦争と呼んだ。そして近年は日中戦争を包括してアジア太平洋戦争と呼んでいる。また満州事変から起算して15年戦争と呼ぶ場合もある。15年とは長い戦争であるが、太平洋戦争の裏で中国への侵攻作戦はそのまま行われていた。実に日本は日清戦争から50年間、戦時体制下にあった。我々日本人自身にこの自覚がないのは、占領地での抗争を含む戦争が常に自国以外の海外において行われていたからである。そのこと自体が日本の戦争は常に侵略戦争であったことを示している。

【軍事優先国家の下で】

 大正14年(1925)、治安維持法が公布され、大学の反戦主義や自由主義、共産主義などの思想活動に対する抑圧が強まった。またこの年、政府は学校にも軍事的予備教育を施すとして、大正14年(1925)、軍事教練を行う法令(陸軍現役将校配属令)を定め、旧制中学校(現高校相当)以上の学校に対して陸軍現役将校を配属した。学生たちの反対運動もあったが、実施時には終焉した。

 私立学校についてはこの導入は原則任意であったが、特に大学・専門学校では軍事教練を履修科目として導入すれば兵役が10か月短縮される猶予制度があり、大学も歓迎してこれを受け入れた。その内容は射撃、手旗信号、測量、演習、部隊指揮法、軍事戦略・戦史などであった。昭和14年(1939)からは教練は必須科目となり、女学校にも配属将校とともに実施された。実践訓練としては銃剣をもって敵陣に突撃したり城壁を乗り越えたりする戦場運動、機関銃の射撃訓練などもあった。各大学には修練所が設置され、武器庫も置かれた。

 昭和8年(1933)、政府文部省は「思想取締方策具体案」を通達し、省内に学生課を置き、9年(1934)には思想局とし、大学を中心とした学生の思想傾向が特高警察などによって堂々かつ隠密に調査されることになった。それに伴い官立大学では学生主事を置いて監視することになった。

 昭和12年(1937)に日中戦争(支那事変)に突入すると、政府は翌月、国民精神総動員運動(国家のために自己を犠牲にして尽くす国民の精神)を提唱、さらに翌13年(1938)国家総動員法(日中戦争の長期化を見据え、国家総力戦として国の全ての人的・物的資源を政府が統制運用できる法)を制定し軍国主義政策が徹底された。この13年(1938)に「集団的勤労作業実施に関する件」が文部省より通達され、学生たちに夏休みや春休みに勤労奉仕が課せられた。

 一方で文部省は思想局を転換して教学局を設置し、この教学局は「国体(天皇が統治する国の体制)の本義」に基づいて教学の刷新振興に関する事務を行なうこととし、学会の開催、思想情報の収集、思想対策、教員再教育、文化講義、諸印刷物の検閲・推薦書などを管轄する役割を担った。仮にこの教学局が異端思想(反戦思想・自由主義・共産主義)と判断すれば、特高警察に連絡が行き、大学でも学生のみならず教授も尋問を受け、治安維持法に基づいて大小の処分を受けることになった。『国体の本義』は思想局が12年(1937)に刊行したが、続いて教学局から『臣民の道』を刊行し(この二つは筆者の「各種参考資料」参照)、『国史概説』も出版した。これらが戦時下思想練成に必須な読みものとして一般国民、特に教育界に頒布され、全国に普及した。これらの刊行物は、教員研修に欠くことのできない教科書となり、解説書もつくられたが、戦時下の思想指導に大きな役割を果たした。このほか昭和16年(1941)の体育局、17年(1942)の科学局の設置も、戦時下教育行政の重点施策によるものであった。

【国家総動員法と勤労動員と徴兵猶予撤廃】

 昭和13年(1938)に施行された国家総動員法による総力戦体制の下で、東京都下の繁華街でカフェー、バー、喫茶店への手入れが行われ、約2000人の学生が検挙される出来事もあった。戦時下で授業にも出席していない学生もいたことが世論の批判の対象となり、政府は徴兵猶予の見直しに言及する。

 14年(1939)、ナチスドイツによる第二次世界大戦が勃発する年であるが、その流れの中、日本でも兵役法が改正され、大学予科(大学本科の前の課程)の徴集延期は満23歳、専門部は満24歳、大学学部は満25歳までとされた。3月、文部省は「大学教練振作ニ関スル件」を発し、4月以降は大学学部在籍学生全員に学校教練を必修化すると指示した(陸海軍幹部候補生受験 資格は軍事教練合格者に限るとしたが、それ以前から事実上の決まり事であった)。また5月22日、文部・陸軍・海軍三省は、「陸軍現役将校学校配属令」公布15周年を記念して、陸軍現役将校を配属していた 大学・高等学校・専門学校・中等学校の学生生徒代表3万2500人を宮城前広場に招集し、御親閲拝受式を挙行し、天皇は「青少年学徒ニ賜ハリタ ル勅語」を下賜した(「各種参考資料」参照)。

 また14年(1939)、文部省は「東亜新秩序建設」のためとして興亜青年勤労報国隊を結成させ、その学生勤労報国隊として、翌15年(1940)の夏休みから全国から学生を招集し植民地満州や北支(日本軍の占領する中国北部:北京を含む河北省あたり)へ交代で派遣することにした。この年は1740人、翌16年(1941)は約2500人であった。さらに戦時体制は強化され、16年(1941)春には高校レベルを含めた各校で「報国隊」が結成され、勤労奉仕は勤労動員として義務付けられた。これと同時に小学校は国民学校として転換され、皇国の道に則る皇国民の錬成という戦時下の教育を強化することとなった。一方で16年(1941)1月、それまでの大日本青年団、大日本連合女子青年団、大日本少年団連盟、帝国少年団協会を統合し、大日本青少年団が結成された。

 昭和15年(1940)2月14日、すべての帝国大学の総長と時の文部大臣が出席し総長会議が開かれ、学生の徴兵猶予撤廃が議題に上げられるが、総長たちはそろって反対した。日中戦争は泥沼化していて(中国の国土は広大であり日本軍は進軍すれどもすれども中国軍を追い詰めることはできなかった)その侵略に抗議する米英などから経済制裁の圧力がかかり、戦争拡大への予感がみなぎり始めていた。9月、日独伊三国同盟が成立、続いて10月、国会では主な政党が大同団結する超党派の大政翼賛会が結成され、近衛文麿首相が総裁となり近衛内閣は挙国一致内閣となった。翌16年(1941)2月、政府は「繰り上げ卒業」を大学に要望し、それでも総長たちは「大学教育の本質を揺るがすことになる」として抵抗した。8か月後の10月6日、枢密院会議で陸軍大臣の東條英機は「最近の緊迫している国際情勢に対応するため、軍の幹部要員の不足を急ぎ補充しなければならない」と発言、大学・専門学校および実業専門学校等に対して10月16日に繰り上げ卒業が「臨時の措置」という条件つきで決定され、3ヶ月繰り上げとなり、12月が卒業式となった。その2日後、鳩山内閣が総辞職し、東條内閣が成立した。さらに同年11月1日の省令により17年(1942)度からは、高等学校高等科・大学予科・臨時教員養成所を含めて六ヶ月短縮する措置をとることを決定した。

