(当時の背景はトップの「戦時下の大学と戦争:概説」参照)
早稲田大学
明治15年(1882年)に大隈重信が創設した東京専門学校を前身とする。35年(1902)に早稲田大学と改称、さらに大正9年(1920)に慶應義塾大学と共に大学令に基づく私立大学となった。
『早稲田大学百年史』は1978年に企画され97年までかけて作成され、本編(第一巻−第五巻)、別巻Ⅰ・Ⅱ、総索引・年表の計8冊からなる大部のものである。内容は出来事の詳細な記述にとどまらず、時代背景とその分析にも紙数を割いている。各巻千ページを軽く超えるが、以下はその中のごく一部の戦時関連の記述、その他年表などの資料を参照している。
<治安維持法と軍国主義体制>
歴史的に大正時代(1912−1926年)は「大正デモクラシー」の時代とされ、大衆社会の進展による大衆文化の隆盛、そして都市の肥大化と農村の疲弊、それに伴う格差に対する社会・政治運動の活発化があり、その時勢を危惧して時の政府は治安維持法を大正14年(1925)に成立させ、施行した。この法はそれ以前の過激社会運動取締法案を基にし、結社と集会、その準備までを摘発の対象とした。この基本は国体(天皇制を基にした国家体制=『国体の本義』参照)を毀損する社会・政治活動の一切を禁じるものであった。これを梃子にして昭和に入っての戦時(軍国主義)体制がやすやすと強化されて行くことになる。
これらに並行して大正13年(1924)、中等学校以上に対して軍事教練を正課とする案が陸軍省と文部省との間で具体化し、各大学で反対運動が起こった。東京(帝国)大学に学生が集まり、全国学生軍事教育反対同盟が結成されたが翌年1月、軍事教育実施案が可決、それに対し学生たちはデモを強行、警察隊と衝突し多くの拘束者を出した。そして4月「陸軍現役将校学校配属令」の公布に伴い、学部や高等部などが陸軍現役将校配属申請書を当局に提出する形が取られ、配属将校が着任した。当初、私学に対しては任意であったが、当時の高田早苗総長が政府の文政審議会のメンバーであったため他校よりもいち早く申請し、軍事教練の体制が取られた。
<自由主義的思想の排除>
大正12年(1923)、一教授を指導者とする学生たちの軍事研究団が立ち上げられ、これに反対する学生団体との間に流血の大乱闘が起こった。その結果反対陣の指導者とされた二人の講師が警察の捜索を受け、大学を追放された。この時に同じ顧問であった大山郁夫教授は労働農民党の委員長をしていたことで、昭和2年(1927)、大学を解任された。これに対し社会科学研究会の学生たちが反対し同盟を結成したが、大学側は彼ら40人近くを退学・停学・謹慎処分とし、さらにそれに反対するデモ行進で5人が検挙された。大山教授はその後妨害を受けながらも議員となり言論活動を活発にしたが、逆に追い詰められ、昭和7年に米国に亡命する。
早稲田にあっては教授レベルが弾圧された例が多く(慶應は学生と卒業生への摘発が多い)、現在にも名の残る津田左右吉は東大にも請われて講義した気鋭の歴史学者であったが、その著作の内容が皇室に対する不敬罪にあたるとして摘発され、一部は発禁処分となり、昭和15年(1940)に文部省の要求で早稲田大学教授も辞職させられた。さらに出版法違反で起訴され、17年に禁錮3ヶ月執行猶予2年の判決を受けた。津田は控訴したが、19年に時効により免訴となった。また学生に人気のあった京口元吉教授の「国史概説」という講義が、16年、自由主義的内容であるとの学生自身の密告を受けて警察のスパイも潜入、そして警察の圧力により大学当局は京口を辞任させた。その他、俳句誌を主宰していた講師も「反資本主義的、反戦的」内容として治安維持法違反容疑で検挙された。
昭和18年までに渡って早稲田における発禁及び一部削除が命じられた出版物は、上記津田が4点、哲学者の帆足理一郎が5点(「続人生問答」や「キリスト教と戦争」など)、歴史・文化人類学の西村真次が4点、他に新庄嘉章と山内義雄の仏文学作品の翻訳まで、計20点にのぼる。これら取締りの基準として、昭和9年に陸軍の発行したパンフレットの中には「国家を無視する国際主義、個人主義、自由主義思想を排除」とある。
<日中戦争へ>
このような社会背景の中、昭和6年(1931)に満州事変、続いて12年(1937)7月、日中戦争(支那事変)に突入する。日中戦争開戦後の12月に日本軍は当時の中国の首都南京を攻略するが、早稲田はそれを祝して南京陥落祝賀式を戸塚球場において行った。当時、首都さえ陥落させれば中国の降伏は近いと日本の誰もが思ったが、中国の国土は広大で奥深く、中国政府は早々に奥地の都市重慶に首都を移し、長期戦の体制を取った。
これに伴い、当時の田中穂積総長が「非常時に直面して学徒に次ぐ」との訓話をし、大学も進んで戦時体制の遂行つまり国策への協力に傾斜していく。これは百年史の中に「戦時下の異常な挙国一致体制の中で、受け身としての協力に止まらず、他の諸大学の模範的存在ともなり……私学であるが故に却ってその積極性を一層発揮せざるを得ない」状況下にあったと記されている。同年、国民精神総動員運動が政府によって進められている。
またこの年早々に卒業生と教職員、文学部二年の在学生にそれぞれ最初の戦死者を出した。この時期、学生には徴兵猶予の恩恵があったが、個人的に従軍願いを提出し休学して義勇兵として応召した上での戦死である。これを受けて早稲田大学新聞は「壮絶!小森君の最後」「学窓からの最初の勇士」として讃えている。当時は全てこのような論調であった。
この一方で翌13年には「学生狩り」が警察で盛んに行われた。これは大学周辺の喫茶店や遊技場(麻雀や撞球場)にたむろする学生を無作為に検束するやり方で、連日数十名の学生が早稲田と戸塚の両署にトラックで連行され、誓約書を書かせた上で解放した。要はこのご時世(非常時)に遊んでいる学生はけしからんということである。
昭和13年(1938)末から日本軍占領下の中国の都市(満州や南京、上海など)への視察が始まり、翌14年からは文部省が主導して「興亜青年勤労報国隊」が各大学等で結成され、早稲田も6月に64名を満州と中国北部に送り出した。これは16年まで続く。すでに銀行を始めとする民間企業の進出も始まっていて、14年には約100名が大陸に就職を得た。一時的にしろ、戦時下の経済好況があった。
学内の体制としては、15年(1940)田中総長は「学徒錬成部」の創設を打ち出し、これは国家有為の「智徳体兼備」の人材を造ることを目的とした。これにより体育会や音楽部も錬成部の組織に吸収された。16年からは各大学・学校に勤労報国隊が結成され、夏休みを利用した勤労動員が始まり、その後次第に拡大されていく。またこの年から3ヶ月の繰り上げ卒業となり、その意図は戦時体制下の労働力の確保と徴兵猶予制度で保護されている学生を少しでも早く戦場に送ろうとするものであった。
<日米学生会議>
昭和8年(1933)、青山学院の学生の発案と呼びかけで日本英語学生協会(日本国際学生協会の前身) が設立され、そこで日米親善のための日米学生会議の開催を決定、その秋に青山、早稲田、慶應、明治の各代表の4名で米国側参加者誘致のための使節団として全米各地の大学を訪問して参加者を募り、総勢99名(うち22名は大学教授、およびその夫人でオブザーバー)の米国側代表を伴って帰国し、翌9年に第一回を青山学院で開催した。
この時の議論のテーマは政治・経済・宗教と哲学・教育・国際問題であった。実はこのころはすでに昭和6年(1931)に日本が起こした満州事変に対して米欧諸国から非難が高まりつつあり、米国の対日感情改善、日米相互の信頼関係回復が急務であるという学生たちの危機意識もあった。そのため、一般の国内見学のほか、満州国訪問も旅程に組み込まれ、日本の(占領)政策の「正しさ」を理解してもらおうとした。
