(当時の背景はトップの「戦時下の大学・女学校の概説」参照)
昭和女子大学(旧・日本女子高等学院/昭和高等女学校)
大正9年(1920)、良妻賢母の女子高等教育が主流であった当時の社会風潮に対して、社会に対して開いた女性の確立を目指し、詩人の人見圓吉(人見東明)が文京区に日本女子高等学院を創設する。大正11年、日本女子高等学校に昇格。昭和2年(1927)財団法人日本女子高等学院を設立。昭和20年(1945) 戦災で校舎を失い、世田谷の旧陸軍近衛野戦重砲兵連隊跡地(現校地)に移転する。21年、財団法人東邦学園を設立し、日本女子専門学校を開設する。22年、 義務教育制度の導入により、昭和高等女学校の5年課程のうち前半3年間を分離し、昭和中学校とする。23年、学制改革により、昭和高等女学校の課程のうち後半2年間が昭和高等学校となる。24年、新制の大学令により日本女子専門学校を昭和女子大学に改組する。以下は『昭和女子大学七十年史』からの抜き書きである。
<戦争へ>
昭和初期、アメリカに端を発した世界恐慌による不況が国内をおおい、失業者が巷にあふれ、さらに凶作が追い打ちをかけ、農村は貧困と飢餓にあえいだ。その中で自由主義、個人主義、社会主義の思想が広まっていった。大学も学生運動が盛んになり、政府はそれらに対して治安維持法を強化し、共産党などを徹底的に弾圧して行った。そうした背景の中で、軍部勢力が台頭し、国内の不満の捌け口を海外に求めるようになる。そのための新天地開拓として、日露戦争や第一次大戦で日本が橋頭堡を確保していた中国北部の満州があった。そして昭和6年(1931)日本は満州事変を起こし、翌年満洲国を設立するが、欧米列強としてはアジアの利権を脅かすものとして認めるものではなく、その結果日本は国際連盟を脱退した。
日本軍に侵攻された中国内では当然のこととして反日、抗日運動が盛んとなり、各地で日本軍と衝突が起こるようになり、昭和12年(1937)7月には北京で盧溝橋事件が発生、それをきっかけとして8月に日中戦争(支那事変)の開戦となった。そのことでますます日本は国際的な孤立を深め、それを打破するため、欧州における独裁政府のドイツ・イタリアと軍事同盟を締結した。米英は日本の中国への侵攻を非難し、海外資産の凍結も含め石油の禁輸など経済制裁を次々と課した。日本は物資不足に陥り、米英を敵とする風潮が国内に強まった。避け難い衝突を避けようと政府も裏で努力したが、最終的に米国は中国からの撤退を求め、それに対する軍部の強硬論が勝って昭和16年(1941)12月8日、日本は米英豪に宣戦布告し、太平洋戦争が始まった。
この戦争は大東亜共栄圏建設のため大東亜戦争と名付けられ、日本軍は天皇直属の皇軍であり、当然正義の戦争とされた。日中戦争の時代から出征は名誉とされ、徴兵されたものは万歳三唱で送り出され、戦死した者は英霊とされた。少しでも戦争に反対する者は非国民とされ、前線で戦う兵士に対し、国内で支援する立場を「銃後」とし、大日本婦人会や各種の団体が結成され、女学校もその渦に巻き込まれていった。国民は勝利を信じ込み、あるいは信じ込まされ、勝つまではと戦時下のあらゆる困苦窮乏を耐え忍んだ。
創立15周年を迎える昭和10年(1935)頃には当校への志願者は全国から増え続け(当時の日本の植民地、台湾・朝鮮・満州からもあった)、隣地の土地を買収などして13年までに校舎や寮舎を次々と増設した。また多摩郡保谷村に武蔵野学寮、神奈川県二宮に湘南学寮も建設、寝食を共にした教育も行われた。この時期の女学校(五年制で今の中学校と高校2年まで)における行事などは活発で、春には文芸会、秋には展覧会などの文化活動、そして運動会などが学園と生徒の総力をあげて行われていた。この時代のどの女学校もそうであるが、学校生活を謳歌していた雰囲気がある。それはこの時代の貧困層は女学校にはまず通えず(多くの女子は義務教育の小学校まで、せいぜいその上の二年制の高等小学校までであった)、生活に余裕のある一定以上の家庭の子女が通う場所であったからであろう。
昭和12年(1937)に日中戦争が始まり、学校にも戦時色が反映されてきた。すでに戦死者が出始め、出征した生徒の父兄の死に対し、「護国への忠烈を感謝し且つ御霊をお慰め申し上げ」て全校生徒が黙祷を捧げ、さらに教職員と代表生徒が遺族の方々を弔問し、弔意を捧げた(このような行事は戦争終盤になると行われなくなり、また出征兵士に対する万歳三唱も同様であった)。また日本軍の上海戦における快進撃を祝勝するための提灯行列に参加、全校生徒約千人が夕刻に一旦学校に集まり、まず氷川神社に参拝、上高田、新井を経て(路行く人々の万歳には提灯を掲げて答えつつ)電信連隊正門、中野区役所に至り万歳唱和、ついで中野大通りなどを経て8時半帰校、解散した。
またこの時期どの女学校でも行われたが、出征将兵慰問として、慰問袋と下帯を教職員、生徒、交友が一丸となって作製、慰問袋の中に慰問用の品物を入れ、まず約1500個と下帯3千枚以上をトラックに積み込み、陸軍省に納入した。その後も軍服の襟章、肩章、傷病兵の白衣の製作が陸軍より依頼され、生徒は毎日放課後2時間ずつ作業奉仕した。また9月に防空演習が行われ、校庭に焼夷弾、瓦斯(ガス)爆弾を投下して行われる。(注:米軍が日本に本格的空爆を行うのは太平洋戦争終盤になってからであり、なぜ早くもこの時期からという疑問が残るが、実は日本軍は8月の日中戦争開戦から大量の空爆を毎日のように中国に仕掛けていて、それが8年間も続けられていることをわれわれ日本人は知らないままである。これは自分たちの米軍による空爆被害をメディアが多く取り上げても、誰もその加害側としての事実を取り上げないからであるが、筆者の「中国における日本軍の年月日別空爆全記録」を参照)
このほかの戦時下の行事として、敬神崇祖の日(明治神宮参拝)、興亜奉公日、聖旨奉戴日(「青少年学徒に賜りたる勅語」の奉読などを行う)、精神努力日(兼任時給、勤倹貯蓄、勤労強化、心身鍛錬、物資愛護、消費節約、愛国貯金などが唱えられた)などがそれぞれ月一回、「恭敬の日」として定められた。なお興亜奉公日は太平洋戦争開戦後、開戦の日を記念して毎月8日を大詔奉戴日として代えられた。
昭和15年(1940)当校は創立20周年を迎え、さらに校舎などの増改築、寮舎の新設工事を行ったが、この5年後にすべてが無に帰すだろうとは誰も予想していなかった。翌16年には入学者数が500名を超えるに至った。この中には台湾、朝鮮、満州、中国からの入学者もいたが、それは現地(植民地)に居留する日本人の子女も含まれる。またこの年あたりから米英との仲が険悪となり、英語は敵性語として排除されるようになり、学校では英語の時間数を減らすか廃止したり、英文科の募集を中止した場合もあった。しかし理事長の人見圓吉は、「戦争は短期的なもので、やがて永い平和の時代が来る。そのための準備をしておかなければならない」として英文科を守り抜いた。
<勤労動員へ>
昭和12年から近辺の公共施設や神社などへ短期の勤労奉仕が実施されていたが、16年からは軍需工場への勤労動員が夏休みなどを使って行われ、生徒は赤羽の兵器工廠に通った。またこの年には卒業が3ヶ月繰上となり、12月末に行われたが、その前の8日に太平洋戦争開戦となった。卒業の繰り上げは、男子の出征により少なくなった工場等の労働力を補う目的があった。そして国内の動員体制強化のため、各学校に報国団が作られ、そこに報国隊が結成され、その隊員として高等女学校三年生以上の生徒は縫製、救護、保育(例として農繁期に農村の子の育児を手伝う)、事務等の方面に一年を通じ、30日動員されることになった(国民勤労報国協力令)。しかし戦局が悪化するにつれ、18年(1943)には「教育に関する戦時非常措置方策」の発令により一年のうち4ヶ月の動員となった。またこの年は半年の繰上げ卒業となり、その10月、男子学生に対する徴兵猶予が撤廃され、20歳以上の学生は在学のまま徴兵されることになり、明治神宮外苑で「出陣学徒壮行会」が開催され、多くの女学生たちが動員されて雨の中、観客席で戦地に行く学生を見守った。
18年の学徒出陣の対象の学生は文科系であった。理工系は国内の研究所などに動員された。この傾向に準じて、女学校、特に女子専門学校に対し「男子の職場に代わるべき職業教育を施す為」として文部省は「女子専門学校教育刷新要綱」を打ち出し、これまでの家政科、文科、に加え(医学・薬学科はすでに専門学校がある)理科、工業科、農業科、法・経済科などを新たに開設するようにと勧めた。これに応えようとした女学校もあるが、理工系は開設しようにもすでに設備がなく、新たに雇用できる教師いず(兼任で来てくれる場合もあったが)、ほぼ途中で頓挫している。
さらに19年3月には「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」で学徒勤労動員の通年実施が定められ、9月には学徒勤労令が女子挺身勤労令と同日に公布され、女子挺身隊が結成されるが、これは学生・生徒以外の就業していない若い女性(14−25歳)に勤労を義務付けるもので、卒業するとそのまま挺身隊としての勤労動員が待っていた。この年の当校の動員先は4月から三鷹の中島飛行機工場へ300名、5月から川崎の帝国通信へ100名、10月から青梅線の中神飛行機へ200名、同時に三鷹の日本無線電信に100名などであった。これらの工場へ通勤する交通機関は大変混雑し、その上食糧不足も深刻で、昼夜三交代の激務であった。生徒たちを引率指導する教師の労苦もまた並大抵ではなかった。生徒の健康維持と作業上の危険防止に注意を払った。たまに工場から解放され、学校に戻って授業を受けることが何よりの楽しみだった。
<空襲と校舎焼失>
昭和19年(1944)年6月のマリアナ沖海戦で日本は空母の大半を失い、日本軍が生命線として死守するサイパン島やグアム島も守備隊はほぼ玉砕して陥落、米軍はそこをB29の基地とし、日本への空爆の体制を整えた。政府も学童の集団疎開を決め、子供たちを各所に送り込んだ。米軍は11月24日から本格的空爆を開始、工場へは爆弾を投下するが、日本の木造家屋を狙って大量の焼夷弾を落とし始めた。20年3月10日の江東・墨田・台東区への大空襲は一夜にして10万人の焼死者を出した。そしてこの3月、政府は小学校(当時は国民学校)以外の全学校の授業を4月から一年間停止するとし、12歳以上は通年勤労動員となった。勤労動員で勤労動員で空いた学校は逆に学校工場となり、低学年生がここで働いた。そうした中でも米軍の空襲は続き、空襲警報が鳴ると防空壕などに避難したが、工場が被弾し、亡くなった生徒もいる(8月の敗戦時、動員学徒の数は全国で340万人以上、そのうち空爆で死亡した学徒は1万966人、うち原爆死8953人であった)。
米軍は4月からは東京の南西部を狙い、その13日、B29の大編隊が中野区上高田の当学校に焼夷弾を雨霰のように投下した。学校のあちこちから火が吹き出し、宿直中の教師8名と学生20名がポンプによる消火を試みたが焼け石に水で、人命を優先して一同は安全地帯に逃げたが、焼けて崩れゆく校舎を見守る以外、なす術もなかった。3万5千余冊の蔵書、1万3千余の標本類、校具も教材もすべて失った。10年前と5年前に記念事業で二度にわたって校舎を増改築したが、その全てが無に帰した。
しかし学校側はすぐに動き、焼け残った寮舎に仮事務所を設け、三日後から集まった学生に対して青空教室で授業を行った。さらに鉄筋建で焼け残った一つの寮を応急修理して十教室に改造し、三週間目に屋内での授業を再開した。机や椅子は代用品でそれでも足りず、床の上に座り、膝の上で筆記した。そのノートもない者が多く、新聞紙を使う者もいた。そうした授業も束の間で、5月25日、都心への最後の大空襲がまた学校を襲い、改造したばかりの教室をはじめ、前回難を逃れた複数の寮舎も灰燼に帰した。そこで可能な範囲で遠い地方からの寮生を帰郷させ、残った学生のために近くの空いた民家を買って学生をそこに収容し、上高田の二つの寺院を借りて教室にして授業を再開した。この時期授業を受けることができたのはほぼ一年生で、二年生以上の高学年生は勤労動員で周辺の工場に勤務していた。
<体験談>
—— 学徒動員で中島飛行機のエンジンを作る工場に通ったが、昭和高女の制服を脱ぎ、工場から支給された国防色の制服に身を固め、綿を入れた防空頭巾を左の肩に下げ、右の肩には薬品その他の携帯品を入れた布袋を下げ、左腕には「昭和高女学徒報国隊」と記した腕章をつけた。毎日三鷹駅西口広場に集合して出欠をとり、20分の凸凹道を歩いて工場に向かった。門では中隊長(学級委員)の合図で「頭、右」と守衛さんに敬礼して入った。工場内は機械油の臭気が充満し、機械の騒音もあって慣れないと吐き気を催すほどであった。いくつもの職種に分けられた中、私達は機械を担当させられ、旋盤、ボール盤、ミーリング等、担当の工員の指導を受けながら、ノギスやマイクロメーターの測定器を使い、図面通り千分の一ミリの誤差も許されない部品を作るため、旋盤の刃先に全神経を集中、お国のためにと必死に努力した。女学生でありながら勉強もできないと悶々としていると、月に一度の登校日が決まり、セーラー服やカラーにアイロンを当て、絹のリボンを結んで胸躍らせて校門をくぐった。砂漠のオアシスで喉を潤すような思いがした。翌日からまた工場の重労働に戻り、ひたすら祖国の勝利を祈りながら身体に鞭打って働き続けた。
19年11月末から始まった爆撃は、まず中島飛行機を狙い、敵機来襲を知らせるサイレンが昼夜の別なく鳴り響き、その都度地下道に退避、その繰り返しで仕事もろくに手につかないようになった。4月には集中的にB29による爆撃があり、地下道に避難していると至近距離に爆弾が落ち、うっ伏している身体が浮き上がり眼球が飛び出したように感じで地獄に引きずり込まれるようだった。空襲解除になって外に出て、先生の点呼で全員無事であることがわかって「生きていてよかった」と涙で無事を喜びあった。振り返ってみると工場は爆弾でめちゃくちゃに壊され、他に動員されていた自由学園の生徒を含めて数十人の死亡者が出ていた。そしてこの工場は八王子などに分散疎開することになり、私達も武蔵境の小さな工場に移ったが、そこにも米軍の艦載機が襲って来て低空による機銃掃射を受けた。やがて卒業式を迎え、卒業証書を頂いたが、「生きていてよかった」と涙を浮かべて言い交わした言葉を、今も胸に浮かべている。(松本澄子:以上は要約)
—— 昭和19年、私は国文科二年だった。この年には夏休みがなかった。5月には三鷹の飛行機工場に動員、6、7月は学校の工場で軍衣縫製をした。8月半ばに学科試験があり、その後帝国通信に動員された。朝早く東横線下平駅に集合すると、四列縦隊の隊伍も乱さず約30分の道のりを工場まで行進して行った。私は動員隊長にさせられ、この隊伍の先頭に立つのが嫌でたまらなかった。戦局がいよいよ急を告げてくると空襲が激しくなり、次第に過労に陥っていた。秋が深まった頃からB29の偵察空襲が頻々となった。朝の通勤途中で空襲になり途中の駅で防空壕に駆け込んだこと、帰りの電車で空襲になり灯火を消した満員電車の中で長時間立ち往生させられたこともあった。初めて機銃掃射の音を聞いたのは帝国通信の壕の中であり、その時は折り重なって息を殺していたが、解除になると壕の中で他人の体の下に頭を突っ込み合った醜態を笑い合いながら、三時の雑炊やふかし芋の配給を取りにバケツを持って出かけた。ある時は帰り道、畑の中の広い道を隊伍を作って歩いていると、戦闘機の編隊が隼のように低空で迫ってきた。駆けましょうと言ったが、今から思えば飛行機に追われて駆けたところでどうにもならず、道の横の草むらにでも飛び込めばいいものを、全員が青い顔をしてやたらと駆け出していた。
