目黒区の大学・女学校

(共通の背景としてはトップの「戦時下の大学・女学校の概説」を参照)

東京工業大学

 明治14年(1881) 東京職工学校を台東区蔵前に設立、23年東京工業学校、さらに東京高等工業学校と改称。大正12年(1923)に関東大震災で罹災し、翌年校舎を目黒区大岡山へ移転。昭和4年(1929)東京工業大学となる。東京工業大学は、2024年10月に東京医科歯科大学と統合し、東京科学大学(Science Tokyo)となった。以下は主に『東京工業大学百年史』より。

 一般の大学と違って、東工大は規模は大きくなかったが、戦時体制下、軍事技術的な必要から独自の立場に置かれていた。昭和12年(1937)に日中戦争に突入後、各航空機会社は急速に規模を拡大し、技術者を求めていた。すでに東大や九州大の工学部に航空工学科があったが、東工大も遅ればせに14年航空機工学科が新設された。並行して資源化学研究所、精密機械研究所の設置、翌年、化学工学科、建築学科の中に防空建築学、その翌年には金属工学科、燃料工学科が新設、19年(1944)には電子工学研究所が設置された。他の文系の学部学科が「不要不急」として削減される中、東工大は増勢にあった。

 日本の満州や中国への侵攻による軍事帝国主義化に対して経済制裁を行ってきた米英を敵国として、「決戦」体制を築きつつあった昭和16年(1941)、軍需物資増産の労働力確保のため、軍政府は各学校に報国団を作らせ、学生生徒をそれまでの勤労奉仕から勤労動員させることにした。それに伴い東工大生も学友会を奉誠会と改称し、その理念を「皇道に基づきて心身一体の修練を計り、徳操の涵養に勉め自我功利の思想を排し以って報国精神に一貫する風を確定」するとし、この組織に中に報国隊を結成した。まずは農作業や夏休みを使っての工場勤務等比較的軽いものであったが、この年の12月8日に日本は真珠湾奇襲攻撃を行い、太平洋戦争に突入した。これを日米戦争と呼ばない理由は、これとほぼ同時に石油等の資源を求めてインドネシアなどの東南アジアに侵攻し、植民地支配していた英蘭とも戦ったからで、時の軍政府は大東亜戦争と呼んだ。

 昭和18年(1943)、戦線の拡大と激化により、大学・専門学校生に対し徴兵猶予を解除、徴兵年齢も引き下げてさらに半年の繰り上げ卒業を決定し、10月下旬、神宮外苑をはじめとして全国で出陣学徒壮行会を行い、文系学生を主な対象として戦線に送った。理工系学生は猶予のままであったが、勤労動員は強化された。

 19年に入ると軍政府は「緊急学徒勤労動員方策要綱」を閣議決定し、恒常的な動員体制を敷くことにし、理工系も「専門技術をもって生産現場との一体化を図る」として、陸軍燃料研究所や海軍技術研究所に動員され、さらにそれまで大学に残っていた低学年生も「このままでは日本は負けるに決まっている。すぐに工場に行って国家の役に立たなければならない」という学長の訓示の下、東京陸軍造兵廠に動員された。それも北浦和の陸軍の寮を宿舎として工場に通い、週に一度だけ大岡山の大学に通うという変則体制となった。このほか燃料工学科や応用化学科の学生の場合は戦時研究補助員として陸軍燃料研究所、海軍技術研究所に動員されるが、補助員は本来の研究から外れたものでないだけに恵まれたといえる。

 大学の学部とは別に、19年に3年制の付属工業専門部が設置された。他の文系高等部が定員を三分の一に削減されたり統合される中、理工系技術者養成が急務として認可され(九州大学工学部と共に)、募集すると徴兵猶予の制度を目指して一万人もの受験生が押し寄せたが、合格者は300人であった。開校は5月で科目は機械科、電気(通信)科、航空機科、金属工業科、化学工業科であったが、早期養成のため、集中的なカリキュラムで行われた。そのため、学部生たちが勤労動員に駆り出されている中、この一期生は唯一学生らしい生活を満喫できたという。

 しかし翌20年に入ってきた二期生は悪化した戦況の中で一期生とともにすぐに勤労動員体制に組み込まれた。中島飛行機工場や陸海軍の研究所もあったが、芝浦埠頭での荷役作業もあった。さらには群馬県の化学工場にも動員され、化学的素材の生産に従事し、伊香保温泉を宿舎とした。夜に付き添いの助手により幾らかの授業を受けるだけであった。この二期生は7月末になって長野県飯田の多摩川精機の工場に集められ、そこで初めて入学式が行われた。それが同時に工場への入所式であったが、昼間は航空機関係の計器の製造に従事し、夜間に授業を受ける生活が始まったが、その二週間後に終戦となった。ところが、終戦の年末にこの専門部は(目的の戦争が終わったとして)廃止との通知が文部省より届き、学生たちは反対運動を起こし、九大の専門部とも連携したが、虚しく終わった。23年に二期生が卒業して専門部はなくなったが、改めて試験を受けて100名以上が学部に進んだ。

 昭和19年の11月下旬から米軍の本格的空襲が始まるが、それを想定して19年4月、大学は職員と学生で自衛消防隊(防護挺身隊)を結成し、昼夜の別なく住み込みで消火活動が行える体制を整えた。5月25日夜(東工大の年史荷は24日と書かれている場合もある)、米軍のB29爆撃機による焼夷弾の波状攻撃を受け、大岡山北口方面が被害に遭った。東工大の木造の建物がほぼ焼失した。航空機工学の風洞実験室やか各科の実験室や研究室も被弾、防護挺身隊の努力によって一時は消火に成功したものの、度重なる攻撃に抗いきれず最終的には全焼。「大和寮」と呼ばれた学生宿舎も焼失し、隊員の家財や当時の資料は全て失われた。ただ、昭和9年に完成した堅牢な本館は残った。実はこの本館は白亜の色であったが、空爆を避けるため、黒く塗り替えられていた。その後、東工大の敷地内に落ちた焼夷弾の残骸を、学生と教師で拾い集めた。その写真が残っている。ただし、4月には「建物疎開」として延焼を防ぐため大学の木造建築の取り壊しが決まっていて、周辺の住宅も含め建物は壊され始めていた。これを受けて、各研究室は地方への疎開を行い始めていて研究室によって、栃木県や長野県、福島県などへ疎開を始めていた。図書館の蔵書はそれ以前に一部を長野県に疎開させていた。

