葛飾区の女学校

(当時の背景はトップの「戦時下の大学・女学校の概説」参照)

共栄学園(共栄女子商業学校)

 昭和8年(1933年)岡野弘・さく夫妻が南葛飾郡本田町立石に本田裁縫女塾を開設。14年(1939)本田裁縫女子学校として認可。17年(1942)お花茶屋の現校地に移転し、本田裁縫女学校を共栄女子商業学校と改称。戦後の昭和21年(1946)共栄高等女学校を開校、その翌年、学制改革に伴い共栄学園中学校を設置、翌年には高等学校も設置(女子校)。なお葛飾区は戦災が少なく、学校などの焼失は、葛飾小学校が半焼した程度である。

 共栄学園の年史などには戦時下の記載はないようであるが、『少女たちの戦争』(日本経済評論社:1987年、木村礎)という本があり、そこには戦時下の女学生の体験がまとめられていて、以下はほぼそこから抄出し簡略にまとめたものである。これは後年、木村が数十年後のクラス会などで当時の生徒たちと交流ができ、それによってまとめられたものである。

 著者の木村礎(もとい)は若くして体育教師として共栄女子商業学校に赴任した。学校の事務員はやっていたが、教師としての経験はほぼないし、資格も得ていなかったが、戦時下の教員不足などの背景もあって、昭和18年(1943)12月、太平洋戦争の最中に共栄女子商業の二年生(生徒はほぼ14歳で年齢差は5歳であった)の担任となった。また木村は一方で明治大学の夜間部に通っていた。

 この18年の半ばから当時の中等学校以上の生徒に勤労動員が課せられたが、まだ年間のうちの一定期間であった。そして戦況の悪化と共に19年の春から勤労動員は本格的になり、授業の時間はほとんど削減され、学生・生徒たちは軍需工場へ通うことになる。これは若い男性を中心に戦争の前線に送られ、軍需工場への労働力が決定的に不足していたからである。19年には木村の同年輩の男性はほぼすべて徴兵されていなくなり、木村へはまだ赤紙(召集令状)が届いていない状態であった。

 共栄女子では当初三甲ゴム(後の岡田ゴム)という手榴弾のカバーと防毒マスクを作っている工場に通っていたが、まもなくその工場の一部が学校に移設され、生徒たちは学校内の工場の作業にも従事していた。19年(1944)の夏休みに入るころ、共栄の三年生以上は学徒勤労動員として分散して軍需工場に通うことになった(一、二年生はまだ授業が継続された)。その工場とは三甲ゴムと那須アルミ(後の日本軽金属)と日本工範(計量器工場で消滅)であった。こうした場合、他校では学年別あるいはクラス別に分けられて工場に通うが、共栄では、通勤の無駄を考えて地域別に分けられ、およそ60人の三グループを作った。それぞれ教師も引率として配置されるが、木村のグループは学校から最も遠い新小岩の那須アルミであった。

 那須アルミでの仕事は航空機の燃料タンク製造で、アルミ板の接続部分にエアハンマーでリベットを打ち込むものであった。終日の立ち仕事で元来男子の仕事であった。三輪田高女からも動員されていたが、身体が弱く小さい者は座り込んで板磨きをやった。不良品を出すと飛行機が墜落するから生徒たちは緊張して仕事に励んだ。この時期どこでもそうであるが、「神風」と染め抜いた鉢巻を額に巻いて仕事に向かった。この神風とは特攻隊のことではなく、最後には神風が吹いて日本は勝つと信じてのものである。別の工場では「突撃」の文字があった。木村は学校では女生徒をよく怒鳴りつけていたが、工場では生徒たちが心配で、とてもできなかった。

 那須アルミは大工場で、演芸会や運動会も開かれ、名の知れた芸能人の慰問もあった。昼食も貧しいものではなく、おやつも配給され、それを弟妹のために持ち帰る子もいた。秋めいてくると、アルミの材料が減ってきて、暇が出てきた。おそらく南方からの船が沈められて材料が届かないようだった。木村は戦局が不利になっていることを感じたが、それでも日本は必ず巻き返して勝つと信じていた。国民の誰もがそう思っていた。その頃、サイパン・グアム島が陥落し、米軍はそこに大型爆撃機B29を配備し、日本本土への空襲を準備していた。