この会議は日米交互に行われることになり、翌10年(1935)は米国で、その翌年は早稲田、米国、慶応、米国、15年(1940)は津田塾と続いたが、12年の日中戦争より米欧の対日感情はさらに悪化、15年からは対日の経済制裁が始まっていて、政治的には険悪と言ってよく、在日の米英人が排除され(例えばミッション系学校のシ牧師やシスター、英語教師など)帰国し始めていた中での開催で、ここで中断となった。戦後の昭和22年(1947)に改めて再開された。
今ひとつこの交流に潜む問題があって、それはこの米国代表の中に日系二世の学生がいつもある程度入っていたことである。明治時代からハワイや西海岸に移住した人たちの二世である。米国では大正13年(1924)に移民法が改正され、排日移民法と言われるほど二世で米国籍のある子女たちも差別のある厳しい立場に置かれていた。この二世学生たちの参加は、最初に日本の代表たちが訪れた大学にいた二世のパトリック・オークラが、自分たちの置かれている立場も知ってほしいと、他の二世の子女も参加させたことによる。
別途、早稲田は昭和10年(1935)に国際学院を設置、また恵泉女学園も同年に留学生特別科を設置し(恵泉の園長河井道は英語学生協会の顧問であった)、日系二世に限定した留学生を受け入れたが、結局、太平洋戦争が始まると日系二世は米国籍ということで米国に帰され、しかも米国では太平洋戦争が始まると日系人は二世も含めて全て強制収容所に送られる。そして二世の男子は逆に米国兵として徴兵され、また矛盾した立場ゆえに自発的にも応召し、日本と戦うことになった。あるいは欧州戦線に送られてドイツと戦った例もある。
なお、第一回の日米学生会議において、米国側の視点からすると日本の学生たちは自由に個人の考えを述べるよりも統制された意見を述べ、それが硬直したものであることを感じたと後にオークラは語った。これは時局柄この会議も当局に監視されていたからであろうという。オークラ自身もこの後日系人強制収容所に送られ、戦後に心理学者となり、この会議の運営母体の顧問となった。
<太平洋戦争へ>
このころ田中総長は、英文誌に「正義の日本」と題した小論を寄稿し、それを欧米諸大学長にも送付、日中戦争への非難の論調が高まっていた欧米に対して、この戦争は東洋平和と世界平和を実現する正義の戦争であると主張するなど、時局に合った先鋭的な言論を行った。これらの言動は戦後の占領軍GHQによってもたらされた民主主義体制下では公職追放の対象になったであろうが、田中は19年(1944)に病没した。事実、田中を継いで総長になった中野富美雄は「東亜の新しき秩序建設」と「聖戦完遂のために協力し」、「我が無窮なるべき皇運の扶翼の為に」と就任演説で述べ、戦後に公職追放となった。
一方、当学卒業生で代議士であった斎藤隆夫は15年(1940)、国会の場で政府に対し、東亜の新秩序建設というスローガンの具体性を問いかけ、この戦争によって東洋平和と世界平和が果たして得られるものかどうかを追求し、「ただ徒らに聖戦の美名に隠れて国民の犠牲を閑却し、いわく国際正義、いわく道着外交、いわく共存共栄、いわく世界の平和、かくのごとき雲を掴むような文言を列び立てて…」と厳しく論断した(その全文の要約は筆者の「各種参考資料」参照)。これは全くその通りであり、一般的にも人間は、自分が押し隠している本当のことを言われると怒り出すものだが、まともに答えられない内閣・与党は、逆に「聖戦を損なうもの」として斎藤に議員辞職を迫った。斎藤は一蹴したが、所属する立憲民政党の党内で処置が紛糾し、除名となった。ここからその反動もあり国会内で「聖戦貫徹議員連盟」が結成され、その後全政党が解党され、大政翼賛会が結成されるに至った。よく戦争は軍人の暴発からと言われるが、経過をたどると、この斎藤とは違って思考力のない文民(つまり選挙によって選ばれた)政治家によって追認され、拡大されることがはるかに多いことがわかる。シビリアンコントロールの抑制力というのは幻想である。
この15年のあたりから日本は米欧から厳しい経済制裁を受け(満州・日中戦争、つまり中国への侵略に対してである)、物資と石油の供給を止められ、結果的に英蘭が植民地支配する東南アジアに資源を求めて、そして翌16年12月8日、日本は対米英宣戦布告という勝算のない大戦に突入した。
<学徒出陣>
戦線の拡大による兵力の不足を補うため、昭和18年(1943)政府はまず学生の徴兵猶予の制度を撤廃、かつ徴兵年齢も下げた。そして半年の繰上げ卒業とし、10月15日に戸塚道場(球場)で出陣学徒壮行会を開催、21日に関東圏の学生たちを集め、神宮外苑競技場で出陣式を盛大に行った(トップの「大学と戦争」参照)。そして、12月1日を期して陸海軍に入営した早稲田の学生は約5千数百人にのぼった。何よりも早稲田が文系が主体であったことが大きいだろう。(注:昭和10年ごろから理工系を重視する体制に移行しつつあったが)
この壮行会で田中穂積総長はまず、「今こそ諸君がペンを捨てて剣を取るべき時期が到来した」と語り、そして「往け諸君!……大君の御盾となって興亜の大業に参加し、その礎石となる……諸君の勇戦奮闘、武運の長久を心から念願し…再び学園に還る日を鶴首して待つが、併し乍ら勇士は出陣に当たって固より生還は期すべきではない、即ち身命を捧げて護国の神と為る」と時局に準じた檄文を送った。国の将来を背負うべき若者に立派に死んでこいというわけである。すでに年老いた自分が彼らの代わりに国を背負えるのかどうか、誰でもわかることであるが。しかし小さな学科単位での送別会では「諸君、決して死んではならない……変な責任感にとらわれて死を急いではならない」と話す教授もいた。これは当時は公けに口にしてはならない言葉であり、例えば出征する息子を駅に見送りに行った老いた母親が、思わず「死なずに帰って来い!」と叫ぶと、見回りにいた憲兵に「この非国民が!」と怒鳴られ殴られた姿もあったほどである。
これとは別に政府文部省は特別志願制を設け、各大学に留学していた台湾や朝鮮(当時はいずれも日本の植民地であった)の兵役義務のない学生たちにも自主志願の形で半強制的に(でなければ退学と帰国を勧奨された)志願させた。その結果早稲田では200名を超える志願者があり(この年の留学生数は台湾169名、朝鮮366名である)、その壮行会が翌19年1月17日に大隈講堂で挙行され、彼らは「望郷の悲哀一抹を感じます(ものの)肉親の父母に会わずとて…… 母校こそ偉大なる母だ。…… 皇国の弥栄と母校の永遠たらん事を祈りつつ… 決然と征途に上り」、との言葉を残し1月20日に入営した。このころから19年にかけて文系の在学生は30%に減った。
この時の壮行会に参加した当時法学部3年だった早大生(横浜市の寺尾哲男氏:2013年、90歳の時)が語る。「戦争に出る日までしか将来は考えられなかった。……冷たい雨が降る中、大学から借りた銃を担いで行進し、東条英機首相の”総力決戦の時機がまさに到来した”との訓示を聞いた。試験勉強中だったその1カ月前に、ラジオから流れたのと同じ口調。学生の徴兵猶予の停止を告げ、驚きのあまり言葉を失った生涯忘れることのない声だった。…… ”生等(せいら)もとより生還を帰せず”との学生代表の答辞は悲壮感が漂い、仲間も死を覚悟していた。…… 戦争に出てから先はおよそ想定できなかった。…… 海軍に入り、配属された702飛行隊で司令を補佐する任務に当たった。部隊は44年10月にフィリピンへ向かい、わずか1カ月余りで9割以上の戦闘機を失った。…… 年明けに台湾へ移り、無事終戦を迎えたが、フィリピンに残り餓死した日本兵は多い。…… 苛酷な末路をたどった友人のことを考える時が最もつらい」。(時事通信社:2013年10月19日)
