中野区の大学・女学校

(当時の背景はトップの「戦時下の大学・女学校の概説」参照)

鷺宮高等学校(旧都立鷺宮高等女学校/高等家政女学校)

 明治45年(1912)豊多摩郡(現中野区)立農業学校(現:東京都立農芸高等学校)の附設実業女学校として創立。大正12年(1923)東京府立中野実業女学校、大正15年、東京府立中野家政女学校、昭和4年(1929)東京府立高等家政女学校(のち都立)と改称。昭和13年(1938)に新校舎が完成し現在地に移転。戦後の昭和21年(1946)都立鷺宮高等女学校となり、24年、都立鷺宮高等学校として男女共学実施。以下は主に創立九十年及び百周年記念誌より。

<長い戦争時代の始まり>

 昭和の時代になってから、戦争の時代に入ったと言ってよいが、戦争に忙しい男性の代わりに女性の支援が必要となり、小学校までの教育で十分とされた女性にも進学の道が開かれるようになった。大正12年(1923)に中野実業女学校として全生徒150名であったものが、大正15年(昭和元年)に中野家政女学校としてから360名、昭和5年(1930)に高等家政女学校として400名、6年に満州事変が勃発、その流れで大規模な日中戦争の始まる12年(1937)には1200名、さらに戦線を拡大した太平洋戦争の始まる16年には1500名と増員された。家政女学校は私学ではいくつもあったが、都立では唯一で、その分応募も多かった。12年に新校舎の建設が始まるが、鉄筋校舎の予定であったものが、兵器生産のため鉄不足が深刻となり、木造に変更になった。そしてこの校舎は7年後に空襲で焼失する。

 日中戦争に入ると春・夏休みを使って勤労奉仕が実施され、神社などの清掃も行われたが、前線の兵士に送る慰問袋製作もあり、特に「家政」学校には多くのミシンがあり、早くから軍服関係の縫製もあったものと思われるが、年史にはこの時期から17年までの記述が欠けている。女学校一般の戦時下に置かれた状況としては「東京都の概要」の「女学校共通の背景」参照。ただ、百年史に当時の生徒へのインタビューがあり、以下、拾い出す。

 日中戦争以降は明らかな戦時体制となり、学校でも体練と言って体力強化が図られ、春と秋に耐久遠足があって当時の10里、約40kmを歩かされた。これは多くの女学校で行われていたが、一日かけて片道を約8時間かけて歩き、帰りは電車という場合もあった。体力のない生徒はそれなりの距離を歩かせたが、八王子の多磨御陵とか青梅、横須賀、春日部、千葉の津田沼まで歩いて行った。それでも当時の女学校はクラブ活動が盛んで、また修学旅行も関西方面を中心に、太平洋戦争が始まるまでの昭和15年(1940)までは10日程度の長い日数で行われていた。行きは横浜から客船で神戸までという場合もあったし、帰りを客船で帰った高女もあった。学校によっては16年から18年まで、鍛錬旅行と称して短期で行う場合があったが、女学生の最大の楽しみが奪われた。

 わずかに残っている校内誌『紫明』の昭和8年の号には、満州事変の最中もあって「国家の非常時」の文言もあるものの、文化部や運動部の盛りだくさんの行事があって戦時下を感じさせないが、昭和16年明けに発行されたものには「国民精神の高揚・生活の刷新・勤労の増強・資源の節約・銃後支援の強化」などの文字が並び、部活の行事は縮小され、精神修養、集団勤労作業、防空演習などが行われている。実際に日本はまだ空爆を受けていないが、実は日中戦争開始から日本軍は海軍の航空隊を主力として連日中国各地に空爆を行っていた(筆者の「中国における日本軍の空爆全記録」参照)。そのために当然遅かれ早かれ敵軍から空爆を受ける時が来るであろうと想定されていたことであった。ちなみに防空演習の中に毒ガス対策の訓練もあったが、すでに日本軍は中国でそれを使っていたからである。このほかには救護演習で、救護は怪我の処置で包帯の巻き方などであり、軍事教練もあって、女子は薙刀の訓練は共通してあった。修学旅行がなくなった代わりに修練道場に泊まりがけで行くとか、山登りなどがあった。戦争への徴兵は学校の先生も例外ではなく、ある時人気のあった英語の先生が出征となり、都立家政の駅までみんなで泣きながら見送りに行ったという。

