(当時の背景はトップの「戦時下の大学・女学校の概説」参照)
東京家政大学(渡辺学園/渡辺高等女学校)
明治14年(1881)、渡邉辰五郎が本郷湯島の自宅に和洋裁縫伝習所を開設。25年(1892)、東京裁縫女学校と改称。41年(1908)に高等師範科を開設。大正11年(1922)高等師範科を東京女子専門学校と改称、これは裁縫を高等な学術技芸として教えるわが国最初の専門学校。昭和6年(1931)、東京裁縫女学校を渡辺女学校と改称。昭和16年の学制改革で渡辺高等女学校とする。戦後の昭和23年(1948)、渡辺高等女学校を母体として渡辺学園女子高等学校/中学校を設立。昭和24年、他の女子専門学校に先がけて東京家政大学及び別科を設置。女子中学・高等学校をそれぞれ東京家政大学附属とする。以下は主に『渡辺学園八十年史』から。
学園が50周年を迎えた昭和5年(1930)の翌6年に満州事変が勃発した。ここから昭和20年(1945)までいわゆる15年戦争が続く。とりわけ12年(1937)の日中戦争(支那事変=支那とは当時使われた中国への蔑称)突入から国際政治的にも日本は非難される立場となり、次第に孤立していくが、その分国内的には軍国主義体制が強化され、学校にも統制の波が押し寄せる。ただ、戦時体制に向けての国内産業育成のために女子も手に職をという流れで、女学校への志願者が増え、当学園も同様であった。
この日中戦争を契機として中学(男子校のこと)・高等女学校(いずれも5年制)の高学年から勤労奉仕が課され、特に夏休みに義務付けられた。学校では毎月1日を興亜(アジア興隆の意)奉公日として御真影(天皇皇后の写真)を掲げて遥拝し、教育勅語の奉読と校長の訓話があった。前線の兵士へ送る慰問袋や慰問文も女学生の役割であった。
16年(1941)12月8日、経済制裁を受けていた米英と決別し、米国の真珠湾奇襲攻撃と同時に東南アジアを植民地としていた英国やオランダにも宣戦布告し、マレーシア・インドネシアにも侵攻、太平洋戦争が始まる。この同じ12月に大学と専門学校に対して翌年の3月に卒業予定の学生生徒を三ヶ月の繰上げ卒業させた。この目的は学生の間は徴兵猶予されている男子を早く卒業させて応召させることであり、女子に対しては男手が不足する中、就労させるためである。学園は専門学校が対象で、高女は対象外であった。翌17年には半年の繰上げで9月卒業となる。
物資不足は次第に深刻になって、17年1月に衣料に点数切符制が導入され、学園の和洋裁縫関係は材料に事欠くようになり、古着を再生する「更正服」が奨励され、毛糸の材料も少なくなり代用品が作られ、「戦時衣服展覧会」が開催されたりするようになる。
学校の授業内容にも錬成とか修練の名の下に心身の鍛錬が課され、長距離の競歩や耐寒訓練が行われた。学園としては箱根の仙石原に錬成寮を開き、一週間の交代で生徒が通った。鍛錬のための峠越えもあったが、食料不足も深刻であったから周囲を開墾し、野菜作りにも精を出し、夜間は座禅や精神講話があった。
また「学校ではガス節約のためにストーブは禁止され」と年史にあるが、この時代に学校にガスストーブはあまり普及していず、またどの学校も金属製のストーブは金属供出と言って、武器や戦闘機製造のために金属製品は軍政府に取り上げられていたから(門扉や窓枠もそうであるが、家庭の余分な鍋釜、寺院の梵鐘、学校の創業者の銅像も対象であった)、理由はそのためと思われる。
17年から学校の生徒たちも次第に勤労動員が義務付けられ、夏休み以外に年間30日が課された。しかし18年になると「学徒戦時動員体制確立要綱」が発せられ、勤労動員を「教育実践の一環」として年間三分の一の授業を動員に当てるとされ、さらにこの年の秋には男子の徴兵猶予制度が解除され、20歳になった学生たちを一挙に戦場に送ることになった。さらに19年明けには「緊急学徒勤労動員方策要綱」が発せられ、「勤労即教育」という名目で、通年動員が基本となった。
