戦時下の東京大学総長の式辞

 戦時下に東京大学総長がどのような発言をしていたか、ほぼ目にした人はいないと思われる。以下は『東京大学歴代総長式辞告辞集』(1997年:東京大学出版会編)からの抜き書きである。内容はほぼこの時代の世相に沿った言辞が並び、戦争遂行に逆らうような発言はないが、その中でも暗にこの戦争は勝てないと示唆する内容もある。元はそれぞれ全体で1時間はかかる長さである。

 日中戦争開戦の翌年、昭和13年(1938)3月末の卒業式における長与又郎総長の式辞。

 —— 「諸君の悉知せらるる如く、我国は今や未曾有の非常時局に直面して居ります、昨年夏支那事変勃発してより以来、我海陸の皇軍将兵は御稜威(みいつ:天皇の威光)の下、忠勇無比、到る所凡ゆる艱苦に堪え、赫赫たる武勲を樹て短日月間に於て世界の脅威に値する偉大なる戦果を収め、国威を内外に宣揚しました、銃後の国民亦能く曠古の聖業達成のために、挙国一致赤誠を傾けて努力を致しつつあります、由来我国民は国難に遭遇する毎に殉国奉公の精神を遺憾なく発揮して、よく時艱を克服し、国運の発展に寄与し来ったことは歴史の明示する所であります」。

 この4月に国家総動員法が発令され、戦時体制が強化されるが、その時勢に沿った言葉が並んでいる。一方で政府文部省は帝国大学の総長を学内選挙でなく、官選にすることを伝え、それに長与総長は反対し、辞任と引き換えに撤回させた。

 昭和14年(1939)3月末の卒業式における平賀譲総長の式辞。

 —— 「卒業生諸君。支那事変は、実に諸君の在学中に始まり今日に至って居ります。現に皇軍は、陸に海に空に、尽忠報国の誠を尽して居ります。従軍将兵の内には幾多の我が帝国大学の出身者、即ち諸君の先輩もあれば、又奉職中の職員、在学中の学生もあります、其の中には既に幾人か名誉の戦死を遂げられた方があります。…… 我が国は、今や敢然として、我が国家の基礎を一層確立するのみならず、更に世界平和の為に、東亜新秩序の建設に着手したのであります。此の大業こそは、我が国民が万難を克服して成就しなければならぬ所であります。…… 私は諸君が決然たる覚悟と抱負とを以て、本学を立って行かれるものと期待致します。…… 諸君が幼年より始めて、今日最高学府を修了する迄、就中(なかんずく)、本学在学中の学生生活に於て、涵養された堅実なる国家思想及陶冶された人格、修得された学問、是を基底として今後修養、経験を積み、常に肇国の本義、万邦無比なる国体に感激を持って、世界的に活動する日本国民として、遁進せらるることを祈ります」。

 昭和15年(1940)2月、すべての帝国大学の総長と当時の橋田邦彦文部大臣が出席して総長会議が開かれ、学生の徴兵猶予が議題に上げられるが、総長たちはそろって反対した。もともと橋田文部大臣は東大の優れた理系の学者であり徴兵猶予を支持する立場であった。