その頃の日記を見ると、毎日「今日も生きていた」と書いてある。一日一日生きることが精一杯だった。全く悪夢のような時代であったが、そんな中にも、朝夕渡る多摩川の流れや、路傍の麦畑の青い芽が少しずつ伸びてゆく姿や、雪のような朝の霜や、友人との何気ない会話の一節などが、清流の泉ように胸の底に焼き付けられ、今も空襲の日の印象と同じような鮮やかさでよみがえってくる。動員ではみんな「勝ち抜くまでは」の合言葉に、歯を食いしばって働いた。しかしすべてが無に帰する時が来た。一番多感な楽しかるべき乙女時代だったと、失われた青春を惜しむが、今の学生は幸せだとつくづく思う。(小谷信子:以上は要約)
—— 私は昭和高女三年生の時、学徒動員で中島飛行機の武蔵野工場で働いた。19年6月、旋盤や鉄板に穴をあけるミーリングを、訓練もあまり受けずにやらされた。3−5年生で500人くらいだったと思う。体の弱い人は学校の工場で働いた。私はとても健康だったが、三交代制の無理が祟ったのか、体調を崩した。しかし兄が「休んじゃいけない。休むと日本が負ける」というので頑張った。そのうち首のリンパ線が大きく腫れて首を動かすこともできなくなり、家で寝ていた。ある日、隣組で防空演習があった。風船を爆弾に見立てて消火訓練をしていた。その風船が破裂した大きな音がショックで脳血栓になり、11月から半身不随になって東大病院に入院し、動けないので地下の病室に入れられた。工場はたびたび爆撃されて私の友達も亡くなったり怪我をしたりと聞いた。私は戦後誰とも接していないので皆がどうしているかわからない。
戦争が終わって米軍の進駐にともない病院にいられなくなったが、左の手は硬直し、顔も動かせずよだれを垂らしていた。家に帰ってからはハリとマッサージをしたが癒らず、今でも左の手首と足首が動かない。医療費は中島から出ると言っていたが、全然出なかった。戦後は父母に面倒を見てもらい、今は兄や姉の世話になっている。障害者手帳はあるが年金はついていない。私の面倒を見てくれる姉は73歳で戦争未亡人である。(吉田万智子、62歳:この稿は『なつくさ』第九号、1989年、保谷市「戦争体験をつづる会」より)
筆者注:この方は戦争による障害を受けたにもかかわらず、何の補償も受けていないが、実際にいわゆる全国にいる被災者、障害者も同様である。一方で元軍人は今に至るまで手厚い恩給や年金も受け、それは兄弟子息の世代までに渡っている。これに対し戦後戦争被害者たちは(孤児も含めて)何度も裁判で補償を要求したが、すべて最高裁で却下されている。日本と同じように戦争の加害国であったドイツは、そのような訴訟をする以前に、すべての被害国民に対し補償をし、なおかつ周辺諸国に正式に謝罪をしている。この差は何なのであろうか。
<復興へ>
8月に敗戦となり、学校の再建と復興が最重要課題であった。10月になって都の教育局から旧軍施設の転用希望申込みの通達があった。そのいくつかの候補地も希望者が殺到していたが、学校関係者の懸命な努力により、11月に入りGHQ連合軍が使用地として仮に押さえていた世田谷の東部第十二部隊跡を借用する許可を得た。早速、人見理事長は翌日から移転開始を決めた。引越しといっても持っていく荷物は知れていて、早朝から教師と学生が一緒に大八車を曳いて運んだ。ただ、移転先の軍部隊跡は惨憺たる状態であった。—— 初めて三宿の兵舎跡に立った時、広大な敷地に縦に並んだ兵舎、右側には馬小屋が残り、草は茫々と生い茂り、至る所に防空壕が口を開け、ちぎれた鉄条網や爆撃で飛び散った兵舎の残骸が、敗戦の面影を痛々しいまでに留めていた。
しかしすぐに全職員、学生、父母の応援も得て一体となった学校作りが開始された。女子学生もスコップで穴を掘り、瓦礫を埋める作業をしたり、家庭から大工道具を持ち寄って兵舎の二段ベッドの解体作業を行ったり、寝食を忘れた突貫作業でなんとか十日目で授業ができるようになった。机や椅子も弊社にあったあり合わせのもので、それでも間借り校舎とはお別れし、ガラス窓は破れていて吹きさらしでも、屋根のある校舎で学ぶ嬉しさは学生にとって格別であった。そうした授業の外で、常に黙々と廃材や瓦礫をリヤカーに一杯にして曳く姿の体格のよい男性がいた。身につけているのはカーキ色の作業服に戦闘帽と破れ靴で、その人は人見理事長であった。時々女子学生もリヤカーの後ろを押したりして手伝った。そのうち校庭に芝が植えられ、花壇が作られた。翌年、旧陸軍士官学校の2500人分の机と椅子が払い下げられた。(なお現在の駒場高等学校(旧・第三高等女学校)も麻布にあった校舎が焼かれ、三宿の近くの目黒区大橋の、やはり軍の施設跡に引っ越して来た)
ただし戦後の食糧不足は深刻で、その片付けた校庭も野菜畑としたが、ある日、学校としても食糧が尽きたとして、近県の寮生に対し、帰省して自分の食糧を調達してきてもらいたいとの要請もあった。一方で、住む場所のない戦災家族や海外からの引揚者が焼け残っていた兵舎を占拠するようになり、授業にも支障が出たりした。またせっかくの広大な土地であったが、都により次々と他の用途に接収され、学校の土地は当初の半分にされた。
当校は戦前には日本女子高等学院としていたが、あくまで私立学校令による各種学校であり、専門学校令による学校に申請しても戦時下では認可されなかった。そこで改めてその認可を申請し、21年には日本女子専門学校を開設する。そして24年、高等学校とは別に、新制の大学令により専門学校を昭和女子大学にすることができた。
恵泉女学園
創立者の河井道は北海道のキリスト教系学校を経て、新渡戸稲造の誘いもあり、津田塾の創立者津田梅子の設立した奨学金制度によってアメリカに留学、帰国後津田塾の教師をしながら欧米その他でキリスト教活動と社会事業を続けた。昭和4年(1929)、52歳で「広く世界に向って心の開かれた女性を育てなければ戦争はなくならない」との信念で学園を設立した。学園は当初より聖書・国際・園芸を教育の柱に据えた。園芸は普通補修的に行われるが、河井は自然の恵みと触れ合うことの大事さを教育の根幹としたかったという。昭和9年(1934)、普通部3年の上に2年制の高等部(文科・家事科)を開設。翌10年、高等女学校と同等以上と認可される。18年(1943)、高等部に園芸科を開設。また早くから、らい病の施設にも学校をあげて寄付や奉仕活動をし、弱者への強いまなざしが見て取れる。以下は主に『恵泉女学園五十年の歩み』より。
<河井の平和への信念>
第一次世界大戦終了の数年後の大正10年(1921)、日本初の「婦人平和協会」が結成され、河井道はその理事として指名された。その中には自由学園の創立者羽仁もと子や、後に日本女子大の第4代、6代校長となる井上秀、上代タノなど10名がいた。初代会長は井上で、河井は第二代会長となったが、昭和8年(1933)に三年で辞任した。この年は日本が国際連盟を脱退してしまうが、その理由は、その2年前の6年(1931)に日本の租借地であった満州で事変が勃発し、それに対して国際的非難が高まり、日本に撤退勧告が決議されてのことであった。そしてこの満州事変がいわゆる15年戦争という昭和の長い戦争の端緒となる。
その6年後の12年(1937)に日本はさらに日中戦争(支那事変)に突入した。この時、河井は新聞を持って教室に入り、「この戦争には反対です。軍人たちは日本の方向を誤らせています」と語った。実はこの時期の生徒たちは、小学校の頃より歴史や国語や修身の授業で、軍人さんは偉い人だという軍国主義教育を受けていて、まるで違う先生の言葉に驚いた。ちなみに上記婦人平和協会のメンバーの中で最後まで戦争に反対の姿勢を貫いたのは河井と上代だけである。
創立10周年の昭和15年(1940)は、日本に対する欧米諸国からの非難が高まり、経済制裁(資源と石油など)が始まり、とりわけ米国と敵対関係になってきていた。さらにこの年は皇紀(神話上の神武天皇即位の年を起源とする)2600年の祝典が喧伝され、そのため敵国の宗教であるキリスト教に対する弾圧も次第に強くなってきていた。そのために各キリスト教プロテスタント系組織は政府の指導で「皇紀2600年奉祝全国基督教信徒大会」を青山学院で開催、大同団結をすることになった(渋谷区の同校参照)。
学園の三つの柱のうちの一つ、国際の「自由と世界平和」をイメージする授業は、軍国主義国家に反するものとして官憲の圧力を受け、この昭和15年で中止させられた。5月の学校行事に国際善意デーがあり「世界は一つ」という歌を歌ったが、それもこの年で中止された(戦後に復活)。それでもまだ、津田塾で戦前最後の日米学生会議が開催され、そこに代表を3名参加させ、一人の英語教師を米国の園芸学校に留学させることができた。
一方で河井は日本軍が占領する中国・満州へ視察と講演の旅に出て(この時期、各学校の代表が視察に送られている)、この時現地で戦争の実態を観察していると思われるが、盲学校や伝道所に献金もし、民間交流に尽力した。他の多くの教育者も視察旅行しているが、その占領政策を是認する人たちが大半であった。大東亜共栄圏の建設などという標語に惑わされてしまうのである。上記婦人平和協会の理事たちの中でも、河井や上代の二人と河井の後に婦人平和協会長を引き受けたガントレット恒以外は、大半が惑わされて大小の戦争協力者となった(文京区の「日本女子大学」参照)。なお婦人平和協会は15年秋に強制閉鎖された。平和という言葉自体が禁句になったのである。ただし軍政府自身は「東洋平和のための戦争」としている。
翌昭和16年(1941)に入り外国からの郵便物の開封検閲が始まり、キリスト教の宣教師たちは次々と帰国することになった。実は河井は日本YWCA(The Young Women’s Christian Association of Japan)の初代日本人総幹事 を務め、日米友好を目的とした二世女学生の人材の育成にも心を砕き、10年(1935)に米国の日系二世に限定した恵泉女学園留学生特別科を設置していて、その二世の留学生たちもこの年次々と横浜から船で帰国して行った。ただ、残ったハワイ出身の二世で、この後の真珠湾攻撃以来両親との連絡が途絶え、困窮した生徒もいた。
また河井は日本英語学生協会(昭和8年=1933に設立)の運営に参加していて、この協会が翌9年(1934)に設置した日米学生会議(JASC=Japan-America Student Conference)の顧問も引き受けていた。この動きは当時の世界情勢に危機感を持った学生たちの代表が、親善使節団として8年秋に米国に渡り日米学生会議の約束を取り付け、翌年に第一回として日本の青山学院での開催にこぎつけたことにつながるものである。その翌年には米国で開催と15年(1940)まで交互に行われた。当然御茶の水や日本女子大、津田塾の女学生も参加した。この時の米国からの参加学生の中に日系二世の学生も入っていたが、上記のように日米関係悪化受けて帰国していった二世留学生たちも含めて、開戦後米国籍を持っている二世たちとその親兄弟全てが敵国人となり、西海岸の収容所に抑留されることになる。
この時流に逆らうようにこの16年の春、河井は米国教会の要請に応じ、「両国の平和のため」の使節団の一員として米国に向かった。河井は米国で講演もしつつ交流を深め、カリフォルニアのミルス女子大学において「数千の参列者から万雷の拍手」の中で名誉人文博士の学位を授与され、一応の使命は果たした。現地では学園からの留学生たちにも歓迎されたが、彼女たちは日米開戦によりその後難しい立場に追い込まれる。帰国後河井は関西を訪問したが、京都での教会の講演中に憲兵隊に連行され、取り調べの後深夜に釈放された。こうしたことが重なっても河井は懲りることがなかった。
<太平洋戦争へ>
同じ16年(1941)に文部省の指示で各学校に報国団が組織され、学園では生徒の自治組織としてあった信和会をそれに当て信和報国団とした。これは戦時体制下の命令系統をスムーズにさせる目的があった。それに並行して軍隊組織を真似た報国隊が組織され、それは戦争で不足する男手の労働力を補う勤労動員を組織的に行う目的があった。
そうした下地を作っておいて、日本は12月8日に米国の真珠湾奇襲攻撃によって米国に宣戦布告し、太平洋戦争に突入した。実は日本軍はほぼ同時に東南アジアに侵攻し、国内に不足する石油資源などを狙い、その地を植民地とする英蘭にも宣戦布告した(ここから学校教育でも「憎き敵米英」とか「鬼畜米英」という言葉が流布されていく)。その日の朝、通学する生徒は電車や街の中で興奮で上ずる人たちを見た。一方で礼拝で講堂に集まった生徒や教師は沈痛な表情をした河井園長を目にした。「皆さん、本当に悲しむべきことが起こりました。戦争はどんな時にもすべきではありません。避けるべきでした」と河井は話した。
これに対して「いよいよ来たるべき決戦の時が来た。我々国民が一致団結してこの戦争に勝利しよう!」とする学校長がほとんどで、仮にこの時に憲兵や配属将校などが河井の話を聞いていたら、どうなっていたであろう。実際に、他の学校で生徒の前で同様な話をして、愛国心教育に染まっていた生徒に告発され、辞職した教師もいたほどである。日常、河井の心に触れている生徒にはそのような動きはなかった。
むしろ、他校でも見るように、日中戦争以来、女学生による兵士への慰問文や見舞い品を入れた慰問袋が盛んに作られ、その慰問文の中に、おそらく河井の教育の影響であろう、「お互いに殺し合うことを早くやめてください」と書いた生徒の言葉が検閲時(常時内容は事前にチェックされていた)に大問題となり、河合は特高警察に呼ばれて尋問を受け、数日間留置場に拘留された。当然河井はその生徒の責任にはしなかったはずである。他校では「兵隊さん、憎い敵をやっつけてください」のような書き方が主であった。教育の仕方でこれほどに違うという例である。そうしたこともあって危険な思想を持つ学校ということで、その後は特高が常に監視に来て、戦時下に決められた宮城(皇居)遥拝や靖国神社参拝などの国の行事が遵守されていく。
昭和17年には米国二世の代わりに、中国や台湾、朝鮮、蒙古、ドイツ、トルコ、南北米からの留学生が入学した。しかし学校には女学校といえども軍事教練が課され、配属将校も置かれたが、その将校は戦地から帰還した牧師であり、幸運であったという。勤労奉仕や鍛錬などの義務は学園が独自に行なっていた園芸作業(食糧増産という名目)や、らい患者などの社会福祉施設への奉仕に置き換えられた。
恵泉の学園誌は開戦当初、園長が重ねて書いた「平和」という言葉が軍部に回され、反戦思想ということで編集責任者の生徒が取り調べを受けたことで、この年には「東洋平和、共栄圏の為、皇軍の大犠牲によれる戦捷を謝し、愈々目的の遂行を祈る」と表紙の背に書かれた。それでも河井はその中に「共栄は結構なことで…」と皮肉を込めた文を書いている。
すでに太平洋上で激しい戦闘が続き、米国への留学生が帰国できない事態になっていた。そこで民間の尽力で「交換船」が手配され、日本からの船と米国からの船が南アフリカのケープタウンで合流し、お互いに乗り換えて自国に帰るという方法が取られた。この船で園芸学校に留学していた教師ともう一人の留学生が8月に帰国して来た(同例は港区の東洋英和参照)。また、英語教師であった宣教師の一人は自分の使命で日本に骨を埋めると言って帰国を拒否していたが、その後の交換船で強制的に帰らせることになった。しかしすでに危険な状態で船は途中で戻って来て、彼女は収容所で終戦を迎えることになった。
