台東区の女学校

(共通の背景としてはトップの「戦時下の大学・女学校の概説」を参照)

白鴎高等学校(旧・第一高等女学校:白鴎高等女学校)

 明治21年(1888)、最初の東京府高等女学校(当時の女学校は男子の中学校とともに5年制)として創立し、明治34年(1901)に東京府立第一高等女学校となる(都制は昭和18年から)。戦後の昭和21年(1946) 東京都立第二十一高等女学校を統合、23年に学制改革により東京都立第一女子新制高等学校と改称、25年(1950)、東京都立白鷗高等学校と改称(校名は同窓会の名を「鷗友会」としていたことに由来)、男女共学となる。以下は『白鴎高等学校百年史』より。

 大正9年(1918)に校長として就任した市川源三は女子教育の先駆者と言われており、男尊女卑が当然の時代、「女性である前に一人前の人間であれ」と主張し、府立一女の祖として名を馳せた。その鋭い洞察力と気概に富んだ発言の例として、昭和6年に日本が満州事変を起こし、翌年に日本軍の傀儡の満洲国を建国すると、日本国内では至る所で祝賀の式が催されていて、中学校、女学校も旗行列をするように求められたが、この時市川は、全校生徒の前で「満洲国は日本の一部ではない。満州人が祝うなら当然だが、何のために日本人が他国の建国を祝ってお祭り騒ぎをする必要があるのか、本校は旗行列には参加しない」と言い切ったことがある。また市川は女子教育において「全人主義」の教育方針で、従来の因襲による男女別の教育の内容を廃し、向上と進歩を掲げた。全人主義とは、心育と同様に体育、徳育と同様に芸術教育、そして科学教育を重んずることで、いやしくも人間の本質に有するものは悉くこれを伸ばして行かなければならないとした。その教育方針のもと、第一高女は各分野で人材を排出した。さらに市川の教育理念では、従来の因襲にとらわれた政府の指導方針、「国民道徳の養成」に対しては「国民道徳とは軍国主義もしくは帝国主義の下にあって養われた国民道徳ではなくて、王道国家主義、国際主義の下に養われた国民道徳であると解する」とし、「婦徳の涵養」に対しては「婦徳」とは封建時代に養われた女性道徳の義ではなく、建国以来の結晶たる女性の本質的道徳の義に解する」とした。こうして市川は公立の学校ながら、私立の美点を持つ学校を作り出していた。

 なお市川は、経営難に陥った私立の世田谷高等女学校が鷗友会の支援で昭和10年に鷗友学園として再建された際、鷗友学園の校長として赴任した。第一高女の生徒たちは惜しみ、悲しんだという。なお背景は違うが、お茶の水女子大学(旧・東京女子師範学校)の同窓会「桜蔭会」が桜蔭女学校を設立した例もある。

 日本は満州事変の延長の形で昭和12年(1937)、日中戦争(支那事変)に突入した。翌13年、校長の桜井賢三は北支(中国北部:満州地域)慰問旅行に行きその感想を校友誌に次のように記した。

 「皇軍の強きは我が国体と国民性に基づき、国民教育や軍隊教育の力も大であるが、その奥に家庭教育の偉大なるものあるを想い、……女性の力は後続部隊たる平和の産業文化経済開拓の勇士を送らねばならぬ。……今後の女性、家庭教育の中心たるもの責任使命は誠に重大であり、大国民としての女性、我が独特の家庭の主婦としての修養に努められたいのである」。前校長市川の理念とずれていっていることが伺える。

 この頃より女学校では軍需作業として授業時間を割いて、兵士用の着衣などを作ったが、第一高女では三年生以上が襟章、臂章、傷病兵の患者衣の製作作業に打ち込んだ。すでに事変以来、街角で出征兵士の安全祈願のための千人針(一枚の布を千人の女性に一人一針ずつ縫ってもらい、それを兵士のお守りにする)の活動を積極的にする女生徒もいた。生徒たちも「国家の危急」のため、またお国のために自分にもできることをと皆で競って頑張った。第一高女の中に「慰問部」が作られていて、その報告文に「女学生号命名式に参列して」「陸軍省へ慰問袋献納の報告」「傷病兵慰問の報告」「マスコット製作」「下帯献納報告」などがある。特に説明されていないが、「女学生号」とは、当時の女学校が全国的に連携して寄付金を集め、その資金で軍用飛行機を購入、それを陸軍や海軍に献納したのである(中には私立の女学校一校で戦闘機を献納した例もある)。