 その昭和15年3月末の卒業式における平賀譲総長の式辞。

 —— 「光輝ある紀元二千六百年慶祝の年(神話上の建国を紀元としたもの)に当り、最後の学窓生活を了えて、茲にめでたく実社会への一歩を踏み出さんとする諸君、…… 申す迄もなく今日我が国は非常の時局に際会しているのでありまして、畏くも昨年五月二十二日には青少年学徒に勅語を賜はり、…… この重大なる時局に際しての臣民翼賛の道を諭し給うたのであります。…… 今や支那事変は既に二年有半を経過致しましたが、皇軍は陸、海、空に奮戦し、輝かしき戦果を収め、大御稜威の下に大陸治安の維持に任じ、また西太平洋の海上権を確保して居ります。その赫々たる武勲は淘に感激に堪えないところであります。…… 重慶の抗日政権は猶その余力を根絶せられるには至りませんが、中国に於ける和平提携の希求は既に四方に起り、我が国を中心として東亜新秩序の建設は暖々乎として進展し、将に本日を以て新中央政府(日本軍による傀儡政権のこと)の生誕を見んとするに至ったのでありまして、今や正に新東亜の繁明であります。…… 内に外に如何に多事多難でありとも、真に国民全部が聖旨を奉戴し、二千六百年来培われたる伝統に遵(したが)い、一致協力、長期に亙りて不携不屈の努力を以て事に当れば、我等の使命は必ず遂行し得ることと信じて疑いません。……

 私は茲に、諸君が …… 一身を顧みずして君国に報じ、公に奉ずるの決意を以て、東亜、進んでは世界の新秩序と平和建設とに邁進し、将来国士として、指導者として国家を荷うて立たれることを期待し、諸君の自愛を祈り、前途を祝福して私の別辞と致します」。

 昭和16年(1941)3月末の式辞は同様な言葉が並び省略するが、この昭和16年に入ると、政府は大学の「繰り上げ卒業」を要望し、帝国大学の総長たちは大学教育の本質を揺るがすとし、東大の平賀総長も「遺憾千万。国家の今、そして将来の大損失になってしまう」と反対した。9月、文部省は各大学に繰り上げ卒業を内示、平賀総長は再度橋田文部大臣に遺憾を表明するが、10月、陸軍大臣の東條英機は繰り上げ卒業を通達し、続いて臨時の措置として3ヶ月繰り上げを決定、12月を卒業式とした。その直後、近衛内閣は総辞職し、東條が首相となり陸軍大臣も兼任した。そしてその繰り上げ卒業式を待たずに12月8日、日本は米英に宣戦布告、太平洋戦争に突入した。12月末の卒業式では平賀は次のように式辞を述べた。おそらく本意ではないが、この時期に国内に飛び交っている言葉の羅列が並ぶ。

 —— 「本日(注:月)八日、畏くも大詔を換発し給い、米英両国に対して戦を宣せられ、今や干戈相見え、国家の総力を挙げて征戦(筆者注:この時期、世論的には「聖戦」と言うところ、あえて避けていると思われるが、講堂で聞く学生たちは「聖戦」として聞いたのではなかろうか。平賀のささやかな抵抗であろう)に従い、一億臣民心を一にして、我々日本人が祖先より承けた大使命の達成に邁進しているのであります。戦が長期戦となることは覚悟の上であります。我等は必勝の信念を堅持し、飽までこの乾坤一擲の大戦争に勝ち抜いて、大東亜新秩序を建設し、以て世界の平和に寄与せねばなりません。…… 先ず私は諸君と共に、この国家の興亡を賭する征戦に於て、大御稜威の下皇軍が、南はフィリピン、マレー、ボルネオより東はハワイに及ぶ、殆ど太平洋の全域に亙る曠古の大作戦に於て、開戦の劈頭より前古無比の大勝を博し、西太平洋の制海空権を確保し、国威を世界に輝かせる武勲に対し、衷心より感謝と敬意とを表するものであります。…… 今日こそは実に諸君が、重大時局下大君の醜の御楯となるの決意を新たにして、多年培った全能力を発揮し、平素より固めし覚悟と、日頃の本懐とを充たすべき晴の首途の日であります。…… 洵(まこと)に戦雲世界を覆う現下の状勢は、歴史に比類なきまでに多事多難であり、特に我が国が重大なる危局を切り開いて直進邁往せざるべからざるの秋(とき)、国家の諸君に期待する所、淘に大なるものがあります。…… この重大時期にあたって我等が最も深く心に銘すべき所は、一時的昂奮に駆られ、…… 戦時の意識が高まると共に、青年の間には憂国の熱情の退る余り、動もすれば、外面的危機にのみ心を奪われ、修養研学を放擲するも己むを得ずと速断し、これより招来せらるる内面的欠陥を忘るるの弊なしと致しません。…… 諸君はその召されたると、銃後にあるとの別なく、斉しく勇躍困難に殉ずるの覚悟を固めつつ、沈着冷静に各自の本分に直進せられたいのであって、これこそ真の臣道実践であり、国家の諸君に期待する所のものであります。……