以下、「ペンから剣へ ―学徒出陣70年―」展によせて、より5人の例を転記する。
——(出陣式後)陸軍に進んだ高木多嘉雄、柳田喜一郎、吉村友男は12月1日に入営、高木は東部第六部隊、柳田は東部第六三部隊、吉村は中部第四部隊に配属となった。翌1944年2月、3人はともに幹部候補生に採用され、5月、高木と柳田は前橋陸軍予備士官学校へ、吉村は福知山の中部軍教育隊へ入った。…… 44年7月、サイパン島の日本軍が玉砕した(筆者注:米軍はこの島を中心として日本本土への爆撃の基地とする)。絶対国防圏が崩壊し、日本軍はフィリピンへの兵力集中をはかった。フィリピンがアメリカ軍に奪回されれば、日本と南方資源地域の海上交通線が遮断され、日本の戦争遂行は絶望的になるからであった。前橋の高木と柳田は卒業を待たずに、550名の同期とともに第十四方面軍教育隊へ転属となり、吉村も南方派遣が決定した。いずれもフィリピン戦へ投入されたのである。
44年10月18日、フィリピン西方海上、吉村の乗り込んでいた輸送船がアメリカ軍の魚雷攻撃を受け沈没した。レイテ島にアメリカ軍が上陸を開始する2日前のことだった。海へと沈みゆく吉村の最期を知る手掛かりはない。
一方、高木と柳田は11月11日にマニラに入港したが、レイテ沖海戦の敗北ですでに日本海軍の連合艦隊は壊滅し、食糧や弾薬の輸送も困難な状態に陥っていた。翌45年1月、アメリカ軍のリンガエン上陸に伴い、日本軍はルソン島北部への転進を開始した。山岳地帯に兵力を集め、持久作戦を採ったのである。第十四方面軍教育隊も北部へと移動を開始、アメリカ軍が迫りくる2月、教育隊の卒業を機に高木は第十九師団へ、柳田は第百三師団に転属となった。高木は第十九師団へ向かっていた。だが山岳地帯に陣を構える師団へ行くのに地図はなかった。食糧もほとんどなかった。キャンガンまで達した時、高木はアメリカ軍戦闘機による機銃掃射を受けた。3月30日のことだった。
柳田を待ち受けていたのは、サラクサク峠をめぐる攻防戦だった。…… 柳田は機関銃小隊長として昼尚暗き密林地帯の溪谷を、磁石1個を頼りに戦った。4月10日の戦闘の最中、柳田の頭部から顔面に銃弾が貫通した。
海軍へ進んだ近藤清と市島保男は、1943年12月10日に海兵団に入団、翌44年2月1日、第十四期飛行専修予備学生として共に土浦海軍航空隊へ配属、5月25日には市島は谷田部、近藤は出水の海軍航空隊へ転属となった。
45年3月末、アメリカの機動部隊は沖縄諸島に猛攻撃を加え、4月1日、沖縄本島に上陸した。4月5日、航空兵力により沖縄周辺のアメリカ軍に特攻攻撃を加える菊水作戦が発動された。名古屋航空隊から第二国分基地へ移った近藤は、出撃直前、姉に宛て遺書を書いた。そして4月28日、沖縄へと出撃した。この日、菊水作戦を指揮する宇垣纏第五航空艦隊司令長官は、日記に「特攻も其の成果下火なるが如し」と書いた。
翌29日、市島保男が鹿屋基地から出撃した。出撃当日の市島の日記の末尾には、聖書の言葉、「人若し我に従はんと思はゞ己れを捨て己が十字架を負ひて我に従へ」(マタイ伝16章24節)が残されていた。敗戦まで100日余りのことだった。
この商学部3年の市島は出陣壮行会に行かなかった。その理由を友に次のように書いた。「何故学生のみがこれほど騒がれるのだ。同年輩の者は既に征き、妻子有る者も続々征っている。我々が今征くのは当然だ。悲壮だというのか。では妻子有る者は尚更だ。学生に期待する故と言うのか。では今迄不当な圧迫を加え、冷視し、今に至り一変するとは」。その通りであろう。
<勤労動員>
残る学生たちは「勤労即教育」という名目で軍需工場に動員され、あるいは食料増産のために農村に出向いた。援農隊として遠く北海道に遠征する場合もあったが、埼玉県では耕地の開墾もした。その時に作られた排水路が早稲田堀として現在も残っている。工場は主に川崎の日本鋼管への勤労動員であったが、この中に数少ない女子学生もいた。女学校から集団で勤労に従事した女生徒たちは工場の中で旋盤等を扱う重労働も多かった。1944年11月下旬から米軍による本格的空襲が始まったが、翌年2月、早稲田大学など都内の大学・旧制高校で「学徒消防隊」が編成され、早稲田では兵役を猶予されていた理工系学生645人の学徒報国隊員がこれに動員された。3月5日に大学で結成式が行われたが、その5日後の東京大空襲で、学徒消防隊として活動中の理工学部生7人が犠牲となった。この日は世界戦災史上最大の8万数千人(のちの調査で10万人以上)の犠牲者を出している。
すでに小学生は縁故疎開できない子供に対して集団疎開を実施していたが、この3月の大空襲を契機にして、政府は中学生以上の生徒・学生を一年間の授業停止とした(もはやほぼ9割程度授業は行われていなかったが)。そして「決戦勤労動員実施に関する件」を決定したが、学徒出陣により残った若者を戦地に送り終え、さらに高齢者を徴兵するようになって、決定的に労働者が減り、もはや12歳以上の中高生の労働力をあてにする以外なかった。そこまで国中が疲弊していてもこの戦争は勝てないと誰も言い出せない状況下であった。そして戦争の継続を前提とした防空施設の建設と国土の要塞化、軍需産業の地方疎開の徹底、食糧の増産、決戦のための特殊兵器の生産という課題の下、国民全体が駆り出された。こうした末期的な状況の中で、「本土決戦」 「一億玉砕」 「神州不滅」 「最後には神風が吹いて日本は必ず勝つ」などの精神論的言葉が飛び交っていた。
また3月から5月までの大空襲で東京は焦土と化したが、そこから米軍は全国の主要都市や軍需工場への爆撃に向かった。その一例として愛知県の豊川海軍工廠には早稲田も含めて東京の学校からも多く動員されていたが、地元の女学生も多数いた。そして終戦の一週間前の8月7日(広島へ原爆投下の翌日)の工場への大空襲により、軍需工場としては最大の約2670名が犠牲となり、その中に早稲田の犠牲者が15名(負傷者20数名)いて、男子中学生、高等女学生(通信学生)、男女専門科も含めた犠牲者は、男193名、女259名、計452名にのぼっている。勤労動員のために一年間の授業停止の予定は、4ヶ月後の8月15日に敗戦となり中止された。
<早慶戦>
野球の早慶戦は明治36年(1903)を端緒とするが、戦前から大学野球の花形であった。しかし戦況の悪化で昭和18年(1943)春、文部省は東京六大学野球に解散を命じた。戦時下にあっても野球に打ち込んでいた部員たちはそれでも諦めていなかった。いよいよ学徒出陣が決まったとき、慶應義塾の塾長小泉信三は学生たちの熱意に動かされ、早稲田に使者を送って「最後の」早慶壮行試合の開催を申し出た。しかし田中総長は難色を示し、応じようとしなかった。慶應側も重ねて要請し、早稲田の野球部長も説得の努力をしたが、最後は大学当局に黙認させる形で決行することになった。早稲田の出陣式の翌日10月16日である。場所は神宮球場が理想であったが、目立ってはいけないと、早稲田の戸塚球場で行われた。小泉塾長も駆けつけ、用意された席を断って学生の応援席で一緒に観戦した。実は小泉塾長も田中総長と同様に「往け諸君!」と似た言葉で訓示をしている。この試合における対応の違いは、田中が精神的にこの時代状況に縛られたままであり、小泉は表向きの言葉は別として、どこまでも学生の心に沿って考えていたという大きな違いがある。
試合は早稲田の大勝であったが、むしろ早稲田の部員がこの日を期して練習を怠らず、逆に慶應は試合の実現が薄いと見て(家族たちと最後の別れをさせるため)選手たちを一旦故郷に帰していた違いによるという。そして彼らは戦地に赴き、この日の部員のうち早稲田側の5名(控え選手含む)が戦死した。