 このほか校友誌には「戦線と銃後」として戦線にいる部隊長と生徒の往復書簡が載せられ、生徒の返信では、「資源のお乏しい我が国では、資源の愛護、選択的消費節約が唱えられ、一同努力致しておりますが、私どもの学校では今年の冬は外套を新調しないこと、帽子を作らぬこと、……前にお知らせした節約貯金とともに一同熱心に励んでおります」とある。実際に国民精神総動員運動が展開されるなか、昭和13年7月には校服の新調禁止と不用校服の譲渡の通知があった。なお、第一高女は12年に北多摩郡神代村(現・調布市)に土地を借りて「神代学園」とし、校外施設として寄宿寮や運動場、農園、プールなどを建設し、生徒の健康維持と向上を目指した。

 この13年4月からの活動状況が年史に載せられていて、抜き書きする。

 4月:屋上で靖国神社遥拝(これは月一回行われる)/5月:早朝登校して宮城(皇居)遥拝と合同体操。前年度における軍需作業に対して軍部より下付された金員を東京朝日新聞を通じて献納。陸軍省より慰問袋委託費を交付さる(出征兵士への慰問袋で、生徒たちが学校の時間を割いて作っていて、中に菓子や人形、激励の手紙、その他戦地で役立つようなものが入れられた)。27日は海軍記念日で、海軍中佐の講演あり。/6月:国民精神総動員運動の貯蓄強調週間を契機として本校は愛国貯金を行うこととなる。/7月:7日、支那事変1周年記念日、黙祷。本日ごま塩弁当。靖国神社参拝。一週間、高等科生徒軍需作業(おそらく慰問袋など)。五日間、午前中勤労作業実施。講堂で陸軍少佐の北支戦線講話。府の通知により制服の新調禁止、上級生あるいは卒業生は下級生に制服を譲渡するようにと。9月:満洲国承認記念講話(承認といってもほぼ日本のみ)。防空訓練。/10月:「諜報と宣伝、時局の重大性と女性」の講演。慰霊の日に三年生が靖国神社参拝。堅忍持久の日、全員ごま塩弁当。全員校庭で靖国の英霊に黙祷。漢口攻略奉祝旗行列に参列。勅語奉読式。創立五十周年記念式を行うが、戦時下につき外部の招待は取りやめ。/11月:白衣勇士慰問音楽会。五年生、明治神宮参拝式に参列。全校,、神宮外苑における五万人合唱に参加。防火訓練。/12月:経済戦遂行に関する講話。廃品の回収。/1月:毛糸クズ回収。/2月:日本精神発揚週間。/3月:陸軍記念日に二年生靖国神社参拝後二重橋に行進。

 昭和16年(1941)6月、従来の校友会は政府の指示により報国団として改組され、軍国主義体制に組み込まれる。その組織は総務部、鍛錬部、国防訓練部、学芸部、生活部で構成され、これに伴い報国隊が結成され、軍隊組織のように大隊、中隊、小隊が編成された。この中に特技隊(看護隊・炊餐隊)、特別警備隊が作られ、防護班別訓練、救急看護(包帯・三角巾・担架演習)、防毒訓練などが行われた。11月、初の勤労動員として内閣印刷局へ4、5年生が交代で出動した。こうした中で第一高女は昭和14年から合唱部が3年連続で優勝、陸上部も全国大会で優秀な成績を残した。

 16年12月8日、太平洋戦争開始、定期考査の日であったが、試験後、校庭に集まって校長が宣戦布告の大詔が下されたという話と、ラジオによる戦況ニュースで次々と我が軍の大勝利が伝えられ「皆手を打って喜びました」。翌日、生徒たちはそれぞれ神社や宮城に戦勝祈願に出向いた。

 この翌17年から勤労動員が義務付けられ、各学年が交代で工場に動員された。第一高女は内閣印刷局や凸版印刷、大日本印刷など、印刷会社が多いのが特徴である。なかには18年10月、高等科二年生が群馬県に共同炊事奉仕隊として赴いているが、これは農繁期に農家の手伝いに行ったのであろうか。19年に入ると東京専売局、第一製薬、東京無線、大日本機械、精工舎などが出てくる。19年5月、政府は学校工場実施要項を発表、全国的に特に女子校の工場化が促進された。第一高女は西館2、3階と東館1階が工場化され、その西館では東京無線に動員された生徒たちが無線機の組み立て、東館では葛原工業が携帯食料の包装作業を行なった。学校の工場化は多少でも授業が行えるという効果もあった。一人の生徒は、「サイパンの玉砕が伝えられる頃には部品の入庫も滞りがちになり、入るとなると夜の8時までの残業となった。これでは進学に差し支えると朝、作業の始まる1時間前と昼休みに先生方が講義してくださって、今もって感謝している」と記している。