<勤労動員・空襲・学校焼失>

 日中戦争が決着の見通しのつかないまま、それに対する米英等からの経済制裁に反発して日本は昭和16年12月8日に太平洋戦争に突入、戦線が一挙に拡大した。18年(1943)に政府は「学徒戦時動員体制確立要綱」を決定し、勤労奉仕は勤労動員とされ(基本は有給である)、年間1/3の授業は動員とされたが、戦局が不利となるにつれ、男性は次々と戦線に送られ、18年秋には男子学生の徴兵猶予が解除され、出陣学徒壮行会が神宮外苑競技場で盛大に行われ、当校の女生徒も数百人以上の単位で観客席に見送りに駆けつけたはずである。そして19年春以降には勤労は通年動員となり、「勤労即教育」という強引な理屈で進められた。動員は高学年生から行われたが、夏以降は低学年生も授業は後回しにされ、その翌20年春以降(3/10の大空襲の後)は小学生を除いて授業は全面停止、軍需品生産に徹するようにとの非常体制になった。

 当校の生徒の動員先は千代田区の軍司令部の造幣局で、これは軍票(占領地で使う臨時の紙幣)のチェック作業などであった。他に大田区の日東レコードや川崎のコロンビアレコードでの内容は不明だが宿舎に泊まり込みであった。田無(西東京市)の中島飛行機工場で部品作りがあり、武蔵野市の本工場とともに19年11月下旬からの米軍の空襲の最初のターゲットとなって、200名以上の犠牲者を出し、年史には当校生徒の犠牲者もいたとあるが、何人かは不明。中野区のオリエンタル写真工業では軍用の印画紙作り、大久保の昭和製薬で注射液精製。そして当校の最大の仕事は、輸入した高級ミシンが百数十台揃っていて、これに軍からも動力ミシンが学校に追加導入され、陸軍第一師団の被服工場として校内で軍服の縫製というより補修の作業が終戦まで続けられた。疲れてくるとみんなで声を合わせて歌を歌ったという。軍帽や肩章作りもあったが、変わったものでは蚊帳作りで、これは蚊の多い南方戦線で使うものであった。もう一つはフカ除けと言って、男用の赤いふんどしで、これは海軍用で仮に海に放り出された場合にサメに襲われないという迷信から来ていたようである。さらに、防毒マスクの部品(フィルター)作りもあったが、これは「本土決戦」の場合に毒ガス兵器を想定して用いるものとされた。

 「月月火水木金金」と言われる休日もまともにない状態で、まだ15歳前後の生徒が、機械を扱う仕事もあり、時には怪我をしながらこうした作業に従事した。何よりも食糧不足の中で、支給される食事も貧しく、生理も止まってしまったという生徒も少なくない。これに加えて空襲が始まると空襲警報が鳴ると防空壕に駆け込み、その往復の中での作業が日常的になった。地方に縁故のあるものは、疎開することもできたが、縁故のない者は東京に踏みとどまるしかなかった。いずれにしろ疎開先でもきちんと届け出が必要で、農作業や現地の工場への勤労動員は免れなかった。学校を卒業となっても、そのまま女子挺身隊という名目で動員を継続しなければならなかった。ちなみに生徒たちは学校報国隊という名目で日の丸のハチマキをして働いたが、勤務状況が「修身」という項目で学校の成績の代わりとなった。

 一方で食糧危機の中、各学校では農場を持つか借り受けるかしてイモやカボチャなどを植えたが、多くの学校がそうしたように、当校でも校庭を耕して自分たちの食べ物を確保した。また戦時託児所を学校に設けて子供達の相手をしたとあるが、家庭の女性たちも多くが軍需工場に駆り出されていたので、その子守の役目もあった。

 東京への空襲は3月10日の大空襲を最大として最終段階に来ていて、5月24日未明に城南大空襲、翌25日深夜、山の手大空襲があり、この25−26日にかけての焼夷弾による大火災で木造二階建ての当校は全焼し、手がけていた軍服や蚊帳などもすべて、そして学校と軍のミシン数百台が鉄部を残して焼けてしまった。教習用の和洋のタイプライターも多くあったが、同様である。学校に死者は出ていず、当時は周囲の大半は畑であって、被害が大きかったのは中野駅から東側の住宅地であった。夜間に落とされる焼夷弾は普通に見ていると大型花火のように綺麗に見え、だから夏の花火大会はいまだに大嫌いだと語る人もいる。

 当校が空襲を受けた理由として、学校を軍用工場として使っていたので、米軍の偵察機が確認して狙ったものという見方が年史には書かれているが、これは単なる推測である。学校が軍用工場にされたのは多くの女学校でそうであり、小学校はそうでなく、しかもこの日は区内の小学校が8校全焼、半焼が3校、そして中高校が3校全焼している(他の焼失3校は4月13日の時である)。また3月10日の大空襲では小学校を中心に多くの学校が空爆されていて、そこに避難した住民の多くが焼死している。つまり学校であることはわかっていても米軍は狙いやすい大きな校舎を空爆しているということで、これは米軍の「焦土作戦」の一環で、国際法違反は認識していても、無視していたということである。また当初は中心となった爆撃機B29は高度1万mから照準器などを使って爆撃していたが(この高度に届く高射砲も戦闘機も日本にはなかった)、効果が乏しく、低高度で多数の焼夷弾を投下する方法に切り替えた。それによって絨毯爆撃を行うようになった。つまり、無差別爆撃の一環である。もちろん中島飛行機などの工場は確実に狙って大型爆弾を投下した。あるいは米軍は日本が学校を工場化しているという情報を得て、目につく学校を空爆の対象にした可能性はある。

