(当時の背景はトップの「戦時下の大学と戦争:概説」参照)
聖路加国際大学(聖路加看護大学)
大正9年(1920)に、米国聖公会系宣教医ルドルフ・B・トイスラーが米国人ミセス・アリス・C・セントジョン女史を校長として創立した聖路加(ルカ)病院(明治35年:1902年、同氏設立)附属高等看護婦学校を母体とするが、看護婦学校自体は病院の2年後に設置されていた。昭和2年(1927)本科・研究科の4年制の聖路加女子専門学校となる。終戦後の昭和21年(1946)、占領軍GHQにより聖路加国際病院と学校の建物が接収され、東京看護教育模範学院の名で日本赤十字女子専門学校との合同教育を行う。29年(1954)、接収解除で校舎返還。聖路加短期大学(3年制)となる。39年(1964)聖路加看護大学とし、日本初の看護学部4年制教育を開始。平成26年(2014)聖路加国際大学に名称を変更。以下は『聖路加看護大学のあゆみ』、『聖路加国際病院ものがたり』(日野原重明)その他から。
昭和6年(1931)の満州事変を端緒として、12年(1937)の日中戦争勃発から米欧の日本に対する非難が高まり、逆に国内では対米英を主とする排外主義が15年(1940)ごろより起こり、聖路加の中でも教育は外国依存を廃し、わが国自身の精神とその手によって行うべきという世論が大きくなった。結果的に初代校長であったセントジョン女史と理事2名、他1名計4人が退任し米国に帰ることになった。これは他のミッション系女学校でも同様な動きとなり、15年(1940)秋から16年(1941)にかけて次々と米英の長年の貢献者たちも後ろ髪を引かれる思いで帰国して行った。そして日本は米英から経済制裁を受けるに及んで、16年(1941)12月8日の太平洋戦争(当時の呼称は大東亜戦争)突入へと一挙に戦線を拡大させて行く。
排外主義は英語にも及び、スポーツや医学用語も日本語に置き換えられるようになり、応急処置をする際に言葉が出ずに困ったというが、そのまま定着した言葉もある。英語の授業も遠ざけられたが、敵を知るのに英語を学ばなくてどうすると、堂々と継続した私立学校もある。その流れで、聖路加女専の名前も興健女子専門学校に変えられ(16年:1941年)、病院も大東亜中央病院とされ(18年:1943年)、学校も病院も、やむなく日本人のみの運営となっていた。それまではとりわけ病院はトイスラー(昭和9年:1934年死去)の尽力もあって米国から設備も含めて多額の寄付を受けていたが、自力で経営していかねばならなかった。その米国と戦争を始めた日本の指導者の決断を、トイスラーはもし生きていればどれだけ愚かな行為と嘆いたであろうか。病院の医師や職員、女専の先生たちも身近にアメリカ人とその先進の医療技術に接していたから、この戦争を無謀と思っていた。それでも一般世間の人たちは太平洋戦争突入時には万歳して興奮していたのである。それもこれも軍政府とその方針に追随する新聞(そうしなければ廃刊にされた)などの宣伝による洗脳の結果であった。
興健女専と名前が変えられる時に、学校の目的には「報国の精神に燃立ち」という言葉が入り、校歌の歌詞にも、「輝かし興亜の御稜威(みいつ)、四方の民共に栄えよ… 大君の御旨かしこみ」などが入れられた。当時は日本は神代の昔から天皇が統治する皇国であるという思想が吹き込まれ、戦争も天皇を利用する形(その都度詔勅が出されたが、軍政府の進言によるものであった)で進められた。またこの頃に各学校は戦時下の体制を強固にするために、学校報国団や報国隊が作られていて、興健報国隊の名前で生徒たちは軍需工場に動員されることになる。これに並行して学校にも病院にも特設防護団が作られ、陸軍の古参兵の指導のもと、防空訓練や消防訓練そして救護訓練が定期的に行われた。
戦争が長引くにつれ、女子教育ももっぱら良妻賢母を旨とするばかりでなく、女性の自立も打ち出されるようになった。戦場に行く男性の代わりに女性の役割が重要になってきたからで、これが唯一この戦争の効用であったかもしれない。小学校からの教育で自分たちもお国の役に立ちたいと、看護婦学校を志望する女性も増え、実際に必要とされていた。中でも従軍看護婦となって医師と共に戦地に行く女性も少なくなかったが、その悲惨な体験については別記する。
