(共通の背景としてはトップの「戦時下の大学・女学校の概説」を参照)
立正大学
1580年(天正8年)に設立された僧侶の教育機関を基とし、明治37年(1904)、専門学校令による日蓮宗大学林を設置、大正13年(1924)大学令による立正大学を設立。
昭和6年(1931)の満州事変から軍事優先の社会情勢となり、12年(1937)の日中戦争(支那事変)からほぼ軍事体制下に入った。各学校には陸軍の将校が配属され、軍事教練が課されるようになり、大学の年史には銃剣を手にした学生の教練中の写真が多い。また学校には銃器庫が用意され、さらに立正では14年に品川大崎の校内の丘陵に学生の勤労奉仕によって射撃場が作られた。
同時に若い教員や職員に召集令状が届くようになり、授業にも支障をきたすようになった。日中戦争は欧米諸国の反感を買い、次第に日本に対する経済制裁(石油を中心とした物資の禁輸措置など)が強くなり、これにより日本軍は南方にも物資を求めて侵攻し、16年12月8日、真珠湾攻撃により米国に宣戦布告した。翌年、文学科の中の英文学が敵国語として廃止された。
そしてこの年より国内産業の人手不足を解消するため、繰上げ卒業が始まり、同時に学生に対して特に軍需工場への勤労動員が強化されていった。18年(1943)の勤労動員の例では、横河電機(川崎)、赤羽兵器工廠、立川飛行場、月島軍需工場、国電恵比寿駅、長野県姥捨ダム工事に500名(全学生700人のうち)が動員された。
この18年、戦線の拡大と戦況の悪化により兵士不足が生じ、軍政府は学生の徴兵猶予撤廃と徴兵年齢引き下げを断行し、10月21日に出陣学徒壮行会を神宮外苑を主として行い、一挙に学生たちを戦場に送り込んだ。徴兵年齢に達し、未修の学生には仮創業証書が渡された。立正ではこの時の必勝出陣祈願を神社ではなく、日蓮宗の寺院で行った。
出陣学徒壮行会の日、三田村鳳治は立正大学文学部2年生だった。21歳だったため在学のまま壮行会に参加した。その日学生服を身につけゲートルを巻き「行ってきます」と普段と変わらないあいさつで逗子の家を出た。神宮外苑の入り口で女学生が学生服の左胸に日の丸をつけてくれた。小銃を携え立正大の列に加わった。行進するころに雨が降り出した。スタンドを埋め尽くした女子の白いブラウスが、目に焼き付いている。東京帝国大を先頭に一周し、軍服姿の東條英機首相が閲兵した。首相の訓示が雨中に響いた。「諸君のこの門出をお祝い申し上げる次第」と鼓舞されたが、冷ややかに聞いた。東京帝大の江橋慎四郎さんの答辞の声が、「生等(せいら)もとより生還を期せず」というところで一段低くなったのを覚えている。「海ゆかば」を歌うころには「これは帰って来られないな」と感じた。「ペンは剣より強し」の言葉を信じていた。勉強したかった。戦争は殺生をしないという仏教の教えに反している。こんな思いが浮かんではかき消され、あきらめの気持ちと使命感が半ばした。壮行会を終え、学友らと皇居へと行進した。「とにかく頑張れ」「元気でな」くらいしか互いに語らない。帰宅すると家族は壮行会の様子をラジオで聞いていた。父は「寺のことは心配せず、安心してご奉公してこい」と言った。母は無言だった。私は大学を休学し、12月に陸軍に入営した。幹部候補生として(大学では軍事訓練が多くあり、その成績によっても幹部候補生となった)陸軍航空技術学校に入校した。飛行機の整備を学んで、その後、宮崎・都城、鹿児島・知覧の飛行場で特攻機を送り出す側に回った。「操縦席で最後の確認を終えたら操縦者と入れ替わりますが、それが嫌で。もう帰ってこないのだから」。4月末からは同飛行場も空襲に遭い、戦友を亡くした。「戦闘機に機銃を撃たれ、塹壕にいても石や砂がザーと降ってくる。生きた心地がしなかった」。兵舎なども焼かれ知覧に移ったが、そこでも連日のように出撃する特攻機を見送った。「生きて帰ることを許されない戦友を、何人も見送った」。「特攻の操縦士が時々(整備を)見に来るんですよ。見ていられないです。彼らが必ず言うのは『お世話になりました』って。操縦士が。まさか、武運長久を祈るなんて言ったって帰ってこないんだから、言えない。みんな死にに行くんですから」。操縦席の学徒兵を送り出す時に桜の枝を渡した。みんな死んでしまった。終戦の玉音放送を聞いた時、「生き延びたのではない。僕は死に損なった」と思った。終戦後、9月末に逗子に戻った。空襲で荒廃した街に親を亡くした子どもたちがいた。住職の父と共に子ども会をつくり、後に保育園を始めることになった。 戦後、フィリピンやミャンマーを訪れ、お経をあげ、戦没者の慰霊を続けてきた。
「我々、なんのためにみんな死んでいったのか分からない。あの当時は自分たちがなんとかして国を守ろうと、おやじやおふくろを助けようと、ああしていちずに死んでいったんでしょう、みんな。上官の命令は天皇の命令、我々は天皇陛下の命令と言われたらどうしようもない。勉強をしたくてもできない。何かになりたくてもなれない、そんな時代ですよ」。
(朝日新聞その他より混成)
戦時下当時の時局を表すものとして、学内誌の編集後記から言葉を拾い出すと、「世は挙げて非常時、北支に南支に(支とは支那、中国のこと)皇軍は万難を排して暴支膺懲、王者の師を進め、銃後国民の血潮はいやが上にも沸る」(12年)、「待望の漢口は陥落して、…日本は世界史的意義を有する大業完成への一歩を進めつつ…、我らは仏教徒としての自覚と誇りとをもって国恩に報い奉らむ」(13年)、「東亜新秩序建設に邁進することこそ、我が帝国の目下の急務であり、世界平和への使命であろう」(14年)、16年「国家的新体制の強化徹底のため」学内誌も立正大学報国会の下に他の研究誌とともに統合され、「日本の文化が今確然として皇道宣揚に立ちかえること」(18年)、「西南太平洋の戦況は日々深刻の度を増し、真に大和民族一億の運命を賭して…」(19年)、「今や時局益々重大、…決戦必勝体制下、本学の発展も…必ず将来来るべき大東亜共栄圏の文化に貢献しなければならない」(19年)等々である。仏教系もキリスト教系も「皇道」を前面に唱えて進まざるを得なかった時代であった。
