江戸川区の女学校

(当時の背景はトップの「戦時下の大学・女学校の概説」参照)

都立小松川高校(第七高等女学校)

 大正5年(1916)、南葛飾郡立実科高等女学校として第一亀戸小学校旧建物の一棟を仮校舎にあて設立。8年、小松川町に本校舎を新築。12年、東京府立小松川高等女学校、昭和2年(1927)第七高等女学校となる。昭和7年(1930)から校地を拡張し9年新校舎が完成、東洋一の校舎と言われた。昭和24年(1949)男女共学、翌年都立小松川高等学校と改称。以下は主に創立80周年記念誌と100周年記念誌から。

 記念誌の戦時下の記述は詳細ではないが、80周年記念誌の中に昭和18年(1943)入学生の座談会がある。その18年から軍需工場への勤労動員の比重が大きくなっていたが、下級生はまだ授業が十分に受けられた。またこの年の秋に男子学生に対する兵役猶予が撤回され、学徒出陣として19歳に達した学生が戦地に遣られることになった。翌19年より女子の勤労動員体制が強化され、下級生も勉強どころではなくなった。

 他の女子校の多くがそうであるが、第七高女も学校が大日本兵器の工場として利用されることになり、3階が当てられた。また陸軍が駐留し、屋上に高射砲が設置された(後の空襲ではほとんど役に立たなかった)。学校工場では戦闘機(ゼロ戦)の弾丸と部品作りのようで、重要機密とされ、校長も「ここは名誉ある兵器工場です」と話した。高学年は近くの精工舎に通ったが、そこでも機関銃の弾を作っていた。出される食事は貧しく、変色したりしていて、よく腹を壊したという。時間のある時を利用して引率の先生が勉強を教えてくれたが、教科書なしであった。学校工場では時々教材が回されてきたが、19年11月24日から米軍の本格的空襲が始まり、20年3月に親工場が焼け、学校に部品が来なくなり下級生も精工舎に通うことになった。精工舎は奇跡的に全焼を避けられた。しかしそのうち精工舎にも材料がなくなってきた。

 3月10日に日付が変わってからの深夜の大空襲では当校は焼け残ったが、この日は荒川の西岸から西側へとB29の大編隊による空襲が行われ、荒川西岸のカーブした土地(そこが江戸川区の飛び地のようになっている)の土手間際に建てられていた学校が、運良く大量の焼夷弾から逃れたためで、隣の江東・墨田・台東区はほぼ全滅し、この日の東京全体の焼死者は8万数千人で、未だに世界戦史上最悪の悲劇である。

 ほぼ街が燃え尽きた朝、東側の川向こうの生徒は学校の様子を見に友達と歩いて行こうとした。しかし焼け出されて目が腫れ上がったりしてすごい形相をして東側に逃れてくる人々で道は埋まり、そして逃げながら道に倒れて焼け焦げた死体を乗り越えながら、橋を渡り普段は30分の距離を3時間かかって学校に着いた。その頃には丸太のように焼けた人間の死体も物にしか見えなくなっていたという。後から来た生徒たちは橋が通行止になり渡れず、迂回したという。

 焼け残った学校を見てほっとしたものの、校内は焼け出されて避難してきた近隣の人々と近所の病院の患者とであふれ、駆けつけた生徒たちはそのまま無我夢中で火傷した人たちの手当てをした。

 この後も「登下校の途中、中川の放水路のところで軍人さんが岸からイカリを放り投げて(浮いている)死体の髪などに引っ掛けて岸へ引き寄せ、その死体を引き上げてこもに包んでいるのを見た」という。押し寄せる猛火で逃げ場を失って川に飛び込んだ人たちである。そして「千葉街道(JR総武線の南側を平行に走る道)を、死体を積み上げた荷車が毎日毎日、後から後から通って行った。こもに巻いた死体を積み上げて台形になった荷車が錦糸町の方に続いていく様子が目に焼き付いている」という。実はこの大量の焼死体は錦糸公園などを掘って一時的に埋めた(江東区参照)。その公園の北側に接していた精工舎に通っていた生徒たちは、雨の日の翌日にその死体から出てくるリンが燃えるのをよく見かけたという。これはたまに墓場に見られるといういわゆる人魂である。こうした体験をした人たちは50年以上経っても、TVなどで戦禍の様子を見ると体や肌に痛みを感じるという。当時は慣れて無感覚に受け止めていたはずが、あってはならない悲惨な出来事として心の奥深く刻み込まれているということである。

 その後も東京へのいわゆる大空襲は三度あり(小刻みには9ヶ月で122回)、3月には硫黄島の陥落、6月には3ヶ月続いて20万人(うち半数が民間人)の死者を出した沖縄で日本軍が降伏し、そのようなすでに敗戦が濃厚な中でも軍政府はなおも残り少ない男性を徴兵していたことは、生徒たちが出征する中年の教師をお別れ会をして、外は焦土となった校門まで見送ったと語っていることからわかる。

 『江戸川区:戦災・空襲体験証言集』の中に一つの証言がある。これは昭和19年に第七高女に入学した生徒たちの国語を担当した教師(松本先生)に、後年、18年の卒業生(吉本栄子)が区のカルチャーセンターの短歌教室で出会ったことから、証言集の情報を得ようと、その教師に問いかけ、そして三人の生徒の死が語られた。