<敗戦と復興>

 学校焼失後、翌27日に焼けてなかった鷺宮小学校を間借りすることになった。この時期の小学校は集団疎開で生徒はほとんどいなかった。学校工場としての機能はなくなったので、とりあえず下級生から授業が始められたが(本当は授業停止であった)、上級生はこういう場合、都がすぐに他の勤労動員可能な工場を割り当てたはずであるが、理由はわからない。この空襲後、米軍は地方都市に向かい、最終的に8月6・9日に広島と長崎に原爆を落とし、8月15日に日本は降伏、終戦となった。なお、米軍は無闇に原爆を投下したわけではなかった。7月26日に連合国として日本の降伏を求めたポツダム宣言を発し、日本はそれを無視、その結果としての原爆投下であった。

 小学生たちが疎開先から帰ってくるのは10月の後半以降であるが、残留していた鷺宮小学校の生徒たちの最初の授業は焼け落ちた鷺宮高女の瓦礫の撤去作業であったとある。まともな食べ物もなく、栄養失調状態の子供には大変つらい作業であったという。ラジオでは行き倒れの餓死者の数が毎日放送されていた。10月末に鷺宮小学校から城西小学校に移り、翌21年7月に校舎復興の第一期工事が終わり、9月に一学年4クラスが移転、23年春に二期工事を終え、全学年が新校舎に移った。物資と食糧不足は数年間続き、敵国であった米国からの食糧を中心とした支援物資が続々と届き、昭和24年(1949)ごろには落ち着いたが、翌年に朝鮮戦争が勃発し、その軍需景気によって皮肉にも日本は経済的に立ち直るきっかけを得た。

富士高等学校(都立第五高等女学校)

 大正9年(1920)年、銀行の頭取の妻であった峯島喜代が夫の死後に東京府(当時)に女子教育の強化を目的とした学校設立計画を働きかけ、資金および土地を府に提供し、府立第五高等女学校が設立される。とりあえず第三高等女学校(現駒場高校)の校舎を借用し開校、校長は学習院の教授であった。同年11月に現在の新宿歌舞伎町に校舎を落成。空襲により校舎は焼失し、戦後の昭和23年(1948)、中野区富士見町(現在地)に移設、25年(1950)に富士高等学校と改称され、男女共学となる。以下は80周年記念誌や同窓会誌(「若竹」)その他から。

<満州事変から日中戦争へ>

 当校の年表によると満州事変勃発の昭和6年(1931)、「満州派遣軍へ慰問袋100個製作発送」とある。袋の中には缶詰や生徒の手作りの人形や激励の手紙(慰問文)などを入れるが、この後12年(1937)の日中戦争(支那事変)が始まってからさらに軍その他の要請で、各女学校は多い場合は1000個単位で送り続けることになる。しかし18年ごろからは、戦線の拡大と戦局の悪化で余裕がなくなった。

 翌7年、「飛行機愛国号献納資金徴収」とあり、これは戦闘機製造のための女学校の生徒・教師からの全国規模の献金で、飛行機だけでなく、この他の目的でも太平洋戦争開始後も献金は継続された。当時の高等女学校は比較的裕福な子が通っていたため、なおさらであった。

 昭和8年(1933)、「国際連盟脱退に関する詔書奉読式」とあるが、公立学校はこの種の儀式は優先的に行われた。詔書あるいは詔勅とは天皇のみことのりのことで、つまり国の重大事に関してはすべて天皇の名前によって行われた。この脱退は国際的に軍縮への協定が進めらていた中で、日本の満州への侵攻が非難されてきたことなどによるもので、少なくとも時の政府の判断であって、天皇の意思ではない。しかしすべてがこの天皇の名のもとに行われることによって、国民の心は呪縛され、軍政府は思うままに情報操作を行い、戦争拡大への道を走り、20年(1945)までに310万人の国民が内外で犠牲になることになった。

 明治時代より天皇の肖像写真を御真影として小学校には必ず掲げられていたが、次第に奉安所あるいは奉安室に厳重に管理され、儀式の時に正面に飾られて礼拝された。その後新設された高等学校にも奉戴が促されるようになった。当校がいつ奉戴したかは定かでないが、校門のそばに神社のようなコンクリート製の奉安殿が作られ、生徒たちは登下校の際に一礼して通った。こうした状況下では天皇の名の元に行われる事は絶対的なものがあった。