学園の勤労先は川崎芝浦電気、北辰電気、日本電気、桜金属、三共製薬、小西六写真工業、板橋凸版印刷、三菱製鋼、陸軍赤羽被服本廠第一陸軍造兵廠などであり、「真空管の組み立てあるいは旋盤を回し、ハンマーを振り、火薬の詰め込みから軍衣の縫製等軍需生産に粉骨砕身して協力した」とある。ただ一週間に一度登校日が設けられ、授業を受けたがそれも次第にできなくなった。またこうした動員の合間に滝野川の錦華寮にあるテニスコートを耕し芋や野菜を作ったという。
19年(1944)の11月下旬から米軍は満を持して本格的空襲を始めた。満を持してとは、6−7月に日本の占領するサイパン島などを陥落させ、それらの飛行場を整備し、そして日本への爆撃用に開発して量産した長距離大型爆撃機B29を大量に配置してのことである。
そこで学園でも校庭に防空壕が掘られ、大事な図書とピコミシンなどを土蔵に収めたという。そして20年3月9日から日付が変わるころ、300機を超えるB29が来襲、無数の焼夷弾を落とし、折からの強風に煽られて下町三区を中心にして焼き尽くされ、学園でも予想して理事長以下、職員4人、輪番の学生19名、用務員夫妻計25名が水槽その他あらゆる容器に水を満たし、消火栓のホースも使えるように用意していたが、次々と迫り来る火の勢いにはとてもかなわず、校舎は全焼した。土蔵は残ったが、数万冊の蔵書と百数十台のミシンは灰燼と化した。守備隊は無事であったが、この日だけで8万数千人がほぼ焼死するという世界戦史上最大の空襲犠牲者が出た。自宅で亡くなったり火傷を負った生徒も少なくなかったはずであるが、記録にはない。
ちなみに男子大学は、学生のままの徴兵も多くあって、特攻隊員も含めてその戦死者を数え上げている場合が多い(主に50年後からの調査)。しかし多くの女子校は、学校の被災状況は細かく記しているが、自校生徒の戦災死者がどれだけいたか調べていない(江東区の都立深川高校参照)。ただ、なぜ男子大学も数十年後からかと言えば、大学の出征記録や女子校の軍需工場への勤労動員記録は、終戦直後に占領軍の調査を恐れて文部省が焼却の指示を出し、残っていなかったからである(動員記録は都に提出し、学校に控えもあったはずで、その両方がない)。当然各市町村の出征、戦死記録もそうであり(残されたのは全国でわずか20の村のみ)、軍自身の内外の戦時記録も終戦直前から(軍は事前に降伏の情報を得ていて)焼却した。この戦争を「聖戦」と呼び、戦死者を「英霊」としたが、それらはなかったことにされたのである。女生徒達が勝利を信じて必死に労働した証も消された。
この大空襲を機に、退学や田舎に疎開する生徒も増え、教職員も同様に次々といなくなったが、この空襲の結果を見て軍政府は「決戦非常措置要綱」を発し、小学生を除いて学校の授業は一年間停止すると通達した。その上で勤労動員を全面的に継続するということであった。一方で学園はわずかに残る授業の機会を逃さないように本郷追分町の東京第二師範学校(後の学芸大学につながる)の教室を借り受け、錦華寮の和室をも仮教室とした。6月に少ない新入生の入学式をこの寮で行った。
5月に戦時教育令が公布され、学校に学徒隊の組織を指示するが、これは「本土決戦」に備えるもので、学生・生徒たちもその時には兵士になって戦えというものである。実際に女生徒に竹槍訓練などさせている。男子生徒には仮の銃剣の訓練であったが、本物はすでに周りになかったと言っていい。この時期はまた沖縄に米軍が上陸し、大激戦が展開されているところであり、6月下旬には陥落し、敵味方と住民約20万人が戦死した。このようにすでに多くの犠牲者を出し、誰しも敗戦は濃厚の気配を感じていたが、それでも続けようとしたのは軍の意地やプライドというものであろうか、ここからさらに海外の戦地でも多くの犠牲者を出し、国内でも空爆が続けられ、最終的に広島、長崎に原爆が投下され、この二日でさらに21万人の犠牲者が出るまで降伏という選択ができなかった(その前の7/26に連合国はポツダム宣言を発し日本に全面降伏を求めたが軍政府は無視した。