昭和18年(1943)は軍需工場(兵服など製造)への勤労奉仕が交代で行われ、空襲に備えて運動場などに生徒の手で防空壕も作った。また他の女子校と同様、卒業生には「女子挺身隊」を結成させ、勤労動員が課せられた。この秋、20歳以上の男子学生には徴兵猶予制度が解除され、出陣学徒壮行会が開催された。なお、文化学院(千代田区参照)が自由主義教育との理由で閉鎖され、当学園はその一部の生徒を受け入れた。
19年に入ると勤労動員の対象工場は広がり、そこに上級生が出向き、低学年用に学校工場が設置され、まず一番広い教室が当てられたが、作業の合間を縫って授業も行われた。学校農場もあり食料増産にも励んだ。河井園長の方針で、どこにあっても朝の礼拝だけは欠かすことがなかった。また英語は敵性語としてその授業時間を削減するか廃止するように指導されていたが、河井は最後まで英語の授業を守り通した。
この年の11月下旬から、米軍は十二分な準備を整えて(6月に日本軍の占領するサイパン島などマリアナ諸島を陥落させ、そこを日本本土空襲のための基地とし、対日本用に開発したB29などの大型爆撃機を大量に運び込んでいた)、日本に本格的空襲を開始した。
敗戦に至る年の昭和20年(1945)に入り、学園設立当初より河井が構想し、具体的には前年から準備していた農芸専門学校設立のために園長は文部省に通い詰めた。しかしこの当時、新設の学部や学科は(労働力確保のため繰上げ卒業が繰り返されている時勢で)ほとんどが却下されていたが、食糧危機もあってなんとか認可された。最後の条件は学園の設立主旨の文の「基督教の主義に依り」の変更を求められたが、「基督教の信仰に依り」という表現で認められ、河井は安堵した。他のキリスト教系学校ではこの表現が削除され「日本国の皇道にのっとり」という表現に変えられたのであり、河井の粘り勝ちであった。4月には無事入学式を迎えた。
世田谷区は当時は田園地帯で特に西地区は大きな空襲の被害が少なく、学校は近所の爆弾の破片で壊れる程度で済んだ。しかし2月に学校工場から学友と帰宅途中の一人の生徒が近くに落ちた爆風で倒された木の下敷きで亡くなり、5月に動員工場への爆撃の後片付けの際、傷を受けた生徒がその感染症から床に伏し、しばらく後に亡くなった。この生徒は兄二人を戦線で亡くしていたばかりであり、両親の悲嘆はいかばかりであったろう。
激化する空襲で学校工場自体が新潟に疎開することになり(実は米軍の東京地区への空襲はほぼ5月で終わっていて、6月から爆撃の対象は地方都市へ向かい、新潟は7、8月に爆撃された)、従事していた24人の生徒が7月半ばに大勢の避難者で混雑する汽車に乗って移動した。作業は軍需用電気機器の絶縁体として必要な雲母剥がしであった。その一ヶ月後、広島・長崎への原爆投下で20万人以上の犠牲者を出してやっと日本の軍政府(大本営)は敗戦を受け入れた。
この戦争終盤の昭和20年だけで東京大空襲を含めて約50万人の空襲(原爆含む)犠牲者、沖縄の3月下旬から6月下旬までの3ヶ月間の、本土の身代わりというべき激しい地上戦で約20万人の犠牲者(民間人がその半数)、その他硫黄島やフィリピン、東南アジアの占領地域での戦死者(終戦後も放置されて餓死した兵士たちも含めて)は推計で200万人程度以上にのぼる(全体で約310万人)。早くから劣勢にあった戦況を、軍政府は精神論に置き換え、最後は日本は神風が吹いて勝つと国民に宣揚した結果がこれである。これほどに愚かな戦争をした国は他にはないであろうし、河井は早くからそれを認識していた。
実際の話として、敗戦が決まった8月15日前後に軍事関係資料は内外を含めてすべて軍政府は焼却し、全国市町村自治体の兵事係の出征記録も焼却するように指令を出した。すぐに連合国占領軍がやってきてそうした資料を摘発されることを予測してのことで、いわばこの戦争の証拠隠滅を図ろうとしたのである。つまり彼らが「聖戦」と呼んだこの戦争をなかったことにしようとした。一方でとりわけ特攻隊で戦死した学徒たちを英霊として祭り上げてのことで、その英霊たちをも裏切るに等しい行為である。
<戦後政策への河井の関わり>
8月15日の敗戦決定後、占領軍GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーの副官として来日した陸軍准将ボナー・フェラーズが、河井とその一番弟子である一色ゆりを探し、終戦翌月9月23日、二人をアメリカ大使館に招いた。一色は米国留学時にフェラーズと同窓で、その後彼が来日した時に河井を紹介、さらに彼は何度か来日を重ね親交を深めていて、知日派であった。その日はマッカーサーが昭和天皇と初めて会見する4日前であった。フェラーズは二人の意見を取り入れながら、天皇の戦犯問題について不起訴を進言する覚書を作成した。米国はすでにかなり以前から(米国の勝利は確実であったから)日本人の天皇観を研究し、フェラーズ自身も天皇は軍政府に利用されているとの見解を持っていて、ここで日本人におけるキリスト教の教育者であり、戦時下にも平和主義を貫いた河井から、天皇を戦犯にせず救うべきであるという意見を得て、米国の元々の方針通り、天皇は不起訴とされた。河井はこの戦争にあって昭和天皇が軍政府に利用される立場であったことをよく理解していたのである。そしてまた占領軍も天皇を戦犯としないことで、占領政策がやりやすいと考えていたことも確かである。
このような河井の人格は、心ある教育関係者の重鎮にも認められていたからであろう、翌21年(1946)に教育刷新委員会の9名のメンバーの中に唯一の女性委員として指名された。その委員会の審議によって、「真理と平和を希求する人間の育成」を目的とする新しい教育基本法が作られた。
一方で学園生たちは戦後も戦時下と変わらず奉仕活動を続けた。障害者やらい病施設だけでなく、傷病兵を抱える各地の陸軍病院にも慰問した。戦時中、女学校の傷病兵への慰問はお国のために戦った尊い軍人として絶えることがなかったが、敗戦になると忘れられていった。事実、クリスマスの行事で訪れた病院で「敗戦になってから…あなた方が初めてです」と院長に打ち明けられた。河井の教育がどのようなものであったかが、これによっても伺える。戦時の厳しい情勢下にあってもクリスマスのお祝いは欠かさなかったが、自分たちだけでお祝いをすることは一度もなかったのである。当学園生は、創立者河井道の何事にもぶれず信念を貫く精神を見習い、誇りとすべきである。(同様な意味で、文京区:文京学院の島田依史子を参照)。
駒澤大学
日本の仏教宗派の一つである曹洞宗が1592年に設立した吉祥寺の学寮(吉祥寺会下学寮)を起源とする。明治8年(1875)専門学校として開校、その後統合を経て、大正14年(1925)駒澤大学へと発展した。この年から日中戦争勃発までの12年間は、文化の一つの成熟期で、当学も着実に学生数が増え、当時の単科大学としては1200−1300人という隆盛を誇っていた。戦後の昭和24年(1949)新制大学へ移行。以下は『駒澤大学百年史』などから。
昭和6年(1931)の満州事変を経て、12年の日中戦争(支那事変)開戦に伴って国民精神総動員運動が政府により提起され、それにより本来の講義は割愛され、陸海軍の将校を中心とした講演がしばしばあった。たとえば「支那事変と日本精神」(陸軍中将)、「八紘一宇の精神」(陸軍大佐)、「今次事変における海軍航空隊の活躍について」(海軍中佐)、「青年学徒の使命」(当大学長)、「戦争と禅」(社会学者)などである。他に毎日のように精神訓話がなされ、当学専門としての座禅も強化された。そして13年に国家総動員法が発令され、戦時統制下に入った。
大学や専門学校では陸軍の配属将校による軍事教練が週に2時間課され、このほかに富士山の裾野や習志野の演習場で一週間の訓練があった。また配属将校は学生の日常も監視した。勤労奉仕作業も始まり、中高生も含め神社寺院の境内や公共施設の清掃、農場の開墾、道路改修、農家の収穫作業の手伝いなどがあった。このころは学内の掲示板に出征する教師や徴兵年齢に達した学生に「祝」として名前が掲示された。
すでに植民地としていた台湾、朝鮮、満州に加え、日本が中国北部の各都市を占領したことにより、その統治事業を一体化するために13年末に興亜院(興亜とはアジアの興隆の意)が設立され、翌年全国の大学生に対して興亜勤労報国隊を組織させ、指導教官と共に交代で満洲などに派遣した。その内容は現地での国防建設、文化工作、集団的訓練、そして軍の後方支援と農耕土木への従事などである。このような世を挙げて戦争に向かう中、当学は昭和14年には学生数が700人台に急減している。一方で拓殖大学などは国策に準じた大学であったため、16年まで増え続けていて対照的である。
日中戦争が長期化する中、それを非難する米英等は日本に対し数々の政治経済的制裁を行なうが、16年(1941)12月8日、行き詰まった日本は米英に対して宣戦布告し、太平洋戦争に突入した。これに伴い大学や専門学校、高等女学校は翌年3月の卒業予定を12月に繰り上げとされた。学内にもそれまでの校友会などをまとめて報国団が組織され、翌年その中に報国隊が作られて勤労奉仕や軍需工場への勤労動員(有給)が推し進められた。その中で警護団としての防空訓練や鍛錬として遠距離の行軍や集団体操、水泳鍛錬が行われ、行事も多く、靖国神社の臨時大祭への参加、戦没軍人の英霊追悼、出征軍人の武運長久祈祷の法要、学生の中の志願者には壮行会、射撃訓練大会、海軍軍事教習などである。また不足する食料増産として学校のグランドの一部を畑として学生がその作業を担うこともあった。繰り上げ卒業は戦線の拡大による兵士の確保と逼迫した労働力の早期確保のためであったが、18年には半年繰上げて卒業は9月とされ、さらに学生に対する徴兵猶予が撤廃され、その適応年齢も下げられ、10月21日に神宮外苑で学徒出陣壮行会が盛大に開催された。残った学生は勤労動員で各地の工場に行き、逆に教師が工場に出向いて休み時間に必要な講義をした。
勤労動員としては、軍事施設の建設や食糧増産の作業、 航空機等の生産その他軍需工場に赴いて、当初は夏休みなどの休暇を利用した短期間のもので、昭和16年は陸軍衛生材料廠、昭和17年は立川の陸軍獣医資材本廠などであった。昭和18年には東京第二陸軍造兵廠多摩製造所へ各学年や学部別に4回に分けて交代で動員された。この年の10月の学徒出陣では駒澤の20歳以上の大半の学生が戦地に送られた。この時に学部一年だった森田孝観は、「18年学徒総出陣。上級生のほとんど全員と同級生の大部分 は神宮外苑であの学徒出陣壮行会の分列行進を行なってペンを銃にかえて征った。残された学部生は私のよう に早生まれで適齢に達しなかった数名と丙種以下の虚弱者や、戦傷帰還兵、晩学学生等合わせて20名をこえなかったと思う」と記している。
こうして学生数が激減し、大学の体力が弱くなる中で文部省より仏教系の駒沢、立正、大正の三大学を統合させる動きがあった。これはキリスト教系に対しても同様で、実際に青山の専門部は明治学院に統合させられた例もある。立正、大正は同意する雰囲気があったが、駒沢は山上学長の強い抵抗で実現しなかった。
以下は当時当時20歳で駒澤大学の歴史学科で学び、この学徒出陣で入隊した千葉県流山市の曹洞宗の寺の酒井文英住職の逸話である。
—— 雨の降りしきる東京・明治神宮外苑競技場で銃を担いで行進した。学徒出陣壮行会だ。「緊張したが、観覧席の女学生が“バンザーイ、バンザーイ”ときれいな声で送り出してくれましてね。清らかな気持ちになりました。ただ、担いだ銃が軽くってね」。担いだ銃は本物だったのか、木の銃だったのか、かなりインチキなものだったことは間違いない。なにしろ国防婦人会に竹ヤリを持たせて、米兵の火炎放射器と戦えというほどだったから。これは生きて帰れないかもしれないな、と思った。すでに兵器は不足しており、学徒全員が本物の銃で行進したわけではなかった。壮行会の前の晩、僧侶の父親は「行ってこい。辛抱しろよ」とだけ告げた。母親はこわばった表情をして無口だった。
酒井は海軍飛行科に配属された、偵察機や戦闘機のパイロットとして呉航空隊(広島)、土浦航空隊(茨城)、松山航空隊(愛媛)、大津航空隊(滋賀)と渡り歩いた。任務は本土防衛。海軍の7つボタンの白い制服は、女学生の憧れの的だった。「本土上空で出くわすのはたいがいB29で、モールス信号で敵機襲来を“ツツーカカー”と知らせるんですが、地上からの高射砲が命中したところは一度も見たことがない。敵の偵察機は3機編隊なので、単独飛行は心細く、向こうの戦闘機は速いので機体の後ろに敵機に回られないよう気をつけた」。
訓練は厳しかった。午前5時起床。毎日10km走り、ひじで地べたを這い続ける匍匐(ほふく)前進の練習を続ける。闘争心をあおる騎馬戦も。理不尽なことで罰を受けた。「気合を入れてやる」と上官の鉄拳制裁は日常茶飯事だった。仲間のひとりは60発ぶん殴られたこともあるという。互いに励まし合いながら、何度も夜行列車に乗って逃げようかと考えた。 松山航空隊にいたころ、忘れられない事件が起きた。「仲間のひとりが船のフックにひもをかけて首つり自殺したんです。訓練に耐えきれなくなったんだと思う。京大卒の優秀な男でしたが、人付き合いが苦手でちょっと孤立しているところがあった。“つらい”とグチをこぼすこともなかった」。
彼の自殺を報告したときの上官の言い方は、いま思い出しても腹が立つという。「上官は“おまえたちの死亡通知は3銭(切手代)ですむんだ”と言う。バカにしていると思いました。当時そばが1杯7銭です。そんな言い方がありますか」。数日後、彼の母親が遺骨を引き取りにやって来た。「軍は冷たい。軍隊葬もしなかったし、上官からお悔やみの言葉もない。お骨の入った箱を“はい”と母親に渡しただけ。息子の遺骨を抱いた母親は、何も言わず黙って帰っていきました。どんなにか泣き崩れたかったろうに。その後ろ姿がじつに寂しくて、今でも思い出すと胸が締めつけられます」。
ほどなく終戦を迎え、酒井は無事に寺に帰ることができた。出迎えた母親はただただ喜んだという。「仏の道から戦争に行くことにためらいがなかったというとウソになります。一度も交戦せず終戦を迎えられたことに感謝しています。そもそも、名誉の戦死なんて思えなかったから」。
(以上は『週刊女性』2015年9月8日号に掲載のものをネット上からまとめ直して転載した)
勤労動員は一層強化され、昭和18年(1943)10月から1ヶ月、江東区の宮地鉄工所・三菱鉄鋼、葛飾区の那須アルミニウム製造所での勤労奉仕が計画され、三交代制で行う予定であった。しかし残った学部生の人員不足で専門部・ 予科の二交代制で行うことになった。19年に入ると北辰電機製作所・古川鋳造株式会社、翌20年には三鷹の中西航空工業にて勤労動員を行なっている。このほかにも赤羽の火薬廠、亀井戸の三菱重工・用賀の衛生材料廠・南多摩の兵器廠・成増の飛行場などがある。この18年から終戦の年まで在任した山上曹源学長の苦労は並大抵ではなかった。連日鉄兜に巻脚絆、国民服に身を固めて、一方では学問の維持に当たり、一方では特設農場に行って鍬を振ることに明け暮れた。
昭和20年に入ると米軍による空襲が激化し、政府は4月から一年間の授業停止と通年の勤労動員を定めた決戦教育措置要綱を決定した。学徒出陣と勤労動員で空いた校舎の一部は運輸省の航空兵器総局輸送部の施設として接収された。そのためか、空爆を避けるため校舎は黒く塗りつぶされた。しかし5月の空襲により、旃檀林の伽藍と学寮は経蔵(書庫)を残して焼失した。空襲で日本の各地が焦土化する中、軍政府は本土決戦を唱え、6月21日には本土決戦に向けての学徒隊が結成された。その隊長 を山上曹源学長が務め、大隊長に西澤頼応学監が就き、以下教授陣によって中隊長・小隊長が占められ、この下に学生による「学徒隊」が組織された。この学徒隊は7月27日(この前日には連合軍によって日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言が発せられているが)「駒澤大学戦闘戦隊」と改められ、教授陣が隊長を務める各区隊に、学部(大半は中西航空工業株式会社に勤労動員中)・専門部・ 予科学生ら「学徒隊」が、学年ごとに編成された。しかし8月に入り、広島・長崎への原爆投下を経て、15日に終戦となった。