 昭和19年(1941)12月31日夜半、学校は初の空襲を受け、裏門通り一帯に火災が発生したが、大事に至らなかった。翌20年2月24、25日の空襲では校舎の窓ガラスに被害を受けた程度で終わった。しかし3月9日深夜から翌日にかけての大空襲では学校にも数十個の焼夷弾が投下され、倉庫や西館の教室などが焼けたが、校長や職員、学校工場の宿直員などの活躍でなんとか消火できた。窓ガラスはほとんど壊れたが、焼け残った学校に付近の被災者380人が避難してきたので、体育館を開放した。しかし台東区は墨田区、江東区とともに最も被害の大きかった地域であり、この日に焼死した第一高女の生徒は76人に上った(なお、深川や本所高等女学校の犠牲者は数百人単位である)。多くの友人を失って、残った生徒たちはどれだけ悲嘆に暮れたであろうか。またその当夜、空襲の最中に「この娘は二年生です。この荷物と娘を預かってください」と教員の一人に託して「これで思うように防空活動ができます」と言って父親は火炎の中に姿を消し、そのまま二度と帰ることはなかった。当時の大館校長は、「私はあの情景がどうしても忘れられない。……それから亀戸の公園に立っていた一家全滅の卒塔婆に見た生徒の氏名、そういうものが走馬灯のように次々と目の前を通る。実に悲しくやりきれない記憶……」と記している。

 戦火の中、大館校長は生徒たちを地方に送りたいと願っていたが、中学校以上の生徒は首都防衛のための要員であるという考えで、縁故のない生徒は都内に残らざるを得なかった(縁故があって疎開できた生徒達は、その土地の工場に勤労動員となる)。たまたま動員先の葛原工業の工場が全焼し、信州への疎開を計画したのでそれに合わせて生徒全員を疎開させることにした。葛原工業へは1−3年生、4、5年生は信州の他の工場(東京無線の工場も長野県であった)への動員ということになった。4月から順次疎開が始まったが、その期間は「昭和20年4月より戦勝の日まで」とされた。

 1−3年生の疎開先は白馬であったが、その中でも一年生の分宿先は二俣という山奥で、登山に利用する山荘であり、一番苦労したという。—— 「家から新宿駅までには乗るべき電車はなく、私は兄の自転車の乗せられてまだ明けやらぬ薄闇の中を何時間も走りに走った。どのあたりであったか、爆撃にあった街は一面の焼け野原、建物は一つもなく、道端には燃え落ちた残骸の上を赤い炎の舌が舐めるように這い、動かぬ都電が何台も黒々と闇に浮き出ていた。… 細野にはまだ雪があった。駅には先発の二年生が迎えてくれ、私二俣はその夜部落の農家に分宿した。……翌日、そこから更に持ち切れない荷物を持って登り、やっと辿り着いたのが山荘の二俣別館であった。二俣での主な仕事はまず自分達の食糧の確保であった。一番大変なのがお米の運搬である。……お米は細野の駅ではなく、次の森上の駅の近くまで行かねばならなかった。量はいつも同じでなく、一番多い時は一斗近くを背負って帰りは登りである。……次に野菜はほとんど取れないところで、配給されたものは大きな蕗と乾葉と昆布であった。朝は昆布の味噌汁、昼は昆布の雑炊、夜は昆布の佃煮という具合で、毎日野草、山草摘みが日課となった。その種類は20数種に及んだ。……雪渓まで行けば山菜が沢山生えているというので先生と行ったが、お弁当を持って一日がかりであった。……ある朝、大変大変という騒ぎがあって行ってみるとイタチが鶏を襲ったのであった。その鶏は卵を産ませて重要な蛋白源とするためだったが、スパッと首をもがれ、血を吸われていた。私達には大きなショックであったが、鶏は毛をむしられて私達の食卓にのぼった。……」