実はその10日ほど前に米国は原爆を開発し終えたばかりで、日本が降伏を拒否するのは実地実験に好都合であった)。指導者たちはどういう精神状態でいたのか、そこには国民のことなどほとんど頭になかったのではないのか、そのどこまでも国民の気持ちに立てない為政者を持ったことにわれわれの不幸はあったであろう。そしてやっと8月15日に無条件降伏で敗戦が決まった。
文部省は終戦を受けて9月中旬までに授業を再開するように通達し、通達することは簡単であるが、学院もまだ疎開から戻れない生徒も多くいて、15日から寮を改修し、第二師範の仮教室と合わせて二部交代制で工夫しつつスタートした。9月30日には専門学校の繰上げ卒業をしたが、不足している学力を補充するため、三ヶ月の補習授業を行なった。
問題は焼失した学校をどうするかであったが、様々な案のうち、現在地にあった荒れた第二陸軍造兵廠跡を譲り受け、改修しつつ移設することになった。その一部は占領軍GHQの貨物集積場とされ、正門もなく不便を強いられたが、その後返還され、十年以上かけて新校舎を増築し、現在の形となった。
淑徳中学・高等学校(淑徳高等女学校)
明治25年(1892)尼僧・輪島聞声が淑徳女学校として、東京小石川伝通院の境内に創立。明治34年、浄土宗の宗立校となる。明治39年(1906)高等女学校令により淑徳高等女学校となる。昭和20年(1945)空襲で校舎が全焼、主に巣鴨女子商業(現・淑徳巣鴨高等学校)で授業を再開、21年に現校地の板橋区前野町に移転。小石川は小石川淑徳高等女学校(現・小石川淑徳中学・高等学校)として残る。23年、戦後の学制改革で淑徳中学校・淑徳高等学校となった。正式には大乗淑徳学園。
当校には昭和17年(1942)、太平洋戦争突入の翌年に発行した『淑徳五十年史』が残っていて、ちょうど戦時下の学校事情が詳しく記されているので、簡略に転記する。
<軍への協力体制>
まず「満州事変、支那事変、大東亜戦争の相継いで勃発するや学校教育についても百八十度の急展開を示し国策樹立、大東亜教育の指導精神確立など実に従来曽てみざる推進力をもって旧勢力の打破と新興勢力の逆睹しがたいものがあった。本校にてもこれら国策の一線に直往邁進して遺憾なきを期せられた」とある。
昭和6年(1931)満州事変が起こるが、ここより昭和12年の支那事変(日中戦争)までの記述はあまりない。ただ、昭和6、7、12年に陸軍へ戦闘機「愛国女学生号」を、11年に海軍へ「報国女学生号」を献納しているとあり、これは全国規模で行うもので、この報告は他の女学校でも見られる。現代からすれば戦闘機の軍への献納など考えられないが、当時は軍というのは絶対的な存在で、ただ日本の国は裕福ではなく、予算も限られていたからであろう。そして日本軍は「皇軍」であって、皇軍が行う戦争は正義の戦争と国民は徹底的に教え込まれていた。また当時の女学校(小学校卒業後の五年制)は比較的余裕のある家庭の子が通っていて、そのこともこうした献納を強いられた要因であったろう。一般の貧困家庭(当時は貧困家庭が多かった)では女子は小学校までが普通であり、その上は二年制の高等小学校、あるいは商業学校までがせいぜいであった。ただし昭和時代に入って進学する子供は次第に増えつつあり、都内の公私立女学校の新設も増えていた。
こうした献納のほか、献金活動も女学校では盛んに行われ、満州事変の年には新聞社を通じて満州派遣軍への慰問金、あるいは兵士への慰問袋を作り、その中に日用品や菓子や雑誌や慰問状を入れるなどしてやはり新聞社を通じて送った。新聞社はそれを記事にして取り上げるから戦意高揚への相乗効果があった。こうした献金や慰問袋はその後も続けられ、国防献金などの名前もあり、慰問袋は陸海軍別々に千個単位になっている。昭和12年に日中戦争が始まってからは献金活動はさらに強化され、毎週月曜日に献金し、それを月単位で陸海軍に持参、寄贈とあるが、そのために「全職員生徒をして勤倹節約を実行せしめ、その節約金を拠出し恤兵慰問等に充て之を事変中連続的に実行せられつつある」としている。