終戦を迎え、9月から二学期が始まり、それまで軍需工場等に送られていた学生が大学に戻ってくるようになると、 戦争中の軍事色の濃い学生心得が改められ、戦争中に緩んだ心得の引き締めや、戦前への回帰が目的であった。黒々と塗られた校舎の迷彩を取り除き、徴用されていた校地・校舎の整理も急いだ。11月1日には学友会が復活し、大学生活が戦前の状態に戻りつつあった。 出征・動員されていた学生が帰校し始めており、講義の復活や学級編成、校舎の復興など、戦後の大学運営を迅速に進める必要があった。12月10日から翌1月19日までを冬期休業とし、21日に 3学期始業式・授業開始を予定していたが、「諸 般の事情に鑑み」冬季休暇を更に延期し始業式は 2月11日に行なわれることに なった。この21年には学生数は戦地から復学するのも含めて1000人に回復した。当校は戦災としては一部の焼失にとどまったが、出征者と戦死者は不明である。
東京農業大学
明治24年(1891)、東京麹町区(現・千代田区)飯田河岸に、北海道開拓に携わった榎本武揚が徳川育英会育英黌農業科を設立。翌年、農地確保のため小石川区(現・文京区)大塚窪町に移転、さらに翌年、徳川育英黌より独立、私立東京農学校へ改称。明治30年(1897)大日本農会に経営移管、附属私立東京農学校と改称。31年に皇室の御料地である渋谷村常磐松(現・渋谷区渋谷4丁目付近)を借用して移転。44年(1911)専門学校令により私立東京農業大学と改称し、本科大学部・予科大学部・高等科を設置。大正14年(1925)大学令により東京農業大学が設立され、農学部農学科および予科設置。昭和3年、樺太庁から農耕・牧畜用の農場の無償交付認可を受ける。昭和12年(1937)12月、専門部農業拓殖科設置。昭和20年(1945)4月、大学農学部農芸化学科および大学農学部農業土木科を設置。5月25日、空襲により常磐松校舎の大部分を焼失。敗戦後の21年、被災した常磐松の地を青山学院に売却し、東京都世田谷区世田谷4丁目にあった陸軍機甲整備学校跡地に学校移転。現在の世田谷キャンパスとなる。16年、満州国委託農業土木技術員講習部を設置。
<満州における農場建設>
以下は『知られざる東京農大史』(内村泰著:東京農業大学出版会、2017年)を骨子とし、多少筆者の説明を加えている。
昭和5年(1930)から6年にかけて昭和恐慌が日本を襲った。それは前年にアメリカで発生した世界恐慌の影響であった。当時の日本の輸出の主力産業であった生糸の価格が暴落し、それに加え、東北の農村では凶作となり娘の身売りが多発し、都会では「大学は出たけれど」就職先のない時代であった。そのような中で昭和6年(1931)9月、国民の不満のはけ口を吸収するような戦争、満州事変が日本の関東軍(日露戦争後に中国東北の遼東半島南端の関東州租借地に置かれた軍)によって引き起こされた。これが15年戦争と言われる発端である。
東京農大にあっても卒業生の就職先は困難な時代であったが、昭和7年3月に関東軍の傀儡国家である満洲国が設立され、農学校としてはむしろ飛躍のチャンスと捉えられた。この後の6月、農大の吉川学長も満州へ一ヶ月間の視察に行き、帰国後、満州農学科設立構想を打ち出した。新たな土地では農業が大事であり、満州において農作に従事する人々を養成するパイオニアとして動こうとするもので、理事会に諮り、十分な計画案を作って文部省に申請した。しかしその案は文部省に却下され、その理由は新たな学科の増設は現在も溢れている学生を一層多くするし思想的にも問題学生を生じる可能性があるとされた。次なる案として満州農業講習会を企画し、世間にも発表した。しかしこれも当局が色よい返事をせず、沙汰止みとなった。ただこの企画は早すぎたきらいがあり、事実この後昭和12年の日中戦争に至るあたりから、各大学で拓殖学科が設置されるようになり、当学もその12月に農業拓殖科を設置した。その結果、農大はある意味後手にまわり、終盤に悲劇を生むようになったのかもしれない。
一方で政府は試験移民として昭和7年(1932)満州第一次武装開拓団500人近くを満州北部、ソ連との国境近くに送り込んだ。この武装開拓団とはすでに軍隊で徴兵を終えていた30歳までの若者達で組織され、その後に移民してくる日本の貧しい農民のための用地獲得と国境の警備も兼ねていた。なお昭和13年(1938)にはさらに20歳前の若い満蒙開拓青少年義勇軍が結成されて送り込まれた。この開拓の流れに合わせて13年(1938)、学部に農業経済科を設置、15年には専門部に農業工学科を設置。16年、満州国委託農業土木技術員講習部を設置するが、これが当初計画されていた満州農学科のささやかな実現であったろうか。
14年(1939)には大学の軍事教練が必須科目となり、15年には国会で全政党が解党、大政翼賛会が成立し、挙国一致体制となった。16年には戦時体制に沿う学生報国隊が結成され、これが勤労動員に組み込まれていく。軍政府はこうした準備をして12月、太平洋戦争に突入した。
昭和17年(1942)農林省の企画で満洲国報国農場の実施が進められ、翌18年、食糧増産対策の一環として閣議決定、それを受けて農大も満州農場設立に動いた。その準備に9月に現地調査を行い、19年4月末、二人の教師(住江教授・大田助教授)を含めた先発隊8名が出発、続いて先遣隊本隊24名が満州へ向かった。建設は満州の東安省密山県湖北を選定、約二ヶ月を費やし苦闘の末、本部設置を終えた。
「湖北駅の学校を宿舎として朝は3時に起きて炊事、弁当を持って7時に出発、3時間あまりを歩いて現場につき、宿舎建設の作業を終えてまた3時間をかけて戻り、毎日これを繰り返した。……こうしてまず3棟の宿舎ができると入植した。宿舎は満州開拓公社が開発した木造の組立て式パネルの8畳二間の住居で、プレハブ住宅のはしりであった。土間には薪ストーブがあり、板の間にはアンペラと呼ばれる筵を敷き、そこに布団を敷いて寝る。照明は灯油のランプで一棟に20人まで収容できた。引っ越しがまた大変で、車が通わないから食糧・食器・家具・身回品すべて背負袋で運んだ。……ここから開墾・道路造り、整地・種下ろし・宿舎増築・倉庫・家畜舎・苦力(クーリー:現地の労働者)小屋などの造成にとりかかった」。
これを受けて19年7月末、本隊120名が満州に向かった。この大学村は湖北報国農場として広大で7500ヘクタールもあった。ここに食糧自給の基盤を立て、家畜も入れて開拓農地の理想郷を作ろうとするもので、そのために満州駐留軍の除隊になった者、内地から移住希望の者を加え、ゆくゆくはの農業学校も建ててその子弟を教育する計画であった。さらなる宿舎造りと幹線道路の建設などを進めつつ、そして耕作も最初はシャベルと鍬だけであったが、馬20頭も入れて能率的に耕した。畑には西瓜・南瓜・大豆.茄子・馬鈴薯・玉葱・甘藍(キャベツ)などが作付された。
ただ満州の地の冬季は酷寒で、すべての屋外作業は雪の降る10月末までに終えなければならなかった。最初の本隊は11月初旬まで滞在して500町歩の開墾と10町歩の水田耕作に従事して帰り、翌春には新部隊が渡満する予定で、それまで10数名が越冬班として残る予定であった。しかし軍事がすべてに優先する当時、「軍事教練の定期査閲に欠席は許さぬ」との配属将校(各学校に配属将校がいたが、当時は学長や校長より配属将校のほうが権限を持っていた)の強硬な発言により、すべてを放棄して全員帰国せねばならなかった。約三ヶ月後の翌20年になって、数人の拓殖科七期生が訪れたときには畑は荒れ、留守を委ねた現地人労務者の不始末で一棟の焼失により農機具等すべてを失う結果となり、その後の運営に決定的な打撃を与えるに至った。続いて4月1日に拓殖科八期生の入学式が早めに行われ、いきなり満州に行くことを告げられ、各自準備をして10日に満州に向けて出発した。大学には一日出ただけであり、ほぼ16−17歳の少年たちである(注:当時の学制は中学校が5年制で、大学の編成は高等部・専門部・予科などを経て3年制の大学に進級する形になっていて、中学4年からでも高等・専門部などに入学することができた)。そしてこの年8月15日の終戦間際、9日にソ連が突然宣戦布告して満州に侵攻した。その結果、この春満州に渡航した一年生87名のうち、53名が死亡・行方不明になった。また実習の運営にかかわった上級 生3名と教職員2名が犠牲となった(この経緯と惨禍については下記参照)
<学徒動員・学徒出陣と疎開と終戦>
昭和6年(1931)に農大は樺太(当時の日本領で現ロシア領サハリン)に寒冷地農場を開設し、世界最北地での初の稲栽培に成功した。12年(1937)に農業拓殖科が設置されると、学生は樺太 での実習を行い、15年(1940)には当時の満州通化省、吉林 省およびミクロネシアのヤップ農場などでも実習を開 始し、それらは終戦まで継続して行われた。特に12年以降は拓殖科の一年生が樺太、二年生は満州、三年生は台湾での実習が行われたが、それとは別に満州へは勤労奉仕隊として三ヶ月交代で通っていた。
昭和18年(1943)の秋、学生の徴兵猶予が停止され、主に文系大学生に対する学徒出陣が実施されたが、東京農大の農芸化学科と農業土木科は理工系と同じ扱いで直接戦地に赴かされることはなく、農事試験場、農業会、地方各県の農業関係機関頭に動員された。そのほかは軍需工場への勤労動員もあったが、喫緊の課題である食糧生産のために各地の農村や農業機関に配置された。しかし農芸化学科や農業工学科は19年あたりから学生ではなく若い研究員に召集がかかり、戦地に行く者が次第に増え、逆に勤労動員として女学生が研究室に送られてくることもあった。また農大の中には食糧科学研究室があり、ここでは救荒食(災害時の代用食物)としてパンの研究をしていたから、軍から特別に小麦の配給を受けていて、しばしば教職員と学生に試食としてパンが配られ、食糧不足の中、感謝された。
学徒出陣には上記の特定の学科以外は召集されたが、当時の農大新聞に「出陣学徒を想ふ」という助手の書いた手記が載せられた。——「これは去年の話であるが、寒い日、私は多くの学生と一緒に実習をしていた。その内の二人が翌日出陣するのを知った。麦を撒きながらその二人が、この麦は来年収穫してまた蒔きますかと聞き、また蒔くと答えると、それで僕らも安心した、僕らが戦死しても毎年毎年僕らの魂のこもった麦が穫れるといって互いに微笑んでいた。私は今でもその言葉を想い出しては胸を熱くし、……大きくなった麦を見る度に、殊に霜の朝など麦を見ると、今頃(戦地で)苦労しているのではないかと、出陣学徒の健在を祈って止まないのである」。このほか、出陣学徒一人の手記として、「私は農大入学して初めて学問に接した気がした。今心残りなのはその学問から離れることである」という言葉もある。
20年に入ると戦局は厳しくなり、また米軍の空襲が本格化し、各研究室は地方への疎開を検討するようになる。それとともに農業土木科(元は工学科)の学生は秋田県の土地改良事業に動員されつつ、教授の講義も受けた。その他青森、岩手、山形、宮城県の土地改良事業にも動員されたが、ほぼ肉体労働であった。
そうした中で、3月10日の下町への大空襲とその大災害を受けて、農業土木科は研究室の実験・研究器材を疎開させることになり、何ヶ月もかかってなんとか荷造りをし、渋谷駅での順番待ちとなった。ところが5月25日深夜、前日未明の大空襲に続き、山の手大空襲と呼ばれる東京への最後の大空襲があり、渋谷区の大半が焼失し、農大も講堂、図書館、動物教室を残して灰燼に帰した。そして発送を待つばかりの機材も燃えてしまった。
これにより各研究室は6月から7月にかけて疎開先への移転を始めた。その地はそれまで学生が動員されていた東北各県であり、秋田県田沢湖畔の農地開発営団、岩手県の小岩井農場、中には栃木県で松根油製造というものもあり、これは松の根の油をガソリンの代わりにしようというものであった。また開発的なものではなく、群馬県の農家へなどは単純に人手不足の農家に農作業に行く場合もあり、都内の緑地を開墾して食糧増産にはげむ作業もあった。こうして大学内にはほとんど人影が見られなくなったが、バラック小屋で研究を続ける教師もいた。
8月15日、重大発表があるとの知らせがあり、大学にはラジオ一つ残っていず、正門前の家の許しを受け、学長以下30人ばかりで整列して聞いた。「戦争は勝つものと思っていたので、拍子抜けの態であった」という人もいたが、研究者というのは、その自分の研究以外にあまり目が行かず、戦況を把握できなかったせいであろう。
その前の8月6・9日の広島・長崎への原爆投下と、9日のソ連の対日参戦が決定的な出来事としてあるが、ソ連参戦により樺太と満州の農大の農場は失われた。樺太農場は開墾されていた農地と建物や乳牛、馬をそのまま失ったが、満州は本格的開拓前であった。
<満州農場(湖北報国農場)における殉難>
この農場は上記に記すように、東京農大自身が戦争終盤の昭和19年(1944)から満州で推進した事業であるが、昭和20年に入学したばかりの学生たち(拓殖科八期生:16−17歳)に悲劇をもたらすことになった。しかし例えば農大のサイトの中の「大学のあゆみ」には、昭和20年(1945)までの20年間の記載が全くないという中途半端な形になっていて(ただし別なサイトには存在する)、100年史などでもわずかしか触れられていず、タブーとして扱われているようである。上記の『知られざる東京農大史』においては、その空白を埋めるとしていて、それまでの経過は記されているが、現地で起きた悲劇の具体的な記述はない。
以下はその実態を追って書かれた『農学と戦争』(足達太郎・小塩海平・藤原辰史共著著:岩波書店、2019年)から抜書きしたものである。
この農場の建設に最初から主導的に関わっていたのは助教授の太田正允であり、彼は南米での開拓で長期に滞在した経験もあり、主事として19年の先遣隊をリードし、現地で学生たちを指導していた。上記のように19年では六、七期生が中心となって農場建設に従事していたが、大半の学生は越冬要員を残していったん引き揚げ、新たに入学したばかりの拓殖科一年生が満州に向かうことになった。20年4月10日、その71名が一次隊として東京を出発、当時の鈍行列車が下関港に着いたのは二日後であった。しかし近辺には米国の潜水艦が出没しているとして、博多港に移動、一日おいて何とか釜山港に着いた。そこから列車に乗って満州に向かったが、学生たちは二日分の食料しか携行していず、空腹に耐えねばならなかった。首都京城でようやく二人に一個の弁当が支給された。そこからハルビンを通りぬけ、牡丹江に到着、ここでやっとまともな食事ができた。さらに半日かけて東安駅に着き、そこでは一期生で副農場長の佐久本嗣秀が出迎えた。そこで1日を過ごし、湖北駅に向かった。この駅は駅員もいない信号所にすぎず鉄道守備隊がいるだけであった。そこから暗夜の中を3時間歩いて農大満州農場に着いた。ときに4月21日深夜、足掛け12日を要した。前年の行程は6日間であったが、後続の二次隊はもっと苦難を要し、三次隊はそれどころではなかった。なお太田主事は満を持して最後の三次隊を率いた。