 卒業生諸君、光輝ある我が国の悠久なる歴史に於て、前古未曾有の重大時局に直面するに当って、諸君がその分に応じ、全力を挙げて報国の誠を効すの秋は、まさに今であります。精鋭無比の皇軍は、その普謀勇戦により米、英両国に対して開戦の劈頭より、既に全世界を震撼したる大勝を博し、今後に於ける戦果に堅き確信を与えているのであります。然りと難も敵は富強を誇るものであり、その強靭にして執拗なる国民性によって、容易に屈服を肯ぜず、長期持久戦へと我を導くことは、蓋し疑なき所であります。而して皇国の隆替と、東亜の興廃とは、実にこの一戦に懸って存するのであります。我等は緒戦の成果に驕ることなく、全力を尽し聖旨を奉戴して、百難を排し万苦に耐え、臥薪嘗胆、国本に培い、強き精神力と必勝の信念を堅持し、如何に長期に亙るも飽くまでも戦い抜き、以て光輝ある二千六百年の国史をして弥が上に栄光をあらしめ、以て震襟を安んじ奉らねばなりません。…… この尽忠報国の大精神のある限り、なにものといえども恐るるに足らないのであります。最後の勝利は必ず我が国にあるのであります。(筆者註:平賀自身は「最後の勝利」を信じているとは思えない)

 諸君は、よく我が国今日の偉大なる発展を成就せし先人苦心の跡に顧み、深く感謝を捧ぐると共に、皇国将来の発展は実にかかって自己の双一肩にあることを自覚し、…… 最善を尽されんことを切望して己まないのであります。本日諸君を送るに当り、洋々たる邦家の前途を思い、万感交々胸に迫るを覚えるのであります。私は茲に神州不滅の信念を明徴にし、諸君が大東亜新秩序の建設に与るの前途を祝福し、諸君の自愛を祈り、以て別辞と致します」。

 そして翌17年春の入学式である。

 —— 「…… 私はまず諸君と共に、乾坤一擲の大東亜戦争に於て、大御稜威の下前古無比の大勝を博し、国威を世界に輝かせる皇軍将士の赫々たる武勲と労苦とに対し、衷心より感謝と敬意とを表するものであります。今や未曾有の戦果と共に、新たなる世界歴史の翠明は始まり、世界新秩序の建設は硝煙の間より既に著手せられつつあります。国家の人材を要すること今日より急なるはありません。……この大建設たるや、諸君の最高、最善の学術的能力の発揮を今後に待たずしては到底不可能であります。殊に大東亜に於ける指導者としては、先ず東亜諸民族の心服をかち得なければなりません。これがためには武力の優越に加うるに、高度の丈化を伴はねばならないのであって、事実、優秀なる武力そのものも、新鋭なる科学と根抵ある思想とを必要とするものであります。…… 若しこの秋に当り、偏狭固陋なる排外的独善の傾向に累せらるるならば、国家永遠の発展は到底望むべくもありません。況してや、学術の世界は日進月歩にして、その広大、深遠なること測り知るべからざるものがあります。我等はまた常に外国にも学ぶの心がけを忘れてはなりません。(注:「偏狭固陋なる排外的独善の傾向」というこのあたりでは平賀は今の日本はそうであるとの警鐘を織り込めている)…… 国家主義思想と称するものにして、似て非なる仮面を被むるもの、抽象的にして却って日本精神に悖るが如きもの、感恩のまごころを欠くが如きもの、或は独善排他的にして矯激なるものもまた少くないのであります。…… 諸君はよく思をここに致し、十分なる戒心をもって自重すると共に、適切なる指導に倣って、正を履み、中を執り、苟も国民としての本分に悖り、日本精神を汚すが如きことなきよう切望するものであります。……