ある女性は、自分の女学校に保健の科目ができて、その教師として聖路加の卒業生が赴任して来たことがきっかけで看護婦を志し、18年(1943)聖路加に入学した。米国人指導者がいなくなった中でも授業は米国流の看護の基本を外さない豊富な内容で、実習を含めた充実と徹底度は驚くほどのものであったという。当時の日本ではまだなおざりにされていた衛生から生活習慣、歩き方まで基礎から教え込まれた。入学から半年後に明治神宮外苑競技場で行われた出陣学徒壮行会の見送りにも動員された。そのあたりから体育の授業も戦時用に担架での負傷者搬送訓練などが多くなった。一時期、他校の女学生と一緒に勤労動員として軍需工場に通ったが、19年(1944)11月下旬から米軍の空襲が始まり、被災者が病院に次々と搬送され、看護学校の生徒は実習場として病院に釘付けになった。その中でも、お産、つまり分娩の実習もあり、空襲下では灯火管制で電灯が途中で消されるが、急いでランプを灯して薄明かりの中、緊張感に包まれて行われた。そして警報の音に負けないくらいの大きな声で「おぎゃあ、おぎゃあ」と生まれた赤ちゃんが産声をあげると、思わず一緒に泣いた。「命を守るために看護の道を選んだのに、戦争中は失われていく命ばかりでした。そんな中、新しい命の誕生から得た感動はひとしおだったと思います」。
病院の敷地内にあった学生寮でもいつでも出動できるように、防空服を着て靴を履いたまま眠り、空襲警報が鳴ると、それぞれの持ち場に駆け出して行った。
このような病院の現場での活動は当然体力が必要であった。しかも学生たちはまだ成長期である。太平洋戦争突入前からすでに物資も食糧も、米英等からの経済制裁もあって不足してきている時代であった。その上で当然のこととして軍政府は食糧を軍隊優先に農家から供出させた。だから食糧も米を第一として配給制となり、肉や魚類も乏しく、まともな野菜もなく、現在では考えられないような代用品が出回った。入院患者にもできれば米を持参してもらうことを原則としたが次第にそれもままならない状態となった。そのような中で学生は「朝ごはんを食べても、朝の点呼を終えて、日課の病院一周駆け足訓練をしたら、もうお腹がへっているのです」という具合であった。そこで空襲警報があると、6階にある小児科担当の女学生は子供一人を背負って、さらに二人を抱えて地下に移動させなければならなかった。「毎日ヘトヘトでした」。
こうした背景の中での3月10日未明の下町三区を中心とした大空襲の惨禍であった。当初、病院と専門学校の防護団がすぐに防火活動に出動した。学生たちは鉄かぶとに身を固め、火の粉の飛び散る街頭に出て、逃げ惑う人たちを誘導した。そのうち病院に次々と負傷者が運ばれてくると、病院での手当てに奔走した。そして病院も戦場のようになった。大火傷を負った人たちがトラックに荷物のように山積みされて病院に運ばれてきた。病院正面奥のチャペルのロビー、待合室、地下室、専門学校の体育室、廊下などにベニヤ板を並べ、そこに布団を敷いて負傷者を収容した。すぐに1000人を超える負傷者でいっぱいになった。それでも次々とトラックは負傷者を運んできた。
体の一部が炭のように焼け焦げて真っ黒になった人、髪も顔も全身が焼けただれている人、激痛に気を失う人、気がふれたように動き回る人、頭部がぱっかり割れ、じっと座って痛みに耐えている人 …。全身にやけどを負った人たちが看護学生に向かって「どうか水をください!」と声をふり絞るが、破傷風だった場合、水を与えるとすぐに死んでしまうからと、水は与えられなかった。しかしいずれにしろ大半の人たちがそのまま動かなくなり死んでいった。家族の遺体から離れようとしない人たち、なかでもわが子の亡骸をしっかりと胸に抱いてその死を認めようとしない母親、自分の大けがをかえりみず、子供の行方を必死に訪ね歩く母親もいた。
病院にはもうまともな薬も残っていなかった。薬がなくなると新聞紙を燃やした灰を傷口に振りかけた。それで患部の膿を吸収するのがせいぜいだった。皮膚や肉の焼け焦げた臭いが充満した病院の中で、看護学生も院内を駆けずり回りながら嘔吐したりもした。しかし日が経つにつれ慣れてきて、悪臭も気にならなくなり落ち着いて対処できるようになった。