 月に一、二度登校日があり、その日は連絡事項の確認などで勉強はせず、女生徒たちは話に花が咲き、笑い合い、歌を斉唱したりして過ごした。その中でも食糧増産のために田植えや畑の農作業で、せっかくの登校日が潰される日もあった。勤労動員には給料が支払われていたが、その中から授業料が天引され、残りは半ば強制的に貯金にされ(それは軍事費に回される)、生徒の手元に残るのはわずかだったが、彼女たちの好きな甘い物などはどこにも売っていず(実は敗戦後になって軍事施設などからそうした食べ物や酒などがどっと出てくる)、使い道はあまりなかった。登校日は20年の春以降は消滅した。そこから二度と学校に戻れない生徒もいた。

 11月に入るとB29の偵察機がやってくるようになった。そしてその下旬から軍需工場などへの本格的空爆が始まった。そこから生徒の中にも地方に疎開するものが出てきた。ただし疎開しても、その土地の軍需工場などに動員されることに変わりはなかった。年が明けると都心への空爆が激しくなった。工場では警報が鳴ると防空壕に入る日々が続いた。2月14日(注:原本では10日となっているが、資料からすると14日と思われる)夜、向島に住む生徒の家の近くに500kg爆弾が落とされ、10軒ほどが吹き飛ばされ、その家の人々はほとんど全滅した。その他生徒たちにも大小の被害が続いたが、木村は召集がいつになるか気持ちが定まらないまま、大学の夜間部に通っていた。

 ある朝、工場に来た職長クラスのベテランの人の顔面から血の気が失せているのを見た。前夜の爆撃で彼の一家は全滅したという。彼にかける言葉もなかった。その直後、彼のもとに赤紙が来た。何度目かの応召だったようである。そして木村にも赤紙が来た。2月20日、群馬県沼田の部隊に入営した。3月9日深夜、寝込んでいる最中に非常呼集がかかり、一斉に飛び起き、軍装を整え、待機した。しばらくすると南側の窓が明るくなってきた。沼田は山間の町なので赤い帯が横に広がって見えたが、やがて東京方面であることがわかった。しかし何の情報もなく、再び就寝した。11日あたりから情報が飛び交い、赴援隊が一個中隊ほど編成され出かけて行った。木村は選ばれなかったが、一週間ほどして赴援隊は戻ってきた。しかし尋ねても箝口令がしかれて彼らは黙したままで、一様に暗い顔をしていた。後に彼らは死体清掃に行ったことがわかった。数日後父から手紙が届き、小松川の自宅が焼かれたことがわかった。その後木村に幹部候補生の試験を受けるかどうかの問いかけがあり、資格はあったが木村は消極的な理由を言って断った。すると「非国民」扱いをされ、古参兵にぶん殴られる生活が続き、高崎の部隊へ転属となった。

 この3月10日大空襲の日、下町に住む学校の生徒たちも一様に被害にあった。その中の一人、大島に住む斎藤瑠璃子の母は喫茶店を持ち、家には洋楽のレコードがたくさんあり、しかしこの戦時下で店は閉鎖され、レコードは見つからないように隠されていた。瑠璃子はそれまでに姉とともにたくさんの歌を覚え、クラスメートにも教え、動員中の工場でも人気者だった。当日、出征している兄たちを除いて家族は8人が家にいたが、母が寝ている彼女を起こした。着替えて外に出ると、すでに周囲には多数の焼夷弾が落とされていた。強い北風が吹き荒れる中、南へ逃げたが早くも祖父と兄の姿がなかった。小名木川の新開橋を渡った時には母と上の弟がいなかった。砂町に入ったところに大きな煉瓦工場があり、その厚い塀に4人で身を寄せていると、その塀が強風に煽られて倒れ、父が下敷きになって死亡、その一瞬前に父は背中の下の弟を手放したが、弟は飛ばされまいと必死で電柱にしがみつき、そのまま火にあぶられて死んだ。瑠璃子も姉とともに強風に飛ばされたが、二人は抱き合って地面を転び、さらに逃げたが行き場を失い、火の中を右往左往しているうちに姉が防火用水を探し当てた。コンクリートの水槽の周囲は燃え上がっていたが、二人は水槽の水をかけ合い、それでもすぐに乾いてしまい、交代で水槽に飛び込んだ。二人はずぶ濡れになって朝を迎えた。周囲は燃え落ち、二人は助かった。