6月上旬には入学式に間に合わなかった者と追加合格した者14名が二次隊として出発、この二次隊は5月25日の空襲により常磐松校舎が焼失した後のことであり、学生の他に常磐松開拓団の先発隊20名を伴っていた。この常磐松開拓団とは、農大の地にちなんだもので、それまで東京の空爆で焼け出された住民で構成され、東京都の要請もあって農大が引き受けることになった。その集合地は被災した東京ではなく、出港地の敦賀に集合した。続いて三次隊が結成されて6月26日に出発した。この三次隊は一年生2名と六期生1名だけであったが、これに常磐松開拓団の家族と単身者約30名が加わっていた。この三次隊は太田主事が引率し、自分の妻と4人の子供を伴っていた。この時の太田は満州に骨を埋める覚悟だったとされる。
三次隊は、敦賀からの出航を待つ間、空襲にあい舞鶴に変更。舞鶴では船が機雷に触れて座礁、敦賀に戻って8月3日に出航、朝鮮の元山に上陸、そこから列車で牡丹江に着いて市内の宿に入ったのは8月9日午前一時、その時空襲警報が発令され、これは米軍によるものではなく、ソ連軍によるものだった。6日には広島へ原爆が投下され、その虚をついて8日にソ連が日ソ不可侵条約を破棄して宣戦布告、翌未明、つまり太田たちが牡丹江に着いたころにソ連軍が満州に侵攻を開始したのであった。朝になり太田は湖北農場との連絡に奔走したが、その同じ9日の11時に長崎にも原爆が投下された。
一方で湖北農場では中国人雇用者からロシア軍が攻めてきたとの知らせが届いた。学生たちには信じ難いニュースであったが、数名が町の様子を見に行くと日本側の警察署や鉄道警備隊がいなくなり、周辺の開拓団は避難の準備を進めていた。翌10日、全員(一年生を主にした83名と常磐松開拓団員)が農場から退避することになり、六期生の岸本嘉春一人が残った。すると現地で恨みを持っていた中国人たちの一部が襲ってきた。この農場に限らず、もともと満州の開拓地は現地人から安く買い叩くか、武力によって土地を取り上げたものであった。当面は現地の老人が岸本を匿ってくれたが、日本の関東軍も放棄して逃げていて、長くいるわけにもいかず、岸本は農場の宿舎を焼き払って農場を去った。
農場からの退却は食料を積んだ先発隊と本隊に分かれて東安(現・密山)に向かっていたが、混乱の中で落ち合うことができなかった。東安には副農場長の佐久本が妻の出産に立ち会うためにいて、先発隊の学生3名がその付き添いとして最後の避難列車に乗り込み、その発車の汽笛が鳴ったその瞬間、大爆発が起き(日本軍が仕掛けていた爆破によるもので東安駅爆破事件とされる)、黒咀子開拓団851人のうち557人が犠牲となった。学生たちと乳児は後方の無蓋車にいて助かった。ちなみにこの佐久本はナチス・ドイツが5月に降伏した話を受け、おそらく勝利したソ連(ロシア)が、次は満州に侵攻してくることを予測したのか、学生たちを帰還させようと動いたが、非国民、敵前逃亡扱いされて断念したという。
東安からの逃避が無理となり、学生たちは100km先の七台河市勃利に向かった。街道沿いの日本人開拓村はほとんどが略奪されたあとだった。ようやく到着した勃利では日本軍が市街戦を行なっていた。そこで別に逃げ込んでいた先発隊の8名が日本軍に編入されてしまった。そのうち2名が戦死、2名が重傷を負った。遅れて勃利に着いた本隊はさらに林口を目指した。途中の山中ではあちこちで行き倒れた開拓民の死体もあり、首を絞められた幼児の死体もあった。そして林口もソ連軍に掌握されたと知り、さらに100km以上ある牡丹江を目指した。それから幾日も経ち、日本軍の少尉と出会い、投降するようにとのこと、9月7日になっていて、この時学生たちは初めて終戦を知った。本隊では2名が亡くなっていた。投降した農大生たちは海林などの収容所をたらいまわしされたあと、牡丹江の収容所に集められ、皮肉にもここで先発隊と本隊がやっと合流でき、およそ70人がいたとされる。
ソ連軍当局はこの牡丹江の収容者の解放を9月下旬に順次始めた。膨大な収容者を扱いかねたためとされる。満州で捕虜になった軍関係の人々の大半はシベリアの収容所に送られたが、一般人の多い牡丹江の収容者はその意味で幸運であったとは全く言えなかった。解放されたといっても、10月から急速に寒くなる北の大地に放り出されたということで、ここからさらなる苦難が始まった。解放された農大生は個別あるいは数名のグループに別れて行動し、まずは難民の救済活動が行われている都市(ハルビン・新京・奉天)に向かったが、鉄道は分断されてほとんど徒歩であった。たどり着いた収容施設でも食料は自分で確保しなければならなかった。しかし学生たちの体は長い逃避行で衰弱していて、11月から12月にかけて、病院に入っても食料や薬もまともになく、また発疹チフスなどの病気で次々と死んでいった。このように翌21年2月までに衰弱死か病死で死んだ者は、牡丹江で10名、ハルビンで17名、新京で13名、奉天・撫順で5名と記録され、湖北農場を脱出した学生・教職員合わせて100名近くの半数以上(56名)が帰国できずに無念にも死亡した。
つまり死者のほぼ全員が終戦後に死亡したわけで、これはフィリピン戦線などで戦後にもその島々に残されて大半の兵が餓死で亡くなった例に相似する。国内では連合軍に占領される中で、国民を守るべき官僚たちが自分たちの保身に走り、海外に残した多くの兵士や民間人に思いを致さなかった結果でもある。政府は帰還船(引揚船)を出したが、満州地区に向けては葫蘆島に出した第一陣が21年(1946)5月7日であるというからいかにも遅い。
さて、三次隊として湖北農場に行けず、牡丹江で足止めされた太田主事は、農場と連絡が取れないまま、30km南方の寧安に満蒙開拓青少年義勇軍の訓練所があり、そこに学生や常磐松開拓団30人とともに避難することにした。だが訓練所に落ち着いたのも束の間、寧安にもソ連軍がやってきて、さらに避難しようとしたが途中で義勇軍との多少の戦闘があったのち、太田たちはソ連軍により寧安の東京城に移送された。そこまでにソ連軍の略奪と暴行にさらされ、集団自決を考えるが肝心の毒薬が手に入らず、収容所を点々とするうち、太田の末っ子の男の子を赤痢で失った。そんな中でソ連軍の将校がやってきて、体力のある壮年男子を募集しているとして、農大生3人と開拓団1名が指名され連れて行かれた。連行された土地はシベリアであった。その地で3名が死亡、行方不明となり、帰国できたのは1名だけであった。そして太田も厳冬の中で体を壊し、2月に発疹チフスで倒れて死亡した。最後の日々、太田は「学生たちがこういうことになって、自分は責任者として生きて帰れない」と語っていたという。
こうして満州の厳冬から生き残った農大生たちは21年(1946)の6月から9月にかけて引揚げ船に乗ってそれぞれ帰国した。その中の六期生の一人、広実平八郎(当時20歳)が大学に報告に行くと、「君は責任者となっているが、君が帰ってきたらみなわかることになるから、帰ってきてもらっては困る」と引揚げ担当の教員が言い放った。責任者とはまったくの言いがかりで、当時連合軍の占領下にあって、大学も戦時協力者としての責任を必死に逃れようとしていた(もちろん拓殖科の学生たちに心を痛めている教師もいたであろう)。農業拓殖科の教職員(住江教授も含む)をすべて解職し、名称を開拓科に変えた。しかしこの科としてはすでに学生の応募は皆無であった。こうした状況の中、帰国した学生たちは心身の異常や不調(原因不明の発熱や毛髪がごっそり抜け落ちるなど)をきたしたものが多かった。心に傷を負った「精神神経疾患」、今で言うPTSDである。数年後に自殺した者もいる。
無念の死を遂げた学友たちの遺族に対し大学も善後処理として遺族に書類などを送る必要があったが、あえて不達になるような細工をしたという。したがってその死を伝える役は生還した学生たちであった。それぞれの実家に赴き、その場では針の筵となる。すべてではないが、「君は生きて帰れてよかったね」と親たちに言われるわけである。なお、行方不明者は2名いる。
実は八期生は出発前に入学金とは別に実習費用を納付したが、それとは別に満州での小遣いとして当時の金で150円(現在で30万円くらいか)を盗難や紛失などを避けるためとして大学側に預けた。しかしそれは農場到着の前にも後にも一円も引き出せなかった。
大学に戻ってきた八期生は昭和23年(1948)3月が卒業となった。その20日、満州農場殉難者の合同慰霊祭が、生還した学生と遺族の強い希望で行われた。場所は戦後に移転した世田谷キャンパスに近い豪徳寺であったが、大学側から出席したのは事務方のみだった(注:筆者は広く戦時下の大学の事情を記述しているが、これほどに大学側が自校の犠牲者を冷たくあしらった例を知らない)。ただ、33回忌にあたる昭和52年(1977)の慰霊祭では世田谷キャンパス内に慰霊碑が建立された碑の正面には「寂」の文字が刻まれ、玄室には殉難者の氏名が安置された。
湖北農場に一人残った岸本はしばらく行方不明であったが、数年を経て帰国した。彼はその手記において、「今から考えてのことで、湖北農場の土地は中国の土地であり、この土地の中国の人たちから見れば、われわれがどんな存在であるか、入植当時のわれわれにはその本質的なことについて考えた者も、その結末を予想した者も一人もいなかった。殉難した多くの学友の鎮魂のためにも、また同じことを繰り返さないためにも、あの土地は外国の土地であったということを重ねて銘記したい」と語っている。
さらに岸本は上記の広実とともに満州を脱出してから41年後の昭和61年(1986)、慰霊の旅として湖北農場を訪れた。その場所は開発が進み、ダムができて湿地が干拓されるなど、国営農場となって風景が一変していた。その農場にいた中国人隊長は二人に警戒感を示していたが、事情を説明すると隊長の態度は一変し、岸本たちが慰霊のために用意した銅版を農場内に設置することを許可してくれた。その銅版には「日中不再戦/東京農業大学湖北会」と彫られ、またもう一面の銅版には「寂」の時の下に「1945/拓殖の道ひとすぢにすすめよと清き眉あげ逝きし君はも」と彫られている。
この歌のついでに、生存者の一人、村尾孝が後年執筆した著書『萱草の花野の果てに』に書かれた俳句が『農学と戦争』の序文に引用されていて、その中のいくつかを拾う。
「夏終わる苦力(クーリー)に声かけぬまま」—— 広大な農場での開墾は日本人だけではとてもできるものではなく、現地の苦力の力が必要であった。あるいは自分たちが奪った土地にいた農民たちを、日本で言う小作人のように使役した。若い学生であるから、その苦力たちに感謝する気持ちは抱いていたであろうが、農場から逃避するときに、何の声もかけないまま去ってしまったという悔恨であろう。
「高粱飯くれたる爺に万年筆(ペン)与ふ」—— 自分たちが逃げる途中で農家の老人が高粱飯を分けてくれたお礼に万年筆を与えたということであるが、逃げる日本人に復讐もせず、こうした善意で助けてくれた中国人の話は少なくない。
「土払いこぼれ大豆を拾い食ふ」—— 多くの開拓団を入植させた日本の関東軍のほとんどはソ連軍の侵攻を知って先に逃げ、残された居留民は逃げ惑いながら途中で目にした畑の土に残った大豆をそのまま食したということだと言う。
「弾五発斃れざる馬花野跳ぶ」—— 食糧が尽き、一緒にいる軍人たちが農学生なら馬を捌けるだろうと、村尾に銃を渡し、しかし弾五発でも馬は斃れなかった。
「氷つく霜が死化粧友の顔」—— 名句とも言えるが、厳寒の中で一緒に逃避行してきて、ハルビンの収容所で働かされながら倒れ、死んで行った友の顔に霜がついていた光景である。
<報国農場について>
終戦時、満州には農大の湖北農場を含めて70近くの「報国農場」が存在し、4600人ほどの「隊員」が派遣されていた(注:これはいわゆる満蒙開拓団ではなく、その開拓団の総数は約27万人とされる)。満蒙開拓団は主に拓務省の管轄で、早くから実施されていた。この報国農場とは、農林省が食糧調達を主旨として遅ればせに企画したものであり、そのほとんどは13歳から20歳までの少年少女たちであって、その理由は18歳以上の男子は農場からも戦争終盤には戦場に召集されていたからである(実際に農大拓殖科の学生たちも18歳に達していなかった)。その中には現地の日本人学校の勤労奉仕隊も多くいた。一般の開拓団も壮年男性は招集され、村に残るのは女性子供と老人だけであった。その状態でソ連軍の侵攻に遭い、それに加えて占領していた日本人に重圧を受けていた現地の労農者たちの反乱があり、逃げる他になかった。そして農大の八期生と同様に、多くの若い男女と女性、子供たちが死亡した。『農学と戦争』では全国の報国農場の記録の多くを取り上げ、簡略にまとめられているが、その惨禍はとても逐一読むに耐えない。これに満蒙開拓団全体を通して見渡せばどれだけの惨劇が展開されていたのであろうか、想像することも難しい。
その中で、当時の多くの報国農場や開拓団の記録・書類が戦後に焼却されている事実が書かれている。これは「県の焼却措置は中央政府の命令による」あるいは「占領政策を慮って、満州開拓政策一切の公文書を焼棄した」とあり、「そうして結局は私をはじめ隊員たちの記憶の中のみにしか報国農場は存在しなくなってしまった」のである。事実、『農学と戦争』によると、満州の東寧報国農場に事務方で勤務していた平田弘が、戦後、農林省の農事振興会(農業報国連盟の後継団体)に入局し、その引揚げ対策室で仕事をしたが、そこで廊下に山と積まれていた廃棄書類の中から、残しておくべきと見た重要書類を抜き出して保管していて(平田資料)、それを『農学と戦争』の著者の一人小塩海平が入手し、その一部をこの本の中に転記している。
これについては筆者も折に触れて書いているが、敗戦と決まるやいなや、軍政府は戦時関連書類の焼却を国内だけでなく、海外の占領地の官・軍にも命じた。つまりこの戦争を遂行した国の責任を逃れようとしたというか、この戦争(聖戦と言われた)をなかったことにしようとしたのである。これでは国に殉じた特攻隊員も浮かばれない。たとえば各市町村では当然出征記録があったが、その基本的な記録をも焼却させた。それが残っているのは、当時の村単位の20の村のみで、政府の指示に逆らって兵事係の担当者が個人宅に持ち帰った場合のみである。これは上記の「帰ってきてもらっては困る」と東京農大の引揚げ担当の教員が、やっと苦難を経て大学に戻ってきた広実に言った態度とまったく同じである。農大としては満州に農場を作った事実がまずい過去としてあったのである。自分たちが国策に乗って満州に追いやり、その多くの学生を犠牲にした責任を取らないとは、どういう大学なのか。しかも入学したばかりの学生の入学金・授業料と実習費その他を先に徴収しておいて、せめて弔慰金として、そのお金を工面した父兄たちに返すべきであったろう。これは農大の例ばかりではないが。
記録という面では、農大の湖北農場については、若き生還者たちが各所で記録や著作を残していて、ここに取り上げているのはその一部に過ぎない。一方で、昭和20年の農大の二次隊と三次隊に同行した常磐松開拓団の一般の人たち約50名の動向は杳として知られていない。生還できたのは数名というが、その中でただ一人の証言者がいた。輿石大仁郎である。これについては渋谷区を参照。
<新校地の獲得>
空爆により校舎を焼失した大学・学校は数多く、戦後、新たな校地の獲得に走った学校も少なくない。その新たな校地の対象は必要とされなくなった軍用地であり、それを校舎を失った各校が競いあった。農大ではまず一部の授業再開のために8月末、世田谷にある農大の用賀農場に隣接する陸軍機甲整備学校と交渉し、そのひと隅にある倉庫と兵舎を借用することになった。それをきっかけとして、機甲整備学校を校舎ごと払い下げを受けることになった。なお、戦後しばらくの間、この地に戦車が放置されたままであったという。この他に千葉県茂原の海軍飛行基地跡の払い下げも受け、大学復興の基礎となった。