 9年(1934)、「東北凶作救済のため有志街頭募金」とある。おそらくこの凶作は戦時下の日本にとって痛手であっただろうが、街頭募金程度では大きな救済にならず、有名な「おしん」のドラマのように、両親が口減らしのため小さな女の子を奉公に出したりした歴史的に最後の時期のようである。もとより昭和初期までは東北地方は貧しく、農村の男の子の多くは食べる事が保証される軍隊に入ることが多かった。

 昭和12年(1937)、日中戦争(支那事変)開始の年から防空訓練がなされている。まだ国民には空襲など予想もできない時期である。この年も多くの献金活動があり、飛行機への献金も続けられていて、全国高等女学校長協会に飛行機献納部というものを通じ、そこに225円、陸軍省と海軍省へ672円ずつ、総額で現在のお金にして数百万円位であろうか。

 13年より夏休みを削って勤労奉仕作業が始められ、生徒たちは農家の手伝いや軍需品工場に出向いた。この年、国家総動員法が発令され、戦時体制の強化がなされていった。各種のスポーツが盛んな学校であったが、体操の時間には軍事教練も始められた。翌14年には11年に新校舎の用地として取得していた中野区富士見町(現在地)の土地を学校農場とすることにし、生徒たちが交代で耕し、その年のうちに米や野菜の収穫があった。米は自分たちで脱穀した。この時期は食糧不足が続き、学校農場は私学でも大いに行われ、勤労奉仕の一環であった。

 15年(1940)、「日独伊三国条約締結に当たり賜りたる詔書奉読式」があった。また紀元2600年(神話上の神武天皇の即位を紀元とするもの)の奉祝式が全国的に盛大に行われ、学校では創立20周年記念式も兼ねて行われた。だがこの年にはオリンピック東京大会が開かれるはずであった。しかし満州事変に続く日中戦争開戦に対し、国際社会から非難を浴び、また戦争による物資不足もあって、日本は2年前に開催を返上した。万国博覧会も同時に返上された。

<太平洋戦争と勤労動員>

 昭和16年(1941)、夏休みに特設防護団訓練のために登校し、防空・防火・救急看護(包帯の巻き方など)の訓練をした。そして直後の12/8に米国の真珠湾に奇襲攻撃をし、同時にラジオ放送で天皇による宣戦の詔勅が読み上げられ、米英を敵とする太平洋戦争(当時の政府は大東亜戦争と呼ぶ)に突入した(政府はその直前の12/1に国民勤労報国協力令を施行している)。この日にちなんで毎月8日が大詔奉戴日とされ、皇居遥拝や教育勅語の奉読、明治神宮や靖国神社参拝、そして月に一度の貯金が行われるようになった。靖国神社や明治神宮へは学年で交代で学校から歩いて行ったとか、原宿に集合して行ったとかあるが、生理中の女子は鳥居の手前で待たされたという。

 17年に入り、前年より文部省の指導で学校報国団の結成が促されていたが、当校は6月に校友会を報国団に改組した。内容は銃後後援班、時局教育班、学用品配給班、講演映画班などであり、この中に特設防護団があった。これは学校の組織を戦時体制にするためである。そしてこの報国団に並行して報国隊が結成され、この隊の名前で軍需工場などに長期で勤労動員されることになる。なお、修学旅行は16年以降は自粛されていたがこの年「鍛錬旅行」の名目で行われた。この名称で他校でも18年まではいくらか実施されたが、校長の方針で全く行われない高女もあって、女生徒には不満が残った。ただ遠足などは体の鍛錬としてしばらく続けられた。

 18年(1943)の前半までの勤労動員は主に春・夏休みを使い、授業日も期間を決めて割く程度であって、行き先は大日本印刷で刷り上がった国債の検査とか、大蔵省印刷局では軍票(日本軍の占領地で使う紙幣)の検査、明電舎で無線機のコイル巻きの作業などであった。秋には男子学生の徴兵猶予が解除され、20歳以上が学業半ばで戦地に赴くことになった。この時学徒出陣壮行会が神宮競技場で開かれ、当校は四年生が参加した他、私学も含めた都内各所の女学生が動員されて観客席で見送った(新宿区参照)。これと同時に女学生に対しても勤労動員が強化されるが、働き手の男性の大半が戦地に行って、人手が決定的に足りないからである。また大学や専門学校は3ヶ月繰り上げ卒業とされるが、これも男女の若者を少しでも早く戦場や軍需工場に送るためである。翌年には徴兵年齢20歳以上が19歳となる。