 東工大の学生が動員から解放され、大岡山キャンパスに帰されたのは20年7月末のことであった。講義は5月の空襲で焼失を免れた本館を中心に再開された。 これは「おそらく敗色濃厚な機運の中、わずかでも大学生らしい生活を体験させようとする大学当局の配慮であった」と百年史では記されているが、筆者の判断では、この大学の動員先がほぼ軍直属の軍需産業の中心部にあって、近々の敗戦が予測されていたからでないかと思われる。つまりその7月26日に日本は連合国より無条件降伏というポツダム宣言を受け、軍の内部ではもはやこれまでという判断がなされていたのではなかろうか。でなければ「補助研究員」たちを軍が途中で帰すわけがない。事実、他の学校ではこういう例は見ていない。あくまで世論や軍の若手たちはポツダム宣言何するものぞと血気盛んであった。

 8月15日、天皇の終戦の詔勅により敗戦が決定、ただし、10日には連合国にポツダム宣言受諾の通知を連合国に送っていて、まだ国民は知らず、米軍も正式ではないとして空爆を続けていた。東工大の戦死者に関する資料は筆者が調べた範囲では見当たらないが、18年の学徒出陣で誰も召集を受けなかったわけではなく、学内での壮行会の写真も年史に残されている。また卒業生も技術将校として応召しているはずであるが、それも不明である。

<東工大余話>

 1945年8月15日、東工大の学生の多くは、大岡山キャンパスで、日本が戦争に負けたことを知らせる玉音放送を聴いた。本館の中庭にラジオを出し、皆で集まって聴いていた。当時の様子について、東工大の名誉教授であり、戦時中、旧日本軍が米国本土攻撃に使った風船爆弾を製造する際に用いたこんにゃくのりの研究に従事した畑敏雄による日記から。

 —— 詔書の放送を聞く。学生諸君は教室に帰って半日泣きくらしていた。この時先生だけは午后から登校せられて、今までの強要せられた研究を心を偽って学生に与えたことの苦痛を語り、これからが本来の我々の研究だと勝利したもののような高揚を以て僕の部屋へ来て話された。噫、我又何をか云わんや。戦時研究員に指名された時のあの誇らしさ。軍嘱託、軍依託に対する欲望の強さ。しかも学生、助手に対する指導性の皆無。思想や人生観の如何に拘らず戦時には戦時の平和時には平和時の科学者の責務がある筈ではなかったか。さらにこの歴史的な瞬時に論理を超絶した感動に心をふるわす純情を持ち合わせては居られないのか。(「東工大学生を中心に活動する学生団体」のサイトから)

 以下は東工大のリベラルアーツ研究教育院の多久和理実のエッセー「消されたはずなのに残った電流計」からの要約である。

 明治大学生田キャンパスにある平和教育登戸研究所資料館に保存されている電流計は、1945年5月に東京芝浦電気(現・東芝)によって製造された直流電流計で、東工大の倉庫から発見されたものという。この電流計は、東工大関係者が第二次世界大戦中に特殊兵器の開発に関わっていたことを間接的に示す証拠である。これは戦後東工大に所属した登戸研究所関係者が残したもので、長野県松川村で使っていたものとのこと。電流計の表面には「タ63」と書かれている。「タ」の文字は、特殊兵器の中でも風船爆弾や電波兵器を開発していた陸軍登戸研究所第一科(後に移転して多摩陸軍技術研究所と呼ばれた)で使用された機材の目印である。研究所の第一科は、1945年3月までに風船爆弾の開発と打ち上げを終えた後、松川村に疎開した。陸軍登戸研究所の研究内容は軍の内部でも秘密となっており、敗戦と同時に研究所の存在自体を隠滅するように通達が出た。明治大学生田キャンパスは、歴史から消された軍事研究所の疎開前の本拠地があった場所であり、今では当時の建物が平和教育登戸研究所資料館として保存されている。

 消されたはずの軍事研究所の機材が、なぜ東工大の中から出てきたのか。電流計を当時の井上助教授から託されて寄贈した登戸研究所資料館の研究員渡辺賢二の説明も加える。

 秘密戦兵器の開発に携わっていた研究者たちは、戦後に各地の大学で職を得た。当時は実験機器が貴重だったので、混乱に乗じて機器を持ち出し、新しい職場に持ち込んで使っていた。軍事研究所の機材が大学から見つかる事例は、東工大に限らず、稀にある。「誰がどのように電流計を東工大に持ち込んだのか」についての調査はほぼ闇の中だった。そもそも東工大の誰が陸軍登戸研究所に関わっていたのかわからない。東工大関係者の中には、こんにゃく糊研究で知られる畑敏雄、セラミックス研究で知られる河嶋千尋、合成ゴム研究で知られる神原周のように、陸軍登戸研究所からの委託研究を行ったことを回想録として書き残した研究者もいる。しかし戦争中の兵器開発について具体的に言及した回想がなかなか見つからない。詳しく調査すると登戸研究所資料館に1944年7月に東工大教授の森田清の名前があり、その森田の教え子のの末武国弘の回想が見つかり、末武は特別研究生として森田がB29を撃墜するためのロケットを開発するのを手伝ったという。1945年3月10日の東京大空襲の後に、森田研究室は長野県松川村に疎開した。そこには風船爆弾の開発に当たった大槻少佐の研究室もあった。疎開先に届いた研究機材を開いて、いよいよ研究を開始しようとした翌日に終戦の8月15日を迎えたという。翌朝、大槻少佐は末武に、自分の研究室にある軍の機密のものは焼却するが、電気部品などは皆東京工大に寄贈するから、今後の復興に役立てなさいと言われた。