 諸君、今や忠勇義烈なる皇軍は、雄大無比なる作戦に世界戦史に比類なき大戦果を挙げて居るのであります。然れども敵は世界の強固であり、今や全力を挙げて戦備に汲々として、最後の勝利を豪語して居るのであります。勿論戦は長期に亙ること必然といわねばなりません。随って世界の新秩序を確立せんとする我等の大使命達成は、洵に容易の業ではなく、国民たるもの、真に一大覚悟と渾身の努力とを以てせねばなりません。…… 私は諸君が深く現下の情勢を洞察し、諸君の本務と使命とを自覚し、不断の努力によって一段の向上を図り、国体の本義に徹し、国家有用の材たるべく、真に根柢ある至誠の人格を練成し、高邁なる識見を持して、ただいま茲に宣誓せる通り、負荷の重任に応へんことを切望して己みません……」。

 そして17年には半年の繰り上げ卒業となり、9月に卒業式が行われるが、首相の東條英機が式に出席する意向を示し、平賀は最後まで抵抗したとされるが、東條は軍服姿で出席し演説をした。そこで「諸君はこの度、半年間学業を短縮されて大学を出、一般社会、或いは軍隊へ入っていかれるのであるが、半年ぐらいの年限短縮は長い人生にとって少しの差し障りにもならないのであって、私はここに大いなる …(少しの間をおいて)と申しますか、一つの実例を持っておるのでありまして」と続け、安田講堂の中に失笑の波が拡がったとされる。つまり、自分も繰り上げ卒業の立場であったが、総理大臣としてここに立っていると言いたかったようで、この重要な局面の中での東條の言辞の軽さを卒業生たちは笑ったようであった。

 一方の平賀の卒業生に対する式辞である。

 —— 「…… 畏くも宣戦の大詔を拝してから十箇月、忠勇無比なる皇軍は御稜威の下、未曾有の大作戦に於て善謀勇戦、開戦の劈頭から前古無比の大捷を博し、既に東亜の天地から米英勢力を駆逐し、また西太平洋の制海権を確保し、既に着々新秩序建設の巨歩を進めているのであります。…… この秋(とき)に方り、茲に最高学府の学業を卒えたる二千百三十名の新進気鋭の士を国家社会に送り出し得ることは、独り本学の光栄とする所たるに止まらず、邦家のため洵に慶賀に堪へぬ次第であります。

 今回卒業の諸君は、本来ならば明春三月卒業の筈なのを、時局の推移に鑑み、国防及産業上の要望を充たすために、臨時の措置として繰りあげ卒業することとなったのであります。然るになほ且つこの挙に出られたのは、我が国が空前の危局に直面し、有為の人材を要すること最も急なるがためでありまして、諸君は深く思をここに致すべきであります。……諸君は本学入学以来、一旦緩急あるの際、何時にでも筆を捨て剣を執るの覚悟を定められたことと信じますが、今や諸君の大部分は光輝ある皇軍の一員として、遠からず征戦に従うの光栄を担わるることと思います。千載一遇の好機に生を皇国に享け、世界史的大使命達成のため身命を君国に捧ぐるは、真に皇国男子の本懐であります。……