ちなみに東京ドームの一角に野球体育博物館があり、野球殿堂入りしたプロ野球人のコーナーのほかに「戦没野球人」のコーナーがある。そこには日本学生野球協会の名で、この昭和の戦争で非命に斃れた高校(当時は中等学校)・大学生172人の名前がある。実はその中では早稲田人の名が一番多く、34名(慶應は18名)である。また別な場所に鎮魂の碑として、沢村栄治投手を始めとして戦場に散ったプロ野球選手69人の名が刻まれている。
<大学の受難と被災>
学徒出陣で学生のいなくなった校舎に軍は目をつけ、第一高等学院校舎を東京師団経理部と軍医学校へ貸出し、西東京の東伏見運動場を中島飛行機へ、日本航空機工業の勤労所を校内教室に開設、文学部と武道館を東部軍と農商両省へ、大隈講堂地下室を食料営団の保管庫に等々。これら以外に大学の軍事教練用の銃器を軍への売却(軍に不足が生じていた)、金属不足により、戸塚運動場のスタンド鉄骨や照明塔、銀牌などの供出もあったが、大隈などの銅像は供出できないとして外して隠したとされる。事実、他校でも金属の胸像は供出された。
昭和19年(1944)11月24日より米軍による本格的空襲が開始され、日本にとっては息つく暇もない連日の攻撃であったが、とりわけ20年3月10日から6月15日の大阪大空襲までの間に17回の大空襲があった。そのうちの5月25日の山の手大空襲で、大量の焼夷弾により大学の建物の多くが焼失した。その日配置されていた教職員の防護団や宿直員、学生の消火活動により図書館や演劇博物館の焼失を免れた。ただ大事な書類を胸に抱いたまま焼死した職員もいた。中野総長も旧大隈邸の大隈会館に宿泊していたが、すぐに本部に駆けつけ、落とされた焼夷弾を率先して消し止めようとした。当時は真っ先に死守すべきものとしてあった天皇の御真影と教育勅語その他詔勅の謄本を、すぐに持ち出せるようにリュックサックに入れて保管してあって、付き添いの教師が担いで学外に避難したが大隈会館は全焼した。また理工学研究所のあった喜久井町キャンパスの地下には勤労動員で掘られた横穴式の防空壕が作られていた。その日は学生や近隣住民ら多数が避難したが、二つの入り口が火焔と煙に包まれて300名以上が死亡した。
<早稲田学徒の多大な犠牲者>
どの大学も、自校の正確な出征者数と戦死者数を把握していないか、できていない。昭和16年末の太平洋戦争開始までの記録は比較的残されているが、学徒出陣以降の記録が少ない。これは百年史によれば「太平洋戦争の場合、交戦中にあっては犠牲者を明確にするのは軍機の漏洩と見做されたため秘匿された例も稀ではなく、敗戦後は進駐軍の鼻息を窺うのみならず(実際にGHQは自分たちが無差別空襲で生じさせた犠牲者の慰霊碑などの建設を禁じた)、また一億総懺悔(これは敗戦直後に成立した内閣の東久邇宮首相が、この戦争の責任は国民全体にもあるとしたもの)の雰囲気に支配されて」戦没者のことを語ることが憚られ、調査する雰囲気がなかなか生じなかったことにもよるとしている。早稲田は創立100周年を期して、昭和54年(1979)の戦後34年後にやっと調査を開始した。
まず、日中戦争開始の昭和12年から太平洋戦争開始の16年までの卒業生の応召者は4713人、そのうち死者は283人、昭和14から16年の学徒出陣までの学生の応召者は665人、12−13年の応召者は推定で100数十人を足すと約800人、戦死者は不明。さらに17年から18年にかけての学生応召者は1239人、そして18年秋の徴兵猶予撤廃による学徒出陣により一挙に5124人が応召となった。ここに台湾と朝鮮の学生200人が加算される。この当時の在学生は1万3406人となっている。つまり約40%の学生が一度に戦場(国内の守備隊も含め)に赴いた。この翌年より徴兵年齢はさらに引き下げられ19歳からとなり、19年に入学した学生は、勤労動員も重なってほとんどまともな学生生活を送れず、まるで戦死するために入学したようなものであった。
調査の結果、平成4年(1993)現在で教職員(17名)を除く卒業生(繰上げ卒業含む)と在学生の犠牲者は合わせて4582人に達する。このうち戦死した時点で学生の身分であった犠牲者は2000人を超える。これらすべての戦没者名簿は100年史に記載されているが、国内で原爆等での戦災死が79人、さらに終戦の8月15日以降に没した者429人である。この中にはすぐに戦地から帰れず、病死や餓死、あるいは現地で捕われ殺された者たちもいる。
実はこの戦没者数は慶應の約2倍、東大の3倍に上り、突出して多い。しかも基準の学生数には大差がない。ただ、早稲田は学徒出陣の対象となる文科系学部が主体であったという違いはある。もとより上記の数字に関わる資料は分散的であり正確とは言えないが、この4千人台の死者数があまりにも大きいため、早稲田自身の別資料ではこの数を出征者数として誤って記載している例がある。さらにその後も継続された調査で平成25年(2013)現在の戦死者は4736人となっている。身命を捧げて護国の神と為れと学生たちを送った総長の言葉通りになったと言っていいのかどうか。
戦時中の「名誉の戦死」という言葉は別として(どの国でもこの言葉は使われる)、特攻を含めた戦死者は「英霊」として語られる傾向が強く、その彼らの犠牲があって戦後の日本の繁栄があったと語られる。しかし仮にこの早稲田の4736人、あるいはまた10万人を超えると言われる全学生たちが生きていたとしたら日本はもっと力強い、誇りの持てる国になっていたのではないか。当時の学生は現代と違いまだ少数であり、その分優秀な学生の割合がずっと多く、その10万人の中にどれだけ惜しい人材がいたか、その損失は計り知れない。
<戦時下の記録の焼却と戦後の課題>
昭和20年(1945)8月15日、連合軍に無条件降伏を告げ、国内では天皇の詔勅により終戦。すべては天皇の名により始まり、天皇の名によって終わった。しかしながら、ここには天皇の真意は関わっていない。天皇は国民のためには戦争を避けたかったし、早く終わらせたかった。軍政府がその時々の都合によって進言し、誘導してそれを承認させるだけの役割として天皇を利用した。
敗戦後、軍国主義体制下にあった各種の法令や訓令が次々と停止、撤廃されることとなったが、治安維持法が廃止されたのはそれらより遅く、二ヶ月後の10月15日であった。「これらを強力に推進していた文部省の中庭では、敗戦の翌16日には、ドラム缶を幾つも持ち出して、軍国主義推進の証拠となる機密書類の焼却に着手し、以後一週間余に亘りその炎と黒煙が噴き上がり続けた」(百年史)という。むろんこれは政府文部省だけでなく、占領軍の戦争責任の追求を恐れて、軍政府全体で開始され(陸海軍は敗戦決定の情報が早く前日の14日から、そして海外も含めて)、全国の市町村にも焼却の指令を発し、その各地の出征名簿も焼却されたのである(残されたのは20ヶ所の当時の村のみ)。大学も戦時下では文部省に求められてそれら出陣・動員関係の報告書を定期的に提出していたが、その書類・記録も焼却されたし、おそらく大学に残っている控えの書類も焼却された。これにより大学も地方自治体もそれぞれの犠牲者の実態把握ができなくなった。したがって上記で大学自身が「学徒出陣以降の記録が少ない」というのは、敗戦時の軍政府の指示により学内で焼却された可能性が高い。それでも早稲田を含めたいくつかの大学は、数十年後から調査をし直し、上記にあるような数字が明らかにされていった。