 —— 当日(3月9日)、私(松本)は偶然宿直で学校にいたが、クラスで一番背の小さい中原淑子は、クラブ活動で遅くまで残っていたようで、「先生、私が夕ごはんの支度をします」と申し出てくれ、うれしかったことを覚えている。それがその子の人生の最後になるとは。歌が好きで、将来は歌の勉強をしたいと言っていた。吾嬬町請地から通学していたが、姉さんが二人いて、一家全滅だったそうです。もう一人の工藤妙子も一家全滅で消息不明。本所堅川町から通い、姉さんが三年生にいて、お父さんは獣医だった。もう一人、林〇〇もあの夜限りで音信が絶たれた。なお天尾美子という生徒が空襲の体験集を送ってきた。(以下は吉本が抜書きしたその一部の内容である)

 —— (火を逃れて飛び込んだ川の)水の中は、自分がどこまでも沈んで行くような気持ちがした。息苦しくなり、このまま死ぬのかと思われたが、頭のどこかで「じっとしていれば必ず水面に浮かぶ」と考えた時、顔が水の上に出た。きな臭い空気をいっぱい吸い込んで、目の前に浮かんだ丸太に必死にしがみついてよじ上った。…… いつの間にか私は一人ぼっちになり家族も誰も見当たらなかった。丸太につかまりながら江東橋の下を流れていた。左手に三中(現・両国高校)が見えていて、その一階の窓から火が吹き出ていて、その火は二階、三階に上って行った。水面には力尽きた死体があちこちに浮かんでいた。火は両眼で激しく燃え続け、川面に熱風を吹きつけた。まるで空気そのものが焼けているようだった。…… 真赤な夜が明け、大きな舟が近づいてきて、一人一人を引き上げてくれた。「姉ちゃん、よく助かったな」と言って船頭さんが私の手を取って引き上げてくれた。目が開けられない程痛く、びしょ濡れの身体に寒さがしみてガタガタとふるえた。燃え残りの火のそばで衣服を乾かしていた時、父が「お母さん、可哀想なことをした… 」と言って涙を浮かべ、私は初めて母が溺れて死んだことを知った。感情が麻痺していた私は涙もでなかった。祖父も亡くなり、(煙でやられて)目の見えない姉と父と私は、重い足を引きずって駒形橋の親戚の家に向かって行った。道路や焼け跡の家のあちこちに赤黒く焼けた遺体がいっぱいで、地獄かと思った。

 数日後、姉と学校へ行った。学校は焼け残っていたが、校舎の中は被災者でいっぱいだった。担任の松本先生(上記)が来て、「大変だったわね」とおっしゃって、硯と墨を下さった。その時急に悲しくなって初めて涙がポロポロとこぼれた。体育の高村先生も亡くなられ、クラスの友だちも三人亡くなった。焼け出されて行方の知れない方もあり、学校へ来る方は少なくなって五クラスが二クラスに減った。私は今まであまり戦災の話をしなかったが、それはあまりにも苦しく、どんなに語ってもこの体験を言いつくし得ないからで、二度と戦争の体験を綴ることのない世の中になることを祈ってやまない。

 ちなみに避難所となった第七高女を利用した人の話が同じ「空襲体験証言集」に載っている。

 —— 当時私は13歳だった。小学校三年生の妹は山形に疎開し、家には父と母、17歳の兄、4歳と2歳の弟がいた。火が迫り、父が先に逃げろと言って、母が2歳の弟を背負い、兄が4歳の弟を背負って5人で火の粉の飛んでくる中を必死に逃げた。母がおぶっている弟の背中に火の粉が着き、それをもみ消しながら歩いて行った。小松川橋に着いた時、兄と4歳の弟がいなかった。でも二人を探す余裕などなかった。小松川第二小学校に避難しようとしたが、学校のシャッターは降ろされて入れなかった。仕方なく荒川の土手の下に避難した。

 夜が明けると第七高女と小松川警察署の一角が残っているだけだった。私たちが入れなかった小松川第二小学校も燃えていた。小松川橋に戻る途中、まっぱだかの子供がたくさん死んでいた。その時はなぜ裸で逃げたのだろうと思ったが、服が焼けていたのだった。警察で目を洗ってもらい、第七高女で炊き出しをもらうように言われ、行くとおにぎりや乾パンをもらい、家に戻ってみた。もちろん焼けていたが、女学校にいる、と消し炭で書いた木札を立てておいたら、それを見た父が学校にやってきて、その後兄も来た。またその後、亀戸に住んでいた伯父もやってきて、逃げる途中で祖母を見失い、手をついて謝っていた。

 8月15日の終戦時には、疎開などで生徒の数は1/10に減っていたという。9月からの始業にもなかなか戻って来なかった。ただ、鉄道は車両も少なくなり、通学時に電車が満員でなかなか乗れず、級友が窓から引っ張り上げてくれたり、石炭の車両に乗ったこともあった。食料不足も深刻で、弁当を学校に持って来れない生徒もいて、学校の配慮で一時的に午後から休校にすることもあった。教科書もなく(軍国主義下の歴史や国語などの使用は禁止された)、先生によっては自宅の本を全部持ってきて読ませてくれたという。この時代の先生は本当に熱心だったと元生徒たちは口々に語っている。

 ちなみに、昭和15年(1940)あたりから英語は敵性語として文部省の指導で中止した学校も多いが、当校の英語の教師はそのため購買部の係りとされた。しかし上記座談の一人は父親の言いつけもあって、その先生にひそかに願い出て、英語の本を貸してもらい、ノートを新聞紙に包んで受け渡しをし、添削などしてもらった。この生徒はその後津田塾に進学し、当校の英語教師として戻ってきた。