 その頃、松川小学校の校庭から煙が上がっており、軍関係の機材を焼却しているとの知らせに、同小学校へ行き、担当の中本少佐に、大槻少佐のところから沢山部品を頂いたのですが、もったいないので、焼却するのを止めて東京工大に寄贈して頂きたいと末武が申し出たところ、いきなり軍刀を抜いて「そこになおれ!この非常時になんたることを云うか」と詰め寄られたが、その場にいた大槻少佐が止めてくれた。続いて引き揚げ準備の梱包をしている最中にアメリカ軍がジープでやってきたが、森田がアメリカ軍と英語で渡り合ったおかげで何も取られずに済んだ。森田研究室の人々は、幾多の困難を乗り越えて、松川村で使われていた機材を東工大に持ち帰った。

 電流計は、森田研究室の人々が持ち帰ったものかもしれないが詳しくはわからない。この電流計が1945年から1994年までの約50年間処分されずに残ったのは驚くべきことで、井上助教授が電流計を発見して研究者の渡辺に託したこと、渡辺が地元の高校生たちと一緒に約15年間保管して、2010年に明治大学が資料館を設立したときに寄贈したことなど、様々なめぐり合わせが重なって、現代の私たちに見える形で残った。特に兵器開発のような「負の歴史」は、容易に消されてしまう。東工大における負の歴史は、兵器開発のような軍事目的の研究だけではない。大学関係者が水俣病の原因と被害拡大を作ったという公害の歴史も、語りたくない負の歴史に該当するだろう。

 次に同じ多久和理実のエッセー「臭い兵器にまつわる回想」からの要約である。

 神原周は高分子化学の研究者として、東工大に40年間勤めた。神原は民生技術を中心に活躍した人物で「負の記憶」などないように見えるかもしれない。偶然資料館で神原の回想録『爽やかに ほどほどに』を目にし、閲覧したところ、神原が陸軍登戸研究所で悪臭を放つ液体を作ったことなどが書かれていた。

 —— (軍から命令された)硬質ゴムの研究などはまだ良い方で、もっとひどい研究をやらされた。毒ガスでなくてよいから、世界で一番くさいものをつくれ、そのうすい溶液をふりまくとそれが人間の皮膚や毛にしみこみ、その物すごい悪臭がいくら洗ってもとれなくなるようなものを作れと言う課題である。……登戸の帰りの電車の中でも皆が「くさい、くさい、何んだ、何んだ」と大騒ぎになる。しばらくは研究室に立てこもり、外出もできなかった。(この臭い物質はうすい溶液にして中国の戦線にはこび、延安のゲリラ戦にも役立ったそうである)

 —— 終戦直後、一緒にこれらの秘密研究をした多勢の技術将校が自決してなくなられた。中には私の協力態度が悪いと言って非国民扱いし、ビンタを食わせた人もおり、また東大出身の立派な非常に頭の良い方で、よく私をかばってくれた方もいる。それら多勢の方がつぎつぎと自決している。登戸の研究所も多くの資料を焼きすてて解散した。いずれ東京裁判に引き出されて、戦犯として銃殺されるものと覚悟をきめていたが、幸い私はチンピラの下っぱとして粉骨砕身しただけで表には名も出ず、命拾いすることができた。

 —— そのころ、東工大の中のあちこちでサッカリンやズルチンを合成し、それをヤミ屋におろして小金を稼ぐ悪習がはびこり、中にはヒロポンの合成までやったものもいたが、私はいっさいそれに手を貸さずに頑張り通した。このことは私の一生に汚点を残さずにすんだと、今でも快く思っている。まともな実験をしたくとも薬品もそろわず、器具も壊れたままで弱っていたが、たまたま戦争中の軍需工場で風船爆弾の原料とした過酸化水素とヒドラジンが保土谷化学の倉庫に残っているということを聞き、何か使い道があるなら幾らでも持って行きなさい、という話であった。(そして神原は「たまたま」風船爆弾の原料を譲ってもらって大学に持ち込んだという)

 このほか、神原は登戸研究所では東條英機の名の辞令で、戦時特別研究員と云う役目を仰せつかり、登戸の先きにあった秘密の研究所にかり出され、そこで「水から石油をつくれ」と云う命令を受けたという。

 以下、多久和理実のコメントである。

 神原の場合、終戦翌年の1946年に「自分の中に鬱積していた数々の老廃物を吐瀉し、排泄したい」という気持ちで書籍を出版した。「軍部と科学技術」と題した節では、軍部の秘密主義や、卒業生を大量採用したことによる技術将校の氾濫、嘱託研究者の協力によって得た成果の占有などを厳しく批判している。そして終戦から42年経過してから神原はやっと、自身の81歳を祝うために集まった弟子たちに贈る小冊子として、具体的な戦争体験を語ることを決心した。

 語りたくない「負の記憶」が言葉として発信されるまでには、時間がかかる。神原の場合には42年かかったし、前回のエッセイで紹介した森田清の弟子の末武国弘の場合には50年かかった。他に風船爆弾開発の回想を書き残した畑敏雄の場合には32年かかった。このように重い記憶を自分の中で受け止めて、昇華して発信できる形にするまでには、何十年というスケールの時間がかかる。

 筆者注:この多久和の「何十年というスケールの時間」については、戦時下の体験の大半がそうなのであり、各大学の戦時下の調査も1990年前後からであり、(加害も被害も含めて)空襲や戦争の前線における体験がまともに出てくるのも同様であった。そして今だにそうした体験が掘り出されているのは、どれほどにこの昭和の戦争の禍根が根深いものであったかを物語っている。