これが「聖戦」と謳って国民を鼓舞し、むやみに若者を戦場に駆り出していた軍政府が最終的に為したことである。そこから終戦直後に成立した東久邇宮内閣首相が「一億総懺悔」という、国民にに謝罪しないどころか、自分たちの責任を覆い隠す言葉が出てくる。またその中に、「事ここに至ったのは勿論政府の政策がよくなかったからであるが、また国民の道義のすたれたのもこの原因の一つである」という信じがたい無自覚な言葉が吐かれている。しかし一方で、「道義のすたれた」指導者たちによる洗脳が解けない国民の中には、戦争に負けたことを天皇に謝罪する気持ちすら生まれた。そのような流れから、戦後は戦争のことは触れてはならない雰囲気が残され、同時に敵国であった米国に占領されたことで屈折した心が増幅された。そして軍国主義時代から失っていた思考力を人々は回復できないまま、そしてまた占領が解かれても米国の施策に従順な姿勢は継続されたまま、未だに国際政治社会の中で日本は明確な主張を持てず、自立できていない。自立できているのは経済だけで、これは生き残った学生や卒業生たち、つまり彼らを含めた一般の人々が失った仲間を想いつつ、先陣を切って、日本の復興のために地道にコツコツと工夫と努力を積み重ねてきたことによる。よく言われる、戦後の日本の繁栄は英霊たちの尊い犠牲によって築かれたというのはまったく違う。ほとんどの戦死者は軍政府の無思考の結果の、無謀で無策というべき戦略で、無念の思いを抱いて死んで逝ったのであり、彼らがもし生きていたら、日本はもっと良い繁栄の仕方をしていたのではなかろうか。
『きけ わだつみのこえ』(日本戦没学生の手記)などに残されている学徒(特攻)兵の遺書について、その精神性はしばしば称揚される。確かにその内容と紡ぎ出す言葉自体はそうであろうが、追い詰められてある種の諦念の中で自身を納得させるために「お国(皇国)と家族を守るために、立派に死んで、悠久の大義に生きます」と書くしかなかった。しかし実際に学徒たちが死んで、これで国の安寧が図れると思った指導者は一人もいないであろうし、息子たちがお国のために死んで英霊となり、そのことを親戚縁者や近隣に自慢でき、死ぬまで幸福に暮らしていけた親、あるいは父親が戦死して母親の苦労を見ながら、それでも英霊となった父親を誇りに思い、寂しさや苦しさを感じなかった子供など一人もいないであろう。一例を掲げる。
「お父さんお母さん。清も立派な特別攻撃隊員として出撃することになりました。思えば二十有余年の間、父母のお手の中に育った事を考えると、感謝の念で一杯です。…… この御恩を君(天皇)と父に返す覚悟です。この戦争の中に少しでも自分がお役に立てるかと思うと 、本当に幸福感に打たれると共に、使命感の重大さに驚かざるを得ません。 …… 父母様もこの私の為に喜んでください。殊に母上様には御健康に注意なされお暮らしくださる様、なお又、皆々様のご繁栄を祈ります。後の事は兄上様達に頼みました。清は靖国神社に居ると共に、何時も何時も父母様の周囲で幸福を祈りつつ暮らしております。清は微笑んで往きます」(昭和17年政治入学、20年5月11日、南西諸島にて特攻死。『ああ特別攻撃隊』より) 若者たちをここまで追い込み、そして戦時下のすべての記録と書類を焼却して最後にはこの戦争をなかったことにしようとした(つまりお国のために「喜んで死んだ」英霊もいなかったことにした)日本の軍政府の、無責任と無思慮にもほどがある体質というのはどこから来たのであろうか。
広島・長崎の世界中の誰が見ても明らかな惨劇は別にして、人々が戦争のことを公に回想し始めたのは主に戦後50年を過ぎた頃からである。新聞などマスメディアでも例えば3月10日の東京大空襲の日にまともな記事が掲載されるようになったのも約30年後からである(筆者調査の結果)。戦時関連書類の焼却という責任逃れの証拠隠滅作戦は、日本の汚点としてあるが、この責任の所在を曖昧にしてしまう現在にも残る日本人の体質はここに端を発するのかどうか、そして将来的にわれわれはこの弱点(汚点)を克服できるのかどうか、まずはこうした事実があることをきちんと認識することから始めなければならない。
東京女子医科大学
女性医師・吉岡彌生が明治33年(1900)、新宿区河田町に創設した「東京女医学校」を前身とするが、吉岡の母校の濟生學舎(現:日本医科大学)が当時「女性を入れると風紀が乱れる」と女子学生の入学を拒否し始めたことに反発した形で設立した。当時では女医は産科以外にほとんど世間に受け入れられず、反対論が渦巻いた中での設立であった。1908年に東京女医学校附属病院を設置、大正元年(1912)に東京女子医学専門学校に昇格、その8年後、文部大臣指定校になり、続いて医科大学を目指したが、昭和恐慌を経て戦時体制となって果たせず、戦後の昭和25年(1950)大学となる。なお、昭和5年(1930)には附属看護養成所を設立、太平洋戦争終盤において医療関係が切迫する中、18年(1943)には付属保健婦講習所、翌年には東京女子厚生専門学校を設立した。以下は主に『東京女子医科大学百年史』より。
吉岡は早くから政治にも関心を持ち、国家のために活躍する女医を養成することを学校の存在理由の一つとして掲げていた。昭和12年(1937)、日中戦争開戦により国内では戦時体制が強化として国民精神総動員が提起され、校長の吉岡彌生は、その中央連盟評議員に選ばれ、同時に教育審議会の唯一の女性委員に任命された。それまですでに愛国婦人会などのいくつもの要職につき、この後も戦時体制の中で終戦まで数々の役職を兼務した。
昭和16年(1941)、文部省は各学校に報国団の結成を求め、女子医科でも「至誠報国会」が結成された。会長は吉岡となり、総本部、鍛錬部、勤労作業部、国防訓練部、文化・生活部、救療部が置かれ、勤労奉仕の一部として夏季無料診療部も組み込まれた。戦況が悪化する中、学生は勤労動員に駆り出されるが、政府は軍医速成を目指し、各地に医学専門学校を設立した。看護婦も増員が求められ、養成所における資格取得年齢が下げられ、新米看護婦たちは現場に出て行った。そうした中で女子医科は校舎や病院、寄宿舎(当時は全寮制)など設備の拡充に邁進した。
東京における空襲被害が激しくなり、当校でも低学年の疎開を検討しているところに昭和20年4月13日の大空襲によって、河田町の新築したばかりの病院、校舎は鉄筋コンクリートの病院と細菌学教室を除いてすべての建物が焼失した。その後焼け残った寮や成城中学や獨協中学の教室を借りて授業を行った。予定されていた予科の入学式も延期し、疎開地探しを続け、6月に山梨県豊村が疎開先に決まった。7月1日に入学式と開校式を予定したが、校長の急病で7月7日に延期した。ところが6日夜に甲府への爆撃があり、鉄道も不通になり、甲府駅に到着していた予科生の荷物も類焼した。疎開先では当地の小学校の教室を借り、約350名の学生が寺の庫裏や公民館、農家など72ヶ所に分宿し、食糧難のなか苦しい生活を強いられた。終戦後もすぐには帰京できず、年末まで疎開生活は続いた。
一方で看護婦養成所の生徒たちは、空襲が続く中、毎日勉強と治療現場の往復であった。この年の春入所した生徒の証言である。——「私達は何もない所で看護学生として出発した。教室もなく、机もなく、教科書もなく、一冊のノートすらない。売っている店もなく、でも勉強への意欲は失わず、……3、4回は教室が移動されたが、教科書がないので全部速記でノートする毎日だった。午前中は病院勤務で午後からの授業に遅れないように一生懸命だった。終戦後も伝染病が蔓延し、毎日患者がトラックで運び込まれた。何人もの上級生、級友も発熱し、強度の黄疸、栄養失調のむくみにも苦しめられた」。
なお、5月25日に再び新宿区の残った地区に大空襲があり、周辺の病院が焼かれ、東京女子医専は残った校舎や病院で焼け出された患者や周辺の住民を収容した。