 その4月に疎開先に出向く前の3月29日、正規の5年を終えた卒業生と4年を終えた生徒の卒業式が同時に行われた。昭和18年、文部省は高等女学校令を改めて修業年限を一年短縮したことによる。—— 爆風で窓ガラスの大半を失って吹きさらしの講堂に流れたのは「蛍の光」ではなく学徒出陣式の時に歌われた「海ゆかば」であった。下級生も父兄もいず、がらんとした講堂の中で国防服を着た先生とモンペ姿の私達だけの式であった。空襲警報が発令されなかったのが唯一の恵みであった。

 戦時下の第一高女の写真の中の正門の門標の一つに「東京都第一高女戦時託児所」の文字がある。これは軍需工場などへ動員された女性のために託児所を作り、その託児所の幼児達の世話を女学生に任せようとするものであった。対象は第一高女だけではないが、当校の場合、19年4月、区役所がその保育所主任として命じたのは英語・英文学を講じていた山口冨喜であった。これには当時、英語の授業は敵性語として削減されるか禁止された背景がある。その中での山口の指名であったと思われる。また18年からこの託児所のための教員養成が女学校の中に「保育科」を設置して行われた。しかし20年になって戦火が厳しくなり、子供と一緒に疎開する人が増え、保育所は自然消滅した。

 敗戦となって疎開していた生徒達は声をあげて泣いた。「戦勝の日まで」とされた疎開生活は終わった。学校は授業の再開を9月20日としたが、すぐに帰京できる生徒は多くなかった。校舎はまだ窓ガラスは壊れたままで、電話は不通、電気は切れ、水も一部は出なかった。しかし勉強ができる喜びは大きかった。昭和21年9月には在学生も1274名とほぼ平常の状態に戻った。紙不足で18年から停止していた校友会誌も復刊された。修業年限も5年に戻された。文化部も活発な活動を開始したが、図書班には「軍国主義・極端な国家主義の書物の除去を行う」という報告があった。

忍岡高等学校(旧・忍岡高等女学校/上野忍岡女子商業学校)

 前身の都立忍岡高等学校は、明治36年(1903年)に私立日本女子美術学校として創立され、のちに東京市立第一女子技芸学校、東京市立第一実科高等女学校と経て、昭和4年(1929)に東京市立忍岡高等女学校と改称。戦後に共学の都立忍岡高等学校とした。一方、もう一つの前身校にあたる都立上野忍岡高等学校は、昭和3年に実科高女内に姉妹校として私立帝都家政女学校が設立された。その後12年(1937)に東京市立上野忍岡女子商業学校となり、戦後は商業と家庭科の2つの課程を併せ持つ上野忍岡高等学校と改称。平成18年(2006)、両校が都立忍岡高等学校として統合され、普通科と生活科学科を併置した。

【忍岡高等女学校】

 残念ながら当校には詳細な年史が見当たらない。以下は同窓会の「鶯溪会の百年」からの拾い書きである。

〇 昭和17年(1942)3月の卒業生(12年入学):

 入学は日中戦争が始まった年であった。15年に予定されていた東京オリンピックはその戦争のために返上されたが、この年は皇紀(神話上の神武天皇が即位した年から)2600年であり、その式典が盛大に行われた。またこの年に行われた関西への修学旅行が最後となった。翌年(末に太平洋戦争突入)からは戦時下の自粛として多くの学校で中止されたが、実は三重県の伊勢神宮参拝などを組み込んで鍛錬旅行などと称して2、3年継続した学校もあった。この関西への修学旅行では帰りに神戸から客船を使ったというが、これは三田高校(第六高女)が空いている客船に目をつけ、始めたのが発端というが、この客船はその後戦争の拡大で輸送船として徴用され、米潜水艦の魚雷攻撃で太平洋に沈んだという。

 勤労作業としては卒業間近に一週間ほど赤羽の兵器工場に部品作りに行った。

〇 昭和18年(1943)の卒業生(13年入学):

 最終学年の17年から英語が敵性語となって廃止されたが、英語学科のみはしばらく続けられたようである。ただ私学では「外国語科」の中で授業時間を削っても継続された学校は多い。修学旅行の代わりは林間、臨海学校であったが、それも18年までであった。

 太平洋戦争突入から4ヶ月後の17年4月に米軍は空母の艦載機による言わばテスト的な空爆を荒川地区その他に行い、生徒たちは校庭からそれを見ていた。それにより防火訓練が度々行われるようになった。