 この一方で当時の時勢は、徴兵猶予に対する批判が多くなり、その特典があるために卒業を遅らせている者がいるとか、農村や一般の青年たちからも学生の生活態度に苦情が上がるようになっていた。当時の橋田邦彦文部大臣も東大の優れた理系の学者であり徴兵猶予を支持する立場であったが、軍政府の意向には逆らえず、帝国大学の総長たちから次第に批判される立場となっていて、逆に学生たち自身も徴兵猶予で肩身の狭い思いをするようになっていた。いずれにしろ学校における軍事優先の教育と教練は昭和時代初期から行われていて、大人になれば戦争に行くのは普通のことと刷り込まれていて、学生たちはいつでも応召できる心構えを持っていた。ちなみにこの10月の半ば、東京・千葉・埼玉の23大学の学生約7000人が動員されて習志野で「学徒野外連合演習」が行われている。

 ところがこの繰り上げ卒業直前の16年(1941)12月8日、日本海軍は真珠湾を奇襲攻撃、同日に陸軍はマレー半島にも奇襲上陸し、米英に宣戦布告、太平洋戦争に突入した。実は日本の軍政府は少なくとも9月前より開戦の準備をしていて、例えば海軍の航空隊を中国戦線から引き上げて真珠湾攻撃に向けて配備し、陸軍部隊も南方戦線に向けて配備していた。これで中国戦線の兵士を大きく減員したわけではなく、この戦争の拡大のために学生たちを必要とした処置であった。学生たちは翌17年(1942)早々に本籍地に戻って徴兵検査を受け、2月には軍隊に入営することになる。これによりおよそ1万8千人の学徒が徴兵後、士官候補となった。この中には太平洋戦線ではなく、中国の戦線に送られた学徒兵もいる。

 昭和17年(1942)6月、日本海軍は米軍とのミッドウェー海戦で、真珠湾攻撃で活躍した航空母艦(空母)など4隻を失う大敗北を喫し、戦局は早くも厳しくなった。7月、政府は大学の総長たちに今度は高等学校(大学予科などを含むが当時の学制では卒業時は正規では19歳)の卒業を1年繰り上げるよう要望してきた。文部大臣の橋田も総長たちとともに反対の意志を示していたが、翌18年(1943)1月、国は高等学校の卒業の1年繰り上げを命じた(ただしそれまでも半年間短縮されていた)。そこで大学の総長たちからの橋田への批判が高まり、その板ばさみとなって橋田は辞職した。一方の東條首相も抵抗する橋田の辞職は望むところで、ここで東條は陸軍大臣に加えて文部大臣も兼任することになった。そこでまた大学の徴兵猶予年齢が2歳引き下げられ、3月の法令で大学予科満21歳、専門部満22歳、学部満23歳となった。

 ちなみにこの17年(1942)10月、これまでに応召して戦死した都下の学生・卒業生の「英霊」を慰めるためとして港区の増上寺において「戦没学徒都下大学合同慰霊祭」が各大学総長と学生8000人が参集して行われた。これは日中戦争からのものであろうが、それでもまだその戦没者は数百人レベルで千人も達していなかったであろう。そしてこの後の戦況悪化により、こうした慰霊祭は開催される余裕もなくなっていく。

 昭和18年(1943)3月、文部省体育局通牒の「戦時学徒体育訓練実施要綱」により、特に男子学生については卒業後にただちに軍人として活動できる資質を育成するため課外の体育訓練が一層強化され、戦場運動・射撃などの戦技訓練、体操・陸上運動・柔道・剣道・相撲・水泳などの基礎訓練、航空機の操縦や自動車の運転などの特技訓練が実施された。

 これらに並行して18年(1943)6月、「学徒戦時動員体制確立要綱」が発せられ、日本の国土防衛のため一般学生に対し軍需工場への勤労動員を強化するとし学生の夏期休暇も廃止となった。例えば夏期には食料や緊急物資の生産と軍事施設建設などの労働力として都内の学生約6千人が北海道に向かい、食料増産のための荒地改良作業に従事した。さらに10月には学徒の戦時勤労動員は「教育に関する戦時非常措置方策」により「教育実践の一環として」強化され、在学期間中一年につき概ね3分の1相当、つまり4ヵ月が勤労作業として義務付けられた。同時に学生への徴兵猶予制度を撤廃し、10月に学徒出陣を実施した(後述)。

 そしてすぐに翌19年(1944)1月には「緊急学徒勤労動員方策要綱」で勤労動員は継続的とされ、続く3月には「決戦非常措置要綱に基づく学徒動員実施要項」が発せられ「勤労即教育」との方針により、実に現在の中学生以上から勤労動員されることになった。この3月にビルマ戦線において無謀な作戦とされたインパール作戦が開始され、日本軍は2万人の死者を出したが、その多くが病死、餓死であった。さらに6月から7月にかけて米軍は日本軍が占領するマリアナ諸島のサイパン・グアム・テニアンの島を連続して攻撃し、日本軍はほぼ全滅、この中には日本人居留民も多くいて全体で5万人ほど犠牲となり、居留民の集団自決など悲惨な事件が起きた。そして米軍はここを日本への空爆の基地として整備し、対日本用に開発された最新鋭大型爆撃機B29を大量配置する。周到な準備を重ねた上のことであった。

 この米軍の空爆が間近であることを予期してか、まずは昭和18年(1943)より都市の子供を対象に縁故疎開を奨励した。その後、縁故疎開の限界をみて、都市から地方へ学童の集団疎開を計画、19年(1944)6月末に学童疎開促進要綱を閣議決定し、7月に「帝都学童集団疎開実施要領」とその細目を発表した。対象は小学校(当時は国民学校)3−6年生とし、19年(1944)8月より実施されることになった。疎開先は地方の旅館やお寺などであった。

 19年(1944)10月下旬、日本軍が占領するフィリピンに対し米軍が攻撃開始、激戦が開始される。11月下旬より米軍は日本軍から奪還したサイパン島より日本への本格空爆を開始、まず武蔵野の中島飛行機工場から爆撃され、20年(1945)に入ると都心を中心に爆撃は激化し、3月10日の東京の下町大空襲で一夜にして10万人以上の死者を出した。なおこの時、小学6年生の多くは卒業と中学校への入学準備として前日まで東京に戻ってきていて、この空襲に遭い、親と共に焼死した子供もいたが、疎開先にいたまま親を失い孤児となった子供も多くいた。またこの3月、日本軍の生命線とする硫黄島が米軍の攻撃で陥落、日本軍の2万人近くがほぼ全滅した。

 この20年(1945)3月に「決戦教育措置要綱」が決定され、中学校以上の授業は4月から一年間停止することとなり、通年の勤労動員体制となった。さらに3月下旬に本土決戦の前哨戦として沖縄戦が始まり、敵味方約20万人の戦死者を出して6月23日に沖縄は陥落した。その同じ日に「義勇兵役法」が公布された。これは本土決戦を見据えてのことであり、15歳以上60歳以下の男子および17歳以上40歳以下の女子に義勇兵役を課し、必要に応じて国民義勇戦闘隊に編入できることとした。その意図は全国民を軍事組織化し「真に一億国民を挙げて光栄ある天皇親率の軍隊に編入」(当時の一億は台湾・朝鮮の植民地を含めた数)することであった。これによって大学の学徒隊は学徒義勇隊に改変され、いざという局面では国民義勇隊の指揮下で戦闘隊に転換するとされた。このひと月後の7月26日、連合国によるポツダム宣言が突き付けられ、それに対する回答を引き延ばしにしているうちに広島・長崎に原爆が落とされ、8月15日に日本は降伏を受け入れた。この時天皇の終戦の詔勅を聞いた勤労動員学徒(中学生以上)の数は340万人をこえていたとされ、この学徒動員による死亡者(主に勤労動員先の工場などに対する爆撃による)は約1万966人というが、そのうち実に8953人が原爆死とされている。原爆死は約20万人とされているから、20人に1人の割合である。