ただしこの時期、上記のように満州で放り出された拓殖科の学生たちが、極寒の地の逃避行で次々と命を失っていたことを、どれだけ大学の上層部の人たちが想像しえていたであろうか。
昭和女子大学(旧・日本女子高等学院/昭和高等女学校)
大正9年(1920)、良妻賢母の女子高等教育が主流であった当時の社会風潮に対して、社会に対して開いた女性の確立を目指し、詩人の人見圓吉(人見東明)が文京区に日本女子高等学院を創設する。大正11年、日本女子高等学校に昇格。昭和2年(1927)財団法人日本女子高等学院を設立。昭和20年(1945) 戦災で校舎を失い、世田谷の旧陸軍近衛野戦重砲兵連隊跡地(現校地)に移転する。21年、財団法人東邦学園を設立し、日本女子専門学校を開設する。22年、 義務教育制度の導入により、昭和高等女学校の5年課程のうち前半3年間を分離し、昭和中学校とする。23年、学制改革により、昭和高等女学校の課程のうち後半2年間が昭和高等学校となる。24年、新制の大学令により日本女子専門学校を昭和女子大学に改組する。以下は『昭和女子大学七十年史』からの抜き書きである。
昭和初期、アメリカに端を発した世界恐慌による不況が国内をおおい、失業者が巷にあふれ、さらに凶作が追い打ちをかけ、農村は貧困と飢餓にあえいだ。その中で自由主義、個人主義、社会主義の思想が広まっていった。大学も学生運動が盛んになり、政府はそれらに対して治安維持法を強化し、共産党などを徹底的に弾圧して行った。そうした背景の中で、軍部勢力が台頭し、国内の不満の捌け口を海外に求めるようになる。そのための新天地開拓として、日露戦争や第一次大戦で日本が橋頭堡を確保していた中国北部の満州があった。そして昭和6年(1931)日本は満州事変を起こし、翌年満洲国を設立するが、欧米列強としてはアジアの利権を脅かすものとして認めるものではなく、その結果日本は国際連盟を脱退した。
日本軍に侵攻された中国内では当然のこととして反日、抗日運動が盛んとなり、各地で日本軍と衝突が起こるようになり、昭和12年(1937)7月には北京で盧溝橋事件が発生、それをきっかけとして8月に日中戦争(支那事変)の開戦となった。そのことでますます日本は国際的な孤立を深め、それを打破するため、欧州における独裁政府のドイツ・イタリアと軍事同盟を締結した。米英は日本の中国への侵攻を非難し、海外資産の凍結も含め石油の禁輸など経済制裁を次々と課した。日本は物資不足に陥り、米英を敵とする風潮が国内に強まった。避け難い衝突を避けようと政府も裏で努力したが、最終的に米国は中国からの撤退を求め、それに対する軍部の強硬論が勝って昭和16年(1941)12月8日、日本は米英豪に宣戦布告し、太平洋戦争が始まった。
この戦争は大東亜共栄圏建設のため大東亜戦争と名付けられ、日本軍は天皇直属の皇軍であり、当然正義の戦争とされた。日中戦争の時代から出征は名誉とされ、徴兵されたものは万歳三唱で送り出され、戦死した者は英霊とされた。少しでも戦争に反対する者は非国民とされ、前線で戦う兵士に対し、国内で支援する立場を「銃後」とし、大日本婦人会や各種の団体が結成され、女学校もその渦に巻き込まれていった。国民は勝利を信じ込み、あるいは信じ込まされ、勝つまではと戦時下のあらゆる困苦窮乏を耐え忍んだ。
創立15周年を迎える昭和10年(1935)頃には当校への志願者は全国から増え続け(当時の日本の植民地、台湾・朝鮮・満州からもあった)、隣地の土地を買収などして13年までに校舎や寮舎を次々と増設した。また多摩郡保谷村に武蔵野学寮、神奈川県二宮に湘南学寮も建設、寝食を共にした教育も行われた。この時期の女学校(五年制で今の中学校と高校2年まで)における行事などは活発で、春には文芸会、秋には展覧会などの文化活動、そして運動会などが学園と生徒の総力をあげて行われていた。この時代のどの女学校もそうであるが、学校生活を謳歌していた雰囲気がある。それはこの時代の貧困層は女学校にはまず通えず(多くの女子は義務教育の小学校まで、せいぜいその上の二年制の高等小学校までであった)、生活に余裕のある一定以上の家庭の子女が通う場所であったからであろう。
昭和12年(1937)に日中戦争が始まり、学校にも戦時色が反映されてきた。すでに戦死者が出始め、出征した生徒の父兄の死に対し、「護国への忠烈を感謝し且つ御霊をお慰め申し上げ」て全校生徒が黙祷を捧げ、さらに教職員と代表生徒が遺族の方々を弔問し、弔意を捧げた(このような行事は戦争終盤になると行われなくなり、また出征兵士に対する万歳三唱も同様であった)。また日本軍の上海戦における快進撃を祝勝するための提灯行列に参加、全校生徒約千人が夕刻に一旦学校に集まり、まず氷川神社に参拝、上高田、新井を経て(路行く人々の万歳には提灯を掲げて答えつつ)電信連隊正門、中野区役所に至り万歳唱和、ついで中野大通りなどを経て8時半帰校、解散した。
またこの時期どの女学校でも行われたが、出征将兵慰問として、慰問袋と下帯を教職員、生徒、交友が一丸となって作製、慰問袋の中に慰問用の品物を入れ、まず約1500個と下帯3千枚以上をトラックに積み込み、陸軍省に納入した。その後も軍服の襟章、肩章、傷病兵の白衣の製作が陸軍より依頼され、生徒は毎日放課後2時間ずつ作業奉仕した。また9月に防空演習が行われ、校庭に焼夷弾、瓦斯(ガス)爆弾を投下して行われる。(注:米軍が日本に本格的空爆を行うのは太平洋戦争終盤になってからであり、なぜ早くもこの時期からという疑問が残るが、実は日本軍は8月の日中戦争開戦から大量の空爆を毎日のように中国に仕掛けていて、それが8年間も続けられていることをわれわれ日本人は知らないままである。これは自分たちの米軍による空爆被害をメディアが多く取り上げても、誰もその加害側としての事実を取り上げないからであるが、筆者の「中国における日本軍の年月日別空爆全記録」を参照)
このほかの戦時下の行事として、敬神崇祖の日(明治神宮参拝)、興亜奉公日、聖旨奉戴日(「青少年学徒に賜りたる勅語」の奉読などを行う)、精神努力日(兼任時給、勤倹貯蓄、勤労強化、心身鍛錬、物資愛護、消費節約、愛国貯金などが唱えられた)などがそれぞれ月一回、「恭敬の日」として定められた。なお興亜奉公日は太平洋戦争開戦後、開戦の日を記念して毎月8日を大詔奉戴日として代えられた。
昭和15年(1940)当校は創立20周年を迎え、さらに校舎などの増改築、寮舎の新設工事を行ったが、この5年後にすべてが無に帰すだろうとは誰も予想していなかった。翌16年には入学者数が500名を超えるに至った。この中には台湾、朝鮮、満州、中国からの入学者もいたが、それは現地(植民地)に居留する日本人の子女も含まれる。またこの年あたりから米英との仲が険悪となり、英語は敵性語として排除されるようになり、学校では英語の時間数を減らすか廃止したり、英文科の募集を中止した場合もあった。しかし理事長の人見圓吉は、「戦争は短期的なもので、やがて永い平和の時代が来る。そのための準備をしておかなければならない」として英文科を守り抜いた。
昭和12年から短期の勤労奉仕が実施されていたが、16年からは軍需工場への勤労作業が夏休みなどを使って行われ、生徒は赤羽の兵器工廠に通った。またこの年には卒業が3ヶ月繰上となり、12月末に行われたが、その前の8日に太平洋戦争開戦となった。卒業の繰り上げは、男子の出征により少なくなった工場等の労働力を補う目的があった。そして国内の動員体制強化のため、各学校に報国団が作られ、そこに報国隊が結成され、その隊員として高等女学校三年生以上の生徒は縫製、救護、保育(例として農繁期に農村の子の育児を手伝う)、事務等の方面に一年を通じ、30日動員されることになった(国民勤労報国協力令)。しかし戦局が悪化するにつれ、18年(1943)には「教育に関する戦時非常措置方策」の発令により一年のうち4ヶ月の動員となった。またこの年は半年の繰上げ卒業となり、その10月、男子学生に対する徴兵猶予が撤廃され、20歳以上の学生は在学のまま徴兵されることになり、明治神宮外苑で「出陣学徒壮行会」が開催され、多くの女学生たちが動員されて雨の中、観客席で戦地に行く学生を見守った。
18年の学徒出陣の対象の学生は文科系であった。理工系は国内の研究所などに動員された。この傾向に準じて、女学校、特に女子専門学校に対し「男子の職場に代わるべき職業教育を施す為」として文部省は「女子専門学校教育刷新要綱」を打ち出し、これまでの家政科、文科、に加え(医学・薬学科はすでに専門学校がある)理科、工業科、農業科、法・経済科などを新たに開設するようにと勧めた。これに応えようとした女学校もあるが、理工系は開設しようにもすでに設備がなく、新たに雇用できる教師いず(兼任で来てくれる場合もあったが)、ほぼ途中で頓挫している。
さらに19年3月には「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」で学徒勤労動員の通年実施が定められ、9月には学徒勤労令が女子挺身勤労令と同日に公布され、女子挺身隊が結成されるが、これは学生・生徒以外の就業していない若い女性(14−25歳)に勤労を義務付けるもので、卒業するとそのまま挺身隊としての勤労動員が待っていた。この年の当校の動員先は4月から三鷹の中島飛行機工場へ300名、5月から川崎の帝国通信へ100名、10月から青梅線の中神飛行機へ200名、同時に三鷹の日本無線電信に100名などであった。これらの工場へ通勤する交通機関は大変混雑し、その上食糧不足も深刻で、昼夜三交代の激務であった。生徒たちを引率指導する教師の労苦もまた並大抵ではなかった。生徒の健康維持と作業上の危険防止に注意を払った。たまに工場から解放され、学校に戻って授業を受けることが何よりの楽しみだった。
—— 学徒動員で中島飛行機のエンジンを作る工場に通ったが、昭和高女の制服を脱ぎ、工場から支給された国防色の制服に身を固め、綿を入れた防空頭巾を左の肩に下げ、右の肩には薬品その他の携帯品を入れた布袋を下げ、左腕には「昭和高女学徒報国隊」と記した腕章をつけた。毎日三鷹駅西口広場に集合して出欠をとり、20分の凸凹道を歩いて工場に向かった。門では中隊長(学級委員)の合図で「頭、右」と守衛さんに敬礼して入った。工場内は機械油の臭気が充満し、機械の騒音もあって慣れないと吐き気を催すほどであった。いくつもの職種に分けられた中、私達は機械を担当させられ、旋盤、ボール盤、ミーリング等、担当の工員の指導を受けながら、ノギスやマイクロメーターの測定器を使い、図面通り千分の一ミリの誤差も許されない部品を作るため、旋盤の刃先に全神経を集中、お国のためにと必死に努力した。女学生でありながら勉強もできないと悶々としていると、月に一度の登校日が決まり、セーラー服やカラーにアイロンを当て、絹のリボンを結んで胸躍らせて校門をくぐった。砂漠のオアシスで喉を潤すような思いがした。翌日からまた工場の重労働に戻り、ひたすら祖国の勝利を祈りながら身体に鞭打って働き続けた。
19年11月末から始まった爆撃は、まず中島飛行機を狙い、敵機来襲を知らせるサイレンが昼夜の別なく鳴り響き、その都度地下道に退避、その繰り返しで仕事もろくに手につかないようになった。4月には集中的にB29による爆撃があり、地下道に避難していると至近距離に爆弾が落ち、うっ伏している身体が浮き上がり眼球が飛び出したように感じで地獄に引きずり込まれるようだった。空襲解除になって外に出て、先生の点呼で全員無事であることがわかって「生きていてよかった」と涙で無事を喜びあった。振り返ってみると工場は爆弾でめちゃくちゃに壊され、他に動員されていた自由学園の生徒を含めて数十人の死亡者が出ていた。そしてこの工場は八王子などに分散疎開することになり、私達も武蔵境の小さな工場に移ったが、そこにも米軍の艦載機が襲って来て低空による機銃掃射を受けた。やがて卒業式を迎え、卒業証書を頂いたが、「生きていてよかった」と涙を浮かべて言い交わした言葉を、今も胸に浮かべている。(松本澄子:以上は要約)
—— 昭和19年、私は国文科二年だった。この年には夏休みがなかった。5月には三鷹の飛行機工場に動員、6、7月は学校の工場で軍衣縫製をした。8月半ばに学科試験があり、その後帝国通信に動員された。朝早く東横線下平駅に集合すると、四列縦隊の隊伍も乱さず約30分の道のりを工場まで行進して行った。私は動員隊長にさせられ、この隊伍の先頭に立つのが嫌でたまらなかった。戦局がいよいよ急を告げてくると空襲が激しくなり、次第に過労に陥っていた。秋が深まった頃からB29の偵察空襲が頻々となった。朝の通勤途中で空襲になり途中の駅で防空壕に駆け込んだこと、帰りの電車で空襲になり灯火を消した満員電車の中で長時間立ち往生させられたこともあった。初めて機銃掃射の音を聞いたのは帝国通信の壕の中であり、その時は折り重なって息を殺していたが、解除になると壕の中で他人の体の下に頭を突っ込み合った醜態を笑い合いながら、三時の雑炊やふかし芋の配給を取りにバケツを持って出かけた。ある時は帰り道、畑の中の広い道を隊伍を作って歩いていると、戦闘機の編隊が隼のように低空で迫ってきた。駆けましょうと言ったが、今から思えば飛行機に追われて駆けたところでどうにもならず、道の横の草むらにでも飛び込めばいいものを、全員が青い顔をしてやたらと駆け出していた。
その頃の日記を見ると、毎日「今日も生きていた」と書いてある。一日一日生きることが精一杯だった。全く悪夢のような時代であったが、そんな中にも、朝夕渡る多摩川の流れや、路傍の麦畑の青い芽が少しずつ伸びてゆく姿や、雪のような朝の霜や、友人との何気ない会話の一節などが、清流の泉ように胸の底に焼き付けられ、今も空襲の日の印象と同じような鮮やかさでよみがえってくる。動員ではみんな「勝ち抜くまでは」の合言葉に、歯を食いしばって働いた。しかしすべてが無に帰する時が来た。一番多感な楽しかるべき乙女時代だったと、失われた青春を惜しむが、今の学生は幸せだとつくづく思う。(小谷信子:以上は要約)
昭和19年(1944)年6月のマリアナ沖海戦で日本は空母の大半を失い、日本軍が生命線として死守するサイパン島やグアム島も守備隊はほぼ玉砕して陥落、米軍はそこをB29の基地とし、日本への空爆の体制を整えた。政府も学童の集団疎開を決め、子供たちを各所に送り込んだ。米軍は11月24日から本格的空爆を開始、工場へは爆弾を投下するが、日本の木造家屋を狙って大量の焼夷弾を落とし始めた。20年3月10日の江東・墨田・台東区への大空襲は一夜にして10万人の焼死者を出した。そしてこの3月、政府は小学校(当時は国民学校)以外の全学校の授業を4月から一年間停止するとし、12歳以上は通年勤労動員となった。勤労動員で勤労動員で空いた学校は逆に学校工場となり、低学年生がここで働いた。そうした中でも米軍の空襲は続き、空襲警報が鳴ると防空壕などに避難したが、工場が被弾し、亡くなった生徒もいる(8月の敗戦時、動員学徒の数は全国で340万人以上、そのうち空爆で死亡した学徒は1万966人、うち原爆死8953人であった)。