 周囲を見回すと着衣のない死体がごろごろしていて、新開橋の下は死体の山だった。小名木川にも死体が浮かび、それがずっと先まで見えた。二人はとぼとぼと歩いて自宅の焼け跡に立ち、家族が戻るのを待った。兄だけが戻ってきた。火がおさまると軍隊が入ってきて、死体をトラックに積み上げていた。兄と姉がレンガ塀のところまで行くと、兵士が父の死体を運んでいるところで、私の父だというと死体を返してくれた。6歳になる弟の死体も近くにあった(注:他の証言では、返してくれなかったケースが多い)。二人の死体は近くのコークス工場で荼毘に付し、骨は味噌がめや空き缶を拾って入れた。街の中で弟の骨がカタカタ鳴った。母たち三人の死体は見つからなかった。斎藤瑠璃子はその後しばらく記憶喪失状態になり、自分の名前も書けなかった。正気に戻ったころ、栃木県小山の伯母のもとに行った。手には弟の骨が入った空き缶を下げていた(注:この空き缶は野坂昭如の『火垂るの墓』を思い起こさせる。野坂は神戸の戦災で死んだ妹の骨を空き缶に入れて持ち歩いていた)。しばらく後に小岩に家を借り、祖母、兄、姉と一緒に住んだ。やっと落ち着いた瑠璃子は、動員先の那須アルミへ戻った。

 また3月10日に家を焼かれていったん田舎に疎開しながら東京に戻り、そこから父親と引越した先で4月と5月と6月の三度、つまり4回焼け出された生徒もいるが詳しい話は割愛する。

 今一人、井出本清子の家は被災しなかったが、空襲後、病気の妹が死にかけていた。空襲のゴタゴタで医者も来ず、弟と一緒に柴又の病院まで行き、「先生助けてください」と一時間ほど叫び続けたが、病院の門はついに開かなかず、妹は死んだ。葬式もできず、父が大八車に妹の遺体をのせ、焼場に行った。東京はもうだめだと、父の故郷の広島に一家7人で疎開した。東京駅を発ったのは4月1日だったが、戦時下の混乱で着いたのが3日の夜だった。人の紹介で広島の陸軍病院第二分院で薬室調剤助手として白衣を着た。挨拶は軍隊式であった。8月1日、清子は市内の第二分院から、市街地から北方にある戸坂分院(小学校内)に転属になった。

 6日の朝、8時10分を少し過ぎた頃、所用で同僚と外に出ていた。直後に巨大な閃光が走り、恐ろしい轟音がきた。何が起こったのか誰もわからなかったが、不安を抱えたまま仕事を始めた。30分ほどして患者が次々とやってきた。それは近辺の人でガラスの破片が刺さったとかまだ軽傷の人たちであった。そして患者は次から次へとやってきて、診療室ではとても間に合わず、小学校の机を炎天下の校庭に持ち出して並べ、それを手術台とした。時間の経過とともに患者の姿は異様なものに変わってきた。髪はチリチリに焼け縮み、目玉がピンポン玉のように飛び出している人々、口が風船のように大きく膨らんでいる人々、また衣服が焼けてほとんど丸裸で、皮がむけて雑巾のようにぶら下がっている人々。軽傷者たちは外に出され、重傷者たちばかりになった。軍医や看護婦のやり方を見習って、井出本清子も焼けただれ、引きずっている肉や皮をメスで切り落とし、そこに薬を塗り込んだ。しかしやがて薬が切れてきた。