このほか出征兵士の家庭への慰問、また軍需品(軍服の肩章や傷病兵の白衣など)を生徒たちの手で製作するが(授業時間を割いて行う)、その軍からの謝礼金はそのまま軍へ献金されるとある。日中戦争開始から国民精神総動員運動が起こされていて、昭和13年、経済強調週間も実施され、学校でもその報告が義務付けられた。その内容は「衣類は靴下に及ぶまで手入れ修繕をし、容易に廃品としない/衣類の新調は不可/紙類の節約/家庭における金属類、革製品、毛織物、紙の分類回収/廃物を集めて夏休み明けに持参すること」などであった。
<防空防火体制>
満州事変2年後の昭和8年(1933)関東地区の防空演習が行われ、当校も防火班詰所として提供した。それに順じて当校でも防空・防火演習が行われるようになった。昭和12年の日中戦争が開始された年には防空法が制定され、それにより各学校に特設防護団が近隣地区と連携して作られ、積極的に訓練を行うようになった。この年には実際に焼夷弾を校庭に投下して、その消火訓練も行われた(焼夷弾訓練はその後も継続して行われている)。さらに13年9月9日に「防毒マスク製作講習開始」、15日には「本校正門に毒ガス弾投下せらりたりとの想定で防空演習を行う」とある。
この時期に毒ガス訓練とは異様に思われるが、実は日本軍は日中戦争開始から即座に中国内の都市に空爆を始めていて、それが悪天候以外止むことはなかった。日中戦争で毒ガス弾を使うのはしばらく後であるが、それ以前に満州の抗日軍相手に使っていた。だから敵国も国内に空爆を行うようになれば当然毒ガス弾を使ってくるとの想定によるものであろう。この後、他の女学校の勤労動員の仕事の中に、防毒マスクの工場へ通っている事実もあるし、それよりもこの防毒マスクは学校によっては女学生にまで配布されていたようで、米軍による空襲時に防毒マスクを肩にかけて逃げたとの記述もいくつかある(当校では鉄かぶとも多数購入している)。ただし米軍は空襲では毒ガス弾を使っていないが、それを使おうと使わなかろうと、空爆下の惨状は変わることはなかった。このほか特に女学生に対し、傷病者に対する救護班も特別警備隊の中に結成され、その訓練が行われていた。
<多くの行事と勤労奉仕>
この一方で学校では行事が多くなる。国民精神総動員運動に伴い、昭和13年(1938)10月、「銃後後援強化週間」が実施され、祈願の日(戦勝祈願・国威宣揚・出征軍人武運長久・傷痍軍人の平癒のために白山神社参拝)、慰霊の日(本校関係者戦没軍人への墓参、靖国神社参拝、東京私立女学校主催の慰霊祭参加)、慰問の日(本校関係者出征遺族への慰問と慰問品贈呈など)、このほか軍人への感謝の日、堅忍持久の日(日常生活の節制、日の丸弁当持参)、国民強化の日(遺族の名誉認識と事変に関する訓話)などがあったが、その中に隣保相扶の日というものがあり、それは海軍遡江部隊への慰問品作製とあり、これは当時中国の長江(揚子江)の奥へ海軍が遡行していくのを応援しようとするものであろうか。
昭和14年には毎月1日が興亜奉公日と定められ、この日は全国民がこぞって戦場にある軍人兵士の労苦をしのび、自粛自省の気持を日常生活のうえであらわすこととされ、この日は国旗掲揚・宮城遥拝の式を行い、その後神社へ参拝した。昭和16年(1941)12月8日の太平洋戦争突入以降、翌年から興亜奉公日を廃し、米英に宣戦布告した毎月8日を大詔奉戴日とし、「皇国の興隆と東亜の興廃とを決すべき大東亜戦争の展開に伴い国民運動の方途また画期的なる一大進展を要請せらるるを以て……挙国戦争の完遂の源泉たらしむる日」として開戦の詔書奉読式、神社・寺院での必勝祈願などが行われた。なお、食事は一汁一菜とし、児童生徒の弁当は日の丸弁当とすることが求められた。