昭和20年(1945)5月24日未明、米軍の大空襲によりコンクリート造りの本館、図書館、中学校を除いて講堂などすべて焼失した。すでに3月より中学校以上の授業は全面休止となっていたが、9月より再開、しかしまだ戦地から帰れない学生や疎開先から帰れない教授も多くいた。戦前からの食料不足は一層深刻になり、インフレなどの経済の不安定で、復学した学生も大変な生活の中で勉学に取り組んで行った。
香蘭女学校
元は英国国教会の2つの伝道協会と米国聖公会の伝道活動を統一し、明治20年(1887)、日本聖公会を成立させ、伝道諸事業の一つとして香蘭女学校の設立が認可され、翌年港区麻布で創立された。明治43年(1910)火災によって校舎を焼失し大正元年(1912) 港区白金に新校舎を建設し移転、その後生徒数増加により、現在の品川区旗の台に校舎を新築、昭和16年(1941)に移転した。下記は主に当校のウェブサイトの「歩み」と校誌『100年の歩み』から。
なお香蘭女学校は筆者が調べている範囲では、戦時の軍事政権下のキリスト教系学校の中で、一番迫害を受けた学校である。
新築の校舎に移転した昭和16年(1941)の末、日本は対米英の太平洋戦争(大東亜戦争)に突入した。12年より開始した日中戦争(支那事変)に対し米英等が経済制裁を課してきたところから、米英への排斥運動の中で宣教師たちは日本に居づらくなり、他校の教師も含めて15年より帰国し始め、副校長のミス タナーが帰国、そして17年にはミス・ウーレーとミス・ヘイルストンが日英交換船(太平洋戦争中は危険回避のため双方の国より船を出し、南アフリカのケープタウンで合流し、そこでお互いの船に乗り換えて帰国する方法が取られた。日米も同じルートである)で英国に帰国した。
17年(1942)に入って突然、軍の帝都防衛部隊の小隊が学校に駐屯して来た。英国コテージ風の本館は占拠され、講堂の屋根の上に監視哨が立ち、庭の築山の陰に将校用の防空壕が作られた。彼らは生徒たちが久しく口にしていない白いご飯や肉などを堂々と食べていたという。実際に戦時下の食糧不足の中、軍隊には優先的に食糧が供給される特権があった。ちなみに、同じ軍隊でも外地の前線兵士は食事に苦労したとの話は数知れないし、最後は補給が断たれて外地の戦死者のうち6割が餓死という統計がある。
昭和19年(1944)に入り、学校の教室が工場とされ、勤労動員として低学年生徒たちはここで軍服や靴下、電気部品を作る作業に従事した。高学年生は同じ軍服を作る主工場に勤労に出かけた。学校工場は特に女子校がターゲトとなり、都内では工場に転換させられていない学校は稀である。これに対し生徒の授業時間を少しでも確保するために早めに自発的に導入した学校もある。さらに就業してない香蘭の卒業生にも勤労は義務付けられ、女子挺身隊として工場に出向いた。
同じ19年3月、園芸家の教師が突然憲兵隊に連行され、40日間拘留され、裁判の結果、流言とスパイ行為で有罪、続いて教頭が拘留され信徒の教師たちも次々に取り調べを受けた。教頭は3月に辞職、そして6月には井上校長他数名の教師も辞職に追いやられ、官選の校長が任命された。キリスト教系学校は全て一種の弾圧下にあったが、これほどまでとは異例である。
『100年の歩み』の中に、香蘭女学校を高等女学校に改組する文書のコピーが載っている。もともと19年より高等女学校令によって私立の女学校は公立と同じく高等女学校という名称に統一されることになった。しかしこの文書は全て下手なペン字で文部大臣宛てに書かれ、香蘭女学校を廃し、香蘭高等女学校を新たに設立するという主旨のもので、新任の官選校長の印と承認印だけで文部大臣の印はなく、正式なものと思えない。軍によって強権的にこの学校のキリスト教主義を廃す形を取ったように見える。
実はそれ以前の昭和12年の日中戦争突入の年、国民精神総動員運動が起こされ、その翌年に軍政府は国家総動員法を制定、その流れの中で統制上の目的で仏教系も含めて宗教界に統合を求めた。カトリック系は一団体として認め、プロテスタントの諸教派も合同するように求め、そこで14年の秋に各教派は青山学院に集まり、大同団結の決意表明をした。そして15年に全国60以上のキリスト教系学校の校長が集まり、「新体制下のキリスト教諸学校の進むべき道」を協議した。大勢はこれに従ったが、香蘭の母体の聖公会はこれに抵抗し、するとそれが敵国となっていた英国教会の日本への妨害行為であるとみなされ、憲兵は当校の内偵を進め、思想調査を行った結果である。一般の公立から来た教師もいたので、その愛国主義的な教師と生え抜きの教師との密かな対立もあって、密告があったようである。
しかしその実態というのは大体において、この戦争には勝てない、間違っているとか私的な場所でふと漏らした言葉が「悪質なる流言飛語」として「皇軍の行動を中傷する言辞」となり、この戦争に協力しない非国民、すなわち敵国のスパイとして糾弾されたわけである。実際にある女学校において、授業が終わったあと、早く世界の平和が来るように祈りましょうという女性教師の言葉に対し、小学校からの教育で愛国少女となっていた生徒が、アメリカのスパイで非国民だとして先生を訴え、辞めさせてしまった例があるほどである。
こうした異常な監視の中で憲兵は生徒の家にまで内偵に行くという異様な事態になったが、この時代では半ば日常的に行われていた。そしてこの追求はさらに続けられ、聖公会の最高責任者として三名の主教が検挙され、治安維持法、国家総動員法に基づいた宗教団体法違反の罪で送検された。そして英語の辞書や聖書が没収、焼却されたという記述があり、ここまでの弾圧の例は他のキリスト教系学校でもない。
新校長のもと、朝の礼拝は禁止され、宮城(皇居)遥拝(これは16年から行われていた記録がある)の後に教育勅語の奉読、そして「必勝の信念、必死のご奉公」と唱和し、校長の訓話が行われた。生徒たちは礼拝の代わりにせめて聖歌だけでも歌いたいと希望したが拒否された。教室の黒板には生徒の書いた新校長の悪口の落書きが目立つようになった。19年12月25日夕方、勤労動員の工場から数人の生徒が学校に立ち寄り、先生に今日はクリスマスだから聖歌を歌いたいと訴え、ちょうど歌の先生もいて、体育館のピアノを囲んで歌った。これが次第に大勢が集まってのコーラスになり、近くに住んでいた校長が慌てて来たが、早く帰りなさいと言っただけで去った。