【学科の統廃合】

 先の昭和18年(1943)10月に閣議決定された「教育に関する戦時非常措置方策」は、勤労動員の問題だけでなく、大学・学校に対してもっと大きな問題を課していた。そこで打ち出された整備要領では、大学、高専教育をして当面の「国家要請」に即応させるとして教育内容の徹底的刷新と効率化並に技術要員の養成、勤労動員の徹底的強化、精神科学研究の振興の四点に主眼を置き、入学資格ならびに修業年限から、公私立を通じて理科系統の徹底的拡充と文科系統の縮減等にが講じられた。つまり理科系大学およびその高等学校・専門学校を拡充するとともに、文科系の高等教育諸学校の縮小と理科系への転換が進められることになった。そして文科系定員は大学・高校では従来の三分の一に、専門学校では二分の一に大幅に縮減され、この縮減された分を理科系に当てるようにということであった。さらに私立の文科系大学については統合可能なものは統合するように、大学の予科(教養課程)は専門学校に転換するように、また男子商業学校についても工業学校・農業学校・女子商業学校に転換するようにと打ち出された。これらはとりわけ文科系私立大学に厳しい要求であり、募集人員の大幅な削減は大学の存続に関わることでもあった。実際、この時期に大学は6ヶ月の繰り上げ卒業が実施され、理工系以外の文科系大学の徴兵猶予措置を撤廃、満20歳の者はすべて徴集対象としたことなどで、在学生がいずれはほとんどいなくなり、私学は事実上専門校になるはずであった。

 具体的な例として、青山学院の場合、先に神学部が閉鎖され、文部省から専門部を明治学院に合併すべきことを指示され、同学院は12月の理事会で、明治学院との合併を可決し、最終的には関東学院の高等商業部をも加えて、翌年4月をもって明治学院に統合された。東北学院の場合も、神学部を失っていた上に、高等学部の文科を廃止し、高等商業部の一部門だけで学校の経営が危うくなるところで、東北帝国大学工学部の援助を受けて、4月、東北学院航空工業専門学校を新設するに至っている。日本大学の場合、理工科系として医学、工学、農学の三学部を擁していて、文科系の学部学科の整理をする必要に迫られたが、文科系の学部の廃止は行えないと考えて、文科系の専門部の全廃をもってこの難局に対処した。明治大学の場合も、文科系の統合整理の方針を打ち出し、機械・電気科・造船科からなる工業専門学校の開設に踏み切った。

 この「統合整理」の政府方針に対し、大学の存廃に関わる重大事として敢然と立ち向かったのは中央大学であった。ちょうどこの時期に軍の将校が大学に来て、学部が廃止されるので空いた校舎を軍に渡せという要求があり、それに怒った中央大学では緊急評議会で議論を重ね、「吾々は敢然起つて文部省と戦うあるのみ」と満場一致で決議した。評議員たちは軍部や文部省や国会議員等各界の有力者に対し説得を重ね、例えば「多数の大学生は今勇躍して戦陣に赴いているが、心にかかるは母校の運命である。若し自分の大学がなくなることになれば、彼等はどんな気持になるであろうか。その士気に及ぼす影響は大である」と軍務局長を問責した。それに対し局長は「出陣学生が還つても母校がないということは、恰も航空母艦から飛び立つた飛行機が還つてみれば、それが沈没していると同じであろう。軍はさような思いやりのないことはせぬ」と答え、これが一つの政策転換の契機となった。そして12月23日の閣議において、大学の整備統合案は一応撤回することに決定された。ただし中央大学としては翌年4月、中央工業専門学校(機械科と航空機科一)を開校した。

(この項は主に『戦時下における私立大学の「統合整理」問題』菅原彬州:中央大学史紀要より)

【徴兵猶予撤廃と学徒出陣】

 18年(1943)9月には大学は6ヶ月の繰り上げ卒業が実施され、さらにこの半年前に決定した徴兵猶予年齢引き下げがまだ実施されないうちの9月22日、東條首相が突然徴兵猶予そのものを停止すると発表し、10月1日、「在学徴集延期臨時特例」を公布、理工系と教員養成系を除く文科系の学校の在学生に対して徴兵延期措置を撤廃、満20歳の者はすべて徴集対象とした。20歳以上で卒業学年が満たないものには休学させ、すべて戦地に送り出すことにした。この時東條首相は「国に殉じる情熱を抑え難い青年学徒の念願に応えて、政府は直接戦争に参加させることに方針を決定したのである」と言い放った。そしてひと月も経たないうちに「出陣学徒壮行会」が決行される。

 無念にも学業半ばで学生たちを送り出すことになった大学の総長たちも、非常時の体制下、学徒出陣の意義を学生たちに訴え始める。学生たちも社会の反感を肌で感じるようになっていたが、それよりも幼少時よりの軍国主義教育により、この時期には国のために命を投げ出すという心構えはできていた。徴兵忌避など考えられる時代ではなかった。

  昭和18年(1943)10月21日、雨降る中、関東地区の77校7万人近くの大学・専門学生を集め、東京の明治神宮外苑競技場において「出陣学徒壮行会」が開催された(新宿区参照)。観覧席には動員された6万人を超える女学生(主に高等女学校)たちが見守り、学徒たちは各自銃を持って高揚した気持ちの中で行進した。その中で東條英機首相(兼陸軍大臣)は「御国の若人たる諸君が勇躍学窓より、征途に就き、祖先の遺風を昂揚し仇なす敵を撃滅しで皇運を扶翼し奉る日は来たのである」と訓示した。その時のニュースは「大君に召されて戦いの庭に出で立つ若人」と報じた。壮行会は続いて日本の主な都市でも開かれた。この時点で陸海軍に入隊した学徒は約9万9千人弱であり、一年後にはさらに19歳に引き下げられ、出陣学徒の総数は12−13万人とされる。学徒兵(特に文科系)は戦局悪化の中での手っ取り早い兵隊の供給源となった。(「各種参考資料:公的文書・資料」の「出陣学徒壮行会の訓示と答辞」の項参照)

【戦時下の女学校】

 ここでいう女学校は、当時の高等女学校と専門高等女学校を主に言う(以下いずれも高女と呼ぶ)。高等女学校(男子は旧制中学校に当たる)は基本的には五年制であり、当時の尋常(国民)小学校を終えた女子が一年生から、その上の尋常高等小学校(二年制で義務ではなく任意)を卒業した女子(14歳)が三年生から入学した。この他に三年制や二年生の実業学校や商業学校もあった。ちなみに昭和15年(1940)の高女や実業学校(今の中学校程度)への進学率は22%(男子は28%)である。その後の資料はないが、おそらく18年(1943)ごろまでは戦時需要により数%以上は増えていて、そこから勤労動員が強化され減って行き、その後終戦の20年(1945)には20%を下回る程度になったと思われる。

 高等女学校の上位校として女子専門学校があり、これは現在の短期大学に当たるが三年制で(卒業時は20歳)、高女の5年目からも進学可能で、その場合は予科一年を経ることになっていた。また同じ学校内に高等女学校と女子専門学校を併設していた学校も少なくないし、専攻科として二年制もあった。なお男子のように正式な大学は許可されず、大学校と称しても専門学校相当として存在した(例:日本女子大や東京女子大で、付属の高女もあった)。これとは別に女子高等師範学校(中等学校の教師養成)があり、高等女学校卒業を入学資格とする四年制であった(例:御茶ノ水女子大)。一般の師範学校(小学校の教師養成)は14歳から入学する五年制と高等女学校卒業を入学資格とする二年制であった。