一方で13年の夏休みから集団的勤労作業が当局より推進され、それは「実践的精神教育の一方法として心身を鍛錬し国民的性格を練成せしむる」というものであった。しばらくは夏休みや春休みを利用して行われ、明治神宮や宮城(皇居)外苑での整備作業、兵器工場での勤労奉仕をした。この後、特に上級生が勤労奉仕に駆り出され、夏休みは夏期鍛錬期とされ、母子寮など社会施設への奉仕、陸軍被覆廠・兵器補給廠などへの勤労、また学内では軍服の襟章3万個の作製などもあった。
17年(1942)11月に勤労報国隊が結成され、それまでの勤労奉仕は勤労動員に変えられていく。
<淑徳農場>
昭和12年の日中戦争開始の頃から食糧不足が深刻になってきた。軍隊への優先的な食糧供給と農村の男性が召集されたりして生産力が落ちてきたこともあるが、この時期日本の人口も増えていた。政府は各学校へ農場を持つように奨励し、当校でも16年、下井草の土地を借り受け、教師生徒による開墾作業が始められた。慣れない労働でみんなの手には血豆ができたりした。この年の農作業への出動は41回、延べ6千人以上であった。15年にはジャガイモ、タマネギ、大根、さつま芋、蕎麦など多くの収穫があった。その後も耕作面積を増やしていった。
ここまでは昭和17年発行の『淑徳五十年史』からで、これ以降の20年までのことは戦後に発行された学校史には詳しくなく、生徒側に立った内容も見れない。詳しいのは戦災で校舎が全焼し、板橋区に移転するまでの二転三転した経緯であるが、ここでは取り上げない。
大東文化大学(大東文化学園)
大東文化大学の前身である大正12年(1923)、帝国議会の決議によって東洋の文化を基礎として新しい日本文化の創造を図ろうとする目的で大東文化協会を設立、その下に大東文化学院(本科・高等科、旧制専門学校)が設置された(国策的に設立された私学の例としては他に拓殖大学がある)。戦後に新制大学に移行、昭和36年(1961)、池袋から板橋区志村に移転。以下は主に『大東文化大学五十年史』、『歩んできた道(九十年史)』より。
<大陸での活躍>
大東はその設立の経緯からして、漢学と中国文化の研究に力が置かれたが、そのことが昭和6年(1931)の満州事変から12年(1937)の日中戦争(支那事変)に突入するに至って、多くの人材を大陸に送り込むことになる。ただその事変前の昭和5年から外務省対支文化事業部(支とは支那のことで当時の中国の蔑称)によって全国の大学・高等専門学校の学生から選抜して北京に留学生として派遣され、その中には大東の学生もいて、この留学は15年(1940)まで続けられた。同時期に学内の学生寮に同志が集う形で会を作り、いわゆる北支満蒙(中国北部と満州蒙古地区)に向けて雄飛する日のために研鑽した。満州事変の翌年、日本の関東軍の傀儡政権である満州国が成立し、その官吏養成機関として新京(長春)に大同学院が設立され、早速学生たちは留学生として次々と渡満して行った。
この留学生の中には帝大生(当時の日本は東京帝国大学他7校があった)の割合が一番多かったが、この第二期の大東の学生が宣言文と趣意書を作成、卒業式で読み上げた。宣言文には「我等は建国宣言に則り…胸奥の大慈悲心を喚起して…搾取なき道義社会の正義に立ちて…満州国内に於ける民族問題を絶対平等の立場より解決せんとす…」とあり、趣意書には「満州建国の精神は、満蒙三千万民衆の上に搾取なき王道自治の楽土を建設すると共に五族(日・漢・朝・満・蒙を指す)平等の上に立ちて…日本が負える平和確立の使命を…以って世界人類の将来に光明有らしめんとするに在り」と理想に燃えるものであった。