駒場高等学校(旧・第三高等女学校)

 明治35年(1902)東京府立第三高等女学校を旧麻布区に開校。昭和21年(1946)戦渦により現在の目黒区大橋に移転。25年(1950)東京都立駒場高等学校と校名を変更し男女共学とする。戦前は白鷗・竹早高等女学校とともに中等女子教育の名門と評されていた。以下は『創立百周年記念誌』より。ただし、この記念誌は主に卒業生を中心とした回想や記録から構成されていて、それに準じた記述となる。なお、当時の高等女学校は五年制で現在の中学校と高校2年までにあたり、2年までが高等科、3−5年が本科とされた。卒業は4年まででもでき、その後専門学校に行くこともできたが、女性には大学の道はなかった。また女学校へ行ける女性は比較的余裕のある家庭の場合であったが、この時代は義務教育は小学校までであり、小学校卒業後には別に二年制の高等小学校への道もあり、女子はこちらへの進学が多かったようである。それでも男女共に高等小学校へも通えない貧乏な家庭も少なくなかった。

 昭和4年(1929)、前年からの不況で街には失業者が溢れ、抗議活動が行われ、大学卒業者の就職難も深刻(東大卒の就職率30%)となる。さらにこの年の10月、アメリカ合衆国で起きた金融恐慌が世界中を巻き込み世界恐慌となって、5年に日本にもおよび、昭和恐慌となった。それにより当時の農家の主力産業であった米国向けの輸出生糸の価格が暴落し、ついで米の価格が暴落、農家の生活を直撃した。昭和6年(1931)、東北地方が凶作となり、恐慌の影響もあって、農家の困窮は一層深刻化し、欠食児童や婦女子の身売りが大きな社会問題になった。またこれにより農家の次男、三男は安定した軍隊に入るものが増えた。この影響は昭和10年まで続いた。こうした中でこの6年9月、中国東北部の満州に駐留する日本の関東軍は柳条湖事件を起こして満州事変となり、日本はそれまで一部を租借地としていた満州を占領。そして昭和12年(1937)には日中戦争、16年には太平洋戦争を起こし、20年の敗戦まで、14年間の長期にわたって戦争状態が続く。これはアジア・太平洋戦争とも15年戦争とも言われる。

 以下は沿革史からの抽出である。

〇 昭和10年:本校生徒の定員を1200名とする。/それぞれの学年が関西と東北地方と九州へ修学旅行(当時の修学旅行は女学校最大の楽しみで、ほぼ10日間の日程であった)

〇 昭和11年:与謝野晶子の講演会/二・二六事件で東京は戒厳令/ベルリンオリンピックの映画会(水泳の前畑秀子が金メダル)/国際オリンピック委員会(IOC)総会で、昭和15年開催の第5回冬季オリンピックを札幌で開催することが決定、続いて4月、第12回オリンピック大会を東京で開催すると決定するが、日中戦争の拡大と国際的非難により2年後に返上する。

〇 昭和12年:歌人、土屋文明の講演会/海軍に関する講演と映画会/日中戦争(支那事変)開始/陸軍依頼の慰問袋調整/防空演習/出征者の慰問帳簿作成/焼夷弾演習/軍被服廠委託の裁縫

〇 昭和13年:軍需品製作/海軍・陸軍への慰問袋/本校関係の出征兵士の遺骨を迎える/北海道修学旅行/ごま塩弁当開始/出征家族生徒の東宝観劇会/支那事変一周年記念式典/集団勤労作業/慰問文1040通を陸軍省へ、1210通を海軍省へ/本校教諭二名の応召歓送式を行い、東京駅や上野駅まで見送る/五万人合唱に参加/代用品(物資不足による)展覧会見学/国民精神作興に関する詔書奉読式

〇 昭和14年:歌人、佐々木信綱の講演会/「青少年学徒に賜りたる勅語」の奉唱式/同窓会主催傷病兵士慰安会/慰問袋と慰問文多数寄贈/夏休み前の終業式後に防空演習/夏休みに集団勤労奉仕/九州修学旅行/三鷹村に新設した農園作業開始

〇 昭和15年:全校遠足(鍛錬のためとして遠足が多くなる)/短期旅行(箱根・伊香保・東北・日光)、長期旅行(関西・北海道)/夏季休暇は校内勤労作業、農園作業、富士・駒ヶ岳登山、水泳練習/紀元(皇紀=神話上の神武天皇が即位したとされる年から)2600年奉祝記念運動会

〇 昭和16年:第三高女に夜間学校設置/耐寒訓練、耐暑訓練として早足、駆け足で行う。遠足も強歩で/5年生が3日間の聖地(皇室関連施設で伊勢神宮も含まれる)巡礼。この年から修学旅行は禁止される/マフラー禁止、オーバーも控える/12月8日、太平洋戦争突入

〇 昭和17年:各地へ鍛錬遠足/4月、米軍機による本土初空襲/5年生が凸版印刷に勤労動員/夏休みは勤労動員で半分となる/聖地巡礼の名目で奈良・京都に三泊旅行

〇 昭和18年:陸軍省は戦意高揚の決戦標語「撃ちてし止まん」のポスターを5万枚作成/各学校に「特設防護団」が編成される/夏休みの自由参加行事として登山・水泳の合宿を実施/卒業生や就業していない14−25歳の女性に対し「女子勤労挺身隊」を編成/凸版印刷に勤労動員

〇 昭和19年:春より4−5年生が勤労動員、6月より3年生も勤労動員で東亜航空電機、日立航空機など/校舎が東亜航空電機の学校工場として使われ、生徒も勤労に従事/空襲に備えて縁故疎開が奨励される/11月24日、米軍による本土への本格的空襲が始まる。