香蘭女学校の勤労動員は、第三、四、五学年の生徒約240名を、鬼足袋工場や同校内において、軍服の襟章、ボタンつけ、軍服縫いに従事したとある。
20年4月ごろには学校に残っていた教職員・生徒は200人(全1700人のうち)であった。空襲に備えて教師と生徒は当番制で宿直していた。5月24日未明、都内への三度目の大空襲があり、B29爆撃機により当校にも次々と焼夷弾が落とされ、十数名の宿直の教師と生徒が附属幼稚園の貯水池の水をバケツリレーで懸命に消火を試み、屋根に登って消火したり、庭に突き刺さった焼夷弾にも直接水をかけたが、そのうち校舎のあちこちから火の手が上がり、全員グラウンドの防空壕に避難した。数時間で校舎はほぼ全焼し、校門、ブロック塀、奉安殿が残るのみとなった。全員かすり傷程度ですんだのが幸いであった。校内には400発以上の焼夷弾が落とされていたという。この翌日夜間にも大空襲による余波もあったが、すでに燃えるものはなかった。
8月の終戦から数日後、理事長の佐々木主教が拷問によって痛めた足を引きずりながら焼け跡に立ち、復校の宣言をし、その場で官憲側の校長を罷免した。しばらく青空の下で授業をしたり、近所の神社や小学校の一部を借りていたが、11月に九品仏浄真寺の境内の一棟を借りることができ、本格的に授業を再開することができた。礼拝の際には木魚の音が聞こえて来る環境であった。英国からミス・ウーレーとミス・ヘイルストンも戻ってきた。昭和23年(1948)、新校舎が完成し、元の地に戻った。
大崎高等学校(旧・品川実践女学校)
明治44年(1911)、荏原郡大崎町立大崎女子実業補習学校として第一日野尋常小学校内に開設。昭和7年(1932)年、品川区立大崎実修女学校、13年に初めての専用校舎建設、17年に東京市立品川高等実践女学校、18年に東京都立となる。戦後の21年(1946)に大崎高等女学校、翌22年に新校舎に移転、23年に大崎(新制)高等学校、そして男女共学となり、より広い土地を求めて26年(1951)現在地に移転。以下は主に『大崎の百年』所収の卒業生と教師の回想記より。
昭和16年(1941)12/8の太平洋戦争開始後の18年の卒業生の思い出は「防空演習、勤労奉仕、モンペ姿の卒業式」であった。17年4月に単発的に空襲があったきりで、まだ本格的空襲はなかったが、「防空演習も東京が戦場になれば(女学生は)看護婦としてそのまま動員されるということで、近くの病院へ何分で集合できるか等を練習したり、止血法、包帯巻き、担架の使用法などの講習を受け、防空頭巾と包帯等はいつも身につけていた」。「勤労奉仕も(皇居前広場や神宮外苑の整地作業の他に)次第に工場へ派遣される回数が多くなり、学校へ通わぬ日が続いたが」、それでも最初の頃は勉強をしなくていいという多少の開放感があった。モンペ姿ではあったが「人知れぬおしゃれを楽しみ…他愛のない呑気な女学生生活を過ごしていた」。モンペは母親の着物で作り、靴もないから手縫いの足袋に下駄を履いて通勤したとの回想もある。
「戦局が不安になるにつれ(旅行は許可制となり)…何泊もの旅行は考えられないものになり…それでも四年の夏休みに奥多摩に一泊の行事は…楽しい一夜だった。その前にも…キャンプが計画され、すでに配給制になっていた乏しい食料を持ち寄る手筈も決まりながら警戒警報発令のため空しく中止になった」。鍛錬として三年生の頃から全校挙げて年一回学校から多摩川堤往復20kmの徒歩行軍が行われた。教練としては薙刀の稽古などがあったが、英語は敵性語として廃止された。
昭和に入ってから、現在の品川区と大田区は軍需工場が次々にできていた。しかし戦争への徴兵で逆に男手が足りなくなり、学徒勤労動員令で学生・生徒を工場に仕向けるようになり、特に19年(1944)からは通年化された。当校の動員先は田中航空計器、明電舎、沖電気、藤倉ゴムなど。とりわけ羽田の軍需工場(おそらく明電舎の分工場で飛行機部品の作製)へは戸板、共立の女学校のほか男子の中学校生徒もいて、まず朝礼で生産をあげるように訓示され、配置についた。しかし空襲が頻繁になってくると、工場と防空壕との往復が多くなり、電車が止まると線路上を歩いて帰ったが、低空でやってくる戦闘機の機銃掃射から逃げながら、何時間もかかって家に着いたこともあった。その途中で散乱した死体を見ることもあった。
一方で19年、戦時保育所を学校内に開設し、工場勤務の女性のための子供の世話を体が弱くて勤労動員に行けない生徒が担当した。19年末から空襲が激しくなると都の指示により保育所はまもなく閉ざされた。校内にも防空壕が作られたが、生徒たち自身で掘って作るしかなかった。
20年5/24未明、城南地域への大空襲により学校は全焼した。特に3/10の大空襲を受けて、学校では警戒のために女性を含めた5人の職員と上級生6人が教室に畳を敷いて宿直していた。しかし大量の焼夷弾には木造校舎はなすすべがなかった。隣の第一日野小学校は焼け残っていたようだが、翌日夜間、再度残った山の手地域への空襲の時に学校はすべて焼かれた。学校の重要書類と品物はなんとか持ち出し、現在の日野中学校の場所にあった大崎小学校に預けていたが、5/29の横浜大空襲の余波で大崎小は焼失し、結局全て残らなかった。
実はこの24日、19年卒の方の記述では、宿直していた同級生(17歳)が一人「御真影(天皇・皇后の肖像写真)」を守るために焼死しているという。御真影は、当時は何よりも守るべき一番大事なことで、空襲が始まると大事をとって奥多摩地区に「疎開」させていた例が多いが(公立は都の指示があったという記録が別にある)、そうでなくても火災に遭えば校長が真っ先に保管場所に走り、校長自身か付き添いの人がリュックサックなどに入れて一緒に逃げたとかの記録が特に私学に多い。当校にあって、そのために生徒が死んだとはどういうことなのか。しかも御真影はどうなったのかという記述も筆者の調べた範囲では見当たらない。教育勅語もそうであるが、これらを失うことは校長の大きな責任問題であった。しかも卒業生(おそらく繰り上げ卒業によるもの)の彼女がなぜ?と書かれている。卒業生はこの当時他に就業しなければ女子挺身隊として続けて勤労する義務があったので、その理由で宿直していたのかもしれない。ただ他の教師の回想ではこの日は「全員無事」とあるので、学校関係者からの正しい情報を待つ次第である。