ただ、こうした背景は日本が満州を実質的に植民地としたことにあるが、理想を追う学生としては「欧米の桎梏の下にあったアジア諸民族と盟約し、アジア永遠の繁栄のために貢献すること」という夢にかけた。しかし彼らの志とは違って、この満州事変から日中戦争を経て、それらの日本の動きが国際社会の非難を呼び、米欧からの経済制裁受け始め、そこから日本はさらに米欧他を相手として16年(1941)12月に太平洋戦争(軍政府の呼称は大東亜戦争)という泥沼の戦争に入り込んでいき(これらを含めて15年戦争と呼ぶ)、満州のみならず日本の国内外で悲惨な結果を生んでいく。
いずれにしろ当面は日本の占領政策を支援・補完する形で学生たちは行動することになる。12年(1937)の日中戦争以降、日本軍は北京に中華民国臨時政府を作り、やはりその官吏養成学校として新民学院を設立したが、ここにも大東から留学生が押し寄せ、第二期の14年には各大学からも合わせて125名となっている。そしてこの学校に満州大同学院の卒業生が教師として赴任してきたり、ここを卒業してやはり中国内各地の大学・学校の教師となったり、政府系の各種要職に就いたりしている。昭和16年明けの時点で北京地域で活躍する大東人は約40名となっている。ただ、この一方で戦争は継続しており、卒業後は研究生として残らなければそのまま徴兵に取られ、前線に行って戦死したものがこれらの中で何人かいたようである。
<戦時下の学内体制>
昭和16年(1941)2月、それまでの校舎が手狭になってきたため池袋に移転したが、この時の学生募集ポスターの写真が五十年史に載っていて、その中の言葉は「興亜人材養成」、「国体精神明微」、「東洋文化専攻」、「大陸経営人材育成」等とあり、学校は「憂国の至情に溢れる熱血の士は満蒙支の大陸各地に進出、建学精神の顕現に身命を賭して活躍」という雰囲気の中にあった。
ただ国内の学校としての実情は他校と同じで、この16年から学友会が解散され学校報国団として組織され、それに準じて軍隊式の報国隊が結成され、これによって勤労動員体制が作られる。12月の太平洋戦争突入と同時に3ヶ月の繰り上げ卒業があり、翌7年には半年の繰り上げ卒業となり、その分早く男子は戦線に送られ、女子は男性不足の労働現場に送られた。17年には学徒勤労動員例が発令され夏休みなどを主にして勤労動員が課されるようになり、18年(1943)半ばから本格化した。その秋に学生の徴兵猶予制度が解除され、20歳以上の学生は卒業を待たずに徴兵されることになり、10月21日に神宮外苑競技場で盛大な学徒出陣壮行会が行われた(東京都の「大学と戦争」の項参照)。学徒出陣は文系が主で、大東は文系であったため学生数は激減、さらに19年からは勤労動員は通年となったので、学内は閑散とした。その翌年は徴兵年齢が19歳に下げられ、次々と召集令状が来ることになる。残った低学年生に対しても、配属将校による軍事教練が増やされ、合同授業も行われるようになった。その上、食糧不足で学校に配給される食券も足りず、栄養不良の学生も増えてきた。
<勤労動員と出征>
大東の勤労動員先は当初は製靴工場、ドラム缶工場、鋳物工場であったが、19年に入ると昭和電工、浦賀ドッグ、横浜自動車であった。浦賀ドッグでは鋼板の切断、鋲打ち、溶接も慣れない手つきで寮で合宿しながら行った。その動員先に教授たちもきて論語の講義を受けたりした。海軍の工場なので、比較的食事は良く、また軍艦を直接扱うということでやりがいのある作業であったという。ただ、月に一度は特高警察による抜き打ちの所持品検査があり、読みたい本があっても読めなかった。登校日は月に一度とされていたが、それも難しい状態であった。この他には食料増産のためとして農繁期などに千葉県の4ヶ所の村に泊まり込みで何度も行っているが、貯水池の土木作業もあった。