 今や戦火のため洋の東西は交通杜絶し、何時如何なる所に如何なる事象、発明の起れるやも知り難く、而も列国は盛んに軍事を中心として民心の作興、生産の拡充、学術の研究に全力を尽しつつある現況であります。さればこの変転のなかに処して、よく世界の趨勢を洞察し、国家百年の計をして過誤なからしめんがためには、卓越せる識見と、不断の研鐙とを必要とすることは勿論であります。然るに開戦以来国民のなかには、ひきつづく赫々たる戦捷の報に紐れて、軽率にも漸く米英軽侮の傾向が認められますが、…… 必ずや敵は今後あらゆる手段を尽して、執拗なる反撃を繰返すべきことは明瞭なる所でありまして、しかも大東亜共栄圏の建設は、その反撃を破砕しつつ進められなければならぬのであります。実に今次の大戦は武力戦たると共に、思想、経済、学術の戦でありまして、かの敵を知らず、己を知らず、はたまた精神力、生産力、学術の昂揚なき国は敗るるより外ないのであります。即ち最後の勝利を確保するがためには、あらゆる方面に於て百年の奮闘を覚悟しなければならず、かりそめにも一瞬の偸安を許さないのであります。戦争が長期に亙れば亙る程、学術の進歩と独創力の発揮とが、国運を左右すること至大となるのであります……」。

(筆者注:国力の劣る日本が「百年の奮闘」などできるわけもなく、この戦争では日本は負けます、と平賀は暗に言っていることがうかがえる。これをそばで聞いていた東條が、どう受け取ったのかはわからないが、そこまでの頭を持っていた人間とは思えない)

 この繰り上げ卒業式の一週間後の17年10月1日、早々に入学式を行なっている。これは高等学校も繰り上げ卒業したことによる措置であった。これにより大学の卒業は一年早くなる。この時の平賀の式辞の内容は半年前の入学式と一週間前の卒業式と変わりがないが、目新しいことは軍事教練と勤労動員について述べている部分である。しかしすでに平賀総長は健康を害していて翌18年2月に病死した。その後高名な建築家の内田祥三が総長となる。

 この昭和18年早々、国は高等学校の卒業を半年からさらに一年の繰り上げを命じた。そして内田を含めた帝国大学の総長たちは繰り上げ卒業に対し当時の文部大臣橋田を批判、板ばさみとなって橋田は辞職した(橋田の辞職後、東條が文部大臣を兼任する)。そして卒業式は9月25日に実施され、翌10月21日に神宮外苑競技場にて出陣学徒壮行会が行われる。その前の卒業式における内田総長の式辞である。

 —— 「大東亜戦争は大御稜威の下、忠勇なる皇軍将兵の善謀奮戦により既に東亜を侵食せる米英勢力を駆逐し、絶対不敗の態勢を整へ共栄圏新建設の巨歩を進めているのであります。私どもは今後如何なる困難の事態が生じようとも愈々必勝の信念を堅くし米英屈服の日まで断じて矛を収めざる決意を以て各自の職域に挺身努力すべきであります。併しながら敵米英はその尨大なる物資と生産力とを侍みあらゆる科学と技術とを総動員して必死の反攻を企てつつありまして、…… 実に皇国の安危興亡は繋ってこの一戦にあり、国家の人材を要望するの切なるは今より大なるはないのであります。この秋に当り最高学府を卒へたる新進気鋭の士1983名を送り出し得ますることは邦家の為め誠に慶賀に堪へないところであります。……

 今回卒業の諸君は大体皆夫々の分野に於て職域に奉公することに定まって居る様でありまして国家の諸君を待つこと淘に切なるものがあり、この点諸君は甚だ多幸であると存じます。…… 卒業生諸君の多くは遠からず召されて戎衣を纏い、皇軍の一員となるの栄誉を約束せられているのでありますし、又中には軍国の緊急なる要望に応えて卒業後直ちに軍務に就かるる向も相当にあるのであります。この時こそ諸君は必ずや勇躍他の一切を放下して剣を執り尽忠報国の赤誠を披瀝し、奮戦敢闘せらるることを信じ、衷心よりこれ等の諸君の健闘と武軍長久を祈って己まない次第であります」。

 続いて10月1日の入学式である。(この年、平賀前総長により戦時下の理工系増員の国策に沿って設置された第二工学部が4231名と、第一工学部の十倍近く大量採用されている)