〇 昭和20年:生徒にも防空宿直が交代で始まる/3月10日、東京大空襲/5月24日未明、城南大空襲で本校は体育館、仰光寮(元昭和皇后の成婚前の学問所)、奉安殿を残して校舎全焼、翌日焼け跡で朝礼。その深夜にまた空襲で体育館、仰光寮を宿直の教員による決死の消火作業/一週後、片付け作業開始、壕舎(教室の代替として)造成作業。その後体育館で日立製作所の軍需品作業開始/東洋永和(英和:戦時中は英の文字が敵国にあたるとして変えられていた)の教室を借りて授業開始/広島と長崎に原爆投下/8月15日、敗戦。天皇の終戦の詔勅をラジオで聞く。すすり泣く生徒あり/8月22日、一学期終業式。通知簿は「修練」の科目のみ/9月3日、二学期始業、体育館の更衣室を畳敷にして授業開始/(9月以降)壕舎埋戻し作業/卒業生の声楽家四家文子が来校、東洋永和で聴く/外地引き上げ、疎開、転学の生徒の転入学受付開始/分散授業の中、教科書の不適正な箇所に墨を塗る/占領軍GHQは修身、日本歴史、地理の教科の授業停止と教科書の回収命令。

 以下は満州事変が起きた年からの第三高女の生徒、その他の回想である。

 —— 昭和3年の春に第三に入学し、しばらくは平和な世の中が続き、楽しい毎日が輝いていた。まもなく満州事変のうねりは私たちの上にも押し寄せてきた。私達の同胞が遠い満州の地で戦い、傷つき、倒れ、戦場の露と消えて行くニュースが耳に入るたびにその恐ろしさと痛ましさに胸が塞がれた。やがて学校では全校あげて満州の兵隊さんに慰問袋を送ることになった。そこで私達はまるで遠足に行く前日ような気分で兵隊さんが喜んでくれるような品々を友達と歩いて買い集めた。煙草、ちり紙、石鹸、缶詰、チョコレート、紙風船、マスコット人形、そして慰問文を添えること、もうそれだけで手拭いを二つ折りにして作った慰問袋は一杯になり、学校で決められた1円近くの金額もオーバーしてしまった。それを受け取って喜んで下さる兵隊さんの、武運長久を願う祈りを込めた千個あまりの慰問袋は雨天体操場に山と積まれ、やがて戦場へと送られて行った。(西川光枝)

 —— 戦争中、都下の学校に先駆けて傷病兵の白衣縫いの奉仕をした。4年生の4クラスが講堂に集まってネルの厚い白衣を先生の指導で毎日縫った。厳しい軍隊の規則で針目の数まで決まっていたので何度も直されたり、期日に間にあわすため助け合って沢山縫い上げたこと、そのために三学期の授業はほとんどなく、通知簿にも成績がつかなかったように記憶している。考査のなくて嬉しかったのを思い出す。(森安子)

 —— 戦後一斉に一億総懺悔などと言われましたが、戦時中、私は反戦少女だった。2年生の時、日米開戦となり、軍事教練まがいの体操の時間、英語授業の廃止、変な(神話の)国史などで、もはやここは「学び舎」ではないと上級の聖心女子大学(当時は聖心女子学院高等専門学校)を受験して4年生から飛び級で入り、第三を出た。しかし私を育ててくれたのは第三であった。(後に政治家となる紀平悌子)

 —— 昭和17年、4年生の歴史の授業の先生は教科書を開かず、私達生徒は先生が黒板に書く文字を必死で書き写していった。教科書の第一章の内容は「肇国(建国)と国体」という皇国史観によるものであったが、その先生の内容は考古学であった。考古学の面白さや不思議さに魅せられたもののこれまで習った日本史との関わりはどうなのか、頭の中は混沌としていた。当時こうした授業をされることは大変勇気のいることであったろうが、そのうち(出征か何かで)先生が変わり教科書の授業に戻った。今思い出しても考古学の授業を受けたことを誇りに思っている。(斎藤博子)

 —— (昭和19年)最初の一週間、東亜航空電機まで行って働き、その後は第三の学校が工場となった。それは生徒にとってありがたいことだった(注:一般的に学校工場は低学年生が当たる。少しでも授業を確保するためである)。最初の工場では弁当も作業台の上だったり、外に出ても木陰もなかった。工場で聞こえるのは機械、やすり、ハンマーの音のみ。学校では休み時間も増え、時には音楽の時間もあり、作業中二階から音楽が流れて慰めてくれることもあったし、ピンポンやテニスもできたからこれで文句を言ったらばちが当たると思った。(和田幸子)

 (上と同じ工場)工場の仕事ではボール盤が面白く、本当に機械の中に精神が溶け込み、機械と一緒になって仕事ができた。できることならボール盤を幾台も学校に備え、機械の中で働きたい。ただ、工場の方は朝はすでに仕事を始めていて、帰りは私達はさっさと引き上げてしまうので何となく申し訳なかった。(村田喜久子)

 —— 私達も3年生以上が学業を捨て勤労動員された。3年生は東級だけが外の工場へ、あとの4級が学校の工場でだった。この頃から私達は自慢のセーラー服から野暮ったいへちま衿の制服、あるいは各自家庭で作った作業服で足にはゲートルの姿で通った。教室は作業場と化し、東亜航空の人が指導員として毎日詰め、人の頭くらいの発動機が沢山持ち込まれ、それを各人一つあてがわれて数種類のヤスリを使って滑らかに面取りする作業だった。これは女性向きの手仕事で結構面白く、また当時の私達は素直に愛国心を涵養され国策に順応協力していたので、勝つためのお役に立てばと、一つでも多くと夢中で励んだ。食料事情は極度に悪化し、何を食べて生きていたか覚えがない。(金井幸子)