川崎市の昭和電工は爆薬のための硝酸アンモニウム製造が主で、高熱の炉の管理であったが、ここの食事は芋や雑炊で貧しかった。しかし11月から始まった米軍の空襲で早くも寮が焼けてしまったが、工場は助かり、20年春まで続けられた。慣れてくると昼夜交代となった。他校の学生もいたが、米軍の捕虜も数名いた。この米軍の捕虜とは、おそらく早いうちのフィリピンなどの戦線で連れてこられたものたちであろうか。B29爆撃機をたまに日本の戦闘機が追撃して撃ち落とし、落下傘で降下してきた米兵を捕虜とすることもあったが、記録上では刑務所に入れられたままが多い。
こうした勤労動員に従事している間に、一人また一人と召集令状が来て寮から去って行った。生きて帰れる保証はなく、彼らは「悠久の大義に生きんと悲壮な決意を固めて」(一学生の日記より)まずは指定された軍に入営していった。悠久の大義に生きるとは、当時の東条英機首相が戦陣訓や学徒出陣壮行会の訓示でも使った言葉で、天照大神を始祖とする歴代の天皇は永遠にこの国を統率する崇高なる存在であり、その天皇に忠義を尽くすことが大義の道であり、その大義に生きるとは、この皇国に事がある時には喜んで天皇の御盾となってその身命を捧げることということになる。そして東条の言う「進め悠久大義の道 敵米英学徒を圧倒せよ」となる。
実はこのような言葉は学生・若者の思考力を奪う効果があり、戦時下に発せられたスローガン「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」から始まって終盤の「神国日本」「一億玉砕」「本土決戦」もそうであった。さらにこの戦争は聖戦であり、戦死すれば英霊とされ、反発したくてもむやみに戦場に駆り出される学生たちも、出撃前には「悠久の大義に生きる」という言葉にすがるしかなかった。
一方で簡単にこうした言葉を使って若者を駆り立てた東条は、戦後占領軍GHQによって戦犯として逮捕されるときに自決しようとしたが失敗したことからわかるように、自分が国民を戦争に導いたという自覚も責任感もない人間であって、しかしこうした人間たちこそがこれらの言葉を安易に繰り返すことができ、時流を作り、戦争を簡単に始めてしまうのである。
20年(1945)になると都内の工場は空襲で危ないとして、群馬県太田の中島飛行機工場と前橋の理研工業(ピストン)に動員された。中島飛行機は武蔵野にもあって、そこは真っ先に空爆の対象となり、春までには破壊され尽くしていた。理研工業には新入学生が集められ、すでに4月13日に池袋の校舎が全焼したあとで、工場で入学式が行われた。ただし、各学年の始業式はそれ以前に池袋で行われている。
ところが終戦の前日の8月14日の深夜、埼玉県熊谷を中心にした最後の大空襲があり、理研工業の大東の学生たちは警報で避難命令が出され、倉庫に逃げていたが焼夷弾によって燃えかかった民家を消し止めているうちに自分たちの寄宿舎の方が真っ赤に燃え上がり、その方角から「助けてー!」という若い女性の声が何度も聞こえてきた。しかし駆けつけた消防車と数十人の人影はその声に応えた動きをしていず、自分たちも駆けつけようとしたが雨と降る焼夷弾に遮られ、悲痛な思いに沈んだという。本来、連合軍のポツダム宣言を受け入れて全面降伏するという通知は8月10日(長崎への原爆投下の翌日)に送られていた。しかし米軍兵士たちは正式に15日の天皇による終戦の詔勅が報じられるまでその手を緩めなかった。またこの空襲の帰りがけの15日未明にB29が、最後っ屁のように奥多摩に爆弾を落とし、民家を燃やしている例がある。
<校舎焼失と戦後の復興>
予想される米軍の空襲に備えて19年(1944)半ばより大事な漢学の蔵書を安全な場所に移す作業が始められた。学内の地下室は適さないことがわかり、近隣の所沢の土蔵を借りることになったが、その容量が大きくなく、異論があったがやむ得なしとして放置された。他校では山梨や長野に移している例がある。