 実際に本格的な空襲が行われるのは2年半後で、その間、米国は日本向けの大型爆撃機B29などの大量生産に周到な準備をし、約9ヶ月で最後の原爆投下を含め、日本の都市は一挙に焼き尽くされることになる。その二ヶ月後にミッドウェー海戦で日本は負けていて(負けたことは国民には伝わっていない)、すでに戦力で劣っていたにもかかわらず、ここから3年以上も「頑張り」、日本は310万人以上の死者を出した上に、中国や東南アジアの国々にもたくさんの死者を生じさせた。

 勤労作業としては肝油(当時よく飲まれていた健康食品で軍隊にも携行された)の工場での包装作業、食糧不足を補うために金町の農場での作業、兵舎への慰問活動などあった。また「剛健遠足」という一日で40km歩く訓練もあったが、これも第六高女が始めた。

〇 昭和19年の卒業生(14年入学):

 一年生の時(15年明け)に新校舎への引越しがあり、この時代はどこも机や椅子を生徒が歩いて自分で運んだ。17年春の最初の空爆の後に学校では窓ガラスに爆風で飛び散らないように十字型に紙を貼る作業を生徒たちが行った。マラソンでの鍛錬もあったが、修学旅行の代わりの冒険旅行や富士登山もあった。17年にはまだ映画や歌舞伎、オペラなどの観劇会もあった。最後の年18年からは勤労動員に忙しかったが、卒業間近には「挺身隊」準備もあった。挺身隊とは卒業して就職先がなければ、軍需工場へ挺身隊の名で勤労動員することであり、「花嫁修行」などは許されなかった。卒業写真は勤労動員用のもんぺ姿であった。

〇 昭和20年の卒業生(15年入学):

 この時期から文部省の方針で入学試験はなくなり内申書と面接だけであったが、体育のテストもあった。また通学が2km以内は徒歩でということになった。剛健遠足も続けられ、戦時下で女性も体力をつけるよう鍛えられたし、長刀、小太刀の使い方も教科に加えられ、体育では薙刀や武術などもあった。

 「夏休みには満蒙開拓団員養成所で農作業の講習を受け」とあるが、満蒙開拓団とは日本が昭和6年の満州事変から占領している満州と蒙古の一部を新天地として大規模な移住開拓を政府は企図し、青年あるいは貧しい農家など家族ごと大陸に送り込もうとするもので、その後「花嫁募集」として女学校卒業生などにも呼びかけた。ただ結果的に敗戦となって大きな悲劇を生んだ。

 この学年の最後の年はほぼ通年の勤労動員となっていて、凸版印刷で軍票(満州で軍が使う紙幣)の検査、赤羽の兵器工場で手榴弾を包む作業、肝油工場、看護学の講習、そして19年の11月下旬からB29による大規模な空襲が開始された頃に亀有の日立製作所の精密課で飛行機の燃料噴射弁の部品作りに従事し、旋盤も扱って油まみれになった。

 3月の卒業式は3/10の東京大空襲の後で、特に台東区を含む下町三区がほぼ焦土と化し、大火災で多くの生徒の家も焼かれ、それよりも亡くなった生徒も多く、寂しいものであったという。

〇 同じ昭和20年の卒業生(16年入学):

 太平洋戦争に突入する年で、戦時体制が強化されるにあたって、最初から5年制が4年制と短縮されたから、20年の卒業生と同時に卒業式が行われた。短縮の理由は早く卒業させて男性の多くを戦場に送ることと、人手の少なくなった労働力を補うためである。それでなくても19年の6月から通年の勤労動員が実施されたから、この学年は3年しか勉強はしていず、その間も授業時間に軍事教練もあり、勤労奉仕などに駆り出されていたから実質的にはもっと少なかった。

 「一週間は月月火水木金金で、最後の金曜日だけ(つまり土曜日か)学校で授業があった。その他の日は日立製作所、造幣局、専売公社等様々な工場に分散して働いた」とあり、「生徒の家族で空襲や戦地で命を落とされた方も日ごとに増え、また生徒自身も終戦までに3割ほど命を落とすという悲惨な状況でした」とある。3割ほどといえば一学年で250名であったから、約80名、学校全体では300名前後が10代半ばで命を落としたことになるが、その実数は学校史には見当たらない。何しろ3/10は一夜にして8万数千人の死者を出していて、丸焦げになった遺体の身元は確認できないため、行方不明者も数え切れない。(江東区の深川高校参照)