いずれにしろこの24日で品川区内で焼死した人は252名となっているから、自宅で亡くなった生徒も幾人かいたであろう。また家は多くの生徒が火災で失っている。
この後、校舎の焼け跡の整理のために、学校に残っていた低学年生が働いた。そして食糧不足により、この焼け跡その他の空き地を利用してさつまいもを植えたりした。とりあえず勤労動員していない一年生は芳水小学校の一部を借りることになった。しかし芳水小はいわゆる学校工場とされ、近くの明電舎から各種の部品が届けられた。本校舎が焼ける前は学校内で一年生は沖電気の電線巻きに従事していたが、沖電気の本工場も同時に焼かれて部品が届かなくなったのである。
一年生はその後大崎の明電舎に通うことになり、8月15日の勤務初日に天皇の終戦の詔勅がラジオで放送され、生徒たちはそのまま何もせずに帰った。その代わり学校に行って焼け跡の片付けをした。
翌9月より授業は再開されたが、教科書も勉強道具もなく、しばらくして印刷したままの新聞紙の大きさの教科書を自分たちで折って閉じ、端を切って使った。食糧難は相変わらずで、運動すると空腹になるからと、昼休みもじっとして過ごすことが多かった。占領軍の米国からLARA物資として缶詰や洋服などが生徒に配られたこともあった。
翌21年に入って当校を廃校にし、大森高等家政女学校(現雪谷高校)に併合するという計画が都から来た。そこで校長やPTA会長等を始めとした強力な残存運動がなされ、しばらくのちに撤回され、翌年新校舎に移転した。この時の引越しには生徒たちが机や椅子を自分たちの手足で運んだ。その後共学になり「お転婆なこともできず窮屈になった」という人と、競争心も出てきて活発になったという人もいる。
余話として、17年卒の方が、卒業後一度就職した後に日本赤十字社の看護科に入り、そこで資格を取得し、同期の友人に来た召集の葉書(当時は看護婦にも正規の召集があった)をもらって、ちょうど来た嫁入り話を蹴って代わりに志願し、少し待機した後、終戦直後の8月に病院船兼引き揚げ船となった氷川丸(現在横浜山下公園に重要文化財として係留中)に乗り込んだ。そしてフィリピンのマニラや満州のコロ島に向かい、引揚者を運んだ。フィリピンはほぼ兵士の傷病者を含めた引き揚げであったが、コロ島では様子が違った。満州は上記品川区の満蒙開拓団の項でも触れているが、終戦直前にソ連(ロシア)が参戦してきて日本の一般居留民が悲惨な目にあい、なんとか命からがらの逃避行でその島にたどり着いた人々がいて、(男たちはほとんどシベリヤに抑留されたから)それまで途中で幼子を失い、あるいはなんとか子を守ってきた母親や、発狂した母親、そして傷病兵たちを運んだ。帰りの船中はそれこそ昼夜兼行で心身を投げ打ってこの人たちのために尽くした。博多に着いて沖待ちの数日の間に、岸壁で待っていた母親に会えずに亡くなった傷病兵もいたという。
八潮高校(旧・都立第八高等女学校)
大正7年(1918)、良妻賢母型の婦人を育てるという目的で、東京府荏原郡立(現在の品川、大田、目黒、世田谷にまたがる地域)実科女学校として設立され、大正11年に荏原郡立高等女学校、翌年府立として品川高等女学校と改称、昭和2年(1927)に第八高等女学校となり、9年に新築された現在地の校舎に移転、当時はまだ海岸を埋め立てして間もない土地であった。戦後の昭和24年(1949)、東京都立八潮高等学校と改称され男女共学となる。以下は『70年のあゆみ』から。
昭和12年(1937)の日中戦争突入あたりから特に軍国主義化の統制が強まり、女学校にも勤労奉仕が求められ、軍人への慰問袋の作成や、その中にお守りとしての千人針を入れたり、陸軍病院に傷病兵の慰問、明治神宮や皇居外苑の清掃作業に行くなどした。16年(1941)5月、間近に迫る太平洋戦争に向けての体制作りでとして学校報国団が組織され、運動部は鍛錬部とされ、他に学芸部、生活部、国防訓練部が設けられ、本格的に防空訓練、救護訓練が行われるようになった。この年から女学生の楽しみの一つであった修学旅行が中止された。勤労奉仕は勤労動員と変えられ、17年から軍需品工場へ勤労報国隊として行くようになった。その中の一つに5年生全員が通った凸版印刷があるが、これは占領地中国で使う軍票)紙幣)の検品であった。他の学年は無線機や製薬会社に通った。
18年(1943)より勤労動員の日数は次第に増え、19年から固定化されて行く。海軍衣糧廠(軍服など)への動員もあったが、学校の講堂、体育館、教室が工場とされて軍服や兵隊の雨合羽を作ったり、電波探知器組立ハンダ付作業に従事した。新潟鉄工では事務だけでなく旋盤作業もあった。
一方で第八高等女学校では体育が重視されていたが、昭和10年の学科課程では「体操」では「教練、体操、遊技」がその内容であったが,昭和18(1943)年には時流により「体操」が「体錬」となり「体操、武道、教練」と変わり、武道では薙刀とともに弓道も行われることになった。本土決戦を想定して敵と戦うために、中等学校令により特に薙刀は女子中等学校における必須科目にもなった。
当校は沿岸地帯にあったためか、空襲による被害はまぬがれた。しかし20年5月24日の大空襲では品川区の小学校の8割が焼失している。大正12年の関東大震災による江東区を中心とした下町地区の大火災で、昭和に入って多くの人々が流入し、人口が増えて小学校も多く新設されたところであった。終戦後、9月に入って学校は再開されたが疎開していた生徒がすぐに戻れたわけではなかった。制限されていた修学旅行は、23年から再開された。ただ食糧事情がまだ悪く、おそらく生徒はお米持参であった。
品川女子学院
大正14年(1925)権現山公園に当時の品川町長の娘、漆雅子によって荏原婦人会館が建てられ、そこに荏原女子技芸伝習所を開設、翌年荏原女学校設立。昭和4年(1929)品川高等女学校とする。戦後に品川高等学校、後に品川女子学院となる。当校の戦時下の資料は少ない。