 なお当時の女学校は主に良妻賢母を養成することを目的とした。大きくは家政科と実業科に分かれ、洋和裁と家事(料理、手芸、作法、生花、お茶等)に多くの時間が割かれ、その他数理国英、音楽さらに簿記や修身の授業も組まれた。その上の専門学校へ進学する生徒は稀で、就職するか家庭で花嫁修行するかであった。 しかしこれらの授業内容は戦時下で大きく改変されていく。

<日中戦争から太平洋戦争へ>

 昭和12年(1937)、日中戦争(支那事変=日華事変)が勃発、政府は国民精神総動員運動実施要綱を発し、戦時体制の強化を計った。翌13年(1938)、国家総動員法が公布され、それに基づき戦時下の重要産業の労働力を確保するための国民徴用令が発布された。同時に文部省は「集団的勤労作業運動実施に関する件」を各学校に通達し、勤労奉仕が義務化された。女学生は軍の要請で戦線の兵士への慰問袋作り、その中には慰問文や絵や手作りの人形、お守りとしての千人針、雑誌などを入れ、他に配給袋の詰め込み作業や陸軍病院への慰問などを始めていた。特に千代田・文京・港区近辺の女学生は靖国神社や明治神宮、宮城(皇居)周辺の清掃奉仕作業とともに両神社への定期的な参拝と宮城遥拝が欠かせない行事となった。

 一方で女学校では「国防献金」のための貯蓄(愛国貯金とも言われた)を行い、一定の額が溜まるごと軍に寄付した。この後もいろんな形で献金がなされ、これは当時女学校に通える家庭が比較的裕福であったからできたことであろうが、全国の女学生の献金で陸海軍に戦闘機が献納され「報国女学生号」あるいは「愛国号」とも名付けらた。この活動は18年(1943)ごろまで続けられ、一校だけで戦闘機を献呈する私学校もあった。

 14年(1939)5月、「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」が各学校に下賜され、この勅語の奉読式が行われた。続いて軍事教練実施15周年を記念して全国の男子学生・生徒代表約3万2千人が宮城(皇居)前広場に集まり、天皇のご親閲を受けた。

 8月、興亜奉公日が制定され、毎月1日を「全国民は挙って戦場の労苦を偲び、自粛自省…興亜の大業を翼賛して一億一心、奉公の誠を効し…」その心構えを戦場の皇軍将兵と同じくし、戦没将兵への感謝を捧げることなどが求められ、質素倹約として日の丸弁当や、100億円(現在の約30兆円)の拠金を目標に、各学校で決めた貯金が実施された。

 物資や食料のほとんどは軍部優先となり、国内での食料不足が深刻になり始めた。そこで生徒が農家に出向いての農作業も食料増産のための大事な勤労作業で、これは徴兵で出征した男性不在による理由も大きく、田植えから草刈り、稲刈りまで、あるいは畑の開墾や堆肥づくりも行なわれ、学校でも農場を持つ動きが始まった。

 15年(1940)は、皇紀(紀元=神話上の神武天皇の即位から)2600年として記念式典と奉祝行事が各地で行われた。11月10日には皇居外苑に5.5万人が集まって記念式典が催されたが、東京の私立高等女学校も5万人が明治神宮外苑競技場に集って奉祝音楽体育大会を開催し、体操(2600人の建国体操など)、ダンス(遊戯と言った)、行進(愛国行進曲などによる)、合唱などを行った。もともとこの年に合わせて国威発揚を兼ねて東京オリンピックと万国博覧会の開催が予定されていたが、日本は戦争を優先し2年前に返上したのであった。

 そうした中、政府文部省は国内の戦時体制を強化すべく15年(1940)6月の各学校校長宛の通牒で「学生生徒の旅行に関する件」として野外演習、勤労作業、その他実習・調査・研究のため以外の旅行は禁止とされ、原則として運動部の夏季合宿なども文部省の許可を得なければ実施できなくなったため、女学生の最大の楽しみである修学旅行もこの年までとされ、16年(1941)以降は自粛された。ただし鍛錬旅行という名目で伊勢神宮参拝(神社は皇室直結の宗教施設である)などを組み込んでその後一二年実施した学校もあった。

 16年(1941)9月には学校を「皇国民の基礎的修練を為すを以って目的とす」として学校報国団の結成を指示した。要は戦時体制下の命令伝達をスムーズにするためであったろう。それを受けて翌16年(1941)春以降から中学以上の学校は校友会などの自治組織(運動部や文化部など)が報国団に変えられ、全てが体と精神の鍛錬のためとされた。その数ヶ月後に、文部省は報国団に併設して報国隊を結成するよう訓令を発し、学校内に軍隊式の組織が編成された。例えば一教室が小隊、学年が中隊、高女全体で大隊となり、隊長は校長である。これが勤労奉仕に代わる本格的な勤労動員体制の基本となった。そしてまずは年間30日の授業を勤労作業にあてることになった。

 昭和16年(1941)12月8日、太平洋戦争の開戦に合わせて翌年3月卒業予定の男子大学と専門学校(女子含め)はこの12月に繰上げ卒業となる。これは男性が徴兵されて、逼迫した労働力確保のための措置である。17年(1942)に入り興亜奉公日に代えて開戦記念の毎月8日に大詔奉戴日が制定され、宮城(皇居)遥拝などの儀式の後、宣戦の詔勅の奉読などが行われた。17年(1942)2月8日の大詔奉戴日には明治神宮外苑競技場で学校報国隊連合大会が開かれ、東京の大学・専門学校・中学校・女学校から5万人が集められた。その後のシンガポール陥落などがあるたびに戦勝祝賀行進が行われ、学生・生徒も動員されたが、ほぼみんな喜んでの参加であった。

<学徒勤労動員>

 昭和18年(1943)3月、中等学校令により高等女学校規定が改定され、「皇国女子としての責務を自覚し、職分を尽くして皇運を支える信念と実践力を養う」ことが基本とされ、私立の女学校も高等女学校と改制されることになり、中でも体練と家政科が重視された。「銃後」を守る役目としての体練であり、家政は家庭を万全に守るという主婦及び母としての本分を全うさせるためである。その中で調理実習は厳しい食糧事情に合わせて献立が考えられた。

 また報国隊に合わせるように特に私学では陸軍からの配属将校も置かれ、教練の授業のほか、薙刀や弓術の訓練も行われた。朝礼の点呼も軍隊式であった。この頃から米軍の侵攻による本土決戦が想定され、女子に竹槍や木製の銃による攻撃訓練もあり、防空訓練もあった。

 18年(1943)6月には「学徒戦時体制確立要綱」が閣議で決定され、勤労動員強化が図られ、上級生から次第に軍需工場に勤労動員されるようになった。工員たちも次々と戦場に徴兵され、人手が足りず、一般女性工員に混じって対等に仕事をした。工員と一緒に旋盤などの作業をさせられる場合も多くあり、怪我をした例も少なくない。勤労動員の前には結団式があり、生徒代表による宣誓が高らかに読み上げられるのが通例であった。

 しかしこうした勤労は当時の女学生にとっては、戦場で戦っている皇軍兵士を支援するための「銃後」を守る自分たちにとって「喜ばしいこと」であった。それは小学校の頃から十分な軍国主義教育がなされていた結果で、日の丸の鉢巻をして「愛国報国隊」として参加することには何の矛盾も持たなかった。当時の小学校の教科書には勇敢に戦って死んだ兵士が英雄として載せられていて、男子生徒も将来は天皇と国のために命を捧げるという自覚が刷り込まれていた。教育の大きな成果である。