 —— 「諸君大東亜戦争宣せられて茲に二年に垂んとし、支那事変勃発以来既に六年余、大御稜威の下、皇軍将兵の善謀勇戦、官民一致の奮励努力の結果既に絶対不敗の態勢を整へ、大東亜新秩序の建設亦刮目すべきものがあり、将来の戦局に極めて有利なる拠点を幾多確保し得ましたことは、洵に感謝感激の外なく御同慶の至であります。併し乍らこの赫々たる大戦果を思うにつけ、私共はこの背後に尊き人柱となり、既に護国の神と化された幾多の英霊在すことを瞬時も忘れてはならないのであります。…… この緊迫せる情勢下にあって而も諸君が専心学にいそしみ遂にこの最高学府にまで進むを得ましたのは、偏に聖恩の鴻大無辺なるによるものでありまして諸君は既に衷心よりこの聖恩に感泣し、粉骨砕身以て皇恩の万一に報い奉らんことを期して居ることと確信致します。……

 諸君は国家に須要なる学術の理論及応用の教授を受くると共に、常に人格の陶冶と国家思想の涵養とに精進し、以て国体の本義に徹し、識見の長養に努め、皇国須要の材となることを期さねばなりません。……また学校教練が直接に軍事能力の増強を目標とするものであることは今日言を俟たぬところであります。諸君はこの国防国家の要請の深き認識に立ち、鋭意教練の成果を挙げ、益々身心を鍛錬し、内に在つては自らを磨き、 召されては皇軍幹部要員の班に加わり、尽忠奮戦の実力に於て事欠かざるの備とする覚悟が大切であります。……

 大東亜戦争は日一日と織烈となり、深刻なる様相を呈して居るのであります。此の際政府は現下の戦局に対処し戦力を増強する為め、直接困難に赴かんとするの至情抑え難き青年学徒の念願に応え、一部の学徒をして直接戦争遂行に参加せしむると共に、又一部の者は之を学窓に残して所要の学術に精進せしむるの処置を講ずるに至ったのであります。…… 此の国家興亡を賭する大戦に於て、諸君は、征くも留まるも其の何れの途をとるに拘らず、肇(ちょう)国の精神に徹し、常に必勝の信念を堅持すると共に、愈々不捷不屈飽くまでも強靭なる闘志を蔵し、何処までも戦い抜き勝ち抜く決意をもって、滅私奉公皇国臣民たるの誠をいたされんことを特に希望するものであります」。

 昭和19年、この年から徴兵年齢は20歳に下げられ、この後、在学生も休学の形をとって応召することになるが、9月25日の卒業式の内田総長の式辞である。

 —— 「卒業生諸君が今日の光栄を荷わるるに至りましたのは、これ全く聖代の恩沢に依るのであります。今や我国は国を挙げて聖戦完遂に遭進して居り、未曾有の学徒出陣も行われたのでありますが、戦争の様相が熾烈深刻を極めていまする現段階において、諸君が本日茲に卒業証書を授けらるるに到りましたことは、これひとえに聖恩の鴻大無辺によるものでありまして只々感泣の外なく誓って一身を君国に捧ぐるの覚悟を一層新たにせられたことと確信致します。

 昨年秋には戦局進展の急激なるに即応し、国内態勢強化方策の一として、国民動員の徹底を図る目的を以て、在来の一般徴兵猶予を停止し、理工系統の学徒に対して入営時期の制を設くることが決定せられ、昨冬には未曾有の所謂学徒出障が行われ法学部、文学部、経済学部の学生の大部分と農学部学生の一部とは筆を捨てて剣を執り勇躍して困難に赴いたのであります。……