 19年6月より決戦非常措置によって勤労動員は固定され、4、5年生(当時の高等女学校は5年制で12−17歳)の授業は日曜日のみ、そのうち月に一度となったが、生徒たちは疲れでまともな授業にならなかった。その動員先は4、5年の上級生は中島飛行機荻窪工場、同三鷹研究所、立川飛行機製作所、北辰電機(潜水艦の羅針儀の部品の組立て)等であったが、3年生は東芝などの分工場とされた学校工場に通い、2年生は東芝の富士見町工場に通った。中島飛行機荻窪工場は武蔵野の分工場で、主に当校の生徒が通ったが、分工場はほぼ空襲の対象から外されている。

 勤労の辛さよりも女学生にとって問題は工場から支給される作業着であり、洗濯石鹸はほとんどなくなっていて、機械油にまみれた服を着続けていると悪臭を放ち、時には家にある着物を支給された型紙を使って作り替えたりしたが、袖口は絞るようになっているので、夏は暑くてたまらなかった。今ひとつの問題は物資不足でまともな生理用品がないことであった。配給品もあったが粗悪なもので、すぐに破れた。それよりも過酷な環境とスケジュールと栄養不良の中であったから、生理が止まってしまう生徒が多く、それはそれで当時は面倒がなく安心なことであったという。食事は工場によって違ったが、中島飛行機は重要工場だったせいか、食糧不足の中でもまともなほうで、少ない配給で作る家の貧しい食事よりも楽しみがあったという。

<空襲の惨禍から敗戦、復興へ>

 19年(1944)11月24日より米軍の本格的な空襲が中島飛行機工場から開始された。そのあたりから当校では「防衛宿直」という当番が設置され、教師や職員だけでは足りぬと見て女学生たちまでが加わって交代で番をした。20年3月10日の東京大空襲を受け、4月から小学校以外の学校の授業はすべて停止、勤労動員一本となった。そして4月13日深夜からの城北大空襲によって、かって絵葉書にされるほどの建築美を誇った校舎は焼失した。その日、防衛宿直班は「空襲警報でとび起き、身支度を整え、校庭にとび出す間もなく、新宿駅方向からの火の手が風に煽られて見る間に接近、雨天体操場の下が燃え始め、水槽の水をバケツに汲み、走り、なんとしても消さねばと、…しかし猛火は火の子を吹きあげ、飛び散って来る状況で、先生方は生徒の身を案じて、男子職員が残る事となり全員水をかけた布団を被り、生徒7名は先生に前後を守られ一列となり裏門から退避。途中、成子坂附近で振り返ると、学校の辺りに大きな紅蓮の火柱が二本見え、後髪を引かれつつ、夜明け頃に農場に辿り着いた」。

 当然学校工場もなくなったが、そういう場合すぐによその工場に配属された例が多い。とにかく軍事生産優先であった。ただ5月21日より近くの四谷第五小学校を仮校舎とし授業を再開したとあるが、おそらく低学年だけで、高学年はそのまま勤労動員させられている。ちなみに5月24日未明と25日夜間に連続して大空襲があり、区内の焼け残った地域も焼かれている。この後空襲は地方の都市に向かって行き、最終的に広島・長崎に原爆が落とされてやっと日本の軍政府は敗戦を受け入れ、8月15日、天皇の終戦の詔勅により終戦。

 9月より仮校舎で授業を再開したが、疎開先などから次第に復興する生徒が増えて教室がなく、一時停止したとある。ただ戦災で亡くなって戻って来なかった生徒もいたし、戦死して戻って来ない先生もいた。翌年から四谷第七小学校の校舎でも授業をしたが、戦後になってさらに悪化した食料事情で、弁当を持参できない生徒もいて、配慮するため一時的に午前中だけの授業となった。一方で中野の学校農場に芋など植えてそれが生徒たちに配給された。23年に、この農場に念願の新校舎が建てられた。

<余話>(『戦時下の女子学生たち』(教文館)より)

 第五高女は比較的陸軍の将校クラスの軍人の娘が多かったという。ある日、新聞の公報で親しい同級生の父親が戦死した記事を見て、お悔やみを言ったら、彼女はもう半年前のことですと返して来た。新聞の報道は半年遅れであったが、その生徒はその悲しみなどを微塵も見せずに普通に学校に通い、周囲も気がつかずに過ごした。軍人の娘としての覚悟ができていたということであろう。

 公立学校は都の教育局の都合などで校長が途中で変えられることが多かったが、18年半ばに新任の校長が来て、最初の挨拶で「この戦争の時代に講堂を平和館と呼ぶのはけしからん」と言った。この講堂は大正11年(1922)に上野で開かれた平和記念博覧会で作られた建物を二年後に当校に移築したために自然とついた呼び方であったが、戦時思想に染まった新任校長のこの発言は女生徒たちに嫌な空気をもたらした。そして当校から戦後に東京女子大学(アメリカ系のミッションスクール)に進学した卒業生が挨拶に学校に訪れた時にその校長に呼ばれ、「あなたは良い学校に入った、これからはアメリカの時代です」と猫なで声で話されて、大変不愉快な思いをしたという。この種の、自分の考えを持たずに常に時流におもねってうまく出世していく人間はいつの時代にもいるということである。