19年(1944)に入学したある学生は、「空襲になると病院内は真っ暗で、その中でも避難できるように階段の数を覚えた。竹そりを作って子供を乗せ、階段を滑らせて安全な地下に降ろした。3月9日の深夜、警戒警報と空襲警報がほとんど一緒で(近隣の人たちが病院に)逃げてくる間もなかった。近くの海軍の高射砲は届きも当たりもしないのに散々打ってその破片で怪我をする人がたくさんいた」、そして別な学生は「隅田川に掛っていた橋が焼け落ちた。(橋の両方から逃げて)挟み撃ちになった人たちが橋ごと落ちた。水面の上を燃える焼夷弾だった。翌日、自警団か誰かが死体を引き上げるのだけど、その中に心音がまだある妊婦さんがいて、幾つも妊婦さんが浮いていた。ほかの水死体は下を向いているのに妊婦さんはお腹が上を向いていた。それでまだ(胎児の)心音があるから、何とかしなくちゃいけないって言って、救護班で一緒に行っていた友人と ”カイザー(帝王切開)ってやったことある?” ”いや、医者じゃないとしちゃいけないんですよ” ”でもそんなこといっていられない、心音あるから助けなあかんわ”って言って、そしたらそこに兵隊さんが来て、”心音があるんですけども、今すぐ帝王切開したらベビーは助かると思います”と言ったら、兵隊さんが(妊婦さんを)担いでどこか行かれた。あの赤ちゃん助かったんだろうか、どうだろうかと、もう母体は完全に焼死でも、(胎児の)心音がかすかに聞こえていた。聴診器ではなく、紙を筒にして丸めてあてたら聞こえた」というような経験もした。
こうした過酷とも言える経験をする中で、女学生たちは精神的に鍛えられていった。大空襲の惨禍を聞いた親たちは心配して娘を田舎に連れて帰ろうと迎えにきたが、すでに自分たちの役割を自覚していた学生は、「どうせ戦争で死ぬのなら、故郷で死んでも東京で死んでも同じことです。だから家には帰りません」と、もっと勉強する道を選んだ。それは聖路加の教育方針が、看護婦の仕事を医師の補助的な仕事とせず、患者に寄り添って治療をしていく独立した仕事とするところにあっただろうと日野原元院長は述べている。
当時の、ほとんど二十歳前の彼女たちの朝の挨拶は「今日も生きてたね」、「今日もおはようが言えて本当によかった」であり、また同級生と一緒に細いサツマイモを食べながら「これが最後の食事になるかもしれないね」とつぶやいたりした。それでも彼女たちは看護師や教師になる希望を捨てなかった。いつかこの経験が役に立つ日が来ると。
3月10日の大空襲の後にも小刻みに空襲は続き、3月25日の山の手大空襲、4月13日の城北大空襲、5月24日の城南大空襲があり、病院の救護班はその都度出動し、学生も同行し、応急手当てを行った。都内でのほぼ最後の出動は8月2日の八王子大空襲で、東京都が手配した大型トラックで、医師2、看護師5、学生22、事務方5名の陣容で向かった。その後、広島・長崎の原爆を経て8月15日に終戦となった。
もともと聖路加国際病院は米国系という理由で米軍の空爆対象から外されていた。実質的には無差別爆撃であったが、米国系ミッションスクールや米軍にとって重要と思われる施設(皇居も同様)は外された。敗戦後、連合占領軍GHQの指令で聖路加とともに看護学校も接収され、連合軍専用の病院とされることになり、聖路加は規模を縮小して移転せざるを得ず、学校も一時休校となったが、2ヶ月後に中央保健所の一部を借りて再開された。しかしさらにGHQの指示で翌年6月に日本赤十字社救護看護婦養成部と合同教育をする目的で、渋谷区の赤十字社に移ることになった。合同学校の名は東京看護教育模範学院とされた。
聖路加女子専門学校はすでに日本で唯一文部省から認可されていた看護の専門学校であり、日赤の看護婦養成は軍隊式に階級が分けられ、ある意味掃除や洗濯を含んだ病院の労働力として捉えられていた。そこでGHQの指導もあって主に聖路加式の公衆衛生を理念とする教育方法が採られ、その教員として多くの卒業生が指導した。その後昭和28年(1953)に聖路加の旧館が接収解除されるに及び、女専の学生も戻り、31年(1956)にはすべての建物が返還された。聖路加女専の卒業生は日本各地で活躍するが、東大医学部衛生看護学科が設置された時や、その他の大学や病院附属の看護学校の場合もその教員の中に多くの卒業生が採用されている。
日本橋女学館
明治38年(1905)、当時の日本橋区の支援で日本橋女学校として設立、すぐに高等女学校となった。大正4年(1915)、区から独立し日本橋女学館とされた。この年、総檜造りの新校舎が落成したが、12年(1923)の関東大震災で焼失、一時解散したが同窓会などの尽力で翌年簡易校舎を作り、再開。昭和8年(1933)に鉄筋の3階建の新校舎が竣工する。以下は主に創立九十周年と百周年記念誌から。