 幸いに校舎は焼失を免れたが、3/27の卒業式に集まった生徒は亡くなった生徒以外に疎開していた生徒も多く、約半数であったが、それも空襲警報で中止となった。

〇 昭和21年の卒業生(17年入学):

 この年から二年間は礼儀作法や習字、お茶、体操はテニス、卓球、バレー、水泳などがまだ普通に行われていた。その後学校も工場化され、やはり肝油の包装などの軽作業であった。同時に別の製薬工場にも生徒が通った。空襲が激しくなると軍は何よりも軍需品の生産工場が爆撃されることを恐れ、工場を地方に疎開させた。大空襲の後の20年の4月、学校全体で長野県丸子のカネボウの工場に疎開して勤労作業を継続することになった。そこでは絹製の落下傘を作っていたから、生徒は繭から糸を紡ぐ作業をした。

 家を焼失した生徒のとってはこの疎開は助けられた面もあるが、しかし工場の食事も乏しく「豆の入ったご飯と味噌汁とたくわん2切れで夕飯にメザシがついた」程度で、栄養失調で家に帰る生徒もいた。田舎であっても軍に優先的に食料は回されたから国内はどこでも窮乏していた。

〇 昭和22年の卒業生(同じ17年入学):

 そのまま要約すると、真珠湾に奇襲攻撃して太平洋戦争に突入した翌年の入学であり、入学試験に代わる口頭試問では、その攻撃時の「9軍神」(特殊潜航艇で攻撃に加わって帰還しなかった9人を軍神とした)について聞かれた生徒もいたという。実際に日本は同時に東南アジアにも侵攻して半年は快進撃が続き、国全体で高揚していて、普通に戦死した人も英霊として故郷に迎えられた。しかし戦争終盤にはそれもひっそりと行われ、骨が入っているはずの白木の箱は、骨などなく、石や死亡通知が入っているだけであった。

 同じ長野県の工場に行った生徒は「(終戦までの)4ヶ月はとにかく空腹との闘いで、米や麦より大根の葉や大豆の搾りかすのほうが多かった。休息時間は起きていられず、寝て過ごした」という。

〇 その後の卒業生(18、19年入学):

 この年度と次年度の生徒の勤労動員先は同じカネボウでも群馬県高崎の新町工場という。朝8時から夜の10時まで交代で、やはり食料事情は悪く「薄切りの干し芋が混ざったご飯、何が入っているかわからないカレーライスを恐る恐る生きるために食べた」という。ただ勤労動員は相応に給料が支給されたので、それを持って近くの農家に行き、サツマイモや大根を買って、夜みんなで分け合って食べた。

 終戦になり、帰京したが上野駅から見た光景は一帯が焼け野原で、9月に入って学校が再開される時にはどこが道路かわからず、線路伝いに歩いて学校に行った。まだ疎開先から帰ってこれない生徒もいたが、ノートもなく、教科書は大判のわら半紙に刷ったものを自分たちで折りたたみ、めくる側を切って使った。その上で先生にここからここまで墨で消しなさいと言われるままに筆で消した。つまり軍国主義下の文章は隠されることになった。

 昭和20(1945)年の入学は、都内は半分焦土で(その後も大空襲は続いてほぼ23区全てが焼かれた)、学校も焼かれてこの年の募集を停止した学校もあったが、一人の生徒が忍岡に行って入学希望を伝えると、「戦争の最中に受験に来てくれてありがとう。その誠意をかって無試験で入れてあげます」と言われたという。

 ただ、敗戦後の食料事情はもっと深刻になり、弁当を持って来れない生徒もいて、学校によっては午後の授業を休止したりしたが、その生徒のためにみんなで分け合って食べたという記述もある。

〇 この記念誌の中に「モンペをはいて登校」という19年の写真があって、鉄かぶとを被りカバンと水筒をたすき掛けにした15歳くらいの一人の少女の姿がある。後ろには水桶やスコップ、消火用の箒などが並んでいる。当時の勤労動員中はほぼこのような姿で、鉄かぶとがなければ防空頭巾をかけていた。カバンの中には多分救急道具や非常用の食料(乾物)が入っているはずで、写真では見えないが胸か肩には学校名、住所、名前と血液型を書いた布を縫い付けていた。

【上野忍岡女子商業学校】

(下記は四十年と五十年記念誌からであるが、学校、教師側の記載がほとんどである)