米軍は4月からは東京の南西部を狙い、その13日、B29の大編隊が中野区上高田の当学校に焼夷弾を雨霰のように投下した。学校のあちこちから火が吹き出し、宿直中の教師8名と学生20名がポンプによる消火を試みたが焼け石に水で、人命を優先して一同は安全地帯に逃げたが、焼けて崩れゆく校舎を見守る以外、なす術もなかった。3万5千余冊の蔵書、1万3千余の標本類、校具も教材もすべて失った。10年前と5年前に記念事業で二度にわたって校舎を増改築したが、その全てが無に帰した。
しかし学校側はすぐに動き、焼け残った寮舎に仮事務所を設け、三日後から集まった学生に対して青空教室で授業を行った。さらに鉄筋建で焼け残った一つの寮を応急修理して十教室に改造し、三週間目に屋内での授業を再開した。机や椅子は代用品でそれでも足りず、床の上に座り、膝の上で筆記した。そのノートもない者が多く、新聞紙を使う者もいた。そうした授業も束の間で、5月25日、都心への最後の大空襲がまた学校を襲い、改造したばかりの教室をはじめ、前回難を逃れた複数の寮舎も灰燼に帰した。そこで可能な範囲で遠い地方からの寮生を帰郷させ、残った学生のために近くの空いた民家を買って学生をそこに収容し、上高田の二つの寺院を借りて教室にして授業を再開した。この時期授業を受けることができたのはほぼ一年生で、二年生以上の高学年生は勤労動員で周辺の工場に勤務していた。
8月に敗戦となり、学校の再建と復興が最重要課題であった。10月になって都の教育局から旧軍施設の転用希望申込みの通達があった。そのいくつかの候補地も希望者が殺到していたが、学校関係者の懸命な努力により、11月に入りGHQ連合軍が使用地として仮に押さえていた世田谷の東部第十二部隊跡を借用する許可を得た。早速、人見理事長は翌日から移転開始を決めた。引越しといっても持っていく荷物は知れていて、早朝から教師と学生が一緒に大八車を曳いて運んだ。ただ、移転先の軍部隊跡は惨憺たる状態であった。—— 初めて三宿の兵舎跡に立った時、広大な敷地に縦に並んだ兵舎、右側には馬小屋が残り、草は茫々と生い茂り、至る所に防空壕が口を開け、ちぎれた鉄条網や爆撃で飛び散った兵舎の残骸が、敗戦の面影を痛々しいまでに留めていた。
しかしすぐに全職員、学生、父母の応援も得て一体となった学校作りが開始された。女子学生もスコップで穴を掘り、瓦礫を埋める作業をしたり、家庭から大工道具を持ち寄って兵舎の二段ベッドの解体作業を行ったり、寝食を忘れた突貫作業でなんとか十日目で授業ができるようになった。机や椅子も弊社にあったあり合わせのもので、それでも間借り校舎とはお別れし、ガラス窓は破れていて吹きさらしでも、屋根のある校舎で学ぶ嬉しさは学生にとって格別であった。そうした授業の外で、常に黙々と廃材や瓦礫をリヤカーに一杯にして曳く姿の体格のよい男性がいた。身につけているのはカーキ色の作業服に戦闘帽と破れ靴で、その人は人見理事長であった。時々女子学生もリヤカーの後ろを押したりして手伝った。そのうち校庭に芝が植えられ、花壇が作られた。翌年、旧陸軍士官学校の2500人分の机と椅子が払い下げられた。(なお現在の駒場高等学校(旧・第三高等女学校)も麻布にあった校舎が焼かれ、三宿の近くの目黒区大橋の、やはり軍の施設跡に引っ越して来た)
ただし戦後の食糧不足は深刻で、その片付けた校庭も野菜畑としたが、ある日、学校としても食糧が尽きたとして、近県の寮生に対し、帰省して自分の食糧を調達してきてもらいたいとの要請もあった。一方で、住む場所のない戦災家族や海外からの引揚者が焼け残っていた兵舎を占拠するようになり、授業にも支障が出たりした。またせっかくの広大な土地であったが、都により次々と他の用途に接収され、学校の土地は当初の半分にされた。
当校は戦前には日本女子高等学院としていたが、あくまで私立学校令による各種学校であり、専門学校令による学校に申請しても戦時下では認可されなかった。そこで改めてその認可を申請し、21年には日本女子専門学校を開設する。そして24年、高等学校とは別に、新制の大学令により専門学校を昭和女子大学にすることができた。
恵泉女学園
創立者の河井道は北海道のキリスト教系学校を経て、新渡戸稲造の誘いもあり、津田塾の創立者津田梅子の設立した奨学金制度によってアメリカに留学、帰国後津田塾の教師をしながら欧米その他でキリスト教活動と社会事業を続けた。昭和4年(1929)、52歳で「広く世界に向って心の開かれた女性を育てなければ戦争はなくならない」との信念で学園を設立した。学園は当初より聖書・国際・園芸を教育の柱に据えた。園芸は普通補修的に行われるが、河井は自然の恵みと触れ合うことの大事さを教育の根幹としたかったという。昭和9年(1934)、普通部3年の上に2年制の高等部(文科・家事科)を開設。翌10年、高等女学校と同等以上と認可される。18年(1943)、高等部に園芸科を開設。また早くから、らい病の施設にも学校をあげて寄付や奉仕活動をし、弱者への強いまなざしが見て取れる。以下は主に『恵泉女学園五十年の歩み』より。
<河井の平和への信念>
第一次世界大戦終了の数年後の大正10年(1921)、日本初の「婦人平和協会」が結成され、河井道はその理事として指名された。その中には自由学園の創立者羽仁もと子や、後に日本女子大の第4代、6代校長となる井上秀、上代タノなど10名がいた。初代会長は井上で、河井は第二代会長となったが、昭和8年(1933)に三年で辞任した。この年は日本が国際連盟を脱退してしまうが、その理由は、その2年前の6年(1931)に日本の租借地であった満州で事変が勃発し、それに対して国際的非難が高まり、日本に撤退勧告が決議されてのことであった。そしてこの満州事変がいわゆる15年戦争という昭和の長い戦争の端緒となる。
その6年後の12年(1937)に日本はさらに日中戦争(支那事変)に突入した。この時、河井は新聞を持って教室に入り、「この戦争には反対です。軍人たちは日本の方向を誤らせています」と語った。実はこの時期の生徒たちは、小学校の頃より歴史や国語や修身の授業で、軍人さんは偉い人だという軍国主義教育を受けていて、まるで違う先生の言葉に驚いた。ちなみに上記婦人平和協会のメンバーの中で最後まで戦争に反対の姿勢を貫いたのは河井と上代だけである。
創立10周年の昭和15年(1940)は、日本に対する欧米諸国からの非難が高まり、経済制裁(資源と石油など)が始まり、とりわけ米国と敵対関係になってきていた。さらにこの年は皇紀(神話上の神武天皇即位の年を起源とする)2600年の祝典が喧伝され、そのため敵国の宗教であるキリスト教に対する弾圧も次第に強くなってきていた。そのために各キリスト教プロテスタント系組織は政府の指導で「皇紀2600年奉祝全国基督教信徒大会」を青山学院で開催、大同団結をすることになった(渋谷区の同校参照)。
学園の三つの柱のうちの一つ、国際の「自由と世界平和」をイメージする授業は、軍国主義国家に反するものとして官憲の圧力を受け、この昭和15年で中止させられた。5月の学校行事に国際善意デーがあり「世界は一つ」という歌を歌ったが、それもこの年で中止された(戦後に復活)。それでもまだ、津田塾で戦前最後の日米学生会議が開催され、そこに代表を3名参加させ、一人の英語教師を米国の園芸学校に留学させることができた。
一方で河井は日本軍が占領する中国・満州へ視察と講演の旅に出て(この時期、各学校の代表が視察に送られている)、この時現地で戦争の実態を観察していると思われるが、盲学校や伝道所に献金もし、民間交流に尽力した。他の多くの教育者も視察旅行しているが、その占領政策を是認する人たちが大半であった。大東亜共栄圏の建設などという標語に惑わされてしまうのである。上記婦人平和協会の理事たちの中でも、河井や上代の二人と河井の後に婦人平和協会長を引き受けたガントレット恒以外は、大半が惑わされて大小の戦争協力者となった(文京区の「日本女子大学」参照)。なお婦人平和協会は15年秋に強制閉鎖された。平和という言葉自体が禁句になったのである。ただし軍政府自身は「東洋平和のための戦争」としている。
翌昭和16年(1941)に入り外国からの郵便物の開封検閲が始まり、キリスト教の宣教師たちは次々と帰国することになった。実は河井は日本YWCA(The Young Women’s Christian Association of Japan)の初代日本人総幹事を務め、日米友好を目的とした二世女学生の人材の育成にも心を砕き、10年(1935)に米国の日系二世に限定した恵泉女学園留学生特別科を設置していて、その二世の留学生たちもこの年次々と横浜から船で帰国して行った。ただ、残ったハワイ出身の二世で、この後の真珠湾攻撃以来両親との連絡が途絶え、困窮した生徒もいた。
また河井は日本英語学生協会(昭和8年=1933に設立)の運営に参加していて、この協会が翌9年(1934)に設置した日米学生会議(JASC=Japan-America Student Conference)の顧問も引き受けていた。この動きは当時の世界情勢に危機感を持った学生たちの代表が、親善使節団として8年秋に米国に渡り日米学生会議の約束を取り付け、翌年に第一回として日本の青山学院での開催にこぎつけたことにつながるものである。その翌年には米国で開催と15年(1940)まで交互に行われた。当然御茶の水や日本女子大、津田塾の女学生も参加した。この時の米国からの参加学生の中に日系二世の学生も入っていたが、上記のように日米関係悪化受けて帰国していった二世留学生たちも含めて、開戦後米国籍を持っている二世たちとその親兄弟全てが敵国人となり、西海岸の収容所に抑留されることになる。
この時流に逆らうようにこの16年の春、河井は米国教会の要請に応じ、「両国の平和のため」の使節団の一員として米国に向かった。河井は米国で講演もしつつ交流を深め、カリフォルニアのミルス女子大学において「数千の参列者から万雷の拍手」の中で名誉人文博士の学位を授与され、一応の使命は果たした。現地では学園からの留学生たちにも歓迎されたが、彼女たちは日米開戦によりその後難しい立場に追い込まれる。帰国後河井は関西を訪問したが、京都での教会の講演中に憲兵隊に連行され、取り調べの後深夜に釈放された。こうしたことが重なっても河井は懲りることがなかった。
<太平洋戦争へ>
そうした下地を作っておいて、日本は12月8日に米国の真珠湾奇襲攻撃によって米国に宣戦布告し、太平洋戦争に突入した。実は日本軍はほぼ同時に東南アジアに侵攻し、国内に不足する石油資源などを狙い、その地を植民地とする英蘭にも宣戦布告した(ここから学校教育でも「憎き敵米英」とか「鬼畜米英」という言葉が流布されていく)。その日の朝、通学する生徒は電車や街の中で興奮で上ずる人たちを見た。一方で礼拝で講堂に集まった生徒や教師は沈痛な表情をした河井園長を目にした。「皆さん、本当に悲しむべきことが起こりました。戦争はどんな時にもすべきではありません。避けるべきでした」と河井は話した。
これに対して「いよいよ来たるべき決戦の時が来た。我々国民が一致団結してこの戦争に勝利しよう!」とする学校長がほとんどで、仮にこの時に憲兵や配属将校などが河井の話を聞いていたら、どうなっていたであろう。実際に、他の学校で生徒の前で同様な話をして、愛国心教育に染まっていた生徒に告発され、辞職した教師もいたほどである。日常、河井の心に触れている生徒にはそのような動きはなかった。
むしろ、他校でも見るように、日中戦争以来、女学生による兵士への慰問文や見舞い品を入れた慰問袋が盛んに作られ、その慰問文の中に、おそらく河井の教育の影響であろう、「お互いに殺し合うことを早くやめてください」と書いた生徒の言葉が検閲時(常時内容は事前にチェックされていた)に大問題となり、河合は特高警察に呼ばれて尋問を受け、数日間留置場に拘留された。当然河井はその生徒の責任にはしなかったはずである。他校では「兵隊さん、憎い敵をやっつけてください」のような書き方が主であった。教育の仕方でこれほどに違うという例である。そうしたこともあって危険な思想を持つ学校ということで、その後は特高が常に監視に来て、戦時下に決められた宮城(皇居)遥拝や靖国神社参拝などの国の行事が遵守されていく。
昭和17年には米国二世の代わりに、中国や台湾、朝鮮、蒙古、ドイツ、トルコ、南北米からの留学生が入学した。しかし学校には女学校といえども軍事教練が課され、配属将校も置かれたが、その将校は戦地から帰還した牧師であり、幸運であったという。勤労奉仕や鍛錬などの義務は学園が独自に行なっていた園芸作業(食糧増産という名目)や、らい患者などの社会福祉施設への奉仕に置き換えられた。
恵泉の学園誌は開戦当初、園長が重ねて書いた「平和」という言葉が軍部に回され、反戦思想ということで編集責任者の生徒が取り調べを受けたことで、この年には「東洋平和、共栄圏の為、皇軍の大犠牲によれる戦捷を謝し、愈々目的の遂行を祈る」と表紙の背に書かれた。それでも河井はその中に「共栄は結構なことで…」と皮肉を込めた文を書いている。
すでに太平洋上で激しい戦闘が続き、米国への留学生が帰国できない事態になっていた。そこで民間の尽力で「交換船」が手配され、日本からの船と米国からの船が南アフリカのケープタウンで合流し、お互いに乗り換えて自国に帰るという方法が取られた。この船で園芸学校に留学していた教師ともう一人の留学生が8月に帰国して来た(同例は港区の東洋英和参照)。また、英語教師であった宣教師の一人は自分の使命で日本に骨を埋めると言って帰国を拒否していたが、その後の交換船で強制的に帰らせることになった。しかしすでに危険な状態で船は途中で戻って来て、彼女は収容所で終戦を迎えることになった。
昭和18年(1943)は軍需工場(兵服など製造)への勤労奉仕が交代で行われ、空襲に備えて運動場などに生徒の手で防空壕も作った。また他の女子校と同様、卒業生には「女子挺身隊」を結成させ、勤労動員が課せられた。この秋、20歳以上の男子学生には徴兵猶予制度が解除され、出陣学徒壮行会が開催された。なお、文化学院(千代田区参照)が自由主義教育との理由で閉鎖され、当学園はその一部の生徒を受け入れた。
19年に入ると勤労動員の対象工場は広がり、そこに上級生が出向き、低学年用に学校工場が設置され、まず一番広い教室が当てられたが、作業の合間を縫って授業も行われた。学校農場もあり食料増産にも励んだ。河井園長の方針で、どこにあっても朝の礼拝だけは欠かすことがなかった。また英語は敵性語としてその授業時間を削減するか廃止するように指導されていたが、河井は最後まで英語の授業を守り通した。
この年の11月下旬から、米軍は十二分な準備を整えて(6月に日本軍の占領するサイパン島などマリアナ諸島を陥落させ、そこを日本本土空襲のための基地とし、対日本用に開発したB29などの大型爆撃機を大量に運び込んでいた)、日本に本格的空襲を開始した。
敗戦に至る年の昭和20年(1945)に入り、学園設立当初より河井が構想し、具体的には前年から準備していた農芸専門学校設立のために園長は文部省に通い詰めた。しかしこの当時、新設の学部や学科は(労働力確保のため繰上げ卒業が繰り返されている時勢で)ほとんどが却下されていたが、食糧危機もあってなんとか認可された。最後の条件は学園の設立主旨の文の「基督教の主義に依り」の変更を求められたが、「基督教の信仰に依り」という表現で認められ、河井は安堵した。他のキリスト教系学校ではこの表現が削除され「日本国の皇道にのっとり」という表現に変えられたのであり、河井の粘り勝ちであった。4月には無事入学式を迎えた。
世田谷区は当時は田園地帯で特に西地区は大きな空襲の被害が少なく、学校は近所の爆弾の破片で壊れる程度で済んだ。しかし2月に学校工場から学友と帰宅途中の一人の生徒が近くに落ちた爆風で倒された木の下敷きで亡くなり、5月に動員工場への爆撃の後片付けの際、傷を受けた生徒がその感染症から床に伏し、しばらく後に亡くなった。この生徒は兄二人を戦線で亡くしていたばかりであり、両親の悲嘆はいかばかりであったろう。