 卒業生諸君の中の相当数は昨冬以来既に大命を承け皇軍の一員となり烈々たる意気を昂揚し、修文練武の成果を発揮して勉励怠りなく、優秀なる軍要員として活躍しつつあるのでありますし、暫らく居残った諸君も其の大多数は遠からず召されて戎衣を纏い等しく皇軍の一員となるの栄誉を約束せられて居るのであります、この時こそ諸君は必ずや勇躍一切を放下して剣を執り尽忠報国の赤誠を披瀝し、奮戦敢闘せらるることを信じ、衷心よりこれ等諸君の健闘と武運長久とを祈って己まない次第であります」。

 続いて10月1日の入学式である。

 —— 「今回入学せられた諸君の中にも法学部、文学部、経済学部等にあっては一部の人々は既に剣を執って困難に赴き、又近く大命一下を待って皇国の危急に馳せ参ずる諸君も少くない、戦局危急皇国の興廃繋って今日に在る時入営入団の栄誉を荷わるる諸君は本学学生たるの真価が戦陣の間にも遺憾なく発顕されんことを深く期待し衷心よりこれ等諸君の健闘と武運長久とを祈って止まない。

 かく一部の学徒は直接戦争の遂行に参加せしめられると共に、また一部の者はこれを学窓に残して所要の学術の研鑽に邁進せしむるの処置が講ぜられているのであって、留まって学修を続ける者は、真にそれが国家の要請によるものなることを深く肝に銘じ、学窓を戦場と観じ、一層勉学修練に努力精進せねばならない。

 昨年学徒戦時動員体制が決定せられ、戦時体育訓練の強化と食糧増産の為、又防空補助員としての学徒動員が行われる様になったが、戦局の緊迫に伴い学徒の勤労動員は次第に強化されるに至った。…… 諸君も一度勤労動員の命を受けたならば、よくその趣旨に徹し、この方面においてもまた本学学徒たるの面白を発揮し、一億総蹴起の先達となり、多年取得し来った教養修練を勤労の中に生かし、その責務を全うせられんことを望む」。

 昭和20年に入り、高校の卒業はさらに半年削減され、そのため前年10月から半年後の4月1日、新たに入学式が挙行された。またこの前年11月下旬より、米軍は日本本土への本格的空爆を開始し、3月10日の東京大空襲の後の内田総長の式辞である。

 —— 「大東亜戦争の大詔を拝してから茲に三年有余、この間大御稜威の下我が皇軍将兵は大東亜の広域に於て凡ゆる困苦欠乏を堪へ忍び力戦奮闘絶大な戦果を収めつつあるが近来敵米英はその多大な消耗、多量の出血にも懲りず、尨大な物量と生産を侍みとして必死の反攻に出で現下の戦局は益々壮絶熾烈を極めつつある。南方海域における激戦と併行して敵は愈々本土に対する空襲を本格化し、帝都を始め大都市に対する空爆は実に悪鬼の乱舞というべきである。…… 斯の如く緊迫した情勢下にあって諸君がこの最高学府に進むを得たのは偏に聖恩の鴻大無辺なるによるものであり、諸君は既に衷心からこの学恩に感激、粉骨砕身以て皇恩の万分の一に報い奉らんことを期している事と思う。……

 三月十八日には現下緊迫せる事態に即応して全学学徒を食糧増産、軍需生産、防空防衛、重要研究その他直接決戦に緊要な業務に総動員する目的で戦争完遂の為特に緊要な専攻学科を修めさせる必要のある者等を除き学校の授業は原則として一箇年間停止することの閣議決定を見た事は教育史上画期的措置である。又今回入学した諸君の中には既に学徒出陣の栄を担って第一線に活躍している者もあり、或は近く大命一下皇国の危急に馳せ参ぜんとする諸君も尠くない、私はこれらの諸君が本学学生たるの真価を戦陣の間に遺憾なく発顕する事を深く期待し、衷心からその健闘と武運長久を祈る次第である」。(注:この入学式後に軍に応召し、一度も東大に戻らないまま戦死した学徒もいる)