吉岡は国際的な視野で早くから卒業生を中国や東南アジアにも送り込み、また並行して植民地の台湾や朝鮮などからの留学生も受け入れ、早くも大正6年(1917)の卒業生の中に中国、朝鮮人の卒業生もいた。その後満州事変(1931年)以降は占領した満州からの留学生が多くなり、中国からも少なくなく、1942年までに留学生総数は200名以上に上った。日中戦争下の中国人留学生は、日本軍の傀儡政権である汪兆銘政権統治下からであった。この頃の中国特に満州では女性が医学を学ぶ場がなく、日本や欧米に留学するしかなかった。日本に留学するためにはまず留学生予備校の試験を受け、さらに集団で日本に来て牛込女子留学生会館で準備し、各校の入学試験を受けた。東京女子医専は全寮制であり、一室8畳の部屋に4、5人が一緒に生活した。
昭和19年(1944)末から空襲が多くあり、警報が鳴って実習授業中に地下室に避難することが多くあった。冬は寒くて暖房もなく、手足は凍傷だらけとなった。食事はこの時期の日本は貧しく、小さいお椀一つとたくあん、味噌汁でいつも空腹を抱えていたが、時折農村出身の級友が芋類などを持ってきてくれた。こうした状況の中でも、途中で勉強を辞めて帰国することは惜しく、かなりの生徒は日本にとどまっていた。20年に入ると、満州国は留学生を現地の大学に転学させる方針を打ち出し、ほとんどはその春に手続きをし、帰国、満州医科大学に転入した(したがって彼女たちは4月13日の大空襲を経験していない)。終戦後、彼女たちは中国国内の数度にわたる動乱を経て、医師の資格を軸にして各地で医療活動を続けた。
(この節は「戦時下における東京女子医学専門学校の中国人留学生」周一川:神奈川大学 人文科学研究所報 No.54 /2015年より)
女子医専の低学年生は甲府に疎開して勉強を続けたが、高学年生の場合、まったく事情は違った。戦時下で軍事関係先に優先的に医師たちが招集されるなかで、地方の医師不足が深刻になっていた。政府は昭和19年(1944)より都市の小学生の集団学童疎開を実施、その場合特に無医村(地方の医師も戦地に駆り出されていた場合もあった)の問題があり、政府は東京都・神奈川県からの集団疎開先の無医村46ヵ所に東京女子医学専門学校と帝国女子医学薬学専門学校(現東邦大学)の生徒を動員することにした。このため急遽学校報国隊の特技隊として「学徒医療隊」が編成された。名目は疎開した子どもの“保健指導”にあたることであったが、まだ勉強が必要な医師ではない女子学生たち、のべ368人以上が二人一組になり、“医師のいない村”に赴くことになった。その動員要綱には、「期間は一年を通じ六十日以内とす」とあったが、建前上のものでしかなかった。
当時の新聞には「疎開学童へ優しい医療班」「ご安心下さい・栄養健康申分なし」と見出しに書かれ、「お姉さん学徒の愛の診療」とされていたが、実情は違った。戦後に書かれた女子医専の「戦中日記抄」という学徒医療隊の記録があり、加藤淑子という眼科医学生であった人である。加藤は茨城県斗利出村、今の土浦市北部の村に派遣された。
——「昭和19年11月11日、疎開学寮派遣第一陣としての出発の日。リュックサックを背負い、仙台行きの常磐線列車にて(中略)着いた寺はたいへんな荒れ寺」。医師の資格を持たない加藤は「診療の補助」の範囲を逸脱しないよう命ぜられていた。しかしそもそも補助をする医師がいなかった。到着の翌日、「11月12日、『治療室』とは名ばかりの、古寺のがたぴし廊下の一隅に案内される。すでに行列して待っていた小患者の治療にいざ着手しようとしたところ(中略)敷き並べた布団の一つに男の子が全身硬直し、冷たくなって横たわっている。……やせ細った手首の脈は全くふれない。瞳孔は散大し、反応はない。心音も聞こえぬ」。男の子はまもなく死亡が確認された。心臓の病気がありそこに過労が重なったという。「医師がいれば違う現実もあったかもしれない」、そう思っても悲しんでいる時間はなかった。「悲しむ間もなく子どもは次から次へとやってきた」、「一段落ののち治療室に戻ったが、疥癬(かいせん)、膿痂(のうか)疹の多いこと……わずかな外用薬の備え付けで、ガーゼも包帯もないのに次から次へと治療をしなければならぬ」。2日後、亡くなった男の子の告別式が行われた。「男児の告別式でごった返しだが、その間も診察。もっぱら軟こうなどの塗布である。……昨夕東京から駆けつけた父親の姿は、ひとしおあわれであった」。また日記にはこんな記述がある。「患児に親切にすると近くの児童は嫉妬する、仮病を使われたり、甘えられたり、その対処はなかなかむずかしい」。子どもたちもまた、さみしくつらかった。若い加藤は学生であり、疎開先の母親代わりであり、女医先生と呼ばれた医師だった。例えば村の警防団員が軍のトラックと衝突し、整形外科で習った通りに調べ、骨折部位に添え木をして手当てしたとある。
翌年、茨城県も空襲に遭うようになり、疎開先を秋田に移した。医学生は誰もついて行けなかった。付き添った教員の一人がそこで書いた手記には、「移った疎開先は山々に囲まれた小さな集落で、すぐに食べる物に困るようになった。子どもたちも畑を耕し、山菜を採って過ごす日々」「悪夢のような戦争中の耐乏・忍苦の生活」「子どもにも職員にも病人が増え、日なたに元気なくうずくまる子どもの姿が目立ってきた」とある。
(この節はNHK「戦跡—薄れる記憶—」より)
戦後、戦禍にあった学校の再建費用を含め、女子専門の医科として存続の危機にあり、多くの専門学校は淘汰されたが、占領軍GHQは当校の存続を認め、大学への昇格を果たした。また、校長の吉岡彌生は戦時下の政府への協力により、昭和22年(1947)GHQにより公職追放処分を受けたが、26年には解除された。これは日本女子大学の井上秀や大妻学院の大妻コタカも同様であった。ちなみにこの追放に対し、吉岡は憤然とし、大妻は涙したという違いがあった。
東京医科大学
大正5年(1916)、日本医学専門学校(現・日本医科大学)の学生約450名が同盟退学し東京物理学校(東京理科大学の前身)内に東京医学講習所を開設。1918年、東京医学専門学校を当時の新宿東大久保に設立。昭和6年(1931)、附属淀橋診療所(後に淀橋病院)設置。1945年、アメリカ軍による空襲により被災し、長野県・飯田に疎開。昭和21年(1946)、東京医科大学設立、淀橋病院を東京医科大学病院に改称。以下は『東京医科大学五十年史』より。
昭和6年(1931)の満州事変から12年(1931)には日中戦争(支那事変)が開戦、日本国内は臨戦体制となり、一般人への徴兵が始まった。それにより東京医専の関係者や卒業生も応召することになり、学校も名誉なこととしてこぞってお祝いをして送り出した。学校内も戦時体制が強化され、そのまま日本は16年末に太平洋戦争に突入した。東京医専の校友会も解散され、報国団が結成された。報国団は団長を校長とし、軍隊の組織の形をとったが、その中に鍛錬部や国防訓練部、文化部、厚生部が設置された。鍛錬部には剣道や柔道、その他のスポーツ班が組み込まれ、国防訓練部には射撃、馬術、自動車、防空救護班があり、文化部には文芸、音楽、美術、講演などの班が置かれた。部長は教授がそれぞれ担当した。実はこの文化部では(筆者はほとんど読んだことがないが)哲学や音楽や絵画などの講義、あるいは洋画の展覧会が行われ、学生たちに人気があったという。ただし、この報国団の経費は団員自身の納付と学校からの補助金、その他の収入より、とある。
その前より清掃作業などの簡単な勤労奉仕がなされていたが、この頃より工場への勤労動員が行われるようになった。学生は常に制服制帽に足にゲートルを巻いた姿で登校し、陸軍軍人による軍事教練や防空訓練も強化された。学内防衛のためとして夜間も教授クラスも交代で宿直し、学生も交代で当たった。その都度校庭に立てられた国旗に敬礼し、皇居に向かって遥拝、最敬礼を行った。教授も国民服、戦闘帽、着剣の姿であった。太平洋戦争が始まる昭和16年(1941)に、校長を筆頭に大学昇格への活動を行ったが戦況悪化により果たせなかった。また病院も増築を計ったが、建築材が入手困難となり、これも不可能となった。(以下4年間の記録なし)