 —— 私達のクラスはお芝居好きで講堂で紀平悌子(前出)さんが「虞美人草」を演じたり、お昼休みに教室の机を全部後ろに下げて大野靖子さん(後の高名な脚本家)作の芝居を上演したりした。(昭和20年)戦局は不穏になり私達5年生は学徒動員で三田の住友通信(後の日本電気)で働くことになった。それまでは内閣印刷局、凸版印刷、理研等も行き、学校工場もあった。住友通信では毎朝工場の両側には先生や工場の方々が挙手の礼などをして私達を迎えた。私達は防空服に身を包み、脚にゲートルを巻いていた。私は行員さんと二人で黙々と計器の電圧を計る仕事をした。(大友千恵子)

 —— 何と!「防空上の聴覚を養う為」という理由で、音楽の授業には絶対音感の訓練が取り入れられ、三和音の練習に始まり、学校中に合唱ブームが起こっていた。音楽部の盛況は大変なもので、朝に昼に夕に歌歌歌の毎日、主として欧州各国の民謡、ホームソング、それに賛美歌からの翻案。一番の苦手はお作法で、武士道礼讃の70歳を過ぎた先生にしごかれたが、これが後に海外に出て役立った。(小野光子:後に東京芸術大学を卒業したソプラノ歌手)

 —— 英語の時間は少なくなり、体力作りが多くなった。有栖川公園を一周する、千米速行、重い砲丸を投げる、体力検定などをやらされた。家には防空壕ができ、大好きな第三の制服と本を風呂敷に包んで持ち歩いた。5年になって勤労動員が始まり住友通信(日本電気)で第二整備課企画係に配属されるが事務で仕事がなかった。本を読んだり童話を書いたりして仕事をしているふりをさせられた。そこは第三の溜まり場で、いろんな人が遊びに来た。(杉野渓子)

 —— 「空襲警報発令!」サイレンと号令と共に三菱重工下丸子工場の生徒は退避、胸には防空頭巾と缶に詰めた煎り米のほか、好きな言葉を書いたノートや家族の写真、そして合唱曲集などを入れた小さなカバンをしっかり抱いて。解除になり帰宅する途中、五反田駅付近に煙の上がっているのが見えた。爆弾が投下されたという。戦局の変化につれ、授業時間が短縮され、勤労動員の日が多くなった。学徒出陣した東京帝大の兄が逝ったので、それを機に一家で田舎に疎開。田舎の学校は無意味な規則が沢山あり、第三高女の自由が誇らしく思えた。(浜幸子)

 —— 昭和20年4月、入学してすぐ、火の粉が入らない首のつまった防火服の縫い方を先生に習い、それを手縫いで仕上げるとそれが通学服になった。空襲警報が鳴るとズボンの上からゲートルを巻いた。4月13日夜、空襲で芝と麻布一帯がやられ、私の家も焼けた。学校のカバンを持ち出せず、焼夷弾の降る中を逃げた。数日後学校に手ぶらで行き、ぼうっとしていたら、話を聞いた先生がびっくりして紙や鉛筆を下さった。その翌日、まだ名前もよく知らないクラスの友達が鉛筆やノート、コーヒーカップ、お皿などを持ってきてくれた時は本当に嬉しかった。その中の二人の友の一人は広島の原爆で、もう一人は5月24日の空襲の時に神宮外苑で亡くなった。今でも夏になると二人の笑顔を思い出す。5月24日の空襲で第三高女も焼けてしまってとても悲しかった。それからの毎日は焼け跡の瓦礫を取り除く作業だった。また焼夷弾にやられないようにと、焼け残った体育館の外壁に泥をこねて塗りつけた。体育館では運動用のマットを敷いて座り、仰光寮では畳に座って授業を受けた。(池田桂子)

 —— (校舎が焼けた後)何としても教室を確保しようと土台石を壁に壕舎教室を作ることになり、6、7月の暑い太陽の下、木陰になる木々はすべて焼け、来る日も来る日も壕舎掘り、下級生には無理な重労働だった。それでもどうにか座れるように段をつけて掘り上げ、焼けトタンを屋根にし、ようやく明日から授業開始というその晩、豪雨で壕舎教室は水浸しになった。結局一日も使わず敗戦となった。戦後、残っていた生徒が少ないのを幸い、焼け跡のあちこちで青空教室を続けた。(教諭:長谷川靖子)

 —— 校舎が焼かれてから6月16日まで、残った体育館は付近の被災者の収容所となって使用できず、6月21日には新編成の陸軍部隊(注:本土決戦に備えたもの)の駐屯所となり、7月27日までは山上の運動場で戦車の肉迫攻撃の練習などしていた。この頃には職員の三分の一が既に被災していた。軍隊が移動してから体育館を」日立航空の学校工場にすることになり、8月6日(広島への原爆の日)に開工式を行い、ヤスリ作業をしているうちに終戦となった。(教頭:鈴木当之)

 —— 8月に終戦となり、9月の二学期からは農園で勉強したり、歌や手作りの発表会を行ったり、そして1、2年生は麻布の養生館、3、4年生は東洋永和を借用して曲がりなりにも正規の授業が行えるようになった(このほか南山・笄国民学校など)。養生館は(冬は寒かったが)有栖川公園の高台にあって景色が美しく心を慰められた。養生館には立派な講堂があり、1、2年生の手作りで音楽と演劇の発表会を行った。この中に俳優座などで演劇活動を続けていった人もいる。(阿川君子)

(その後養生館は突然占領軍に接収され、生徒たちはそれぞれ机と椅子を持って二日がかりで体育館まで長い行列を作って運んだが、養生館を使う時も同じように運んだ)