 患者たちは例外なく水を欲しがった。軍医は「水はダメだ。傷口が悪化する」と止めたが、清子は「もうすぐ死ぬのに水をやらないのは酷だ」と思い、あり合わせの容器で水を飲ませた。彼らは目でありがとうと言い、やがて死んだ。雑踏の中で清子は悲鳴のように自分の名を呼ぶ女性の声を聞いた。寄ってみると誰だかわからない。どなたですかと聞くと、つい一週間前まで陸軍病院で一緒に働いていた仲のいい同僚だった。彼女の顔は皮がむけ、骨が露出していた。清子はその友達を抱きしめ、ここまでくれば大丈夫よと励ましたが、やがて死んだ。うめき声は夜になっても、次の日もそして何日も続いた。軍医以下、誰もがフラフラであった。清子は患者たちを見ていて、これでは惨めすぎると思い、疎開している家からなけなしの衣類を抱えて病院に戻り、特に女性の患者にそれを一枚ずつ着せた。戸板(へさか)の村人たちも救援に駆けつけ、炊き出しなどをしてくれ、浴衣などの衣類も集まるようになってきた。

 井出本清子は今でもつらく罪悪感に駆られることがある。彼女は白衣を着て看護にあたっていたから、患者たちは看護婦と思っており、そう呼ばれていた。そして側によると、ほとんどの人が、自分はどこそこのこういう者だが、ここにいることを誰々に知らせてほしい、また若い人は母親に知らせてくださいということだった。しかし彼女は修羅場の中にいたから、それをメモする余裕などなかった。そして今でも死んでいった人々に詫び、自分を責めていた。

 終戦の日、生徒たちは勤労動員先の工場や、疎開先の動員工場などで天皇の放送を聞いた。当時のラジオは雑音が多くよくわからなかったようであるが、まさか敗戦になるとは誰もが思っていなかった。呆然とし、これからどうなるのだろうと思うが、空襲がもうない、電気がつけられる、ゆっくり寝られるという思いが増したとは、多くの人が語っている。9月から学校が再開されることになったが、三年前の昭和17年4月に入学した生徒はおよそ180人、19年7月の勤労動員に出た数もほぼ同じで、この20年9月の再開時に帰ってきた生徒はおよそ50人で激減していた。その後疎開先から遅れて復学する生徒もいて、21年の卒業時は90人で、ほぼ半数となった。他の半数はついに学校に戻らず、消息のわかる者は数名だった。

 木村は原隊から9月に復員して栃木県壬生にいた。兄二人は出征したまま戻っていず(その後長兄の戦死を知る)しばらくぶらぶらしていて共栄に復職した。小松川の家は焼失していたので、つてがあって二階の部屋を借り、そこへ母と妹を呼び、そのうち次兄がフィリピンから戻ってきた。その間、明治大学に復学の手続きに行ったところ、一度軍に入営していた関係で、特別措置として卒業したことになっていた。その上に中等教員免許までもらい、大喜びした。木村は同じ学年(この時は4年生)の担任となったが、かつて三クラスが一クラスに縮小していた。一年以上の空白の間にいろんな苦難を潜り抜けてきた生徒たちが大人びていたのに木村は戸惑った。休み時間に生徒たちは木村のために、その頃流行った「りんごの歌」を歌ってくれ、新鮮な思いで「平和」を感じた。

 生徒たちには仮住まいの東京の西の外れから数時間かけて通うものもいた。少しでも勉強を取り戻すためと友達に会いたいためであった。そんなある日の午後、広島で死んだと思われていた井出本清子が学校に帰ってきた。木村は女性教師がその名を呼ぶ声に耳を疑い、実際に彼女が近づいてくる姿を見て目を疑った。「生きていたのか!」としか言えなかった。

 21年3月下旬の卒業式、校長の型通りの式辞の後、副校長(校長の妻)がついと前に出て、「皆さんは一番可哀想な人たちでしたね。戦争で苦労しましたね。学校は何もしてあげられなくて」と言った。副校長は礼儀作法に厳しく、口やかましい古風な女性であったが、その言葉で式場がざわめきだし、しくしく泣き始める生徒も出てきた。「仰げば尊し」の斉唱となり、ピアノが鳴った。ところが泣き声と歌声が入り混じり、歌にならない。木村は「泣くな、歌え」と怒鳴りつけるが、一時は歌らしくなってもすぐに泣き声に変わり、それは次第に高まり、みんながおいおいと声をあげて泣いた。ピアノも止まった。木村は「教室に戻しましょう」と校長に言い、生徒を教室に戻した。式場の床には涙の列が並んでいた。生徒たちは戦時下、各地でバラバラになったが、それぞれの地で頑張って生き抜き、その中で共通の辛い人生体験があったわけである。