ある卒業生が、太平洋戦争開始の日(昭和16年12/8)、「音楽の時間に音楽室の前の用務員室から戦争の開始を告げる大本営発表が聞こえてきた。…これはとても大変なことになったと感じた」。すでに昭和12年の日中戦争あたりから勤労奉仕は続けられていたが、一年間に30日は食料と飼料の増産に関係する作業をするようにと文部省の通達があり、生徒の勤労奉仕が本格的に始まった。その中で宮城(皇居)前の穴掘り作業もあった。
授業の中には体練科(体操のほか教練や武道)が組み込まれ、修身、国語、歴史、地理が一括して国民科となった。歴史は天皇を中心とする「皇国」を説くため、地理は当時すでに日本の植民地としてあった台湾、朝鮮、満州などの版図を教えるのに重要であった。逆に英語の授業は敵性語として週に3、4回あったのが次第に縮小され1回程度になった。
勤労奉仕は集団勤労動員となり、生徒は品川や蒲田の六つの軍需工場(明治ゴム・藤倉電線・羽田航空製造など)に配属され、最後の一年は通年動員となった。空襲が始まってからは防火決死隊を組織して徹夜の交代で空襲に備えるようにした。創立者の漆も「工場地帯が続くこの辺は、当然焦土になるものと覚悟を決め」、「昼間は生徒たちが出勤している工場をまわり、夜は防毒マスクを背負って庭に立った」。
20年(1945)3月10日の東京大空襲は江東区を中心とした下町地帯が本当の焦土となって最大の犠牲者を出し、その時は品川地区の被害は少なく、5月24日の城南大空襲で品川地区も壊滅状態になった。しかし当校は運よく被害を免れた。戦後の復興で、郊外に広い土地を求める学校もあったが、当校としては品川を離れることは考えられず、道路を隔てた元軍の隣接地が手に入り、中高一貫校としての基盤ができた。
杉野学園(旧・ドレスメーカー女学院)
大正15年(1926)、芝区(現・港区)に杉野芳子ドレスメーカースクールとして開校。 同年11月大崎町(現・品川区上大崎)に移転しドレスメーカー女学院に改名。その後速成科、研究科、師範科及び洋服本科(修業年限1年)を昭和5年(1930)までに順次開設。現在は杉野服飾大学/短期大学/ドレスメーカー学院の構成となっている。
創設者杉野芳子は、単身渡ったアメリカでの生活体験の中から西洋衣裳の制作技術を身に付け、帰国後洋装を日本人に定着させるための自身が考案したドレメ式原型による服飾教育を展開した。日本初のファッションショーを開催するなど、その取り組みのすべてがパイオニア精神で満たされている。(以下は四十年史より)
<学院の興隆期>
杉野の革新的な教授法により、最初3名の生徒は倍々ゲーム以上に増えた。時代の要請もあって、新聞雑誌を通じた無料の講習会や型紙販売で学校の募集広告などは一度もすることがなく、一般の高等女学校の卒業生も押しかけてきた。それでも当時の通学はみんな和装であったので、昭和4年(1929)からすべて生徒自身で作った洋装を強制した。洋服店など皆無の時代であったし(上流の女性の洋服は全て仕立てであった)、まだまともな靴もない時代であった。その翌年は入学者が3倍になった。現在につながる立体裁断や仮縫いなどの基礎はほぼ杉野が作ったと言われる。今に残るドレメの略語は生徒が自然に使い始めたという。
しかし教室が毎年のように足りなくなり、近くの教会を借りたり、自宅を総二階にするなどしたが、昭和5年(1930)には評判が広まり、北海道から当時の植民地である台湾からも生徒が集まるようになった。窮余の策で昼間使っていない寄席を教室がわりに借りたこともあった。そこで杉野が米国で知り合い結婚していた伴侶は建築学が専門で、当時は朝鮮に仕事で赴任中であったが、6年の夏休みを利用して学校の経営をやってくれるように呼び戻しに行った。
ちなみにその翌月に満州事変が起こっている。これが15年戦争と言われる長い戦争の端緒となる。そして日本に戻った杉野の伴侶は理事長として土地の取得から校舎の設計まで獅子奮迅の活躍をすることになる。
創立10周年の昭和10年(1935)には全生徒数1200名となっていた。そこで記念式の代わりに日本で最初の本格的なファッションショーを企画した。学校内ではショー形式の作品批評会(ドレメタイプ)は盛んに行われていたが、すべて杉野院長自身がデザインした個人ショーであった。ただ、専任のモデルもいない時代で、杉野自身がダンスホールなどに通ってかき集めたという。とにかく日本人の体型にあったデザインを押し通し、日比谷公会堂でのショーは大成功であった。そして海外からの留学生も増え、満州や中国、朝鮮、東南アジア各国はおろか、ハワイやアメリカからも来たという。宝塚歌劇団の衣装部にも卒業生が採用されるようになった。
<欧米への遊学と成果>
学院の基盤ができて来たところで杉野は自身の勉強にと欧米の視察旅行を企画した。12年(1937)7月末に横浜から出航した。ただその7月に中国で盧溝橋事件が勃発し、日本は日中戦争に突入した。
最初に上陸したロサンゼルスでは卒業生などが歓待してくれ、洋裁学校や工場などを見学、すぐに目に留まったのは洋服の多彩な色で、日本では和服の生地は多彩であるが、逆に洋服はまだ地味であることを思った。その後ニューヨークに行き、デザイナー養成法の目的も持って洋裁学校を見学したが、学院のような大規模な学校はなかった。また日本にはないパターン会社も見学、今も有名なヴォーグ誌にも行き、自校ドレメの会誌を見せて批評を乞うと絶賛された。そこからさらにフランスに渡った。パリでは洋服用の造花とクープを学ぶために学校に入った。
翌13年(1938)に入って戦況は深刻になり、外務省から帰国を督促され、日本からの送金も難しくなったが、最低限会いたいと決めていたオートクチュールをリードする人たちに会い、イタリア経由で帰国の途についた。実はこの翌年に欧州で第二次世界大戦が勃発し、杉野が米国からフランスに渡るときに乗ったクイーンメリー号は、ドイツの機雷に触れて沈没し、帰国するときに乗った日本の照国丸は次の航海でドーバー海峡で沈没したということである。
ちなみに杉野院長の遊学中に、それまでの自宅は校舎内であったが、理事長が温めていた自分の設計で、彼女が帰ってくるまでに黙って別棟を突貫工事で建ててしまった。理由は彼女がそばにいるとうるさくてしょうがないからという。しかしこの立派な自宅が後に役立つことになる。