 —— 戦火で学校が焼かれ、家を焼かれ、自分の生徒・同輩を空襲で失って敗戦を迎えた。その焼け跡に立って、とめどなく涙が流れた。戦争はいったい誰が始めたのか、なぜ起こるのか。多くの若人の生命を戦場の露と消えさせ、数えきれないほどの人の財産を無条件に焼き尽くしてしまって何の保証もない。こんなことが許されていいものか、怒りが胸を突き上げてきた。校舎のない学校は廃校になる、そんなうわさが耳に入った。ショックだった。東京は配給も滞りがちで、ヤミ米の買えない人はどん底である。21年5月19日を期して「食料メーデー」が計画された。その日に戦災学校に校舎をよこせというプラカードを掲げてゆこうと、職員会一致で決まった。

 生徒にはすすめないことにしたが、当日「われらに校舎をよこせ」「学校を潰すな」のプラカードを見てセーラー服姿の45名が参加してしまった(第三高女以外にも都立四中や各地の国民学校生徒も参加していた。組合以外に未組織の市民が大勢参加し、赤ちゃんを背負い子供の手をひいた母親の姿も目立っていた。参加者は25万人とされる)。新聞にも報道され、赤旗の歌も知らない私が赤旗を歌う彼女とされてしまった。まもなく保証人会(父兄会)が開かれ、デモになど出てくれるなとの意見であった。追放されかねない雰囲気だったが、会長が収めてくれた。こうしたことがあって、都も動いて駒場の今の場所に移ることになった。当時の有原校長はこれらの責任で疲労が重なり倒れられた。(教諭:乾須美)

 —— 三学期になり、生徒の復帰者が増えてくる中、一刻も早く一カ所で授業を行う体制を目指し、都や区と交渉を重ねた。5月には南山と笄国民学校を借用できた。職員と生徒の不安と焦燥が「食料メーデー」への参加となったが、このことは誇大に報道され、当局、父兄、一般識者からも批判された。まもなく学校の関係者すべての人で会合を重ね、大橋の元兵舎に移ることになり兵舎の改修が突貫工事で行われた。21年9月10日、雨のなか、父兄、同窓、職員、生徒が出席し、病身の校長欠席のまま竣工式が行われた。(教頭:鈴木当之)

 —— 校舎が焼けても4、5年生の工場への勤労動員は続いていた。警報のたびに生徒全員を引率して防空壕へ避難させ、外に出て、上空を悠々と横切っていくB29を眺めたこともある。8月15日、終戦の大詔を仰光寮で聞いた。第三高女の最後の入学試験は養生館の狭い部屋で採点。入学式も養生館の講堂で行うが、その後接収された。
 大橋の新しい校舎に移っても、女生徒のみの学校にはあれこれ困ることばかり。兵舎間引き跡の校庭には南京やさつま芋畑となった。谷間の草むらや校舎前中央の大欅は憩いの場。兵舎時代の3人掛けの狭い机も何とか。石のゴロゴロする埃の運動場での11月3日、戦後初の大運動会や、12月の東洋英和講堂での音楽会は懐かしい。(教諭:林松子)

 —— 姉と私は疎開することになり、疎開先の諏訪高女に行くが、そこでも勤労動員は待っていて、ある日、大きな旋盤が立ち並ぶ工場を見学中、女生徒が旋盤に手を挟まれ、指がちぎれる現場を見た。その後まもなく終戦となった。終戦を告げる玉音放送に、しばらくは茫然自失となり、その後悔しさと情けなさに涙がとめどなく溢れ落ちた。この日を境に日本は180度反対の方向に進み始め、それは臆面もなくと言いたいほど、官民マスコミこぞって回れ右の世の中になった。こうも簡単に価値の転換が出来るものかと不思議に思った。(上記の金井幸子)

目黒高等学校(旧・目黒高等女学校)

 大正8年(1919)、(目黒村立)目黒実科高等女学校設立、11年、目黒実科高等女学校と改称、昭和4年(1929)目黒高等女学校となるが、遅ればせに昭和10年に正規の5年制となったので当初は比較的小規模であった。昭和24年(1949)、男女共学制実施、25年、都立目黒高等学校となる。下記は主に『50周年記念誌』と同窓会報から。

 目黒高女は小規模の中でも今で言う部活が盛んで、スポーツも音楽も大会で優勝することが多くあった(体力テストも入学試験科目の一つであった)。例えば昭和11年(1936)11月、明治神宮競技場でオリンピックに備えて府下(当時)女学生3万人の合唱に本校音楽部も参加したとある。このオリンピックとは東京で15年(1940)年に開催が決まっていたもので、しかし12年7月に日中戦争(支那事変)に突入し、その6年前からの満州への侵攻もあって国際的な非難が高まりつつあり、経済制裁も受け始め、物資も不足していく中、オリンピックどころではなくなり、13年に返上してしまった。同時に開催予定だった万国博覧会も返上となった。

 この昭和15年(1940)は紀元(皇紀=神話上の神武天皇が即位したとされる年から)2600年となり、オリンピックは国際的にも「国威発揚」を企図してのことであったが、各種の記念行事は学校も含めて全国的に行われた。11月10日の記念式典の他に、奉祝陸上大運動会や奉祝音楽会などが次々と催され、各市町村でも提灯行列など行われた。ちなみに当時は台湾や朝鮮はすでに日本の植民地下であり、その地でも半ば強制的に奉祝会が行われた。

 昭和10年(1935)に前年の代行から正式に就任した加藤因校長はリベラルな考えを持っていたようで、戦時下の厳しい統制下にあって、女生徒たちは一様にその家庭的な気風を懐かしんでいる。おそらく同様に自由闊達なやり方を貫いた都立第六高等女学校(現、三田高校=港区参照)の丸山丈作校長と一脈通じていたと思えることは、入学試験の体力テストと、一日40kmや30kmを往復する「耐久遠足」のほか、登山やスキーなどはほぼ丸山校長が昭和の一桁時代に始めたことである。