 この年はすでに戦局は日本が守勢に立たされていたが、国民には都合の良いニュースしか流されず、そしてこの秋に男子学生に対して徴兵猶予が廃止され、さらに半年の繰上げ卒業となり(高等女学校は4年生までの一年繰り上げ)、これに合わせて下げられた徴兵年齢に達した東京近郊77校の学生約2万5千人が一斉に出陣学徒として神宮外苑競技場に集合し、盛大な壮行会が行われた。当日は激しい雨の中で、各女学校から集められた生徒5万人を含めた6万5千人が観客席を埋めた。女学生はいっせいに紺の上衣を脱ぎ、白いブラウス姿で雨の中、誰一人傘をささずずぶ濡れになりながら男子学生の行進を見送った。最後の隊列がゲートを出ようとする時スタンドの人波は崩れ、女学生が出口にどっとなだれを打って駆け寄って行った。「私たちは泣きながら征く人々の行進に添って走った。髪も体もぬれていたが、寒さは感じなかった。おさない、純な感動に燃えきっていたのである」と後に作家となった女性が語っている。この後も合わせて出陣学徒は全国で12万人以上と言われるが正確な数字は残されていない。

 これに伴い政府は「教育に関する戦時非常措置方策」を決定し、「国防訓練の強化と勤労動員の積極かつ徹底的実施」を図るために、年に最低4ヶ月の勤労動員を学生・生徒に課すことにし、年初の「緊急学徒勤労動員方策要綱」でそれを具体化した。ここで「勤労即教育」という窮余のスローガンが打ち出される。言葉は使い様である。しかし2月末になるとその決定もひっくり返され、「決戦非常措置要綱」を打ち出し、「今後一年、常時これを勤労その他の非常任務に出動せしめ得る組織体制に置く」とした。いわゆる通年動員である。続く3月「緊急学徒勤労動員実施要綱」を発し、その訓令の中で「行学一体、文武一如、皇国民の錬成」とする教育的意義を記している。欺瞞に満ちた言葉の連鎖という他ない。

 さらに文部省が7月に出した通達には、「勤務時間中に於ける特別の教育訓練時間(一週6時間を原則とする)は生産の実際に適応し、これを停止し得ること」つまり、生徒たちの勤労の合間をみて教師たちが授業を行う最低6時間をも止めてしまっていいということ、さらには「一日の勤労時間は十時間を原則とするも(残業を含めて12時間)、専ら生産の増強を念としその実際に適応せしめ」てよいとして、その他中等学校3年程度以上(14歳以上)の女子生徒にも深夜残業を指示している。

 これらに並行して文部省は、「学校工場化実施要綱」をまとめ、特に女子校を狙って学校の講堂や校舎を工場に転換する施策を打ち出した。これは女学校の責任者にとっても、生徒の授業時間を少しでも確保できるメリットがあって、学校側から希望して願い出た場合もあった。したがって学校工場は主に低学年生徒が担当し、材料と工具を持ち込むだけの軽作業もあったが、講堂などの床にコンクリートを張り、旋盤機を持ち込む重作業もあった。高学年生はそのまま工場に出かけて従事したが、付き添いの教師が作業の合間や終わった後の少しの時間を利用して授業をする場合もあった。工場の寮に集団で泊まり込むケースもあり、そこでも授業が行われた。奉仕と違って勤労動員の生徒たちには相応の給与が支払われ、その一部は学校側に「授業料」として納められた。勤務状況によって成績も付けられた。

 19年(1944)8月、「学徒勤労令」と「女子挺身隊勤労令」が同日に公布され、学徒動員の法令上の措置が決定された。女子挺身隊とは高等女学校や専門学校の卒業生を含めて、無職の14歳から25歳未満の女性を軍需工場に行かせるためで、それを避けるために女学校や専門学校に入学する女子達もいたというが、すでにこの時期、入学と同時に勤労動員が待っていた。実際、11月には夜間学校の学徒や体が弱いためそれまで動員から除外されていた学徒の動員が発令されたほどである。それを受けて卒業した同窓生たちも自発的に女子勤労挺身隊を結成した例もあった。まさに根こそぎ動員であった。

 何よりも問題なのは食糧不足であった。早い時期から米などはチケットによる配給制となっていたが、すでに日本は多数の輸送船を喪失し周辺の海上は封鎖されつつあり、食料の輸入は植民地の満州はおろか台湾や朝鮮からも極めて困難になっていた。学生・生徒たちはお腹をすかせながら必死に働いた。このため15、16年(1940、41)ごろより学校で農場を持つ(あるいは借り受ける)ことが奨励され、そこで女学生たちは開墾の作業から始めたが、並行して校庭を耕す例も多くあった。

 ある元高女の回想に、「昭和19年(1944)の春から14歳で入学しましたが、(戦争中は)机に向かって勉強したことは一日もありません」とある。この方は戦後に学校に戻って勉強できたが、例えば20年(1945)春に一年短縮で卒業となった生徒は、せいぜい半年程度しか学校の教室で勉強できていない。しかも空襲が続く中、まともな卒業式も行われず、多くの生徒は仮の卒業証書をもらい、数十年後に正式に受け取る場合もあった。18年(1943)頃からの極端な物資不足で多くの学校は写真は撮っても卒業アルバムも作れなかった。校内誌も紙不足で18年(1943)ごろより廃されているから当時の記録はより少なくなっている。

<空襲による勤労学生の犠牲>

 19年(1944)11月24日より米軍の本格的日本本土への空襲が連日のように開始された。攻撃はまず武蔵野の飛行機工場からであったが、次第に都心にも移り、工場で勤労していた生徒たちは空襲警報が鳴ると防空壕に駆け込む生活となった。

 20年(1945)に入って空襲は激化を極め、3月10日の東京大空襲を経て、政府は新たな「決戦非常措置要綱」を閣議決定し、4月より向こう一年間学校の授業は小学校(国民学校)を除いて(小学生は学童集団疎開で地方にいたが、まだ残っている小学低学年生に追加疎開を決定し)全面停止、全ての学生・生徒は勤労に励むように通達した。なお、16年(1941)入学の5年制の女学校はこの3月で一年短縮され卒業となり、前年入学の生徒と同時卒業となった。その後も4月13、16日、5月24、25日の大空襲で都下の大半の学校と勤労先の工場は焼失した。

 この5月までに東京都全体の空襲による死者は11.5万人以上、そして沖縄では3月から米軍の上陸により激しい戦闘が繰り広げられ、3ヶ月後の6月下旬に日本軍は降伏し、敵味方合わせてなんと約20万人の死者を出した。その20万人のうち戦闘に巻き込まれた住民の死者はその半数である。これでもなお軍政府は「一億総玉砕」や「本土決戦」、「神州不滅」と唱えていて、国民を鼓舞しようとしたし、沖縄の実態も伝えられていなかった。

 7月26日の連合軍の降伏要求(ポツダム宣言)にも日本の軍政府は応じず(国内のマスメディアも「笑止!」という言葉で戦争継続を煽った)、その結果、米国は直前に開発を終えていた原子爆弾を広島・長崎に続けて投下した(注:米国政府にとってはこの原爆投下は一つの実地実験であったが、原爆は戦争を終わらせるために必要であったとの米国人の見方はこの辺りにある)。