激化する空襲で学校工場自体が新潟に疎開することになり(実は米軍の東京地区への空襲はほぼ5月で終わっていて、6月から爆撃の対象は地方都市へ向かい、新潟は7、8月に爆撃された)、従事していた24人の生徒が7月半ばに大勢の避難者で混雑する汽車に乗って移動した。作業は軍需用電気機器の絶縁体として必要な雲母剥がしであった。その一ヶ月後、広島・長崎への原爆投下で20万人以上の犠牲者を出してやっと日本の軍政府(大本営)は敗戦を受け入れた。
この戦争終盤の昭和20年だけで東京大空襲を含めて約50万人の空襲(原爆含む)犠牲者、沖縄の3月下旬から6月下旬までの3ヶ月間の、本土の身代わりというべき激しい地上戦で約20万人の犠牲者(民間人がその半数)、その他硫黄島やフィリピン、東南アジアの占領地域での戦死者(終戦後も放置されて餓死した兵士たちも含めて)は推計で200万人程度以上にのぼる(全体で約310万人)。早くから劣勢にあった戦況を、軍政府は精神論に置き換え、最後は日本は神風が吹いて勝つと国民に宣揚した結果がこれである。これほどに愚かな戦争をした国は他にはないであろうし、河井は早くからそれを認識していた。
実際の話として、敗戦が決まった8月15日前後に軍事関係資料は内外を含めてすべて軍政府は焼却し、全国市町村自治体の兵事係の出征記録も焼却するように指令を出した。すぐに連合国占領軍がやってきてそうした資料を摘発されることを予測してのことで、いわばこの戦争の証拠隠滅を図ろうとしたのである。つまり彼らが「聖戦」と呼んだこの戦争をなかったことにしようとした。一方でとりわけ特攻隊で戦死した学徒たちを英霊として祭り上げてのことで、その英霊たちをも裏切るに等しい行為である。
<戦後政策への河井の関わり>
8月15日の敗戦決定後、占領軍GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーの副官として来日した陸軍准将ボナー・フェラーズが、河井とその一番弟子である一色ゆりを探し、終戦翌月9月23日、二人をアメリカ大使館に招いた。一色は米国留学時にフェラーズと同窓で、その後彼が来日した時に河井を紹介、さらに彼は何度か来日を重ね親交を深めていて、知日派であった。その日はマッカーサーが昭和天皇と初めて会見する4日前であった。フェラーズは二人の意見を取り入れながら、天皇の戦犯問題について不起訴を進言する覚書を作成した。米国はすでにかなり以前から(米国の勝利は確実であったから)日本人の天皇観を研究し、フェラーズ自身も天皇は軍政府に利用されているとの見解を持っていて、ここで日本人におけるキリスト教の教育者であり、戦時下にも平和主義を貫いた河井から、天皇を戦犯にせず救うべきであるという意見を得て、米国の元々の方針通り、天皇は不起訴とされた。河井はこの戦争にあって昭和天皇が軍政府に利用される立場であったことをよく理解していたのである。そしてまた占領軍も天皇を戦犯としないことで、占領政策がやりやすいと考えていたことも確かである。
このような河井の人格は、心ある教育関係者の重鎮にも認められていたからであろう、翌21年(1946)に教育刷新委員会の9名のメンバーの中に唯一の女性委員として指名された。その委員会の審議によって、「真理と平和を希求する人間の育成」を目的とする新しい教育基本法が作られた。
一方で学園生たちは戦後も戦時下と変わらず奉仕活動を続けた。障害者やらい病施設だけでなく、傷病兵を抱える各地の陸軍病院にも慰問した。戦時中、女学校の傷病兵への慰問はお国のために戦った尊い軍人として絶えることがなかったが、敗戦になると忘れられていった。事実、クリスマスの行事で訪れた病院で「敗戦になってから…あなた方が初めてです」と院長に打ち明けられた。河井の教育がどのようなものであったかが、これによっても伺える。戦時の厳しい情勢下にあってもクリスマスのお祝いは欠かさなかったが、自分たちだけでお祝いをすることは一度もなかったのである。当学園生は、創立者河井道の何事にもぶれず信念を貫く精神を見習い、誇りとすべきである。(同様な意味で、文京区:文京学院の島田依史子を参照)。
成城学園
大正6年(1917)、澤柳政太郎が日本の初等教育改造を志し実験的教育の場として、成城学校(陸軍軍人志望者のために設立された学校)内に併設した成城小学校に始まり、さらに父兄会の財政的支援のもと、卒業生の受け皿として大正11年(1922)に旧制成城第二中学校を設立、15年に中学校を廃止して成城高等学校(7年制)が設立された。さらにその翌昭和2年、成城高等女学校(5年制)が設立された。戦後になって新制の成城学園中学校と高等学校となり、旧制成城高等女学校は廃止されて共学となった。その後新制の成城大学を創設した。
成城学園は戦前から男女の高等学校を併設した総合学園であるが、ここでは(この稿の主旨として)昭和2年に設立された高等女学校の事例のみ扱う。以下は主に『成城学園六十年史』より。
当時の学園の周りは武蔵野の原の中にあり、山蛭や蛇、蛙などもたくさんいて、女生徒たちは授業開始前や昼休みの時間に森を抜けて田園や小川に出かけたり、校庭の隅に穴を掘ったり、桑畑から桑の実を取って食べたりして遊ぶことも多く、制服を汚すのでエプロンを着させられたりしていた。食欲も旺盛で、昼休み前に弁当を食べてしまったり、だから持参のおやつは欠かせなかったという。校風も自由闊達な雰囲気であった。昭和初期から男子校には軍事教練が行われていたが、それを見て女生徒たちは配属将校に直接頼んで小銃を撃たせてもらったりしたが、そのうち女子校も銃ではなく薙刀などでの軍事教練が行われるようになる。
成城高女では当初、教育内容を男子に負けないようにと、男子の教科書を使用していた。ところが文部省から「女学校に決められた教科書を使うように」と通達があり、男子の教科書は副読本として使うようになった。また成城では体育の授業が重視され、デンマークからデンマーク体操の一行を招聘し、指導を受けてそのやり方を導入した。そのほか海外からの視察団(米英独伊など)も積極的に受け入れ、交流を重ねた。体育では一般の競技以外に乗馬や登山、スキーもあり、スキーは当時の世界一のスキーヤーを招聘してその指導を受けた。文化に関しては演劇は学校全体の行事であり、絵画や合唱も盛んで、たまたま公演に来たドイツの指揮者に学園の合唱団が認められて、日比谷公会堂で披露したこともあり、その交流は戦後も続いた。こうした華やかな学校生活も、昭和12年の日中戦争(支那事変)が始まると終わりを告げて行く。この戦争はこの後の太平洋戦争を含めて8年間続く。
日中戦争が始まった年、アメリカとの交流で、送られてきた人形が各クラスに配られ、みんなで色々な衣装を着せて遊んだが、そのうち敵性人形となり、捨てられたのであろう。ダンスの授業もなくなり、夏には志賀高原や白馬での山の学校、静岡や房総での海の学校も昭和16年には中止となった。英語も敵性語として選択制になったが、多くは英語を選択した。体育祭も軍隊式の行進が取り入れられるようになり、楽しいものではなくなり、体育祭の最中に先生が応召されることもあった(注:この徴兵については即時の通達が義務付けられていたようで、このような場面はしばしば見かけ、その場合、周囲からは「お祝い」の拍手で送られることになっていた)。例えば昭和18年(1943)、学園の合唱団が日比谷公会堂で先のドイツ人指揮者によるバッハの演奏をした際、一旦幕を下ろした後、再び幕を上げて、これから出征する人達に向けて「海ゆかば」を歌って送ったこともある(注:この歌はこの年の学生に対する徴兵猶予解除による「出陣学徒壮行会」でも歌われ、当時は国民歌として扱われていた)。
女学校でも軍事教練が行われるようになり、勤労作業としては宮城前の清掃作業などのほか、学校で兵士への慰問袋の作成や軍服のボタン付、靴下編みなどもし、時には学校に泊まり込んで行った。食糧不足もあり、校庭の一部を開墾して畑にし、食糧増産を図った。戦況が悪化するにつれ、単なる勤労奉仕はなくなり、勤労動員が始まり、用賀の衛星試験場では薬の包装やレッテル貼り、赤羽の砲兵工廠では大砲の弾丸に入れる火薬を包む作業を行い、その後は笹塚被服工廠、代々木八幡の日南工業、喜多見の工場などへ学年ごとに分かれて動員された。工場の帰り、自分の家とは逆方向の学園に向う者もいた。少しでも学校生活を味わいたかったのである。昭和19年の秋以降は常時動員体制となり、それでも先生の努力で、週に一度は学校での授業は確保された。またできるだけ授業時間を確保するため(他の女学校もそうであったが)学校の体育館や女学校新校舎の教室の一部を工場にすることになり、それらの会社の設備、材料も導入されていたが、稼働する直前に終戦となった。
なお昭和16年から大学も高等学校も卒業の時期が短縮されていき、当初は三ヶ月、続いて半年、そして最後は一年となり、この最後の昭和20年の3月の卒業式は、5年生の卒業と4年生の卒業式とが同時に行われた。この時は3月10日の東京大空襲の直後で混乱の中にあり、卒業式では代表一人にしか卒業証書は渡されなかった。改めて4年後に学校に集まって証書が渡されたというが、数十年後に渡されたという学校もあった。5月25日夜からの大空襲で街全体が焼かれ、学園も建物の半分を焼失したが、女学校は免れた。そのため、終戦後の9月から女学校は早々と授業を再開できた。
ちなみに成城学園は小学校創立から始まっているが、戦時下では公立小学校は国民学校とされ、私立は初等学校とされていた。昭和19年(1944)夏より、空襲対策として都市の小学生に対し集団疎開が実施されるが、成城初等学校は縁故のある静岡県伊豆長岡温泉に疎開した。また20年3月10日の大空襲を受け、第二次疎開を計画し、4月からは休校と決定し(小学校以外の授業は一年間停止すると政府は決めていた)、疎開先は秋田県平鹿郡増田町の寺院となった。この集団疎開は5月5日に上野駅を出発したが、これにより25日の大空襲から免れることができたが、この時、初等学校の校舎は全焼した。一方で伊豆半島も空襲を受けるようになり、7月に入り第一次疎開の児童たちは、新潟県中蒲原郡の寺院に再疎開した。終戦後、初等学校の児童たちが帰京できたのは10月末であった。しかし校舎が焼失していたため授業は女学校の教室を借り、女学校との二部授業となって12月から再開した。
日本女子体育大学(二階堂学園/高校)
大正11年(1922)、イギリスで体操教育を学んだ二階堂トクヨが渋谷区に「二階堂体操塾」を開塾。12年の関東大震災により翌年世田谷区に移転。15年(1926)、日本女子体育専門学校を設立。昭和23年(1943)二階堂高校を開設、専門学校は昭和25年に日本女子体育短期大学となり、40年に日本女子体育大学を開設。
当校出身者で最も著名なのが、昭和3年(1928)に日本女性初のオリンピック出場を果たし、陸上女子800mで銀メダルを獲得、2年後の5年の第3回万国女子オリンピックにおいて、走幅跳で世界記録を樹立して優勝した第3期生の人見絹枝である。そのほか国内外で数々の記録を打ち立てたが、遠征に次ぐ遠征で体調を壊し、24歳で肺炎で死去した。
昭和16年(1941)12月、日本は太平洋戦争に突入したが、この月に文部省指示による繰上げ卒業式が各学校で行われた。戦時体制による労働力確保のためであるが、この卒業式の日に二階堂トクヨは倒れ、その後死去した。
米英が敵国となり、英語の使用は禁止され、例えばドッジボールは投避球などと呼ばれた。当校は伝統的にダンスが取り入れられていたが、それも(音楽)遊戯と変えられ、ステップも跳歩と呼ばれ、それよりダンス自体が軍国主義に合わないとされ、そこで軍人たちに授業の見学に来てもらい、「これならよし」と存続を認められた。
女子校にも軍事教練が取り入れられる時代で、並行して武道が重視され、薙刀もその一つとなり学園史の中に薙刀を立てて行進する生徒たちの写真が載っている。
昭和18年(1943)9月には戦局の悪化により、さらに半年の繰上げ卒業となり、男子学生は徴兵猶予が解かれ、戦線に動員されて行った。翌19年には学生・生徒の軍需工場への勤労動員がさらに拡大されたが、当校の女子は一般生徒より体力と気力に勝り、工場側からの評判は良かったという。当校は全寮制であったため、工場勤務の後に練習を継続しやすかった。ただし工場に出ない下級生は食糧事情の悪化で、校庭を畑にし麦や甘藷を育て、さらに防空壕掘りもあったが、全員で避難訓練や防火演習も怠らなかった。
19年11月下旬から連日のように日本は米軍の空爆に曝されたが、20年3月10日の東京大空襲の後、5月25日の夜間の山の手大空襲も凄まじく、学校も周辺の焼夷弾による火災が迫ってきたが、焼夷弾による直撃は免れ、多少の火の粉を消し止める作業で済んだ。この年は新入生の募集を諦めた学校もあったが、当校は2月に試験を実施、ただしこの混乱の中で入学は7月に延期された。その後8月15日に無条件降伏で終戦となる。
鷗友学園
昭和10年(1935)、東京府立第一高等女学校(現白鴎高等学校)同窓会の鷗友会が世田谷高等女学校及び技芸女学校(後に廃校)を引き継ぐ形で鷗友学園高等女学校を設立した(これはお茶の水女子大学の同窓会桜蔭会が桜蔭学園を設立した経緯に似ている)。校長は白鴎高等学校(第一高女)校長で女子教育の先覚者とされた市川源三が請われて就任した。しかし惜しくも5年後に逝去、市川は不合理なことを許容しない反骨的な精神を持っていたから、その後の太平洋戦争下でどのような行動を示したか、想像させられるものがある。その後は津田梅子の薫陶を受けた石川志づが引き継いだ。戦後、鷗友学園女子中学校・高等学校となる。
残念ながら学園の『75年のあゆみ』には戦時下のことが下記の材料以外にほとんど記されていない。資料提供を乞う。
学園創立の昭和10年(1935)は、15年戦争と言われる長期の戦争の端緒となる満州事変が起こって4年後のことで、国内ではまだ戦争の実感はなかった。その2年度の昭和12年に日中戦争(支那事変)が勃発し、この頃より戦時色が強まってきた。この年の学校行事として「春季修学旅行で東京湾航行・海軍工廠見学」(工廠とは軍需工場のこと)とあり、他校では九州やあ関西旅行が流行っていて、どうだったのであろう、海軍工廠見学とはこの時代ならではのことである。ただ、他校でも修学旅行は15年までで、その後は戦時体制が強化され、多くの学校で中止となった。
この12年より各学校では勤労奉仕が奨励され、皇居や明治神宮外苑などの清掃奉仕のほか、学校近くの陸軍衛生材料廠へ行った。この後16年(1941)12月に日本軍は真珠湾に奇襲攻撃を仕掛け、太平洋戦争に突入する。そして勤労奉仕は定期的な勤労動員へと変わっていくが、19年から本格的な勤労動員が始まり、年初の三学期から5年生は近衛師団(一般の陸軍師団とは異なり、天皇と皇居を警衛する役割を担うが、動員先としては珍しい)に動員され、そのまま卒業を迎えた。夏休みから軍需工場への本格的な勤労動員が始まり、授業時間は極端に削られ、他校を例にすると週に一度学校に通える程度であった。9月、校舎の一部が陸軍省に接収され、さらに翌20年4月、軍需総省が一部を使用した。5月からは講堂を国際電気通信が学校工場として使用することになり、二年生が勤労動員としてそこで仕事をすることになった。他の資料では国際電気通信の神代技術研究所に真空管の制作に通ったとある。学校は当時は田園地帯の中にあって、戦災を免れている。
(戦時下の高等女学校については台東区白鷗高校参照)