ここに杉野が時代を読み取る感性がいかに優れているかという逸話がある。彼女が止むを得ず予定を早めて昭和13年2月に帰る途上の船から「時局がら、廃物更生を主とした展覧会の用意たのむ」との電報を学院に打った。廃物更生とは古いものを利用して再生させるということであるが、彼女が日本を出立した12年7月の翌月に「国民精神総動員実施要綱」が閣議決定され、「挙国一致、尽忠報国、堅忍持久」のスローガンが打ち出され、政府は戦時体制強化に走っていて、翌13年に彼女の帰国後に国家総動員法を制定し、これはすべての資源、貿易等の経済部門に加え、国民の労働力と日常生活から言論まで、国民を全面的に国家の統制と管理の下に置こうとする法であった。これに基づいて翌年に国民徴用令が発され、生活必需物資統制令が打ち出されたのは太平洋戦争が開始される半年前の16年半ばであり、衣料品配給に切符制度が導入されたのが17年初であった。
13年(1938)2月半ば、実際に神戸に着いて、理事長たちの迎えを受けたが「生徒ムカエニダスナ、校旗モダスナ」というもので、華やかな姿で学院に帰って来るものと期待した生徒たちの出鼻をくじいた。「私のおみやげは、私の頭や心に刻み込んで来た研究の成果と新しい刺激で若々しくなった新鮮な時代感覚だけでした」とある。そしてその「新鮮な時代感覚」を更生服の取り組みに向け、帰国一ヶ月後には「地味に」という掛け声をもって、その更生服の展覧会を行なった。和服の残り布や古い絣の銘仙をスーツにというやり方であった。3回目の展覧会には8千枚の招待券では足りないほど人々が押しかけて来た。それほどに国内は衣料品の欠乏に陥りつつあった。新聞も争って記事にし、ある百貨店が「更生服御用承り」としてドレメのデザイナーを専属に迎えた。そこから都下の全デパートに広がった。
一方で覚えて来た肩のラインを決めるショルダーパッドや造花の作り方を生徒に教えると同時に一般にも公開した。教授法も工夫していったが、一番大事なことは決して欧米の模倣でない日本人独自の生活に根ざして創作のできるデザイナーを養成することで、その目的でデザイナー養成科を14年に開設した。これも日本で初めてのことであった。(結果的に、戦後にドレメで学んだ森英恵が日本人の感性を生かした世界的な服飾デザイナーになっている)
<戦時統制下での苦闘>
さらに増え続ける生徒を受け入れるために、理事長が自身の設計で増改築を重ねた。しかし15年(1940)あたりから建築資材も軍事優先で増築も難しくなった。この15年はドレメの15周年であったが入学定員500名のところ、約3倍の志願者が押しかけ、それに応えることはできなかった。またこの年は皇紀(神話上の神武天皇が即位したとされた年を紀元とする)2600年の各種式典の上、時局による締め付けと杉野院長自身の忙しさにより15周年の記念式は行われなかった。
翌16年(1941)末には日中戦争が膠着状態のまま太平洋戦争に突入するが、その前から政府による物資、風俗、思想言論統制が一段と厳しくなり、厚生省が男子同様に国民服に統一させようとした。しかし各方面からの反対で婦人標準服の制定に落ち着いたが、発表された標準服は魅力に欠けるもので普及せず、杉野を始め服飾関係者を呼んで協力を要請した。しかし杉野は協力する気になれず、すでに生徒たちには活動しやすいユニフォームを着せていた。ところがそれがスマートに見えるとして異端視されたり非国民と呼ばれたりした。杉野としてはこの更生服は慎ましく合理的で清潔でこれほど時局に適ったものはなかったし、何よりも着る人に喜ばれるものが大事であった。
杉野は直接の授業の合間を縫って、戦時下で皮革も入手難になっていたから、木と布でヒール付きのサンダルを考案したり、フェルトで手製の靴を作る提案もし、他にも戦時下の洋装のためのバッグや被り物まで、場合によっては男物を利用するなどのアイディアをいろいろ出して新聞にも盛んに取り上げられた。
16年、文部省は各学校に報国隊を組織させ、さらに国民勤労報国協力令により年間30日の勤労動員を義務付けた(このような周到な準備をして軍政府は太平洋戦争に突入した)。これに対し杉野は報国隊服を考案し、生徒が勤労時や防空訓練時に国民服的なへちま衿の上着ともんぺ姿になることを回避しようとした。実際に勤労動員時の整列した写真があるが、他の高女などで見るよりフード付きのスマートで機能的な服装(学院では団服と言った)に見える。その長袖とスラックスの裾はたくし上げてボタンで止めるようにできていて、その姿で銀座を歩いている生徒の姿が新聞社のカメラマンに撮られ、新聞に載せられることも再三であったという。さぞ生徒たちも誇りに思ったであろう。
当初の勤労奉仕、そして本格的な勤労動員において軍はその特色を利用しようと、陸軍被服本廠他各方面から数千あるいは数万単位での軍服縫製の仕事を依頼して来た。一方で学徒報国隊として海軍衣料廠に生徒を派遣し、それに伴いミシンも180台を持ち込んでいる。実質、学校の機能はなくなっていたが、一般の高等女学校も同様であった。
またいよいよ物資不足は深刻になり、武器の材料として使うために学校の鉄製の門扉や暖房のラジエーター、校舎正面の校章なども撤収し供出させられた。さらに英語は敵性語として排斥されていて、ドレスメーカー女学院は杉野女学院と改名された。
もともと学院は各種学校としてあり、18年(1943)9月の戦時体制要綱により学校の整理統合で多くの洋裁学校が閉鎖されたが、この時は学院は免れた。しかし翌年には不要不急の学校として閉鎖命令が下った。軍に利用するだけ利用されての結果であった。そして勤労動員中の生徒たちは、女子挺身隊としてそのまま軍の仕事を続けた。挺身隊とは学校に在籍しない卒業生で、かつ会社に就業していない14歳から25歳までの女性を指した。つまり学院が閉校させられたためその扱いとなったが、それが軍の意図であった。
閉校となった校舎は電波兵器研究所に占有され、ミシンもほとんど供出を命じられた。17年(1942)に造られた100名を収容する立派な寄宿舎も解散となり(そこに備えられていた自習用のミシンもことごとく供出された)、生徒たちは故郷に帰ることになった。ただ分校舎が残っていて、そこは学校工場として昼はボール箱の作業をやり、夜だけ熱心な生徒に対して洋裁の授業を行った。