 この広島への原爆の翌日の8月7日午前中、愛知県の豊川海軍工廠へB29爆撃機124機が空爆し、30分間に500ポンド(250kg)爆弾3256発(約800トン)が投下され工場は壊滅した。この空襲により、およそ2700名近くが犠牲となったが、勤労動員されていた中学生、女学生、高等科生徒からも多数の犠牲者が出て、男子193名、女子259名、計452名にのぼった。この他にも勤労動員先の工場内で焼死、工場付近の防空壕で圧焼死した男女学生・生徒は少なくないが、東京のみならず日本全国に多大な犠牲者を出した。文部省の『学制百年史』によると死者1万966人(内8953人は勤労動員中の原爆で)、傷病者9789人(内3994人は原爆で)、敗戦時の動員数340万人とある。

 ほぼ一週間後の8月15日、天皇の詔勅により終戦。開戦からすべては天皇の名によって行われた異様に長期の戦争であったが、そもそもこの戦争の遂行に天皇の意思があったわけではなく、軍と政府が天皇の名を利用し、例えば「聖戦」や「皇軍」という名を冠して戦争を遂行し、天皇には不利な戦局の情報は届かず、3月10日の東京大空襲の悲惨な状況も天皇には隠された。そして日本は必ず勝つと教えられそれを信じていた国民も学生も女学生も敗戦という虚脱状態の中ですぐには洗脳から解かれず、敗戦直後に成立した内閣の首相が「一億総懺悔」と述べ(これは自分たち軍政府の戦争責任を棚上げするものであったが)その言葉に多くの国民は納得し、自分たちの努力が足りなかったためにこの戦争に負けたのであって、天皇に申し訳ない、と勤労動員されていた女学生までも思ってしまうほどであった。

<敗戦という事実の下で>

 昭和20年(1945)8月15日、敗戦と決まって、勤労動員先で必死に頑張っていた女生徒たちはその事実に呆然とし、涙に暮れた。最後には神風が吹き、日本は必ず勝つと教えられ、それを信じていた生徒も多かった。なかには冷静な親に、この戦争は負けると教えられていた生徒は、やっと終わった、これで空襲もなくなり、ゆっくり寝られると安堵した生徒もいた。

 このような学校の勤労動員の記録は、敗戦が決まった直後に文部省の指示でほぼ全て焼却された。実際に軍隊が学校に駐留していた場合、将校たちが校庭や空き地の隅で書類を燃やしていた光景もあり、それを学校に残っていた低学年の生徒が見ていたという証言はいくつもある。これはつまり間近に迫る占領軍の追求を恐れて、戦争の証拠を隠滅しようとするもので、当然軍や官庁自身の分も含めて焼却され、その結果各地の徴兵された市民の記録も、学徒出陣で出征した学生たちの実数をつかもうにもその記録がないのである。事実、そのような話を聞き、勤労動員中の個人の日記を、持ってはいけないものと自分で焼却した女生徒もいたほどである。このように軍政府は自分たちが犠牲にした国民を置き去りにし、自らの責任逃れをしようとした。

 筆者私見:どのような場面においても、戦争を指揮する立場の上層部の人間の多くは、自分の責任を放棄して真っ先に逃げる傾向がある。戦場の中の指揮官も同じである。いわゆる戦国時代の武将は自らが決死の覚悟で戦場の先頭に立って指揮をしたが、この昭和の戦争の時代の政治家や高級軍人の中心は明治時代からの貴族や特権階級であり、軍人も将校クラスになると直接戦場の前線に立たない。そこで極端に言えば全ては政治家と軍人将校の頭の中で仮想の正義を振りかざして戦争をすると決める。そして開戦が決まれば国民を徴兵して新たに道具としての軍隊を組織する。戦争に負ければ後で自分の判断、方向性は間違っていなかったと言い訳で済ましてしまう。事実、後半の戦争を大東亜戦争と称して、アジアの解放のための正義の戦争としていた。その建前と事後の言い訳の裏で何百万の人々が犠牲になっていても心の痛みを感じない。まるで他人事である。だから「聖戦」と偉そうに言っていたはずの軍事関連記録も平気で焼却してしまったわけである。

【朝鮮・台湾・満州からの留学生】

 中国からの留学生の本格的な受け入れは、日清戦争後の翌年から始まり、明治36年(1903)には669名に達していた。積極的に受け入れたのは私学で、早稲田、明治、法政、中央大学であった。しかし明治44年(1911)からの清国(中国)内の辛亥革命の影響で入学者は激減、さらに日本は大正4年(1915)の第一次世界大戦に参戦して、中国の遼東半島などにおけるドイツの権益を奪い、さらに対華21カ条要求により中国の満蒙における日本の権益を要求するに至り、その結果留学生の多くが帰国した。その後の日本軍による山東出兵や昭和6年(1931)に満州事変が起こるに及び、中国人留学生はほぼいなくなった。これに代わり、植民地とした満州からの留学生は昭和11年から15年(1936-40)まで、主要大学で430人とされるが、予科などを含めるともっと多くなる。

 一方で明治43年(1910)、日韓併合によって朝鮮を植民地として同化教育を行うとして留学生の受け入れ体制を作った。日中戦争(支那事変)開戦前年の昭和11年(1936)には留学生6337人、太平洋戦争開戦の昭和16年(1941)には1万8300人に達していた。この留学生の受け入れは上記4大学に日本大学が加わり、最大となっている。昭和18年(1943)10月には国内の「学徒出陣」と同時に台湾と朝鮮、満州の植民地においても壮行会を行ったが、この対象は主に京城大学などへの日本人留学生である。国内の植民地留学生に対しては「志願による徴兵令」を公布し特別志願兵が募集されたが、反応ははかばかしくなかった。それでも積極的に応じる朝鮮人学徒もいた。そこで文部省は植民地の留学生も対象とし、表向きは志願兵であったが、志願しない学生に対する休学・退学措置を命じた。このうち対象となった朝鮮人の学生たちは、4300人以上とされている。これに対し、台湾人の学生は相対的に見て1500人以上と思われる。例として、早稲田大学からは台湾人留学生の志願者が84名、非志願者が33名であった。

 ちなみに、朝鮮と台湾に徴兵制が施行されたのは昭和19年(1944)4月、実際に徴兵が適用されるようになったのはその9月以降のことである。「航空機による特攻」で戦没した日本軍将兵の数は4000人を超えるが、その中には20名ほどの朝鮮人も含まれていた。ちなみに日本軍に軍属として所属した朝鮮人は36万人以上とされるが、戦後の韓国において「反日」という世論が起きる中、彼らは「対日協力者」、「国賊」「売国奴」などと排撃されるに至った。

【学徒兵の特攻と覚悟】

 学徒出陣によって陸海軍に入隊することになった多くの学生は、高学歴者であるという理由から、陸軍の幹部候補生・特別操縦見習士官・特別甲種幹部候補生や、海軍の予備学生・予備生徒として、不足していた下級将校や下士官の補充にあてられた。彼らは幹部候補生であったが、しかし戦争終盤という状況下、19年(1944)11月からのフィリピン戦線や20年(1945)3月からの沖縄戦や南方の激戦地に遣られ、日本軍の起死回生策として、学生たちの多くが特攻兵として志願させられ、戦闘機やボート型水上特攻艇、人間魚雷回天に乗り、海上の米国軍艦への体当たり(自爆攻撃)を目指し、その多くは途中で撃墜され、虚しく海の中に消えていった。もっとも敗戦間際には飛行機も不足し、零戦も練習機に変えられ、大半は基地で待機中に終戦を迎えた。実際に特攻で戦死した士官の85%は学徒出身者だったとされる。特攻隊員としての戦死者は海軍が4146人、陸軍が2225人の計6371人に上る。