昭和12年(1937)日中戦争開始後、日本軍が中国の北部をほぼ占領した状況下で、14年(1939)、当時の若月校長が皇軍(天皇が統率する軍隊の意味で、この時期日本軍をこう呼んだ)慰問並びに文化建設状況視察として中国へひと月ほど渡った。文化建設とは昭和6年(1931)の満州事変を契機に日本は鉄道建設に着手し、中国北部まで広げつつあり、大手の会社も支社を作り民間人も多く移入、日本人街も各地に建設されていたことを指す。若月校長はその6年(1931)にも欧米へ4ヶ月の教育事情視察に行き、教育者として一目置かれていた。
この14年(1939)のころには戦時体制が強化され生徒の勤労奉仕作業が増えていた。16年(1941)の太平洋戦争(大東亞戦争)開始後は勤労奉仕は学徒報国隊としての勤労動員に切り替えられ、年ごとにその期間が増えて行った。19年(1944)春過ぎから勤労動員は通年となり(戦線が拡大し男性が次々に徴兵され軍需工場は女性や徴兵年齢に達しない男子生徒が主力とならざるを得なかった)、女学館の動員先は中央郵便局で自転車に乗っての配達、簡易保険局、藤倉電線などであったが、一方で浅草国際劇場と両国国技館での風船爆弾の製造作業があった(東京では他に日本劇場=現有楽町マリオン、東京宝塚劇場、有楽座が使われた)。
風船爆弾とは直径10mの大きな気球の中に爆弾を吊るためのベルトをつけ、その先にロープで爆弾を吊るし、その中に水素ガスを充填して大気圏の気流(偏西風)に乗せて2日間で米国に到達することを想定した制御装置を付け、その上空で自動的に爆弾と焼夷弾が投下されるという奇抜なものであった。女生徒の証言:「その原料はすべて和紙、つまり紙風船!強靭な和紙にリスリンを含ませた原紙を裁断し、その原紙をコンニャクで作った糊で風船を作るように貼り合わせる。それがはがれないようにカスガイと称する細い紙テープを両面から貼りつける。こうして半球状に貼り合わせたもの二つを中央でつなぎ、全球を作る。そして空気を入れ防水塗装をハケで塗る。ようやく出来上がったものも最後の(空気での)圧力検査で原紙の不完全なところが裂け、大きな音とともに破裂した完成品に、心も大きく穴が空けられた」(この作業で手のひらにできた魚の目はその後十年も治らなかった)。ただしこの作業は軍事機密で、家族にも話せなかった。
この風船爆弾は約9300個が順次に放たれ、アメリカ本土に到達したことが確認されたのは280個、空中で爆発したものが約100個、到達地域は西海岸を中心に広い範囲におよんだ。オレゴン州では不発弾の爆発により6人の犠牲者が出たという。その多くの女性徒たちの大きな労力からするとほんのわずかな「戦果」であった。しかもどこの工場か定かではないが、製造中の事故で6人の死者を出しているという。
昭和20年(1945)3月10日、住宅が密集した下町地区を中心にいわゆる東京大空襲があり、東の江戸川区から西は日本橋地区までが絨毯爆撃のように大量の焼夷弾が投下され、ほぼ焼き尽くされたが、鉄筋で建てられた女学館は残った。同じ鉄筋でも押し寄せる火勢が強いと窓ガラスは壊れ、室内が延焼してしまう場合が多かったが、若月校長以下、宿直の教職員が必死に屋上で焼夷弾を消したり窓を締め切るなどして延焼を免れたという。ただ、地図で見ると校舎の北側は神田川に接していて当日の風はほぼ北西風だったので助かったのだと思われる。もっともガラスのほとんどはヒビが入った。この結果、馬喰町近辺の被災者約千人が避難してきて、しばらく戦場のようだったとある。一人の生徒が翌日、家族が全員火勢から逃れようとして川に飛び込んで亡くなったと泣きながら学校に来たという。
4月13日にも大空襲があり、新宿にあった陸軍戸山学校が焼かれ、そこにいた軍楽隊が勤労動員や疎開などでほとんど生徒のいなかった校舎を借りに来た。総勢250名で、そのうち180人がここに居住した。彼らはまず空襲を避けるためとして校舎の白壁にコールタールを塗り迷彩を施した。そして食料を確保するため(すでに軍隊でも食料に事欠いていた)校庭で豚を飼い、焼け跡を耕して野菜作りをした。ところが5月25日にまた空襲に遭い、屋上などに降り注いだ焼夷弾を音楽隊と校長たちが消したが、講堂(現図書館)の天井一部が焼け、ステンドグラスが壊された。
実はこの軍楽隊の中には戦後日本の音楽界で活躍する団伊玖麿と芥川也寸志がいた。その練習で流れてくる音楽で、限られた授業を受けていた下級生が慰められ、終戦で解散される日に軍楽隊は音楽会を開いてくれ、代わりに生徒たちは合唱で応えたという。