<戦災と戦後の復興>
東京への大空襲は下町の密集地を狙い、一夜にして8万数千人が焼死した20年3月10日を端緒として、5月25日の山の手大空襲まで4度あり、それでほぼ都区内は焼き尽くされていた。しかしそれまで学院の校舎は無事であった。ところが5月29日の横浜大空襲でB29大型爆撃機が500機以上来襲、その流れで品川、太田、港区の残余も狙われ、焦土の中に残っていた学院の校舎も多数の焼夷弾にやられ、大火災となり三日間燃え続けたという。ただ院長の住宅と寄宿舎は残った。終戦の二ヶ月半前であったが、院長たちは空き地を開墾して畑を作り、アヒルやヤギなどを飼って食料の足しにしたという。
満州事変から始まり実質14年に渡る長い戦争の時代は東京を廃墟にして終わった(ただし中国や東南アジアなどの広範囲な戦地に残った兵士や満州の居留民にはまだ長い苦難や死が待っていた)。
8月15日の終戦の一週間後に、憔悴しきっていた理事長と院長に学院の再開を促す生徒の声があった。しかし生徒や職員たちは四散して行方もわからず、校舎もなく、ミシンもなく、それでもそうした声に二人は気持ちを奮い立たせた。まずは自分たちの住宅と寄宿舎を活用するしかなかったが、焼け出されて住み着いていた同居者たちに立ち退き交渉をし、寄宿舎は軍の工員の寮になっていて、その返還交渉もあった。家を改造するための資材配給の許可はまだいいほうで、肝心なミシンが4、5台しか残っていなかった。海軍衣料廠に預けたミシン180台は返還の契約書を交わしていたので理事長は交渉に行った。しかし終戦のどさくさで工員たちが全て持ち帰った後だった。交渉の結果、長野県の伊那に勤労動員された高女の生徒が使っていた工業用のミシンが5、60台残っていると聞き、理事長は12月の寒い中それを引き取りに行き、何とか貨車で運んだ。しかし工業用ミシンは学校では使用できず、近所の藤倉電線で家庭用ミシンに交換してもらった。それまでの間、毎日何十通と学校への問い合わせがあり、わざわざ上京して確かめに来る生徒もいた。
そうして翌年1月8日を開校日と決め、新聞広告も出せない状況で、住宅の前に予告の紙を貼っただけであった。当日は50名も集まればいいだろうと願書も適当な枚数で、玄関に受付の机一つで、手伝いも台湾に帰れずに住宅に寝泊まりさせていた生徒一人であった。ところがその朝門を開くとすでに長蛇の列ができていて、目黒駅の方まで続いていた。行列の中に付き添いで来ていた昔の卒業生を見つけ、受付を手伝ってもらった。その後も行列は増え続け、進駐軍がジープで何事かと様子見に来て事情がわかると驚いて帰って行った。この日、口コミだけで何と千数百名が集まっていたが、とても収容する設備もないので、元いた生徒たちを優先して、やむなく千名で締め切った。その日の行列の写真が四十年史に載っている。
4月、もとのドレスメーカー女学院の名前に戻し、住宅の二階の座敷をぶち抜いて廊下も利用し、床の間に黒板を置いての授業となった。10月にも入学受付をしたが、やはり大勢が押し寄せ、結局試験によることにした。翌22年明けは噂を聞いていた志願者が、前夜から並んだ。教室の机を作るための資材もなく、生徒の中に山形県の材木を扱う家があったのでそこから仕入れた。次に寄宿舎を改造し、4教室を作った。さらに校舎を建て直すために理事長は都の建築局と掛け合ったが、貴重物資を花嫁学校には使わせないとの返事で、それに対して、衣食住の中でも最も重要な衣服、日本再建のために衣服を無視するのは許せない、ここまで待たせている多くの志願者をどう思うか等々と述べ立て、説得し、最初のバラック校舎ができ、22年10月の入学生に間に合わせた。その後も拡張に対して様々な障害が立ちはだかったが、復興に向けて学院は邁進した。それにしてもこれほどコンビネーションの良い事業家としての夫婦も稀であろう(後の森英恵も伴侶の支えが大きかった)。
そうした中で杉野院長の悩みは、海外の新しい情報が途切れていることであった。理事長、院長共にアメリカ留学の経験者であり、駐留軍の将校ともすぐに親しくなり、その夫人に雑誌やスタイルブックを取り寄せてもらった。それにより21年の秋には戦時下で中断していた学院のパターンブックを復刊したが、これも予想以上に売れた。
ただ、杉野が戦後の学生に教えていて一番の障害は彼女たちがデザインに対する感覚を失っていることであった。戦時下の軍国主義一色がどれだけ人々を画一的な感覚にとどめて、思考力や創造力を奪ってしまうかというよい例である。それもあって早くもバラック校舎ができたその翌11月に作品展覧会とファッションショーを同時に開いた。それを見に来たアメリカの婦人記者が賞賛して紹介の記事を書いてくれた。昭和30年代後半には、ドレメの卒業生により設立された系列校が全国で700校を超えるまでになった。
余話ながら、校舎が再建されてから、そのガラスやカーテンが夜のうちに盗まれ、医務室用のマットレスの中の真綿が切り抜いて持って行かれたりと盗難が絶えなかったというが、これは他の焼け残った校舎などにも多発したことである。またドレメの名が知れ渡ると、その名前を騙った詐欺商法が横行したという。これもいつの時代にも絶えないことである。
文教大学学園(旧立正学園/立正学園高等女学校)
昭和2年(1927)、立正大学の事業として立正幼稚園、立正裁縫女学校を開設。翌年立正学園を設立し、その中に各種学校を加えつつ普通科の立正学園高等女学校を設立。戦後の昭和22年、学制改革により高女を分離し中学校、翌年女子高等学校をそれぞれ二校設置する。28年(1953)、立正学園女子短期大学、41年(1966)、越谷市に女子大学を設立。51年、立正女子大学を文教大学に改称し、翌年男女共学にする。以下は主に『立正学園創立三十五年史』及び『五十年史』より(ただしいずれも内容は学校発展の側面ばかりで生徒側の記述がほとんどない)。
立正学園は設立後急速な発展を遂げ、昭和7年(1932)から9年にかけて新校舎や講堂など次々に新築したが、20年(1945)の戦災で全て灰燼に帰す灰燼に帰すことになる。