 ちなみに学徒たちに対する特攻隊員の養成は即成的な短期間であったが、軍からすればそのほうが安上がりで、それまで少年期から養成してきた飛行隊員(海軍の予科練など)には金をかけているから特攻に差し向けることは少なく、戦闘要員として残したという。

 この頃の学生は、小学生の頃からの軍国主義教育に深く馴染んでいて、大人になったら国と天皇(つまり皇国)のために戦い、果敢に死ぬというイメージが刷り込まれていて、繰上げ卒業による徴兵も「いよいよ来たか」という心で臨み、徴兵忌避をする発想などなかった。例えば満州事変から派生した上海郊外での攻防で、爆弾を抱えて敵陣に激突死し突破口を開いた「肉弾三勇士」の話は、新聞各紙で賞賛され映画や劇場でも数多く取り上げられた上、教科書にも載せられた。

 このような背景から、なら自分が国のために捨て石になろうと特攻を志願する学徒兵が少なくなかった。数々の遺された手記や手紙を読めば、出撃を前にしてその心持ちは極めて冷静で、その写真には笑顔がある。彼らは閉ざされた状況の中で「考える力」を持ち、自分の立場を理解し自身を納得させていった。そして親兄弟や恋人、婚約者、時には妻子を遺して死に赴く悲痛な心を健気にも克服していった。その遺書の中には「悠久の大義に生きる」という言葉が並ぶが、最後には考えることをやめ、そのような架空の大義に自身の若い命を無理やり捧げていった。

 ただ死して遺された親や恋人たちの本心はどうであったか。少なくとも国民を納得させるために軍政府は彼らを「皇国のために積極果敢に戦い散った若く尊い英霊」と称揚し、靖国神社(千代田区参照)に祀った。そして犠牲者に会いたければ靖国に行けと言う。そして遺族もそのことで何とか悲しみを鎮めようとしたが、納得しなかった人々もいたであろうし、祀られることを拒否した遺族もいた。当時は悲しんでいる姿を人に見せただけで周囲から叱責され、私情を表に出すことは許されなかった。

 総じて、特攻隊員でなくても戦争終盤においては、前線に向かう日本の将兵はほぼ決死隊の覚悟でいた。例えば4月7日、当時の世界最大の軍艦、戦艦大和は沖縄戦に向かう途中、米軍艦隊の戦闘機と爆撃機による波状攻撃を受け東シナ海で沈没した。大和はそれまでまともに活躍できる場はなく、この時も戦艦自体を海上特攻隊としての任務を帯びて沖縄に向かっていた。大量に製造された飛行機の前ではすでに戦艦の時代は終わっていた。いろんな形や各地で「立派に戦死した」とされたなかで、例えば東南アジアの戦地では日本本土からの補給は絶たれ、戦死の6割は餓死であり、8月15日の敗戦後にも餓死は続いていたことなど内地では知る由もなく、遺骨の一部も返されることはなく、泣き寝入りであった。

 なお、昭和19年(1944)半ばから戦局が危うくなり、起死回生の策として陸海軍がそれぞれ特攻隊による攻撃を企図したわけであるが、10月、まずはフィリピン・レイテ沖海戦に向けて特別攻撃隊が編成され、25日に最初の戦果があった。そしてその後、大本営報道部は次のように報道した。

 ——「先の海鷲の神風特別攻撃隊の出陣あり、今また黙々林の如き静けさで待機していた陸軍の特別攻撃隊、万朶、富嶽両飛行隊の出陣の方に接して、銃後一億の感動、感激は言語に絶するものがあった。その感激、あの感動こそは恐らくいかなる文学者といえども、表現につくせぬほど大きく且つ深いものであったろう。と同時に、陸海の若鷲が渾然一体となり、必死必殺の特別攻撃隊として決然と出撃した事実を聞いて、比島方面における陸海空の激戦が皇国の興廃を決すべき重大決戦であることを今更の如く痛感し、身の引き締り血の逆流するを覚えたものであった。特別攻撃隊の出動がなにゆえかくも銃後国民の心を揺さぶり、その胸奥を掻きむしったのであろうか。それは出陣に『生還』がなく、彼らの攻撃が即ち死を意味するからである。人間としての一切の名利を捨て、一切の悩みを克服し、死を超えて彼ら若鷲がひたぶるに求めんとするものは何か。…… それは『日本の勝利』である。存亡の岐路に立つ皇国を、富嶽の泰きにおかんがための勝利である。その勝利の礎石となるために、彼らは従容として『体当たり』し、決然として『必死必殺』の強襲を行なっているのである」。(「写真週報」第349号、1943年11月29日:『戦争と明治大学』より転載)。

 あえてこれを写すのは、こんなことを、自分たちが若者たちをそこまで追いやった立場であるに関わらず、平然と言ってのけるその神経が尋常ではないと思うからで、この中には彼らの死を悼む言葉もないし、ここに至るまで泥沼の戦争を引きずってきたことへの一抹の反省の心もないからである。戦場からはるかに離れた安全地帯にいて、しかもその若者たちの姿に直接触れることもない連中が、こうしたさも自分たちの手柄であるかのような文章を得意然として書くなど、厚顔無恥にもほどがある。これがまさに戦争を引き起こした軍政府側の無責任さであって、だから後にも触れるように、敗戦が決まると彼らは戦時関連資料を平気で焼却し、この戦争を無かったことにしようとしたのである。これほどに無責任な政府があるだろうか。

【学生とオリンピック】

 戦前の大学は多くのスポーツ選手を輩出した。当時はスポーツに打ち込める余裕のある若者がほぼ大学生に限られていたこともある。昭和7年(1932)に開催された第10回オリンピック・ロサンゼルス大会で、日本は131名の選手を送った。そこで慶応・早稲田・明治・日本大学を含む選手たちが主に陸上と水泳競技で活躍し、陸上その他では金銀銅が6個、水泳では12個、全体で6位までの入賞が延べ32名、中でも大学生3名、高校生1名の男子競泳800mリレーでは従来の米国を大きく上回る世界最高記録で優勝した。

 その4年後の11年(1936)、すでにナチス支配下にあったベルリン大会も179名の選手を送り、陸上では金銀銅が7個、水泳では800mリレーで連続の金を含む11個(前畑秀子など女子を除くほとんどが東京の慶応・早稲田・明治・立教の大学生)、全体で6位までの入賞が延べ39名となった。またこの時の男子マラソンで金と銅を獲得したのは朝鮮の高校生と明大に留学中の朝鮮人であったが、それは日本のメダルとされた。

 さらに4年後の15年(1940)には東京大会が決まっていた。しかし日中戦争に突入していた日本は、国際的な非難も高まり、何よりも国内で物資の余裕がなくなり、13年(1938)に開催を返上、それによって大学の選手たちの多くは戦地に送られる。大会に向けて試合中の明治神宮のプールにいた選手に「召集令状が来ました!」とアナウンスがされ、するとみんな立ち上がって拍手したという。戦前にオリンピックに出場した選手で徴兵されて戦没した選手は37名、そのうちの大半が大学卒業生である。

 その後の19年(1944)ロンドン大会は第二次世界大戦で中止、戦後は23年(1948)にロンドンで開催されたが、敗戦国である日本とドイツは参加を許されなかった。その4年後のヘルシンキ大会から、日本はベルリン大会の半数以下の選手で出場した。