20年3月10日に世界戦史上最大の犠牲者を出した大空襲のあと、4月13日深夜に東京への二度目の大空襲があった。この日は宿直の教職員の他に10数名の防護団の学生たちも学内に待機していた。まずは当直の教師が御真影(天皇・皇后の写真)を守って避難し、学生たちは重要書類を自分たちで掘った防空壕に入れて避難した。しかし図書館も含めて4年前に完成した校舎の全てが焼失した。図書館に残る大量の蔵書も、ある教授から寄贈された蔵書数万冊も灰になった。書籍のピラミッド形の灰の山が6、7ヶ所等間隔に並んでいたという。
学校の当面の代替地として、当時大東の総長であった酒井忠正伯爵(もとが国策学校のゆえ、2年おきぐらいに主に政界から総長が交代でやってきた)からその邸の一角を借り受けることになった。終戦までは在校生も少ないのでここで授業を受けることもできたが、帰還してくる学生が増えるに連れ、天気の良い日は庭園の中で授業を行うこともあった。その後、葛飾区の青砥に大日本機械の訓練養成所が空いているとのことでそこを取得し、21年2月に移転した。なお、このころ酒井忠正伯爵と、第一代総長の平沼騏一郎が戦時下に政府の要職にあった関係で、戦犯として拘留されたが、のちに二人とも釈放された。
戦後もさらに食糧事情は悪く、主食の配給は「脱脂大豆の粉、ダニ入りの赤砂糖、トウモロコシの粉などで、小麦粉の団子など寮の食堂では上等の部に入った」ほどで、「一時は二階へ上がる階段にさえ息の切れる状態となった」。そこで葛飾の農家からなんとか芋を調達してきたが、今度は燃料が何もなく、仕方なく寮の天井板をはがして燃料にし、最後には天井なしの大部屋で寒さがこたえたという笑い話が年史に記載されている。
占領連合軍GHQの指導による学制改革に合わせてそれまでの大東文化学院専門学校を正規の大学への昇格を申請したが、「大東」の校名が戦時を思わせて(大東亜に通じるため)ふさわしくない、校舎の環境が好ましくない、図書館の設備がないなどで一度は却下された。そこで校名を東京文政大学とする、校舎は元の池袋に戻す等の条件でなんとか24年(1949)に認可された(ちなみに拓殖大学もその名前では認可されず、校名を一時「紅陵」とした)。青砥校舎の売却金と同窓会の寄付によって10月にとりあえず一棟の池袋校舎が新築され、28年(1953)に校名を元に戻した。
なお、「大東生の戦時下の生活、本学における学徒出陣や教員を含む戦没者の全容等は今なお明らかでなく、課題となって残されている」と当学のウェブサイトにある。これはほぼどこの大学も同様で、調べようにも記録や資料が残されていないとしている。それでも主な大学は戦後50年から70年ごろまでに学徒出陣を中心とする戦没者を長い年月をかけて調べ上げているし、拓殖大学(文京区参照)も戦没者の全名簿を年史にリストアップしているし、その専任担当を置き、いまだに新しい戦没者が判明するとその増補版を出している。
なぜ、大学の出征記録や女子校の軍需工場への勤労動員記録などが残っていないのか、終戦(敗戦)が決まるとすぐに、占領軍の調査を恐れて文部省が焼却の指示を出し、残っていなかったからである(勤労動員記録は都に提出し、学校に控えもあったはずで、その両方がない)。これは内外の軍事関係全般にわたっていて、当然各市町村の出征、戦死記録もそうであり(残されたのは全国でわずか20の村のみ)、軍内では事前に降伏の情報を得ていた部署では8月10日すぎから記録を焼却した。この戦争を「聖戦」と呼び、軍を「皇軍」、戦死者を「英霊」としたが、それらはなかったこと、いなかったことにされたのである。そしてなぜ多くの大学の追跡調査がほぼ50年前後からかなのか、それは国民自身も悪夢のような戦争を忘れたかったこと、そこから日本が経済的に復興し、精神的に過去を振り返る余裕ができるまで数十年以上かかったからである。そしてその間に世代がかわり、戦時の記録が焼却されてしまっていたこと自体も、忘れ去られていたわけである。