 キリスト教系でない第五高女からその東京女子大に進学した生徒は少なくないようであるが、まだ戦争が終わらない時に進学した一人が、近所のおばさんから「この大変な時に、みんなが工場で働いているというのに専門学校(当時は女子の大学はなかった)に行くなんて非国民でよくない」と母親に告げ口されたが、その母が「より能力の高い人間になったほうが、お国のためにもいいと思いますよ」と言ったら、黙って帰ったという。この時代、非国民という言葉は強い効力があり、様々な場所で戦争の追従者に都合よく使われた。

新渡戸文化学園(元東京文化学園←東京女子経済専門学校)

 昭和2年(1927)、米国に数度の留学を重ね、北海道(帝国)大学の教授であった森本厚吉が、女子文化高等学院を本郷に設立した。当初大学設立を目指したが、当時の大学令では女子大学は認められなかった。翌年、女子経済専門学校と改められ、校長に高名な新渡戸稲造を迎えた。6年(1931)に中野区にあった成美高等女学校の経営を引き継ぎ附属高等女学校とした。8年、新渡戸校長はカナダで客死、森本が校長に、翌年専門学校は中野区へ移転し、19年に東京女子経済専門学校とした。戦後、森本の死の翌26年(1951)東京文化学園に組織変更、専門学校は短期大学へ、元の高女は高等学校、中学校となり、平成20年(2008)、新渡戸の名を冠した。(以下は主に学園五十年史から)

 昭和12年の日中戦争突入のひと月後の8月、各学校は「皇軍慰問金」という街頭募金活動をした。当校の生徒200名が参加し、都区内33ヶ所に分かれて学校名入りの襷をかけ、夕方3時間ほど二日間で1800円(現在の価値で約900万円)も集まった。この時代の庶民の戦争に対するイケイケの雰囲気がうかがえる。これを生徒代表が新聞社に持ち込み、戦闘機の費用の一部にと献金された。

 その後、中国の都市南京などを陥落させるたびに祝勝の旗・提灯行列が各地で催され、当校生徒も校旗を先頭に神社まで行進、戦勝祈願し、区役所前で万歳三唱するという時代の様相であった。さらに軍関係から依頼された(表向きは自発的な形が取られた)兵士への慰問袋(中には缶詰類や日用品が入れられた)を作成し、トラックに満載して海軍・陸軍省に献納された。

 すぐに続いて東京都(当時は府)から委託された軍服の肩章や襟章類(軍服はこれにより階級が示された)の製作があって、授業時間がかなり削られた。これら以外には翌13年はまだ集団勤労作業は、傷痍軍人用の白衣縫製や出征兵士農家の手伝いなどを夏休みに分担して割り当てられた程度であったが、これに文部省は「実践的精神教育実施の一方法として…団体訓練を積ましめて心身を鍛錬し国民的性格(つまり国家への奉仕精神)を錬成する」という名目を付けていて、これ以降この方法が際限なく拡大されていくことになる。14年からはこれを科目の一つとされた。

 校長の森本は農学もやっていた関係で、経専は13年秋から農場作りのために練馬に土地を借り、「実習の家」とする宿舎と教室付きの農園を、温室もある花卉園も含めて第一から第三まで作り、専属の農夫も置き、これが生徒の勤労作業の一部ともなった。特に夏休みの合宿作業は生徒にとって楽しいもので、食事の支度も生徒が担当した。

 「朝まだ太陽の昇らない中に早くも起き出し… 一日の勤労を誓い、厳粛な気持ちで宮城(皇居)遥拝をする。…朝食前の…草取りもいざやってみると案外難しいのに驚く。美味しい朝食を済ませて…白いユニホームに颯爽と鍬を担いで農園に向かう張り切った気持…息も絶え絶えになるまで青空高く鍬を振り上げ…尊い勤労の汗がじっとり滲み出る。この汗を戦地の兵隊さんに見せてあげたい!」と、生徒の感想にも戦時下の雰囲気がよく表されている。

 この農場に学校全体で真剣に取り組んだおかげで、経専は野菜など近隣に売るほどに取れ、教職員生徒の家庭にも持ち帰り、食糧不足の戦時下や戦後にも続く食糧危機の中で助けられたとある。

 昭和16年(1941)政府文部省の指示により報国団が結成され、村山貯水池まで遠足を兼ねて行軍し、そこで結成式をあげた。この中の報国隊本部として第一大隊が専門学校生、第二大隊が付属高女とされた。また報国団の中に鍛錬部農事班が組み込まれ、練馬農場の集団作業計画を指揮し、生徒に「規律ある勤労生活」を経験させた。17年秋には新穀感謝祭が盛大に行われた。ここまで制度をうまく利用して実を取った学校は他にないだろう。