【「お国のため」の果てに】

 特攻隊として死んで行った若者たちが信じたお国のため「国」とはそもそも何なのか。本来国を支える政府というものは国民の命と生活を護るべき義務を負う。またこの長きに渡る戦争は、資源小国として日本の国益拡大のために中国の広大な土地、とりわけ満州に目を付けたことが端緒であった。この日本軍の満州から中国本土への侵攻作戦を咎めて、米国は石油その他の日本への資源の輸出を止め、英国なども日本に経済制裁を行った。その結果日本は米英に宣戦布告するに至った。そして戦争に負け、その憎き敵であった米国によって軍国主義から民主主義体制に転換させられ、そのお陰で戦後の日本の経済発展があり、だから日本は米国に足を向けて寝られなくなり政治的には未だに米国の意向に追従する流れになっている。

 またこの戦争は、東アジア諸国の欧米からの解放のための「正しい」戦争であったと言う人もいる。それはおそらくこの「英霊」たちの死が決して無駄ではなかったことを言いたいからであろう。しかし仮にもこの戦争に導いた当時の軍政府の首脳たちが、果たして正しい判断ができていたのかどうか、その頭の中はどうだったのか、むしろ自分たちの権勢を誇り体面を維持するために始めた戦争ではなかったのか。そこには国民の命を「多少」犠牲にすることはやむ得ないという考えしかなかったのではないか。国とは実は彼らの体面のことではなかったのか。「尊い犠牲により」というのも、自分たちが仕向けた戦争への判断が誤っていたことも含めて、そのために犠牲になった大量の死者をも「無駄ではなかった」としたかったのではないのか。

 日中戦争開戦当時の軍政府の為政者はそこまでの戦争拡大と犠牲者数を想定すらしていなかったであろうが、そうだとしても彼らにその戦争を遂行していく責任能力や国を担う胆力があったのかどうか。思うに軍国主義下の日本の政治体制は「集団無責任体制」と言うべきもので、戦時下の内閣は都合が悪くなるとコロコロ変わり(それは今の時代にも引き継がれているが)、引き際を見定めることができず、日本の戦争は泥沼の状態に陥った。むしろ前線で死と向き合った若者たちこそ国を思い、責任を果たす能力と胆力があった。学徒たちは国の指導者たちの過ちと無責任を問い糺すこともなく、空疎な「お国のため」として自分に与えられた使命を潔く受忍して死を覚悟し、そして命を散らし、「英霊」となった。

 そうした英霊たち(学徒だけではなく東南アジアなどで置き去りにされ餓死した多大な兵士たちすべて)の犠牲のお陰で現在の日本の発展があったという。しかし敗戦が決まると軍政府の指示で全ての軍事関連資料を焼却してしまったという事実は、実に日本の戦後はこの戦争の隠蔽工作からスタートしているということを示している。つまりここで数々の「英霊」もいなかったことにされた。そして残った国民も戦争のあったことは忘れて、しかし片方で親兄弟や子供を失った悲しみを抱えながら、懸命に自身の生活のため、家族のために仕事をした。ここで日本人の本来の生真面目さが発揮され、日本の戦後の復興を成し遂げて行ったと言える。もっとも戦争から帰還した人々の中には戦争の現場でのトラウマで精神を壊し、家庭を崩壊させた人たちも少なからずいる。いずれにしろそうした人も包摂しながら、戦後の経済も含めて常にそうであるが、ここまでの日本の発展は国の政策によってではなく、人々の日々の寡黙な努力によって支えられてきている。為政者は常にその成果を後追いで誇ろうとするだけである。英霊たちも生き残っていればもっと国の発展のために力を尽くしたであろうに。

 実は日本が関わった戦争という面において、満州事変からのこの15年戦争、というより明治の日清・日露戦争から見ても、一度も日本が相手国から侵攻を受けての戦争、つまり防衛としての戦争はない。戦後、日中戦争から戦争を推進した人間たちの中のごく一部が戦争犯罪人として連合国占領軍GHQにより処刑されたが、その大多数が終戦とともにうまく逃げおおせた。しかしアジアの前線などで取り残された中級以下の将兵たちはB級戦犯としてその多く(1000人近く)が処刑された。その中にも前線にいた学徒兵はいたし、植民地としてあった朝鮮・台湾から兵士として雇用された人たちもいた。逃げおおせた上官の命令で、否応なく現地の人や捕虜を虐待あるいは死に至らしめたことによる。

【戦後の調査とその障害】

 現在残されている大学を含めた各学校の戦時下の記録は、主に戦後30年ごろから有志や学内の年史プロジェクトなどによって証言が集められ、失われた記録を掘り起こしつつ書かれたものが多い。一般的にも次の節目が50年、遅いものでは戦後70年前後である。これは体験者が晩年を迎えるころである。それまでの長い空白の期間は、この壮大な無駄となった戦争を、官民共に忘れようとしたためであるが、ようやくその長い年数を経て、黙って語らなかった人が語り始め、メディア等によっても見直しが始められたのである。

 東京大学をはじめ、多くの大学で戦後50年あたりから学徒兵としての戦死者の実数を把握するために調査を開始したが、その調査はどの大学も困難を極めた。その理由はその調査がほぼ50年後と遅くなっていたからではなく、日本の軍政府は敗戦が決まると即座に、戦時関連の記録・資料を軍内部だけでなく大学を含めた各所に指示して焼却させたことで、原資料(いったん休学して徴兵された記録など)がどこにも残されていなかったことによる。しかも、召集を受けた学生たちはいったんそれぞれの本籍地に帰り、そこで入営の手続きをするのだが、その各市町村の役所の出征台帳も8月15日からすべて数日かけて焼却された。だから大学も調査の手がかりから模索するしかなかった。そしてその各市町村も、米軍の空爆による死者数は把握できても、(一部の小さな村は別として)出征して戦死した人の正確な数が把握できていないという状況になっていた。繰り返すが、戦時下の資料を焼却したということは、この「聖戦」と呼ばれ、東アジア解放のための「正義の戦争」をなかったことにしようとしたということであり、「英霊」をもいなかったことにしようとした。どれだけ日本は無責任な戦争をしてきたかという一つの証左である。

 それは別としても、大学のみならず社会全体でもなかなか戦時下の出来事が表に出されなかった要因は何なのか。日本が無謀な戦争に打って出た結果の敗戦という事実を、正面から受け止めようとする姿勢が官民共に持てなかったこともあるだろうし、米国を主とするGHQ占領軍が、日本を一挙に民主主義体制に転換させながら、一方で自身が日本各地に原爆を含めた激しい無差別爆撃を行って来た手前、「戦争を思い出させる施設など作らないように」との指示を出し、それに日本の為政者たちもむしろ好都合と易々と従ってきたことも大きいだろう。

 今では信じがたいかもしれないが、東京への大空襲を含めた空襲被害のことが新聞紙上で取り上げられるようになったのは、戦後30年も経ってからである。これは筆者の側で図書館で新聞資料を検索して分かったことである。自分たちが起こした戦争による加害と被害という両面において、つまり多大な犠牲者を国の内外に生じさせたこの長期の戦争を反省する心を日本は封印していたと言える。なお戦時関連書類の焼却の影響は、戦後の歴史家たちの調査研究にも大きく影響を与えている。そのため学者やジャーナリストたちはわざわざアメリカの公文書館その他にしばしば足を運ぶことになった。その調査により明らかになった戦時下の事実も数多くあり、いろんな面において日本はアメリカに依存する国になっている。

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