 昭和3年(1928)の設立時から忍岡高等女学校に併設されていたので、授業は午後からとなって、生徒たちは肩身の狭い思いをした。15年(1940)に高女は新築の校舎に移転したので自由に授業もクラブ活動もできるようになった。ただそれまでは修学旅行や運動会も高女と一緒に行われていた。12年(1937)、日中戦争に突入した年だが、東京市立(当時)となり改めて開校式が行われた。さらに16年12月8日に太平洋戦争に突入、男子の徴兵が拡大し、女学生にも勤労奉仕が求められ、夏休みなどがそれに当てられた。

 この16年ごろから学校報国団が文部省の指示で各学校に組織され(クラブ活動などもこの中で統制された)、18年には軍隊組織に似せた報国隊が作られ、それをもって勤労動員の指示組織とした。そして19年の春より本格的に動員され、行先は足立区の戦車や飛行機の部品などを作っている日立製作所亀有工場で、ただ工場の作業ではなく(忍岡高女は工場作業)、商業科の知識を活かして事務部門をほぼ全部預かる仕事であり、工場には感謝されたとある。

 勤労動員のため、生徒たちは学校に登校できる日がなくなって、引率兼監督の先生以外に週に一度、他のある先生が通って授業をした。この先生の話の中に、機関銃の銃弾を作っていた南千住の大日本兵器と荒川区の東洋鋼鈑にも授業に行っていたとある。そして先の引率の先生が徴兵されたので、この先生が代わりとなった。毎日のように空襲警報が鳴り、しかし貧弱な防空壕しかないので、工場と掛け合って丈夫な防空壕を作ってもらったとか、20年3/10の大空襲の時に家を失ったが、工場の近くに間借りして通い、生徒の安全確保のために終戦まで従事したという。

 日立の亀有工場は当然空爆のターゲットとなるはずであったが、場所がいわゆる工場地帯でなかったためか、米軍の事前調査からも漏れていたと思われ、戦災を免れた。しかし独立校舎として改築が終わっていた学校は3/10に全焼した。この時の様子が女性教師の記述で残っている。

 「動員先の工場から帰ると、学校の宿直が待っている(当時はどの学校も空襲に備えて宿直員を増やしていて、当校は男女教師5人であった)。家を出る際には毎日が死ぬ覚悟で学校に向かった。…見回りも済んで寝ようとした時、周囲が騒がしくなり、校庭に出てみると空が真っ赤なので驚き皆を起こして校舎を守る態勢に入った。…空襲警報は焼夷弾が落とされて火柱が立って、しばらくして鳴ったのである。怒りを感じながら…上野の山の方に逃げて行くしかないと判断し、5人は御真影を背負った教師を中心に山に入った。山の壕の中は真っ黒なすすけた顔をし、命からがら逃げ込んだ人たちで一杯だった。…一睡もとれないまま朝を迎えた。昨夜は火の海で、今朝はすっかり変わり果てた道を校舎へと歩き帰った。(学校の)壕の中は(ストックしておいた)砂糖さえ飴のごとく流れ出ていた。…この空襲で下谷や御徒町に住んでいた職員をはじめ生徒たちも数多く死亡した。…大きな金庫もまだ熱く開けられない…」

 御真影とは天皇・皇后の写真で、この時代どの学校にも下賜され、保管する奉安所などを作り、行事のある時に掲げて遥拝した。学校で守るべき最重要のもので、これを焼失したため自殺した学校長もいた。また金庫の後のことが書かれていないが、別の箇所に、開けてみると書類が白くなっていて、水で濡らし、上に石を置いて乾かしたつもりが、翌日には消えていたという。事実、他の話でも金庫を開けた途端書類が燃えだしたとか、ほとんどはまともに残っていない。それほどにこの日の火力は強く、地獄の劫火のようなという表現が多い。

 またこの日焼死した生徒の数は明らかになっていない(学籍簿も別な場所に保管していたが焼失した)。忍岡女子商業は忍岡高女の半分程度の在校生だったとしても、100人前後は空襲被害で亡くなっているかもしれない。とりわけ女子商業の生徒は地元からの通学が多い。