 報国団には文化部もあり、音楽、学芸、映画、出版などの活動もした。学芸班はこの機会を利用し、戦没軍人家族や傷痍軍人を招いて、中止されていた芸術の会を14年から復活させた。音楽班は朝礼時に週二回、生徒全員による大合唱を行なった。映画も時局に適った内容であるが二ヶ月に一度行われた。15年を持って修学旅行は自粛させられていたが「鍛錬旅行」という名目で実施された。

 報国団の報国隊員として軍需工場への勤労動員が開始され、16年12月の太平洋戦争突入からその頻度が増した。それに並行して繰上げ卒業となった卒業生は女子挺身隊として工場に出勤した。とにかく軍政府は少しでも労働力が欲しかったのである。18年秋の男子学徒の戦場への出陣決定から女子の勤労動員は加速され、19年春からの各学校の授業は週一程度に抑えられたが、経専はそれまでの体制を継続した。しかし、生徒自身が「自分たちだけが普通に通学しているのが非国民のようで恥ずかしい」と森本校長に訴え、校長は「何も心配せず勉強していなさい」となかなか応じなかった。しかし夏場になると動員令が下り、学校で壮行会が行われ、校長は「本当はあなたがたを戦争に直接参加させたくないけど、従わないと学校が潰されてしまう」と涙を流しながら話した。これを仮に当時の特高警察などが聞いていたら、一時的拘留か逮捕もあったかもしれない。しかしむしろ生徒の方には逸る気持ちがあって、専門科生の全て、高女は4、5年生から「お国のために」と各軍需工場へ元気よく向かった。まもなく下級生も動員された。女学生といえどもこの時代、小学校から愛国心が植え付けられていたので勤労意欲は高く、生産増強に大きく寄与した。

 勤労動員で生徒の影がなくなった校舎に陸軍が駐留してきて、校門に衛兵が立った。講堂は中野区の食料倉庫に使われ、校庭は運送会社が使用した。

 昭和19年11月末から米軍の本格的空襲が開始され、まず中島飛行機などの軍需工場が爆弾で狙われた。その後20年3月10日の下町地区の密集住宅地への焼夷弾の大量投下で大火災が発生、一夜にして10万人近くが焼死、そしておそらく(年史に日付がないが)4月13日の城北大空襲の時に北区十条の陸軍兵器補給廠に通っていた当校生徒4名が倉庫に直撃弾を受け死亡、校長の心配した通りになった。このほか自宅が空襲を受けて死亡した生徒もいた。焼け出された生徒は数知れずである。幸いに経専の学校は焼失を免れたが、5月25日の大空襲で学生寮に火が及びそうになり、寮生50人と教職員の必死の消火活動で事なきを得た。実は経専は創立後10年も経たないうちに三度も火災にあっていて、さすがにそこまでの悪い運は避けられたと言える。

 20年8月15日、天皇の詔勅により終戦。この時まで、7月26日に連合軍によりポツダム宣言が発せられ、無条件降伏を要求された。しかし日本の軍政府はそれを無視、そのために、開発され実験に成功したばかりの原子爆弾が米軍によって広島・長崎に使用され(米軍は日本が無条件降伏を飲まないことを予測していた)、合わせて20万人の犠牲者を一瞬にして出し、さらに日本軍の占領する満州にソ連軍が参戦するに及んで降伏せざるを得なくなった。敗戦の翌日、ある女生徒は動員先の工場で青酸カリを渡され「アメリカ兵にやられる前に潔く、大和撫子として死んでくれ」と言われたという。生徒の反応はこれで防空壕生活から解放されると内心で喜ぶものと、虚脱感で涙が止まらないものに別れた。

 焼け残った学校は軍の使用で荒れ果てていたが、生徒も疎開や繰上げ卒業で半減していたので、空き教室を焼け出された会社の事務所に貸し出したり、寮も縁故のある教職員などの家族が住んだりした。しかし人がいない間にたびたび盗難にあったという。

 昭和22年4月、桃園の寮はしっかりした建物で、校長の邸宅もあったが、連合軍総司令部に接収された。その後返還されたが、森本は24年に倒れ、闘病の末翌年明けに亡くなった。この時期の校長は戦時下の無理がたたって戦後早々に亡くなったケースが多い。

宝仙学園(旧・中野高等女学校)