昭和20年(1945)、繰り上げ卒業による出征で戦死者が出始め、特に薬理学教室において犠牲者が多く、教授を除いて全教員が出征し、その多くが戦死した(注:普通医学生は軍医あるいは見習いとして出征することが多いが、薬理学はそうでなかったのかもしれない)。また東京への空爆が激しくなっていたが、その対策として木造の校舎は破壊せよとの軍からの命令で壊したが、東大久保の校地内には鉄筋コンクリートの基礎医学教室と半防火建築の事務館、モルタル式の衛生学教室のみが残った。そして各種機械・器具や地下室には図書がある基礎医学教室だけはなんとしても守れと校長は厳命した。最初の空襲ではそのコンクリート校舎は窓ガラスの大半が割れて、トタン板などで窓をふさぎ、その後の空襲に備えた。なんとかコンクリート校舎は残ったが、他は焼失した。
東京医専としてはもはや東京における授業の継続は不可能として、7月以降は疎開して授業を行うことにし、その地を長野県湖東村とし、小学校の空き教室を借り受け、学校本部も同地に移した。7月10日に湖東村で開校式と入学式を行った。またそこに機械・器具や図書類を移した。開校式にあたり校長は「ここに農業をしつつ医学を修める医学塾を開始する」とした。この湖東村では学生は第一学年140名のみであったが、この前後に第二学年と第三学年の一部約200名は長野県飯田市に赴き、同地の飯田病院や小学校を借りて各科の教授が講義を行った。一方で附属淀橋病院は従前通りの診療を継続し、東京に残った三、四年生は病院で臨床を修得するとともに病院の防空にも当たった。淀橋病院は焼かれずに残った。8月15日に終戦となったが、疎開地ではしばらく授業が続けられ、10月になって帰校した。
成女学園(成女高等女学校)
明治32年(1899)に麹町区に「社会で活躍できる自律・自立した女性の育成」を目指して成女学校を創立。初代校長は吉村寅太郎。明治41年(1908)、 成女高等女学校に改称。開校時は麹町であったが、明治39年に牛込区市谷冨久町に移転した。以下は『成女九十年』からである。
昭和6年(1931)9月、満州事変が起こり、日本はほぼ戦時下体制に入った。これに合わせて10月、学校では在満州の日本軍将兵のために生徒が作った慰問袋800を寄贈。これは他の女学校でも行われる。12月には在満州将兵の家族、警察官への慰問金を新聞社経由で寄贈した。また傷病兵の着る白衣、その胸につける赤十字のマーク、将兵の肩章も女学生たちの役目であった。昭和恐慌による不況の後で、満州事変をきっかけに国内では戦争賛美のような雰囲気が生まれ、女学校でも単なる献金にとどまらず、全国的に寄付を集めて軍用飛行機(戦闘機)を献納することがブームとなり、この6年後の日中戦争開戦に至ってそうした雰囲気はいや増した。翌年3月にも満州へ慰問袋を送り、7月には満洲の奉天司令部に約2000近くの慰問袋を送った。
昭和12年(1931)7月、中国北京付近での盧溝橋事件をきっかけに一触即発状態となり、翌月、上海事変をきっかけに日中戦争(支那事変)が起こった。9月、国民精神総動員が打ち出され、当校でも集団勤労奉仕が実施され、防空演習も行われた。この時期の防空演習はかなり早いように思われるが、すでに日本軍は8月の開戦より上海を中心にして中国の主要な都市に連日爆撃を仕掛けていたから、将来的に自国への爆撃も想定上のことであった。この前年にヒトラー政権下で日独防共協定が締結されていて、日独は友好国となっていたが、昭和13年、ヒトラー・ユーゲントの青少年たちが交歓事業として来日、11月に当校にも訪れ交歓会が行われた。
昭和15年(1940)には本格的な防空訓練が行われ、その様子は「空襲警報の鐘の合図に3階より、ブルーマをはき、手拭を腰に、ネクタイを頭にとものものしく集合した私たち防火防毒班は『只今敵機が …』との伝令を受けると、さすがに緊張感を覚え、まもなく屋上から黄色の袋、すなわち毒ガス弾がバサリ。それっとばかりに今しがた小使室から持ってきた拍子木でカチカチカチ。……緊張し過ぎたせいかついフラフラと毒ガス弾の近くへ寄ったりして苦笑する。が、縄を張り、砂袋を置いたりして先生から完全に防いだとの言葉があって胸をなでおろす」というもので、この毒ガス訓練も、日本軍がすでに中国で毒ガスを使用していたからであり、しかしこの事実は国内では隠されていた。
この昭和15年には当校は近隣の運動場を拡張し、軽井沢にも土地の寄贈を受け寮を作ったが、食糧不足で運動場は麦や芋の畑に、軽井沢には農民の人手不足を手助けするための保育所が作られた。この時期には当校の卒業生も満洲に渡る人が幾人もいたようで、卒業生による「この花会」の満州支部が結成されている。
昭和16年(1941)4月、女学校の制服が質素なもの(ひだなしスカートなど)に統一され、布の品質も悪く不評であった。5月、政府文部省の指示により「学校報国団」を結成、翌月には自治会組織を「国防訓練部」として加える。そして12月8日に日本は太平洋戦争に突入する。
昭和17年(1942)、英語は敵性語として授業が停止され、外国語は随意科目として週3時間以内となる。8月に例年の海と高原で夏季合宿が開かれるが、時局に応じて「錬成会」となった。翌年からは夏休み自体がなくなり、勤労奉仕となる。また政府は中・高等学校(当時の男子中学校と高等女学校は五年制)の修業年限の短縮案を打ち出し、五年制は四年制とされる。これが18年に大学生の徴兵猶予撤廃と学徒出陣につながっていく。
昭和18年(1943)、これまでの勤労奉仕は勤労動員となり、生徒たちは夏休み以外にも軍需工場へとかりだされる。凸版印刷や桜ゴム、日本皮革などであった。
昭和19年(1944)、紙不足により、「成女学園月報」が休刊となる。春、政府は「決戦非常措置要綱」を発布し、それにより当校の一部を日本皮革の学校工場とし、4年生がその作業に従事した。また5年生は貯金局へ、3年生は立川飛行場へ動員され、翌年も続いた。
昭和20年(1945)3月、修業年限短縮政策により、5年生と4年生が同時に卒業となった。ただし勤労動員中の生徒は卒業しても「女子挺身隊」と名前を変えてそのまま継続して勤労した。立川飛行機へ動員された生徒は男子生徒や工員に立ち混じって文字通り手に血を滲ませながら頑張った。立川飛行機工場は米軍の標的であったが、当時の引率の教師は、「日ごとに空襲が激しくなり、続く空襲警報で一日中防空壕に退避したこともあり、雪の中を機銃掃射を避けながら逃げ回ったこともあった。立川からの帰途、三鷹まで来ると爆撃で交通が遮断していて新宿まで生徒を引率して歩き、それから一人一人生徒を家まで送り届け、自分の家に帰り着いたのは午前2時を過ぎていた」という体験を語った。それでも「生徒に一人の事故者を出さずに済んだのは本当に幸いであった」と。
4月13日夜間から未明にかけての城北大空襲により、成女は焼失した。——「無数の焼夷弾の雨が降ってきて、校舎のあらゆる箇所から火が吹き出し、木造校舎は瞬時にダメだと思わざるを得なかった。一方でコンクリート校舎も窓から焼夷弾を受けて、室内は焼失した。宿泊していた教師数人と、外からかけつけた教師とで金庫に水をかけて火から守った」。「東の空がまるで夕焼けのように染まった翌日、成女はどうなったかと不安と焦燥のまま新宿駅に降り立つと、駅は焼けただれ、駅前も民家も焼き払われて、見渡す限りの焼け野原であった。成女はどうかと飛ぶように進み、崖の上を見た時、心臓が一瞬とまった。……宮田校長が一言『ダメだった』と。石段を上ると、まだパチパチと音を立てて校舎は燃えていた」。「無惨にも鉄筋校舎の外郭のみを残して焼失。これまで見えなかった富久小学校の高い壁が妙に生々しくそそり立っていた。まだ瓦礫の間に余燼のくすぶる焼け跡の中に、図書室の蔵書が、頁を繰ることができるほどに本の形そのまま白い灰になっていた」。