昭和6年(1931)の満州事変から12年(1937)の日中戦争に至り、日本はほぼ戦時体制に入った。この年、国民精神総動員運動が起こされ、翌年には国家総動員法が可決され、全てを戦争優先に向ける事態となった。年史の写真の中に「軍事教練(昭和12年)」とあるが、これはすでに学校に陸軍の配属将校がいて、軍事的訓練がなされていたことを示し、女学校ではかなり早いほうである。その後の数年の記載がないが、その間は勤労奉仕作業が行われていたはずで、神社の清掃活動とか出征兵士のための慰問袋の作成とか、陸軍病院へ傷病兵の慰問とか、どの女学校でも行われていた。
次に「農場での食料増産」(昭和15年)の写真があるが、この時代とりわけ食料も軍需優先に向けられ、次第に食糧の不足が叫ばれ、どの学校も自前の農場を持つか、借り受けたりしていたが、立正の場合、上野毛の多摩堤防際に農舎付きの広い農地を借り、そこで生徒たちが自分たちの食料確保のために芋などを育てた。実際に16年に入ると「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要項」が文部省から発令された。この後食糧不足はますます深刻になり、終戦後も一、二年は続けられたであろう。
「救護訓練(昭和16年)」の写真もあるが、これはまだ現実になっていない空襲を想定しての防空と防災訓練の一環で、軍事教練と並行して行われていた。そしてこの後、日中戦争が収拾のつかないまま、16年(1941)12月8日に日本軍は米国の真珠湾に奇襲攻撃と東南アジアへ石油等の資源を求めて同時に侵攻し、太平洋戦争に突入する。これら昭和の戦争はすべて天皇と皇国のための正義の戦争として行われ、軍隊は皇軍と呼ばれ、戦争は聖戦と称された。16年10月に奉安殿が校内に作られたが、それは天皇の「御真影」を安置するもので)他校ではもっと早い時期に設置されている)、重要な行事にはそれが掲げられ、普段は奉安殿の前を通るときには必ず敬礼が欠かせなかった。仮に学校が戦災を受けた場合は、真っ先にこの御真影を安全な場所に運ぶのが義務付けられた。実際に戦災の時ではないが、火事が起きて奉安殿が焼けて、責任をとって自殺した校長もいる。
17年(1942)に入る頃には学校も軍隊式の学校報国隊が組織されていたはずだが(このあたりの記述はない)、これによって軍需工場への勤労動員が組織的に行われることになる。18年6月、「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、学校報国隊の機能を活用して戦時動員体制を確立し、学生・生徒を有事即応の態勢に置き、勤労動員を強化することがねらいであり、さらに戦技訓練・防空訓練の徹底を図ること、女子については戦時救護の訓練を実施することであった。
19年(1944)からは本格的に勤労動員が始まり、当校では品川製作所、品川電気、日本ゴム、品川製作所、大興電気、日本気化器、長谷川歯車などに行き、飛行機カバー・飛行機タイヤ・メーター・電機真空機、電波探知機など航空機関係部品の製造に従事していた。さらに学校も工場に転用されることになった。この学校工場には低学年が当てられた。19年11月下旬より米軍の本格的空襲が始まり、20年春頃(3月10日の大空襲の後)動員された工場自体が地方へ疎開することになり、甲府、新潟、川崎の鶴川村などで、生徒も労働力確保のために一緒に疎開した。中には家を戦災で失って疎開が都合がよかった生徒もいた。ところが甲府の疎開工場は7月にやはり空襲で焼かれてしまった。
20年5月24日未明、都内への三度目の大空襲があり、B29爆撃機により大量の焼夷弾が落とされ、当番の教職員と生徒が防火のために待機していたが、かなわず、校舎はほぼ全焼した。この5月24日と翌日夜間の二度の大空襲にあい、亡くなった生徒や家を失った生徒・教職員も少なくないと思われるが、学校の記録にはない。
日本の主要な都市は焼き尽くされ、20年(1945)6月23日、本土決戦の前哨戦であった沖縄戦は敵味方約20万人の犠牲者を出して陥落し、8月に広島・長崎に原爆が落とされてやっと日本の軍政府は観念し、無条件降伏を受け入れて15日、終戦となった。
校舎のなくなった当校は再興に向けて三ヶ所に分散して仮校舎を借り受けてなんとか授業を復活し、昭和25年までに次々と新校舎を完成させ、全ての生徒を元の校地に戻すことができた。
清泉女子大学
昭和9年(1934)11月、スペインの聖心侍女修道会からシスター4名が来日し、翌年麻布三河台(現六本木)に清泉寮を開校。13年(1938)、清泉寮学院とする。19年、戦争激化により清泉寮学院休校(この時までの入学者は522名)。その後シスターたちは長野県松本市に疎開、さらに(軍によって)野沢温泉に移される。終戦翌年の21年、すでに東京の校舎は空襲で焼失していたため、長野市で学院を別途設立(その後長野清泉女学院高等学校に)。
昭和21年(1946)、米軍より横須賀海軍基地に学校を設立することを依頼され、22年、インターナショナルの中学校と小学校を、翌年高等学校を設立。25年4月に清泉女子大学を横須賀に開学。昭和37年(1962)4月、現在の品川区東五反田にある旧島津公爵邸に移転。この邸は大正時代にイギリス人建築家により設計されたルネサンス様式の洋館で、関東大震災も戦災も免れ、戦災も免れたが、終戦翌年にGHQに接収され、駐留軍の将校宿舎として昭和29年まで使用された。その後日本銀行が管理していたが、学院が土地建物を購入した。その邸を本館として使用、今日に至っている。
戦時下の清泉寮学院の生徒たちの動向は詳しい資料がないので不明である。外国人シスターたちは昭和15年(1940)あたりから特に米英人は敵国人として帰国させられ、それでも残る者たちは18年ごろまでに都内二ヶ所の教会に収容されるか、軽井沢や箱根に抑留された。しかし聖心侍女修道会の本部はイタリアであり、当時はドイツとともに日本の同盟国であったので、滞在を許容されていたと思われる。ただ、イタリアは日本より早く降伏し、その結果連合国側になったという理由で排除の対象となったことは他校の記述にもあり、最初の疎開先の松本市から野沢温泉に強制疎開させられたとあり、そのことに符合する。ちなみにこの時抑留された修道女は外国人15名、日本人10名とある。