 中野区にある宝仙寺が、昭和2年(1927)感応幼稚園を設立、以降、幼稚園の教育に力を入れる。翌3年「母の愛は仏の慈悲なり」の標語を掲げ、中野高等女学校を設立した。一方で昭和4年には「日本仏教保育協会」を設立し、保母の養成所も設立したが、これは戦時中に有益な施設となった。戦後昭和22年、新制の宝仙中学校、 宝仙高等学校とし、29年(1954)宝仙学園中学校・高等学校とする。平成21年(2009)共学制を導入。以下は『宝仙学園五十年史』より。

 学校は文化活動のほか、体育部も盛んで、中でもバスケット部など、しばしば関東地区で優勝を重ねるほどであった。そうした中、昭和12年、日華事変(日中戦争)が勃発した。戦線は北京、上海から南京その他に拡散し、長期戦の様相を呈した。国家総動員法の発令、大政翼賛会や大日本産業報国会の結成の結成などを経て、国民生活は臨戦体制に引き込まれていった。生徒たちは出征兵士の見送り、各種慰問活動、勤労奉仕、防空訓練、戦死者の遺骨凱旋の出迎え、街頭で千人針の活動をするなどで忙しくなった。そして昭和16年(1941)12月、日中戦争を抱えたまま太平洋戦争に突入した。学校報国団が結成され、防空・防火訓練が強化され、看護演習が運動会の種目に加わり、遠足は体力増進の目的で鍛錬遠足となり、報国団主催の30kmの強歩にも参加した。

 すでに物資や食料は不足しつつあり、当校には軍需被服の縫製が割り当てられ、日曜日も返上して作業が続けられた。また食糧増産が義務づけられ、生徒は教科書の代わりに鍬を握り、宝仙寺や校庭の一部を開墾、園芸場は野菜畑に変わり、他の土地も合わせて「中野高女報国農園」と称するほどになった。そして勤労奉仕は勤労動員となり、志村兵器廠、赤羽兵器補給廠などに交代で通うこととなった。昭和18年の秋、大学生に対する徴兵猶予が撤廃され、出陣学徒壮行会が神宮競技場で盛大に行われ、当校の生徒も一部そのスタンドで行進する学徒を見送ったはずである。勤労動員はその年後半より本格的になり、生徒は毎日もんぺ姿で防空頭巾と非常用袋を携帯し、一、二年生(当時は五年制)を除いて赤羽被服廠、三越縫製工場、日本無線などに行って勤労作業に従事した。統率する教師、職員も戦闘帽、巻脚絆姿となり工場を巡回した。

 冒頭に記したように当校は幼稚園教育に力を入れ、保母養成所も経営していた。一方農村では男手が招集されていなくなり、農繁期には託児所が必要となった。養成所ではその要望に応えて茨城県に9ヵ所の託児所を作った。それに伴い、養成所の生徒は勤労動員を免除され、すると養成所に入学志願者が激増した。その中には一流の高女を卒業した者もいて、それは卒業生には「女子挺身隊」での勤労動員が待っていたこともあったであろう(余話として、その中の親には「戦争に協力しない者は非国民だ」と戦意高揚の先頭に立っていた人もいた)。しかし託児所の勤務は楽ではなく、夜明けから夕闇の迫るまで神社や寺院で子供の面倒を見、授乳のときには赤ん坊を背負い、裸足で田んぼの畦道を母親を探して歩き回ることもあったという。その一方で昭和19年4月、突然都内の全幼稚園に戦時非常措置令により閉鎖命令が下った。これは迫り来る空襲に備えて子供達を都内から地方へ疎開させるための措置と連動したものであった。そこで園は幼稚園を戦時保育所として申請し、継続した。

 昭和29年3月10日は下町三区への大空襲で一夜に10万人近い死者を出したが、5月25日、山の手大空襲があり、当校も被災した(本寺院も焼失)。その時期、他の女学校も同様であったが、校舎は軍関係の施設として接収されることが多く、当校も鉄道省や区役所、高射砲部隊に接収されていた。高射砲部隊は本校舎が鉄筋コンクリート造りであった理由による。区役所については、おそらく3月10日の被災を見て、急に課長クラスの人が全部来て、区役所はこの鉄筋の建物に移るから、校舎内を一日で全部片付けるようにとの命令で、備品などを図書館の倉庫に移動させた。さらに移った区役所を守るためにと、周辺の建物を壊して「疎開」させてしまった。しかしその壊された木材が学校の周囲に積み上げられたままで、それが火災を増幅させる要因となった。図書館は全焼し、多くの貴重な書物を失った。なお、鉄筋の本校舎は焼けずに残ったが、校舎を接収されるときに机や椅子を精華高女と中の中学に貸したが、それは残ったという。

 なお、保母養成所は戦後、女子が洋裁学校などに行き、志願者が極端に減った。その後制度改革などにより、昭和26年(1951)保母養成所の方針を引き継いだ保育科を抱える宝仙短期大学を設立、さらに短期大学を廃し「こども教育宝仙大学」を開学した。

目次を開く