 校舎を失った女子商業は、3/15に竹台高等女学校が仮校舎としていた上野の自治会館を間借りすることになったが、その後政府の方針で中学校以上の授業は当面全面停止、全てを勤労動員に向ける施策を打ち出したから、多くの教室を必要としなかった。同年8/15の敗戦後、生徒が戻ってきて授業を再開するにあたって、10/1より根岸小学校を仮校舎とした。当時はどこも同様な状態であった。さらに翌21年春、下谷女子商業学校と合併することになり、その校舎に移転した。昭和23年に新制高校、24年に男女共学となった。

 ちなみに台東区には都立台東商業高等学校(2006年に閉校)の前身の浅草実科高等女学校があったが、3/10の大空襲で学校は焼失、その時宿直していた女学生数十名が全員焼死するという惨劇があった。当校はその後福井中学校に疎開した。

上野学園(旧・上野高等女学校)

 明治37年(1904)、石橋藏五郎が現在の上野桜木に私立上野女学校を設立、43年(1910)、上野高等女学校とする。戦後の学制改革で上野学園中学校・高等学校となり昭和27年(1952)に短期大学の音楽科を、33年(1958)に上野学園大学として音楽学部を設立する。平成19年(2007)、男女共学とする。以下は主に『現在と60年の過去』(1964)より。

 石橋はこの明治期に身につけるべき教養として体育、洋楽、英語を自らに課し、勉学に励んだのち、同志と女子のための学校を作り、生徒数は順調に伸びていった。体育を重視するのはこの時代にそぐわず、父兄からの苦情もあったが、信念を曲げなかった。女子の教養と体力と人格(親切と努力)形成を目指し、生徒の自発性を促した。

 そして大正元年(1912)に移転して建設した校舎が12年(1923)の関東大震災で全焼した。廃校の危機に陥ったが、ひと月後にバラック校舎で授業を再開した。翌年から新校舎建設に着手、昭和2年(1927)に完成した。ところが生徒が増えていく中、3年後に隣家の火事で類焼し、校舎の3分の2を焼失した。翌年秋に再度新校舎を完成させ、その後増築を重ねた。この年、満州事変が起こる。

 昭和8年(1937)頃より音楽教育に力を入れ始め、和洋楽の演奏会が学内で盛んに行われるようになった。12年に日中戦争が勃発、時勢に合わせて心身鍛錬にも力を入れ、薙刀や弓道も取り入れ、臨海学校も開いた。時勢による集団勤労作業の場として千葉県や荒川の河川敷に農場を作り、15年に埼玉県草加にも敷設農園を開いた。これが後の分校などの土地となる。

 昭和16年(1941)12月に太平洋戦争勃発、その後シンガポール陥落などの祝賀行事の際、学園のブラスバンド部(当時は女子校で唯一という)や鼓笛隊が街中を歩いて演奏した。翌年から学徒勤労動員が各学校に課され、当初は短期で交代で工場に通い、滅私奉公」の精神で勤労に努めた。草加には修練道場が設置され、合宿をしながら農作業と共に規則正しい鍛錬の日々を送った。18年には長距離の徒歩訓練、耐寒訓練も行われた。

 19年(1944)11月下旬より大量の米軍機による空襲が連日のごとく始まる。そして翌20年3月10日未明、大空襲があり、台東・墨田・江東の下町三区が折からの乾いた強風もあり、焼き尽くされた。それにより一千数百名の生徒のうち790名が焼け出され、生徒の死者53名、教師1名が犠牲になった。何しろこの日だけで8万数千人の死者が出た。校舎は鉄筋で焼け残ったが、施設や備品は大きな被害を受けた。当時の副校長はその一人の教師を探すため、おびただしい焼死体をかき分けて一週間歩き回ったという。当時は生徒も先生も上着に氏名と住所、学校名、そして血液型を書いた布を縫い込んだ上着をきていて、それでもすべて焼けて焦げた丸太のようになった死体は確認の仕様がなかった。この空襲で一番の多く死者を出した女学校は江東区の深川高女(参照)である。この後も空襲が続き、都区内はほぼ焼き尽くされた。

 そして焼け残った鉄筋の校舎を使って学校工場が設置され、それは陸軍第一造兵廠の仕事(銃器や弾薬の製造)で、疎開もできずに生き残った生徒たちが動員され(学校が焼かれ、その片付けもできず、さらに自宅の整理も後回しで次の日から動員先へ行かされるケースは、この時期当たり前であった)、この学校工場で8月15日の玉音放送(終戦の詔勅)を聞き、終戦を迎えた。このころ、学園の生徒は五分の一に減っていた。

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