 昭和20年8月15日、日本は敗戦を受け入れた。その後の9月25日の卒業式の内田総長の式辞である。

 —— 「去る八月十五日米英支蘇四箇国共同宣言の受諾に関する優渥なる大詔を畏くも玉音に拝し、越えて九月二日には東京湾内において降伏文書の調印が行われ降伏条項の誠実履行に関する詔書が換発せられたのであります。支那事変の勃発以来八年余、大東亜戦争の宣戦以来四年に垂んとして、遂に敗戦の悲境に直面するに到りましたことは、淘に感慨無量なるものがあり、深く反省せざるを得ないのであります。……

 私共は只今疾風怒涛の真只中に在るのでありますが、克く冷静沈着、詔を承けては必ず謹み、互に温き心を持って相援け相携へ、前途に横わる幾多の荊棘の難路を踏み超え、切り拓いて、平和的文化国家の建設に向って勇往邁進して行かなければならないのであります。…… 卒業生諸君、諸君の思出多き学窓生活の後半は、実に戦争の只中に遇されて来たのであります。殊に諸君の本学における期間は、深刻苛烈なる大東亜戦争の真最中でありまして、一昨年の秋には、未曾有の学徒出障が敢行せられ、昨年の春には、又学徒の通年(勤労)動員が断行せられるに到りまして、諸君は先人未踏の尊い幾多の体験を味わったのでありますが、又諸君の労苦は並々ならぬものがあったのであります。…… しかもこの諸君が、突如として今日敗戦の悲しき事実に直面しました心境は真に察するに余りあるところでありまして、私は諸君の先輩として実に同情に堪へないところでありますと共に、深く自責の念に駆られる次第であります。……

 最後に諸君と共に本年卒業の栄誉を荷うべくして、業半ばに勇躍、一切を放下して剣を執り、力戦奮闘、不幸戦没せられました英霊並に出動中物故せられました少数の諸君に対しましては、茲に衷心より哀悼の悦を捧ぐる次第であります」。(注:戦没した「少数の諸君」となっているが、この時点ではほとんどその数は把握できていなかった。1990年代半ばの調査では東大学徒兵の戦死者は1721名となっている)

 おそらく平賀・内田両総長ともこうした時流に合わせた言辞を発することは本意でなかったことはその形式的な表現の裏に読み取れる。およそ理系の学者は自分の研究を続けることへの意欲は強く、本来、総長などの雑務はやりたくはなかったはずであろう。ただこの時期、大学としてはこうした理系の高名な学者を総長にすることに意義があったものと思われる。

 ちなみに終戦後、各大学の総長たちは一通りの戦後処理を終えて翌年までに全員が辞職、内田総長も12月に辞職した。東條首相時代に辞職した文部大臣だった橋田は、占領軍GHQから戦犯として召喚されたが、連行直前に服毒自殺した。筆者の見立てでは有罪になることはなかったかと思われるし、総長たちもそのように弁護したであろう。

 内田総長の辞職に伴い、南原繁が総長となった。終戦翌年(1946)の3月30日、とりあえず判明している142名の戦死者の慰霊祭が行われた(戦時下には二度行われているがまだささやかなものだった)。この時の南原繁総長の追悼文『戦没学徒を弔う』は、「今や白日の下に曝されたことは、軍閥・超国家主義者等少数者の無知と無謀と野望によって企てられたただ戦争一途と、そして没落の断崖目がけて国を挙げての突入であった。……諸君はいかに愛国奉公の情熱に燃えて勇躍して我らの許を立ったか。…… しかるに不幸にして真理と正義は我らの上にはなく、米英の上に止まった。それはただに戦に勝った者が正義というのではなく、世界歴史における厳然たる”理性の審判”であり、我ら共に敗残の悲痛の中から厳かにその宣告を受け取らねばならぬ」というもので、画期的な発言であり、学生たちに感動を与えた。(全文は「戦没学徒を弔う」参照)