この後、生徒も協力して焼け跡を整理し、クワやシャベルで土をならして畠にし、さつま芋、さとうきび、小麦、唐なすを植えた。また愛日や四谷第四小学校より机と椅子を借り、一人一人が手に抱え、蟻のようにつながって学校まで運び込み、コンクリート校舎の内側が焼けた中で、20日に授業を再開した。しかし自宅を焼け出された生徒の多くが疎開し、学校は寂しくなった。そうした中で6月になり、総動員令によって新たに3年生が三笠電機、葵無線、高砂などに動員され、本来授業優先であった2年生(14歳)も大日本印刷に動員された。この大日本印刷で終戦の詔勅を聞いた生徒たちは、上級生がどんどん学校に復帰するなか、残務整理として11月まで働いた。一方で机や椅子がまた足りなくなり、10月、牛込商業学校より100人分借用した。さらに11月、隣の富久小学校の校舎の一部を借りて授業を行った。12月、占領軍GHQはこれまでの学校の「修身」「歴史」「地理」の教科書の使用を禁じ、新たな教科書の作成を司令した。
昭和22年(1947)、学制改革により成女高等女学校は成女学園中学校(三年制)となり、翌年成女高等学校が設立された。22年10月、木造平屋建三教室兼講堂が落成、23年8月にはモルタル二階建教室、24年に二階建教室、25年に図書館が落成した。なお、生徒たちはどうしても学校にピアノを置きたいという一念で、22年から自発的に袋張りの作業やバザーを行って少しずつ貯金し、最後はPTAの助力もあって23年10月、念願のピアノを購入した。
目白学園(目白女子商業学校/目白商業学校)
目白学園は大正12年(1923)、佐藤重遠によって現在の中落合に創立された研心学園を祖とするが、目白商業学校を経て、昭和19年(1944年)に目白女子商業学校として女子校に転換。1948年には新制の目白学園中学校・高等学校に改め、その後約半世紀の間、女子教育の道を歩む。2009年より目白研心中学校・高等学校と改称し、男女共学となった。現在は目白大学を有する。以下は『目白学園八十年史』より。
太平洋戦争の戦局が悪化してきた昭和18年(1943)10月、兵士不足を補うため、政府は大学の卒業を半年繰り上げとし、さらに徴兵年齢を下げ、その年齢に達した学生も休学させて出征させることにし、10月21日、神宮外苑競技場において出征学徒壮行会を盛大に開催した。また政府は戦争継続に向けて学校教育の効率化を求め、理工科系を重視、それとともに文科系を真っ先に出征の対象としたわけであるが、男子の商業学校も不要とし、翌年から工業学校や農業学校への転換を求め、目白商業学校は女子商業学校への転換を選び、昭和19年4月に目白女子商業学校が開校した。なお男子は卒業する22年まで併存したが、明治以来の日本の政策では校庭、校舎を男女別に仕切らなければならなかった。従来の運動場は男子専用で、女子には別校舎の前庭が使われた。
しかし戦局はますます悪化し、それまでも学校生徒には一定期間の勤労動員が課されていたが、昭和20年3月に「戦時教育措置要綱」が発せられ、学校は通年動員となり、一切の授業が中止となって、この年の生徒の募集は行われなかった。また東京への空襲が激化し、地方へ疎開する生徒も多くなり、生徒数は次第に減少した。幸いに空爆被害は小さかったが、空襲警報のたびに校庭に作られた防空壕に避難する日々が続いた。当学園は校地が広かったので市当局が防空壕を三つ設置していた。また食糧不足もあり、校庭の半分をさつま芋畑として耕作した。近くの都立第五高等女学校(現・富士高校)の校舎が全焼し、その跡地を借りて野菜を栽培した。秋には運動会が行われ(注:おそらく名前は錬成体育会と変えられた)、優勝者の商品はさつま芋であった。戦後の2年間も募集ができなかったため、当初250名の女子生徒も100名まで落ち込んだ。
なお、佐藤校長の出身地の宮崎県延岡市において、当地の女子教育の場の不足を佐藤は憂慮し、昭和15年(1940)、延岡実践女学校を設立した。それは「女子に対し祖国固有の婦徳を涵養すると共に、普通教育の拡充徹底を期し、併せて家政並に商業に関し、新時代の要求に順応したる知識技能を授くるを以て目的とす」とあった。当時の女学校は現在の中学校にあたるが、それほどに地方では女子に対する教育はなおざりにされていた。昭和18年には学校令が改定され、女子には商業科を重視する政策で「延岡女子商科学校」と変えられた。ところが20年6月28日深夜から29日にかけて、延岡は米軍機の空襲を受け、校舎は全焼した。市街地では死者は130人となったが、学校では死傷者は出なかった。戦後も校長の本宅などを使って授業は継続し順次生徒を卒業させたが、新制中学校の設立などもあって多くの生徒がそちらに流れ、再興できずに終わったという。
以下は女子商業学校になる前の目白商業学校の様子である。
昭和12年(1937)の日中戦争(支那事変)開戦の翌年から勤労奉仕作業が行われるようになり、昭和の初めから男子校に取り入れられていた軍事教練も一層強化された。教練は徳育の一環として重視され、毎秋には習志野の演習場で二泊の野営訓練が行われた。
昭和16年(1941)から大学および専門学校の修業年限が三ヶ月短縮され12月の卒業となった。そしてその12月に日本は米英に宣戦布告し、太平洋戦争に突入した。翌年も同様に12月の卒業であったが、さらに18年には半年の繰り上げ卒業となった。これは大学生に対しては早く戦地に送るため、専門校には早く勤労に就かせるためであった。江古田に学校の農場があって生徒たちは週に一度ほど出かけて農作業に従事した。かぼちゃ、じゃがいも、さつまいも、大根などを収穫した。卒業アルバムには勤労奉仕や防空訓練の様子の写真が載せられるようになった。以下は17年卒の卒業アルバムの巻頭言からである。当時の時代の雰囲気を表している。
「顧みれば支那事変以来戦窩の陰にあって我等は蛍雪五霜、懇篤なる諸先生の鴻恩に依り学窓を卒える事が出来た。諸兄の中には更に最高学府を極める高朋もあろう、又、忽ちに銃後の戦士として挺身する同志もあろう。然りと雖も乾坤一擲の秋若き血に燃ゆる我らは驕れる戦果に酔う事なく、天皇の御盾となり、色心銕 (てつ)の一丸となりて、極悪無頼の米英撃滅に邁進あるのみである。惟えば肇国以来嘗て此の比を見ざる煌しき大御代に生を得たる我等は、寔(まこと)に古今の幸福ものである。おお海は呼ぶ。陸は招く。若人我等の腕は鳴る」。
昭和20年(1945)6月、宮城防衛隊と称する部隊約200人が学園内に駐屯するようになった。もはや学校では授業を継続できなくなっていた。8月15日、終戦となり、通年勤労動員は解除され、文部省は9月1日から授業を始めるよう指示した。しかし校舎が全焼した学校ではそれどころではなく、目白学園は戦災を免れたので授業は比較的早く開始できた。
なお、戦前の目白商業学校の特徴は、日本の植民地であった朝鮮半島の出身者の生徒を多く受け入れていたことである。当時の朝鮮半島の出身者で在日の人たちは極めて貧しく、したがって教育を受ける機会も稀で、中学以上の学歴を持つ者の割合は2.8%に過ぎなかったとされる。目白商業を卒業した人は一千人に達するとされるが、ここに在籍した人たちが朝鮮から直接留学してきたのが多いのかどうかの割合はわからないが、東京の各大学への留学も少なからずあったが、これほど多くはない。ただし、ここから多くが各大学の夜間部などに進学しているという。当時は朝鮮籍というだけで入学が拒否されることは普通で、佐藤校長の積極的な施策がなければ考えられないことである。昭和47年(1972)、「在韓目白学園同窓会」が結成された。