 昭和13年の校誌に加藤校長が「(日中戦争)開始以来、兵力を失うこと既に五万を超えている…一年間の戦費が74億円(現在の金額にして18−20兆円)」と述べ(日中戦争での戦死者は総務省の資料では昭和12−16年の約4年半で18万5647人とあるが〔17年以降も太平洋戦争と並行して継続されている〕、開戦以来ほぼ一年で5万という数字は他ではほぼ見当たらない)、暗に戦争による命と資源の無駄を伝えたかったのかもしれないが、この時代に戦争を批判することは許されず、公立の学校では即座に解任されたであろう。事実、第六の丸山校長は途中で更迭された。

 同じ13年に校長の教え子の海軍中佐が軍艦旗(旭日旗)が足りないと伝えてきた。それを聞いた生徒たちが各クラスで競って163枚製作して送り、新聞に「乙女の赤心」と取り上げられた。実際に攻略した中国漢口の街のあちこちに海軍の陸戦隊がその旗を打ち立てたという。高女の行事には陸海軍将校の講演があったりして、皇国のために尽くす軍人さんに感謝しましょうという思想が染み込んでいた。しかし校友会誌には戦地に応召した父兄、任務を終え帰還した父兄、そして「名誉の戦死」の父兄名が載せられるようになっていた。14年秋には加藤校長が満鮮支(満州・朝鮮・支那=中国の略で、全て植民地か占領地である)視察を行なっている。

 昭和16年(1941)末の太平洋戦争(大東亜戦争)突入の年に文部省の指導で校友会は解散、学校報国団が結成され、これまでの部活も組み込まれた。勤労奉仕は勤労動員へと代わり、まだ短期の学年別の交代であるが、軍事関連工場に動員されるようになった。同時に15年に取得した宿泊施設付きの鵜の木の多摩川河川敷農場で農作業も始めら、かぼちゃやさつまいもが作られた。軍隊に優先供給される食糧不足を補う目的が大きく、他校でも盛んに行われた。背の高い生徒は肥溜めから肥桶で運ぶ作業もあったという。

 17年の会誌の表紙には時局を反映して「撃ちてし止まん」と書かれ、中には「生産力を拡充し、消費を節約する/廃品回収/戦争地図や写真ニュース等をはって南に北に酷寒酷熱下の皇軍将兵の労苦に謝し時局の認識につとめる」と書かれている。また秋には祐天寺の雑木林を教師と生徒で整備し第二運動場が作られ、バレー・バスケット・テニスコートが設置されたが、しかしこれは19年に農場と化し、芋畑に変わった。

 勤労動員も19年(1944)春からは高学年から本格的となり、各軍需工場に分散され、その都度壮行式が行われ、授業も週に一度から月に一度となっていく。戦局が悪化し、空襲が予想される中、小学生は夏休みから地方への集団疎開が進められ、高女生も田舎のある者は疎開し、学校も勤労動員で閑散とする中で、それを埋めるように陸軍の防衛隊が駐屯し、校庭は防空射撃用の蛸壺がいくつも掘られた。

 勤労動員先は三共製薬、明治ゴム、桜工業、精機光学(キャノン)で、戦地に行って不在の男性社員の代わりに旋盤などを扱う生徒もいた。通勤は自分たちで縫った防空頭巾と国民服に名前と住所、血液型を書いた腕章をつけ、カバンには救急袋や非常用の食料などを入れていた。キャノンでは「戦争に勝ったら一人に一台カメラをあげますと言われたが負けてしまった」とある。

 『記念誌』には書かれていないが、少なくとも昭和20年の東京への4度にわたる大空襲でで家を失った生徒も多くいたはずであり、何人かは焼死していると思われる。ちなみに空襲による東京都の死者の累計は約11万5千人以上(うち、3月10日だけで8万数千人)、負傷者約15万人、被災者310万人である。中には焼けた校服を同級生が分けてくれたとか、靴は底を紐で編んだ物で我慢したとか、下駄を配給されたともある。もとより革靴など手に入らなかったし、服を縫おうにも、まともな布が手に入らなかった時代である。勤労動員でろくに授業がなかった上に、繰上げ卒業で終戦の年の春には4、5年生が同時卒業となるなど、まともに勉強できなかった生徒たちにとって、動員先や農場での休憩時間や行き帰りの間におしゃべりしたり合唱したりが楽しかったとある。

トキワ松学園(旧・常盤松女学校)

 大正5年(1916)、三角錫子が渋谷の女子音楽園の校舎の一部を借りて、常磐松一番地に常磐松女学校を設立。勤労婦人のためにもと、夜学も開設した。しかし大正10年(1921)に三角は死去し、設立以来の協力者に引き継がれた。昭和20年(1945)5月25日、空襲により校舎全焼。とりあえず近くの小学校を間借りし、その後、和光学園、国学院大学を間借りしつつ、自校の農園(学校農園と言って、戦時下では食糧不足のため、学校が別に農地を確保して、生徒たち自身が畑を作り芋類を中心として栽培した)であった碑文谷に校舎建設の許可が出て昭和23年(1948)に移転、新制中学・高等学校を設立した。なお、三角は「真白き富士の嶺」の歌の作詞で知られる。

 残念ながら、当校の年史には戦時中の記述が一切なく(写真はいくつかあるが)、あるのは5月25日の空襲で校舎が全焼したことだけである。この日の空襲は山の手大空襲と言って、港、目黒、渋谷、新宿区が中心で、3月10日の東京大空襲から都内四度目の大空襲で、その後は全国の都市が大空襲に見舞われた。

 戦時下の出来事は他の女子校の中で見ていただくとして、昭和22年(1947)に当校に赴任された丸山丈作校長は、港区の元都立第六高等女学校(現・三田高校)で辣腕を発揮した人で、そちらを参考にしていただきたい。

日の出高等女学校(現・目黒日本大学中学校・高等学校)

 学校に年史はあるが、2018年に問い合わせたところ「個人情報保護法」の問題があるので公開は不可との返答だった。元々公開するために記述されたものであろうが、この対応は意味不明である。

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